アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
マキシミリアーノさんが「聖ピオ十世司祭兄弟会の創立四十周年を祝いモンセニョール・ベルナール・フェレーからラ・ポルト・ラティンヌに提供された独占対談」を、私の願いに答えて、フランス語から日本語に訳して下さいました。マキシミリアーノさんに心から感謝すると共に、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
(本来なら、日本語訳はもうずっと前に完成していたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介するのが遅れてしまったことをお詫び申し上げます。)
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ十世司祭兄弟会の創立四十周年を祝い
モンセニョール・ベルナール・フェレーから
ラ・ポルト・ラティンヌに提供された独占対談
2010年10月7日、いと聖なるロザリオの聖母の祝日、メンツィンゲンにて
フェレー司教(1994年から聖ピオ十世司祭兄弟会の総長を務めている)は、マルセル・ルフェーブル大司教によるカトリック教会復興事業の創立40周年の機会に当たり、私たちに独占的対談の機会を下さることを大いに望まれました。
司教様は何時ものように、私たちの質問に対して一つ一つのお言葉がその重要性を持つ簡潔かつ明確な表明方法でお答えになられました。
司教閣下が、この対談と、またそれが閣下に招いてしまった追加の仕事に対して私どもが抱く真心からの敬意に満ちた感謝の程を少なくともここに見出して下さいますように。
1.ラ・ポルト・ラティンヌ‐四十年前の1970年11月1日、ルフェーブル大司教様はフリブールの司教を通して聖ピオ十世司祭兄弟会を認可させました。この四十年間について閣下はどのような目を注がれますか?
フェレー司教‐カトリック教会の歴史において、この四十年は、衰退の時代、あるいは現代世界や諸国に対する自らの影響力を喪失した苦しい時期として公教会の歴史に残るでしょう。私たちが生きている現代を総括する事は確かに難しくはありますが、どうすればこの判断が否定的なものにならずに済むのか私には分かりません。この状況に於いて、私どもの小さな事業は、暗闇の中に差し込む一条の日の光、砂漠の中のオアシス、遭難する一艘の筏(いかだ)の様に見えるのです。私たちからすれば、これは忘れ難くも素晴らしい時代であって、なるほど涙と苦悩は点在していますが喜びの支配する時期でした。
2.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この四十年の途中、二つの大きな出来事が御会の歴史の中に起きました。それは1988年の四人の司教聖別と1991年にあったルフェーブル大司教の御死去です。従って、一つが先に一つが後に起こったわけです。ではこれら二つの期間は対立するものなのでしょうか?
フェレー司教‐ 私には、二つの別の期間とは見えません。むしろ継続だと見ています。私たちの尊敬する創立者が与えて下さった方針にとにかく忠実に留まろうという配慮が、恐らくそれに何かしら関係しているのでしょう。同様に外部の情勢が、これもそうですが、殆ど変わらずにあるという事実はこの継続に大いに寄与しています。何も私たちに別な行動を取るよう追い立てたり強制したりはしません。それどころかその反対です。ルフェーブル大司教の下された判断は非常に奥深いものであり、それは全く有効なまま残っているのです。これは非常に注目すべきものです!
3.ラ・ポルト・ラティンヌ‐御会は、定着する一つの事業なのでしょうか、それとも世界中において展開し続ける新しい使徒職があるのでしょうか?
フェレー司教‐ この発展は司祭不足により迅速とは言えません。しかしそれは特に宣教国に於いて、いくらか進展したことが示されています。現実に、アフリカは数箇所で私たちを招いていますが、私たちの方はそれに答えるのに困っています。といいますのも、収穫のために十分な働き人がいないからです。それから、もし私たちに自由に派遣できる司祭がより多くいれば、アジアに於ける驚異的な発展を経験する事ができるだろうということも確実です。ところが、他方で、これら既に存在する事業の内的発展を強調しなければなりません。何故ならそれは、つまりこの発展は、非常に恒常的なものだからです。
4.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この四十年は同時に、御会の教会の復興という理想を共にした各修道会との霊的な愛徳の時期でもありました。閣下はどのようにこの支援を受け取られておられますか?
フェレー司教‐ 私たちはそれを受け、またそれを与えるのです。聖伝事業間の相互支援はとても慰めとなります。私たちが経験している迫害も同然の状況の中にあって、相互理解はとても重要です。
5.ラ・ポルト・ラティンヌ‐また同時に、この四十年は皆の知る困難によって彩られています。一部の司祭たち、時には重要な人物が、さらに修道者あるいは信徒たち、惑わされた人々や、その他の疲れきってしまった人々は御会を支援するのを止めてしまいました。ではこの離別をどのように理解すべきでしょうか?
フェレー司教‐ あなたのご質問を解説する為に最も優れたイメージは、おそらく戦争のそれか、そうでなければ突撃のそれでしょうね。突撃の間、あなたの右と左では兵士たちが銃撃に倒れますが、あなたには突撃を続けるより他に選択はないのです。戦争というものには非常に無情な局面があって、私たちの時代は倒れる者に対しては情けなどありません。この苦しみは私たちを去る人々にとっても、彼らを取り戻す術もなくただ彼らが去り行くのを見送る私たちにとっても大きなものです。
6.ラ・ポルト・ラティンヌ‐それでは同時に、公教会に対して御会が持つ任務を理解して、閣下と連絡を取っている司祭や修道会はありますか?
フェレー司教‐ はい、これも私たちの慰めです。1ヶ月も経たない内に必ず一人は、神学生や、それこそ司祭か修道者がここに来て私たちの扉を叩きます。時には簡単なコンタクトですが、あるときには私たちへの決定的な一歩としてです。さらにもっと稀ではありますが、自分たちの共感、もしくはそれ以上のものすら表明して下さる司教様たちや、修道会それごとさえもあります。
7.ラ・ポルト・ラティンヌ‐閣下は全大陸を旅されるのですから、御会やモンセニョール・ルフェーブルについて違った方法で話すのを聞くはずです。御会創立者やその事業は常にある種の疑惑の対象となるのでしょうか、それともこの事情は1970年以降変わっているのでしょうか?
フェレー司教‐ 幾つか例外を除けば、事情はそれ程変わっていません。私の考えでは、全世界で、この司祭会は殆ど同じ処遇を受けています。つまりかなり大部分の司教たちによる嫌悪と、忠実に留まりたいと考える霊魂たちの小さな群れによる高い評価です。本当に驚くべきことです。これは公教会の危機の大きさ同様に、この危機の性質の深い一致を見事に説明してくれるものだと私は考えています。
8.ラ・ポルト・ラティンヌ‐司教様は、同様に、ローマでも変化をお感じになられましたか? ルフェーブル大司教様の事業による活動は公教会の高位聖職者たちに対して影響力を持っているのでしょうか?
フェレー司教‐ ローマでは、私たちに対する変化が顕著です。但しまだそれは大きな効果をもたらしてはいませんが。私たちの働きはある人たちからは評価されていると私には思えます。一部の方々からは嫌われるのですが。私たちに対するこれらの反応はとても対照的です。二つの陣営、要するに好意的な陣営と敵対的なもう一つの陣営がある事が良く分かります。それが関係を結構難しくしてしまうのです。何故なら何時も、誰が最後に言い負かすかを自問するからです。しかし教皇に忠実でありたいと考える人々は、尊敬を込めて私たちを考慮して、公教会の為に私たちから多くのことを期待しています。ところが、そこから具体的な効果を見るには、再び辛抱強く待つ必要があるでしょう!
9.ラ・ポルト・ラティンヌ‐ 四十年、それはとても短く、また同時にそれは大多数の信徒たちにとって第二バチカン公会議について何らかの記憶も持たないようになる為には十分長いものです。第二バチカン公会議から遠ざかるにつれて、私たちの立場に満足する司祭あるいは信徒たちの中には、何らかの安楽の内に生活してしまうという危険はないのでしょうか?
フェレー司教‐ 何らかの実際上の自律の中に閉じこもってしまうという危険はおそらく存在しています。この態度の大部分は私たちの置かれている状況、つまり拒絶された聖伝が置かれている状況のせいなのです。だからこそ、私たちは公教会やローマについて語ることによって、信徒たちの見解と懸念を拡大させようと試みています。ローマ的な精神を持ち続ける事は非常に重要です。私たちのローマに対する愛着は象徴的であってはなりません。それはむしろ大いに具体的なものでなければならないのです。さらにこの状況は、公教会に対する私たちの信仰にとっては一つの試金石でもあるのです。
10.ラ・ポルト・ラティンヌ‐一年前、聖座と御会から選ばれた専門家たちの間で教義的討論が始まりました。私たちはかなりの秘密厳守がこれらの交流を取巻いていて、確かに信徒たちはこの討論の幸いな結末を祈り求めている事を良く存じ上げております。では本質的な論題に着手する事もないまま当然の失敗をもうじき予期すべきなのか、もしくは反対に、議論の余地のない聖伝の復興を近く予期すべきなのでしょうか?
フェレー司教‐ これらの討論の展開から見て、私はそれが不意の断絶か、急な解決に行き着くだろうなどとは考えていません。二つの考え方がぶつかるのですが、討論‐つまり神学的水準の討論‐に入ろうという意志は確かに実在します。ですから、仮にこの進展が長くなる恐れがあっても、その成果はやはり前途有望なものであり得るでしょう。
11.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この討論を通して、第二バチカン公会議に対するローマ側からの断固とした排斥を予期すべきですか、それとも最終的にはそれを嫌がらずに承認しなければならないのでしょうか? またこのような教導権に関わる危機に対してどのように解決策を考案するのでしょうか?
フェレー司教‐ 仮に何時か公会議が排斥されるとしても、それは明日ではないだろうと私には思えます。今日の状況を修正しようとする意志は十分明確に現れています。公教会の現状、取り分け深刻なそれについて、多くの点で、つまり教義だけではなく道徳や規律の点で、私たちの評価は一致しているのです。しかし、ローマを支配する風潮は、常にこの公会議の免責にあります。我々は公会議まで遡りたくない、別にある原因を探す、しかし原因は何よりもあの公会議じゃないぞ!という具合です。周囲の心理から見てみますと、公教会の論駁不可能な教えを単に想起させる事はして、露骨な排斥は将来の為に取って置きながら公会議を通り過ぎてしまう事はより容易いのです。今日の状況では、排斥というものは簡単には理解されないだろうと私は思います。
12.ラ・ポルト・ラティンヌ‐最近の著作、『第二バチカン公会議、開始すべき討論(Vatican II, un debat a ouvrir)』 の中で、ローマの神学者、モンセニョール・ゲラルディーニ(Mgr Gherardini)は公教会についてかなり不安を与える証明を提起しています。彼は聖伝の継続の中にある公会議に関する講話は明らかに自分自身としては気に入らないと言及しているにもかかわらず、教皇聖下に対しては教導権上の問題解明の大仕事は実行されるようにという厳粛な叫びを上げています。そこで、私たちはこの著作をどの様に受け入れるべきでしょうか?
フェレー司教‐ それは私たちの会が発行する著作として、あるいは私たちに向けられた著作として理解すべきではありません。そうです、それは真向かいにいる現代的なカトリック信徒たちや高位の聖職位階に向けられているのです。この視野で考えれば、例の著作は大きな重要性を帯びています。と言いますのも、それは実際に受け入れられている公会議の再検討を紹介しているからです。タブーに触れているのです。もしもそれを私たちがやるとすると、討論そのものをブロックする自己防衛という反射的な行動を討論の相手に取らせてしまうのです。ですがこのタブーに触れる一撃がローマ自身の中心部から放たれる時に、それは多くの事柄を再び問題化しますよ。私が思うには、この本は客観的に重要なものなので、公会議を再検討しようとする大火事を引き起こすかも知れない火花の一つとなり得るでしょう。
13.ラ・ポルト・ラティンヌ‐閣下、フランスにいる御会の司祭や信徒たちに宛てて送ろうとお望みになられる簡潔なメッセージはありますか?
フェレー司教‐ 私たちの会の四十周年に際しましては、忠実!です。忠実、それは未来の保証です。小事に於ける忠実は、大事に於ける忠実の保証になります。取り分け、この戦いがより長い間続く事になろうとも、それは全て御想像にお任せしますが、それでも決して落胆しないで下さい。それどころか、公教会復興という事業の中で思い切って前進して下さい。
+ ベルナルド・フェレー
愛する兄弟姉妹の皆様、
マキシミリアーノさんが「聖ピオ十世司祭兄弟会の創立四十周年を祝いモンセニョール・ベルナール・フェレーからラ・ポルト・ラティンヌに提供された独占対談」を、私の願いに答えて、フランス語から日本語に訳して下さいました。マキシミリアーノさんに心から感謝すると共に、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
(本来なら、日本語訳はもうずっと前に完成していたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介するのが遅れてしまったことをお詫び申し上げます。)
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ十世司祭兄弟会の創立四十周年を祝い
モンセニョール・ベルナール・フェレーから
ラ・ポルト・ラティンヌに提供された独占対談
2010年10月7日、いと聖なるロザリオの聖母の祝日、メンツィンゲンにて
フェレー司教(1994年から聖ピオ十世司祭兄弟会の総長を務めている)は、マルセル・ルフェーブル大司教によるカトリック教会復興事業の創立40周年の機会に当たり、私たちに独占的対談の機会を下さることを大いに望まれました。
司教様は何時ものように、私たちの質問に対して一つ一つのお言葉がその重要性を持つ簡潔かつ明確な表明方法でお答えになられました。
司教閣下が、この対談と、またそれが閣下に招いてしまった追加の仕事に対して私どもが抱く真心からの敬意に満ちた感謝の程を少なくともここに見出して下さいますように。
1.ラ・ポルト・ラティンヌ‐四十年前の1970年11月1日、ルフェーブル大司教様はフリブールの司教を通して聖ピオ十世司祭兄弟会を認可させました。この四十年間について閣下はどのような目を注がれますか?
フェレー司教‐カトリック教会の歴史において、この四十年は、衰退の時代、あるいは現代世界や諸国に対する自らの影響力を喪失した苦しい時期として公教会の歴史に残るでしょう。私たちが生きている現代を総括する事は確かに難しくはありますが、どうすればこの判断が否定的なものにならずに済むのか私には分かりません。この状況に於いて、私どもの小さな事業は、暗闇の中に差し込む一条の日の光、砂漠の中のオアシス、遭難する一艘の筏(いかだ)の様に見えるのです。私たちからすれば、これは忘れ難くも素晴らしい時代であって、なるほど涙と苦悩は点在していますが喜びの支配する時期でした。
2.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この四十年の途中、二つの大きな出来事が御会の歴史の中に起きました。それは1988年の四人の司教聖別と1991年にあったルフェーブル大司教の御死去です。従って、一つが先に一つが後に起こったわけです。ではこれら二つの期間は対立するものなのでしょうか?
フェレー司教‐ 私には、二つの別の期間とは見えません。むしろ継続だと見ています。私たちの尊敬する創立者が与えて下さった方針にとにかく忠実に留まろうという配慮が、恐らくそれに何かしら関係しているのでしょう。同様に外部の情勢が、これもそうですが、殆ど変わらずにあるという事実はこの継続に大いに寄与しています。何も私たちに別な行動を取るよう追い立てたり強制したりはしません。それどころかその反対です。ルフェーブル大司教の下された判断は非常に奥深いものであり、それは全く有効なまま残っているのです。これは非常に注目すべきものです!
3.ラ・ポルト・ラティンヌ‐御会は、定着する一つの事業なのでしょうか、それとも世界中において展開し続ける新しい使徒職があるのでしょうか?
フェレー司教‐ この発展は司祭不足により迅速とは言えません。しかしそれは特に宣教国に於いて、いくらか進展したことが示されています。現実に、アフリカは数箇所で私たちを招いていますが、私たちの方はそれに答えるのに困っています。といいますのも、収穫のために十分な働き人がいないからです。それから、もし私たちに自由に派遣できる司祭がより多くいれば、アジアに於ける驚異的な発展を経験する事ができるだろうということも確実です。ところが、他方で、これら既に存在する事業の内的発展を強調しなければなりません。何故ならそれは、つまりこの発展は、非常に恒常的なものだからです。
4.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この四十年は同時に、御会の教会の復興という理想を共にした各修道会との霊的な愛徳の時期でもありました。閣下はどのようにこの支援を受け取られておられますか?
フェレー司教‐ 私たちはそれを受け、またそれを与えるのです。聖伝事業間の相互支援はとても慰めとなります。私たちが経験している迫害も同然の状況の中にあって、相互理解はとても重要です。
5.ラ・ポルト・ラティンヌ‐また同時に、この四十年は皆の知る困難によって彩られています。一部の司祭たち、時には重要な人物が、さらに修道者あるいは信徒たち、惑わされた人々や、その他の疲れきってしまった人々は御会を支援するのを止めてしまいました。ではこの離別をどのように理解すべきでしょうか?
フェレー司教‐ あなたのご質問を解説する為に最も優れたイメージは、おそらく戦争のそれか、そうでなければ突撃のそれでしょうね。突撃の間、あなたの右と左では兵士たちが銃撃に倒れますが、あなたには突撃を続けるより他に選択はないのです。戦争というものには非常に無情な局面があって、私たちの時代は倒れる者に対しては情けなどありません。この苦しみは私たちを去る人々にとっても、彼らを取り戻す術もなくただ彼らが去り行くのを見送る私たちにとっても大きなものです。
6.ラ・ポルト・ラティンヌ‐それでは同時に、公教会に対して御会が持つ任務を理解して、閣下と連絡を取っている司祭や修道会はありますか?
フェレー司教‐ はい、これも私たちの慰めです。1ヶ月も経たない内に必ず一人は、神学生や、それこそ司祭か修道者がここに来て私たちの扉を叩きます。時には簡単なコンタクトですが、あるときには私たちへの決定的な一歩としてです。さらにもっと稀ではありますが、自分たちの共感、もしくはそれ以上のものすら表明して下さる司教様たちや、修道会それごとさえもあります。
7.ラ・ポルト・ラティンヌ‐閣下は全大陸を旅されるのですから、御会やモンセニョール・ルフェーブルについて違った方法で話すのを聞くはずです。御会創立者やその事業は常にある種の疑惑の対象となるのでしょうか、それともこの事情は1970年以降変わっているのでしょうか?
フェレー司教‐ 幾つか例外を除けば、事情はそれ程変わっていません。私の考えでは、全世界で、この司祭会は殆ど同じ処遇を受けています。つまりかなり大部分の司教たちによる嫌悪と、忠実に留まりたいと考える霊魂たちの小さな群れによる高い評価です。本当に驚くべきことです。これは公教会の危機の大きさ同様に、この危機の性質の深い一致を見事に説明してくれるものだと私は考えています。
8.ラ・ポルト・ラティンヌ‐司教様は、同様に、ローマでも変化をお感じになられましたか? ルフェーブル大司教様の事業による活動は公教会の高位聖職者たちに対して影響力を持っているのでしょうか?
フェレー司教‐ ローマでは、私たちに対する変化が顕著です。但しまだそれは大きな効果をもたらしてはいませんが。私たちの働きはある人たちからは評価されていると私には思えます。一部の方々からは嫌われるのですが。私たちに対するこれらの反応はとても対照的です。二つの陣営、要するに好意的な陣営と敵対的なもう一つの陣営がある事が良く分かります。それが関係を結構難しくしてしまうのです。何故なら何時も、誰が最後に言い負かすかを自問するからです。しかし教皇に忠実でありたいと考える人々は、尊敬を込めて私たちを考慮して、公教会の為に私たちから多くのことを期待しています。ところが、そこから具体的な効果を見るには、再び辛抱強く待つ必要があるでしょう!
9.ラ・ポルト・ラティンヌ‐ 四十年、それはとても短く、また同時にそれは大多数の信徒たちにとって第二バチカン公会議について何らかの記憶も持たないようになる為には十分長いものです。第二バチカン公会議から遠ざかるにつれて、私たちの立場に満足する司祭あるいは信徒たちの中には、何らかの安楽の内に生活してしまうという危険はないのでしょうか?
フェレー司教‐ 何らかの実際上の自律の中に閉じこもってしまうという危険はおそらく存在しています。この態度の大部分は私たちの置かれている状況、つまり拒絶された聖伝が置かれている状況のせいなのです。だからこそ、私たちは公教会やローマについて語ることによって、信徒たちの見解と懸念を拡大させようと試みています。ローマ的な精神を持ち続ける事は非常に重要です。私たちのローマに対する愛着は象徴的であってはなりません。それはむしろ大いに具体的なものでなければならないのです。さらにこの状況は、公教会に対する私たちの信仰にとっては一つの試金石でもあるのです。
10.ラ・ポルト・ラティンヌ‐一年前、聖座と御会から選ばれた専門家たちの間で教義的討論が始まりました。私たちはかなりの秘密厳守がこれらの交流を取巻いていて、確かに信徒たちはこの討論の幸いな結末を祈り求めている事を良く存じ上げております。では本質的な論題に着手する事もないまま当然の失敗をもうじき予期すべきなのか、もしくは反対に、議論の余地のない聖伝の復興を近く予期すべきなのでしょうか?
フェレー司教‐ これらの討論の展開から見て、私はそれが不意の断絶か、急な解決に行き着くだろうなどとは考えていません。二つの考え方がぶつかるのですが、討論‐つまり神学的水準の討論‐に入ろうという意志は確かに実在します。ですから、仮にこの進展が長くなる恐れがあっても、その成果はやはり前途有望なものであり得るでしょう。
11.ラ・ポルト・ラティンヌ‐この討論を通して、第二バチカン公会議に対するローマ側からの断固とした排斥を予期すべきですか、それとも最終的にはそれを嫌がらずに承認しなければならないのでしょうか? またこのような教導権に関わる危機に対してどのように解決策を考案するのでしょうか?
フェレー司教‐ 仮に何時か公会議が排斥されるとしても、それは明日ではないだろうと私には思えます。今日の状況を修正しようとする意志は十分明確に現れています。公教会の現状、取り分け深刻なそれについて、多くの点で、つまり教義だけではなく道徳や規律の点で、私たちの評価は一致しているのです。しかし、ローマを支配する風潮は、常にこの公会議の免責にあります。我々は公会議まで遡りたくない、別にある原因を探す、しかし原因は何よりもあの公会議じゃないぞ!という具合です。周囲の心理から見てみますと、公教会の論駁不可能な教えを単に想起させる事はして、露骨な排斥は将来の為に取って置きながら公会議を通り過ぎてしまう事はより容易いのです。今日の状況では、排斥というものは簡単には理解されないだろうと私は思います。
12.ラ・ポルト・ラティンヌ‐最近の著作、『第二バチカン公会議、開始すべき討論(Vatican II, un debat a ouvrir)』 の中で、ローマの神学者、モンセニョール・ゲラルディーニ(Mgr Gherardini)は公教会についてかなり不安を与える証明を提起しています。彼は聖伝の継続の中にある公会議に関する講話は明らかに自分自身としては気に入らないと言及しているにもかかわらず、教皇聖下に対しては教導権上の問題解明の大仕事は実行されるようにという厳粛な叫びを上げています。そこで、私たちはこの著作をどの様に受け入れるべきでしょうか?
フェレー司教‐ それは私たちの会が発行する著作として、あるいは私たちに向けられた著作として理解すべきではありません。そうです、それは真向かいにいる現代的なカトリック信徒たちや高位の聖職位階に向けられているのです。この視野で考えれば、例の著作は大きな重要性を帯びています。と言いますのも、それは実際に受け入れられている公会議の再検討を紹介しているからです。タブーに触れているのです。もしもそれを私たちがやるとすると、討論そのものをブロックする自己防衛という反射的な行動を討論の相手に取らせてしまうのです。ですがこのタブーに触れる一撃がローマ自身の中心部から放たれる時に、それは多くの事柄を再び問題化しますよ。私が思うには、この本は客観的に重要なものなので、公会議を再検討しようとする大火事を引き起こすかも知れない火花の一つとなり得るでしょう。
13.ラ・ポルト・ラティンヌ‐閣下、フランスにいる御会の司祭や信徒たちに宛てて送ろうとお望みになられる簡潔なメッセージはありますか?
フェレー司教‐ 私たちの会の四十周年に際しましては、忠実!です。忠実、それは未来の保証です。小事に於ける忠実は、大事に於ける忠実の保証になります。取り分け、この戦いがより長い間続く事になろうとも、それは全て御想像にお任せしますが、それでも決して落胆しないで下さい。それどころか、公教会復興という事業の中で思い切って前進して下さい。
+ ベルナルド・フェレー