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ローマ公教要理 使徒信経の部 第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(2)

2010年10月02日 | カトリックとは

第十章

第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます



11 教会の特徴について、まず教会は一であること

 つぎに、教会の特徴を説明しなければならない。それによって信者たちは、自分たちが生まれ育った教会において神からどれほどの恵みを受けたかを知ることができるであろう。

 使徒信経によると、教会の第一の特徴は一であることである。「私の牝鳩はただひとり、私の完き者は、ただひとり」(雅6:9)と言われているとおりである。あちこちに散らばっているこれほど多くの人々が一であると言われるのは、聖パウロがエフェゾ人に書き送っているように、「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エ4:5)であるからである。実際、教会のかしらおよび指導者は一人で、それは目に見えないキリストである。かれは永遠の御父によって全教会のかしらとして立てられたのであり、全教会はその体である(エ1:22~23参照)。教会の目に見える頭も一人で、それは使徒たちの頭ペトロの正統な後継者としてローマの教座を引き継ぐ者である。

12 ローマ教皇は見える教会のかしらである

 教会の一致を確立し保っていくためには、見えるかしらが必要である。この点についてすべての教父たちの考え、意見は一致している。聖イエロニムスはこの点をはっきりと理解し、ヨビアヌスにつぎのように書き送っている。「かしらを決めることによって離教の機会を取り除くため一人の人が選ばれる」。(3) かれはまた聖ダマスス教皇にあてて、つぎのように書いている。「ねたみは消え去り、ローマ式の偉大さを望む野犬もなくなるように。私は、漁夫の後継者で十字架の弟子としてのあなたに話している。私はキリスト以外のかしらには誰にもつかず、ペトロの教座にすわるあなたと一致しており、この岩の上に教会が建てられていることを知っている(マ16:18参照)。これ以外の家で小羊を食べるものはすべて不浄のものになる。またノアの箱舟に入っていないものは洪水が来て滅ぼされてしまう」。(4)

 聖イエロニムスよりずっと以前に聖イレネウスも同じことを述べている。(5) 聖チプリアヌスは教会が一であることについて、つぎのように言っている。「主はペトロにこうおおせられた。『ペトロよ、私はあなたに言う。あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう』(マ16:18参照)。そして復活後使徒たちに向かって、『父が私をおおくりになったように私もあなたたちをおくる……聖霊を受けよ』とおおせられて(ヨ20:21~22参照) かれら全部に同じ権能をお与えになった。しかし単一性を表すため一つの教座を制定し、ご自分の権威をもってこの単一性がただ一人に基づくようにされた」。(6)

 かれに続いてオプタトゥス・ミレビタヌスはこう言っている。「あなたは無知を口実にすることはできない。あなたはローマの司教座がまずペトロに与えられ、かれは使徒たち全部のかしらとしてその教座についていたことを知っているからである。こうなったのはみながかれ一人において教座の単一性を保ち、他の使徒たちがそれぞれの教座を立てないようにするためであった。したがってこの唯一の教座に対してほかの教座を定めるものは離教者であり、犯罪人である」。(7)

 バシリウスはこう書いている。「ペトロは土台としてすえられた。かれは、『あなたはキリスト、生ける神のみ子です』(マ16:16)と言い、主はかれが岩であると言われた。かれは岩ではあるが、キリストのような岩ではなかった。キリストは不動の岩であり、ペトロはキリストによる岩であった。神はご自分の尊厳を他のものにお与えになる。かれは司祭であり、ほかの人を司祭にする。かれは岩であり、ほかのものを岩にする。そしてご自分のものをそのしもべたちにお与えになるのである」。(8)

 最後に、聖アンブロシウスも同じように教えている。「神のご好意は大きい。かれは私たちが償うはずのものを償われただけでなく、さらにご自分のものをお与えになった」。そしてその少しあとでこう続けている。「キリストの慈愛は深い。かれはご自分のほとんどすべての名称を弟子たちにお与えになった。たとえばかれは、『私は世の光である』(ヨ8:12)とおおせられたが、ご自分の栄光のもとになるこの光を弟子たちにお与えになった。『あなたたちは世の光である』(マ5:14)。『天からくだったパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる』(ヨ6:5)。『私たちは多数であっても、一つのパンである』(コ①10:17)。『私はほんとうのぶどうの木で、私の父は、栽培者である』(ヨ15:1)とおおせられ、また『私はよいぶどう畑として、由緒正しいさし木を植えた』(イエ2:21)と言われた。岩はキリストである。『かれらについて来た霊的な岩から飲んだが、その岩はキリストであった』(コ①10:4)。そしてかれはこの名称もご自分の弟子に与えることを拒まれず、ペトロが岩のもつ固さつまり信仰の堅固さをもつようにされた」。(9)

13 キリストのほかに見えるかしらが必要である

 もしだれかが、教会は一人のかしら一人の花婿で満足しており、それ以外にだれも必要としないと異端をとなえたとしても、それに対する答えは、容易である。主キリストは各秘跡の制定者であるだけでなく、その内的授与者でもある。たしかに、洗礼を授け罪をゆるすのはキリストであるが、そのキリストは秘跡の外的授与者として人間をお立てになった。それと同じように、ご自分の霊をもって治める教会のために、ご自分の権能をもつ代理者および役務者をお立てになったのである。実際、見える教会には見えるかしらが必要であり、そのため私たちの救い主は意義深いみことばをもってご自分の羊の世話をペトロにゆだね、かれを信者全部のかしらおよび司牧者と定め(ヨ21:15~17参照)、またその後継者もかれと同じように全教会を治め導く権能をもつように定められた。

14 教会が一であると言われる他の理由

 さらに、聖パウロがコリント人に書き送っているように霊は一つで、この同じ一つの霊が、霊魂が全肢体に生命を与えるようにして信者たちに恩恵を分かち与える(コ①12:11~13参照)。聖パウロはエフェゾ人にこの一致を保つようにすすめ、こう書いている。「平和の結びによって霊の一致を守るように努めよ。体は一つ、霊は一つである」(エ4:3~4)。人間の体は多くの肢体で成り立っていても、一つの霊魂に養われ、それが目には見させ、耳には聞かせ、その他の感覚にもそれぞれに固有の働きをさせている。これを似たような仕方で教会というキリストの神秘的な体も多くの信者から成り立っている(エ4:3~16、コ①12:12~30参照)。

 また聖パウロが同じ箇所で指摘しているように、私たちが召されている希望も一つである(エ4:4参照)。私たちはみな同じもの、つまり永遠の幸福な生命を期待している。最後に、私たちが守り宣告すべき信仰も一つである(エ4:5参照)。「あなたたちの間に分裂がないように」(コ①1:10参照)と聖パウロは言っている。またキリスト教信仰の秘跡である洗礼も一つである(エ4:5参照)。  

15 第二の特徴は聖であることである

 教会の第二の特徴は聖であることである。それは聖ペトロの、「あなたたちは選ばれた民族、王の司祭職、聖なる民である」(ペ①2:9)ということばに示されている。

 教会が聖であると言われるのは、神のために聖別され神にささげられているからである。実際、たとえ物質的なものであっても、神をまつる祭儀に供せられまた予定されているものは、聖なるものと呼ばれるのが常であった。旧約においてはたとえば器具・祭服・祭壇があり、また最初に生まれたものはいと高き神にささげられていたところから聖なるものと呼ばれていた。

 教会には多くの罪人がいるのに、それでも聖なるものと言われていることに驚いてはならない。信者たちが聖であると言われるのは、かれらが神の民とされ信仰と受洗によってキリストに自分をささげているからである。かれらは多くの罪を犯し約束したことを守らないとはいえ、やはり聖なるものである。それはある芸術に身を打ち込んでいる人が芸術の法則を守らない場合でもやはり芸術家と呼ばれるようなものである。聖パウロはあるコリント人を肉欲的な人ときめつけ、きびしくとがめながらも(コ①5:1~13参照)、かれらを聖なるもの、聖とされたものと呼んでいる(コ①1:2、コ②1:1参照)。

 教会が聖であると言われるのは、キリストの体として聖なるかしら主キリストと一致し(エ4:15~16参照)、全聖性の泉であるキリストから聖霊のたまものと神の慈愛の富が注がれるからである。そのため聖アウグスティヌスは、「私の魂を見られよ、私は敬虔な者」(詩86:2)というダヴィドのことばを説明して、つぎのように言っている。「一人の人であるこのキリストの体は地の四方から声をあげ、そのかしらと共にまたそのかしら下にあって、『私は聖なるものである』と言うのを恐れないように。なぜならかれは聖性の恩恵、洗礼と罪のゆるしの恩恵を受けているからである」。その少しあとでかれはこう続けている。「もしキリストにおいて洗礼を受けたすべてのキリスト者が、『キリストの洗礼を受けたあなたがたはみな、キリストを着ている』(ガ3:27)という聖パウロのことばどおりキリストを着、またかれの体の肢体になりながら、自分は聖なるものではないと言うならば、聖なる肢体をもつかしら自身を侮辱することになる」。(10)

 さらに、教会が聖であるとは、教会だけがみ旨にかなういけにえを伴う礼拝と、救いをもたらす秘跡をもっているからである。神は恩恵をもたらす効果的な手段としてこの秘跡をお用いになり、真の聖性を及ぼすのである。したがってまことの聖人はこの教会外にはありえない。このように教会がまことに聖であることは明らかである。教会はキリストの体であり、キリストがそれを聖化し、その御血をもって洗い清めてくださったからである。

16 教会はカトリック ( 普遍的 ) である

 教会の第三の特徴はカトリックつまり普遍的であることである。教会がカトリックであると言われるのは、聖アウグスティヌスが述べているように、「日の出るところから日の沈むところまで、ただ一つの信仰の輝きをもって広がっている」(11) からである。また教会は政治的な国家や異端者の集団のように一国の領土あるいは一民族に限られず、それが野蛮人であれスキチア人であれ、奴隷であれ自由人であれ、男であれ女であれ、すべての人を愛をもって抱擁するからである。そのため聖書には、「……あなたは屠られて、その血によってすべての民族とことばと民と国から、神のために人々をあがなわれたからである。あなたはかれらを、私たちの神のために、地上を、司る司祭の王国とされた」(黙5:9~10)と書かれている。ダヴィドは教会について、「私に求めよ、そうすれば、私は、異邦の民を、遺産としてあたえ、地の果てまでも、領土として与えよう」(詩2:8)と歌っている。また、「私は、私を知るものの中に、ラハブとバベルとを数える」(詩87:4)と付け加えている。

 またアダムの時から今日までの信者だけでなく世界の終わりまでの未来の信者すべてが、使徒たちと預言者たちとを土台にして建てられた(エ2:20参照) 同じ教会に属するのである。かれらはみな、二つのものを一つにし(エ2:14参照)近くにいるものにも平和を告げた (エ2:17参照) キリストを角のおや石として建てられ、かれに基礎をおいている(エ2:20参照)。

 教会が普遍的であると言われるいま一つの理由は、むかし人々が洪水に滅ぼされまいとして箱舟に入ったように、永遠の救いを得ようと思うものはみな教会に入り、それに属さなければならないからである。そのためこの特徴は、まことの教会と偽の教会とを見分けるためのもっとも確かなしるしであるというべきである。

17 使徒継承の教会

 まことの教会であるか否かは、使徒たちから啓示を受け継いでいるかどうかによって知ることができる。たしかに教会の教えは新しい真理ではなく、また今にはじまったものでもなく、むかし使徒たちから伝えられ全世界に広まったものである。したがって不敬虔な異端者たちの言うことは使徒たちの時代から今日まで教えられて来た教会の教えに反しており、まことの教会の信仰から非常にかけ離れていることはたしかである。そのため、( ニケア公会議の ) 教父たちはどれがカトリック教会であるかを識別させるため、神の導きのもとに、「使徒継承」ということばを加えたのである。実際、教会を導く聖霊は使徒たちの後継者である役務者を通してお導きになる。この聖霊はまず使徒たちに与えられ、その後、神の無限の慈愛によって常に教会の中にとどまられるのである。(12)

18 教会は信仰や道徳に関する事柄において不謬である

 この教会だけが信仰と道徳に関する事柄を教えるに当たって誤ることはできない。それは聖霊によって導かれているからである。そして教会という名を横取りするほかのすべての教会は悪魔に唆されており、教義や道徳についてきわめて有害な誤りに陥ることは必至である。

19 旧約聖書における教会の表象

 旧約聖書の表象は、信者たちの心を活気づけるためまたすばらしい事柄を思い起こさせるために大きな力をもっている。使徒たちも同じような目的のためにこれらの表象を用いている。したがって司牧者も教えを説明するために非常に有益なこの手段をないがしろにしてはならない。

 さてその表象のうちノアの箱舟はとくに深い意味をもっている(創6:14以下参照)。この箱舟はもっぱら神の命令によって建造されたもので、それが教会そのものを意味していることは全く疑いない。神が教会を制定されたのは、洗礼によってそこに入るものはだれでも永遠の死の危険から安全に守られるようにするためで、その外にいるものは箱舟に入らなかったものと同じように自分の罪に押し流され滅びる。

 いま一つの表象はあの壮大なイエルザレムの町で、聖者はしばしば聖なる教会を示すためにこの表象を用いている。すなわちこの町においてのみ神にいけにえをささげることができたが、それと同じようにまことの礼拝と神によみせられるまことのいけにえは教会においてのみ捧げることができるのである。


訳注  ( 3 ) S. Hieronymus, lib. 1 contra Jovianum.
    ( 4 ) S. Hieronymus, ep. 57.
    ( 5 ) S. Irenaeus, lib. 3 Adv. Haer.et ep. 57.
    ( 6 ) S. Cyprianus, de Unitate Ecclesiae.
    ( 7 ) Optatus Milevitanus, in init. lib. 2 ad Parmenianum.
    ( 8 ) S. Basilius, Homilia 29.
    ( 9 ) S. Ambrosius, lib. 9 in Lucam. Cap. 9.
    (10) S. Augustinus, in Psalmum 85.
    (11) S. Augustinus, contra Cresc.
    (12) S. Ambrosius, in Psalmum 118 et sermo 8.


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