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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十九章 クレネのシモンがしたように人の尊厳を意に介さずに

2011年12月26日 | カトリックとは
第四十九章 クレネのシモンがしたように人の尊厳を意に介さずに

ナザレのイエズスは、死を宣告されました。カルワリオで十字架の上で処刑されようとしていた人たちとの行列がありました。行列は馬に乗ったローマ人の百人隊長に率いられていました。両側に2人ずついた四人の兵士は、イエズス様の処刑を引き受けて見届ける必要がありました。イエズス様は行列の前の近くにおられました。前日の夜に無数の殴打によってひどく傷付き、尊い御体は傷やあざで覆われ、血が地面に流れていました。総督の兵士たちは、イエズス様の紫色のローブを身体から引き裂き、彼自身の上着を再び彼に着せ、そして、彼のあざだらけなずたずたの肩に十字架を置きました。十字架の梁は六十キログラム程の重さがありました。完全に疲れ切っていたにもかかわらず、イエズス様はこの重荷を背負わなければなりませんでした。そして、彼は刑場に向かってエルサレムの通りを進んでいかなければならなかったのです。

イエズス様は実際、長い断食と失血により疲れ切っていました。彼は十字架の重さで倒れました。その後、ユダヤ人たちはイエズス様が途中で死ぬかもしれないと恐れ、ちょうどそばを通りかかったある人に、十字架を刑場まで背負うことを強制しました。イエズス様に続き、彼と共に処刑されようとしている2人の強盗がいました。

それを見ていた群集がいました。ある者はイエズス様を知っており、彼を奇跡のために尊敬していましたが、その中のある者はこれまでイエズス様が救世主であるとすら信じていました。おそらく、枝の主日には棕櫚の枝を切り落として、それを道に沿って敷き詰めて何度も何度も「ダビデの子にホザンナ」と叫んでいましたが、今彼らはイエズス様が詐欺師であることが証明され、そして彼はそのために死刑を宣告されたと告げられたのです。これらの人々の愛は憎悪となり、尊敬は軽蔑となり、そして彼らはイエズス様が死刑になるのを見るようにと急ぎ、嘲りと愚弄、そして呪いと共にイエズス様についていきました。

群衆の中にいた信心深い女性がいました。天主様の御子と侮辱と苦しみをずっと共にした私たちの御母であるマリア様、自分の布をイエズス様に渡したヴェロニカ、マグダラのマリア、そして何人かの他の女性です。「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫んでいた大勢の群集と比べ、イエズス様の側に立ったのはほんの僅かでした。

マリア様といつも共にいたヨハネを除くすべての使徒たちは、イエズス様を置き置き去りにして逃げました。彼らは、ラザロを生き返らせたり、五つのパンと魚を六千を超える人々に食べさせるようなイエズス様の無数の奇跡を見ていたものの、イエズス・キリストと苦しみと恥辱を分かち合うための十分な勇気を持っていませんでした。人間の本質はなんと弱いことでしょう!

クレネのシモンは誰でしょう?なぜ、彼は進んでゴルゴタの丘へ向かう途中のイエズス様と重い十字架を背負ったのでしょうか?それは私にとって五十年以上にわたる謎でした。中国語と英語の両方の祈りの本では、彼が田舎からからエルサレムへの旅行者であるといわれています。おそらく、彼は以前にはイエズス様を知りませんでした。彼はその日に何が起こったか、知らなかったのではないでしょうか?ローマの兵士たちが十字架を運ぶように強いた時、彼らはシモンに拒否する時間を与えませんでした。彼はそれが何であったか気付く前に、十字架はもう彼の肩にありました。行列に付き添っていた誰もが、それに触れようとはしませんでした。十字架は不名誉の印だったからです。お金のために何でもするような分別のない兵士でさえ、自分自身はそのような行いに似つかわしくないと考えていました。シモンは物理的な重荷があったばかりではなく、キリストの侮辱をも分かち合ったのでした。

最初、シモンは進んで十字架を背負ったのではありませんでしたが、彼がイエズス様を見つめた時、イエズス様の優しさと忍耐によって心を打たれました。彼の虚弱な体は傷とあざで覆われていたものの、彼の表情は穏やかでした。シモンがイエズス様と十字架を背負うとすぐに、無数の恩寵が彼と彼の家族に注がれました。聖マルコは、シモンがよく知られていたローマの信者である「アレキサンダーとルーファスの父」(マルコ15:21)であることに触れています。天主様の聖心は、イエズス様への愛を示すために何かした人、特にカルワリオへ道の途中で重い十字架を背負った人を忘れることはありません。

ピラトは非常にはっきりと、イエズス様が何も悪いことを行っていたことを知っていましたが、彼は世論を恐れ、天の怒りよりも皇帝の不興を恐れていました。私の人生も同じように、天主様が真実と人間の尊厳のどちらかを選ぶように私にお尋ねになられたことが、何度かありました。私の前に二つの道があり、一つは広くて楽な人生を送り、多くの人々から名声を受けますが、この道は災いに私を導くでしょう。多分、私は自分自身で聖人であると思う一方で、私は自分の好きなことを行うことが出来ます。もう一つははとても狭い道です。私たちの祝福されたイエズス様のように、私は誤解され、さらに何人もの司祭から非難されて、そのうちのある者に、「今、あなたは悪魔で、教会の外にいます!」と言われました。実際には、それが天国への道であり、私は盲目的にそれに従っているのではありません。数年前、黙想会の後に、私は伝統的なカトリックの教えに真実を見出しました。真実は真実であり、それは決して変わることはありません。私が再び見出したのは、私が洗礼を受けた時に私が何人かの司祭(後に殉教した人々)から受け入れたものと全く同じ伝統的な信仰です。私は人々が何と言おうとも、進んでそれを守ります。

 天主様は、十字架を背負うクレネのシモンとして私を御取りになりました。それを受け入れなければなりません。十字架とロザリオで編まれた私の人生は、何と祝福されていることでしょう。それはとげだらけのように見えますが、その天辺には素敵な香りのきれいなバラが付いています。イエズス様とマリア様を愛することを教えて下さったのは、イエズス様とマリア様です。それは霊魂の救済を以て報いられます。私の夢でさえ、私は大声で言います。「イエズス様、マリア様、私はあなたを愛します。多くの霊魂を救って下さい!」すべての栄光は、全能の天主様に帰せられます!

二〇〇四年の聖金曜日


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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