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十字架上のキリストと危機の中の教会に直面する信仰

2012年11月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私の健康についてご心配をおかけしました。休養を取ることができ、体力も回復しました。お祈りを感謝します。

 さて、二〇一二年十一月十一日、サン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会での聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教による説教の日本語訳をご紹介します。とても良い内容です。問題がどこにあったのかがよく分かります。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


十字架上のキリストと危機の中の教会に直面する信仰


原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/faith-confronted-with-christ-on-the-cross-and-the-church-in-crisis/
二〇一二年十一月十六日

二〇一二年十一月十一日、サン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会での聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教による説教

親愛なるフランス管区長様、神父様方、そしてキリストにおけるいとも大切な信者の皆さん。

 私たちは今ちょうど福音書の毒麦のたとえの話を聞きました。この毒麦の現実はきわめて神秘的です。聖主こそがこのたとえを私たちに教えて下さり、天主の王国は──聖主が天主の王国について話される時、真っ先に教会のことを指しています──畑になぞらえられ、天主がその主人であるということを私たちに告げています。聖主はその畑で良いことしか行いません。つまり良い種しか播かれません。これが、天主がご自分の恩寵で、ご自身の善性でなされることです。そのとき、私たちは教会よりもずっと、さらに遠くへ、この神秘を全世界に広げることができます。天主ご自身もまたこの世の主であります。そしてここで突如として、情け深い、親切な働きのさなかで──私たちは天主があらゆるものの主であると知っていますから──、毒麦が、雑草が、悪が出現するのです(マテオ十三章二十四節─三〇節)

 天使たちの間に驚きが起き、この畑の働き手たちも驚きます。「ご主人様、あなたの畑では良い種を播かれたのではなかったですか?」主人の答えはこうです。「敵がこれをやったのだ」私たちはここで表現されているように、善き主がそれに関してなすすべがないと想像してしまうかも知れません。善き主はそれをしたお方ではなかったと私たちは正確に理解しています。そうです、しかし【敵に悪をなされても】、彼はそれでもなお主人です! この神秘はより大きいものでさえあります。天主がそれをお許しになるのです。天主はこれら毒麦を阻止することができたけれども、この敵、悪魔に、これらの毒麦を植えることをお許しになります。天主は、私たちが自ら──天主は自由意志を与えて私たちをお創りになりましたので──堕落し、悪を行えることをお許しになります。天主はそれをお望みにはなりません。天主は良い種だけをお望みです。ですが、私たちが歴史──教会の歴史──を見る時、悪や苦悩、毒麦が世界中に広がり、非常にたくさんの、たくさんの人々の醜聞があります。ですが醜聞はなおも広がっています。さて、これらの天使たち、強く力に満ちた、善だけをお求めになる天主の奉仕者たちは、これらの毒麦を根ごと引き抜いてしまいましょうと自ら申し出ます……。この悪とともになされた業なのだから! 主人は答えます「いや、毒麦は育つままにしておけ」と!

 これは、これ以降、軍隊[戦闘の教会]と呼ばれるはずの教会の中で、私たちが遭遇する神秘を要約しています。つまり戦う必要があります。外部で、そして内部ですら戦いがあるでしょうし、それはまさに世の終わりまで続くでしょう。しかしながら、主人であるお方は実際に私たちにこのように告げています──皆さんはそれを使徒書簡で教えられました──すべてものの上に愛があると──そして愛は一つになることであると──一つであるということは教会の真正性のまさしく印になるであろうと。

 そして聖パウロもまた私たちにこの恐るべき真理を告げています。それは毒麦のたとえと同様の方針に沿っています。つまり「Oportet haereses esse」(コリント前 十一章十九節)。分裂があるはずである、と。それは矛盾のように思われます。聖主は天使たちに、これらの毒麦を引き抜くことは、善よりもさらなる害を引き起こすだろうと説明します。それゆえに毒麦が育つままにさせておく必要があるのだと。これは天主が突如として、万物のあるじではもはやなくなったのだ、ということでは絶対にありません。まさかそんな! 収穫の時、区別がなされるであろう、その瞬間、毒麦は良い麦と分別され焼かれるだろう、こう言って天主はこの支配を宣言なさいます。悪を行い、考える人々は、それを責任を問われることなしに行っています。彼らはすみやかに罰が下されるとは思わないからです。ですから彼らに警戒させましょう! 天主は依然として天主です。天主がその尊厳を宣言するだろう時、その日は来るでしょう。天主は嘲られたままではおられません。聖書自身がそれを私たちに告げています。ですが記憶に留めて下さい。罪のゆえに、罪の結果のゆえに、悪を地上でお許しになる善き主のこの神秘があります。ですから私たちは戦わねばならないのです。

この神秘は、ここ数ヶ月の間に、私たちによりいっそう身近な影響を及ぼしました。私たちは毒麦を、困難を、ある程度の混乱に至るまで、自分たちの大切な聖ピオ十世会の内部においてすら目にしました。天主は、教会内でそれをお許しになるようにそのことをお許しになりました。社会全体の中において天主がお許しになるように、ということです。これは私たちを愛する天主の偉大な神秘です。聖主は同じように使徒たちに言いました。「実をつけない枝があるなら、栽培者(おん父)はそれを切り取る」聖主は続けて「だが、良い実をつける人々すら刈り込んでくださる……もっと良い実をつけさせるために」と言われます(ヨハネ十五章一節─二節)。この苦しみの宣言は、なんという偉大な神秘でしょうか。

 天主の計画において、苦しみは必要であり、私たちはこの苦しみを非常に不完全にしか理解できません。私たちが善を行うたびに、善を成し遂げようとするたびに、善を行うための私たちの努力の中で成功するたびに、善き主からあわれみ深い一瞥、祝福、私たちにとっての何か良いことを期待します。そして、善き主が[それに対して]痛手でお応えになるとき、私たちはもう[なぜなのか]わからないのです。それにも関わらず、これは悪い痛手ではありません──それはやはり痛手です。そうです。枝を刈り込むことはその枝にとって益にはなりません。ですがもっと良い実をつけるためにそれは刈り込まれます……。なんという偉大な神秘でしょうか!

私たちの内部の苦しみ、そしてローマで観察された矛盾の数々に由来するはずの教訓は何か?

 私は非常に簡潔に最後の数ヶ月のことをお伝えしたく思います。それはきわめて多くの苦しみをもたらしました。そこからいくつもの教訓を引き出すため、そしてまた、もしも必要ならば、私たちの道のりをふたたび見いだすことができるようにです。皆さんはご存知ですが、これらの問題を抱えた時期が──私はローマと私たちの関係について、私たちの会にもたらした反応について、その苦渋に満ちた結果の一つ、私たちの司教の一人を失った経緯について話しています──取るに足りないものであるはずはありません! 私はここで、ローマと私たちとの関係の問題が、あの離脱の原因ではない、とぜひとも説明し確認したいと思います。ローマのと関係はその機械ではありませいた。しかし離脱自体は,非常に長期間に渡って存在した問題の結果にすぎませんでした。聖ピオ十世会内部の規律の問題であり、最終的に権威に逆らう明らかな反乱のごときもの、言うなれば誤った口実のもとにそのことが示されました。

 もう少し説明させて下さい。この数ヶ月の間中に何が起きたのか? 私たちが見いだしたこの困難のすべての原因はどこにあったのか? 多くの原因があったと思います、ですが基本はローマにおける矛盾です。私たちが気づいていた矛盾、すでに少なくとも二〇〇九年からずっと説明し続けている矛盾です。その矛盾は──具体的に私たちに関して──権威自体、つまり聖座自身の決断と宣言において示されましたが、聖座で働くさまざまな人々から、対照的かつ矛盾する事柄すら述べるさまざまな人々から生じているのです。ローマにいる人々は、この教会の危機、そして私たちとの関係に関してさえ、さまざまな意見を持っているのだと確かに思われます。他方では、ローマにおける権威の行使に分裂があると非常によく理解できるのです。

 従って、頭(かしら)、つまり教皇、原則的には聖座と呼ばれる長(おさ)である方の意図を知ることが困難であるという状態が、数ヶ月、数年に亘って、すでに存在するのです。バチカンとは、教皇の右の手【道具】です。私たちは聖座と教皇との間に区別をつけません。私たちがローマに言及する時、この全体像を、教会のこの権威を指します。これはそのようにしてあるべきなのです。ですが現実において私たちは一つどころではない機会に、いわば権威への妨害(サボタージュ)があること、特に聖伝に賛成する決断がなされる時に、サボタージュがあることに気がづきました。最もはっきりしていることの一つは、聖伝のミサの復活目的について起きたことです。今度は、このことへの敵対が、ローマだけでなく教区のほぼ至るところに存在しました。この妨害は司祭たちと信者たちを永遠のミサに近づけないよう邪魔した司教たちに端を発しています。こういった風潮の中で、私たちは最後には尻すぼみに終わってしまったかのように見えた教義上の議論を何回かしました。私たちは【第二バチカン公会議の新しい教えに】賛成できないと証明することによってです。

 これらの議論ののち、それにも関わらず──私たちにとってこれは非常な、思いも寄らない驚きでしたが──聖座は教会法的解決を申し出てきます。同時に、その一方で、教理聖省とエクレジア・デイ委員会の公的ルートを通じて、私たちはサインもしくは議論のための書類を与えられます。他方では、私たちはこれらの同じ場所で働く人々、エクレジア・デイ、あるいは一枢機卿を通じて、公的ルートとは別のところからの伝言を受け取ります。多かれ少なかれこのようなものです。「教皇様は聖ピオ十世会を承認するおつもりです、破門を撤回した場合と同じく、見返りとして貴会から何も要求することなしにです」

 このような状況が大問題を引き起こさないはずはありません。なぜならこの伝言は、私たちが受け取った書類と同じことを述べていないからです、この同じ人々は「あなたに差し出されたこれらの書類は、教皇様のお望みと一致していません」と認めるでしょう。そして数ヶ月間、このわけのわからない話は続いたのでした。公的通達に対する私たちの返答は──彼らは議論において私たちが受諾しなかったことを受諾するよう要求したので──ノーです。できません。ですが私たちがこれら公的な回答を得ている一方で、情のこもった伝言が続いて届けられます。その発信元に疑問を投げかけることは不可能です。発信元は最高位にある方からなのです。皆さんのためにこの文章のいくつかを引用します。「聖ピオ十世会に、貴会の問題を解決することは私の配慮の中心にあると知らせなさい」、あるいは「それは私の教皇職の優先事項である」とすらあります。この事柄の数々は問題を解決しようという意向とともに言われているのです。

 仲介人たちはどうかと言うと、私たちはこういった類の他の声明を耳にします「ローマには、復興に友好的な教皇様のあらゆる構想を妨害する敵たちがいる」あるいはこのように言う人々もいます「フェレー司教を悩ませないように。承認の後、司教は以前と同じく、[第二ヴァチカン公会議に関する]このすべての論点への攻撃を続けられるでしょう」あるいは、さらに力強く言うのです。「教皇様は教理聖省より上です。教理聖省が聖ピオ十世会に反対する決断をするなら、教皇様はその決断を取り消すよう介入なさるでしょう」

 この二つめのルート[教皇からの伝言]を完全に無視することができるでしょうか? その真正さを、真相を検証することがどうしても必要でした。ですが、それを口にすることや、やりとりすることは、厳密には不可能でした。というのは、それについて話すことは物事をさらに複雑にしただろうからです。ついに──五月以来言えます──物事はよりはっきりとしてきました。最終的に六月に私たちは明確さにたどり着きました。なぜでしょうか? 言ってみれば、私はこの二つのルートをなんとかつなげてみせたのです。私は教皇様に手紙を書き、告げています。

「しばらくの間、私たちの公会議への反対を聖下はご存知ですから、またそれにも関わらず聖下が私たちを承認なさりたいと思っておられるのですから、聖下は公会議にまつわるこの諸問題を脇に置いておくか延期するおつもりであると、私は結論を出しました。とりわけ、これは『公会議の格下げ』を意味し、意見と議論への課題にさせることを意味します──何故なら、あり得るかも知れない、もしくは合法的ですらある議論についての話し合いがありましたから。従って私は以下のように考えました。問題があるにも関わらず、聖下は私たちに対するこの[承認への]意思表示をなさっているので、これはつまり、いかなる犠牲を払ってでも公会議を支持することなどよりも、聖下は、聖ピオ十世会がカトリックであると宣言することがもっと重要であるとみなしておられるのだと。【しかし」最後には、聖下ご自身が、公会議を【私たちに】押し付けておられるかのように私は理解しておりますので、私は間違っていたのだと結論づけなければなりません。ですからどうぞ、聖下が真実にお望みのことをお知らせ下さい」

 そして私は一通の手紙、六月三十日付けの返答の手紙を受け取りました。この六月三十日の手紙は、教皇様こそが、実際には私たちに公会議を受け入れることを強い、そして私が排除したすべての書類、私たちがサインできなかったすべての書類をもう一度提出することを強いるため介入なさった方だと示しているのです。すべては白紙に戻りました。そして教皇様は続けて、教会法的承認にたどり着くためには、三つの条件、聖ピオ十世会が受け入れなければならない三つの事柄があると言われます。

 つまり、以下のことを受け入れよとあります。「教導職は使徒的聖伝の判定者である」つまり、実際には聖伝に属するものを私たちに告げるのは教導職であるということです。それは "de fide"、信仰箇条です。どう見ても、この内容の中で、教皇様は私たちに革新を受け入れることを強いるため、教導職を利用しています。

 そして何よりもまず「公会議はこの聖伝の教えと不可分である」ということを受け入れるよう要求されます。それはつまり、公会議は「聖伝」、聖伝的であるはずだということです。四十年間、現在も、私たちは正反対のことを言い続けています。お遊びではないどころか、私たちの尊敬すべき創立者の唇に何度も何度ものぼった尊ぶべき表現に一致してです。つまり「私たちは言及するよう強いられている」──このいくつもの事実はそれを私たちに実証してみせています──この公会議は新規なことを実行するための同意済みの決定であるということを。これはどんな正当な改革でもなく、うわべだけの新規さ、むしろ教会が教えてきたことに矛盾し反対する重大な改革です。実際、教会はそのことを断罪すらしました。私たちがこの戦いの中で、何年も、何十年にも渡ってこれらの改革、教会を破壊し荒廃させた公会議の改革に反対してきたのは、お遊びではありませんでした。これが彼らが私たちに告げていることです。つまり、この条件は「第二ヴァチカン公会議は聖伝と不可分である」と同意することであると。

 最後の一つの条件、それは今度はミサに関係することです。私たちは新ミサの有効性(validity)を受け入れるだけでなく、その合法性(liceity)をも受け入れなければならないはずでした。私たちは「この事柄は存在しますか?」と尋ねるとき有効性について話しています。有効に捧げられたミサとは、聖主がそこにおわします、ということです。私たちはそのとき、このミサが行われている状況を見ているのではありません。従って黒ミサ(black Mass)は有効であり得ます。それは最悪の、恐るべき涜聖ですが、嘆かわしいことに、黒ミサと呼ばれるものを捧げる司祭たちが存在します。このミサは有効(valid)です。この衝撃的な実例を批判する中で、もちろんそれは許されていない、それは酷いものであるがゆえに合法的ではないということを皆さんは理解しています。「合法(Licit)」とは良いものであるがゆえに許されていることです。しかし、私たちはこの新ミサによって引き起こされた破壊に気づいていますし、それがどのように作られたかを、それが作られた目的が何なのかを、エキュメニズムの目的のためであったと記憶に留めています。そしてこの結果を、信仰の喪失、空っぽの教会を目にし口にします。それは悪いものであると。私はローマにこのように返答しました。通常、私たちは合法性については話すことすらしません、単にこのミサは悪いものであるとだけ言います。それで充分です。

私たちは障壁に突き当たったが、戦いを続けるだろう

 親愛なる兄弟の皆さん、これが状況です。だからこそ、六月以来──私たちがはそのこと叙階式のときに告知しました──事態は障壁に突き当たったということがはっきりとしています。これはゼロ地点への回帰です。私たちは間違いなくルフェーブル大司教様が一九七五年、一九七四年にいたのと同じ地点にいます。にも関わらず、私たちは自らの戦いを続けます。いつか教会を取り戻すという考えを、聖伝のために教会を征服するという考えを諦めません。聖伝は教会の宝です。ですから私たちは続けるでしょう、その幸福な日を待ち続けながら……。その日は来るでしょう。でも、いつでしょうか? 私たちはそれについて何も知りません。必ず私たちは目にするでしょう。それは善き主の秘密です。毒麦が、教会を苦しめているこの悪が根こそぎ引き抜かれる時、その日は来るでしょう。私たちがくぐり抜けているこの危機は、教会が今までに耐えてきた中で、間違いなく最も酷いものです。この危機においては、もはや霊魂たちを天国へと導いておらず、地獄への道を祝福している司教たち、枢機卿をすら私たちは目にしています。

 もはや霊魂たちに地上で遭遇する危機について警告しない聖職者たち。もはや彼らの存在目的を思い出すこともない聖職者たちがいます。……【私たちの人生の】目的は天主です。天国へ行くことです。そして、そこへ行くため三十六通りのやり方など存在しないということを忘れている聖職者たち。それは痛悔の道、自己放棄の道です。何でも許されているわけではありません。私たちには善き主の十戒があります。それを遵守したくない人は地獄への道を準備しているのです。私たちはこれらの言葉を司教たちの口から何度聞くでしょうか? このことを一度として話したことのない司教たちは恐らく何人いるでしょうか? 私たちは近代主義の神学校で修練期の最後にたどり着いた神学生たちが、こう言ったのを知っています。「私たちは神学校で、これを誰の口からも聞いたことがありませんでした!」にも関わらず、これは罪の直接の結果なのです。

 地上での私たちの人生は試練です。私たちは、私たちが天主を選び、それゆえに私たち自身の愛、地上的なものへの愛を放棄し、天主を選び取るということを善き主に示さなければなりません。私たちはこれらの毒麦に落胆してはなりません。あらゆるところに存在し、次から次へとあらゆるものに侵入するこの悪に直面する時、一つの反感が生まれます。これは一つの反感かも知れませんが、あまりにも人間的すぎる反感でしょう。今日の集祷文で、教会は私たちに告げています。教会は、私たちの戦いの間中、私たちが必要とするすべてのためには、恩寵のみをよりどころにすると。一人の人間の強さに依存しようとするなら簡単に落胆へと陥ります。私たちの強さは毎日私たちがこのように唱えることにあります。「Adjutorium nostrum in nomine Domini. 我らの救いは主の御名にある」私たちの助け、そしてそれゆえに私たちの力強さは主の御名にあるのです。善き主は、私たちが当てにしなければならない唯一のお方です。善き主は試練をお許しになるけれども、勝利への充分な恩寵を私たちに与えることなく試練を耐えさせることをお許しにはならないとよく知っています。これらのみことばは、そのままに受け取られなければなりません。このみことばは真実です。「天主がすべてをその善に役立たせてくださるのだということを、私たちは知っている」(ローマ八章二十八節)。すなわち、すべてのもの、そしてもちろん、特に試練をです。

 従って、私たちが試練に出会うならそれに落胆させられてはなりません。私たちの祈りを倍加させましょう。善き主のほうを向き、目を注ぎましょう。努力し、犠牲を捧げ、恩寵に頼りましょう。教会は常に、あらゆる問題への解決である一つのまなざしと一つの思いがあるということを私たちに教えています。この二つは、人生における私たちの身分がどんなものであれ、強さ、勇気を与えてくれるでしょう。教会は、十字架上のイエズスを、十字架につけられたイエズスを、私たちのために、私たちへの愛のために十字架上で死にゆくイエズスを眺めることだと言っています。イエズスは私たちをひどく堕落させることがおできになります。イエズスは、非常に恩知らずにもご自分を攻撃した、ご自分の被造物を無限に越えた天主であられます。イエズスは何をなさるのでしょうか? 物事をそのままにしておく代わりに、彼らを回復させるためお出でになります。イエズスは言葉では言い表せないへりくだりの内に人となられました、ご受難において、イエズスはご自身の上に私たちの罪をお取り上げになり、それらを背負い、私たちの代わりに負債を支払われました。イエズスは私たちの罪によってこうむるべき天罰を、ご自身の上にお引き受けになります。

 これがイエズスが私たちに対してお持ちになる愛です。イエズスが私たちを支えたい、助けたいというこの事実に関してどんな疑いを持ち得ましょうか? 私たちの思いを奮い立たせましょう。私たちの信仰を明言しましょう。そしてイエズスがお隠れになるとしても、彼が試練を増すとしても、どちらでもかまいません。イエズスはすべてのものの絶対的なあるじだからです。イエズスは、最高の時代におけると同様に、教会の現在の状況の中でも私たちすべてを救うことがおできになります。この神秘は今のところ続いています。親愛なる兄弟の皆さん、この力、この神聖さ、聖化の力はいまだ、私たちが眼にする今日の教会に宿っています。私たちに信仰があるなら、それはこの教会の中にあります。私たちが洗礼とそれに続く秘跡の最後に至るまで受け取るなら、それはこの教会の中で、教会を通してです。一つの夢想ではないこの教会、現実にあり、私たちの前に存在し、私たちがローマ・カトリック教会と呼ぶもの、教皇とともにある、司教たちとともにある教会です。彼らはまた弱さの時期を持ち得ます──私は「弱さがある」と言うところでした──どちらでもかまいません。つまり、善き主はご自分の教会が堕落することをお許しになりません。ですが、自分たちのことで心を煩わせず「善き主が私たちを助けて下さるので、すべてはうまくいく!」と、言うも言わないも私たち次第です。間違いなく私たち次第です!

 おわかりでしょう、これが議論において私たちとローマとの間にある問題です。私たちは彼らにこう告げています。すなわち、問題が存在し、この問題は明白に公会議とその後遺症から来ているのだと。すると彼らは答えます。「それはあり得ない。いや、何も問題はない。いかなる問題も存在し得ない。なぜなら教会は聖霊のおん助けに恵まれているからだ。従って教会は悪を行うことができない。それはあり得ない。ゆえに公会議は必然的に良いものであるはずだ。だからあなたが言っていることは根拠がない。あちこちでいくつかの乱用があるが大したことではない。新しいミサは教会によって作られた。教会は支えられている。新ミサは必然的に良いものである。あなたにはそれが悪いものだと言う権利はない」これが私たちが直面させられていることです。私たちはこう返答します。「私たちは最後のひとかけらに至るまで信仰を受け入れます。教会における、その特権における、聖霊のおん助けの内にある信仰をも受け入れます。しかしながら、私たちは現実を受け入れるということ、これもまたきわめて真実です。私たちは現実を否定することから遠ざかります。この二つの間には矛盾がないというとをよく知っています。もちろん、いつの日か説き明かされるでしょう。今日何もないにしてもです」

 これは十字架の神秘です。イエズスが十字架上におられる時、信仰は私たちにイエズスが天主であり、あらゆる権能をお持ちであり、永遠にましまし、死を克服したお方であるということを告白するよう義務づけます。イエズスは死ぬことがおできになりません。苦しむことがおできになりません。天主は無限に完全なお方です。天主にとって苦しむことは不可能です。そして十字架上のイエズスは天主です。信仰はこのことを私たちに教えています。私たちはそれを完全に、そのことを少しも縮小することなしに受け入れなければなりません。ですが、同時に、この同じイエズスは苦しまれ、死ぬことさえなさったのだと人間的経験が私たちに教えています。それが矛盾に思われたとしても、十字架のみ足元で、真理のうちに立つ人々だけがこの二つのことを守り続けるのです。

 この同じ問題を、私たちは教会の歴史を通して理解します。非常に大多数の人々は、人間的知識が教えることにしがみつき、そして結論づけるでしょう。「だからイエズスは天主ではない。イエズスは本当に死んだ。死んで埋葬された。それで終わりだ」これは教会の敵どもが、無神論者と異端者が、教会内に潜む近代主義者が取った路線です。そして皆さんに、彼らは信仰を持っていないのだが持っているかのように思わせるのです。彼らは現実の、歴史上のキリスト、キリストは死んで復活しなかったと彼らが言うところの現実のキリストと、キリストの目的のため教会が信じるように私たちに義務づけ、復活をでっち上げたのだという、いわゆる「信仰のキリスト」との間に巧妙に区別をつけるでしょう。これは完全な偽りです。正当ではありません。イエズスはまことに復活なさいました。また、それとは逆に、他の異端がこう言って主張していることを考えてみて下さい。「まあそうですね、イエズスは天主です。ですから、あの死は、あの苦しみの数々は単なる見かけ上のことに過ぎません。イエズスは実際には死んでいなかったのですよ」この誤謬もまた起こっていますが、それほど広まってはいません。

 今日では、教会に関して同じ問題があります。真理に留まるため、これらの与えられた事実の二組を維持しなければなりません。つまり、信仰の事実と、また理性によって記憶に留められた事実です。この公会議は、公会議自身と世俗とを調和させようとしました。それは教会内に世俗を持ち込み、そして今、私たちは災難を抱えています。公会議を基礎に作られたこれらすべての改革は、この目的のため権威者たちによって作られました。今日、彼らは私たちに公会議の聖伝の継続性について話しますが、それはどこにあるのでしょう? アシジの集会にでしょうか? コーランへの接吻にでしょうか? カトリック国家の廃止の中に? その継続性とはどこにあるのか? ですから私たちはきわめて単純に[今までしてきたことを]続けます。親愛なる兄弟の皆さん。何も変えることなく、善き主がお望みになり、彼がそれをなされる瞬間まで……。

 それは、私たちが受け身のままでいなければならないということではありません。毎日、私たちには霊魂を勝ち取るというこの義務があります。解決策は善き天主から来るだろうと私たちはよく知っています。そしてそれは聖母を通して来るのだとさえ言えます。私たちはこのことを言えます。私たちの時代にはきわめて確かなものがあります。ラ・サレットの聖母、ファチマの聖母。このすばらしい、偉大なご出現によって導かれ、この苦悩に満ちた恐るべき時代の到来を告げています。ローマは反キリストの座となるだろう、ローマは信仰を失うだろうと……。これはラ・サレットで言われたことです。教会は輝きを失うだろうと。これは些末な言葉ではありません。これは今私たちが経験していることであると、真実に印象づけられる人もいます。

 私たちはパニックに陥ってはなりません。そうです、教会の現状は恐るべきことです。が、私たちはそれゆえに何にもまして聖母に避難所を求め、聖母のけがれなき御心に近寄らなければなりません。これはファチマのメッセージです。つまり、天主は世界にマリアのけがれなき御心への信心を与えたいのです。これは無駄ではありませんでした! 私たちのすべての祈りの中で、すべてのミサの中で、代価が何であれ、何も手放さないためにこの信頼の恩寵を願いましょう。そうして、善き主が私たちを守り天国へと導いてくださるでしょう。アーメン。

【説教の持ち味を生かしておくため、話し言葉のままにしてあります。】
(Source: Transcription LPL revue ─ DICI dated November 14, 2012)


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