アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教がしたエコン神学校でのミサ聖祭説教の日本語訳をご紹介します。
この日本語訳を作って下さった方に心から感謝いたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
私たちはローマに関してどこに立っているのか?
原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/sermon-of-bishop-bernard-fellay/
二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教はエコン神学校でミサを捧げた。説教の間、この祝日の霊的な意味を思い起こさせたのち、司教は聖ピオ十世会とローマとの関係状況を説明した。──表題と副題はDICI編集者による。
……聖ピオ十世会はなぜ存在するのでしょうか? なぜ私たちは司祭になるのでしょうか? 古いミサを司式する喜びのためだけではありません。天国へ行くためです。救霊のためです! 教会の宝を保ちながらも確実に、救霊の目的をもって、霊魂たちを天国に導くことで、聖主へと導くことで、霊魂たちを罪から遠ざけ、獲得し、聖化する目的をもってです。
私たちはローマに関して、どこに立っているのでしょうか? 二つのポイントを説明することをお許し下さい。一つ目は今までに起きたこと、次に、現在そして恐らく将来に起こるだろうことを見てみることです。
初めに、今までに起きたことを見てみます。同時に発生したいくつもの要因、そして混乱、損害を残す予想以上に根深い疑い──そしてもっと重大な、私たちに甚大な痛みを引き起こす傷の状態を生じたことが原因で、一つの試練が起きました。恐らく私たちが今までに経験した中で最も重大な試練です。すなわち、私たちの司教の一人を失ったということです。これはささいなことではありません! これは現在の危機がもっぱらの原因ではありません。長い経緯がありますが、ここでは結論を述べるにとどめておきます。
ローマからの二つの正反対の伝達
では、何が起きたのでしょうか? 最初の原因は昔からずっとある問題でありました。少なくとも二〇〇九年から私がずっと言い続けていることだと思います。私たちはローマの矛盾に直面している自分たちに気づく、と私は述べました。約一年間、聖座と私たちの関係においてこの矛盾の現れがあり続けました、九月以来、私は公的ルートを通じて、はっきりと聖ピオ十世会を承認するためのローマ側の意志が表明された数枚の書類を受け取りました。が、それは私たちがサインできない書類にサインする必要がありました。同時に、私が受け取ったもう一つの情報ラインがあり、私にはその信憑性を疑うことは不可能でした。この情報ラインは実際には別のことを述べていました。
私が二〇一一年九月十四日に至るまで公式書類を受けとらなかったのに対して、このことは八月半ばに始まりました。八月半ばからずっと、ヴァチカンのある人物が私たちに言い続けています。「教皇様は聖ピオ十世会を承認なさるおつもりです。破門撤回のときと同じように、つまり見返りに何も要求することなしにです」そこで、私は議論のために準備された九月十四日の会見に対してこんな心構えでいました。こう言いながらです。「ですが、あなたはご自分がしていることを慎重にじっくりとお考えですか? あなたは何をしようとしているのですか? それはうまくいかないでしょう」そして実際、私たちに差し出されたこの書類は、告知されたものとまったく違ったものだったのです。
ですが、私が持っていた情報源はたった一つではなく、同じことを述べていた数枚の告知書を持っていました。ある枢機卿は宣言しました。「そうです、それは本当です。相違点があります。ですが、それ[無条件の承認]をお望みなのは教皇様です」私たちが公式書類を受け取ったのち、この情報を私たちに与えた同じ人物が「これは教皇様がお望みのことではありません」と告げます。矛盾です!
私たちは何をすべきだったのでしょうか? 教皇様があることをお望みであった──しかしどの程度まで?──ということを、私たちに示唆している情報の重大さを知り、私にはそれを検証する義務がありました。ですが、信者たちに伝えることは不可能でした。この情報は非公式のルートではあるものの、教皇様に非常に近しい人々から来ています。私に告げられた声明文のいくつかを皆さんに引用しましょう。最初はこれです。「私と聖ピオ十世会の両方にとって、事態を今のままにしておくことは、もっと楽なことだとよく理解しています」教皇様は[聖ピオ十世会を承認することで]ご自身が問題を抱えることになるだろうということ、そして私たちもそうなるだろうということをご存知だとはっきりと示しています。しかし教皇様はどの程度まで物事を進めたいのでしょうか?
教皇様による別の声明はこうです。「聖ピオ十世会に、貴会の問題を解決することは私の教皇職の最優先課題であると知らせなさい」あるいはこれ。「ヴァチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいるのです」そしてこれも。「心配しないように。今後もあなたは、今と同じように思う存分[公会議への]攻撃を続けることができるでしょう」ここには別の声明があります。「教皇は教理聖省よりも上にあります。教理聖省が貴会に関して好意的でない決定を下すなら、教皇がそれを覆すでしょう」
私に届いた情報はこういった性質のものです。明らかに不透明です。一方で、彼らは私たちに公会議を受け入れるよう要求し、それは不可能であるがゆえに否と言わなければならない公式書類を得ると同時に、他方ではこのような報告の数々が伝わってくる。にも関わらず、私は最初から「否」と答えました。ある人が私に電話で言ってきました。「【否とはどういうことか】もう少し正確にお話しをしていただけませんか?」私は二度めの手紙を書きました。彼らは最初のときのように満足しませんでした。そして三月十六日に至って、彼らは一通の手紙を私によこし、こう言います。「この手紙は教理聖省からのものですが、教皇様の承認を得ています」と。私が自分の手の中にこの手紙だけしか持っていなかったならば、私たちとローマの関係はここで終わっていたかもしれません。この手紙は、現在の教導職に反して過去の教導職を据える権利は誰にもないと述べていたからです。従って、現在のローマ当局は過去の彼らと矛盾していると述べる権利は誰にもないということになるのです。
その手紙には、教皇がはっきりと承認した九月十四日の書類を拒否することは、実に教皇の権威を拒否することと同等であるとも書かれていました。離教と離教による破門に関して述べている教会法に触れてすらいました。手紙には続いてこう書かれています。「教皇様は、ご親切にも、貴会にもう一ヶ月の猶予を下さるとのことです。貴会の決定を変更する希望があるなら、教理聖省に連絡をするように」ここではっきりしました! これ以上何もすることはありません。公式ルートから私によこされたこの手紙が、討論の締めくくりでした。終わりです。ですがそれと同時に、私は非公式の助言を受け取っていたのです。「そうです。あなたは不愉快な手紙を受け取るでしょうが、冷静でいて下さい」、そして実際に「うろたえてはいけませんよ」と教えてくれました。
教皇への手紙とその返答
こういった類の介入があったため、私は思い切って教理聖省を無視し、教皇様に直接手紙を書きました。私たちの関係における最も細心の注意を払うポイントは以下のことであるとも理解していたからです。つまり、ローマ当局は、私たちが教皇様を理論上認めていても、実際にはあらゆるものを拒否しているのだと信じ込まされていたのだということです。一九六二年からずっと、私たちは何も頼みとしてはいない。つまり、教皇はいらない、教導職はいらないのだと[私たちが言っていると]当局は信じ込まされています。私はそれを正すべきだと考えました。正しくないからです。私たちは多くのことを拒否し、多くのことに同意せずにいますが、教皇を教皇として認めると述べる時、それは真実であり、真実にあの方を教皇であると認めているのです。私たちはあの方が間違いなく教皇の任務を遂行することができると認めています。
そこで、私は思い切って手紙を書きました。それは明らかに細心の注意を必要とする問題てした。私たちは同意する、同意しないと、同時に言う必要があったからです。このきわめて細心の注意を払う手紙を教皇様は承認し、その後は枢機卿たちすら承認したかのように思われたのですが、六月に届いた文書には、受諾できないため私が除外したすべての事柄が戻されていました。
この書類が私に手渡された時「いいえ、私はこれにサインしません。聖ピオ十世会はサインする意志はありません」と言いました。私は教皇様に手紙を書きました。「私たちはそれにサインできません」と。このように説明しながらです。「今に至るまで──私たちは公会議に関して同意しないので、そして聖下は私たちを承認なさることをお望みのように思えるので──聖下は公会議を退ける心づもりなのだと思っていました」私は歴史的な一つの例を挙げました。フィレンツェ公会議でギリシャ人たちが一致して決議した一つのこと、不貞の場合に婚姻が無効になるかという問題について、ギリシャ人たちは同意に達しなかったのでした。正教会は不貞があった場合婚姻は無効となり得ると考えており、カトリック教会はそうではありません。彼らは同意に達しませんでした。彼らは何をしたか? その問題を片方に残しておきました。アルメニアとギリシャへの教令に違いがあるとはっきりとわかります。アルメニアでは婚姻無効の疑いについて言及し、ギリシャの場合には除外されました。私は以下のように述べつつ、このことに触れました。「恐らく聖下は同様のことをなさるおつもりでしょう。私たちをカトリックとして認めることが、公会議を主張することよりもさらに重要であるとお考えなのでしょう。ですが、現在、聖下が私たちに手渡されたこの文書を見ると、私は間違っていたのだと思います。ですから聖下が真実にお望みのことを告げて下さい。と申しますのも、これらの疑いは私たちの間に混乱の種を播くからです」
教皇様は六月三十日付けで返書を下さり、その中に三つの条件を出されました。
・第一に、教導職は使徒的聖伝の真正の判定者であると、聖ピオ十世会は認めねばならない──これはつまり、聖伝とは何かを教えるのは教導職であるということです。これは正しいことです。ですが、明らかに、ローマ当局は以下のことを述べるため[教導職を]利用したがっています。つまり、聖ピオ十世会がそれを認める。従って、現在、我々ローマは公会議は聖伝的であると決定する。聖ピオ十世会はそれを受け入れなければならない。ちなみに、これは二番目の条件です。
・聖ピオ十世会は、公会議は聖伝、使徒継承の聖伝と不可分でその全体を構成する一部であるという事実を必ず受け入れなければならない。ですが、毎日、私たちが見聞きしていることは逆のことを証明しているとここで述べています。この公会議は聖伝的であるなどと、いきなりどうやって言えるでしょうか? このようなことを口にするためには、「聖伝」という言葉の使い方を完全に変えてしまう必要があります。そして実際、彼らは「聖伝」という言葉の意味を変えてしまったのだとはっきりとわかります。というのは、第二ヴァチカン公会議で、彼らがレランの聖ヴィンチェンチオによる定義、すなわち「すべての人々が、あらゆる場所で、常に信じてきたこと」という完全な聖伝の定義を拒絶したのは、ささいなことではありませんから。
「信じてきたこと」とは対象です。今日では、彼らにとって聖伝とは絶えず動いている何かであり、もはや対象ではなく、彼らが「主体的である教会」と呼ぶものであり、成長する教会のことです。それが聖伝であると。それは時代から時代へと新しい事柄を積み重ねていくことであると。そしてこの積み重ねが聖伝であり、それは伸びゆき、増えていくのだと。この認識も間違ってはいませんが、補助的なこととしてです。
・第三のポイントとして、新しいミサの有効性(validity)と合法性(liceity)を必ず受け入れなければならないということです。
私はローマに総会の書類を送りました。私たちのはっきりとした最終的宣言、時が来たらですが、将来あり得るかも知れない教会法的承認に関する合意にいずれは到達するための私たちの条件をです。これらの条件なくして[聖ピオ十世会は]生き延びることは不可能です。それはまさに自己破壊になりかねないからです。今日教会を破壊しているあらゆるものを受け入れることは、私たち自身を破壊することだからです。それは聖伝のすべての宝を放棄することです。
なぜローマにこの矛盾の数々が存在するのか?
提案された和解案は、実際のところ、第二ヴァチカン公会議と私たちを和解に至らせるためのものであって、私たちと教会、つまり変わらないすべての時代の教会との和解ではありません。その上、私たちはすべての時代の教会と和解する必要などありません。私たちはそこにいますから。ローマは「貴会の公式返答を私たちはまだ受け取っていない」と言います。ですが私は、できません、その方向に進むつもりはありません、と三度返答しました。
つい最近、私たちはエクレジア・デイ長官であり、同時に教理聖省長官でもある方【ミューラー大司教】からの立場表明を受け取っていました。彼は聖ピオ十世会との話し合いは終わったと言い張っていました。先週の土曜日、エクレジア・デイからの新たな布告がありました。このようなものです。「いや、私たちは聖ピオ十世会にいくばくかの猶予を与える。三十年に渡る討論の末に、聖ピオ十世会が相当の時間を必要とするのは無理もないことだ。向こうが和解を熱烈に望んでいることを私たちはよく理解している」と。彼らの方こそ私たちよりもずっとそれを望んでいるのだという印象を受け、私たちは「何が起きているのか?」と不思議に思います。
これは明らかに再度の混乱の種を播いていますが、私たちは自分たちの心を乱さないようにしなければなりません。私たちの進む道を歩き続けます。ただそれだけのことです。ここには、ローマで気づいた矛盾の再度の明らかなしるしがあります。なぜ矛盾が存在するのか? 言うまでもなく、近代主義の道、破壊への道、破滅への道を歩き続けたい人々がおり、そして、その道はおかしいと気づき始め、私たち[の参入]を非常に望む人々がいるからです。ですが、私たちは彼らに信頼をおけるでしょうか? それは状況次第です。つまり私たちによかれと望むだけでは充分ではないのです。
こういったすべての議論において、私は結論にたどり着きました──これが、現在起きていることを説明していると思います──教皇様は真実に、非常に真剣に、聖ピオ十世会を承認なさりたいのです。しかしながら、教皇様が設定した条件は私たちには不可能です。教皇様の手紙に書かれた諸条件は、私たちにはとにかく不可能です。
公会議を聖伝的であると言えだなどと! あらゆるものが私たちに逆のことを教えているというのに! 五十年に渡る教会の歩みは逆のことを言っています。新ミサは良いものであると言えだなどと! ここでも、目を開ければただ破壊だけを見なければなりません。ここ数年、私たちに会いにやって来る司祭たちとの経験は教訓的です。私はアルゼンチンで、聖伝についてまったくの無知である、比較的若い司祭と知己を得ました。彼はまことのミサを発見しているところでした。これが、彼が最初に見た初めての聖伝のミサでした。つまり、ほんの少し前まで、彼は聖伝のミサが存在することをまるで知らなかったのです。彼の反応はどんなものだったか? 愕然として、自分からこの宝を隠していた人々に怒りを覚えたと言いました! 彼の反応はこうです。「これがミサなのですか? 彼らはこのことを私たちに決して教えてはくれませんでしたよ!」
聖伝は宝であり、過去の遺物ではない
この危機から抜け出す道は極めて単純です。私たちが新しい福音化について話したいなら──私たちが使う用語に深い意味はありません──危機から脱出するただ一つの方法は教会が常にやってきたことに戻ることです。とても簡単です。複雑ではありません。時代遅れでも古くさくもありません。私たちは現代世界に生きているとよく知っています。昨日やおとといを体験しているのではありません。新しい問題が──これは本当です──存在しますが、善き主の解決策はそこにあるのです! この解決策は不変です。人生において、私たちが恩寵を与えられずにいる状況は一瞬たりともありません。選択を迫られるたびに、誘惑があるたびに、善き主はそれに打ち克つため、状況に応じた恩寵を与えて下さいます。天主の十戒は昨日と同じく今日も有効です。天主は依然として天主です。皆さんはご存知でしょう!
ですから、彼らが私たちに、世間や世間の言い方……まあとにかく、それに順応して、事態を説明しようとしなければならないと説明するとき、そうです、それは正しいですが、私たちは真理を変えてはなりません。天国への道は依然として罪と悪魔と世俗の放棄の道であることに変わりはありません。これは洗礼の約束で私たちが見いだす最初の条件です。「あなたは悪魔を棄てますか? その業を棄てますか?」これが今もなお天国への道なのです。それ以外にありません。今日、人々は離婚した人の再婚について声高に話します。ドイツの司教たちは、去年、彼らの目的の一つは離婚した再婚者たちを[教会の]交わりの中に迎え入れることだと述べました。なんということ! 教会のみならず善き主も私たちに教えています。いや、まず、この状況を正しく直すことが先決であると。善き主は困難な状況にある人々に恩寵を与えて下さいます。簡単だとは誰も言いません! 結婚が崩壊する時、それは悲劇です。
が、善き主は恩寵をお与えになります。そのような状態の人々は強くあらねばなりません。聖主の十字架が彼らを助けて下さいますが、私たちは[再婚を]認めるつもりはありませんし、ここシオン教区で行われているように、彼らの結びつきを祝福する儀式を行うつもりもありません。人々はそのことについて大きな声で話しませんが、現実に起きていることです。
今そうすることは罪を祝福することです。そのようなことが善き主から来るはずはありません! そのようなことをする司祭たちや司教たちは、霊魂を地獄へと導いています。彼らは、司祭や司教の召し出しを受けて、なすべきことをせよ言われたことと、まさしく逆のことをしているのです。
これこそ、私たちが直面している教会の現実です! このすべてのことを誰が肯定できるでしょうか? これこそ、私たちが立ち向かっている教会の悲劇です。
さて、将来について話しますが、私たちがローマ当局を相手に、この先試みようとしていることは、信仰のために、教会は誤り得ないと言い張ることはまったく良いことではない、と彼らに告げることです。なぜなら信仰のレベルにおいて、私たちは聖霊のおん助け(助力の聖寵)について完全に同意しています。ですが、皆さんは教会内で起きていることを、しっかりと眼を開けて見なければなりません! こう言うのをやめなければなりません。「教会は悪を行えない。従って新ミサは良いものだ。公会議に誤謬は存在しない」と。ですが、ほら、現実を見て下さい! 私たちが把握している現実と信仰との間に矛盾は存在し得ません。両方をおつくりになったのは同じ主です。従って、明らかな矛盾があるならば、解決策も確かに存在するのです。恐らく私たちはそれをまだ得てはいません。しかし、信仰のために現実を否定するつもりはありません! これが、ローマが今日、私たちに押し付けようとしていることに関して抱いている偽りない印象です。私たちの答えはこうです。「できません」これがすべてです。
ですから私たちは続けます。何が起ころうとも! いつの日か、この試練──教会全体に及んでいる試練──は終わるでしょう。ですが、どうやってなのかはわかりません。私たちはやれることをすべてやろうとします。恐れてはなりません。善き主はすべてに優ったお方です。彼は今もなお主人です。これは非凡なことです。
教会は、こういった状況にあってさえ、今もなお聖なるもの、聖化する力を持っています。いとも親愛なる兄弟の皆さん、今日私たちが秘跡、恩寵、信仰を受け取るとするなら、それはこのローマ・カトリック教会を通してなのです。教会の過失を通してではなく、間違いなくこの現実の、実在する教会を通してです。それは幻ではなく、夢想でもなく、現実の、私たちが今日祝っている最高に美しい光景、すなわち天国のことです。おお! 天国は地上で準備されています。それは教会の美しさです。悪の軍隊との恐るべき、異常な戦闘の中に教会は自らが置かれていることに気づき、そして今日、恐るべき苦悩の中にあるこの状態でおいてすら、教会はなおも信仰を、恩寵を、秘跡を伝えることができます。私たちがそれら──この七つの秘跡と信仰──を与えるとしたら、この教会を通してであり、教会の名のもとにであり、私たちがそうであるカトリック教会の道具そして成員としてなのです。
天国の聖人たちが、天使たちが我らの助けと支えに来たり給わんことを! 容易なことでないのは明らかで、私たちが怖じ気づくのも明らかです。本日の昇階誦にはこうあります。天主を畏れなければなりません。天主を畏れる者たちに、善き主はすべてをお与えになります。天主を畏れることに臆病にならないように。天主への畏れは知恵の始めです。天主への畏れが、地上の人生の迷路を通り抜けて、私たちを天国の方へと導いてくださいますように。天国では、諸聖人の元后、諸天使の元后なる童貞マリアが、まことに私たちの保護者であり、まことに私たちのおん母であられます。私たちが、聖主はすべての人々においてすべてとなることを望んでおられる、と言うならば、聖母についてもほぼ同じことを言わねばなりません。私たちは天国に、天主から比類ない権能、悪魔の頭(こうべ)を踏み砕き、異端を滅ぼす権能をいただいた一人の母を持っています。ですから、私たちはこうも言えるのです。聖母は信仰のおん母、恩寵のおん母であると。聖母のところへ参りましょう。私たちの人生、家族、喜び、苦しみ、計画、望みを聖母にお捧げしましょう。至福直観のうちに天主を仰ぎ見ているすべての聖人たちとともに、私たちが永遠の幸福を常に楽しむことができるよう、聖母が私たちを永遠の天国へと導いてくださいますように。そうなりますように。アーメン。
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愛する兄弟姉妹の皆様、
二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教がしたエコン神学校でのミサ聖祭説教の日本語訳をご紹介します。
この日本語訳を作って下さった方に心から感謝いたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちら
http://www.dici.org/en/documents/sermon-of-bishop-bernard-fellay/
二〇一二年十一月一日、諸聖人の祝日に、ベルナール・フェレー司教はエコン神学校でミサを捧げた。説教の間、この祝日の霊的な意味を思い起こさせたのち、司教は聖ピオ十世会とローマとの関係状況を説明した。──表題と副題はDICI編集者による。
……聖ピオ十世会はなぜ存在するのでしょうか? なぜ私たちは司祭になるのでしょうか? 古いミサを司式する喜びのためだけではありません。天国へ行くためです。救霊のためです! 教会の宝を保ちながらも確実に、救霊の目的をもって、霊魂たちを天国に導くことで、聖主へと導くことで、霊魂たちを罪から遠ざけ、獲得し、聖化する目的をもってです。
私たちはローマに関して、どこに立っているのでしょうか? 二つのポイントを説明することをお許し下さい。一つ目は今までに起きたこと、次に、現在そして恐らく将来に起こるだろうことを見てみることです。
初めに、今までに起きたことを見てみます。同時に発生したいくつもの要因、そして混乱、損害を残す予想以上に根深い疑い──そしてもっと重大な、私たちに甚大な痛みを引き起こす傷の状態を生じたことが原因で、一つの試練が起きました。恐らく私たちが今までに経験した中で最も重大な試練です。すなわち、私たちの司教の一人を失ったということです。これはささいなことではありません! これは現在の危機がもっぱらの原因ではありません。長い経緯がありますが、ここでは結論を述べるにとどめておきます。
ローマからの二つの正反対の伝達
では、何が起きたのでしょうか? 最初の原因は昔からずっとある問題でありました。少なくとも二〇〇九年から私がずっと言い続けていることだと思います。私たちはローマの矛盾に直面している自分たちに気づく、と私は述べました。約一年間、聖座と私たちの関係においてこの矛盾の現れがあり続けました、九月以来、私は公的ルートを通じて、はっきりと聖ピオ十世会を承認するためのローマ側の意志が表明された数枚の書類を受け取りました。が、それは私たちがサインできない書類にサインする必要がありました。同時に、私が受け取ったもう一つの情報ラインがあり、私にはその信憑性を疑うことは不可能でした。この情報ラインは実際には別のことを述べていました。
私が二〇一一年九月十四日に至るまで公式書類を受けとらなかったのに対して、このことは八月半ばに始まりました。八月半ばからずっと、ヴァチカンのある人物が私たちに言い続けています。「教皇様は聖ピオ十世会を承認なさるおつもりです。破門撤回のときと同じように、つまり見返りに何も要求することなしにです」そこで、私は議論のために準備された九月十四日の会見に対してこんな心構えでいました。こう言いながらです。「ですが、あなたはご自分がしていることを慎重にじっくりとお考えですか? あなたは何をしようとしているのですか? それはうまくいかないでしょう」そして実際、私たちに差し出されたこの書類は、告知されたものとまったく違ったものだったのです。
ですが、私が持っていた情報源はたった一つではなく、同じことを述べていた数枚の告知書を持っていました。ある枢機卿は宣言しました。「そうです、それは本当です。相違点があります。ですが、それ[無条件の承認]をお望みなのは教皇様です」私たちが公式書類を受け取ったのち、この情報を私たちに与えた同じ人物が「これは教皇様がお望みのことではありません」と告げます。矛盾です!
私たちは何をすべきだったのでしょうか? 教皇様があることをお望みであった──しかしどの程度まで?──ということを、私たちに示唆している情報の重大さを知り、私にはそれを検証する義務がありました。ですが、信者たちに伝えることは不可能でした。この情報は非公式のルートではあるものの、教皇様に非常に近しい人々から来ています。私に告げられた声明文のいくつかを皆さんに引用しましょう。最初はこれです。「私と聖ピオ十世会の両方にとって、事態を今のままにしておくことは、もっと楽なことだとよく理解しています」教皇様は[聖ピオ十世会を承認することで]ご自身が問題を抱えることになるだろうということ、そして私たちもそうなるだろうということをご存知だとはっきりと示しています。しかし教皇様はどの程度まで物事を進めたいのでしょうか?
教皇様による別の声明はこうです。「聖ピオ十世会に、貴会の問題を解決することは私の教皇職の最優先課題であると知らせなさい」あるいはこれ。「ヴァチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいるのです」そしてこれも。「心配しないように。今後もあなたは、今と同じように思う存分[公会議への]攻撃を続けることができるでしょう」ここには別の声明があります。「教皇は教理聖省よりも上にあります。教理聖省が貴会に関して好意的でない決定を下すなら、教皇がそれを覆すでしょう」
私に届いた情報はこういった性質のものです。明らかに不透明です。一方で、彼らは私たちに公会議を受け入れるよう要求し、それは不可能であるがゆえに否と言わなければならない公式書類を得ると同時に、他方ではこのような報告の数々が伝わってくる。にも関わらず、私は最初から「否」と答えました。ある人が私に電話で言ってきました。「【否とはどういうことか】もう少し正確にお話しをしていただけませんか?」私は二度めの手紙を書きました。彼らは最初のときのように満足しませんでした。そして三月十六日に至って、彼らは一通の手紙を私によこし、こう言います。「この手紙は教理聖省からのものですが、教皇様の承認を得ています」と。私が自分の手の中にこの手紙だけしか持っていなかったならば、私たちとローマの関係はここで終わっていたかもしれません。この手紙は、現在の教導職に反して過去の教導職を据える権利は誰にもないと述べていたからです。従って、現在のローマ当局は過去の彼らと矛盾していると述べる権利は誰にもないということになるのです。
その手紙には、教皇がはっきりと承認した九月十四日の書類を拒否することは、実に教皇の権威を拒否することと同等であるとも書かれていました。離教と離教による破門に関して述べている教会法に触れてすらいました。手紙には続いてこう書かれています。「教皇様は、ご親切にも、貴会にもう一ヶ月の猶予を下さるとのことです。貴会の決定を変更する希望があるなら、教理聖省に連絡をするように」ここではっきりしました! これ以上何もすることはありません。公式ルートから私によこされたこの手紙が、討論の締めくくりでした。終わりです。ですがそれと同時に、私は非公式の助言を受け取っていたのです。「そうです。あなたは不愉快な手紙を受け取るでしょうが、冷静でいて下さい」、そして実際に「うろたえてはいけませんよ」と教えてくれました。
教皇への手紙とその返答
こういった類の介入があったため、私は思い切って教理聖省を無視し、教皇様に直接手紙を書きました。私たちの関係における最も細心の注意を払うポイントは以下のことであるとも理解していたからです。つまり、ローマ当局は、私たちが教皇様を理論上認めていても、実際にはあらゆるものを拒否しているのだと信じ込まされていたのだということです。一九六二年からずっと、私たちは何も頼みとしてはいない。つまり、教皇はいらない、教導職はいらないのだと[私たちが言っていると]当局は信じ込まされています。私はそれを正すべきだと考えました。正しくないからです。私たちは多くのことを拒否し、多くのことに同意せずにいますが、教皇を教皇として認めると述べる時、それは真実であり、真実にあの方を教皇であると認めているのです。私たちはあの方が間違いなく教皇の任務を遂行することができると認めています。
そこで、私は思い切って手紙を書きました。それは明らかに細心の注意を必要とする問題てした。私たちは同意する、同意しないと、同時に言う必要があったからです。このきわめて細心の注意を払う手紙を教皇様は承認し、その後は枢機卿たちすら承認したかのように思われたのですが、六月に届いた文書には、受諾できないため私が除外したすべての事柄が戻されていました。
この書類が私に手渡された時「いいえ、私はこれにサインしません。聖ピオ十世会はサインする意志はありません」と言いました。私は教皇様に手紙を書きました。「私たちはそれにサインできません」と。このように説明しながらです。「今に至るまで──私たちは公会議に関して同意しないので、そして聖下は私たちを承認なさることをお望みのように思えるので──聖下は公会議を退ける心づもりなのだと思っていました」私は歴史的な一つの例を挙げました。フィレンツェ公会議でギリシャ人たちが一致して決議した一つのこと、不貞の場合に婚姻が無効になるかという問題について、ギリシャ人たちは同意に達しなかったのでした。正教会は不貞があった場合婚姻は無効となり得ると考えており、カトリック教会はそうではありません。彼らは同意に達しませんでした。彼らは何をしたか? その問題を片方に残しておきました。アルメニアとギリシャへの教令に違いがあるとはっきりとわかります。アルメニアでは婚姻無効の疑いについて言及し、ギリシャの場合には除外されました。私は以下のように述べつつ、このことに触れました。「恐らく聖下は同様のことをなさるおつもりでしょう。私たちをカトリックとして認めることが、公会議を主張することよりもさらに重要であるとお考えなのでしょう。ですが、現在、聖下が私たちに手渡されたこの文書を見ると、私は間違っていたのだと思います。ですから聖下が真実にお望みのことを告げて下さい。と申しますのも、これらの疑いは私たちの間に混乱の種を播くからです」
教皇様は六月三十日付けで返書を下さり、その中に三つの条件を出されました。
・第一に、教導職は使徒的聖伝の真正の判定者であると、聖ピオ十世会は認めねばならない──これはつまり、聖伝とは何かを教えるのは教導職であるということです。これは正しいことです。ですが、明らかに、ローマ当局は以下のことを述べるため[教導職を]利用したがっています。つまり、聖ピオ十世会がそれを認める。従って、現在、我々ローマは公会議は聖伝的であると決定する。聖ピオ十世会はそれを受け入れなければならない。ちなみに、これは二番目の条件です。
・聖ピオ十世会は、公会議は聖伝、使徒継承の聖伝と不可分でその全体を構成する一部であるという事実を必ず受け入れなければならない。ですが、毎日、私たちが見聞きしていることは逆のことを証明しているとここで述べています。この公会議は聖伝的であるなどと、いきなりどうやって言えるでしょうか? このようなことを口にするためには、「聖伝」という言葉の使い方を完全に変えてしまう必要があります。そして実際、彼らは「聖伝」という言葉の意味を変えてしまったのだとはっきりとわかります。というのは、第二ヴァチカン公会議で、彼らがレランの聖ヴィンチェンチオによる定義、すなわち「すべての人々が、あらゆる場所で、常に信じてきたこと」という完全な聖伝の定義を拒絶したのは、ささいなことではありませんから。
「信じてきたこと」とは対象です。今日では、彼らにとって聖伝とは絶えず動いている何かであり、もはや対象ではなく、彼らが「主体的である教会」と呼ぶものであり、成長する教会のことです。それが聖伝であると。それは時代から時代へと新しい事柄を積み重ねていくことであると。そしてこの積み重ねが聖伝であり、それは伸びゆき、増えていくのだと。この認識も間違ってはいませんが、補助的なこととしてです。
・第三のポイントとして、新しいミサの有効性(validity)と合法性(liceity)を必ず受け入れなければならないということです。
私はローマに総会の書類を送りました。私たちのはっきりとした最終的宣言、時が来たらですが、将来あり得るかも知れない教会法的承認に関する合意にいずれは到達するための私たちの条件をです。これらの条件なくして[聖ピオ十世会は]生き延びることは不可能です。それはまさに自己破壊になりかねないからです。今日教会を破壊しているあらゆるものを受け入れることは、私たち自身を破壊することだからです。それは聖伝のすべての宝を放棄することです。
なぜローマにこの矛盾の数々が存在するのか?
提案された和解案は、実際のところ、第二ヴァチカン公会議と私たちを和解に至らせるためのものであって、私たちと教会、つまり変わらないすべての時代の教会との和解ではありません。その上、私たちはすべての時代の教会と和解する必要などありません。私たちはそこにいますから。ローマは「貴会の公式返答を私たちはまだ受け取っていない」と言います。ですが私は、できません、その方向に進むつもりはありません、と三度返答しました。
つい最近、私たちはエクレジア・デイ長官であり、同時に教理聖省長官でもある方【ミューラー大司教】からの立場表明を受け取っていました。彼は聖ピオ十世会との話し合いは終わったと言い張っていました。先週の土曜日、エクレジア・デイからの新たな布告がありました。このようなものです。「いや、私たちは聖ピオ十世会にいくばくかの猶予を与える。三十年に渡る討論の末に、聖ピオ十世会が相当の時間を必要とするのは無理もないことだ。向こうが和解を熱烈に望んでいることを私たちはよく理解している」と。彼らの方こそ私たちよりもずっとそれを望んでいるのだという印象を受け、私たちは「何が起きているのか?」と不思議に思います。
これは明らかに再度の混乱の種を播いていますが、私たちは自分たちの心を乱さないようにしなければなりません。私たちの進む道を歩き続けます。ただそれだけのことです。ここには、ローマで気づいた矛盾の再度の明らかなしるしがあります。なぜ矛盾が存在するのか? 言うまでもなく、近代主義の道、破壊への道、破滅への道を歩き続けたい人々がおり、そして、その道はおかしいと気づき始め、私たち[の参入]を非常に望む人々がいるからです。ですが、私たちは彼らに信頼をおけるでしょうか? それは状況次第です。つまり私たちによかれと望むだけでは充分ではないのです。
こういったすべての議論において、私は結論にたどり着きました──これが、現在起きていることを説明していると思います──教皇様は真実に、非常に真剣に、聖ピオ十世会を承認なさりたいのです。しかしながら、教皇様が設定した条件は私たちには不可能です。教皇様の手紙に書かれた諸条件は、私たちにはとにかく不可能です。
公会議を聖伝的であると言えだなどと! あらゆるものが私たちに逆のことを教えているというのに! 五十年に渡る教会の歩みは逆のことを言っています。新ミサは良いものであると言えだなどと! ここでも、目を開ければただ破壊だけを見なければなりません。ここ数年、私たちに会いにやって来る司祭たちとの経験は教訓的です。私はアルゼンチンで、聖伝についてまったくの無知である、比較的若い司祭と知己を得ました。彼はまことのミサを発見しているところでした。これが、彼が最初に見た初めての聖伝のミサでした。つまり、ほんの少し前まで、彼は聖伝のミサが存在することをまるで知らなかったのです。彼の反応はどんなものだったか? 愕然として、自分からこの宝を隠していた人々に怒りを覚えたと言いました! 彼の反応はこうです。「これがミサなのですか? 彼らはこのことを私たちに決して教えてはくれませんでしたよ!」
聖伝は宝であり、過去の遺物ではない
この危機から抜け出す道は極めて単純です。私たちが新しい福音化について話したいなら──私たちが使う用語に深い意味はありません──危機から脱出するただ一つの方法は教会が常にやってきたことに戻ることです。とても簡単です。複雑ではありません。時代遅れでも古くさくもありません。私たちは現代世界に生きているとよく知っています。昨日やおとといを体験しているのではありません。新しい問題が──これは本当です──存在しますが、善き主の解決策はそこにあるのです! この解決策は不変です。人生において、私たちが恩寵を与えられずにいる状況は一瞬たりともありません。選択を迫られるたびに、誘惑があるたびに、善き主はそれに打ち克つため、状況に応じた恩寵を与えて下さいます。天主の十戒は昨日と同じく今日も有効です。天主は依然として天主です。皆さんはご存知でしょう!
ですから、彼らが私たちに、世間や世間の言い方……まあとにかく、それに順応して、事態を説明しようとしなければならないと説明するとき、そうです、それは正しいですが、私たちは真理を変えてはなりません。天国への道は依然として罪と悪魔と世俗の放棄の道であることに変わりはありません。これは洗礼の約束で私たちが見いだす最初の条件です。「あなたは悪魔を棄てますか? その業を棄てますか?」これが今もなお天国への道なのです。それ以外にありません。今日、人々は離婚した人の再婚について声高に話します。ドイツの司教たちは、去年、彼らの目的の一つは離婚した再婚者たちを[教会の]交わりの中に迎え入れることだと述べました。なんということ! 教会のみならず善き主も私たちに教えています。いや、まず、この状況を正しく直すことが先決であると。善き主は困難な状況にある人々に恩寵を与えて下さいます。簡単だとは誰も言いません! 結婚が崩壊する時、それは悲劇です。
が、善き主は恩寵をお与えになります。そのような状態の人々は強くあらねばなりません。聖主の十字架が彼らを助けて下さいますが、私たちは[再婚を]認めるつもりはありませんし、ここシオン教区で行われているように、彼らの結びつきを祝福する儀式を行うつもりもありません。人々はそのことについて大きな声で話しませんが、現実に起きていることです。
今そうすることは罪を祝福することです。そのようなことが善き主から来るはずはありません! そのようなことをする司祭たちや司教たちは、霊魂を地獄へと導いています。彼らは、司祭や司教の召し出しを受けて、なすべきことをせよ言われたことと、まさしく逆のことをしているのです。
これこそ、私たちが直面している教会の現実です! このすべてのことを誰が肯定できるでしょうか? これこそ、私たちが立ち向かっている教会の悲劇です。
さて、将来について話しますが、私たちがローマ当局を相手に、この先試みようとしていることは、信仰のために、教会は誤り得ないと言い張ることはまったく良いことではない、と彼らに告げることです。なぜなら信仰のレベルにおいて、私たちは聖霊のおん助け(助力の聖寵)について完全に同意しています。ですが、皆さんは教会内で起きていることを、しっかりと眼を開けて見なければなりません! こう言うのをやめなければなりません。「教会は悪を行えない。従って新ミサは良いものだ。公会議に誤謬は存在しない」と。ですが、ほら、現実を見て下さい! 私たちが把握している現実と信仰との間に矛盾は存在し得ません。両方をおつくりになったのは同じ主です。従って、明らかな矛盾があるならば、解決策も確かに存在するのです。恐らく私たちはそれをまだ得てはいません。しかし、信仰のために現実を否定するつもりはありません! これが、ローマが今日、私たちに押し付けようとしていることに関して抱いている偽りない印象です。私たちの答えはこうです。「できません」これがすべてです。
ですから私たちは続けます。何が起ころうとも! いつの日か、この試練──教会全体に及んでいる試練──は終わるでしょう。ですが、どうやってなのかはわかりません。私たちはやれることをすべてやろうとします。恐れてはなりません。善き主はすべてに優ったお方です。彼は今もなお主人です。これは非凡なことです。
教会は、こういった状況にあってさえ、今もなお聖なるもの、聖化する力を持っています。いとも親愛なる兄弟の皆さん、今日私たちが秘跡、恩寵、信仰を受け取るとするなら、それはこのローマ・カトリック教会を通してなのです。教会の過失を通してではなく、間違いなくこの現実の、実在する教会を通してです。それは幻ではなく、夢想でもなく、現実の、私たちが今日祝っている最高に美しい光景、すなわち天国のことです。おお! 天国は地上で準備されています。それは教会の美しさです。悪の軍隊との恐るべき、異常な戦闘の中に教会は自らが置かれていることに気づき、そして今日、恐るべき苦悩の中にあるこの状態でおいてすら、教会はなおも信仰を、恩寵を、秘跡を伝えることができます。私たちがそれら──この七つの秘跡と信仰──を与えるとしたら、この教会を通してであり、教会の名のもとにであり、私たちがそうであるカトリック教会の道具そして成員としてなのです。
天国の聖人たちが、天使たちが我らの助けと支えに来たり給わんことを! 容易なことでないのは明らかで、私たちが怖じ気づくのも明らかです。本日の昇階誦にはこうあります。天主を畏れなければなりません。天主を畏れる者たちに、善き主はすべてをお与えになります。天主を畏れることに臆病にならないように。天主への畏れは知恵の始めです。天主への畏れが、地上の人生の迷路を通り抜けて、私たちを天国の方へと導いてくださいますように。天国では、諸聖人の元后、諸天使の元后なる童貞マリアが、まことに私たちの保護者であり、まことに私たちのおん母であられます。私たちが、聖主はすべての人々においてすべてとなることを望んでおられる、と言うならば、聖母についてもほぼ同じことを言わねばなりません。私たちは天国に、天主から比類ない権能、悪魔の頭(こうべ)を踏み砕き、異端を滅ぼす権能をいただいた一人の母を持っています。ですから、私たちはこうも言えるのです。聖母は信仰のおん母、恩寵のおん母であると。聖母のところへ参りましょう。私たちの人生、家族、喜び、苦しみ、計画、望みを聖母にお捧げしましょう。至福直観のうちに天主を仰ぎ見ているすべての聖人たちとともに、私たちが永遠の幸福を常に楽しむことができるよう、聖母が私たちを永遠の天国へと導いてくださいますように。そうなりますように。アーメン。
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