Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

最近の試練から引き出せる有益な教訓(デ・ガラレタ司教様の講話)その4

2013年02月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回、レネー神父様と同伴して日本を訪問することが出来、大変嬉しく思います。レネー神父様の興味深いお話を伺えて、とても有意義な時を過ごすことが出来ました。

 あと残すところ10日の教皇職の責務を残すベネディクト十六世教皇様のために沢山のお祈りをお願いいたします。また、その後継者となる教皇様のためにロザリオのお祈りをお願いいたします。私たちは、聖なる教皇様を頂く価値も功もないのですが、天主の憐れみによって、私たちに聖なる教皇様が与えられますように!

 さて、2月17日の主日の東京でのミサ聖祭の参列者数は次の通りでした。

男: 18人(内、子供0人)
女: 19人(内、子供2人)
計: 37人(内、子供2人)

Laisney神父の霊的講話の参加者数
男: 8人
女: 7人
計: 15人

晩課の参列者数
男: 6人
女: 6人
計: 12人

 2月18日月曜日の朝のミサ聖祭には、7名の方々が参加しました。

 さて、デ・ガラレタ司教様が昨年の10月になさった「最近の試練から引き出せる有益な教訓」と題されるお説教の日本語訳の続きをご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


最近の試練から引き出せる有益な教訓 その4


試練の必要性と有益性

 もっと多くの言うべき事柄があったのは確かなのですが、私は皆さんに最も興味深い事を話したと思っています。締めくくりにあたり、試練の必要性と有用性に関して思いついたことがあります。天使がトビアに告げること、それはカトリックの、聖書に含まれた聖伝の教えです。"Et quia accéptus eras Deo, necésse fuit ut tentátio probáret te." 「あなたが天主に嘉せられるため、試練があなたを試すことは必要だった」(トビア十二章十三節)と。多くの良いことは試練から来るからです。

※訳注:このトビア書の箇所は、ウルガタ・ラテン語訳に基づいています。

 聖アウグスチノも言います。起こり得る最悪の事、最悪の災難は、そこから何も学ばない人々、不幸から何も引き出さない人々のことだ、と。ですから、世界で最も惨めな人とは、その不運から教訓も、そこから来る善をも引き出さない人のことです。その人の試練は前よりも酷くなります。気をつけましょう! 試練が有益であるというのは、つまり、私たちはその有益なことと収穫の実りを探し求めねばならないということなのです。

 さて、私たちはしょっちゅう、不運から、苦難から、そして試練から、自分以外の人々への教訓を引き出そうとする傾向があります。「ほら! 私の言った通りだった。あなたは間違いなく酷い目に遭ったでしょう」ですが、試練には多くの教訓があります。こうも言えるでしょう。試練を通して暴露された私たちの弱さと欠陥こそが問題だったのだと。ですから、私たちは各々、自分自身のためにそこから教訓を引き出さなければなりません。己を正し、同じ過ちを繰り返さないためにです。たびたび私たちは良い動機を弁護しようとするときですら、非常に不完全にしかできません。学ぶべき謙遜の教えが存在します。それはふさわしいものです。私たちに慎重になるべきことを思い起こさせるからです。私たちは眠りこけているかも知れません、次世代に戦いの精神を十二分に伝えていないかも知れません。私たちはさらに天主によりすがらなければならないでしょう。もっと忍耐を、剛毅を、希望を戦いにおいて持たなければなりません。それらすべては手を携えていきます。つまり剛毅、勇気、そして忍耐です。剛毅の徳には二つの行為があります。sustinere et aggredi. (堪え忍び、そして、迎え撃つ)です。私たちは苦しみ、耐え忍び、持ちこたえなければなりません。さらに、能動的に取りかかり、迎え撃(entreprendre, attaquer)たなければなりません。──aggrediとは、侵略する agresser ことではありません。それは能動的に迎え撃ち、取りかかることです。

 寛大さもまた剛毅の徳の一部です。そして忍耐。戦いにおいて、試練において、希望は忍耐を生じさせると聖パウロは言っています。今日、希望の徳に注意を払いましょう。私たちは信仰の欠如、愛徳の欠如によってだけでなく、希望の欠如によって失墜する可能性があるからです。すると私たちは悲観的もしくは敗北主義者になり、降伏の形を取ります。私たちがもはや希望しなくなると、全力を傾けず、私たちは征服されてしまいます。

 試練はまた、功徳、償いの手段でもあります。しばしばそれらはワクチンとなります。実際、おそらく私たちは今日、ちょうどインフルエンザに罹っていました。が、そのおかげで明日肺炎にならずに済むのです。そういうことだと私は思います。試練はたいてい別の戦いの準備です。私たちをもっと明快に、もっと断固としたものにならせるため、もっと用心深くさせるため、来たるべきことのために。先のことは誰にもわかりません。

 私はこのことを言いたかったのです。私たちが試練から実りを得ないなら、間違った道に迷い込むからです。私たちを正しい道に留めておくため、天主はこれらの試練を的確に送られるからです。そして、私たちが弱り、時に左に、右に、しばしば下の方へと少しずつ道をそれ、どこでそうなり始めたのかを理解させるため、天主はすべてのことを再調査させるのです。

 この危機において、非常によい光をもたらしてくれる教えの一つは、試練の目的です。過度と不足がどこにあるのかを的確に私たちに教えてくれます。時に過度と不足の双方が存在するからです。つまり、どこに混乱があるのかを理解することです。合理性の混乱のことを私は言っています。なによりも賢明であること。というのは、明らかにこの賢明さの課題は知性に対する課題であるからです。合理性と手段がどこで欠けていたのかを理解することです。時には擁護するべきものを擁護しようとして行き過ぎがあります。

 私たちの過度の激情を冷まし、危機を解決しようとして、我慢がきかず急ぎ過ぎたことを省みましょう。このことは、多くの方向へと行ってしまうかもしれません。ですから私たちはこれらのすべての側面で非常に注意深くあらねばなりません。この点において認識が低いならば正さなければなりません。これが教訓です。だからこそ天主はこの試練をお許しになりました。私たちがそうするなら、体全体はもっと強くなり、さらにもっと大きな戦いのために準備されて試練から抜け出るでしょう。

愛徳と真理とを対立させてはならない

 ですが、私たちに差し出される偽のジレンマ、状況のゆえに私たちを時に誘惑する偽の両刀論に、常に注意深くありましょう。そうです、それは私たちの状況の特有のものです。彼らは、私たちは真理に反するか、或いは愛徳に反対するか、又は、信仰に反するか或いはあわれみに反対するか、又は、慎重さに反するか或いは剛毅に反対するか、どちらかを選んで進まねばならないのだと言います。おお! いいえ、まったく違います! 私たちはそのすべてを保たなければなりません。なによりもまず、正しい道に留まらなければなりません。ですが、私たちは、どんなことでも自分たちの気質、性格によく合ったもの、自分たちにとって簡単なものを好みがちです。そしてたいていその他のすべての側面を無視するのです。

 私たちには規律、バランス感覚、基準が必要だと言う時、それは私たちがどこにおいても可もなく不可もないものにならなければならない、ということではありません。それは徳のことではないとよく知っています。道徳的美徳は、過度と不足のちょうど先端にあります。神学的徳にすら過度と不足があり得ます。人生、職務、行動、状況への適用においてです。徳自体に過度と不足があるのではなく、そのふさわしい対象の中にあるのです。ふさわしい対象は天主です。というのは、天主をお愛ししすぎるということはできないからです。ですが私たちは不完全ながらも、天主を非常に愛していると考えている間ずっと、天主を心からお愛しすることができます。私たちはこのことを、特に私たちの間で、なんと頻繁に理解することでしょうか!

 ですから、私たちには絶えず二重の危険があります。試練において、私たちは自分たちのため、自分たち以外の全ての人々のため、教訓を引き出さねばなりません。しかし私たちは人々について、彼らの将来に起こることについて、あまりに多くの計画をしてはなりません。天主の恩寵があるからです。私たちはすべて買い戻され、贖われ得るのです。

 またいくつもの失墜も存在します。私たちは危機が終わらない限り、そのことに結論を出すべきではありません。ある者は、試練において、少しばかり準備ができていないかも知れなくとも、最後には非常によい反応を見せるかもしれません。またある者は、最初にとても良い反応を返しても、悪くなってしまうかも知れません。

 信仰を、信仰告白だけを守っていればよいのではありません。まことの愛徳、愛情、慎重さ、剛毅、聖会への愛も必要です。私たちはカトリック信者です。私たちは完全なカトリック信者として留まろうとします。そのために、信仰を保つだけでは充分ではありません。

 結論を出します。私たちには三つの星、三つの光があると私は考えます。私たちの前を行く三つの光、その三つの光は、教義において、慎重さにおいて、カトリック精神において私たちを誤り導く危険を犯すことなしに導いてくださいます。この三名の人々、ピ枢機卿、聖ピオ十世教皇、そしてルフェーブル大司教様です。彼ら一人一人は完全に、その時代に順応しました。完全に教会の要求に順応しました、個々の異なった方法、異なった資質でもってだけでなく、非常に多くの似通った資質でもってです。その似通った資質は、特に今日、信仰のための戦いの中で必要とされています、このやり方において、私たちはピ枢機卿から聖ピオ十世教皇への、そしてルフェーブル大司教様への路線に沿うことができます。私たちがその路線に沿い続けるなら、従わねばならないそのために敷かれた道があるのです。その通りです。それが教義的水準であれ、信仰の水準であれ、聖性に満ちた人生の水準であれ、──聖性については、私たちがもっと考察し続けることが出来る別の話があります!──祈りの水準であれ、信仰告白の水準であれ、剛毅、慎重さの水準であれ、です。。

 この三名は模範となる方々です。私たちは従うべき模範として彼らを受け入れなければなりません。その道はいわば敷かれているのです。

 特に今日、ファチマの太陽の奇跡の記念日である十月十三日土曜日に、至聖なる童貞マリア様に乞い願いましょう。まことの信仰のうちに、信仰のためのまことの戦いのうちだけでなく、教会のまことの精神のうちに、忍耐の恩寵を私たちに与えてくださるようにと。恩寵に対して、天主に対して、毎日、私たちの日々と時代を聖なるものとするための要求に対して、私たちがもっと忠実になれるようにと。

カトリック信仰の、この偉大な英雄たちの後継者及び息子に、私たちをしてふさわしからしめる恩寵を聖母が与え給わんことを!


【今回の講話の特徴を生かしておくため、話し言葉のままにしてあります。】

注:
[1] フランス国王聖ルイの讃美、一八四八年八月二十七日主日のBlois大聖堂及び一八四八年八月二十七日主日のヴェルサイユ大聖堂におけるピ枢機卿による説教

[2] LangresのParisis司教、教会における神的権威に関する司牧的指導、一八四六年


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