アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! こちらフィリピンでは、今まで私たちと一緒に働いておられたフォルティン神父様がオーストラリアのタイノンというところに任命(学校の校長として)されました。オーストラリアでは新学期が2月から始まります。
今まで、マニラの学校の校長として働いておられ、フィリピンでは3月まで学年が続きます。そこで、私が校長職を引き受けることになりました。
さて、先日の主日にはレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のご報告を戴いておりますので、愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
1月11日(日)の御ミサの報告です。
11日日曜日 聖家族の祝日の御ミサでは、19人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!
新潟や、金沢から雪をかき分け(?)御ミサに与るために来阪された方々もいらっしゃいましたし、ひどい風邪や発熱、体調不良のなか無理をおして来られた方もいらっしゃいました。聖なる御ミサの御恵みとその意味や価値を知ればこそだと思います。
また、インフルエンザや色々な事情でどうしても来ることが出来なかった方々、このような愛する兄弟姉妹のためには御ミサの中で心を合わせてお祈りいたしました。
もっと多くの人々が本当の御ミサを知って天主様に立ち戻るように聖母マリア様のお取次ぎにより頼んでもっと祈らなければと思います。
聖家族の祝日でしたので、レネー神父様から「天主の愛の法と家族について」のお説教を頂きました。以下に掲載いたします。
聖ピオ10世会の日本では1月は「日本中の家庭のため、特に若いカトリックの家庭のため」と意向にあるようにカトリックの家庭内での天主への愛の教育の大切さがとてもよくわかる素晴らしいお説教でした。聖母マリア様と聖ヨゼフ様を両親の見本とし、イエズス様を子としての見本とする良きカトリックの家庭が日本にも多く出来る日が来ますように・・・!
いつもながら多忙なスケジュールの中、御ミサと真の信仰を待ち焦がれる小さな羊の群れのために来日してくださる聖ピオ十世会の神父様に心から感謝いたします。
優しい霊父様 の微笑み、天主様への愛へ私達を導いて下さる強い想いを感じて羊たちはとても幸福な時間を過ごしました。
2015年1月11日 聖家族の祝日の説教
レネー神父様 大阪にて
「天主は愛である」(一ヨハネ4章8節)。天主は愛について、私たちよりずっと多くをご存じです。天主の法は、まことの愛を妨げるどころか、まことの愛に必要な条件の一つです。天主の第一の法でありかつ基本の法は、愛の法です。「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一の最大のおきてである。第二のもこれと似ている。隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37―39節)。ルフェーブル大司教がよく指摘なさっていたことですが、物質的領域においてさえ、天主は愛の表象(シンボル)として万有引力の法則をお定めになったのです。このように天主は、自然のレベルの人間の生命が、家族の中で花開くべきであると秩序付けられたのです。家 族の中で、人間は天主の驚くべき法に従って、愛を学び訓練を受けるのです。このように、家族は人間社会の根幹なのです。
罪は天主の愛、まことの愛と相容れません。罪は、まことの愛を破壊することであり、家族の破壊、そして最後には人間社会の破壊に至るのです。これらの偉大な真理を思い起こすことは、現代の世界において大変重要です。現代の世界では、愛が非常に腐敗し続け、今日多くの人が愛を探し求めているのは、愛の腐敗、まことの愛の歪曲、あらゆる種類の性的倒錯以外の何ものでもありません。
いいえ!そうではありません。まことの愛とは、天主の法に従う愛にこそあるのです。
まことの愛は、まず第一に賜物です。「御父は御子を愛し、その手に万物をゆだねられた」(ヨハネ3章35節)。万物を御子にゆだねられる前に、御父は御子にご自身の尊厳をゆだねられました。ですから結果として、創られたすべてのものは、御父の手によるのと同様に、御子の手にもよるのです。そのため、私たちに対する天主の愛は、まず第一に賜物なのです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。このように、まことの愛に反するものは身勝手さ、自己中心以外にありません。私たちは自分自身の力で存在し ているのではないため、自分の力だけで幸せを見つけることはできません。私たちの存在すべてが天主から来ているため、幸せを得ることができるのは天主からだけであり、自分を天主にゆだねることによって得られるのです。
愛には二種類あります。まず与える愛です。たとえば、子どもたちに対して自分を与える母の愛です。もう一つは自分のものにする愛です。たとえば、私たちがチョコレートを愛したり、人々が金(ゴールド)を愛したりするときです。人々は金を愛しますが、与えるのではなく自分のものにするのです。
善き聖なる家族は、まことの愛を学ぶ学校です。家族全員が愛することを学びます。まず天主を愛し、互いに愛し合うことを学ぶのです。それは、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい方法で自分を与えることによってなのです。このように、家族は、男女が全生涯にわたって自分を互いに与え合い、私たちの主イエズス・キリストと教会という模範に従って、子どもたちに命を与えるという男女の契約によって成り立っています。
男と女によってつくられる家族でなくても、本当の家族になりうると主張することは、ばかげたことです。不自然な愛はすべて、天主によって創られた最も美しいものの倒錯にしかすぎないのです。人は自分を創るのではありません。天主は私たちに自分で変えることのできない性質を与えられました。男は女ではなく、女になることは決してできません。女は男ではなく、男になることは決してできません。男と女の結びつきだけが、天主と協力することによって子どもたちを生むのです。自然に反する結びつきは、基本的に子どもができず、不毛なものです。人間は忌まわしい医療手術で自分を破壊することができますが、自分をもう一つの性に変えることはできません。体の個々の細胞のDNAは、天主がそ れらをどのように創られたかを示していますから、人間は体の個々のDNAを変えることはできないのです。私たちは、現代世界のせいで道を誤ってしまったそんな哀れな霊魂たちのためにたくさん祈る必要があります。現代人の傲慢こそが、天主が創られたものを拒否し、自分を自分の意のままにしようと欲するのです。天主が創られた自分の性質を受け入れず、自分の意志を天主の聖なるご意志に合わせようとはしないのです。天主の定められた道を拒否することによって、天主からしか来ることのない、まことの喜びや平和を見つけることをできなくしてしまうのです。天主と共にある平和でないなら、平和を見つけることは決してないでしょう。「『悪者には平和がない』と、主は仰せられる」(イザヤ48 章22節)。しかし、こういう人々にも救いの道はあります。贖い主である私たちの主イエズス・キリストのもとへ来て、痛悔の心で、自分の罪を本当に悔い改め、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を得て生活を改めるならばです。
さて、家族にとって第一にして最も重要な善は子どもたちです。このことは聖家族に見られます。その最も偉大な善は、間違いなく私たちの主イエズス・キリストでした。善き子どもたちは、善き両親にとって喜びであり報いです。天主はしばしば、その子どもたちによって両親を祝福なさいます。幼きイエズスの聖テレジアの両親に対する報いは何と素晴らしいものでしょう。自分たちの娘が聖人になるという、それ以上の報いがあるでしょうか。子どもたちの徳を見るのは、両親にとって常に大きな喜びです。実際に大変な仕事ではありますが、その努力をする価値があるのです。父親が建築家で家を建てるなら、父親の仕事は子どもたちの霊魂を築き上げる仕事ほどには素晴らしいものではありません。なぜ なら、子どもたちの世話をするのは、父親と母親の二人がかりで全力で取り組まなければならないからです。私たちの主イエズス・キリストは絶対的に完全でしたから、お一人だけでも、ほかのすべて子どもたちを合わせた以上にお世話をする価値があったのです。ですから、聖ヨゼフと聖母にとって、ほかの子どもを望むことは不可能だったのです。さらに言えば、お二人は天主の驚くべき賜物、聖母の童貞性を守られたという賜物を大変尊重しておられました。ですから教会は、聖母はイエズス以外の子どもをお持ちにならなかったこと、聖ヨゼフとの間にも子どもはなかったことを常に教えてきたのです。
イエズスのような、そんな素晴らしい子どものいない普通の家族にとっては、多くの子どもを持つことは善いことであり、正常なことです。これは、禁じられた木の実を食べることを禁じる前に、天主がアダムとエバに与えられた第一の戒めです。「天主は人間を祝福して仰せられた、『生めよ、増えよ、地に満てよ』」(創世記1章28節)。さて、両親に二人の子どもしかいないなら、増えることはありません。1は、1を掛けても増えません。増えることのうち最も小さなものは、2を掛けることです。ですから、二人である両親は四人の子どもを持つべきですが、しばしばもっと多く子どもがいます。皆さんの家の庭にリンゴの木があるなら、そしてその木が一つか二つしか実をつけないなら、皆さんは、 その木は良い木ではないとみなすでしょう。天主が木を祝福してくださり、大きく成長して多くの実がなることを願うでしょう。でも、天主が与えてくださる多くの子どもを受け入れようとはしないのではありませんか? 子どもを得る力は天主の賜物です。人間にはそれを破壊する権利はありません。天主が皆さんに与えようと望まれる子どもを、すべて受け入れてください。子どもたちは、皆さんが年老いたとき、報いとなるでしょう。
善き家族の第二の善は、互いに忠実であることそのものであり、夫と妻がお互いに与える相互の支え合いです。私の祖父母の結婚50周年を、私たち家族でお祝いしたときのことです。(二人は67周年まで迎えることができました。)そのとき、祖父は私たちに言いました。「結婚50周年にもなると、その喜びは結婚当初と同じとは言えない。でも、これまでの年月を振り返り、50年間忠実だったことを思えば、その喜びは決して劣るものではない」。実に素晴らしい知恵です。忠実であること自体が大きな慰めの源です。それは日々の積み重ねがないと得られませんが、その努力をする価値があるものなのです。忠実であることは結婚においては大変重要ですから、その忠実であるための準備として、結婚 前に純潔であることも重要になるのです。それは、将来の結婚相手のためにとっておくものであり、結婚後に忠実であることと同じなのです。若い男女が、結婚した日にお互いに与え合うことのできる最上の贈り物は純潔なのであり、全生涯にわたり忠実であることの素晴らしい保証となるのです。私たちの主イエズス・キリストのほまれのため、聖ヨゼフと聖母の模範に従って、身も心も純潔をもって結婚の準備を行うこれら若いカップルに対して、天主が特別な方法で祝福されることは明らかです。
カトリックの家族にとって第三の善は、婚姻の秘蹟という善です。この秘蹟によって、カトリック信者の男女が結ばれることは、キリストと教会が結ばれることを表しています。また、この最も崇高で聖なる結びつきから、自分たちの義務を果たすための恩寵、つまり生み増えるため、また信仰のための特別な恩寵を受けるのです。
これら三つの善が、イエズス、マリア、ヨゼフの聖家族においては、崇高な形で見られます。また、若い男性、あるいは若い女性がより高い生活へと呼ばれることも、時に(人々が通常思っているより多く)見られます。つまりこの霊的に高次の生活においては、一つの家族、すなわち、より高次の家族である超自然的な家族、たとえば修道会のような家族の一員になり、もっと大きな霊的な豊穣さや実りを得るのです。人生における試練があるとき、特に年老いて試練があるとき、そこでは非常に美しい相互の支え合いが見られます。また、キリストとキリストの花嫁として生きる教会が一致する、まさにそのレベルにおいて生きるのです。そこではまた、深い信仰が必要となります。これは、さらに高いレベルの貞潔の徳なのです。心を完全にキリストにお捧げすることで、ほかの愛は持たなくなり、その結果さらに素晴らしい霊的豊かさを得るのです。結婚は善いものですが、奉献された生活はさらに善いものです。
これは、天主の恩寵によって可能になります。善にして聖なる家族を持つことは可能であり、いや、それどころか喜びであるのです。私たちの主イエズス・キリストに奉献された生活を送ることは可能であり、かつ超自然的な喜びであるのです。善きカトリックの家族をつくるための重要な条件は、(またさらに、奉献された生活を生きるための条件でもありますが、)祈りです。家族には祈りがなければなりません。家族一緒の祈りが必要なのです。善き家族の祈りを実現する鍵は規則的に行うことです。祈りの長さよりもずっと、規則的に行うこと鍵なのです。時々ロザリオ一環を祈るよりも、毎日一連あるいは二連祈る方が良いのです。特に子どもたちが小さいときは、長い祈りは難しいでしょうが、毎日規 則的に行う祈りはそうではないでしょう。ですから両親は、自分たちのロザリオの祈りを容易に済ませることができます。一緒に祈る家族には天主の祝福が保証されます。一緒に祈る家族は、ずっと一緒に暮らせるのです。
特に、聖家族への強い信心が必要です。そこには家族すべての完璧な模範があるからです。聖ヨゼフは父親の模範であり、童貞聖マリアは母親そして配偶者の模範であり、天主の御子は子どもたちすべての最も素晴らしい模範なのです。
罪は愛を破壊すること、家族を破壊することです。両親は、家族の中で罪の機会がないように気をつけるべきです。悪い書物がないように、悪い絵や写真がないように、悪い言葉遣いがないように、慎み深くあるように、などです。両親は、子どもたちの霊魂から雑草を取り除いて、あらゆる徳が花開く美しい庭なるようにすべきです。
天主の御子が、童貞聖マリアと聖ヨゼフの御取り次ぎによって、皆さんそれぞれの家族が、聖なる家族となる祝福を与えてくださいますように。
アーメン。
Sermon in Seoul/Osaka 11th January 2015 – Feast of the Holy Family
Reverend Father François Laisney SSPX
“God is charity” (1 Jn. 4:8). He knows about love, much more than we do. His Law, far from preventing true love, is a condition for true love. The first and fundamental Law of God is a law of love: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with thy whole mind. This is the greatest and the first commandment. And the second is like to this: Thou shalt love thy neighbour as thyself” (Mt. 22:37-39). Archbishop Lefebvre used to point out that even in the material realm God’s set the Law of universal attraction as an image of the law of love! Thus God has so ordered human life at the natural level that it should blossom in families, where love is learnt and exercise according to God’s marvellous laws. Thus families are the building blocks of human society.
Sin is incompatible with the love of God, with true love. Sin is the destruction of true love, and it leads to the destruction of family and ultimately to the destruction of human society. It is very important to remember these great truths in our modern world, where love has been so corrupted, that many today search for love in what is really nothing else but the corruption of love, distortion of true love, all kinds of sexual perversions. No! True love is only in love according to God’s Law!
True love is first of all a gift: “The Father loveth the Son: and he hath given all things into his hand” (Jn. 3:35). Before giving al things in His hands, the Father has given to His Son His own divinity! And as a consequence, everything created is necessary in the hands of the Son as they are in the hands of the Father. And God’s love for us is first of all a gift: “God so loved the world, as to give his only begotten Son; that whosoever believeth in him, may not perish, but may have life everlasting” (Jn. 3:16). “Greater love than this no man hath, that a man lay down his life for his friends” (Jn. 15:13). Thus nothing is more opposed to true love than selfishness: since we ARE not by ourselves, we cannot find happiness by ourselves, by enclosing ourselves on ourselves. Since our whole being is from God, it is only from God that we can get our happiness, by giving ourselves to Him.
There are two kinds of love: a giving love, such as a mother’s love for her children, giving of herself to them, and a taking love such as when we love chocolate, or when people love gold: they love gold not to give it, but to take it for self.
A good and holy family is a school of true love, when every member of the family learns to love, first to love God and to love one another, by the giving of self in a manner worthy of our Lord Jesus Christ. Thus a family is founded by a contract between a man and a woman giving themselves to the other for the whole life, in such a way as to give life to children, according to the pattern of our Lord Jesus Christ and His church.
It is an absurdity to claim that there could be a true family that would not be founded by one man and one woman: all those un-natural loves are nothing but the perversion of the most beautiful thing made by God. Man did not make himself: God gave us a nature that we cannot change; a man is not a woman and can never become one; a woman is not a man and can never become one: only the union of a man and a woman can cooperate with God to give birth to children; any anti-natural union is fundamentally struck with sterility, bareness. Humans can destroy themselves by abominable medical operation, but they can never change themselves in the other: the DNA of each cell of their body is there to claim how God has made them, and they can never change the DNA of each cell of their body! We need to pray much for such poor souls, led astray by our modern world. It is modern man’s pride that rejects what God has made, and wants to make himself according to his own will, rather that receiving his nature as God has made it, and conforming his will to the Holy Will of God. By rejecting God’s way, they make it impossible for them to find true joy and peace which can only come from God. When one is not at peace with God, one will never find peace: “There is no peace to the wicked, saith the Lord” (Is. 48:22). Yet there is remedy for them if they come to the Redeemer, our Lord Jesus Christ, with a contrite heart, truly repenting for their sins and ready to change their lives with the grace of our Lord Jesus Christ.
Now the first and most important good of a family is the children: one sees this in the Holy Family, where the greatest good was indubitably our Lord Jesus Christ. Good children are the joy and the reward of good parents! God often blesses the parents in their children: what a marvellous reward for the parents of St Thérèse of the Child Jesus, than to make a saint of their daughter! It is always a great joy for parents to see the virtues of their children. It is hard work indeed, but well worth the effort! If the father is an architect and build houses, his work is not as great as the work of building up the soul of the children, for which work both father and mother must work hard. Our Lord Jesus Christ being absolutely perfect, and worth alone more than all others together, it was not possible for St Joseph and Our Lady to desire any other children; moreover, they had much too much respect for God’s marvellous gift of having preserved the Virginity of our Lady for destroying that gift! So the Church always taught that Our Lady did not have any other child, neither did St Joseph.
For normal families, who do not have such a great child, it is good and normal to have many children. This is the very first commandment that God gave to Adam and Even, even before forbidding them to eat of the forbidden tree. “And God blessed them, saying: Increase and multiply, and fill the earth” (Gen. 1:28). Now for two parents, if they have only two children, that makes no multiplication: one does not multiply by 1; the smallest multiplication is by two, hence two parents should have four children, but often more. If you have an apple tree in your garden, and it brings for to you only one or two apple, you reckon it is not a good tree; you want that God bless your trees and harvest with great growth and multiplication, yet you do not want to accept all the many children God wants to give you? Fecundity is a gift of God, which man does not have the right to destroy. Welcome all the children which God wants to give you! They will be your reward in old age.
The second good of a good family is fidelity itself, and the mutual support which husband and wife give to one another. When we celebrated my grant-parents’ fiftieth anniversary of marriage (they reached 67), my grand-father said to us: “when you reach fifty years of marriage, the joys are not the same as at the beginning of marriage; but if you can look back at all those years, and see fifty years of fidelity, the joy is not less!” Great wisdom indeed! Fidelity itself is the source of great consolations; one must earn it day by day, but it is worth all the efforts. And because fidelity is so important in marriage, so virginity is important before the marriage, as a preparation for that fidelity; virginity before the marriage is to reserve oneself for one’s future spouse: it is the same as fidelity after the marriage. The best gift a young man and a young woman can give to one another on their marriage date is their virginity, marvellous guarantee of fidelity for the whole life. It is evident that God will bless in a very special way those young couples who, for the honour of our Lord Jesus Christ, following the example of St Joseph and our Lady, prepare their marriage in purity and virginity.
The third good of a Catholic family is the good of the sacrament of marriage: by this sacrament, the union of a Catholic man and woman signifies the union of Christ and His Church, and receives from this most sublime and holy union very special graces to fulfil their duties, both to grow and multiply and to be faithful.
One sees these three goods in a sublime way in the Holy Family Jesus, Mary and Joseph. One sees also there that sometime (more often than people usually think) a young man or a young woman are called to a higher life: yet there also one enters into a family, a higher family, supernatural family such as a religious order or society, and acquires greater spiritual fecundity and fruitfulness; one finds there a very beautiful mutual support in the trials of life and even in old age. And one lives at the level of the very union of Christ and his Church, living as brides of Christ. There also, there is need to be faithful. This is even a higher virtue of chastity: when one so gives one’s heart totally so totally to Christ that one will not have any other love, yet one acquires thereby a greater spiritual fecundity. Marriage is good; consecrated life is better.
By the grace of God this is possible. It is possible – nay enjoyable – to have a good and holy family; it is possible, and supernaturally enjoyable, to live a life consecrated to our Lord Jesus Christ. The great condition to achieve a good catholic family, (and even more to live a consecrated life), is PRAYER: there must be prayer in the family; there is need of family prayer. The key to a good family prayer is regularity, even more regularity than length. It is better to say just one or two decades every single day than the whole rosary from time to time. Especially when children are small, a long family prayer may be difficult, but a regular one is not. And the parents can easily finish their rosary on their own. A family that prays together is guaranteed to be blessed by God. A family that prays together stays together.
In particular there should be a great devotion towards the Holy Family, where each member of the family finds a most perfect example: St Joseph model of fathers; the Blessed Virgin Mary model of mothers and spouse, and the Divine Child a most excellent model for all children.
Sin is the destruction of love, and the destruction of families. Parents should be careful that there should be no occasion of sin in the family: no evil book, no evil picture, no bad language, no immodesty, etc. Parents should weed the soul of their children to make of it a beautiful garden where all kinds of virtue will blossom.
May the Divine Child through the intercession of the Blessed Virgin Mary and St Joseph grant to all of you these blessings of a holy family.
Amen!
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! こちらフィリピンでは、今まで私たちと一緒に働いておられたフォルティン神父様がオーストラリアのタイノンというところに任命(学校の校長として)されました。オーストラリアでは新学期が2月から始まります。
今まで、マニラの学校の校長として働いておられ、フィリピンでは3月まで学年が続きます。そこで、私が校長職を引き受けることになりました。
さて、先日の主日にはレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のご報告を戴いておりますので、愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
1月11日(日)の御ミサの報告です。
11日日曜日 聖家族の祝日の御ミサでは、19人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!
新潟や、金沢から雪をかき分け(?)御ミサに与るために来阪された方々もいらっしゃいましたし、ひどい風邪や発熱、体調不良のなか無理をおして来られた方もいらっしゃいました。聖なる御ミサの御恵みとその意味や価値を知ればこそだと思います。
また、インフルエンザや色々な事情でどうしても来ることが出来なかった方々、このような愛する兄弟姉妹のためには御ミサの中で心を合わせてお祈りいたしました。
もっと多くの人々が本当の御ミサを知って天主様に立ち戻るように聖母マリア様のお取次ぎにより頼んでもっと祈らなければと思います。
聖家族の祝日でしたので、レネー神父様から「天主の愛の法と家族について」のお説教を頂きました。以下に掲載いたします。
聖ピオ10世会の日本では1月は「日本中の家庭のため、特に若いカトリックの家庭のため」と意向にあるようにカトリックの家庭内での天主への愛の教育の大切さがとてもよくわかる素晴らしいお説教でした。聖母マリア様と聖ヨゼフ様を両親の見本とし、イエズス様を子としての見本とする良きカトリックの家庭が日本にも多く出来る日が来ますように・・・!
いつもながら多忙なスケジュールの中、御ミサと真の信仰を待ち焦がれる小さな羊の群れのために来日してくださる聖ピオ十世会の神父様に心から感謝いたします。
優しい霊父様 の微笑み、天主様への愛へ私達を導いて下さる強い想いを感じて羊たちはとても幸福な時間を過ごしました。
レネー神父様 大阪にて
「天主は愛である」(一ヨハネ4章8節)。天主は愛について、私たちよりずっと多くをご存じです。天主の法は、まことの愛を妨げるどころか、まことの愛に必要な条件の一つです。天主の第一の法でありかつ基本の法は、愛の法です。「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一の最大のおきてである。第二のもこれと似ている。隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37―39節)。ルフェーブル大司教がよく指摘なさっていたことですが、物質的領域においてさえ、天主は愛の表象(シンボル)として万有引力の法則をお定めになったのです。このように天主は、自然のレベルの人間の生命が、家族の中で花開くべきであると秩序付けられたのです。家 族の中で、人間は天主の驚くべき法に従って、愛を学び訓練を受けるのです。このように、家族は人間社会の根幹なのです。
罪は天主の愛、まことの愛と相容れません。罪は、まことの愛を破壊することであり、家族の破壊、そして最後には人間社会の破壊に至るのです。これらの偉大な真理を思い起こすことは、現代の世界において大変重要です。現代の世界では、愛が非常に腐敗し続け、今日多くの人が愛を探し求めているのは、愛の腐敗、まことの愛の歪曲、あらゆる種類の性的倒錯以外の何ものでもありません。
いいえ!そうではありません。まことの愛とは、天主の法に従う愛にこそあるのです。
まことの愛は、まず第一に賜物です。「御父は御子を愛し、その手に万物をゆだねられた」(ヨハネ3章35節)。万物を御子にゆだねられる前に、御父は御子にご自身の尊厳をゆだねられました。ですから結果として、創られたすべてのものは、御父の手によるのと同様に、御子の手にもよるのです。そのため、私たちに対する天主の愛は、まず第一に賜物なのです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。このように、まことの愛に反するものは身勝手さ、自己中心以外にありません。私たちは自分自身の力で存在し ているのではないため、自分の力だけで幸せを見つけることはできません。私たちの存在すべてが天主から来ているため、幸せを得ることができるのは天主からだけであり、自分を天主にゆだねることによって得られるのです。
愛には二種類あります。まず与える愛です。たとえば、子どもたちに対して自分を与える母の愛です。もう一つは自分のものにする愛です。たとえば、私たちがチョコレートを愛したり、人々が金(ゴールド)を愛したりするときです。人々は金を愛しますが、与えるのではなく自分のものにするのです。
善き聖なる家族は、まことの愛を学ぶ学校です。家族全員が愛することを学びます。まず天主を愛し、互いに愛し合うことを学ぶのです。それは、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい方法で自分を与えることによってなのです。このように、家族は、男女が全生涯にわたって自分を互いに与え合い、私たちの主イエズス・キリストと教会という模範に従って、子どもたちに命を与えるという男女の契約によって成り立っています。
男と女によってつくられる家族でなくても、本当の家族になりうると主張することは、ばかげたことです。不自然な愛はすべて、天主によって創られた最も美しいものの倒錯にしかすぎないのです。人は自分を創るのではありません。天主は私たちに自分で変えることのできない性質を与えられました。男は女ではなく、女になることは決してできません。女は男ではなく、男になることは決してできません。男と女の結びつきだけが、天主と協力することによって子どもたちを生むのです。自然に反する結びつきは、基本的に子どもができず、不毛なものです。人間は忌まわしい医療手術で自分を破壊することができますが、自分をもう一つの性に変えることはできません。体の個々の細胞のDNAは、天主がそ れらをどのように創られたかを示していますから、人間は体の個々のDNAを変えることはできないのです。私たちは、現代世界のせいで道を誤ってしまったそんな哀れな霊魂たちのためにたくさん祈る必要があります。現代人の傲慢こそが、天主が創られたものを拒否し、自分を自分の意のままにしようと欲するのです。天主が創られた自分の性質を受け入れず、自分の意志を天主の聖なるご意志に合わせようとはしないのです。天主の定められた道を拒否することによって、天主からしか来ることのない、まことの喜びや平和を見つけることをできなくしてしまうのです。天主と共にある平和でないなら、平和を見つけることは決してないでしょう。「『悪者には平和がない』と、主は仰せられる」(イザヤ48 章22節)。しかし、こういう人々にも救いの道はあります。贖い主である私たちの主イエズス・キリストのもとへ来て、痛悔の心で、自分の罪を本当に悔い改め、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を得て生活を改めるならばです。
さて、家族にとって第一にして最も重要な善は子どもたちです。このことは聖家族に見られます。その最も偉大な善は、間違いなく私たちの主イエズス・キリストでした。善き子どもたちは、善き両親にとって喜びであり報いです。天主はしばしば、その子どもたちによって両親を祝福なさいます。幼きイエズスの聖テレジアの両親に対する報いは何と素晴らしいものでしょう。自分たちの娘が聖人になるという、それ以上の報いがあるでしょうか。子どもたちの徳を見るのは、両親にとって常に大きな喜びです。実際に大変な仕事ではありますが、その努力をする価値があるのです。父親が建築家で家を建てるなら、父親の仕事は子どもたちの霊魂を築き上げる仕事ほどには素晴らしいものではありません。なぜ なら、子どもたちの世話をするのは、父親と母親の二人がかりで全力で取り組まなければならないからです。私たちの主イエズス・キリストは絶対的に完全でしたから、お一人だけでも、ほかのすべて子どもたちを合わせた以上にお世話をする価値があったのです。ですから、聖ヨゼフと聖母にとって、ほかの子どもを望むことは不可能だったのです。さらに言えば、お二人は天主の驚くべき賜物、聖母の童貞性を守られたという賜物を大変尊重しておられました。ですから教会は、聖母はイエズス以外の子どもをお持ちにならなかったこと、聖ヨゼフとの間にも子どもはなかったことを常に教えてきたのです。
イエズスのような、そんな素晴らしい子どものいない普通の家族にとっては、多くの子どもを持つことは善いことであり、正常なことです。これは、禁じられた木の実を食べることを禁じる前に、天主がアダムとエバに与えられた第一の戒めです。「天主は人間を祝福して仰せられた、『生めよ、増えよ、地に満てよ』」(創世記1章28節)。さて、両親に二人の子どもしかいないなら、増えることはありません。1は、1を掛けても増えません。増えることのうち最も小さなものは、2を掛けることです。ですから、二人である両親は四人の子どもを持つべきですが、しばしばもっと多く子どもがいます。皆さんの家の庭にリンゴの木があるなら、そしてその木が一つか二つしか実をつけないなら、皆さんは、 その木は良い木ではないとみなすでしょう。天主が木を祝福してくださり、大きく成長して多くの実がなることを願うでしょう。でも、天主が与えてくださる多くの子どもを受け入れようとはしないのではありませんか? 子どもを得る力は天主の賜物です。人間にはそれを破壊する権利はありません。天主が皆さんに与えようと望まれる子どもを、すべて受け入れてください。子どもたちは、皆さんが年老いたとき、報いとなるでしょう。
善き家族の第二の善は、互いに忠実であることそのものであり、夫と妻がお互いに与える相互の支え合いです。私の祖父母の結婚50周年を、私たち家族でお祝いしたときのことです。(二人は67周年まで迎えることができました。)そのとき、祖父は私たちに言いました。「結婚50周年にもなると、その喜びは結婚当初と同じとは言えない。でも、これまでの年月を振り返り、50年間忠実だったことを思えば、その喜びは決して劣るものではない」。実に素晴らしい知恵です。忠実であること自体が大きな慰めの源です。それは日々の積み重ねがないと得られませんが、その努力をする価値があるものなのです。忠実であることは結婚においては大変重要ですから、その忠実であるための準備として、結婚 前に純潔であることも重要になるのです。それは、将来の結婚相手のためにとっておくものであり、結婚後に忠実であることと同じなのです。若い男女が、結婚した日にお互いに与え合うことのできる最上の贈り物は純潔なのであり、全生涯にわたり忠実であることの素晴らしい保証となるのです。私たちの主イエズス・キリストのほまれのため、聖ヨゼフと聖母の模範に従って、身も心も純潔をもって結婚の準備を行うこれら若いカップルに対して、天主が特別な方法で祝福されることは明らかです。
カトリックの家族にとって第三の善は、婚姻の秘蹟という善です。この秘蹟によって、カトリック信者の男女が結ばれることは、キリストと教会が結ばれることを表しています。また、この最も崇高で聖なる結びつきから、自分たちの義務を果たすための恩寵、つまり生み増えるため、また信仰のための特別な恩寵を受けるのです。
これら三つの善が、イエズス、マリア、ヨゼフの聖家族においては、崇高な形で見られます。また、若い男性、あるいは若い女性がより高い生活へと呼ばれることも、時に(人々が通常思っているより多く)見られます。つまりこの霊的に高次の生活においては、一つの家族、すなわち、より高次の家族である超自然的な家族、たとえば修道会のような家族の一員になり、もっと大きな霊的な豊穣さや実りを得るのです。人生における試練があるとき、特に年老いて試練があるとき、そこでは非常に美しい相互の支え合いが見られます。また、キリストとキリストの花嫁として生きる教会が一致する、まさにそのレベルにおいて生きるのです。そこではまた、深い信仰が必要となります。これは、さらに高いレベルの貞潔の徳なのです。心を完全にキリストにお捧げすることで、ほかの愛は持たなくなり、その結果さらに素晴らしい霊的豊かさを得るのです。結婚は善いものですが、奉献された生活はさらに善いものです。
これは、天主の恩寵によって可能になります。善にして聖なる家族を持つことは可能であり、いや、それどころか喜びであるのです。私たちの主イエズス・キリストに奉献された生活を送ることは可能であり、かつ超自然的な喜びであるのです。善きカトリックの家族をつくるための重要な条件は、(またさらに、奉献された生活を生きるための条件でもありますが、)祈りです。家族には祈りがなければなりません。家族一緒の祈りが必要なのです。善き家族の祈りを実現する鍵は規則的に行うことです。祈りの長さよりもずっと、規則的に行うこと鍵なのです。時々ロザリオ一環を祈るよりも、毎日一連あるいは二連祈る方が良いのです。特に子どもたちが小さいときは、長い祈りは難しいでしょうが、毎日規 則的に行う祈りはそうではないでしょう。ですから両親は、自分たちのロザリオの祈りを容易に済ませることができます。一緒に祈る家族には天主の祝福が保証されます。一緒に祈る家族は、ずっと一緒に暮らせるのです。
特に、聖家族への強い信心が必要です。そこには家族すべての完璧な模範があるからです。聖ヨゼフは父親の模範であり、童貞聖マリアは母親そして配偶者の模範であり、天主の御子は子どもたちすべての最も素晴らしい模範なのです。
罪は愛を破壊すること、家族を破壊することです。両親は、家族の中で罪の機会がないように気をつけるべきです。悪い書物がないように、悪い絵や写真がないように、悪い言葉遣いがないように、慎み深くあるように、などです。両親は、子どもたちの霊魂から雑草を取り除いて、あらゆる徳が花開く美しい庭なるようにすべきです。
天主の御子が、童貞聖マリアと聖ヨゼフの御取り次ぎによって、皆さんそれぞれの家族が、聖なる家族となる祝福を与えてくださいますように。
アーメン。
Sermon in Seoul/Osaka 11th January 2015 – Feast of the Holy Family
Reverend Father François Laisney SSPX
“God is charity” (1 Jn. 4:8). He knows about love, much more than we do. His Law, far from preventing true love, is a condition for true love. The first and fundamental Law of God is a law of love: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with thy whole mind. This is the greatest and the first commandment. And the second is like to this: Thou shalt love thy neighbour as thyself” (Mt. 22:37-39). Archbishop Lefebvre used to point out that even in the material realm God’s set the Law of universal attraction as an image of the law of love! Thus God has so ordered human life at the natural level that it should blossom in families, where love is learnt and exercise according to God’s marvellous laws. Thus families are the building blocks of human society.
Sin is incompatible with the love of God, with true love. Sin is the destruction of true love, and it leads to the destruction of family and ultimately to the destruction of human society. It is very important to remember these great truths in our modern world, where love has been so corrupted, that many today search for love in what is really nothing else but the corruption of love, distortion of true love, all kinds of sexual perversions. No! True love is only in love according to God’s Law!
True love is first of all a gift: “The Father loveth the Son: and he hath given all things into his hand” (Jn. 3:35). Before giving al things in His hands, the Father has given to His Son His own divinity! And as a consequence, everything created is necessary in the hands of the Son as they are in the hands of the Father. And God’s love for us is first of all a gift: “God so loved the world, as to give his only begotten Son; that whosoever believeth in him, may not perish, but may have life everlasting” (Jn. 3:16). “Greater love than this no man hath, that a man lay down his life for his friends” (Jn. 15:13). Thus nothing is more opposed to true love than selfishness: since we ARE not by ourselves, we cannot find happiness by ourselves, by enclosing ourselves on ourselves. Since our whole being is from God, it is only from God that we can get our happiness, by giving ourselves to Him.
There are two kinds of love: a giving love, such as a mother’s love for her children, giving of herself to them, and a taking love such as when we love chocolate, or when people love gold: they love gold not to give it, but to take it for self.
A good and holy family is a school of true love, when every member of the family learns to love, first to love God and to love one another, by the giving of self in a manner worthy of our Lord Jesus Christ. Thus a family is founded by a contract between a man and a woman giving themselves to the other for the whole life, in such a way as to give life to children, according to the pattern of our Lord Jesus Christ and His church.
It is an absurdity to claim that there could be a true family that would not be founded by one man and one woman: all those un-natural loves are nothing but the perversion of the most beautiful thing made by God. Man did not make himself: God gave us a nature that we cannot change; a man is not a woman and can never become one; a woman is not a man and can never become one: only the union of a man and a woman can cooperate with God to give birth to children; any anti-natural union is fundamentally struck with sterility, bareness. Humans can destroy themselves by abominable medical operation, but they can never change themselves in the other: the DNA of each cell of their body is there to claim how God has made them, and they can never change the DNA of each cell of their body! We need to pray much for such poor souls, led astray by our modern world. It is modern man’s pride that rejects what God has made, and wants to make himself according to his own will, rather that receiving his nature as God has made it, and conforming his will to the Holy Will of God. By rejecting God’s way, they make it impossible for them to find true joy and peace which can only come from God. When one is not at peace with God, one will never find peace: “There is no peace to the wicked, saith the Lord” (Is. 48:22). Yet there is remedy for them if they come to the Redeemer, our Lord Jesus Christ, with a contrite heart, truly repenting for their sins and ready to change their lives with the grace of our Lord Jesus Christ.
Now the first and most important good of a family is the children: one sees this in the Holy Family, where the greatest good was indubitably our Lord Jesus Christ. Good children are the joy and the reward of good parents! God often blesses the parents in their children: what a marvellous reward for the parents of St Thérèse of the Child Jesus, than to make a saint of their daughter! It is always a great joy for parents to see the virtues of their children. It is hard work indeed, but well worth the effort! If the father is an architect and build houses, his work is not as great as the work of building up the soul of the children, for which work both father and mother must work hard. Our Lord Jesus Christ being absolutely perfect, and worth alone more than all others together, it was not possible for St Joseph and Our Lady to desire any other children; moreover, they had much too much respect for God’s marvellous gift of having preserved the Virginity of our Lady for destroying that gift! So the Church always taught that Our Lady did not have any other child, neither did St Joseph.
For normal families, who do not have such a great child, it is good and normal to have many children. This is the very first commandment that God gave to Adam and Even, even before forbidding them to eat of the forbidden tree. “And God blessed them, saying: Increase and multiply, and fill the earth” (Gen. 1:28). Now for two parents, if they have only two children, that makes no multiplication: one does not multiply by 1; the smallest multiplication is by two, hence two parents should have four children, but often more. If you have an apple tree in your garden, and it brings for to you only one or two apple, you reckon it is not a good tree; you want that God bless your trees and harvest with great growth and multiplication, yet you do not want to accept all the many children God wants to give you? Fecundity is a gift of God, which man does not have the right to destroy. Welcome all the children which God wants to give you! They will be your reward in old age.
The second good of a good family is fidelity itself, and the mutual support which husband and wife give to one another. When we celebrated my grant-parents’ fiftieth anniversary of marriage (they reached 67), my grand-father said to us: “when you reach fifty years of marriage, the joys are not the same as at the beginning of marriage; but if you can look back at all those years, and see fifty years of fidelity, the joy is not less!” Great wisdom indeed! Fidelity itself is the source of great consolations; one must earn it day by day, but it is worth all the efforts. And because fidelity is so important in marriage, so virginity is important before the marriage, as a preparation for that fidelity; virginity before the marriage is to reserve oneself for one’s future spouse: it is the same as fidelity after the marriage. The best gift a young man and a young woman can give to one another on their marriage date is their virginity, marvellous guarantee of fidelity for the whole life. It is evident that God will bless in a very special way those young couples who, for the honour of our Lord Jesus Christ, following the example of St Joseph and our Lady, prepare their marriage in purity and virginity.
The third good of a Catholic family is the good of the sacrament of marriage: by this sacrament, the union of a Catholic man and woman signifies the union of Christ and His Church, and receives from this most sublime and holy union very special graces to fulfil their duties, both to grow and multiply and to be faithful.
One sees these three goods in a sublime way in the Holy Family Jesus, Mary and Joseph. One sees also there that sometime (more often than people usually think) a young man or a young woman are called to a higher life: yet there also one enters into a family, a higher family, supernatural family such as a religious order or society, and acquires greater spiritual fecundity and fruitfulness; one finds there a very beautiful mutual support in the trials of life and even in old age. And one lives at the level of the very union of Christ and his Church, living as brides of Christ. There also, there is need to be faithful. This is even a higher virtue of chastity: when one so gives one’s heart totally so totally to Christ that one will not have any other love, yet one acquires thereby a greater spiritual fecundity. Marriage is good; consecrated life is better.
By the grace of God this is possible. It is possible – nay enjoyable – to have a good and holy family; it is possible, and supernaturally enjoyable, to live a life consecrated to our Lord Jesus Christ. The great condition to achieve a good catholic family, (and even more to live a consecrated life), is PRAYER: there must be prayer in the family; there is need of family prayer. The key to a good family prayer is regularity, even more regularity than length. It is better to say just one or two decades every single day than the whole rosary from time to time. Especially when children are small, a long family prayer may be difficult, but a regular one is not. And the parents can easily finish their rosary on their own. A family that prays together is guaranteed to be blessed by God. A family that prays together stays together.
In particular there should be a great devotion towards the Holy Family, where each member of the family finds a most perfect example: St Joseph model of fathers; the Blessed Virgin Mary model of mothers and spouse, and the Divine Child a most excellent model for all children.
Sin is the destruction of love, and the destruction of families. Parents should be careful that there should be no occasion of sin in the family: no evil book, no evil picture, no bad language, no immodesty, etc. Parents should weed the soul of their children to make of it a beautiful garden where all kinds of virtue will blossom.
May the Divine Child through the intercession of the Blessed Virgin Mary and St Joseph grant to all of you these blessings of a holy family.
Amen!