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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 レネー神父様による霊的講話 2015年9月13日 「マリアの聖なる御名」について

2015年09月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

  レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサの前に霊的講話をして下さいました「マリアの聖なる御名」についてです。元来は、2015年9月12日の聖母マリアの聖名の祝日になされたお説教でしたが、霊的講話として、大阪でお話し下さいました。

  聖母マリア様の7つの悲しみの主日を記念して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様による霊的講話
2015年9月13日の主日 ミサの前
「マリアの聖なる御名」について




 親愛なる兄弟の皆さん、

 「乙女の名はマリアであった」(ルカ1章27節)。福音書のこの簡単な言葉は、美と恩寵に満ちていて私たちに有益です。私はまず、教会博士であるクレルヴォーの修道院長、聖ベルナルドによる福音書のこの言葉についての美しい説教を皆さんにご紹介します。

 「乙女の名はマリアであった、と言われている。この名について少し言わせてほしい。訳せば、この名は海の星を意味しているが、乙女にして母なる御方に大変適しており、星になぞらえられるのは大変ふさわしいことである。星は光を放っても、自身が朽ちることはないが、それと同じように、この乙女は自身の童貞性を害することなく御子を生んだからである。星が放つ光が星の明るさを減じることはないが、それと同じように、御子を生んだことが乙女の童貞性を減じることはないのである。マリアは、ヤコブから出ることになっていた高貴な星(荒野の書[民数記]24章17節)であり、その輝きは今でも全世界を照らし、その光は天においてきらめくだけでなく地獄にまで達し、地の中まで照らす。さらに体よりも精神を一層照らして熱し、善を保護し、悪を恐れさせる。私は言うが、この御方は明るく光り輝く星であり、数々の功徳に輝き、模範によってまばゆく光り、必然的に、この大いなる広い海の上を見下ろしているのである」

 「堅固な地を歩んでいるのではなく、この世の大海の強風と嵐のために行ったり来たりと揺り動かされていることを知っている汝らなら誰であれ、嵐に押しつぶされたくなければ、この星の明るい輝きをしっかり見ておかねばならない。誘惑の暴風が迫っても、艱難の岩にぶつかるときも、その星を見てマリアを呼ぶのだ。高慢、野心、誹謗、嫉妬の波にさらわれそうになれば、その星を見てマリアを呼ぶのだ。怒り、貪欲、肉の誘惑が汝の霊魂という小舟を打つとき、マリアを見よ。罪の大きさが汝を不安にし、良心の醜さが汝を狼狽させ、裁きの恐怖が汝を愕然とさせ、落胆の深み、絶望の淵に引き込まれそうになるならば、マリアを思え」

 「危険なとき、困難に直面したとき、どうしてよいか分からないとき、マリアを思い、マリアを呼ぶのだ。汝の口から、汝の心からマリアが消えぬようにせよ。マリアの祈りによる助けが欠けることのないように、マリアの会話の模範から離れないように(ふさわしい会話を)せよ。マリアに従うならば、道を誤ることはない。マリアに祈るならば、決して絶望することはない。マリアを思うならば、道に迷うことはない。マリアが支え給うならば、汝が滅びることはない。マリアが導き給うならば、汝は疲れることがない。マリアが助け給うならば、汝は最後に安全にふるさと(天国)へ至る。こうして汝は、『乙女の名はマリアであった』と言われているのを、自ら証しするのである」

 なぜマリア様のこの力が私たちを助けてくれるのでしょうか、なぜ私たちはマリア様に依り頼むべきなのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストが私たちを罪から救うために来られ、さらに「高慢はあらゆる罪の始め」(集会書10章15節)であるからです。ですから、天主に帰る道はどうしても、謙遜の道になるのです。このため、私たちの主イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)のです。しかし、高慢な人々の中には、「私には聖人の助けは必要ない。直接キリストのところへ行くことができる。キリストはまことの天主であるのだから、救うのに十分な力を持っておられる。さらにキリストは私たちの面倒を見てくださる良き羊飼いなのだから、私には誰の助けも必要ない」と言う人々がいます。さて、そのような態度は私たちの主イエズス・キリストを喜ばせはしません。なぜなら、そこには大きな高慢があるからです。祝された私たちの主は言われました。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。幼子になるためには、私たちには母が必要です。ですから、主はすべての母の中で最高の方である御母をお与えになりました。「主は[主が愛された]弟子に『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19章27節)。この福音記者は、「主はヨハネに言われた」とは言わず、「主は[主が愛された]弟子に言われた」と言います。なぜなら、イエズスが言われたことは、ただ聖ヨハネにだけでなく、すべての愛された弟子たちに向けられたものだったからです。ですから、「愛された弟子」になりたいのなら、その人は「聖母を自分のもとに引き取」らなければなりませんし、聖母を自分の母としなければなりません。そうすれば、聖母は私たちを「幼子」とされ、それがなければ救われない謙遜を教えてくださるでしょう。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 聖母は他の者よりも高く上げられました。なぜなら、(イエズスの次に)他の誰よりも謙遜だったからです。私たちの主イエズス・キリストが福音書でたたえられたときにはいつでも、聖母は隠れておられました。主が拒絶され、十字架につけられたとき、聖母が来られ、最初に十字架の下におられます。それによって、聖母は私たちの主イエズス・キリストの罪と死に対する勝利に結びつけられ、特に死に対する勝利には被昇天によって結びつけられたのです。聖母には大きな力、霊魂をイエズスのもとに導いて、それにより救いにまで導く力が与えられていました。聖母は、霊魂たちに(天主の)すべてのあわれみの恩寵を分配する「あわれみの御母」なのです。

 傷ついた子どもたちが癒やしと保護を求めて母親のもとに駆け寄るように、罪びとである私たちは皆、聖母のもとに駆け寄りましょう。そうすれば聖母は、私たちの霊魂を清め、どのように祈るのか、どのように罪を嘆くのか、どのように私たちの主イエズス・キリストを信頼するのか、どのようにしてまことに主に忠実になれるのかを、その模範をもって教えてくださいます。マリア・マグダレナはそれ以上で、聖母のそばを離れることがありませんでした。この罪びとは無垢な方に、つまりマリア・マグダレナは童貞の中の童貞であるマリア様に引き寄せられました。ですから、十字架の下に一緒にいたのです。マリア・マグダレナをご自分に引き寄せ、十字架の下まで従わせることによって、童貞聖マリアはマリア・マグダレナの救いを保証したのです。

 童貞聖マリアへの信心は、私たちの時代には特に必要です。映画やビデオ、インターネットの発達と、その結果として避妊から自然に反する悪徳にいたるまでの悪徳の増大を原因として不純が増大している時代、さらには不道徳な人々が「中絶の権利」といったこれらの悪徳の「権利」を主張し、悪徳と徳の「平等」を主張している時代だからです。

 人々は、天使と悪魔の違いを、聖人と堕落者の違いを、聖霊の御業と肉の業の違いを、どうして識別することができないのでしょうか? 盲目がそれほど広がってきている訳では決してありません。ですから、私たちには、すべての人々に徳の美しさを思い起こさせる童貞の中の童貞による優しい光が必要です。その光の前では、悪徳の醜さは恥によって打たれます。童貞聖マリアへの優しい愛とまことの信心を持つ信者は、目の前に常に聖母の模範を置き、聖母を攻撃するあらゆるものを避けるのです。大罪を避けるだけではなく、罪に導くであろうものさえも避けるのです。慎みを実践し、衣服の慎みだけでなく、視線や会話、ふるまいでも慎み深くするのです。慎みについて言えば、慎みのない衣服を持ってはいけません。買ってもいけません。それを買わなければ、持つことはありません。持たなければ、着ることは決してありません。慎みのない衣服を買うとき、すでに慎みのないという罪を犯しているのではありませんか? 最初から罪に抵抗してください。ずっと簡単で、ずっと効果的です。

 聖母への信心は、戒めを守るだけでなく、福音の助言まで守るのに大変力を与えてくれます。主を愛すれば愛するほど、私たちは完全を求めるようになり、福音の助言、つまり清貧、貞潔、従順を実行したくなります。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。「処女たちのことについて、私は主の命令を受けなかった。けれども、主のあわれみにより信頼に値する者として私の助言を述べる」(一コリント7章25節)、そしてパウロは主のために処女を捧げてそのままにとどまるよう助言します。「結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」(一コリント7章34節)。従順の助言は、私たちの主イエズス・キリストの模範の中の模範によって与えられています。主は「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)たのですから。結婚の絆のうちに生きている信者でも、福音の助言を尊重する必要があります。これは世の堕落に対して彼らを守るものとなるでしょう。聖母は、この福音の助言の美しい模範です。童貞の中の童貞であって、ベツレヘムで貧しさの中にあり、お告げから十字架に至るまで天主のみ言葉に従順だったのです。今日、司祭職と修道生活への良きかつ聖なる召命が緊急に必要とされています。第二バチカン公会議によって引き起こされた教会の危機は、多くの修道団体に大変な損害を与えました。修道者の数は大きく減ってしまっており、多くの熱心な召命でキリストの神秘体を再び満たしていく必要があります。彼らは、奉献された童貞たちについて聖シプリアヌスが述べたように、「キリストの群れの最も栄光ある一部分」なのです。

 マリア様の聖なる御名に対する大きな愛、童貞マリアに対する大きな愛を持っている人がいるなら、それは聖ヨゼフです。聖ヨゼフほどマリア様の近くにいた人はいませんでした。聖ヨゼフが愛したほどマリア様を愛した愛はありません。素晴らしく純粋な愛で、大変深いものでした。また、聖ヨゼフほどマリア様から学んだ人はいませんでした。沈黙の中で祈り、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、忍耐をもって貧困や(宿からの)拒絶、エジプトでの避難生活に耐えることを学びました。イエズスを神殿に見いだしたとき、はっきりと謙遜を学びました。聖家族の父でしたが、あえて主を叱ることはなく、主がなぜ(神殿でいなくなるという)そんなことをしたのか聞くことさえしませんでした。聖ヨゼフは話すのをマリア様に任せました。イエズスを神殿で見失ったとき深く悲しむという驚くべき方法で、天主を、私たちの主イエズス・キリストを愛することを学びました。聖ヨゼフと同じようなマリア様への信心を私たちのために取り成してくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。それにより、聖父と聖子と聖霊と共に永遠に天のふるさとにいることが許されるまで、私たちが、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして私たちの主イエズス・キリストに祈り、主を愛し、主に仕えることができますように。アーメン。


2015年9月5日初土 聖ピオ十世会 聖伝のミサ SSPX Japan Traditional Latin Mass 

2015年09月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖母マリア様の7つの御悲しみの祝日です。マリア様の祝日を記念して、今月の初土曜日(2015年9月5日)の聖母の汚れ無き御心の随意ミサの時にしたお説教をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年9月5日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は、2015年9月5日、9月の初土曜日の聖母の汚れ無き御心の随意ミサを捧げています。今日のこのミサの後に、いつものように公教要理があります。今日は、公教要理で、「原罪について」、原罪の人類の罪は何だったのか。その一体どういう、何を人類は望んだのか。そして人類の罪は、その原罪の罪の重さの度合いはどうなのか。男と女とどちらの、アダムとエヴァとどちらの方が悪かったのか、などを、聖トマス・アクィナスの分析に従って、考察してみたいと思います。

 10月は、10月2日と3日、最初の初金、初土です。そして10月の主日のレネー神父様のミサはですね、司祭の黙想会の為に、11日の代わりに25日に変更になりました。どうぞご注意ください。11月、12月はいつもの通りですが、12月のクリスマスの予定が少し変更になりました。25日の夕方の予定だったのが、24日のクリスマス・イヴから、24日、25日、26日と大阪でミサがあるようになりました。24日のクリスマス・イヴ、そして真夜中のミサ、暁のミサ、午前のミサ、そして26日の土曜日と、ミサがあります。どうぞいらして下さい。

“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日いつもの通り、初土曜のミサで入祭誦では、「天主の聖寵の玉座に、信頼をもって私たちは近付こう。」と、歌います。天主の聖寵の玉座、つまり、その玉座に近付く一番の方法は、マリア様です。そのマリア様は、マリア様はどうして、私たちの為にこれほど、私たちが御恵みを受ける為に、最も良い手段なのであるか、という事を黙想する事に致します。

 まず第1に、天主様が、マリア様を通して、マリア様の仲介を通して、私たちに御恵みを与えようとした、という事を黙想します。何故マリア様が仲介者となる事ができるのか。次に、マリア様がなさったその功徳とは一体どのようなものか。そして最後に、私たちは結論をとることにします。

 天主様は、イエズス様を、マリア様を通して、私たちに下さる事をお望みになりました。イエズス・キリストが御托身して人間となられて、私たちの間に住み給う、という事を、マリア様を通して、そしてマリア様を通してのみ、与えようとされました。この御托身というのは、全ての御恵みのつくり主であり、全ての御恵みの元である、根源であるイエズス様を、私たちに与える事ですから、つまりマリア様は、「全ての御恵みの根源を受けた」という事を意味します。

 天主様は、昔も今も、そして永遠に変わる事のない方です。そして天主様は、その御望みによってもちろん、マリア様を通さずに御恵みを与える事ができたにもかかわらず、マリア様を通して、そしてマリア様の仲介を通して、マリア様の愛徳を通して、そしてマリア様のその御手を通して、全ての御恵みを私たちに与える事をお望みになりました。天主様がこれをお望みになったので、私たちはそれに従うしかありません。そしてマリア様も、この天主様のお望みの通り、ご自分の手を通して全ての御恵みを与える為に協力しよう、と、望んでおられます。

 一体何故、こういう事があるのでしょうか?イエズス様だけが唯一の仲介者ではないのでしょうか?

 はい、これは私たちがキリスト教の核心に至ると、私たちは、「マリア様がこのように仲介者となった。」と聞いても、全く驚くには至りません。

 何故かというと、「キリスト者の召命」というのは、「イエズス・キリストの贖いの業に参与する」という事にあります。私たち洗礼を受けた者は、「イエズス・キリストと共に、唯一の救い主イエズス・キリストと共に、1つに、1つになり、そしてイエズス・キリストの贖いの業に、救いの業に参加する、参与する」という特別の召命を受けました、召し出しを受けました。

 もちろん私たちは、この世の救いの為にイエズス様と一致して初めて、この救いに協力する事ができます。イエズス様なしには、全く何もできません。しかし私たちは、まず私たち自身の霊魂、そして出来る限り私たちの隣人の霊魂の救霊の為に、この人生が与えられています。この今生きている、この地上での短い人生の間が与えられています。そしてそうする事によって私たちは、「第2のキリスト」とならなければなりません。

 「キリスト者」という事は、「キリスト信者」という事は、「私たちに於いて生きるのは、私たちではなく、キリストが私たちに於いて生きる」という事であって、私たちは霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストと共に、贖い主、救い主、第2の救い主、贖い主となる、という特別の高貴な召し出しを受けたのです。

 そしてこれは、このような高い召し出しを受けた、という事は、これは天主様の偉大な無限のあわれみを燦然と輝かす源となるものです。

 もちろん、イエズス様だけが、完全な罪の償いを果たし、完全な贖いをなし、最も完全な救い主です。しかしイエズス様が、私たちもこの救いの業に参与する事をお望みになったので、私たちもその協力者として呼ばれているのです。

 イエズス様だけが、正義によって完璧に罪の負債を支払いしました。そしてそのイエズス様だけが、完全な正義によって、無限の功徳によって、罪の贖いを請求する事ができます。私たちは参与者として、祈りによって、或いは熱心な善業によって、そして生贄を捧げる事によって、私たちの小さな生贄を、イエズス様と共に捧げる事によって、その救いに参与するのです。第2のキリストとなる事ができます。

 これが、キリスト教信者の召命であって、召し出しであって、ここに私たちの人生の核心があります、天主を愛し、隣人を自分の身の如く愛する、核心があります。救霊、天主のより大きな栄光の為の救霊の、という、救霊の御業に参与する、という栄誉です。

 このキリスト者の召し出しの核心が理解できれば、マリア様が特別な召し出しを受けられた、という事を聞いても、驚くには値しません。何故かというとマリア様は、その私たちの救霊の業の贖いに、不変なやり方で参与されたからです。イエズス・キリストを、私たち全てに与える為に、マリア様を必ず通す事を、天主が望まれたからです。

 もしも私たちが第2のキリストとして、小さな救い主として、自分の霊魂と、他の隣人の霊魂の救いの為に協力するとしたら、私たちのその祈りの範囲は、限りがあります。しかしマリア様は、救いの根源であるイエズス様を、マリア様を通して私たちに与えられた方ですから、その贖いの協力の業の範囲は、全てに不変に、時間と場所を超えて、行き渡るものとなります。

 ですから、聖ピオ10世教皇様は、「マリア様とイエズス様の仲介の範囲は同じだけれども、本質的な違いはここにある。」と、説明しています。「イエズス・キリスト様は、決定的な正義によって、全く統合関係によって、罪の贖いを無限に果たした。condignoによって、功徳を受けた。イエズス様の果たした贖いの業は、condignoだ、統合関係にある。全て払い切った。マリア様は、お祈りによって、そして懇願によって、そのマリア様の受けたものは、それにふさわしいものであった。conguoの功徳を受けた。」と、言っています。

 そしてこれだけではありません、第2の点は、マリア様が、マリア様はでは私たちに為に何をなさったか、という事を考えなければなりません。

 確かにマリア様は、イエズス様を受ける事に、「はい。」と、言いました。その「はい。」と、言ったこの論理的な結論は、つまり十字架の苦しみの道の始まりでした。

 黙想会の時に、或いは聖母の被昇天の時に、シュテーリン神父様と一緒に黙想しました。マリア様の奇跡的な妊娠による、御受胎による聖ヨゼフとの関係、或いは、ベトレヘムに行って、救い主の生まれる場所が無かった事、或いはエジプトへの避難、全くお金も道も言葉も分からない外国での避難、逃亡の生活、そして救い主を王が狙っている、というその恐怖、或いはナザレトでの30年間の貧しい生活、貧困の生活、そしてイエズス様を神殿で失ったその悲しみ、或いはイエズス様が公生活に出て、マリア様を離れてしまう時のその生活の苦しさ、そして何よりもまた、イエズス様の御受難を、その目の当たりにしてご覧にならなければならなかったそのご心痛、シメオンの預言が成就して、その霊魂は剣で刺し貫かれました。

 フィリピンでは、水牛という、カラバオというのがいて、とても大人しい動物なのです。それで、それはでもすごく力があって、人間が何十人でも動けないような泥にはまった車でも、そのカラバオは、ヒョイヒョイっと出してしまったりとか。

 アジアのフィリピンにいる水牛は非常に大人しいのですけれども、アメリカにいるバッファローという水牛は非常に獰猛なのだそうです。そしてある時ですね、そういう話を神父様が私にしてくれて、そしてそのアメリカのバッファローは、ライオンが来ても、そのライオンをやっつけると、ライオンが空に上がってしまう、それでライオンが何匹いても、それに勝ってしまうのだそうです。草しか食べないような水牛ですけれども、力がものすごいあるのだそうです。そしてその水牛の群れがある時に、ライオンの群れに襲われて、メスの水牛が子供の水牛と共にライオンに襲われてて、で、ライオンは子供を食べようと、獰猛にこう唸っているのです。するとお母さんの水牛が、この子供を守ろうと、必死にこう守ります。

 動物でも、そうやって子供を守ろうとする本能があって、そして自分がどうなっても、子供さえ、子供だけは失われたくない、と一生懸命、ライオンにさえも立ち向かって戦おうとします、が、マリア様は、ご自分の御子イエズス様を、厳しい十字架、重い十字架を担いで歩まれた時、或いは十字架に釘付けにされた時、或いは非難轟々の屈辱の声を聞いた時、全身傷だらけの御姿を見た時に、罪のない御子イエズス・キリストをご覧になった時に、どれほどご心痛でいっぱいだったでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様の罪の贖いの業に参与する為に、全てを捧げられました。

 イエズス様も、御自分の痛みよりも、マリア様のご心痛の方が心配だったに違いありません。自分のお母さんにこれほどの苦しみを与える事ほど、大きな悲しみと苦しみはなかったはずです。そしてマリア様も、そのような御子の、イエズス様のご心痛をよく知っていたが為に、十字架の下でしっかりと佇み、立って、イエズス様を御捧げしていました。

 マリア様は司祭ではありません。何故ならば御聖体を聖変化する事ができないからです。カトリック司祭の本質はここにあります。しかし、マリア様は、イエズス様をこの地上に最初にもたらして、ミサのつくり主である創定者であるイエズス・キリストを、全ての御恵みの根源であるイエズス・キリストを、そして司祭の最高の司祭を、そして十字架の生贄を捧げるその生贄であり、大司祭であるイエズス・キリストを、天主の子羊を、最初にこの地上にもたらした方です。最高司祭の母であります。カトリックの司祭は、天からイエズス様を、聖変化によってこの地上に現存させますが、マリア様はその根源を、この地上に現存させました。司祭は祈って、ミサを立てて、この教区民の為に、或いは全世界のカトリック教会の為に、天主に懇願します。そして天主からの祝福を皆に分配します。マリア様も、そのはるかに優れた方法によって、天主にイエズス様に祈り、そしてイエズス様からの祝福を私たちに与えます、御恵みを与えます。司祭は、イエズス・キリストを聖変化して聖父に捧げます。マリア様も、十字架の下で聖父に御子を、極めて崇高なやり方によって、ご自分の犠牲に合わせて御捧げいたしました。司祭は信徒に、司祭の手のみ、信徒に、跪いた信徒の舌の上に聖体拝領をさせます。マリア様も、マリア様に祈る全ての人々に、無限の功徳によって、イエズス様の無限の功徳から、私たちに全ての御恵みを分配します。

 確かにマリア様は司祭ではありませんが、しかしそれよりも崇高なやり方によって、司祭的な仕事を、私たちの為にされておられます。

 では、私たちは今日、どのような決心を立てたら良いでしょうか。
この入祭誦にあるように、信頼をもって、恵みの、聖寵の玉座であるマリア様の汚れ無き御心に近付く事に致しましょう。マリア様はいつでもどんな時でも、私たちに地上の御恵みを全て分配して下さいます、私たちの為に執り成して下さいます。聖イグナチオがちょうど、私たちにこうするのが良い、と言ったのと同じです。マリア様の所に行くと、マリア様は私たちを連れて、マリア様は私たちと一緒に、イエズス様の元に行きます。そしてイエズス様は、マリア様と一緒に来た私たちを見て、「あぁ、そうかそうか。」と言って、3人で、イエズス様とマリア様と私たちで聖父の元に行きます。それを、イエズス様マリア様と共に来た私たちを見て、聖父はどうして拒否する事ができるでしょうか。

 ポルトガルのある神学者によると、「十字架の上に付けられた時に、右に良い盗賊、左には痛悔しなかった盗賊がたけれども、実は、イエズス様はその2人の盗賊の間にいたけれども、イエズス様とマリア様の間に、この良き盗賊がいた。マリア様がいたから、この盗賊は回心の御恵みを得たのだ。」と、ある神学者は説明しています。もちろんマリア様は、この遠くにいた盗賊の為にも、回心の祈りをしたに違いありませんが、しかしこれは非常に象徴的な事ではないでしょうか。もしもマリア様が、マリア様の近くに行けば、必ずマリア様は私たちの為に、回心の救霊の恵みを勝ち取って下さる、という事を象徴的に表しているようです。

 聖フランシスコ・ザヴェリオも言っていました、「もしもマリア様の、十字架の下にマリア様がいる、という事を説明し忘れると、彼らは回心しない。」と。「しかし、マリア様がいる、という事を言うと、宣教地によって皆回心する。」と。

 では私たちも、聖母の汚れ無き御心に、聖寵の玉座に信頼をもって近付く事に致しましょう。そして第2に、ミサの色んな所を見ると、必ずマリア様の名前が入っています。聖伝のミサに於いては必ずマリア様の名前が、色んな所に散りばめられています。マリア様と共に、御ミサに与り続ける事に致しましょう。

 “Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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