Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

愛の聖心を見よ。イエズスの聖心へ愛は、自分だけに留まってならない。

2015年11月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

 フランシスコさん、すごいですね!
 モーゼについての質問に正しくお答えくださいました。
 モイゼの父親の名前はアムラム、母親の名前はヨケベトです!

 次の質問は、死者の月に因んで、モーゼはどこで亡くなり、何歳だったでしょうか。また、モーゼはどこで葬られたのでしょうか。どうぞコメント欄に書き込んでくださいね。

 来年のゴールデンウイークには、聖ピオ十世会日本では秋田巡礼を行います。来年は、巡礼10周年記念で、長崎と秋田とに行くことを計画しております。

 詳しくは次をクリックして下さいね。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


 さて、11月6日初金曜日、大阪で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

2015年11月6日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ


小野田神父 説教




聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年11月6日、11月の初金曜日です。今日から、来年毎月レネー神父様の御訪問を含めると3回ミサが増えて、いつものパターンの金・土・日・月のパターンが2回に増える、という事に感謝を込めて、御聖体降福式をミサの直後、初金から始める事に致します。今日から始めます、どうぞ、ミサの直後、御聖体の前でロザリオを1環唱えるように、聖体降福式に与って下さい。

特に今回から、感謝のみならず、日本から聖なる召命がたくさん出ますように、司祭が常駐しますように、教会がたくさん建ちますように、多くのミサが日本中で捧げられますように、毎日捧げられますように、そのお恵みを乞い求めて、御聖体降福式を御捧げいたしましょう。

来年は、特別の御恵みで、毎月2回のミサのみならず、ネリ神父様の御訪問や、ティシェ・ド・マルレ司教様の御訪問、堅振式、聖母黙想会、長崎と秋田の巡礼、その他、まだ私たちの知らない特別の御恵みがたくさん待っていますので、それに感謝を込めて、御聖体降福式を捧げましょう。


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の初金曜日ですから、イエズス様の聖心に燃える愛の火を、私たちも受け取る事に致しましょう。このイエズス様の燃える愛は、マルガリタ・マリア・アラコックに対する色々なメッセージも私たちに知らされています、「この人類の為に燃える、愛の聖心を見よ。」と。この私たちは、その聖心の愛のあまりにも大きなものを見て、私たちの心も愛に燃え始めています、イエズス様に賛美と感謝を捧げようとしています。

聖人たちによると、イエズス様の聖心に対する愛は、自分の心だけに留まってはいけません。

ちょうど小さなタバコの火から、森の大火事になる事があるように、私たちの心にあるイエズス様に対する愛の火は、これはメラメラと燃えて、多くの人々に伝わっていかなければなりません。ピオ11世教皇様は、「そのように、他の人たちに愛徳が伝わらなければ、私たちが『キリスト者』というには、まだ半分の弧を書いただけだ、まだ円ではない。まだ半分で円にはなっていない。弧にしか過ぎない。」と、言っています。

ですから今日は、その事を少し黙想して、それに引き換え私たちは一体どうであるかを振り返って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様の聖心に燃える火は、私たちの救霊と、多くの人々の救霊を望んだ愛の火でした。イエズス様は、私たちと、私たちの兄弟姉妹たちを、全人類を愛するが為に、御自分の命さえも惜しまず、血潮を全て流されて、苦痛と屈辱と嘲りを耐え忍び、御自分を全て与え尽くして、私たちの救霊を望まれたその愛でした。

そのような極みの無い愛を目前にして、もしもその愛が、多くの人々から軽んじられ、イエズス様の聖名がバカにされ、或いは、イエズス様の御血が無益に流されている、というのを見て、もしもそれを見つつも、あたかも、「関係ないよ、知ったこっちゃない。」といった、そのような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に対する完全な愛だ、と言う事ができるでしょうか?或いは、私たちがイエズス様に対する、激しい燃えるような、愛に燃えている、と言う事ができるでしょうか?

イエズス様が隣人の為に命を捧げて、「友の為に命を捧げるほどよりも大きな愛は無い。」と、言いながら全生涯をかけた救霊の事業、それを全く知らずに、無知のまま、イエズス様の事を知らずに、イエズス様の事を誤解して、罪を重ねて、残念ながら洗礼の恵みも受けずに、誰からも教えられずに、或いはもう地獄に落ちつつあるような人々を見て、私たちは、「あぁ、俺の知った事じゃないよ。」というような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に教えられた隣人愛を、これを完成、全うする事になるでしょうか。

イエズス様は私たちに、「私はお前たちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合いなさい。」と、イエズス様が愛したように隣人を愛せ、という掟に、私たちは適っている、と言う事ができるでしょうか。隣人を本当に愛している、と言う事ができるでしょうか。それとも、そのようなイエズス様に対するあまりにも無知がある、或いはイエズス様の事をこの隣人は知らないでいる、何とかしてあげたい、何とか救ってあげたい、何とか、何とかできないか。その地獄に落ちないように、苦しまないように、何か間違いを犯さないように、何とかしたい、と、私たちが苦しみ悩むという事こそ、隣人愛に適う態度ではないでしょうか。

そうすると、私たちに於いて、「自分の救霊だけを考えれば良いんだ。」「自分のお祈りだけをすれば良いんだ。」のではなく、「あぁ、私たちは、私の救霊はもちろん、隣人の救霊をも、隣人の聖化の為にも、奮発して愛徳を行わなければならない。」と、私たちはますます愛の火がメラメラと高まらなければなりません。

先月、10月に黙想した幼きイエズスの聖テレジアは、まさにこの事を実践していました。毎日毎日、小さな幼い時から、自己放棄、自己犠牲をいつも捧げてきました。自分の霊魂の救霊のみならず、隣人の救霊の為に。13歳の頃、主日の、日付は私たちに教えられていないのですけれども、「ある主日のミサの後に、使っていたミサ典書の所から、いつも見慣れていた、十字架に磔られたイエズス様の御影がちょっとだけ出ていたのです。ちらっと見ると、イエズス様の御手が釘付けにされて、血が滴り落ちている御手が見えたのです。ミサの後にハッと見ると、いつも見慣れた変哲もないその御手、イエズス様の十字架の御血ですが、このタラリタラリと、私たちの救霊の為に流されている御血が、多くの人々にとって無駄に流されている、誰もこれを利用しようとしない、イエズス様の苦しみは全く無となっている。何故かというと、多くの人が、イエズス様の事を全く無視している。救霊など、自分の救霊など関係ないと考えている。イエズス様などと関係ない生活をしている。イエズス様の御血があたかも地面に無駄に流されているように、その時に感じた、理解できた。その時から、イエズス様の御血が無駄にならないように、それをかき集めて、それを聖父に捧げる事にした。」と、自分の伝記に書いています。

「イエズス様が、『私は渇く。』と、十字架の上で言ったその言葉が、『霊魂が欲しい、霊魂の救霊を望んでいる。霊魂が私の元に来るように。渇いている。でも霊魂たちは私から遠ざかっている。』というイエズス様の渇くような愛の声を聞いた。」と、伝記に書いています。

そこで、イエズスの聖テレジアは、「そのような霊魂の救霊に渇望する、渇いているイエズス様を何とか癒してあげたい。何とかその霊魂を、そのイエズス様の方に救うように、イエズス様に差し上げたい。」と思う、救霊に対する熱烈な渇きが、聖テレジアにも伝わってきました。イエズスの聖テレジアはこう言います、「この世でする事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、イエズス様の為に霊魂を救って差し上げる事だ。」と。

聖テレジアは、聖書の詩編、『主の目にとって、1000年は1日のよう。』という言葉をとって、「私たちの人生は1日のようだ。あっという間に過ぎてしまう1日のようだ。この1日にできる事は、しなければならない事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、救霊の為に尽くす事、隣人の救霊の為に尽くす事だ。イエズス様が愛されるように、霊魂を救う、霊魂が永遠にイエズス様をお愛しする事ができるように、助けてあげる事だ。そのまま放ったらかしておかない事だ。」と、言っています。

幼きイエズスの聖テレジアによれば、「私たちの救霊、隣人愛もやはり、イエズス様に対する愛から発して、イエズス様の愛にと導かれるように、イエズス様を愛する事ができるようにと、愛へと向かっています。」

有名な、プリュス神父様というイエズス会の神父様の本をつい最近読んでいたら、「『キリスト教信者』という事と、『隣人の救霊に無関心である』という事は全く、矛盾している。」とありました。「『キリスト教信者』という事は、『キリスト者』という事は、イエズス・キリストの神秘体の一部となって、イエズス・キリストの命を生きる者であるから、イエズス様がなさったように私たちも救霊の事業に、霊魂の救いの事業に参与しなければならない、祈りと、犠牲と、また私たちの生活を以って、救霊事業に参加するように、イエズス様と一致している者だ。だから『キリスト者』という事はつまり、『隣人の救いの為に働く者』である。小さな救世主となる事だ。共同共贖者となる事だ。マリア様の道具となる事だ。」と。

では、これに引き換え、「私たちは今まで、何と隣人の救霊に、」いえ、私は皆さんの中に時々、「神父様、私はいつも、このこれを、この不思議のメダイを配っているのです。」或いは、聖伝のミサに、いつもお友達を連れてくるような方々、或いは、いつもこう誘ってやっているような方々を見ているので、「私たち」というか、「私は、何と今まで、イエズス様の救霊の願いをその渇きを癒して差し上げるにほど遠かった事でしょうか。イエズス様の御恵みを受け、イエズス様の御子となる、天主の子供となる恵みを受けて、イエズス様の弟子となる特別の恵みを受けて、イエズス様の御体を私たちが拝領する様なほどの御恵みを受けていながら、イエズス様と同じ望みを分かつ事ができなかった。隣人の救霊を望む為に力を尽くす、という事に神経を使わなかった。どれほど何と、イエズス様の聖心から遠かった事でしょうか。」「私は、『イエズス様を王として頂いている』と言いながら、本当に私の生活はイエズス様を王としたでしょうか。イエズス様が望んでいる事だけを、王の望んでいる事だけをしようとしたでしょうか。それとも自分のやりたい事を、王の望みよりも優先した事はなかったでしょうか。」

マリア様は、イエズス様の望みだけを、完璧に100%、汚れ無く、生きておられました。それにもかかわらず、私の生活は、天主様の100%の生活だったでしょうか。イエズス様は私たちに全てを与えて、救霊の為に全てをしてくださったにもかかわらず、私たちは自分の救霊と、隣人の救霊の為に、どれほど100%の事をしたでしょうか。或いはせっかく頂いた御恵みを、頂きながらも知りながらも、イエズス様に対して罪を犯したり、或いは逆らったり、御旨の通りに、「御旨はこうだ」と分かりながらも、それにすぐに、「はい。」と、言わなかった事が、どれほど多かった事でしょうか。

では今日は、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか。4つ、最初の2つは非常に有名な、幼きイエズスの聖テレジアの言葉からいきます。

1つはお祈りです。私たちは、私たちの救霊と、隣人の救霊の為に、イエズス様の聖心に従ってお祈りを致しましょう、多くのお祈りを致しましょう。どうぞ、御聖体拝領をこの意向の為になさって下さい。ミサに与って下さい。御聖体降福式に与って下さい。来年はミサが増えます、ですからそのミサにできるだけ与って下さい。ロザリオもたくさん唱えて下さい、お祈りをいつも唱えて下さい。いつもイエズス様の現存の中で、祈りの中で生活するように致しましょう。もしも、イエズス様の聖心を悲しませるような言葉や、或いは街を通る時に、この前被昇天でシュテーリン神父様が仰って下さったように、マリア様にお祈りをして、どうぞ、「このバスに乗っているこの霊魂たちが、」或いは「この街で通っているこの霊魂たちが回心しますように。」と、射祷を唱える事に致しましょう。

第2は、生贄、犠牲です。幼きイエズスの聖テレジアによれば、「祈りと犠牲こそが、教会にとって一番、愛の込められた祈りと犠牲ほど、教会にとって役に立つものはない。これこそが役に立つものである。」と言います。十字架なしに、血を流す事なしに、私たちの罪の贖いは有り得ませんでした。犠牲なしに、苦しみなしに、お恵みは有り得ないのです。ですから私たちも、日々、毎日送られる十字架を、犠牲を、わたしたちの日常の義務を、イエズス様への愛を込めて御捧げいたしましょう。ファチマで天使はこう言いました、子供達に、「いつも犠牲と祈を捧げなさい。犠牲を捧げる時にはこう言いながら、射祷を唱えながら犠牲を捧げなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、公教会の為、教皇様の為に、これを御捧げします。』と。」ですから、私たちもすすんで、イエズス様を愛する為に、霊魂の救いの為に、隣人の為に、罪人の回心の為にお捧げいたしましょう。

第3は、私たちの良き生活を通して。確かに私たちは、みそぼらしい、弱い、不完全なしもべで、役に立たないしもべですけれども、私たちの努力と、私たちのできる限りの力を込めて、できる限りを尽くして、なるべくイエズス様の聖心に適う、より少なく、聖心を悲しませる事のない生活を送る事によって、良き模範となる事によって、イエズス様の聖心と、隣人の救霊の為にする事に致しましょう。どうぞ、食事の時に十字架の印を切るとか、或いは何か友達から、「あぁ、あなたはカトリックの信者さんですか?」と言われた時に、どうぞ恥ずかしがらず、「はい、そうです。」と仰って下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っています。」或いは、友達に悪い場所に誘われた時に、「あぁ、すみません。私はこういう所には行きません。」と仰って下さい。そういういかがわしい所や、或いは罪の機会となるような場所には近寄らない、誘われたとしても、近寄らないようになさって下さい。良い模範を示す事によって、救霊の為にお祈り致しましょう。

最後に、良い言葉を以って、イエズス様は仰いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」と。「もしも信じて洗礼を受けるならば救われ、そうでないならば滅びてしまう。」イエズス様は、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」とだけ言われました。「全世界に行って、全てをカトリック信者に回心させて、」とは仰らずに、とにかく、イエズス様の事を伝えるように、「地の果てまで、私の証人となるように。」と求められました。

ですから私たちも、もちろん、私たちはこの看板をかけて、「SSPX」とか書いてあるTシャツを着て、或いは口を開ける毎に「ラテン語のミサを」と、もちろん言う必要はありません。

しかし、もしかしたら私たちは、お祈りをしつつ、良い機会に、或いはイエズス様の事、或いはマリア様の事について、ポロリと微笑みながら、少し確信を込めて、「あぁ、マリア様はきっと助けて下さいます。マリア様はお祈りして下さっているのですよ。」とか、私たちの確信を伝える事ができるのではないでしょうか。或いは、皆さんの中のもう数名はなさっているように、不思議のメダイを悲しんでいる人に差し上げたり、或いはお友達に差し上げたりなさる事はできないではないでしょうか。もちろん、ただ配るだけでは効果がありません、その前にマリア様に、「あぁ、これを今から何とかさんに上げるので、マリア様、どうぞ、何とかさんがちゃんとこれを受けて下さいますように、マリア様、この何とかさんの為にお祈り下さい。」めでたしを唱えて、そのきれいな優しい言葉で差し上げた後に、その何とかさんの為にまたお祈りをして、「マリア様、この何とかさんを守って下さい。この某さんの為に(?)下さい。」と、言ったらきっと、奇跡が起こると思います。

私たちの祈りと、犠牲と、良い生活と、ふさわしい優しいイエズス様を伝えるマリア様を伝える言葉を以って、私たちはイエズス様の聖心をますますお慰めし、お愛しし、イエズス様を愛する霊魂をますます広めて、この小さなタバコの燃えカスのような私たちの貧しい愛も、燃やすような山火事になるまで広がる事をお祈り致しましょう。その事ができるように、マリア様に、特に私たちを助けて下さいますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想

2015年11月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。」

【善人の死について】の黙想

 その1

 「聖者の死は主の御前に貴い」(詩篇25-15)。

 聖ベルナルドは「聖者の死の貴い理由は、彼の苦労の終わりにして、命の門口だからである。苦しみも、悲しみも、誘惑も、戦いも、主を失い奉る心配さえも、全て終わりを告げ、楽しい幸福の世界がここに開かれるのである。」と言っている。

 悪人にとっては胸をえぐられる「この世を去れ」という命令も、決して善人を苦しめる事はない。彼らは一生涯、主を唯一の宝としていたのであるから、世の宝を離れるのは少しも苦痛ではない。今まで名誉も軽視してきたので、これを棄てることになっても格別辛い思いをすることはない。妻子であろうと、親兄弟であろうと、主に対してこそ愛していたのだ。彼らと別れるといっても、そうまで悲しく思う筈が無い。彼等は常に主をもって自分の全ての宝、全ての楽しみとし、「ああ我が天主よ!ああ我が全てよ!」と言いながら一生を送ってきたのである。いよいよこの世を発つという段になっては、尚更喜んでこの語を繰り返すのみである。

 臨終の苦悶すらも、彼等はそうまで耐え難いものであるとは思わない。かえって、己の命の最後の一息までも捧げつくして主を愛し奉ることができることを幸いとするのである。彼等はイエズスが自分を愛して、自分の為にお捧げ下さったその貴い御命の生贄に自分の命を合わせて捧げ奉るのを、何よりも満足に思うのである。

 主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、かかる幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。

その2

 死ぬとその日から罪に誘われる気遣いも、主を失い奉る危険も全くなくなるのを見て、善人はどんなにか嬉しく思うだろうか。しっかりと十字架を握り締めて今こそ「安全に眠り、かつ休まん」(詩篇4-9)と叫ぶ時の喜びは、ああいかばかりであろうか!

 なるほど悪魔は私の罪を目の前に並べ立てて心に懸念を起こさせ、失望の淵に突き落とそうとするであろう。しかし、今のうちにその罪を悔い悲しみ、真心から主を愛し奉るなら、慈しみ深き主の事であるし、決して私を見棄て給うまい。私を救いたいという主の御望みは、私を滅ぼしたいという悪魔のそれよりも幾倍も激しいのだから、必ず私を慰め、心を安め、気を励まし、力づけてくださるに違いないのである。

 死は生の門である。主は真実にして約束を違えられることはない。されば彼の危うい最後の場合に臨んで、かねてより主を愛する霊魂をどうして慰め給わぬ筈があろうか。容易ならぬ臨終の苦悶の中にも、言い知れぬ天国の歓楽を幾分なりとも心に感じさせて下さらぬ筈があろうか。深く信頼する心、偽りなき愛情、主を目の当りに仰ぎ見たい望みを起こす毎に、どうして永遠に楽しむべき天国の平和の幾分かを現世にありながら味あわせて下さらない筈があろうか。殊にネリの聖フィリッポの如く、聖体を仰ぎ見て、「ああ私の愛する御方よ!ああ私の愛する御方よ!」と叫び出す程の人であれば、臨終の聖体を拝領するに際して如何なる喜びに躍り立つことであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の裁判官にてましますが、また救い主でもあらせられる。私を救わんが為に、御血も御命も擲ち給うた。なにとぞ私を憐れみ給え。御手を伸ばして私を罪悪の中より救い上げ、主を一心に愛せしめ給え。

その3

 考えてみると、死は決して恐るべきものではない。恐るべきは死を禍となす罪のみである。福者コロンビエールは言った。「一生涯忠実に主に仕え奉る人が、憐れな死を遂げることはあり得ない」と。

 されば真心から主を愛する人は、むしろ死を希うものである。死ねばその愛する主の御前に行くのである。永遠に主と結ばれるのである。自分の愛する御方と一つになることを希わない者があろうか。早く主の御前に行きたい、早く主を仰ぎ見たいと希わない者は厚く主を愛していないのではあるまいか?

 私はもう一切の被造物から心を引き離して、死を甘んじ受ける準備をせねばならぬ。今被造物を離れるのは少なからぬ功徳になる。しかし後に余儀なく離れては何の功徳にもならないばかりか、大いに霊魂の為に危険である。これからは毎日毎日が今日限りと思って生きて行かねばならぬ。死を目の前に眺めつつある人はその行いがどんなに正しくなるであろうか。

 ああ、私が主を目の当りに仰ぎ見て一心に愛し奉る時はいつ到来するであろうか。私はもとよりそのような幸を受けるに価しない。しかし主の御傷は私の唯一の希望である。私はこの希望に励まされて、聖アウグスチヌスと共に「いざ主よ、いざ早く死して御顔を仰ぎ見たらしめ給え」と申し上げたい。然り、愛すべきイエズスよ、私は早く死んで主の御顔を仰ぎ、主の御腕に縋って、いつまでも主を離れ奉る気遣いもなく、心安んじて終わり無く楽しみたいものである。

 ああ聖母よ、私は御子の御血と、御身のお取次ぎとに深く頼り奉る。何とぞ私に救霊の恵みを得させ、天の御国において永遠に主を賛美し、感謝し、愛慕する幸いを得さしめ給え。アーメン。


聖ピオ十世会日本による聖伝のミサ 報告・お便り 2015年11月 SSPX Traditional Latin Mass

2015年11月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


 11月にも、日本で聖伝のミサをささげることができ大変うれしく思います。

 11月6日の初金曜日には、イエズス・キリストの聖心の随意ミサののちにご聖体顕示・聖体降福式があり、約一時間の聖時間を過ごしました。

 11月7日の初土曜日には、九州から初めて聖伝のミサにあずかりに来られた方がおられました。天主に感謝します。

 11月8日の主日には東京で、41名の方がミサにあずかりました。残念ながら、ミサの後でこれらた方々もありましたが、公教要理などを一緒にされて行かれました。新しく聖伝のミサに与った方々が少なくとも2名おられました。天主に感謝します。

 次のようなご報告をいただいたので、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
11日の初金曜日、初土曜日の御ミサの報告をお送り致します。
6日金曜日 イエズスの聖心の随意ミサには13名が、
7日土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサには16名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

7日の御ミサの後には、いつものように公教要理で旧約の時代の勉強を致しました。
今も昔も人類は本当に罪にころびやすく弱い者ですが、天主様が忍耐強く、無限に憐れみ深く、愛深く在らせられる事に深いか感謝と感動を覚えます。
また、遅ればせながら10月の小野田神父様の御誕生日を祝って霊的花束をプレゼントさせて頂きました。

両日のお説教で、私達の救霊の為に十字架上で聖血の最後の一滴まで流し尽くされたイエズス様と、その御足元で御子を捧げ私達の母となって下さったマリア様をお愛しする火をどんどん回りの人達に祈りと行動をもって伝えて最初は小さなな種火ではあっても燃え広がって燃え尽きる事が私達の使命であると伺いました。
お説教を拝聴しながら、また御ミサを続けながら自分のくすぶっていた心の火が少し大きくなるのを感じました。
マリア様と一緒に、マリア様によって、心を天主様への愛に燃え尽くせますようマリア様のお助けをお願いいたしました。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供3人)


【お便り】
アヴェ・マリア!

こんばんは。お祈りありがとうございます。
昨日、無事子供が産まれました。女の子です。2300gで少し小さいですけど、元気です。
これからもよろしくお願い致します。


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金初土の御ミサ、そして御聖体降福式、公教要理など、本当に色々ありがとうございました!♪♪o(*^▽^*)o
これから毎月、初金曜日には御聖体降福式を捧げて頂けるという事で、本当に嬉しく思います!
御聖体降福式に与る事によって、ますますパワーを頂いて、そしてマリア様の御取次ぎによって、イエズス様の聖心をお慰めする4つの遷善の決心を実行する事ができますように!
イエズス様の御血が無駄に流される事のないように、自分自身はもちろん、隣人の救霊の為に力を尽くす事ができますように、お祈りをお願い致します!m(_ _"m)

デオ・グラチアス!

【お便り】
今日のお説教はとても心にジーンと来ました。
主の十戒も頷き改めて、自分に活を入れました有難うございました。
どうしてもの用事が有りましたけど、そちらをキャンセルして東京に出掛けた甲斐がありました。
返事は要りません。


【お便り】
おひさしぶりです。
お元気でしょうか。
11月に入り生産は減少したため私の配置場所は閉鎖となりました。そして部所の配置が変わりました。

かつての場所には要領の悪い、社会人として、仕事に対して責任感のない方がいて、・・・自分の仕事に支障をきたしていることをロザリオによりマリアさまに打ち明けたところ新しい場所をお与えくださいました。新しい部所は流れてきた製品の正誤を調べ記載する作業ですが不思議なことに気づきました。
次の製品がつくまで待機しているのですが、次の製品が届くまでそれがなんとロザリオ1連分の時間がかかるのです。

なかなか世俗は罪の罠が多く、天主の御教えに背く力が働いていることを実感する毎日でマリアさまがいかに世俗を離れて生活したことにより謙遜を学ばれたかを黙想する日々です。願わくば、・・・この場所で働き続けられますように。

【お返事】
 製品がロザリオによって祝福されているようですね。製品がたくさんできる間に、ロザリオも沢山できそうですね!お仕事は大変だと思いますが、どうぞお捧げください。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは☆ヾ(*`・ω・´*)
ブログのアップをありがとうございます!

マリア様の特別のお恵みによって、イエズス様とマリア様の愛に倣って、私たちも愛徳の実践をする事ができますように!そして私たちの周囲の全ての方々が、イエズス様を愛する愛によって、マリア様を通してイエズス様へと導かれる事ができますように!本当にそれが実現した時にはどれほど幸せなことでしょうか!私の為にもお祈りをお願い致します<(_ _)>


「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」 キリストの神秘体について 聖ピオ十世会小野田神父説教

2015年11月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 皆さま、すごいですね!モーゼの義理の父の名前は、イエトロです。イエトロは、娘のジッポラをモーゼに嫁がせています。

 では、モーゼの生みの親の、父親と母親の名前は何でしょうか?コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、10月4日の主日の東京で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

 最近、コンピューターのキーボードの調子が良くなく、苦労していました。今回、ようやく、新しくコンピューターを購入することにしました。まだ慣れていないのですが、何とか普通に文字が打てるようになりました。天主に感謝します。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月4日 聖霊降臨後第19主日
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年10月4日、聖霊降臨後第19主日のミサをしています。聖ピオ十世会の聖伝のミサにいらした皆さんに、歓迎の言葉を申します。今日のミサの後、14時30分からいつものように公教要理と、それから16時には主日の晩課があります。月曜日の明日は、いつものようにミサがありますが、ミサの時間が6時15分です、どうぞご了承ください。それから来月のミサは、11月8日と9日です。8日はいつものように10時30分からミサがあります。

3つほどお祈りのお願いがあります。1つは、すぐ今週、私の理解が正しければ、ローマで家族に関する特別の司教会議「シノドス」が開かれます。そしてこのシノドスでは、カトリックの倫理や道徳に反するような教えが交付されるのではないか、という懸念があります。それは既に、幾名かの司教様や枢機卿様たちがその懸念を発表して、今、司教様や枢機卿様たちが2つに分かれて戦っている、という報道が流されています。これについて、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様も教皇様に、「どうぞ、カトリックの教えをはっきりと表明して下さるように。」と、懇願の手紙を書かれました。どうぞこのローマのシノドスの為にお祈り下さい。今日、このミサの特別の集祷文が使われているのも、私たちが困難な状況から救い出される為のお祈りです。

第2のお祈りのお願いは、今週の月曜、明日から、アジア管区の特にフィリピンで働いている司祭の為に黙想会があります。月曜から土曜までで、皆さんの温かいお祈りを、良い黙想会の実りの祈りをお願い致します。

最後のお願いは、お祈りのお願いは、10月の中旬頃にマニラで、フィリピンの修道院長の会議があって、そして来年の計画について話し合って、そしてその計画について、それを管区長様に提出して、という会議がありますが、非常に重要な会議で話し合いで、それで私はその時に、2016年の日本でのミサ倍増計画を提出しようと考えています。それがうまく受け入れられる事ができるように、どうぞ皆さん、お祈りをお願い致します。できれば東京で主日に、2回、月に2回ミサがありますように、計画を立てています。どうぞお祈り下さい。


「天の国は、婚姻を催す王のようである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の福音の例えに従って、天の国について、一体、「天の国が婚宴の披露宴のようだ」という事は一体どういう事なのか?その誰と誰の婚姻で、一体どういう何が起こるのだろうか?という事を黙想して、次に、それに反対、その婚宴に反対、それの式に与れないようなものは何なのか?それの結果はどんな事が起こるのかをみて、最後に、結論として、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では、婚宴の、「天の国は婚宴の式」というのは一体どういう事なのでしょうか?私たちはこの事についてよく黙想してきたので、皆さんよくご存知のはずです。御子イエズス・キリストがまず、天主の御言葉がまず人となって、天主の本性と人間の本性が天主の第2のペルソナに於いて一致している事、位格的融合、これがまず、天主と人間との一致の最初です。

そしてその結果何を望んだか、というと、イエズス・キリストは、御自分と贖われた人たちを全て一つにしよう、と思われました。一つの体としようと思われました。贖われた人たちの組織は、教会と呼ばれます。一なる聖なる公教会です。その公教会とイエズス・キリストが、婚姻の様な、更に婚姻よりももっと緊密な結合によって結ばれる、一つの体となる、という事です。そしてこのイエズス様と公教会、キリストの花嫁である公教会、カトリック教会との一致をうまく表す表現は、「婚姻」というほか、それよりも良いものはありませんでした。そこで、婚姻という事を言います。そして私たちは、その婚姻の席に与るように招かれた者です。ただ単に、「あぁ、結婚している人がいるから、お友達だから与って、『おめでとう』って言う」だけではありません。そうではなく、私たちの霊魂も、一人一人の霊魂が、イエズス・キリストとの霊的な、神秘的な、しかし本当の一致に与る、という婚姻です。

聖パウロは、このイエズス様と公教会の一致の事を、キリストの神秘体としてうまく話しています、「夫よ、妻を愛せ。キリストが公教会を愛したように、キリストがその教会の為に血を流して、命を与えたように、夫よ、妻を愛せ。」そして、「妻よ、夫を愛してこれに従え。教会がキリストを愛して、それに従うように、何故かというと、婚姻というのは、キリストと教会との一致の、ちょうどおぼろな影の様であるから。」と、言います。

当時2000年前、婚姻というものの純粋さ、清さ、或いはその汚れの無さ、という事についてあまり知られていなかった時代に、このような事を言うのは、聖パウロにとって勇気がいったかもしれません、言う必要があったかもしれません。しかし、聖パウロはどうしてもそう言わなければなりませんでした。

そればかりではありません、イエズス様は、御自分と霊魂との一致について、御自分と教会との一致について、婚姻の例えのみならず、別の例えも使っています。それは、「私はぶどうの木である。私の父は農夫である、お前たちはその枝だ。私に留まれ、もしも留まらないならば、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて死んでしまう。そして死んでしまったら、焼かれて、そして捨てられてしまうだけだ。私に留まれ。」と。

聖パウロも同じ事を言います、「私たちはオリーブの木だ。ユダヤ人は天然のオリーブだけれども、そのオリーブの木から離れて、わざと離れてしまった木であって、私たちは接ぎ木されたオリーブの枝だ。」聖パウロはそればかりではありません、「私たちは生ける石だ。そして生ける建物、神殿、キリストの神殿を、天主の神殿を建てている。その基礎が使徒であり、預言者であり、その隅の親石がキリストである。その石の材料の一つの、生ける石である。」或いは、「私たちは、天主の家族の一員、メンバーの一員だ。」と言います。

これは一体どういう事を意味するのでしょうか?イエズス様が私たちを贖って、私たちを「婚姻に与りなさい。」と言った時に、お客さんとして、「あっ、よく来た来た。ここに招待券があって、ここで、あのこれで飲み物をもらって下さい。」ではなくて、私たちは、イエズス・キリストの家族、その一部として、そこの中に、その団居(まどい)に入っている、という事です。

イエズス様は、私たちの罪の贖いの為に、ちょうどこの税務署に行って、「この子の、何とかさんの税金が払えない、未納なので、それを私が代わりに納付します。何番のいくらです。じゃ、これで領収書です。」とやって、私たちを贖ったのではなくて、イエズス様は私たちを、御自分の一部として、私たちを受け取り、私たちはイエズス様の一部として、そして私たちとイエズス様は、まさに一心同体のものとして、私たちの償いを、負債を支払って下さいました。

聖パウロは実は、その書簡の中で、非常にこのギリシャ語の文法的な誤りを犯しながらも、色々な事を言います、「私たちは、キリストと共に死んだものだ。私たちはキリストと共に葬られた者だ。」“それと共に葬られた”という、そのような単語は無いのですけれども、“共に葬られた”という単語を作り出してしまいます。“共に死んだ”という単語を捏造してしまいます。「そして私たちは、キリスト共に復活した者だ。キリストと共に生きる者だ。キリストと共に、天国に於いて支配する者である、君臨する者である。キリストと共に、天主の右に座す者である。キリストと共に、12のイスラエルの部族を裁く者である。」と、言います。そして更にそればかりでなく、「私たちは、イエズス・キリストの一部として、私たちに於いて、キリストが生きている。貧しい者の内に於いて生きているし、捕われ人の者の内に生きているし、そして迫害された者に於いて苦しんでいる。私たちに於いて、キリストは祈っておられる、祈る私たちと共に、キリストは祈っておられる。」と、言います。

つまり、天主様天主御父は、私たちを見る時に、「単なる人間」ではなく、「イエズス様の一部」として、私たちをご覧になる、という事です。

考えてもみて下さい、どんなに小さな産毛の一つであろうが、私たちの体の一つだとして、天主御父は、私たちをご覧になって下さる。もう分かち難く、一つの体としてご覧になっている。そして私たちのする事は、キリストの行動となって、キリストは私たちの為に祈り、行動し、ちょうど夫婦が一つの家族として行動するかのように、更に更に更にもっと、イエズス・キリストは私に於いて生き、私はキリストに於いて生き、キリストと私は一つだ、という事を示しています。

これが、私たちが招かれている「婚姻の席」なのです。

そして第2に、この婚姻の席に、このような一致に、このような緊密な愛による一致に対して、私たちをそれに与らせない、何か邪魔ものはあるでしょうか?どうしたら、それにより良く与る事ができるでしょうか?

それが、「天主の聖寵」です。罪のない状態です、罪が赦された状態です。イエズス様がその御血潮を以って、私たちの為に買い取って下さった、贖って下さった、天主の命です。私たちに於いて生きている、成聖の恩寵こそが、唯一私たちをして、イエズス様と一つにならせて下さいます。そして私たちに、天の遺産を相続させる権利と、イエズス・キリストの名前に於いて、天主御父の右に座す。或いは、天の栄光を、終わりなく喜ぶ、楽しむ、キリストと共に楽しむ、その権利を与えてくれるものです。

もしもこれがなければ、私たちは全てを失ってしまいます。天主の聖寵というのは、それほど大きなお恵みなのです。目に見えないのですけれども、それほどの効果を持っています。でもそれを失うには、たった1つの事をすればよいのです。この服を脱ぎ捨てるには、成聖の恩寵を脱ぎ捨てるには、たった1つの事をすればよいのです。それは何かというと、大罪を1つでも犯せば、それで終わりなのです。

大罪を犯してしまうと、もはや私たちは、天主の敵となってしまいます。何故かというと、私たちはそうだと知りながら、罪であると知りながら、天主に背くと知りながら、自由に、それに同意して、天主の国に「嫌だ。」と言うからです。天主様が嫌がっている、御望みにならない、というのを知りながら、「嫌だ。」と言う事であるからです。その時に私たちは、「何故お前は、大罪の状態で、婚姻の服を着ずにここに来たのか?外に出なさい。私はお前を知らない。」「呪われた者よ。私を離れて、永遠の地獄に火に入れ。」と、言われるしかありません。

これは、天主のイエズス様のせいではありません。私たちがそうと知りながら、自由に、犯した罪の為です。その時に敢えて、罪の状態を選んだ私たちは、どれほど悲しみ嘆く事でしょうか。

ダビドの王に、アブサロンという子供がいました。そのアブサロンは、ダビドの言いつけに背き、「もう、お前は子供だけれども、俺の目の前に来るな。」と、言われました。非常にそれに失望して、嘆いて、そして自分の弟子を召使いを使って、「何とか、何とかもう一度目の前に行く事ができるように。」と、頼んだ事があります。

私の読んだところでは、スペインの王のフィリッポ2世は、あるどこかの貴族が、教会の中でちょっと不適切な行動をして、天主の御前に背く事をした、という事を受けて、「もうお前は目の前に来るな、帰れ。」と言ったそうです。そしたら、その貴族は非常にそれに失望して、それにがっかりして、その後息を引き取ってしまったそうです。

考えてもみて下さい。皆さん、この前私たちは一緒に、宮中に晩餐会に呼ばれる事について、色々話しましたが、想像してみましたが、考えて下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っている方々は、皆例外なく、これからは宮中の特別のお友達で、天皇陛下の皇族の一部で、そしてもう自由に、特別のお友達として自由に皇居に来て下さい。自由に使って下さい」と、なっていたはずが、いけないと知りながら、悪いと知りながら、私たちが罪を犯したが為に、「もう来ないで下さい、もう今までの特権はもう終わりです。」という事になったら、私たちはどれ程がっかりするでしょうか。「私は養子の王様の子ですよ、天皇陛下の養子ですよ。」もう終わりです。それは罪を犯す事によって失われてしまいました。

これが、この福音の中で、婚礼の礼服を着ていなかったが為に、外に出される人の運命です。

では最後に、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?まず第1に、私たちが受けたイエズス・キリストの養子となり、イエズス・キリストの神秘体の一部となり、イエズス・キリストの、天主の命に与り、それに接ぎ木された特別の恵みを受けた者である、というそのとてつもないお恵みを感謝致しましょう。第2に、それに反するものは唯一、罪を犯す事である、という事をよく知る事に致しましょう。そして罪を避け、罪の機会を避ける決心を立てる事に致しましょう。最後に、(イエズス様が)私たちに、どれほどの努力とどれほどの苦しみを以って、この婚姻の席に招いて下さっているか、という事を一番よく理解する事を助けてくれるのは、ロザリオのお祈りです。ロザリオのお祈りをする事によって私たちは、価値がますます分かってきます。そしてそのお恵みを失わない力も、ますます受ける事ができます。ですから特に10月は、ロザリオのお祈りをよくする事に致しましょう。

「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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