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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

死後の霊魂に何が起こるかについてのカトリック教会の教え:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2015年11月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。昨日の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のような報告をいただきました。ご報告いたします。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。

 モーゼの死については、ぐりこさんの言われた通り、「モアブの地」のネボ山頂(super montem Nebo, in verticem Phasga)イェリコを眺め渡すパスガの頂きで亡くなり、モーゼが死んだのは、モーゼが120歳の時でした。
 モーゼの葬られた場所は、聖母マリアの騎士さんの書かれた通り、「モアブの地の谷」で(in valle terrae Moab contra Phogor)、誰もモーゼを偶像化しないように秘密の場所に葬られました。
 ぐりこさん、聖母マリアの騎士さん、回答をありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の主日の御ミサの報告をお送り致します。
いつものようにハードなスケジュールの中、日本にお越し下さっているレネー神父様に感謝申し上げます。
11月15日 聖霊降臨後第二十五主日の御ミサには16名の方々が、
  16日 聖ジェルトルードの御ミサには13名の方々が、
御ミサに与り御聖体拝領するお恵みを頂きました。デオグラチアス!

16日の御ミサの御説教では、煉獄の霊魂について黙想致しました。私達が煉獄の霊魂達から学ぶべき事、彼らのためにできる事などをよく理解出来ました。
御ミサの後の公教要理では、アヴィラの聖テレジアの天にましますの祈りの解釈を元に、祈りについて勉強致しました。時が時ならレネー神父様は間違いなく教会博士だなぁと思いました。(◎-◎)☆

この度は、レネー神父様はいつもより少しお元気そうでした。里帰りされるのを楽しみにされていたのかもしれません。(^○^)


【お説教】
2015年11月15日の説教―大阪 煉獄の霊魂について




親愛なる兄弟の皆さん、

11月に教会は、特別に煉獄の霊魂のために祈ります。死後の霊魂に何が起こるかについての教会の教えを考察し、そこから教訓をいくつか引き出すのはよいことです。

第一の真理は、霊魂不滅の真理です。死は霊魂と体が分離することです。体は腐敗していきますが、霊魂は破壊されません。体から離れるのです。この真理は、霊魂にある知性の面から、私たちに備わった理性の力によってさえ知ることができます。人間の本質は「理性をもった動物」という本質です。私たちの命は実際、成長し、栄養を摂取し、繁殖するといった植物と共通に見られる力をいくつか持っています。これらは「植物の力」と呼ばれます。私たちの命はまた、植物の力を超えた力も持っており、それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった動物と共通のもので、さらに記憶力、想像力といった内的な感覚もあり、欲望、喜び、悲しみ、怒りといった感情もあります。これらは動物にも共通に見られ、犬がしっぽを立てているのは喜びを示し、しっぽを足の間に挟んでいるなら恥じていることを示していることなどです。しかし、人間はすべての動物の能力を超えた理性の能力を持っています。これが知性と自由意志です。人間は数学を研究することができ、また「正義を愛し、悪を憎む」(詩篇44章8節)のです。同じことをする動物を誰も見たことがありません。動物の中には人間より視力が鋭かったり、聴力や嗅覚が鋭かったり(犬はにおいで人を識別します)、人間より速く走ったりうまく泳いだり、さらには空を飛んだりするものがいます。しかし、人間は知性によって、どんな動物よりも遠くが見える望遠鏡や、どんな動物よりも小さなものが見える電子顕微鏡をつくることができ、どんな動物の認識力をも超えた電波を認識するレーダーをつくることができ、どんなレイヨウ(羚羊)よりも早く走る列車や、どんな魚よりも深く潜る潜水艦、どんな鳥よりも高く遠くまで飛ぶ飛行機をつくることができます。ですから、人間の本性には知性があり、これによって人間が他のいかなる動物にもまさっているのは明らかです。

感覚は体の器官の働きである一方、知性は非物質的な働きを持っています。抽象化したり、判断したり、推論したりすることです。このうち最初の抽象化とは、まさに事柄を抽象化するのです。そして、これらの抽象的概念によって、私たちの知性は判断を下し、その判断を論理的な証明に従って順序立て、結論に到達します。私たちの感覚によって得られる知識は個別的です。一方、私たちの知性によって得られる知識は一般的であり、私たちの概念も一般的です。さて、すべての物質的なものは個別的です。ゆえに、私たちの概念は物質的ではなく、非物質的ですから、体の死によって影響は受けないのです。

私たちの主イエズス・キリストは、聖福音の中でサドカイ派に反対して議論し、彼らに向かって、霊魂の不死という事実から世の終わりに体の復活があることを証明されました。実際、主は言われます。「死者の中からの復活については、モーゼも、茨の篇に、主を『アブラハムの天主、イサクの天主、ヤコブの天主』と呼んでそれを示している。天主は死者の天主ではなく生者の天主である。天主にとっては、すべてが生きている」(ルカ20章37-38節)。その結論は、アブラハム、イサク、ヤコブは生きているということです。さて、アブラハム、イサク、ヤコブの体は、彼らが造った墓にあるのは明らかです。ですから、彼らの霊魂は生きており、そのため未だに存在しており、死によって破壊されはしませんでした。これが「霊魂の不死」の意味です。人間の霊魂は死によって破壊されないのです。死は私たちの自我の終わりではありません。私たちの「考える自我」は、死ののちも存在し続けるのです。霊魂の不死性は信仰の教義です。

第二の真理は裁きです。聖パウロがヘブライ人へ書いているように、死ののちには裁きがあります。「人間は一度だけ死んでその後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。霊魂は、「各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)キリストによって裁かれます。大罪の状態で死ぬなら、人は直接地獄へ行きます。反対に、成聖の恩寵の状態で死んで、罪の償いをすべて果たし、小罪への執着がないならば、人は直接天国へ行きます。しかし、成聖の恩寵の状態で死んでも、良心に小罪が残っていたり、罪に対する罰の償いを果たさないでいたりしたならば、人は煉獄へ行きます。死と裁きの両方を常に目の前に置いていたならば、私たちは罪を犯さないでしょう。「天主はすべての行為を裁く」(コヘレット12章14節)。「人が話した無駄ごとは、すべて裁きの日に裁かれるであろう」(マテオ12章36節)。

煉獄の霊魂にはもはや自分の体はありません。そのため、この世の物に気を引かれることがありません。彼らは信仰、希望、愛を持っていますが、それはこれらの徳は霊魂という霊的な部分にあるからです。彼らはもうまったく罪を犯しません。この意味で煉獄は、ささいな小罪や欠点のように、義人でも一日に七回罪を犯す(格言[箴言]24章16節)という、ここ地上よりもよいところです。煉獄の霊魂は永遠の救いの保証を持っていますが、ここ地上で私たちは天主の十戒を守るならば自分が正しい道にいるという「確信」を持っているにすぎず、「終わりまで耐え忍ぶ者は」(マテオ10章22節)、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって救いへ到達するであろうと信頼しているにすぎません。これらの二つの面においても、煉獄はここ地上の生活よりもよいところなのです。

しかしながら、煉獄には苦しみがあります。この苦しみを理解することは、ここ地上での霊的な生活へのまことに大きな助けとなります。第一に、小罪との闘いにおいてです。小罪の多くは小さなことを無視したり、地上で合法的なことに愛着し過ぎたりすることから来ます(例えば、食べ物や休息、心地よさなどです)。人々はいったい何回言うのでしょう。これは大罪ではないから、してもいいのだ、と。でも、彼らはそれが本当は正しくないと分かっています。怠惰や短気などです。さて、彼らが煉獄に着いたとき、その霊魂は小罪の重さを理解します。小罪のために彼らは今、そんな苦しみによる痛みの中で償いをしているのですから。これは天主の愛から切り離しはしませんが、まだ天主の愛が要求するものになっておらず、愛を遅らせているのです。さて、私たちがここ地上で天主に奉仕するのが遅いなら、その報いも遅くなるのが正当です。彼らが非常に愛着を持っていた地上のものをすべて失ったいま、彼らは、その報いを受けるのが遅くなっているために今、大変苦しんでいるのです。彼らの愛は、彼らが天主によって十分に引き寄せられるようにし、彼らが天主を熱望するようにさせるのですが、彼らはずっと待って待って待ち続けなければならないのです。彼らが小罪によって発生させてしまったこの遅れは、最も激しい空腹と飢えのように、まことに苦しいものです。

小罪によってどれほど苦しむかを理解し、小罪を嫌っている煉獄の霊魂が、私たちにそのことを分からせてくれるよう願いましょう。小罪は、本当に天主をお喜びさせはしません。罪を犯すことで天主を攻撃することは、小さなことであっても、単に正しくないのです。それは「単なる」小罪に過ぎない、とは誰も決して言ってはなりません。故意に小罪を犯すことは、生きている上で決してあってはなりません。もちろん、まず大罪を犯さないようにすべきですが、それだけでは十分ではありません。大罪へと滑り落ちやすい道である小罪を避けないなら、大罪を効果的に避けることはできないでしょう。罪との闘いは、あらゆる罪に対して絶対的に「いいえ」と言い、キリストが私たちにお望みになるすべてのことに対して、私たちの主イエズス・キリストへ、天主へ自分を完全に奉献することに対して、絶対的に「はい」と言うことです。

第二に、煉獄の霊魂は苦しみますが、その状況は地獄とは大変異なっています。地獄に落ちた者は、それでもその罪に愛着し、苦しみを憎み、天主の正義を憎みます。煉獄の聖なる霊魂は、天主の正義を愛し、罪を憎みます。彼らは自分の苦しみを非常に喜んで受け入れ、キリストの御苦しみと一致し、天主の正義に従って罪の償いをするのです。ですから、地獄とは正反対です。この点において、彼らは私たちの素晴らしい模範なのです。しばしば私たちは苦しみを拒絶し、不快に思い、理解しようとしません。事実、苦しみは私たち自身にとって有益であると、私たちは理解する必要があります。そして苦しみを拒絶せずに、私たちの罪と多くの霊魂の救いのための償いとして、私たちの主イエズス・キリストと一致して苦しみを捧げるべきです。私たちは罪を憎み、私たちの主イエズス・キリストの十字架を愛するべきです。これが、煉獄の霊魂から得られる最も重要で価値のある教訓なのです。

でも、これらの霊魂は自分で功徳を積むことができません。功徳を積む時間は過ぎ去っているのです。(私たちにとって)今こそ、あわれみと功徳の時であり、死んだあとは正義の時なのです。私たちは彼らを助けることができます。彼らは、その罰を自ら減らすことができないのです。私たちは、このあわれみの時にいるという利点を十分に使いましょう。犠牲の生活、熱意のある生活、天主にいちはやくお仕えする生活によって、煉獄の多くの霊魂のために償いをしましょう。

最後に、煉獄の霊魂は、何人かの聖人が「霊魂の暗い闇」と書いた状況と似た苦しみを味わっています。体から離れた状態にあるため、真理のためにつくられ信仰を持っている彼らの知性でも、まだまだ天主を見ることはありません。「光」に飢えている霊魂にとって、天主を見ることができない状態にいることは非常につらい苦しみです。彼らは、火のような、天主を熱望してやまない、天主の至福直観を熱望してやまない火のような愛の徳を持っています。しかし、至福直観には至らないままであり、そのことが彼らを本当に拷問にかけているのです。至福直観をなかなか得ることができないのは彼らの過去の罪のせいであり、彼らが不完全であったせいです。しかし、この苦しみは、金(ゴールド)を火に通すように、彼らの霊魂を浄めるのです。さて、アヴィラの聖テレジアのような多くの聖人たち、また他の多くの信心深い人々は、ここ地上ですでに、これらの苦しみを経験し、煉獄よりずっと多くの功徳を得ていました。なぜなら、彼らにとって、そのような苦しみは霊魂を非常に浄めただけでなく、多くの功徳を得て、そのために他の多くの人々の贖いに参与していたからです。私たちへの素晴らしい教訓は、天国へのより大きな望み、天主へのより大きな望み、顔と顔を合わせて天主を見たいという望みのために祈ることです。実際、私たちが天主に渇き、天主を熱望し、天主において永遠に憩うことを熱望し、私たちが顔と顔を合わせて天主を見ることができるよう変容して天主と結合することを熱望していないのなら、私たちはどうして、すべてに超えて本当に天主を愛していると言うことができるでしょうか?できるはずがありません。聖ヨハネは美しく言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者よ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望をもつ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。その希望には、天主へのこのような大きな望みが含まれており、そしてその望み自体が私たちを聖化し、すなわち、私たちをあらゆる罪から浄めます。聖パウロが言うように、「汝の天主なる主は焼き尽くす火である」(第二法4章24節―ヘブライ12章29節)のです。

これらの素晴らしい真理を黙想することは有益です。特に大変悪しき声明を発表して終わった今回の司教シノドスのあとでは。この声明は非常にあいまいな表現であるため、多くの恥ずべき決定に対して扉を開くようになるでしょう。「識別」を口実にして、いくつかの教区では離婚して再婚した人々―客観的な姦淫の状態で生きている人々―に対して、実際に聖体拝領を許可しようとしています。これらは汚聖の聖体拝領となるでしょう。このような状況が起きるのは、人々が天国と地獄について、死と裁きについて完全に忘れているからです。天主の聖性と罪の重さを知らないのです。罪を捨てる積もりがなく、「自分を捨て、自分の十字架を担って、私たちの主イエズス・キリストに従う」(マテオ16節24章)という本当の努力を少しもすることなく、「自分たちがあるがままで受け入れられる」よう切望するのです。

その反対に、聖ベネディクトが自分の修道院に入れてもらおうとして扉をたたく人々に要求するように、「私たちが天主を本当に求めるならば」、天主がすべての地上のもの、すべての楽しみを無限に超えておられることを簡単に知ることができ、天主を得ることは、そのために地上のあらゆることを捨てるに値する偉大なる善であることも簡単に知ることができます。またそうすれば、天主の法に従った貞潔な生活を送るのに必要な犠牲を行うことがたやすくなります。罪深い本性のせいで行うのが不可能だと思われるような、貞潔のための犠牲は、永遠の光に照らされれば、無限の天主の光に照らされれば、大変小さなものにすぎないことがわかるのです。この世の人々は貞潔を守ることは不可能だと思っていますが、福音書の中でキリストに従おうとした人々を見れば、彼らにとってはそれが本当にたやすくなったことがわかります。「ご覧のとおり、私たちはすべてを捨ててあなたに従いました」(マテオ19章27節)。さらに、この「すべてを捨てて」ということのなかには、「[キリストの]名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、田畑」(マテオ19章29節)を捨てることが含まれていました。本当にすべてを捨てたのです。ですから、初期の教会では、完全な貞潔を非常に尊んでいたので、結婚していても、合意のもと、完全な貞潔の誓いを立てていた人たちがいたのです。(ノラの司教)聖パウリノとテラシアのように。

煉獄の聖なる霊魂が、私たちの心と霊魂が常に天国へ、天主へ集中するようにし、世の欺きに決してとらわれることのないように助けてくださいますように。その御心が私たちの主イエズス・キリストにいつもまったく完全に結びついていた童貞聖マリアが、ご自身がそうあられたように、私たちがあらゆる小罪を避けるよう、いつも助けてくださいますように。そして、私たちが自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストと一致して、それを忠実に捧げ、煉獄の聖なる霊魂を助けて天国へ行けるようにするために、聖母が助けてくださいますように。アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想

2015年11月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。」

【私審判について】の黙想

 その1
 私は今臨終の苦しみに悩んでいる。私の死はもはや一時間、二時間の後に迫ってきた。私はやがて主の法廷に立って一生涯の善悪を裁かれなければならぬ、と想像してみよ。果たしていかなる感じがするだろうか? その時にあたって私の為に何より怖ろしく感じられるのは、罪に汚れた心であろう。しからばその裁きの来ない前に、心の穢れを洗い落としておかねばならぬ。

 その日こそ永遠の世界に入る日である。犯した罪に対して良心が怒鳴りだす。悪魔は失望の念を掻き起こそうとする。どんな判決が下されるだろうか? それすらわからないので心の中は煮えくり返る思いがする。その混乱・恐れ・騒ぎといったらないであろう。されば今からイエズスとマリアに堅く愛着して、私の運命が定まるべきその最後の日に見棄てられないだけの用意をしておかねばならぬ。

 ニ・三分の後には主の厳しい裁きを受けなければならぬと思う時の恐ろしさを思え。パッジの聖マリア・マグダレナがかつて病の床に臥し、わなわなと震えているので、司祭が怪しんでその訳を尋ねると、「主の法廷に出頭するのは怖ろしい事ではございませんか!」と答えられたという。幼い頃から熱心に主に仕え、ひたすら善を修め、徳を積んで、天晴れな聖女よと仰がれていたこの罪無き童貞ですらそんなに怖れたというならば、数限りない罪を重ねて幾たびも地獄に突き落とされるべき私がどうして恐れないでおられようか。

 愛すべきイエズスよ、私も主の貴き御血をもって購われた者たることを記憶し給え。願わくは審判の日の来ない前に私を憐れみ、私の罪を赦し給え。

 その2
 神学者の説によると、息の根の絶えるや、すぐにその場で審判が開かれ、宣告が下り、賞罰が執行されるとのことである・・・

 ああ、その時こそ私の運命が定まる。私が永遠に幸いなるも、不幸なるも、その時に定まるのである。

 尊者ルイ・デュポン師はその時の事を思い廻らして、自室が揺れる程の震えに襲われた。誰にしても己の一生涯の罪を数え、主の裁きの厳しさを思い、賞罰の終りのない事を考えれば震え慄かずにはいられるものではない。

 主よ、今私をお裁きになったら私の運命はどうなってしまうのでしょうか? 善人ですら怖れずにいられないというならば、私の如き悪人はいかに震え恐れてしかるべきであろうか? 私は主の御受難の他には何も頼りとするべきものを持たない。私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。永遠の聖父よ、御身のキリストの御顔を見給え。Respice in faciem Christi tui. (Ps. Lxxxiii.10) その貴い御血をご覧になり、その痛々しき御傷を数えて私を憐れみ給え。

 その3
 いよいよ最後の目を閉じるや霊魂は永遠の世界に入っていくのだ。よって司祭は遺体に聖水をふり注ぎ、「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え」 Subvenite, Sancti Dei; occurrite, Angeli Domini. と祈る。しかし万一救霊を失っていたならば、聖人といえども天使といえども今更如何ともし難いであろう。

 私審判の法廷における裁判官は天主で、人性を受け給うたキリストではないということである。それにしても罪のいまいましい姿を見せるが為に、キリストが御受難の際に蒙り給うた傷跡をお示しにならないだろうか。その傷跡こそ真の痛悔をもって己の罪を泣き悲しんだ罪人にとっては大いなる慰めを与えるであろう。しかし罪悪に溺れたまま現世を立ち去った悪人には如何なる恐れの種となるであろうか。

 主の法廷に始めて立ち、主の厳しき御顔を仰ぎ見た霊魂の恐れを思え。そればかりでも地獄に幾倍も勝る苦罰ではないか! その時こそ彼は無上至尊の御稜威(みいつ)を仰ぎ見るのである。その時こそ天主の御子が自分を愛してお忍び下さった様々な御苦しみ、自分に賜った数限りなき御憐れみ、自分の為に備え置かれた何千もの救霊の方法も全て理解するのである。現世の宝は空しいもので永遠の宝は優れたものである事も、その時になると明らかに悟るのである。要するに全ての真理をありのままに見るのであるが、もう余りにも遅すぎるのである。過ちを改めるべき時は過ぎ去った。今や如何ともすべき様は無いのである。

 最愛の主よ、私が始めて御前に立ち現れる時には、打ち解けた御顔を仰がしめ給え。私は今より志を立て直し、行いを改める決心である。その為に要する御光と御助けとを恵み給え。私はいつも、いつも、主を愛し奉る。例え今までは主の聖寵を軽んじ奉ったにせよ、以後は全世界の宝よりもこれを重んじ奉る。私の決心はこうである。ただ主よ、聖寵を垂れてこの決心を堅くしてください。

 ああ聖母よ、審判の日に私を助け給え。私の為に主の御怒りを宥め給え。アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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