Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス様、私の胸に来て下さい。感謝致します。心から礼拝いたします。御身を愛します。

2015年11月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この前の東京でのミッションでは、月曜日にお年を召した方の「家庭訪問」をしました。ご聖体拝領の準備のためにしたお話を、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年11月9日 小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はラテラノ大聖堂の献堂の祝日です。
今日のミサの福音では、ザケオという人についての記事が読まれました。

この人は税吏で、他の人からお金をたくさん余分に取っていたり、ちょっと不正な事をして脅して、賄賂やポケットマネーをつくったりしていました。

ところが、「イエズス様が来る」というのを聞いて、背が低いチビの人だったのですけれども、「是非イエズス様を見てみたい。」と思い、木の上に登って、イエズス様が来るのを見ていました。するとイエズス様は、近くの道を通って、ザケオが木の上に乗っているのを見て、「おーい、ザケオ、降りて来なさい。今日お前の家に遊びに行く、お前の家に泊りに行く。」と言いました。

すると皆は、周りにいた人は皆不平を言って、「何だ、イエズス様は、罪人の家に遊びに行くのか、罪人の家に泊りに行くのか。」と言うと、ザケオは、「主よ、もしも私が悪い事をしたならば、それを皆返します。もしも盗んでいたならば、それを4倍にして返します。だから、イエズス様、私の家に来て下さい。」

イエズス様は、『主、共にまします。“エンマヌエル” 』という意味の方で、イエズス様は私たちと共にいる事をお望みです。

この全世界を創った、天主様であるイエズス様は、私たちと共に住む為に人となって、私たち罪人と共に生活して下さいました。そればかりではありません。「罪人と共に世の終わりまでいよう」と思って、御聖体を作って、そして教会の中に、御聖櫃の中に、日夜、朝、昼、晩、夜、私たちを愛する為に、いつも留まり給うのです。

ですから教会は、イエズス様の為に素晴らしい教会を建てて、イエズス様に相応しい場所を造ろう、と、そして献堂式を立てます。献堂式の時には、司教様が12の柱に聖香油を付けて、特別に祝別します。何故かというと、もう「教会」というのは、他の世俗の為に使われる物ではなくて、「イエズス様の為だけ」「天主様の賛美と感謝と礼拝のためだけ」に使われる、特別に聖別された場所となるからです。

そして、イエズス様は、このお部屋にもいらっしゃいました。「御聖体として拝領されたい」と思って、一つになることをお望みになっています。ですから、イエズス様を愛を込めてお迎えして下さい。イエズス様は私たちの事をとても愛しておられます。

2000年前、イエズス様がこの世に来られて、「私たちを愛そう」と、来られたにもかかわらず、ベトレヘムの人は、「シッシッ。」と言って、イエズス様や聖家族を追い払ってしまいました。

でも、今日は私たちは、一緒にイエズス様をお迎え受けて、「イエズス様を愛そう。」と思っております。ですから、「イエズス様、私の胸に来て下さい。イエズス様、感謝致します。イエズス様、心から礼拝いたします。イエズス様、御身を愛します。」と、仰って下さい。そればかりか、イエズス様を愛さない人々、イエズス様を、「シッシッ。」と、追い払ってしまうような人々、或いはイエズス様を知らない人、信じない人の代わりに、イエズス様をお愛しし、イエズス様を信じ、イエズス様を礼拝し、そしてイエズス様を受け入れて下さい。イエズス様は、私たちを極みまで愛する方です。

私たちがそれをする事ができるように、マリア様にお願いしましょう。マリア様は、「主よ、我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」と、言って、イエズス様を最初にお受けになった方ですから、マリア様が私たちにその御心を下さって、イエズス様を受け入れる事ができるように助けて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判の宣告について】の黙想

2015年11月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。

今日は聖アルフォンソによる「私審判の宣告について」の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。」

【私審判の宣告について】の黙想

 その1
 平素から主を愛して、心は世間の物に執着せず、苦しみを恐れず、辱めを喜び、身を責めこらし、ただ一心に主の御旨を果たしていた人は、審判の際、如何なる慰めを覚えるであろうか。

 「来たれ、善にして忠実なる僕よ、汝の御主の喜びに入れ」(マテオ25-21)という有難い御言葉を賜る時の喜びを思え。「ああ私は救われた! いくら喜んでも躍り上がっても足りない! もうこれからは救霊を失う気遣いは無い!」と思うときの嬉しさは、ああ、誠にいかばかりであろう!

 これに反して大罪を抱きながら現世を立ち去った霊魂は、まだ主の御口より何の宣告も下らない前に、早や我と我が身に地獄の罰を言い渡すであろう。

 主よ、私は主に背いて大罪を犯す毎に、そんな不幸の身となったのである。憐れみの天主よ、主はかの恐るべき審判の暁に、私の裁判官となられるのであるが、しかし、今は私の救い主、私の父君であります。真心から罪を悔い改めさえすれば、いつでも御赦し下さる。私は胸を打ち、熱い涙を流して、犯した罪を悔い悲しみ、ひとえに御赦しを願い奉る。私の罪を悲しむのは地獄の罰を恐れる故ではない。ただ限りも無く愛すべき主に背き、御旨を痛め奉ったからである。

 最も力ある代願者にまします聖母よ、私の為に御子に祈り給え。審判の暁に至らば、御母の御力をもってしても私の滅びを得、救い給わざるべければ、何とぞ今のうちに私を救い助け給え。教え給え。導き給え。

 その2

 「人はその蒔きし所を刈り取らん」 Quae seminaverit homo, haec et metet. (ガラテア6-8)、しかり、一生の間に蒔いた所を審判の暁に刈り取るのだ。私は今まで何を蒔いた? 善を蒔いただろうか? 悪を蒔いていたのではあるまいか? 徳を蒔いただろうか? 罪を蒔いていたのではあるまいか? これはよくよく糾明して見なければならぬ。審判の直前になってあれをああしていたら、これもこうしていたらよかった!と思う所を、今のうちにサッサとしておかねばならぬ。

 もし今日、一時間の後に、主の審判を受けねばならぬというならば、何千という金を投げ出してでも、せめて一年の猶予を求めて十分に用意したいものだとは思わぬだろうか? しからば残りの歳月をなぜその為に用いないのだろうか?

 アガトン修道院長は、多年厳しい苦行に身をこらしながら、その思いが一たび審判に及ぶや、「ああ私はどんな裁きを受けるだろう!」と嘆息するのであった。旧約のヨブも「主の立ち上がり給わん時、如何にせんや。主の臨み給わん時、何と答えまつらん」(ヨブ記31-14)と言っている。私もそうだ。主が立ち上がって、私の一生の間に頂いた聖寵を調べ、その聖寵をおざなりにした点をいちいちお尋ねになる時、何とお答えすることができるであろうか?

 主よ、「主を讃える霊魂を猛獣に渡し給うことなかれ」(詩篇73-9)、私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。

 その3

 人が死ぬ時に起る事件は実に由々しき大問題で、その結果の如何によって、永遠の救いか、終わりなき滅びかが定まるのだ。誰しも十二分の精力を絞って好結果を挙げるべく努める決心にならなければならぬ。とくと右の事情を考えて見たら、誰だって「実際そうだ」と頷かずにはいられない。「実際そうだ」とすれば、なぜ万事を擲って、一身を主に捧げ、安全に永遠の救いが得られるだけの用意をして置かないのだろう?

 「汝等遭う事を得る間に、天主を尋ねよ」(イザヤ55-6)と預言者は警告している。主を見失ったままその法廷に召喚されては、とてものことではないがお会いすることはできまい。息の根の通っている間に捜してこそ、見い出しうるのではないか。

 愛すべきイエズスよ、私は今まで主の愛を軽んじて大いに御旨を痛め奉った。しかし今は一心に主を愛し、また主に愛されたいと思っている。主よ、私に主を見い出さしめ給え。見い出してひしと抱きつくを得さしめ給え。ああ聖母よ、私が御子イエズスに離れ奉るを許し給うことなかれ。アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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