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私達の究極の幸せとは何であるか。「十戒」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年01月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様が1月10日(主)にしてくださった、「十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

今年はレネー神父は、「十戒」についてシリーズでお説教をしてくださるそうです。第1回目の10日はまず「十戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月10日―大阪 お説教「十戒」



親愛なる兄弟の皆さん、

 今年は、十戒に関する一連の説教をしたいと思います。十戒の重要性を理解するために最も良いのは、私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くことです。ある日、若い男が主のところへ来て尋ねました。「『よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?』。イエズスは、『なぜ私に、よいことについて尋ねるのか。よいお方はただ一人である。命を受けたいなら掟を守れ』と答えられた」(マテオ19章16-17節)。このように、十戒は、永遠の命に到達するためにしなければならないことを私たちに教えてくれます。

あるものは目的として私たちがそれを望み、また別のものは単に何かほかのものを得るための手段として私たちが望みます。例えば、私たちが薬を求めるのは、薬のためではなく健康のためです。私たちは健康を重要なものと考えますから、健康を回復させるために苦い薬さえすすんでのみます。健康のために手段として必要ならば、痛みを伴う外科手術さえも望みます。さて、健康それ自体も究極の目的ではありません。実際、健康であるときは、その健康を使って何をするのでしょうか? 健康は幸せの一つの条件ですが、幸せそれ自体ではありません。それでは、私たちが究極の目的として求めるものが何かありますか?

すべての人が幸せになりたいと望んでいます。すべての人の究極の目的は幸せです。しかし、幸せはどこにありますか? 幸せは単に主観的なものでしょうか? 単なるよい気分でしょうか? まったく違います。実際、誰かが皆さんにこう言ったと考えてみてください。「あなたは宝くじで大きな賞金を獲得しました」、すると皆さんは幸せと感じるかもしれません。でも、それはその人が本当のことを言ったと皆さんが思うからです。翌日、皆さんがそれは本当ではなかったと知ったなら、最初に感じた気分は台無しになり、その上、皆さんは欺かれたことに傷つくでしょう。真実に基づかない幸せは単なる夢にすぎず、石鹸の泡のようにはじけてしまいます。これは詐欺です。誰も欺かれたくはありません。それは本当の幸せではありません。私たち誰もが望むものではありません。

聖アウグスティヌスは説明します。本当に幸せになるためには、私たちは私たちの望みすべてを満足させるであろう善きものを所有する必要があり、それを私たちが所有していることを知って、それを好む必要があります。もし大きな金額を相続したとしても、それを知らなければ、まだ幸せではありません。もし何かを持っていて、それを知っていても、それを好んでいなかったら、それがあっても幸せではありません。また、自分の好むものを持っていても、それが本当によいものでないならば、この状況ではまだ幸せではありません。この最後のケースの典型的な例は、悪しき結婚です。ある人を愛し、その人と結婚しても、その人が本当によい人でないならば、大きな失望と激しい悲しみの源になります! 本当の幸せを与えるためには、本当によいものを必要とするのです。「私は自分にとって何がよくて何が悪いかを自分で決めることができる」と言うのは真実ではありません。なぜなら、私たちはもののよさをつくることができず、単に私たちが決定しただけでは、ものを私たちにとってよいものとするのに有効ではないからです。これはいろいろな意味でまったく明らかです。私たちが病気になって薬が必要な場合、単に私たちが決定しただけでは、これやそれやの製品を私たちの病気に有効な薬にするのに十分ではありません。その薬が客観的に効能があるかないかは決まっており、私たちの決定がその有効性を変化させるのではありません。それゆえに、私たちの決定はその薬が私たちにとってよいものかどうかを変化させません。私がこのことを強く主張する理由は、私たちが生きているこの時代は、多くの人々が「理想主義」によって欺かれている時代だからです。この理想主義は例えば、まるで誰もが自分の望むことを何でも考えだすことができるとか、まるで誰もが「自分自身の真理をつくる」ということです。これは確かに非常に非科学的であり、正しい哲学に反しており、最も単純な常識に反してさえいます。

すると、人はどんなものに完全な幸せを見いだすことができるでしょうか? 聖トマス・アクィナスは異なる種類の善きものを順番に調べて、完全な幸せはそのどれにも見いだし得ないことを証明します。まず、完全な幸せがお金に見いだし得ないことを証明します。お金の本質そのものによって、それは目的ではなく単なる手段です。銀行口座に大きな残高があることは、それで何かを購入することができるという以外に、何か利益をもたらすでしょうか? このように富は手段にすぎず、究極の目的ではありません。成功した人々はさらにお金を儲けるためにお金を使う方法を知っている、と言う人々がいます。しかし、それは悪循環です。この彼らが儲けた「さらに増えたお金」で、彼らは何をするのでしょうか? 彼らは、それ以上に儲けるためにそのお金を使うのでしょうか? そうしていくと、果てしなく続きます。これは悪循環です。お金は手段であってそれ自体が目的ではないということを証明しているだけです。

次に聖トマスは続けて、幸せは名誉や名声、栄光にあるのではなく、また権力にあるのでもないことを証明します。これらのものはすべて、人の外側にあるものであり、その人自身をよりよくするのではありません。さらに幸せは、究極的に体の善さや快楽にはあり得ません。なぜなら、それは人間の本質のうち、より低い部分にすぎず、霊的部分よりずっと下にあるからです。聖トマスは続けて、幸せは霊魂の善さそれ自体にもあり得ないとさえ述べます。なぜなら、これらの善さは制限されているからであり、何であれ私たちの所有するものが制限されているのなら、私たちはもっと多くを望むからです! 制限されているものは、私たちの霊魂を満足させるのに十分ではないのです。

幸せは無限の善を所有することにのみあり得るのです。そして天主のみが無限の善です。ですから、人間の幸せは、天主を所有することにのみ見いだされ得るのです! そして、天主を所有するということは永遠の至福直観にあるのです。ここにおいて、永遠の命があるのです! 天主は私たちをご自分のために造られました。天主は私たちをご自分のために創造されました。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「主よ、あなたは私たちをあなたのためにお造りになり、私たちの心はあなたにおいて憩うまで安らぐことはない」(聖アウグスティヌス)。

さて、私たちはどのようにすれば、天主を見いだすことができるでしょうか? どのようにすれば、天主と一緒にいる永遠の命に到達することができるでしょうか? どのようにすれば、永遠において天主を所有することができるでしょうか? 天主へ至る道は何でしょうか? それは私たちの主イエズス・キリストです! 実際、主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。私たちの主イエズス・キリストは御父へ至る道であり、主は天主へ至る唯一の道であって、ほかに道はありません。「法」はすべて、立法者によるいくつかの「言葉」から成っています。さて、天主のみ言葉は、まさに聖三位一体の第二のペルソナ、私たちの主イエズス・キリストです。ですから、主は永遠の法なのです。ご托身によって、霊的な永遠の法は目に見えるようになられました。聖アウグスティヌスは、それを人間の言葉と比較します。私たちが考えるとき、私たちは心の中で言葉を発しますが、誰もそれを聞くことはできません。私たちが話すとき、私たちはそれらの言葉に体を与え、物質的な方法(音波は物質の振動です)で表します。このように、ご托身になった天主のみ言葉は私たちの法です。イエズス・キリストは私たちの法なのです!

これは、私たちの主イエズス・キリストがすべてのことをなさったので、私たちには何もすることがない、という意味でしょうか? あるいは、プロテスタントが言うように、私たちは主を信じなければならないだけで、私たちは罪を犯すのを続けてもいい、ということでしょうか? まったく違います。これが意味するのは、キリスト教徒としての私たちの全生活は、私たちの主イエズス・キリストに従うことにあり、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、私たちのうちに生きているキリストにあるということです。これについては聖パウロが美しく言っています。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。「だから私は切に望む、あなたたちは私に倣う者となれ、私がキリストに倣っているように」(コリント第一4章16節、11章1節)。私たちの主イエズス・キリストご自身はこう教えられます。「私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)。また聖ペトロは言います。「キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである」(ペトロ前2章21節)。

しかし、これは、キリストの来臨の前には、人々は天主へ至る道を、天主の法を知ることができなかったという意味でしょうか? いいえ。最初から天主は人間に、掟の本質を見いだすのに十分な理性の光をお与えになっていました。これが自然法です。しかし、罪が多くなったがゆえに、天主は自然法を思い出させるものとして、モーゼに再びこの基本的な掟、十戒をお与えになりました。次に天主はさらに加えて、メシアの来臨を準備するための儀礼的な法をお与えになり(このように、旧約のいけにえに関する教えはすべて、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の完全ないけにえの前じるしです)、またある罪にはある罰を当てるという「裁判の法」をお与えになりました。このように、旧約には三種類の教えがあります。十戒のように道徳的な教え、儀礼的な教え、裁判上の教えです。

さて教会は、旧約の儀礼的な法は新約においてはもう有効ではないと教えています。旧約は新約の光で置き換えられた影(コロサイ2章17節、ヘブライ8章5節)のようであり、あるいは、それが表したもの自体で置き換えられた前兆(コリント第一10章6節)のようなものだからです。裁判の法は、特に一部の罪の重さに対して、指標的価値を保っています。旧約において死によって罰せられたものは大罪を表しており、それらは偶像崇拝、冒涜、殺人、姦淫などです。新約においては、ここ地上で負わせられる罰はもっとあわれみ深いものですが、これらの罪はやはり大罪であり、その罪に対して本当の償いがなされない限り、地獄での永遠の罰に値するのです。旧約の道徳の法はキリストによって廃止されたのではありません。まったく違います。むしろ道徳の法は、キリストによって、より高い基準にまで引き上げられました。私たちの主イエズス・キリストご自身が言われます。「あなたたちの正義が律法学士やファリザイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。そして主は続けていくつかの掟を説明され、新約においてはどんなに高い聖性が要求されているかを示されます。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな、殺す者は裁かれる』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒る人はみな裁きを受け、…」(るであろう)(マテオ5章21-22節)。

プロテスタントはカトリック教会の知恵を拒否しているため、これら三つの教えを区別することができなくなり、十戒を含めた旧約の律法を新約においてはもはや義務ではないものとして考えがちです。これは悪魔による大変な欺きです。悪魔は、あたかも彼らが罪を犯し続けてもよいかのように、「信仰のみ」で十分であるかのように、彼らを欺いているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストは非常にはっきりと言われました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。ですから、信仰を持つ者(すなわち『主よ、主よ』と言う人たち)が誰でも救われるのではなく、掟を実際にきちんと守り、御父のご意志を行う者だけが救われるのです。聖パウロはローマ人に対して同じことを言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。十戒を守るということは、基本的には愛さなければならないということです。「あなたたちは私を愛するなら私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)、また、「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ」(ルカ10節27章)は、「第一の最大の掟である」(マテオ22章38節)。

これは、私たちが自分の力で「律法を守る人」になり得るという意味でしょうか? いいえ。律法を守るために私たちにはイエズス・キリストの恩寵が必要です。私たちが掟を守るから義とされるのではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストによって私たちが義とされるから私たちは掟を守ることができるようになるのです。言い換えれば、義化は掟を守ることに続くのではなく、掟を守ることの前に義化があるのです。天主は過去の罪をお赦しになり、私たちに与えられる聖霊によって私たちの霊魂に恩寵を注いでくださいます。そして、私たちが十戒を実際に守ることができるようにしてくださるのです。これが大変重要です。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人のうちにいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。私たちの主イエズス・キリストがいないと私たちは何一つできず、永遠の命のために有益なことは何一つできません。しかし主と共に、主にとどまり、信仰、希望、愛によって主の愛にとどまるなら、私たちは「多くの実を結ぶ」のです。すなわち、多くの本当の善業を行うのです。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。主こそが私たちに、本当の善業を行うことのできる力を与えてくださるお方であり、その善業は私たち自身の栄光ではなく、主の栄光であり、御父の栄光のためなのです。主は言われます。「あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちのよい行いを見て、天においでになるおん父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「天主はあなたたちに常に十分に足るほどの物を持たせ、すべての善業のために余分な物があるほどの、あふれる恵みを与えられる」(コリント第二9章8節)。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストの法を守るため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします! そしてこの恩寵を、私たちは祈りと秘跡によって受けるのです。毎日祈りましょう! 善を行うために、私たちの主イエズス・キリストの助けを願いましょう! 特に誘惑を感じたときには祈りましょう! 祈りましょう、そうすれば罪に陥ることはないでしょう。主が皆さんを助けてくださいますから。

さて、モーゼがシナイ山で旧約の律法を受けたように、私たちの主イエズス・キリストは山の上で新約の法を明らかにされました。有名な「山上の垂訓」で、聖マテオの福音書の第5、6、7章にあります。真福八端で始まり、その後、新約の法では旧約の法よりさらに高いものが求められること、すなわち完徳が求められることが述べられます。「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。聖ルカの福音書においては同じ掟が与えられますが、ニュアンスがついています。「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深いものであれ」(ルカ6章36節)。

旧約は石の板に書かれており、これは多くのヘブライ人の心が固いことを表していました。モーゼが旧約の律法を受けたのは、最初の過越祭である紅海渡海から五十日後にシナイ山ででした。新約は「墨ではなく生きる天主の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」(コリント後3章3節)のです。ですから、天主の霊は、新しい過越祭である御復活の五十日後の聖霊降臨のとき使徒たちに与えられました。私たちの心に書かれたということは、誰もが自分の好きなことをするという意味ではなく、むしろキリスト教徒としての全生活が天主の愛によって、つまり新しい掟によって突き動かされるという意味です。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天主の愛によって突き動かされるということは、「天主の霊によって導かれる」(ローマ8章14節)ことであり、それは私たちに天主をお喜ばせすることをさせ、つまり私たちを掟に従わせるのです。そうするのは、奴隷的な恐れからではなく、天主への愛からなのです。

今年の初めにあたり、強い決意を固めましょう。私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするため、掟を守り、天国へ至る道を歩み、主に従い、主に倣うという決意です。洗礼の約束を更新しましょう。「私は悪魔を捨てます、そのすべての業を捨てます、そのすべての栄華を捨てます」、つまり悪魔の欺き、悪魔の誘惑…を捨てるのです。詩篇作者が次のように言うように、私は喜んで掟の道を走ります。「私はあなたの掟の道を走り、あなたは私の心を広くされた」(詩篇118章32節)。

私たちは、聖人たちの模範によって、とりわけ童貞聖マリアの模範によって、掟を守る道を歩むよう、大変勇気づけられます。聖母は天主の霊に非常に忠実だったため、掟を守る道から少しでも外れることは決してありませんでした。聖母はどんなことにおいても決して罪を犯しませんでした。聖母とすべての聖人が、私たちの主イエズス・キリストの掟を守る道を歩む私たちを強く助けてくださり、私たちが天主の恩寵によって本当に天主をお喜ばせすることができ、そうすることで天国へ行くことができますように! アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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