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長崎巡礼-霊的講話-2016年4月30日 シュテーリン神父様「なぜ殉教者たちは拷問を堪え忍ぶ事ができたのか」

2016年06月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話【その1】をご紹介いたします。どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年4月30日 長崎巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【その1】
同時通訳:小野田圭志神父様


私たちの主イエズス・キリスト様から多くのお恵みを受けたこの国で、10回目の巡礼をするのはとても嬉しい事です。

巡礼というのは、それに参加する人々1人1人にとって、多くの恵みの源です。皆さんはここに観光の為にいらしたのではなくて、光と力を、人生における光と力を受ける為にいらっしゃいました。ですからここで、皆さん心の準備、霊魂の準備が必要です。皆さんの心がもっとお恵みに開かれて、受ける準備があればあるほど、多くのお恵みを受けます。ですから、この巡礼をどのようにプログラムするか、という事が、巡礼のお恵みをどれほど受けるか、という事のキーポイントになります。このプログラムを見ると色々な、様々なお恵みが、皆様の中に入ろう入ろう、浸透しようとしている事が分かります。

まずお祈りをします。お祈りというのは、霊魂の呼吸です。お祈りは色々な形でなされます、例えばロザリオとか、或いは歌を歌ったり、或いは黙想をしたり、でもそれをする時に、皆さんの心で強い意志を持って、「私はお祈りをしたい、祈るんだ。」という固い意志を持って下さい。もしも小野田神父が「さあ今から50回目の歌を歌いましょう。」とか、「100回目の歌を歌いましょう。」1日の、「1日の 今日は200回目です。」と言ったとしても「またかぁ~。」と思わずに、「はい、歌います!」と考えて下さい。

何でこんな事を言わなければならないのでしょうか?何故かというと、巡礼の時の悪魔の誘惑、悪魔の攻撃の1つは、この指導司祭が、「じゃあ今からこれをします。」というと、「あぁ、またかぁ~。」と文句を言わせるテクニックがあるからです。

また別の巡礼のお恵みの入り方というのは、この霊的講話です。この霊的な講話というのは、私たちがお恵みを受ける為の畑を、この土台を、土壌を耕して準備する、という大きな役割があります。ですからこの講話の時は、「私はこの巡礼の間にたくさんの事を学びたい、学ばなければならない」いう思いを込めて下さい。皆さん巡礼に来て、「あぁ、こんな話知ってる、また聞かなくても大丈夫。」とは思わないで下さい、「私は学校の先生ですし、校長ですし」「私は会社の社長だから知っています。」と言わないで下さい。ですから「霊的講話の間では、お部屋で寝台の上に横になるのが良い。」と思わないで下さい。この人生の間で、今まで理解も、考えもなかった事を、イエズス様が特別に、この特別のお恵みで光を与えて下さる事があります。

もちろん巡礼には色々な所があります。世界中色々な巡礼地がありますが、私たちは今回、具体的に「日本」という、日本の殉教のこの聖地にやって来ました。イエズス様はこういう事によって、今日、現在、この2016年の今、私たちのこの今生きているこの霊魂に、この地を訪れている、この聖地に関わる特別のお恵みを与えようとしています。天主様の愛と真理が私たちの心に響いて、それが私たちを感動を呼び起こしますが、それはこの今ここで生きていた、ここで血を流した聖人たちが、これを私たちに示して下さるからです。

今回のこの巡礼の最初のステップは、日本の殉教者たちが私たちにそれを示してくれます。昨日私たちの訪問した所では、それほどもあまりにも多くの人々の、多くの殉教者の、多くの聖人たちの血が、たくさんたくさん流されたものである、という事に私はもう驚いて、本当にもう信じられない思いがしました。皆さん、その殉教者がどれほど恐ろしい拷問と、どれほど恐ろしい取り扱いを受けていたか、という事を知って、皆さんショックを受けた事だと思います。その同じ事を今日、1日中色々な所を見て、想いを重ねる事でしょう。

私たちは何故このような、これほどの物凄い拷問を、殉教者たちが堪え忍ぶ事ができたか、というその理由を今日聞きました。それは愛です。では今日この巡礼をしながら、この事を考えて下さい。一体何が、殉教者たちにそれほどの強い力を与えて下さったのか、剛毅を与えてくれたのか、これを考えて下さい。

一体何故、この殉教者たちがそれほどの英雄になる事ができたのでしょうか?これは個人的な力強さとか、個人的な性格、性質に依ったのではありません。それはその例は、この福者聖ジュリアン中浦の事で分かります。福者ジュリアンの一番のこの殉教での苦しみは、自分の長上が、敬愛する神父様が管区長が、信仰を否んだ、それを聞いた時です。このイエズス会の管区長は、日本に特別に選ばれて送られて、日本の回心の為に非常によく働いて、頭も良くて、その日本の宣教を組織して、多くの貢献をした人でした。この素晴らしい管区長でさえも、6時間の逆さ吊りでギブアップしました。皆さん、皆さんがもしもそのような逆さ吊りになったら、1人も残らず10分でギブアップするでしょう。例え皆さんが、日本で、世界で一番力強い、忍耐強い人であったとしても、10分でギブアップします。

カトリックの教えによれば、「天主様の恵みによってだけのみ、私たちはそのような苦しみに堪え忍ぶ事ができる」とあります。皆さん、この子供たち、殉教した子供たちがスーパーマンだと思わないで下さい。皆さん言うかもしれません、「あぁ、この子たちは殉教者で、私たちはそのそれよりもはるかに遠くにいる者です。」と。もしも皆さんが針の、小さな針をちょっとこう刺されただけで、「あぁぁー!」と言って、もう耐える事ができないかもしれません。でもよく考えて下さい。私たちが本当に「素晴らしい」と考えるこの殉教者たちは、私たちと同じ人間です。彼らをこのままこうやって堪え忍ばさせたのは、天主様のお恵みでした。

では更にもっと話を進めます。一体どこからこのお恵みが来たのでしょうか?これもカトリックの教えで、全てのお恵みと、全ての光はイエズス様の聖心から来ます。でもイエズス様の至聖なる聖心は、そのお恵みを流す運河があります、流す水道管があります、流す道があります。イエズス様は、十字架の上で勝ち取った全てのお恵み、全ての聖寵を全て、マリア様に与えました。私たちはこの結果として、お恵みの結果として見た、この殉教者たちのこの素晴らしい、この殉教のお恵みの第1の源は、イエズス様の至聖なる聖心です、しかし第2の副次的な源は、マリア様です。

殉教というのは、私たちの人生の最高の最後の、最終の実です。この殉教を果たした方々のそのそれまでの人生というのは、殉教を準備させる恵みの蓄積がありました。殉教者のほとんどの方々は、元々は異教徒でした、信仰を持っていませんでした。多くの人々は罪の中に生きていました。この人たちは、昔は間違った神々を拝んでいました。宣教師たちがやって来た時に、最初のお恵みを頂きました。でもこの宣教師たちは、単なる手段に過ぎません、道具に過ぎません。聖フランシスコ・ザビエル、またイエズス会の神父様たちが日本に来た時に、福音を聞きましたけれども、全てが全て、福音を受け入れて信じたわけではありません。宣教師たちが、宣教師たちは耳に福音を告げ知らせましたが、耳から心まで、誰か別の方が、それを浸透させなければなりません。この耳から心に伝わされるのが、天にまします私たちの御母、マリア様の特別の役割です。

マリア様がこの国に宣教師を送りました。マリア様が、まだ異教の暗闇の中に住んで、間違った神々を拝んでいるような人たちの心を準備しました。マリア様から送られた宣教師が宣教して、マリア様が準備した霊魂がそれを聞いて、その2つが合わさった時に、1つになった時に回心が起こります。

例えばこの26聖人の内の1人は、他の殉教者たちが、殉教の為にこう旅をしているのを見て、そのまだ洗礼を受けて数ヶ月にも経たない者が、その模範を見て、「あっ、僕もこれに一緒になりたい!」と言って殉教しました。なぜ天主様の御摂理が、この人を選んで、この人じゃなかったのか、それは本当に神秘の中にあります。

私たちが本当に素晴らしいと感嘆しなければならないのは、天主様はその時に、この人に、こういうお恵みを与えると、その人はそれに、「はい!」と答えて、それを実行した、という事です。天主様の御摂理は、日本にいる、或いは世界中にいる他の人々ではなくて、今ここで、皆さんにこうやって語りかけている、というのも御摂理です。天主様は今ここで、皆さんに直接にこうやって、宣教師を使って話かけているので、今日、皆さんは、天主様の御旨に答えなければなりません。

殉教者の数名は私たちの非常に近くにやって来ます。私たちと同じように、ちょっと前までは異教徒だった、ちょっと前までは罪人だった、罪ばかり犯していた、という人が殉教者です。お父さん、お母さん、子供たち、老人、男、女、皆が殉教しています。皆さんが今そうなさっていると同じように、この人たちも殉教者たちも、天主様の御摂理のお恵みに触れたのです。宣教師が話すこの裏側で、マリア様が皆さんの心に語りかけています、「我が子よ、我が娘よ。今度はあなたの番ですよ。」

昨日黙想しましたし、今日も黙想しますが、殉教者たちはそのようなマリア様のお恵み、働きかけ、或いは天主様のお恵みを受けて、どうやって答えたかを私たちは見ました。パウロ三木とそのお友達、殉教しなかった一緒に住んでいたようなお友達との違いは何でしょうか?パウロ三木は殉教まで行って、その別の一緒に住んでいた友達は、そのまま信仰を受けずに、そのまま亡くなりました。その違いはどこにあったのでしょうか?

1つしか違いはありません。パウロ三木は、「はい、そうします。」お恵みに、「はい。」と答えたのですけれども、その一緒に住んでいたような別の人々は、「嫌だ。」と答えたのです。

マリア様は、大きな偉大な業を、私たちに於いて、或いは殉教者に於いてする為に、私たちや殉教者を必要としていません。私たちのこれは過失ですけれども、マリア様が私たちに、どれほどたくさんのお恵みを与えようとしているか、という事を私たちは信じていないのです。もしもマリア様がどれほどの事を与える事ができるか、という事を信じる事ができるようになる為には、この殉教者の1人1人の生涯を見て下さい。私たちは今数時間ここに来て、いるばかりです、1日も経っていません。

12歳の子供、この子供トマス小崎。この小さな子供が牢獄でお母さんに書く手紙。マグダレナ、長崎のマグダレナ修道女。この1人で、他の何十人もの神父様たちよりも、もっと長い時間、長い何日も苦しんだ方。そのような1人1人を見ると、一体どうしてこんな事ができたのか。マリア様はこう答えるでしょう、「私にとって問題ではありません、簡単です。」マリア様がこの殉教者を作り上げたのです、お恵みを与えました。マリア様がまずこの殉教者たちの心に、回心の恵みを与えました。それから聖化のお恵みを与えました。

フォルティン神父様が今朝お話しして下さったように、人生の間には色々な難しい困難がありました。私たちと本当に近い存在です。まず彼らが回心してクリスチャンになった時に、日本とは違う、日本の他の宗教とは違うような事を、習慣をし出したので、家族の反対があったかもしれません。近しい友達や友人たちから、「何かおかしい人だ。」と軽蔑されたかもしれません、馬鹿にされたかもしれません。皆さん私たちと同じです。ここにいらっしゃる皆さんは、本当に月から来られたかのように、この地上に生きている他の人たちと違っているようです。「何でこう、この人たちは頭に何かかぶっているし、何でこういう服を着ているんだろう。」「何かカラスのような黒い服を着た人がいるけれども、一体何なのだろうか。」

今から何百年前、キリシタンの時代も、「この人たちは、一体何でこういう風になっているのだろう?」でも、この同じカトリックの信者さんがやった事は何だったのでしょうか?この西坂の丘で亡くなった方を見て下さい。この殉教者たちは確信がありました、「私たちは、この天と地で持てる、最も大切な宝を受けた者だ。」と。

このガイドブックを見て下さい。この殉教者たちが何を考えて、どんな生活を、何を言ったのか見て下さい。彼らは殉教者たちは、この地上の価値が、この地上が何の為にあるのか、よく分かっていました、「この地上というのは、永遠の喜びを受ける為の準備の機会に過ぎないものだ」という事を。この、この地上でたった1つだけしか悪がない、という事を知っていました。これが、「罪を犯す」という事。それ以外は何でもない。もっとよく分かっていたのは、「天主様は彼らの事をどれほど、溢れるばかりに愛していたか」という事をよく分かっていました。

今日私たちが今から行く所は、何千、何万の人たちが、御聖体に対する特別の信心を持っていたという事です。皆さん私たちと全く同じではないでしょうか?何故かというと、今現在、教会の中でさえも、天国の事や、地獄の事や、この地上の価値について話す人はいません。でも皆さんはよく聞いています。この世の人々は、天主様があたかも存在していないかのように住んで生活しています。しかし皆さんは、「天主様は私たちの事をどれほど愛しているか」その溢れるばかりの愛について、何度も聞いた事がありますし、その愛の証拠として、御聖体があるという事も知っています。

この殉教者、何千もの殉教者が受けたと同じお恵みを、皆さんも受けています。これはマリア様のおかげです。

この殉教者たちの別の反応があります。この殉教者たちの何名がカテキスタ、宣教師だったでしょうか?この殉教者たちの心の中に燃えていた、大きな望みというのは、「願わくは、私たちの隣人たちが、友達が、この救いの道を知る事ができるように、救いに辿り着く事ができるように。」その事だけでした。この福者ジュリアン中浦が、ローマのイエズス会の総長の代理に書く、その手紙の内容を見て下さい、読んで下さい。そのジュリアンの命を狙ってそれを逮捕しよう、捕らえようとする多くの人たちが探して、探して探して探して、捜索して、探し回って、ジュリアンはそれに隠れて、隠れて隠れていたのですけれども、そのジュリアンが望んでいた事は、「彼らが救われる事、彼らが幸せになる事」でした。

この殉教者たちは、道すがら、十字架の上にかけられながら、1つした事があります。それは、彼らが真理の道に辿り着くように、イエズス様についての話をした事です。これもマリア様のお恵みです。皆さんがこうやって、「イエズス様の教えを他の人に伝えよう」という宣教師のように、宣教的になるという事は、マリア様がここにいらっしゃる、という事のしるしの1つです。

その数百年のちに、マキシミリアのコルベ神父様がここにやってきます。マリア様から送られてきました。何故かというと、この殉教者たちのこの線の、その線上、延長上にあるからです。

マリア様が私たちの心に入ってくると、その瞬間、マリア様は私たちがご自分の道具になる事をお望みです。レジオ・マリエや無原罪の聖母の騎士が、20世紀の最初にその事をやりました。マリア様の汚れ無き御手の道具として、惨めな罪人たちが、多くの罪人たちがその道具として、マリア様の道具として、多くの人々をイエズス様の方に回心させました。それと全く同じ事を、マリア様はこの日本の地で、殉教者を通してなさいました。

皆さん今日、色々な殉教の地を訪問して、巡礼に行く時に、この特別のポイントをよく考えて黙想して下さい。ここでは100人や1000人ではなくて、何万人もの人々が、殉教のお恵みを得るほどの為に準備をされたからです。皆さん、殉教の準備をするという為には、美しいお説教や、美しいスピーチをするよりも、もっと多くの努力と、もっと多くの年月が必要です。パウロ三木と私たちを比べています。パウロ三木が口を開いて、この見物をしているその群衆に語りかけると、皆はそれを目をカッと開いて、耳を大きく開いて、シーンとして、パウロ三木の言葉を1つ1つ聞いて、その言葉を聞いた後で、「確かにそうだ、うん!」と言って、心は燃え立たせられて、殉教さえもする覚悟ができました。しかし私たちが話をすると、皆沈黙を守って、頷きます。(笑)

私たちはその最高の頂上の所にやって来ました。このトップ頂上は、報いであって完徳です。マリア様の為に、長い年月働く事ができる方もいます。殉教者のほとんどの人々が平信徒でした。皆さんと同じ平信徒でした。中には回心して洗礼を受けて、それから、「私はカトリックだ。」と言った途端に殉教した人もいます。しかしこれらを通してマリア様は、本当に小さな弱々しい罪人を、どれほどの大聖人に変える事ができるか、どれほどの力を持っているか、という事を示しています。

私たちの生活は3つの段階があります。

第1は準備です。これは私たちが回心する時です、天主様の命を生き始める時です。

第2の段階は、私たちが働きはじめる事です。私たちがイエズス様の教えを伝えたり、説教したり、話したり、多くの霊魂をイエズス様の方に引き寄せる事です。皆さんも同じです、今日、この皆さんのこの人生の間に。

第3の段階は苦しみと死です。皆さん誰もかれも行かなければなりません。もしも皆さんの中で、「私だけは死なない。」と言う人がいたら、精神病院に連れて行ってあげます。マリア様はこの人々が普通の死を遂げるのは望まれませんでした。マリア様は、この地上のありとあらゆる悪を、更に大きな善の為に耐え忍ぶ事ができる、という事を教えようとします。マリア様は許可します。何を許可するかというと、天主様の敵が、その憎しみをかき集めるのを許可します。特に悪魔、悪魔的な悪魔の憎しみをたくさん集まるのを許可します。拷問をして、辱めの苦しみで虐殺する。千人、何千人もの人々を虐殺するという事は、霊魂を破壊する為に肉体も破壊する、というそのような物凄い事が起こったのです。

人間的に言えば、もう誰もかれもギブアップしてしまうようなその時に、私の肉体が全てもう、もう破壊し尽くされたその時に、この心から大きな愛が沸き起こってくるのです。

「愛する」というのは、ただきれいな言葉を言うだけではありません。一生懸命働くだけではありません。「友人の為に自分の命を与えるほど大きな愛はない。」これです。これが殉教者によって起こった事です。拷問の中で最も最悪の拷問は、マリア様が受けたもので、それはご自分の子供が十字架に付けられて、亡くなるのを、その十字架の足下で立ち留まってご覧になる事です。

殉教者たちの苦しみと死の瞬間に、何が起こったでしょうか?もう耐える事のできないようなこの苦しみの中に、突然光と力がやってきます。突然眼が現れて、この殉教者たちの目をご覧になります。これはマリア様の母の眼です。マリア様の愛の御心から、皆さんの心に大きな愛の恵みの流れが流れ込むのです。マリア様はこの現存に於いて、マリア様はサタンの頭を踏み砕くのです。殉教者たちは、悪魔の憎しみを、より大きな天主の愛によって打ち勝ったのです。彼らは永遠に生きる為に、この地上の命に於いて亡くなりました。マリア様はその死の瞬間、彼らの霊魂をすぐに天国に運びました。

皆さん、必ず皆さんは一人残らず苦しみます。でも皆さんがこの地上で受ける苦しみは、この殉教者の苦しみの拷問などから比べると、ほんのちょっとしかありません。ですから皆さんがこの地上での戦いに勝利を治める事を望むなら、もしも苦しみに打ち負けてしまう事を望まないなら、殉教者の姿を見て下さい、マリア様を呼びかけて下さい。マリア様は助けて下さいます。この事を皆さんは、もう過去に何度も何度も経験したはずです。マリア様はどれほど皆さんの苦しい時、試練の時に慰めて下さった事でしょうか。殉教者たちは私たちにこう語りかけています、「恐れるな。」

もしもマリア様がこのような小さな可愛い子供を、これほども偉大な英雄に仕立て上げる事ができるなら、皆さんのような本当にもう役立たずの下らないものも、大聖人にさせる事ができます。

もう時間になりましたので、今から巡礼の地に詣でます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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