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ローマと聖ピオ十世会の関係について(後半) 2016年5月22日 聖ピオ十世会レネー神父様による講話

2016年06月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長


前半の講話の続き・・・

レネー神父様:ご質問は?

質問者Aさん:あの、先程の従順と不従順の中で、非常にこう分かりやすい、例えば「跪いたらダメだ」とか「天主はいっぱいいる」とか、そういう分かりやすい信仰を「No」とは言いやすいのですけれども、ものすごくこう繊細な、「教皇様は本当に異端じゃないのか」とか、あと「同じ聖ピオ十世会の神父様でも、“上の長上の言っている事が間違っているから私たちは出ます”というレジスタンスになる」だとか、そう非常にこう微妙な問題が出た時に、私たち一般信者たちはどういう判断を下していけば良いのでしょうか?

レネー神父様:まず信者、それから神父様たちもそうなのですが、まず最初に想像するのは、「上長が、上司が、上が言うんだから、正しいんであろう。」と、まず推定する、と。「明らかにそれが間違っている」という証拠があるのであれば、それは拒絶しなければいけないけれども、「どちらか微妙で分からない」という時は、上長に言うように従うのが正しいのです。

例えば1960年代、70年代に「新しいミサ」というのがありましたけれども、これは新しいミサを作るのに、プロテスタントの牧師が6人参加しました。「これは明らかにおかしい。」と。これは誰が見てもおかしいので、これは拒否しなきゃいけない。或いは「御聖体を手で受ける」そんな事は教会の歴史でこれまでありませんでした。「これは明らかにおかしい。」と。そういう事については反対します。

例えばルフェーブル大司教が反対されたのは、第二バチカン公会議でおかしかった事、新しいミサでおかしかった事が導入されてから、「明らかにこれはおかしい」という事で、「これはできません。」と仰いました。

前に私は文書を書いたのですが(※1)、そのレジスタンスという、先程例があった人たちの言ってる事は、「いや、何かフェレー司教様がここで言ったのは、こういう“感じがする”【主観】」とか、「こういう“調子で言っている”【思い込み】」とか、非常に不確かな、証拠も無い事に関して自分の上長に、「だから反対」。これは態度としておかしい、と。

私たちも皆さんもやらなくてはいけないのは、「自分の上が上長が言った事は、『明らかにそれは違うだろう』という事で、拒否しなければいけない事がなければ、まずは従わなくてはいけない。」と。

ルフェーブル大司教の、まずそのレジスタンスの方が言っているのは、例えば「フェレー司教が後でこういう妥協をするだろう【予想】。だから私はもう反対します。」という風に言っています。

それと対照となるのは、例えばルフェーブル大司教が仰ったのは、「第二バチカン公会議が起こった後、その実がどうであるか。」例えば新しいミサに関しても、一番最初の頃は、来た神学生に対して、「新しいミサに行って良い。」と仰っていました、ルフェーブル大司教は。実際にその新しいミサに行った時に、「どういう実が出るのか、本当に良いものなのか、大丈夫なのか。」で、それが「悪い」という事になって、それがはっきりしてから、行くのを禁止されました。

例えばシャザール神父がマニラにいた時に、「私は上長の言う事は聞きたくない。」という風に言っていました。例えばクチュール神父様が上長なので、「ちょっとヒゲを切りなさい。」と言っても、「いや、それには応じられない。」と言っていました。上長が言った別に何も悪い事がない命令なのに、まずそれに対して反対する、というのは良くない事です。この時にシャザール神父が言っていたのは、「私はヒゲを伸ばしているのは、その“抵抗のしるし”なんだ。」と。「だから応じないんだ。」と言っていたのですけれども、上長が言った、法に基づいた命令、正式の命令に関して、そういう意味を持って反対するというのは、これはおかしな事です、非常におかしな事です。

例えば聖ピオ十世会を見て頂いたら分かりますけれども、過去からずっと、教えている事も、典礼をやっている事も、全くどこにも変わりがありません。いわゆるレジスタンスが反対するというのは、「実際、教皇様と話をしている」という事について反対していたのです。

「教皇様と話をしている事に反対する」というのは、「教皇様と話をする事さえ反対しているのに、カトリックである」というのは、非常にこれはおかしな話です。

例えば、フェレー司教様が間違いをした時に、「いや、それは明らかな間違いなので従えません。」これならばよろしいです。そういう証拠が無い時には、「私は従います。」これがカトリックの立場です。

カトリックには、「天主様のご意志というのは、私たちが自分の義務を守った時には、天主様がいつも守って下さる。」というのがあります。ですから、自分の上長に間違った事をする人がいる時、というのは非常に注意しなくてはいけませんけれども、でも原則は「従う」。どうしても「これはおかしい」という「証拠」があれば、「従わない」という事が原則なのであって、「この人が悪い事をしそうだから、いや、無視するんだ。」とか、「最初から従わない」というのは、カトリックの方法ではありません。


質問者Bさん:ある司祭にこう聞きました。そうすると、この「カトリック教会が間違っていた、間違ったんだ」と。「100年前から間違った」とか、或いはね、「ニケア公会議から間違った」で、「『Immaculata Conceptio(無原罪の御宿り)』とか『Assumption(聖母被昇天)』」ね。「これも間違いなんだ。」というような事なんでしょう?「間違えたのだ。」と。

信徒会長:そういう方がいらっしゃる、と。

質問者Bさん:えぇそういうカトリックは間違っていたという教えを、セミナリー(神学校)辺りで教えてるから、みんな今そういう傾向なんですね。それはどういうような?

レネー神父様: 今挙げて頂いたのはちょうど良い例で、そこまでおかしければこれは明らかにどう見ても、「仰る通り」という訳にはいきません。ですけれども、「証拠が無くてよく分からないけれども」という時は、「まずは従う」というのがカトリックの立場ですけども、今の例であれば、もうこれは明らかに違うので、もう論を待たずに、「それはちょっと違いますね。」と。「言う事には従えません」「仰る事には従えません。」

質問者Aさん:何度もすいません。あと、あの信者さんたちが一番怖いのは、「色んな事をたくさん知りたい」とか、「色んな事を勉強したい」というのがありますが、例えば日本の場合は聖ピオ十世会の神父様が常駐でいらっしゃらない。頼る知識というのは、本とかインターネットとかテレビとか、色んなその情報媒体なのですけれども、そこには沢山のその「嘘」とか「偽善」とか「異端」とか色んなものが入り混じっていて、でも自分がその間違っている所に、「良い」とか同調した部分があった場合に、それを信じ込んでしまう危険がある、全く異端の事を信じ込んでしまったりする場合もあるのですけれども、そういう事をなくす為に、何かアドバイスとかありますでしょうか?

レネー神父様:まず、「聖人」の書いたものは非常に信頼ができます。これは注意して頂きたいのは、「聖人」の書いたものであって「聖人をフォローしている人」の書いたものではないという事です。聖人のご自身の書かれた本。日本語で翻訳されているかどうかよく分かりませんが、そういうものはそれ自体は大丈夫です。

例えば皆さんがそれで、インターネットで良いものを探している時は良いものに当たるのでしょうが、良くないものはたくさんあります。良いものもありますけれども良くないもの物もあるので、よく見て選んで下さい。

それで書きもので言いますと、良い教皇様、基本的には「1960年より前の教皇様が出された文章」であれば、これはほぼ信用に足りるものなのでぜひ読んで下さい。1960年以降のものは、悪いものとは言いませんが、良いものと悪いものが混ざっています。良いものが9割あって悪いものが1割あっても、これは非常に混乱の元です。どれが良いとか悪いとか言わなきゃいけないので、基本的には避けた方がよろしいでしょう。

そういう聖人以外にも、ここにあります「ドン・マルミオン」ですとか、「ドン・ショタール」ですとか、「ドン・スクポリー」ですとか、こういう方の書かれた本は非常に良い本です。それから一般的に言いますと、「良い方によって勧められた本」というのは良い本であるという事です(※2)。

本の読み方ですけれども、インターネットではなくて本ですが、読む時には、「5ページ読んで、またこっちに行って10ページ読んで」という風にはしないで下さい。良い本がありましたら「一番最初から最後まで」読んで下さい。この「秩序立った話を読んで、自分の知識がしっかりする」というのが非常に大事な事です。それと比べて、例えばインターネットでしたら、「ここで1ページ読んで、ここで2ページ読んで」というバラバラの知識になるので、良い秩序が生まれませんので、良い本を見つけた時は、最初から最後まで全部読んで下さい。

それからさっきのインターネットの事ですけれども、プロテスタントの方が書いたものだとか、そこには良い事も悪い事もあるかもしれません。そういうややこしい所にはそもそも行かない方をお勧めします。先程言ったように、混ざっているものは非常に危険というか、混乱の元になります。

例えば「SSPXのサイト」だとか、SSPXは関係ありませんけれども「ロラテ・チェリ」というこれは英語ですけれども、そこのウェブサイトだとか、「Life Site News」というのは、pro-lifeの関係の英語のウェブサイトですとか、こういう所は比較的良いものが載っています。

あと本については、今仰った通り、最初から最後まで通しでしっかり読んで下さい。

例えば現代の人というのは、よく毎日のニュースを追っかけて見たりしますけれども、それが現代の病のようなものだと思いますが、「今はこれだ」「今はこういうニュースだ」と言ったとしても、明日になったら忘れ去られてしまいます。

例えば「トリビアだ」と言って、「二十何年前のこの試合がどうだった、こうだった」と覚えてみても、それは「無くなってしまう知識」です。それと比べて、聖人の書いた本というのは、「永遠の意味がある内容」が入っています。ですからこれを読んで頂くと、「永遠にずっと、一生役に立つ知識」が得られます。

それと比べて、毎日毎日ニュースを追いかけているだけ、というのは、「明日意味の無くなるものを見ているだけ」という事になります。


質問者Cさん:すみません、これから洗礼をちょっと一応受けようと思っているのですけれど、近くの教会だと、普通の、「トリエント・ミサ」じゃなくて、普通の日本語とスペイン語でミサをされていて、聖体拝領も手でされているような感じなんですけど、やはりそういった所は避けるべきでしょうか?

レネー神父様:主が、私たちの主が仰ったのは、「これが私の体であり、私の血である。」と仰ったのですけれども、例えば「ユスティニアヌス」という人がその50年後に本に書いているのですが、「確かに、イエズス・キリストがこう仰いました。」と。「自分の体であり、自分の血である。」と。「50年前で、私の父から聞いた」というのは、もうその本人、「使徒の本人から聞いた」という事で、一番最初からこれは伝統なのです。

私たちがずっと使徒から持っている信仰というのは、「その御聖体の中に、イエズス・キリストが本当におられる。」で、「本当のイエズス・キリストなので、それを礼拝しなければいけない。」という事です。

ところがそれはいいのですけれども、それに応じて、例えば今私たちはカトリックの中でもこれは西の典礼なので、「御聖体を跪いて舌で受ける」という事で、これは例えば東の典礼でありましたら、昔今もそうですけれども、「御聖体を御血の方につけて、スプーンで口に与える」という事もありますが、どちらにしても、キリスト教の伝統というのは、「御聖体の中にイエズス・キリストが現存しておられる」という事を信じているから、そういう形を取っているのであって、その証拠に16世紀になった時に、プロテスタントが跪いたり、口で御聖体を受けるというのやめたのですけども、それは「そういう事を信じていないぞ。」というしるしの為に、プロテスタントの人がやった、「私たちは、そのパンの形の中に、イエズス・キリストはいないだろうと思う。その反対をする為に、いやそれは手でもらっていいんだ。それはパンに過ぎないんだ。」という事を始めた、そういう経緯があります。

1960年代になって、近代主義者の人たちがこの「立って、手で受ける」という事を再び導入したおかげで、信者の方が「信仰をなくす」という事が起こりました。これはその、前2000年間やってきた正しい伝統をやめてしまったので、悪い結果が生まれたという事です。

違う面から言いますと、例えば私の経験で、小さい子供、3歳、5歳、10歳の子供でも、大人がみんなちゃんと跪いて舌で御聖体を受けていると、「あ。これは何か特別なものを受けているのだ。」と。「大人の人が。」「私もこれをもらいたい。」と思って、同じようにこう跪いて口を開けて待っている、というのを見たら分かりますけれども、カテキズムを勉強しない子供でも、「これが普通のパンではないのだ。」という事が心の中で分かります。

ところがプロテスタントの影響がある所を見てみますと、プロテスタントの方も、新しいカトリックの典礼もそうですけれども、立って手で受けていると、「これが何か分からないであろう」と。実際そういう事が私にもあったのです。新しく聖伝のミサに来られた方で、そのお父さんお母さんは跪いて受けられたのですけれども、12歳ぐらいの子供がよく分からなくて、手を出してこうやって、「下さい。」と言ってきた、と。「そうじゃないですよ。」と言って、ミサの後に、「どうしたの?」と聞いてみて、「あれは何をもらっているか分かってる?」と言ったら、「何かよく分からない。何かよく分からないけど、私も皆ももらっている。」

こういう風に信者にとっても、「一体その御聖体というのは、どういう事なのか」というのが分からないような、後で信仰を無くしてしまうようなやり方なので、信者にとっても良くない。「天主様を礼拝する」という、「正しく礼拝する」という事で、手で受けるんじゃないでしょう、という事でも大事ですし、「信者の為にも」大事な事、2つ大事な事があります。


質問者Dさん:あの、Yahooニュースか何かなのですけれど、教皇フランシスコ様が、何か女性が、何か聖職者か何か検討する、という風なものがあるのですけれども、もし仮に、可能性はないとは思うのですけれども、もしそれが結論に達した場合、それに従うべきなのでしょうか?

レネー神父様:「教皇様」というのは、教皇様であっても変えられない事があります。例えば「秘跡が7つある」というのは変えられません。それから「『御聖体を作る』という事は司祭しかできない」という事は、これは天主が決められた事ですから、教皇様が変えられる事ではありません。それから「神父になるのは男しかない」というのも、これも教皇様が変えられる事ではありません。

その今話題になっている、「『助祭』のような人が、聖書に書いてあるんじゃないか」と「女性ではないか」という話なのですが、これはその時の様子を見てみると、「どういう人であったか」というのは、おそらく「60歳以上の人で、未亡人の方で、非常に信心深い方」で、「主に何をされていたか」というと、どうやら「当時の女性が、洗礼を受けるのを手伝われていた」と。何故かというと、当時の洗礼というのは、「全浸礼」と言いまして、頭に水をかけるのはではなくて、こうプールのような川のような所に全部入る事をしていたので、服を脱いだりしなきゃいけない事があるので、「これを神父がやる訳にはいかないだろう」という事で、「その世話をしている人を『助祭』というような名前で呼んでいた女性であった」という事なので、後は貧しい人を助けていたかもしれませんけども、これは現代で言えば『修道女』がやっている事なので、いわゆる『叙階された助祭』というのは全然話が違う。それを『助祭』というものに教皇様がする事はできません。

例えばそうは言いましても、新しいミサでは、祭壇に登ってお手伝いをするのに女の子が行ってみたり、女性が行ってみたり、或いは、聖書を読むのに女性がやってみたり、という事があるのですけれども、これもいわば、「なし崩しにやってきた事」で、「本来あるべきではない」。何故かというと、その聖書を読んだり、祭壇の上で神父様の手伝いをするというのは、元々は「神父というその叙階される前の段階、もっと下級の品位の叙階」という事はあったのですけれども、そこに、それはバチカンが廃止してしまったのですけれども、そこに叙階される、その代わりをやっていたので、これは「男だけである」という事だったので、それを混ぜこぜにしてしまってはいるのですが、で非常に怪しい事をしていますけれども、「女性を叙階する」という事は、いくら教皇様でもできない、という事で、それだけは明らかです。

「どうしてじゃあ、司祭は男性しかできないのだ」という事ですが、色々教会も考えたのですけども、基本的な答えとしては、「主が男性ばかりを選ばれたのだろうから、主の事を信じましょう。」と。「きっと理由があってされたのでしょう。」というのが一番代表的な答えです。それ以上詳しくすると時間がもっとかかってしまうので(^^;

(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書

ローマと聖ピオ十世会の関係について(前半) 2016年5月22日 聖ピオ十世会レネー神父様による講話

2016年06月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長


先程話ました、最近フェレー司教様がアメリカの新聞とインタビューされた件について、ちょっとお話させて頂きたいと思います。

【信仰も典礼も道徳も1つのもの、これを分けることはできない】


「聖ピオ十世会が一体どういう事をやっているのか」という事で、日本語で何といいましょうか、忠実ですか。信仰に関しても、それから道徳に関しても、典礼に関しても、教会に関しても、聖ピオ十世会は「いつも忠実である」というのが原則です。この全ては当然教会の中にあるものですけれども、分かれているものではありません。全部、信仰も、道徳も、典礼も、教会も、全部1つのもので教会の中にあります。ですから、この3つのどれかが欠けても、「教会の中にいる」という事は言えません。当然1つのものです。例えば「教会の外なのに信仰を持っている」というのは、それは矛盾していますから、そういう事は起こり得ません。

ですからこの「忠実」という事、単純なようなのですけれども、世の中にはこの私たちが「忠実であろう」とする事を、「忠実でないようにしてくる力」があります。それでこの私たちが「忠実でありたい」と思っているのですけれども、それをさせないようにする力は、教会の外からも内からも来る事です。例えば「外から」来るというのは、例えば共産主義国に住んでいたらそうかもしれません。ムスリムの国に住んでいたらそうかもしれません。しかし、教会の「中から」もそういう力がかかってきます。これが聖ピオ十世会始まった時からの立場で、ずっとそうでしたし、今日もそうですし、これからも変わる事はありません。


【近代主義との闘い:ルフェーブル大司教の生涯を見る】

歴史をまず見てみたいと思います。ルフェーブル大司教が生まれたのが1905年です。1929年に司祭に叙階されました。それで1932年からミッションに行かれます。1945年に上長になられて、1947年に司教になられます叙階されます。1948年にローマ教皇の使節となりました。1959年にアフリカのダカールという所の大司教になられます。1962年にはフランスのチュールという所の大司教に任命されて、その後「聖霊修道会」という所の総長になられます。1968年にその聖霊修道会という所を辞められました。1968年に辞められた後に、1969年になって、神学生がルフェーブル大司教の所に来て、「あの、すいません。あの、司祭になりたいのですけれども」という事を言って、1970年に聖ピオ十世会が修道会として出来ました。

1905年に生まれて、大変良い家族で8人兄弟の1人なのですけれども、複数司祭が出て、それから修道女も何人も出た兄弟でした。そして23歳の非常に若い時に叙階されまして、1929年ですね。そして1932年にガボンのミッションに行かれて、それから1945年からは哲学の教授をされていました。1947年に司教に叙階されたという事です。

私は、このさっきの聖霊修道会の神父様が書かれた本を読んでいるのですけれども、それが面白い事に、ルフェーブル大司教に非常に反対した方で、1963年に、ルフェーブル大司教のやってらっしゃる事に反対で、その聖霊修道会を辞めてしまった、という方の書かれた本なのです。いわばルフェーブル大司教の敵のような方なのですけれども、この人の書いた本なので非常に面白い。

何が面白いかと言いますと、例えばルフェーブル大司教が自分で仰っていたのですけれども、「子供の頃から非常に、生まれたフランスの北の方の町ですけれども、リベラル(自由主義)なアイデアがあって、学校に行ってもそれが普通の事で、特に、教会と国家の関係だとか、そういう事に関してはリベラルな考え方が周りで普通で、それを吸収していた。」「ところがローマに行く時に、この非常に良い神父様と会った」と。


【ローマのフランス神学校とル・フロック神父様:近代主義との戦いはすでに始まっていた】

これでローマの神学校の先生だったのですけども、ル・フロック神父様という方がいらっしゃって、その方は神学生に教えてらっしゃったのは、「“現代の問題”というのを、現代の考え方じゃなくて、歴代の教皇様たちが、聖ピオ10世とかピオ9世とかグレゴリオ16世とかレオ13世とか、歴代の教皇様たちがどう見てきたか、という見方で考える事を教えてくれた」と。その中でさっきの例えば、「教会と国家の関係」に関しては、教皇様の書かれたものを見てみると、どういう事を言っている事かというと、「国家というのが、まずその教会というものを認めなくてはいけない」と。国家と教会がただ分離するのではなくて、一緒に、それは霊魂と体が一緒になって人間になるように、一緒に活動しなければいけない」というような事を教わって、で、ルフェーブル大司教は、「自分の間違いにここで気づいた」という風に仰っています。

1907年に聖ピオ10世が、近代主義者を批判する文書を出されました。これで1907年に聖ピオ10世教皇が近代主義者を批判する書類を出されたのですけれども、(教会の中の)近代主義者の方は、これで聖ピオ10世と違う事を考えていたので、いわば「仕返しをしよう」と思って、1926年に、「アクション・フランセーズを批判する」という文書を出しました。

「アクション・フランセーズ」というのは、これはフランスの問題で、日本の方には関係ないかもしれないですけれども、ちょうど歴史の話なのでお教えしますと、このフランスの運動に関しては良い所と悪い所が混ざっています。良い所というのは例えば先ほどの話で、「教会と国家が一緒に働かなくてはいけない、共同してやらなきゃいけない」というのを支持していたのは良い事です。それに関して例えば「フランスの王家」というのを支持していました。これは良い事です。ところがこのアクション・フランセーズというのは、始めた人というのは「モーラス」という方で、元カトリックなのですが辞めてしまって、無神論者になったという方なので、その影響で悪い事も混ざっていました。

この先程の神学校では当然、聖ピオ10世、他の教皇様の教えに従って、「教会と国家は一緒に働かなくてはいけない」という事を信じていましたので、その内容が書いてあるこのアクション・フランセーズという所の新聞を読んでいる購読者でした。ところが先程言いましたように、このアクション・フランセーズは良くない事もありましたので、近代主義者がやって来て、「これは何という新聞を読んでいるのだこの人たちは!」という風に批判しようとしました。この批判というのはあまりにも酷いものでしたので、ピオ12世が教皇になられて1ヶ月以内に、これ(新聞の購読)を止めるようになさいました。

それでこの時に、近代主義者がやはりこのル・フロック神父という人を神学校からどけようとして、まずバチカンの方から訪問をしてもらって、「この人が良くない人だ」という事を示そうとしました。ところがこのル・フロック神父様という方は、先程言いましたように、このアクション・フランセーズの新聞を「これは良い事を書いてある。」と読んでいたのですが、バチカンの方から「それは読んじゃいけない。」と言われた時に、「もうじゃあ読むのをやめましょう。」という事で、非常に従順に従っておられました。最初に枢機卿の、シュースター枢機卿という人が来たのですけれども、「これは非常に良い方で、このル・フロック神父というのは良い事をやっている。」という良い報告書を出されました。しかし近代主義者は負けずに、もう一度訪問をして結局、ル・フロック神父様をその神学校からどけてしまう、という事をしてしまいます。

ルフェーブル大司教様はこれが起こっている時はもうここには居られませんでした。非常にこれで面白い事が起こったのですけれども、先程言いました通り、ル・フロック神父様というのがこうやって攻撃されていた時には、ルフェーブル大司教はここにはいなかったですし、政治には興味なかった方だったのですけれども、1947年にダカールで司教に叙階されたという時に、司教に叙階されて、「昔、神学校で習った先生のル・フロック神父に感謝して、乾杯しましょう。」と言ったのを見て、近代主義者が、「これは近代主義者の敵である。」という事で、司教になった瞬間から近代主義者の方からは、「この男は×である。近代主義者ではない。」と。「きっと保守的すぎるんだ。」という風にしるしを付けられてしまったと。

質問者:近代主義者というのは、教会の中にいる聖職者の事ですか?それともまた別の人ですか?

レネー神父様: 近代主義者とは、教会の中の聖職者の事です。


【近代主義との闘い:ピオ十二世の元で】

この近代主義とルフェーブル大司教の戦いというか対立が、1970年とかに起こったのではなくて、実は1960年、1950年、1940年、1930年、そして1907年に、聖ピオ10世が既に、その近代主義者を批判する書類を出していらっしゃるという事で、例えば1930年代になると、コンガーというドミニコ会の神父様が明らかな近代主義の神父様が、本を出し始めたりします。それから1940年代、1950年代なると、今度は神学校の先生の中に、近代主義の人が明らかに出てきます。1950年代になるとピオ12世教皇が、「近代的な誤りについて」という 「フマニ・ジェネリス『Humani generis』」という回勅を出されまして、例えば「テイヤール・ド・シャルダンという人が書いているものがいかに間違っているか」というのを出したのですが、その後も1950年代、1960年代、先程のコンガーだとかリュバックだという人が出てきて、この人たちが司祭になって、或いは神学校の先生になる、という事で近代主義がだんだん広まってきます。

ところが一方、1947年にルフェーブル大司教はその司教になられて、1947年に司教になられてもう1年後には、この「アフリカの教皇の代表」と。これは「nuncio(ローマ教皇大使)」のようなものなのですけれども、nuncioと違うのは、アフリカのもう半分ぐらい、数十カ国の代表だと。ルフェーブル大司教の下に40,50人の司教様がいるという事で、ここで非常に良い働きをされて、教区もどんどん増やされて、非常にカトリックが広まるのに貢献されたので、その聖霊修道会の中では、その総長に後なられたのですけども、皆さん「この人が良いだろう」という事で、当然の如く総長になられたという事です。それで先程1948年にアフリカの代表として選ばれたのですけれども、その後アフリカで活躍された時も、ルフェーブル大司教というのは、「非常に人々に人気がない事でも、やらなければいけない事は断行する」という方でしたので、「この人は良い」「この人は悪い」という判断をなされていましたので、敵も作られるという方でした。


【近代主義との闘い:ヨハネ二十三世】

それで1958年にピオ12世が亡くなられて、ヨハネ23世になったのですが、この新しい教皇様は非常に特異な方で、それまで、「こういう神学者は近代主義なので良くない」というコンガーとかリュバックという方とも友達で、後で公会議に呼ばれる、というような方でした。これまで教会ではそういう事がなかったのですけれども、以前「この人は良くない」と言っていた神学者を、この教皇様は、「友達なので呼ぶ」という事をなさいました。

その間にも、1962年にルフェーブル大司教は非常にそのアフリカの教区が広まったので、「アフリカの地元の人が司教になるべきだ」という事でフランスに帰って来られました。

ところが、フランスの司教団はルフェーブル大司教の事が好きではなかったので、他にも空いてる所があったのですけれども、フランスで一番小さい司教区というのを探し出して、チュールという一番小さい司教区に任命しました。任命したのですけども、その6ヶ月後にはこの聖霊修道会の総長に選ばれてしまうのですが、この聖霊修道会の中でも例えば、聖霊修道会のパリの神学校の方というのは近代主義者でしたので、非常にこのルフェーブル大司教が総長になるというのに非常に強く反対されていました。

それで先程の、例えば聖霊修道会のフランスの神学校の人たちが、「ルフェーブル大司教が良くない」と言っていた例を例えば挙げるのですけれども、彼らの批判は、「フランスの司教団がやっている事と反している」と。「ルフェーブル大司教は、フランスの司教団の方針と反した事をやっている」と。フランスの司教団は例えば何をやっていたかといいますと、「司祭はもうスータンを着なくていい」という方針を出しました。そういう事をやると、だんだんだんだん酷くなるのは分っているので、「これは、聖霊修道会ではスータンは必ず着なくてはいけません。」これが、先ほど最初に言いました「忠実」という事ですけれども、「それまでのやってきた事、教会に忠実に、スータンは着たままにしましょう。」という事を、ルフェーブル大司教は決められました。

これに対して近代主義者であった神学校の人たちは、「これは良くないのだ。」と。「1人だけ反対するな。」と言っていました。

もう一つの例は例えば「テレビ」です。ルフェーブル大司教がどなたかの所に行ってお話をされようとすると、そこの神父様とか他の方が皆、「夜8時になったらテレビを見に行ってしまう」「夕べの祈りもしない」と。「これは良くない。」と。ルフェーブル大司教が仰ったのは、「これは、それまでと同じ、忠実に、テレビを見ないようにして、ちゃんと生活を保っていきましょう。」と仰いましたが、近代主義者にとっては、「これは新しい傾向に反している」という批判に繋がりました。


【教会のミッション:昔の教えと近代主義の考えの違い】

それで、このルフェーブル大司教と近代主義者の間であと1つ大きく差が出たのは、「ミッション」でした。宣教のミッションというのは、一体何をするものであるかを見てみます。

ルフェーブル大司教は、昔からの事に忠実、教会の教えに忠実であって、これは「精神的なものを教える」例えば「教義を教える」。「精神的なものが第1であって、その他のものは第2、第3である。」と言ったのですけれども、近代主義者の神父様たちの方は、「いや、そうではなくて、もっと社会的なもの。家であるとか、井戸を掘るのであるとか、労働者の権利であるとか、この社会的なものが第1なんだ。これこそがミッションなんだ。」という風に考えていました。

こういう事が起こったのは、1950年代ぐらいになりますと、社会の中では教会が非常に良い社会での活動をしていました。例えば「教育機関」ですとか、「病院」ですとか、これは愛徳に基づいたものでしたけれども、非常に素晴らしい教育機関があって、小学校も中学校も高校も大学もあって、貧しい人たちの為の学校もあって、病院もあって、非常に社会的にも良い事をしていました。そうだったので、近代主義者の人たちにとっては、「これこそが教会がすべき事だ」と思ってしまいました。「これこそが教会がすべき事なのであって、『教会の教え』だとか、『霊的な事』ではないのだ。」という風に考えてしまいました。

でも事実は、「教会の霊的な事があって、祈りがあって、それの愛徳からこういう社会的な実態が出てくる」という事になります。

例えば、第2バチカン公会議の後を見て頂くと分かると思いますけども、私はニュージーランドにいたのですが、例えばニュージーランドの近所の所に4つ小学校が、カトリックの小学校があるのですけれども、神父様はもう誰もいません。中学校が1つあったのですけれども、これも男女一緒にしてしまって、神父様がただ1人いるだけだ、という事で分かる通り、元々霊的な事がなくなってしまうと、それから流れ出る社会的な善もなくなってしまいます。

ルフェーブル大司教は、「この霊的なものが大事だ。」と。「霊的なものがあるからこそ、社会的な成功があって、社会的な善が行えて、そこに正義があったり、平和があったり」という事だったのですけれども、近代主義者はそれを逆転させてしまって、「こっちが主だ」と思ってしまった、という事です。

その後、ルフェーブル大司教が聖霊修道会の総長になられたのですけども、そこでもルフェーブル大司教は「忠実に」こう実行しようとされたのですが、すでに聖霊修道会の中でも、ルフェーブル大司教の考えを持った方が少数派になっていて、多数派の方は、近代主義の考えを持った方が多数派になってしまっていて、下に良い方がいなくて、そのやりたい事が実現できない風になってきてしまいました。


【地に落ちて死ぬ麦:ルフェーブル大司教】

ルフェーブル大司教の生涯を見てみますと、最初良い家庭に生まれて、司祭に叙階されて、で、その後アフリカに行って非常に良い働きをして良かったのですけれども、1962年にフランスに帰って来てから、その後聖霊修道会に行ったのですけれども、何もできなくて、一旦全部失ってしまったという事になりました。聖書の「麦の話」があって、「一度死なないと良い実を得られない」という事がありますが、ルフェーブル大司教も同じで、他の聖人の事もありますけれども、1968年には、天主がルフェーブル大司教の持っているものを全部奪われて、何も無くなってしまう。その為にその後もう一度、高みに達するという事になりました。

1968年になった時には、その自らの自分の聖霊修道会からも拒絶されてしまって、ある意味ではバチカンからも拒絶されてしまって、その「アフリカの為のカテキズムの秘書をやって下さい」と言われて、全然に似合わない職を頼まれて、実質的にはもう「無視されてしまった」という事になりました。

しかしこのルフェーブル大司教の事を知っている方がいらっしゃいまして、その何も全部無くしてしまったルフェーブル大司教の所に来て、若者がやって来きて、「良い神父になりたいのですけれども、是非助けて下さい。」という人が来ました。それでルフェーブル大司教は63歳だったのですけれども、その若者が何人か来た時に、「いや、もう私は年を取り過ぎているので、今更始めるという事はないでしょう。」と言っていたのですが、説得されて、スイスのフリブールという所で神学校の、近くの神学校に行っている神学生にお話をしたり、夕方にお話をする、と。9人の神学生に夕方に話をするという事をされていました。


【エコンの神学校の始まり】

それで、1970年にこのエコンの神学校を始められて、1973年にはローマの近くのアルバノという所に小さな地を構えました。これ両方とも、先程のフリブールもエコンもアルバノも、「その現地の司教の許可を得て始められた」のですけれども、この5年間の間に、その神学生が最初9人だったのですが、90人になりました。

これでフランスの司教様たちが心配をし始めました。何故かというと、フランスでは召命がすごく少なくて、神学校を閉めなきゃいけないのに、何故かルフェーブル大司教の所に神学生が9人が90人になって、「ひょっとしたら神学生を取られてしまうのではないか」という風に思いだしました。

1975年、76年にその後の事件が起こるのですけれども、1975年にフリブールの新しい司教様が「聖ピオ十世会を廃止するんだ」と言い出します。ところが教会法によると、『その教区の司教は、新しい修道会を始められるのですけれども、一旦設立した場合は、その司教が辞めさせる事はできません。』『ローマしかできません。』ところがそれに反して、「これは廃止するんだ。」と言ってしまいます。

1976年に「実際に新しい神父様を叙階しよう」という時に、普通の手続きとしては、その元の神学生が属していた元の司教区の司教様から、「この人を叙階してよろしい」という手紙をもらうのですけども、その手紙がないまま叙階するという事になってしまいます。ここでルフェーブル大司教様は非常に「ジレンマに打ち当たる」という事になってしまいます。

何故かといいますと、教会が司教には、「『こういう事をしなさい。』と何千年2000年教えていた事をただ繰り返していて」で、「新しいその近代主義者のやっている事に反対していただけ」なのですけれども、このように正式の、ローマのその現地の司教からは「『やってはいけない』と言われていた」というジレンマに当たってしまいます。

例えば、私の生まれた教区ですけれども、1930年代には神学校が満員でもう足りなくて、「増設しなきゃいけない」というような状況でした。ところが1970年になると、その神学校がもう閉鎖されてしまいます。「誰も神学生がいない」と。

このように神学生がいなくなって、神父も辞める人が出るというのは、1975年、76年までには、もう明らかに世の中には見えていました。その近代主義の実は見えていたのですけれども、近代主義者である現地の司教様たちは、ルフェーブル大司教に対して「この若者を叙階してよろしい」という手紙を与えるのを拒否する、という事で、そのシステムが悪用されて、「どうしようか」という事になりました。


【「どちらを選ぶか」】

今、こういうお話をしているのは、1976年この「聖ピオ十世会が廃止されるんだ」という時、そして1988年に「司教の叙階」をした時、それから「現在、今日」ですけれども、「2016年」ですけども、基本的に同じ事、同じ選択をしなければいけない。

一方では信者さんがいて、「良い神父様を下さい」と言っている信者さん。もう一方では上長の人がいて、「いや、その若者を叙階してはいけない」と。「何故かというと、その若者を叙階すると、彼は伝統的な神父になって、昔からやっている事をやって、今の新しい傾向に反対するからである。」と。「そういうのを叙階してはいけない。」と。

これは、この「そういう人を叙階してはいけない」と言う人は、ちゃんとそれを言える権威を持ったポジションにいる方です。司教様です。あるいは教皇様かもしれません。しかし、その権威のある立場にいるのですけれども、その権威を、「天主様から頂いたその権威の目的に反した」使い方をしています。

この時に「どちらを選ぶか」という事で、ルフェーブル大司教は、「じゃあ、私は信徒の皆様をお手伝いしましょう。」というそちらを選びました。もしそうでなければ、「いや、63歳でもう年寄りなので、私は自分の昔からのミサを立てて、静かにしてて、うるさくしないで下さい。」と言う事もできたのですけれども、誰かが、「助けて下さい」と言われたので、「じゃあお助けしましょう。」その代わり、自分が罰せられたり、誰かの怒りを買ったり、教皇様に怒られたりするかもしれないけれども、「私が助けましょう。」という方を選ばれました。

私の生まれた教区でも同じような事がありました。近くの教会に私が少年の時に行っていたミサがあって、ドミニコ会の神父様だったのですけれども、古いミサを立てていらっしゃったのですが、その為に上長から、「日曜日にミサを立ててはいけない。」「信者を呼んではいけない。」と言われたと。ところがそこの香部屋に行くと、「なぜか仏教の仏像が置いてあって、みんなそれに挨拶をしている」という状況でした。そっちの方は何も言われないのに、このちょっと年老いた神父様、古いミサを立てている神父様の方が、「それはいかん」と言われた、という事です。

そうするとその(ドミニコ会の)神父様も同じように、「いや、どっちを選ぼうか」、少年の私が来て「ミサに与りたいです。」と言う方を選ぶのか、上長が、「いや、それはいかん。」と言うのを選ぶのか。それは、「元々のその権威がどうやって与えられたか」という正しい方を選ぶのだ、と。

1988年にルフェーブル大司教が選ばれたのも、「良い神父を作っていく為には司教が必要で、自分が死んだ後にも司教が必要なので、司教を作らなくてはいけない。」という事で同じジレンマにぶつかられて、同じように「信者を助ける方」を選ばれた、と。

ですから、ローマとのその正式な立場、聖ピオ十世会が正式な立場にして頂けるという事も、ずっと否定してきたわけではなくて、あればもちろんそれに越した事はないですけれども、それが目的の為に聖ピオ十世会をやっているのではないので、「信者の霊魂を救う為」にやっているので、もしどちらかのジレンマに面したら、ルフェーブル大司教の選ばれた方を選ぶ、という事です。


【信仰も典礼も道徳も、全てを守る】

ですから最初に申しましたように、「信仰」も「典礼」も「道徳」も1つに固まっているので、これを分けるという訳にはいきません。ですから例えば、新しいその傾向を持った人たちが何をしているかというと、「信仰」も新しいものにしようとしています。同時に「典礼」も新しいものにしようとしてしまって、で、同時に「道徳」も新しいものにしようとしています。これをバラバラにする訳にはいきません。

ですから、これを守ろうとする時にも、3ついっぺんに守らないと、例えば「教会の中ではないのだけれども、信仰だけ守る」という事とか、そういう事はできません。これが1つなので、1番問題になるのは今回もそうですけれども、いつもそうですけれども、「自分の上の権威の方が、その権威を乱用して、正しくない事を言っている時に、一体じゃあ私はどうしたら良いのか。」


【教会の権威とは】

教会の中には「権威」というものがありますけれども、聖ペトロから始まって聖書に明らかに書かれていますが、「教会の中の権威」というものがありますけれども、権威の中には、「権威を持っている、所有している」という事と、「権威を使う」という事を、はっきり区別して考えなくてはいけません。

まず「権威を持っている」という人に関しては、それを「尊敬、尊重」しなくてはいけません。それは何故かというと、「天主様から権威をもらっている方であるから」です。これははっきりしています。権威を持っている方は、権威を「使う方」と「使わない方」があります。使わないというのは変ですけれども、使わなくてもその人を尊重しなければなりません。

権威を実際に使われる時に、「良い使い方をされている方」と、「良くない使い方、乱用をされる方」があります。「良い使い方」をされた時には、当然従わなくてはいけません、「従順」が必要です。しかしそれを「乱用」された場合、「悪い事に使われた」場合は、私たちはそれを「拒否」しなくてはいけません。

トマス・アクィナスによると、「従順の徳」というのは道徳的な徳でありますので、色々な段階があります。例えば「全然従わない」と。「不従順である」と。これは良くない事です。しかし逆の方の反対にいきますと「従いすぎる」と。これも良くない事です。

例えば、今職場に皆さんがいるとして、職場の上司が「こういう事をやってくれ。」と。「それは詐欺じゃないですか。」「いや、大丈夫、大丈夫。誤魔化しとくから大丈夫。」

これはやってはいけません。これに従うという事は、「従順しすぎる」という罪になります。

聖書にもこの例があります。聖書の中には「従順」というのがたくさんあるので分かりやすいのですけれども、この「従順でありすぎて」という例があります。それは、アブサロムが自分の兄弟を殺そうとする時に、宴会を開いてこの手を伸ばして、自分の奴隷に対して、自分の兄弟「アムノンを殺して来い。」と言って、その奴隷がそれに応じてしまう、という事があります。

これは「いや、いくらそのアブサロム様とはいえ、私はできません。」と言うべきだった所を「応じてしまう」という事は、これは罪になります。


【従順の模範:ルフェーブル大司教】

今、現代の教会の危機の中では、「ルフェーブル大司教は不従順だ」と思われているかもしれませんが、よく見ると、「従順さのモデルであった」という事が分かります。何故かというと、先程の「間違った命令に従いすぎる」という事を明確に拒否されたからです。「何が本当の従順であるか」という事を示されたからです。

このような事をする勇気というのは、当然その人にあるのではなくて主から来ます。私たちの主から来るので、そのお言葉は「天主に従うか、目の前の人に従うか」という言葉ですから、その勇気は「天主から来る」と言わなくてはなりません。自分の目の前の人の言う事を「何であっても全部聞いてしまう」という事は、「天主について、天主の事を忘れてしまっている」という事になります。

あと1つ注意しなくてはいけないのは、その「間違った、乱用した権力者に対して拒否する」というのと、その「権威を持っている方を尊敬しない」というのを混ぜてはいけません。

ルフェーブル大司教はいつも、「これはいけない。」と言って拒否されても、その「権威を持った方に対して、敬意を表する」という事は忘れませんでした。

教会の中にはヒエラルキーがあって、「叙階の秘蹟」と言われています。これは英語では「Holy Order」と言って、「聖なる秩序」と言うのですけれども、秩序があるからです。何故なら、秩序というのは良いものだからです。その秩序というものが良いものだという事を言いましたが、「不秩序を愛する」というのはおかしいです。いつも秩序というのは良いものです。例えば聖ピオ十世会が、この「信者さんを助ける」「どこかの教区に行く」という事があります。その時に「そこの教区の司教様の許可を取らないで行く」という事がよくあります。それは良きサマリア人がやったような事で、「助けて下さい」と言う人の所に助けに行く、という事なのですけれども、これで大事な事は、そのもし許可が出たのであれば、それは別に良いのですけども、大事な事は、「私たちが助けに行く」という事です。


【ローマと聖ピオ十世会】

今のこのローマとの話をします、「ローマとの聖ピオ十世会の正式な立場をどうするか」という事なのですが、もちろんそれは先程申しましたように、「あったらあったで、非常に良い」という事です。ただ「それがないと、私たちがしなくてはいけない事ができない」という事ではありません。ただ1988年に司教様の叙階があった時に、ルフェーブル大司教が仰っていたのは、「もう私が死にそうなのでこういう事をするのだけれども、数年の内にはローマと話がまとまって戻れるのではないか。」という事を仰っていました。

その後、時代が十何年過ぎてしまうのですけれども、2000年の8月になって、聖ピオ十世会が、ちょうど聖年の時でしたので8月にローマで巡礼、ローマの巡礼に行って、ローマの市内を5,000人から6,000人の信者が行列するという事がありました。これは一応ローマの許可を取って行列したのですけれども、その時にローマの人はバチカンの人は驚いて、「この5,000人、6,000人は一体どこから来たのだ」と。その中には「神父もたくさんいるし、何か修道女もたくさんいるし、若い人もたくさんいるし、一体この人たちは誰なんだ。」。覚えているのですけれども、その次の日の朝のローマの新聞の一面にそれが出まして、「5,000人の破門された人たちがバチカンにやって来た」という風に一面に出ました。それを見て驚いたホヨス枢機卿という人が、ちょうどその日にはいらっしゃらなかったのですが、次の日に戻って来て、「これはこんな人がいるんだったら是非会わなくてはいけない。」と。「問題はすぐ解決できるだろう。」と思って、聖ピオ十世会の司教様たちを呼んで会議をされたのですけれども、で、その次に12月になって、フェレー司教様が当時のヨハネ・パウロ2世教皇様に会われたという事があったのですが、話が進み出しました。

2001年の1月になって、聖ピオ十世会の全体の会議があって、この「ローマとのこの話を一体どうしようか」という事で、私もその一員でしたので、そこで皆で議論して、で、その中で2つ条件がありました。1つは「ミサを自由化して下さい」この「自由化」というのは、「昔の伝統的なミサを、誰でも捧げられるようにまずしてもらわないといけない」で、もう1つは、「その『破門した』と言っているのを、これをやめて下さい。」と。この2つを条件として出す事に決定しました。

それでその後、その2つの条件を出したのですけれども、2001年3月に枢機卿様たちの会議があって、「この聖ピオ十世会の言っている2つの事はどうなんだ」と。「ミサの自由化」というのと、「その『破門』をと言うのをやめるというのはどうなんだ」という事だったのですが、この「ミサの自由化をする」という、「古いミサを自由化する」という事に関しては、「およそ80%の人が反対した」と言われています。それを受けてホヨス枢機卿はフェレー司教様の所に戻って来て、「これはできません。」と言われて、ヨハネ・パウロ2世の頃は結局何も進みませんでした。

ところがベネディクト教皇様になった時に、このベネディクト教皇様というのはおそらく、そのさっきの「古いミサを自由化して良いんじゃないか」と言った少数派の20%の中の1人であったのは確実です。と言いますのは、昔その1988年の問題があった時にも、実は聖ピオ十世会との交渉を担当された事がある方でした。それはラッツィンガー枢機卿として担当された事がある方です。このラッツィンガー枢機卿、ベネディクト教皇ですが、彼は非常に古いミサを好まれた方で、1950年代、60年代には近代主義的な考えを持っていらっしゃったのですけれども、1970年にドイツのミュンヘンの司教様になられた時に、その「新しいミサでいかに酷い事になっているか」というのを目にされて、考えをちょっと変えられたようです。ローマに行ってからも、「その古いミサというのは、教会の2000年の宝なのに、これをやめてしまうというのは絶対おかしい。」という風に主張されていました。

例えば1984年に「インダルト」というものがあって、「非常に厳しい条件の下では、古いミサをして良い」という制度が出来たのですが、これに関しても、当時のラッツィンガー枢機卿が非常に貢献された、という事が分かっています。それから1988年に、結局うまくいかなかったのですが、その時の「プロトコル」と言われる合意書を用意されたのもラッツィンガー枢機卿でした。その時に失敗したのを、今度教皇になったら「何とかしよう。」という風に考えられたと思われます。

2007年に「スンモールム・ポンティフィクム『Summorum Pontificum』」という書類を出されまして、で、この文書によって、「古いミサを基本的に自由化された」というか、「元々禁止されていませんでした」という宣言をされて、2009年に、「その1988年の“破門”というのは、それは取り除きます」という宣言をされました。

2009年から12年まで、聖ピオ十世会と「教義についての話をされる」という事をされました。ところがもう引退される寸前になってきて、非常に年を取ってこられて、「とにかくこの問題を解決したい。」と思われたので、「色々条件を付けないで、この聖ピオ十世会というのを認めたらどうか。」という風な考えを持っておられたのです。ところが、バチカンの近代主義者の人たちがこれに反対をして、「いや、条件を付けないとダメだ。」という事で、“聖ピオ十世会が参与できないであろう”合意書を作られまして、それでまたダメになってしまった。

今度は2013年になって、新しい教皇様、フランシスコ教皇様がなられた時に、このこの方は非常に不思議な方で、「教理があんまり好きではない」と。本当は良い事ではないのですけども、「教理よりも実践のほうに興味がある」いう方で、「実際的な事を解決すれば良いのだ」と。「聖ピオ十世会というのは、見たら良い事をしてるじゃないか。この人たちは良い人たちじゃないか。」という事で、言ってみれば、その天主様が悪の中から善を取り出すというのか、本当はその教皇様の良くない性質なのですけれども、そこから何故か、その教皇様から「聖ピオ十世会を正式に認めれば良いのではないか」という言葉が出てきたという事です。

フェレー司教様が最近仰っているのですけれども、「非常に、教区の状態を見ていると、どんどんどんどん教会の中の物事が悪くなっている。」と。例えば、最近バチカンでも議論がありましたけれども、「離婚して、いわゆる再婚をしたような人たちまでにも、御聖体を渡すのかどうか」という議論があったと。それでローマで話を解決しなきゃいけないのは、例えば「司教様の中にも、もう信仰を持っていないような人がいる」と。或いは「異端の司教様がいる。」と。「こういう問題をしなきゃいけないのに、ここの聖ピオ十世会というのは信仰を持っているし、異端でも何でもないじゃないか。」と。「こういう人たちは、」まぁ変な意味で言うと、「そんな大きな問題じゃない。」と。「もっと大きな問題が起こっている」という事に気が付きました、と。「この聖ピオ十世会というのは、ずっと昔から信じていた事を、今も信じているだけなのであって、カトリックというのに何も問題がないのだから、これで良いじゃないか」という、これが非常に大きな最近の変化です。

ベネディクト教皇の場合は、第二バチカン公会議に実際に出て貢献された方でしたから、自分でそれに未練もありましたし、周りの近代主義者の人が、「それはいかん。」と言ったら、それは反対する事はできない方でしたけれども、新しいフランシスコ教皇というのは、さっきの新しい見方で、「この人たちに問題はないんじゃないか。」という見方をされたというのが、非常に新しい点です。

それから最新のフェレー司教様のインタビューにありますけれども、ローマの方からもう既に、「実際的なこういう合意をしましょう」というドラフトが何か草案が来ている、と。

6月の叙階式のあった後に、聖ピオ十世会の方の会議が行われて、「そこでこれを議論する」と。おそらくそこではどういう事が起こるかというと、「ローマの方から保証を取り付ける」という話になるでしょう、と。例えば「今ある、」これは当然ですけれども、「今ある修道院ですとか、ここのような場所ですとか、そういうところを認可してもらう」という事と、他に「おかしな、私たちの既に批判している事はこういう事で、それに関しておかしな圧力を受けない」というような保証を取り付ける、という議論をすると思います。

ただ1つ言っておきたいのは、そういうのは「すぐに普通は決まらないであろう」という事です。思い出して頂きたいのは、すでにローマと話が始まってから16年経っていますし、先ほど歴史でお話ししましたように、その前に40年、50年歴史がありますから、これがすぐ決まると、いう事は多分ないと思います。教会というのはそんなに早く動かないものなので、フェレー司教様も慌てて合意をされる、という事はないでしょうから、時間がかかっても驚いてはいけない、という風に思います。

後はおそらくは、今の聖ピオ十世会の司祭等のメンバーと、それから信者も新しい「属人区」に、そこに入る事になるでしょうし、フランシスコ会とか、ベネディクト会とか、色々聖ピオ十世会に関連しているそういう修道会も入る事になるだろうと思います。
(後半に続く)


(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書

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