Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

御聖体の祝日の続誦 Lauda Sion(ラウダ・シオン)の日本語訳と中文訳「圣体节继抒咏」

2016年06月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 御聖体の祝日の続誦 Lauda Sion(ラウダ・シオン)の日本語訳と中国語訳と韓国語訳をご紹介します。韓国語 시온이여 찬송하라はここにもあります。

 簡体の「圣体节继抒咏」は、8・8・7という音節で書かれています。
 繁体の「基督聖體瞻禮繼抒詠」は、必ずしもそうとは限りません。
 韓国語は、8・8・8とうまく訳せています。

 訳者の苦労がにじみ出ていますね。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


LAUDA Sion Salvatorem,
lauda ducem et pastorem,
in hymnis et canticis.

シオンよ、救い主を讃えよ、
指導者を、牧者を讃えよ、
賛歌と頌歌によって。

Quantum potes, tantum aude:
quia maior omni laude,
nec laudare sufficis.

力のかぎり、大胆になれ、
全ての賛美に優る方であるが故に、
単なる賞賛では足りぬから。

Laudis thema specialis,
panis vivus et vitalis
hodie proponitur.

賛美の特別のテーマは、
命を与える生けるパン、
これが、今日、提示される。

Quem in sacrae mensa cenae,
turbae fratrum duodenae
datum non ambigitur.

聖なる晩餐の食卓で、
十二の兄弟たちの群れに
明らかに与えられたそれだ。

Sit laus plena, sit sonora,
sit iucunda, sit decora
mentis iubilatio.

賛美は満ちあふれ、響きわたれよ、
喜びにあふれ、歓喜の精神の
美しさよあれ。

Dies enim solemnis agitur,
in qua mensae prima recolitur
huius institutio.

実に、それは荘厳な日のこと、
その日に、この制定が
最初に食卓に収穫した。

In hac mensa novi Regis,
novum Pascha novae legis,
phase vetus terminat.

新しい王のこの食卓で
新しい契約の新しい過越は、
古い過越を終わらせた。

Vetustatem novitas,
umbram fugat veritas,
noctem lux eliminat.

新しさは古きを
真理は影を追い払い
光は夜を除去した。

Quod in coena Christus gessit,
faciendum hoc expressit
in sui memoriam.

キリストが晩餐で行われたことを、
御自分の記念として
これを行うよう命じられた。

Docti sacris institutis,
panem, vinum in salutis
consecramus hostiam.

聖なる制定により教えられ
パンとぶどう酒とを
私たちは救いのホスチアと聖別する。

Dogma datur christianis,
quod in carnem transit panis,
et vinum in sanguinem.

キリスト者たちに、ドグマが与えられた、
パンが肉となり、
ぶどう酒が血と変化する、と。

Quod non capis, quod non vides,
animosa firmat fides,
praeter rerum ordinem.

あなたが理解せず見えないことを、
通常の秩序の外にあることを
生きた信仰は堅固にする。

Sub diversis speciebus,
signis tantum, et non rebus,
latent res eximiae.

いろいろな外見のもとに
物ではなく、しるしだけのもとに、
貴重な現実が隠れ給う。

Caro cibus, sanguis potus:
manet tamen Christus totus
sub utraque specie.

肉は食べ物、血は飲物に、
しかし、全キリストは
両形色のもとましまし給う。

A sumente non concisus,
non confractus, non divisus:
integer accipitur.

拝領者によって、切断されず、
裂かれず、分かたれず、
完璧に領受される。

Sumit unus, sumunt mille:
quantum isti, tantum ille:
nec sumptus consumitur.

一人が拝領しても、千人が拝領しても、
この人が受けたように、あの人も同じく、
尽き果てることがない。

Sumunt boni, sumunt mali:
sorte tamen inaequali,
vitae vel interitus.

善人が拝領するのと、悪人が拝領するのとでは、
しかし、命の或いは内的な
結果は異る。

Mors est malis, vita bonis:
vide paris sumptionis
quam sit dispar exitus.

悪人には死が、善人には命が
同じ受領が、どれ程の異なる
結末となるかを見よ。

Fracto demum sacramento,
ne vacilles, sed memento
tantum esse sub fragmento,
quantum toto tegitur.

ついに秘跡がさかれても、
ゆるがされずに、思い出せ、
一片のもとにも、
全体のもとと同じように、包まれている。

Nulla rei fit scissura:
signi tantum fit fractura,
qua nec status, nec statura
signati minuitur.

現実はさかれない、
しるしだけが砕かれる、
それによって意味された方の
状態も背丈も小さくならない。

Ecce Panis Angelorum,
factus cibus viatorum:
vere panis filiorum,
non mittendus canibus.

見よ、天使達のパンを、
旅人の糧となったこれを、
正に子らのパンであり、
犬へ投げやってはならない。

In figuris praesignatur,
cum Isaac immolatur,
agnus Paschae deputatur,
datur manna patribus.

前表において、既に予告されていた。
イザクが屠られるとき、
過越の子羊が食されるとき、
太祖らにマンナが与えられるとき。

Bone pastor, panis vere,
Iesu, nostri miserere:
Tu nos pasce, nos tuere,
Tu nos bona fac videre
in terra viventium.

よい牧者よ、まことのパンよ、
イエズスよ、われらをあわれみたまえ。
われらを牧し、われらを守り、
生きる人々の地において、
我らをして善を見させ給え。

Tu qui cuncta scis et vales,
qui nos pascis hic mortales:
tuos ibi commensales,
coheredes et sodales
fac sanctorum civium.

御身は、すべてを知り、おできになり給う、
ここで死すべき我らを牧し給う。
あそこで御身と共に食卓に着く者として
共に天の遺産の相続者としてまた友人として、
諸聖人の市民として我らをなさしめ給え。

アーメン、アレルヤ。


圣体圣血节继抒咏
1、
熙雍请你吟咏歌唱,
赞颂我人类的救主,
我众领袖和善牧。
2、
请尽所能歌颂欢呼,
称扬赞不胜赞之主,
千赞万颂也不足。
3、
主耶稣基督的圣体,
是给人生命的活粮,
今天歌颂的主题。
4、
祂在最后晚餐席上,
把饼酒分予十二徒,
正是同一的活粮。
5、
用雄壮嘹亮的歌声,
唱出你愉快的心情,
向救主欢呼歌咏。
6、
因为我们今天所庆祝的,
实在是一个伟大的节日,
纪念主建立圣体。
7、
今天举行新王盛宴,
由新逾越节的羔羊,
取代旧约的祭献。
8、
新约的祭祀取代了旧礼,
真实的牺牲取消了预像,
驱走暗夜现阳光。
9、
基督举行最后晚餐,
命令后世常行不断,
作为对祂的纪念。
10、
我们遵从祂的命令,
将饼和酒予以祝圣,
作为赎罪的牺牲。
11、
麦面之饼成为圣体,
葡萄之酒成为圣血,
是我坚信的真理。
12、
不能理解不能观察,
这原超越感觉范围,
信德活泼无少疑。
13、
饼形酒形只是标记,
只是标记并非实体,
伟大奥迹藏形内。
14、
圣体为食圣血为饮,
无论面形或酒形内,
都有基督的全体。
15、
或领圣体或领圣血,
所领基督完整无缺,
不受撕裂和分割。
16、
一个人领千万人领,
每人所领完全相等,
使人分食保完整。
17、
善人也领恶人也领,
所领天粮虽然相同,
致生致死效不同。
18、
善人获生恶人丧亡,
所领虽是同一神粮,
结局完全不一样。
19、
不可怀疑应当牢记,
祭品虽然可以剖分,
但在每一小份之内,
都有耶稣的全体。
20、
饼形酒形随时可分,
分的只是面酒外形,
至于其中基督真体,
丝毫无增亦无损。
21、
请看这天使的食粮,
今成为游子的神粮,
这天主子女的食物,
切不可投给狗尝。
22、
昔依撒各充作牺牲,
又逾越节宰杀羔羊,
旷野中玛纳自天降,
都是圣体的预像。
23、
耶稣你是我人真粮,
耶稣你是我众善牧,
求你怜悯求你照顾,
求使我们同登天乡,
永远享受主真福。
24、
你既全能而又全知,
你以圣体滋养我们,
赐我来日伴同诸圣,
齐聚天国与你同席,
从此永不在分离。
阿们。


繼抒詠
1、熙雍!請吟詠歌唱,讚頌人類的救主、我們的領袖和善牧。
2、請盡所能,歌頌歡呼,稱揚讚不勝讚的救主,因為言語有限,何能勝讚。
3、耶穌基督的聖體,是給人生命的活糧,是今天特別歌頌的主題。
4、基督在最後晚餐的席上,把餅酒給十二宗徒分享,這正是那同一的活糧。
5、請用雄壯嘹亮的歌聲、唱出你愉快的心情,向救主歡呼歌詠。
6、因為我們今天所慶祝的、是一個偉大節日,紀念耶穌建立了聖體聖事。
7、今天舉行的是新王的盛宴,新逾越節的羔羊,取代了舊約的祭獻。
8、新的祭祀、代替了舊禮,真實的犧牲、取消了預像,光明驅走了黑暗,帶來了新希望。9、基督舉行了最後晚宴,命我們重複舉行,不可間斷,作為對祂的永久紀念。
10、我們遵從祂的命令:祝聖酒餅,作為贖罪的犧牲。
11、麥麵餅成為聖體,葡萄酒成為聖血,這是我們堅信的真理。
12、理智不能了解,肉眼不能覺察,這原是超越感覺的事蹟,唯有活潑的信德、才能堅信不疑。
13、餅形酒形只是標記,並非實體,餅酒形內,隱藏著偉大的奧蹟。
14、基督的聖體作為食品,基督的聖血作為飲料,餅酒形內都有基督的全身。
15、或領聖體,或領聖血,所領的基督完整無缺,不受撕裂或分割。
16、一個人領或千萬人領,每人所領的完全相等,基督供人分食,卻永保完整。
17、善人領或惡人領,所領的天糧雖然相同,所得的效果卻截然不同:
18、善人獲得生命,惡人招致喪亡,所領的雖是同一神糧,結局卻完全不一樣。
19、不可懷疑,應當牢記:祭品雖然可以剖分,每分都是耶穌全身。
20、餅形酒形隨意分,分的只是餅酒外形,基督聖體毫無增損。
21、請看天使的食糧,成為遊子的神糧;天主子女的食物,不可投給狗嚐。
22、依撒格充作犧牲,逾越節宰殺羔羊,曠野中瑪納自天降,都是聖體奧蹟的預像。
23、耶穌,祢是真糧,耶穌,祢是善牧,求祢憐憫,求祢照顧。使我們同登天鄉,永享真福。
24、祢既全能,而又全知,我們的塵世生活,轉瞬即逝,祢以聖體滋養我們,如育赤子。求祢賜我們伴同諸聖,齊聚天國與祢同席,永遠不再分離。
阿們。阿肋路亞!

1.
시온이여 찬송하라.
목자시요 인도자신
구세주를 찬양하라.

2.
만유 위에 높으시다.
미약하온 우리 인생
찬송할 능 부족하다.

3.
초성생명 주시도다.
천상양식 묘한 성사
오늘 특히 찬송하라.

4.
거룩하온 저녁이라,
열두 종도 이 양식을
주 예수께 영하였다.

5.
유쾌하게 찬미하라.
즐겁고도 명랑하게
용약하며 찬송하라.

6.
기념하올 저녁이라,
오주 예수 이 잔치를
설정하신 날이로다.

7.
새 임금의 잔치로다.
새 희생이 새 법으로
낡은 예식 없이하다.

8.
새것 오니 옛것 간다.
진리 광명 찬란하니,
암흑미망 간데없다.

9.
주 예수의 명이시다.
저녁상에 행하신 예
기념하여 계속하라.

10.
거룩하온 명이시라,
떡과 술을 축성하여
희생으로 봉헌하다.

11.
오묘하온 도리로다.
떡과 술로 주 예수의
살과 피를 이룸이라.

12.
우리 지식 못미친다.
오직 굳센 신덕으로
이 도리를 믿을찌라.

13.
다만 면주 형상이나
만유위에 높이실 이
그 가운데 계시도다.

14.
피와 살을 음식하나,
그 둘 안에 그리스도
온전하게 계심이라.

15.
주 예수를 영함이라,
저의 체는 나누지도
없애지도 못하도다.

16.
단 한 사람 영하거나,
천만 사람 영하거나,
같은 체를 영함이라.

17.
선인 악인 다 영하나,
선인에겐 영생이요,
악인에겐 멸망이라.

18.
선한이겐 생명이나
악한이겐 죽음이니,
그 효과는 각각이라.

19.
면병 천만 나누어라.
나누어진 떡속마다,
오주 예수 계시도다.

20.
주의 체는 못나눈다.
오직 면형 나누나니,
오주 항상 완전하다.

21.
천상떡을 볼찌어다.
인생양식 되셨으니,
개에게는 주지 말라.

22.
이사악의 희생이나
바스카나 만나 역시
이 성사로 표하도다.

23.
참 목자신 예수시라,
우리 인생 기르시며
영생 인도하옵소서.

24.
전능 전선 오주시라,
천당 잔치 영복 속에
우리들을 들이소서.

아멘. 알렐루야.


2016年 7月の聖伝のミサの予定 SSPX Japan Traditional Latin Mass July 2016

2016年06月27日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2016年 7月の予定(携帯でこのブログをご覧になっている方々のために記事として7月の予定を掲載することをお許しくださいますようお願いいたします。)

【大阪】2016年5月15日よりミサの場所が変更になりました!
聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

   7月1日(初金) イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤 
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月2日(初土) 童貞聖マリアのご訪問(2級祝日)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月8日(金) 寡婦聖エリザベト女王(3級祝日)白
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月9日(土) 聖母の土曜日(4級)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月17日(主) 聖霊降臨後第9主日(2級)緑
           午後5時半  ロザリオ及び告解
           午後6時  ミサ聖祭

   7月18日(月) 証聖者聖カミロ・デ・リリス(3級祝日)白
           午前6時半 ミサ聖祭


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   7月3日(主) 聖霊降臨後第7主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月4日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭

   7月10日(主) 聖霊降臨後第8主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月11日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「聖母黙想会(聖グリニヨン・ド・モンフォールによる)」へお招きいたします。

2016年8月10日~8月15日 指導司祭:アジア管区長シュテーリン神父様(日本語通訳:小野田神父)
聖ピオ十世会日本 2016年 聖母黙想会についてのお招き

 


天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。

2016年06月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年6月17日 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ 
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月17日、聖グレゴリオ・バルバディコの祝日を祝っております。

7月の御ミサの予定は少し不規則になっています。7月は7月1日・2日、初金・初土と、それから8日・9日の1週間続けて、その次に17日・18日、主日・月曜日とレネー神父様がいらして下さいます。どうぞお間違えのないようにお願いします。


「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、
今日証聖者グレゴリオ・バルバディコのミサで、福音書では有名な例えを読みました。ある人が旅を立つ時にしもべたちを呼んで、しもべの能力に従って、ある人には5タレント、ある人には2タレント、ある人には1タレント預けて、「さぁこれをお前たちに委ねる。」と言って、自分は遠くに旅立ちます。帰って来ると、5タレントを預かった人は、そのそれを非常にうまく使って、更にそれを有効に利用した為に、もう5タレントを儲けた。もう1人は2タレントを受けたのですけれども、その2タレントを非常にうまく使って、また2タレントを儲けた。「ご主人様、ここにお返しします。更に儲けました、どうぞ。」1タレントを受けた人は、実は主人を怖がっていたので、何か恐れて、「罰せられるのではないか。」と思って、それを無くさないように、非常に大切に隠して土に埋めておいた。主人が帰って来たら掘り起こして、「はい、ここに預けておられた1タレントがあります。ちゃんととっておきました。」この5タレントを受けた人、2タレントを受けた人は儲けたので褒められて、「さぁ、私のもっとたくさんのものをお前に委ねよう。天の国に入れ。」と言われるけれども、1タレントを受けた人は、「何だ、お前は預けたものを何の有効利用もしなかったのか。」と言って、相手にされなかった。

一体これはどういう意味なのでしょうか?私たちは、私たちのこの人生において受けたタレントというのは、何を意味するのでしょうか?一体その私たちは何をする事が期待されているのでしょうか?この福音の例えの意味は何なのでしょうか?一体これで何を言おうとしているのでしょうか?

これを今日一緒に皆さんと黙想する事を提案します。特にこの黙想、この福音は、6月のイエズス様の聖心の月に於いてとても重要なテーマだと思います。何故かというと聖心は、「イエズス様の聖心は私たちを愛している、イエズス様の聖心は天主は、私たちをここまで愛している」というのを、私たちに目に見える形になったのが、イエズス様の聖心ですから、私たちはますます「主から、天主から愛されている」という事をますます自覚するのみならず、「それに対して応えていかなければならない」それがイエズス様の聖心の月であり、聖心への信心であるからです。何故かというと、愛は必ず愛を呼ぶからです。もしも私たちが人から親切を受けると、どうしても私もそれに感謝して、「親切をして返したい、お礼をしたい。」と思うのが普通であるからです。イエズス様から天主からこれほど受けた愛があるので、これほど受けた御恩があるので、「その御恩にどうしても返したい。」それが私たちの自然な反応であるべきであるからです。

ですから聖務日課やミサの典礼では、「私たちをこれほど愛したお方を、どうして愛さない事があるだろうか。救われた身分でありながら、救い主を熱烈に愛し返さない事ができる者がいるだろうか。」というのがテーマになっています。愛に応えて、天主である愛を、
「愛である天主を、愛を以て返す。」これこそがイエズス様の聖心の信心のテーマ
です。

私たちはどのような愛を受けたでしょうか?私たちが今こうやって生きているのも、こうやって健康であるのも、こうやってミサに与る事ができるのも、私たちが「何が良い、何が悪いか」という事を知る事ができるのも、全てこれはお恵みです。

そればかりでありません。私たちが持っているお友達、或いは家族、或いは食べ物がある事、それを超えて超自然のお恵み、例えば信仰の恵み、私たちの持っている希望、或いは愛のお恵み、或いは色々な徳を積む事ができるというのも、これも全てお恵みによって与えられたものです。私たちが1人で全てできたわけではありません。与えられて、その機会が与えられて、その力が与えられて、助けられて初めて、私たちができたものです。私たちがもしも何かその仕事ができたとしたならば、もしも何か役に立てる事ができたとすれば、それはそのような機会が与えられたからです。もしも私たちがより大きな地位を持てば持つほど、より多くの善をする事ができます。より大きな地位が与えられるという事は、それは多くの愛が与えられた、その機会が与えられた、これもますますお恵みです。

天主から与えられたものを私たちはどのように使う事が期待されているのでしょうか?もちろんこれは自分の利己主義の為にではありません。自分の都合の為ではありません。例えば特別な地位を与えられているにもかかわらず、その地位を乱用して、公用車を使って別荘に行ったり、あるいは芸術品を買ったり、あるいは公費を使って高級のホテルに泊まって何とかをすれば、やはりそれは一体「公私混同だ」とこの世でも追及されるではないでしょうか。ある地位のある人は、離職さえもしなければなりませんでした。

イエズス様から頂いた私たちのお恵みはやはり、イエズス様を主を愛するが為に与えられているのです。天主への奉仕の為に与えられました。それを良く使う為に与えられました。与えられた才能や、時間や、健康や、お恵みを、天主を愛するが為に、或いは天主を隣人に於いて愛するが為に、天主が隣人に於いてますます愛されるようにする為に、与えられました。もしもそれを私たちが自分の為だけに、天主様から与えられたものを無頓着に、或いは冷淡に、自分の事だけで打算的に、自分の事だけに隠しておいているならば、「あぁ、恐ろしい方だから罪さえ犯さなければいいんだ。大罪を犯すのはしないけれども、でも大罪は犯さない程度で、自分の好きな事をしたい。自分のやりたい事はこうだ。イエズス様の望みはというよりは自分の望みをする。」これはまさに、タレントを隠して、自分の為だけに取っておく事に過ぎません。それを主の為にたくさん増やす事ではありません。

タレントを5つ、5タレントを頂いた人はこれを良く使って、「全て自分の持てるものを主の為に使おう」と努力した人でした。このような人はたくさんいます。日本でもたくさんいました。つい最近私たちの巡礼に行った長崎でも、本当に素晴らしい人がいました。

福者中浦ジュリアン神父様。いつもローマの方に手を向けてこう銅像が立っていますけれども、絶対死ぬまで、ローマ教皇様に会ってその恩を受けた事を忘れずに、死ぬまで、自分の全ての持ち物を全て使って、4,000人の霊魂たちの司牧と救霊の為に全てを尽くした方でした。

福者ペトロ岐部神父様。日本人として初めて聖イグナチオや聖フランシスコ・ザヴェリオの列聖式にも与り、イエズス会士として、司祭としてローマで勉強して、ローマで司祭になったにもかかわらず、日本に帰って、命をかけて司牧をして、この「自分の司祭職を善の為に使いたい」と思って、江戸で拷問を受けて亡くなりました。

或いは司祭でなかったとしても、例えば雲仙地獄と呼ばれる所で殉教をしていった、パウ内堀親子。子供の例えばアントニオ内堀は、まだ18才にもかかわらず、指を切られて、3本の中の指を切られて、「キリシタンは動物と同じだから」といって切られて、このものすごい痛みを受けて、あと寒い冬だったにもかかわらず、溺れるか溺れないか、引っ張られたり出されたり、遂には亡くなる時にお父さんに、「お父さん、この大きな殉教のお恵みを感謝しましょう。」と言って死んでいきました。お父さんもお父さんで、その溺れるか溺れないかの時には、この浮かび上がる度に息がつくと、「御聖体に在すイエズス様は、至聖なる秘蹟は讃美せられさせ給え。」「イエズス様の御聖体は讃美せられさせ給え。」とそれだけを言って、遂に殉教していきました。御聖体に対するものすごい愛を持って、御聖体の為に、イエズス様の愛の為に生きていた人でした。

そのローマの教皇様に書いた手紙の中に、12名サインされた手紙が残っていますけれども、その内の1人にパウロ内堀のサインもありました。それには、「お恵みによって私たちは、聖なる公教会への証をする為に命を捧げる準備ができている。」と。そのサインした12人の内の6名は殉教しています。感謝しながら全てを捧げて、生きていた人でした。

やはりここに愛の本質があります。受けたものを、受けた愛を愛で返す。受けた全てのお恵みをイエズス様に全て返す。これが殉教者であって、今日の聖人グレゴリオ・バリバディコもまさに、「受けた愛をお恵みを全て良く使って、イエズス様の為に主の為に、愛を愛で返した」という聖人でした。イエズス様の愛が私たちをもう駆り立てたのでした。

もしも私たちがイエズス様に対する、聖心に対する奉献をするとしたら、まさにこれです。私たちにとってイエズス様に対する奉献というのは、イエズス様にただお祈りの文だけではなくて、「自分の持てる全ての時間、才能、この全生涯、全存在、全ての命を、主の為に捧げる」という事です。自分の好み、自分のやり方、自分の利益、自分の考えを放棄して、「イエズス様のやり方、イエズス様の考え、イエズス様の御望み、イエズス様の御希望、イエズス様の御望みの通りにさせたい。イエズス様の一番気に入るようにしたい。」もしもその為に自分のやりたい事ができなかった、自分の地上への愛着を放棄しなければならないとしたら、それを喜んで放棄する。これがイエズス様の聖心に対する奉献であって、受けたタレントを最大限に活用する事であって、イエズス様の為にたくさんのタレントをまた儲けるという事であって、愛を愛で返すという事です。

今日聖グレゴリオ・バリバディコは私たちに、イエズス様の聖心にどうやって、愛を愛で返すれば良いかという模範を示してくれています。私たちの過去の先祖たち、諸聖人、殉教者たちもその見本を示して下さいます。

今週の月曜日にはパドゥアの聖アントニオの祝日を祝っていましたけれども、パドゥアのアントニオも5歳の時に、ポルトガルの裕福な家に生まれた子供ですけれども、5歳の時に冬、ある誰かがノックをするので開けてみると、子供が立っていたのだそうです。貧しい服を着た子供で、裸足で、何か背中にリュックを背負っていて、「一体この子誰だろう?」と思ってリュックの裏を見ると、心臓のようなルビーのような、赤々とした物がたくさん荷物の中に入っていた。あまりにもおかしいのでびっくりして聞いてみると、「あなたは誰ですか?何の為に来たのですか?誰ですか?」と聞くとこの子は、「私は王子だ。私は人々の心を探して来て、乞い求めている。この乞食をしている。名前は、私の名前は君に言う必要はない。何故なら君はよく僕の事をよく知っているからだ。私はイエズスだ。」と言って消えたのだそうです。その時に幼きパドゥアの聖アントニオは、「イエズス様が私たちの愛を求めている。」という事を理解しました。

例えば聖ブリジッタも同じような事を体験しています。聖ブリジッタがある時、イエズス様がもうボロボロの傷だらけの姿で現れた時に、「主よ、一体誰があなたにこの様な事をしたのですか?何でこんな、そんな傷だらけで血をもうタラタラ流して、もういかにも半死半生でもう死なれるような御姿なのですか?一体誰がこうしたのですか?」すると、「私が特に、私が敵から受けるものよりも、私が特に愛した霊魂から愛が返って来ない時に受けるのがこれであって、愛を受けない、愛するべき者が私の事を愛さないが為に、私は今こうなっている。」と聖ブリジッタに説明しました。イエズス様は悪魔から受ける侮辱よりも、愛する者、特にイエズス様から愛された者がそれを、愛を愛で返さない時に受けるその事を、非常に辛く思っておられます。

そこで今日良い決心を立てて、イエズス様の聖心をますますお愛しする、という決心を立てる事に致しましょう。この私たちの受けたタレントを全てうまく使う事ができますように。決して恐れて、「あぁ、大罪さえ犯さなければいいんだ、罪さえ犯さなければいいんだ。あとは面白おかしく過ごせばいいんだ。」と、私たちの受けた時間や、大切なお恵みを、無駄に土に隠して埋めてしまうだけではなく、それを私たちは更に使って、イエズス様をますますお愛しする事ができますように、ますますイエズス様の愛のタレントを増やしていく事ができますようにお祈り致しましょう。

マリア様はそうなさいました。マリア様は御受胎のその瞬間から、ますます愛に成長して、多くのタレントを増やした方です。マリア様に是非お祈りして、イエズス様をマリア様のようにお愛しする事できますように、愛を愛で返す事ができますようにお祈り致しましょう。

「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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