Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「天の国は、芥子種に似ている。」 「天の国はパン種のようだ。」 芥子種やパン種とはどういう意味か?

2016年12月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後第26主日のミサ
小野田神父説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年11月13日、聖霊降臨後第26主日のミサです。このミサで読まれるテキストの内容は、御公現後第6主日のミサです。

日曜日のお知らせは、明日はいつものようにはミサがなく、次のミサは来週の主日です。そして12月も、11月と同じように3回ミサがあって、最初の主日、第3の主日、そしてクリスマスです。どうぞ皆さんいらして下さい。

ファチマの巡礼を来年8月に計画しています。8月17日に日本を出てファチマに行って、そして26日の主日の朝に帰ってくる予定ですけれども、アジア管区でグループで行くので、日本やシンガポールやフィリピン各地から同じ飛行機で、同じ価格で行く事ができます。しかも値段も私たちが1人で行く飛行機代よりも、或いは飛行機代と同じほどの事で全てのプログラムを、ファチマとローマに行って、そしてホテル代、飛行機代全て含めて30万円ほどで、28万円から30万円ほどでやろうと思っています。

団体の割引を有効に使って、ホテルも一番ファチマに一番良い所を貸し切ってあります。今そこの、ファチマでその時期にホテルは、もう私たちによって全て取られているので、もしもファチマだけに行くという方、ホテルに泊まりたいという方だけでも私にどうぞ仰って下さい。飛行機は別の方でも、ホテルだけは一緒にしたいという方はいらして下さい。

ファチマの巡礼に是非、皆さん招待したいと思いますので、色々なお仕事とか事情とか色々な事があると思いますけれども、多くの方の参加をお待ちしております。締め切りは11月30日までとなっていますので早めにお願い致します。

今日の午後は、やはり14時30分から公教要理があって、今日はこの前の続きの黙示録の7つの封印と7つのラッパについて、カステラーニ神父様の注解を紹介したいと思っています。16時からは第2晩課があります。


“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種のように似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主が、天国の国の例えを福音で話して下さいました。「天の国は、芥子種のようだ」或いは「パン種のようだ」と仰いました。

そこで今日提案するのは、ではそのパン種やこの芥子種というのは一体どういう事なのか?ではもしもそれが大きくなったら、膨れたらどのようになるのか?というのはどこに現れているのか?

そこで第2に、その現れている聖パウロのテサロニケへの手紙の中を見て、

そして最後に私たちは、そのようにパン種を膨らませて芥子種が大きくなるのを私たちがどのようにしたら良いのか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

この芥子種の例えは非常に有名ですから、皆さんもうよくご存知です。教会というのは天主様の建てた王国であって、目に見えずに働きます。しかし最初は本当に小さなもので始まったとしても、それは遂には大きなものとなって強くなって、そして多くの人々を多くの民族を、天を高く昇る、天に高く生える大木となる、と言います。

確かにイエズス様の聖心は御言葉は、芥子種のように本当に小さく始まりました。最初に12の使徒たちが、最後の晩餐の高間から聖霊降臨の時に出て説教をして、その日に3000名が洗礼を受けた時から始まると、全世界にあっという間に広がりました。ローマの異教の帝国は、「キリスト教を自分の国の教えとする。宗教とする」と言うまでになりました。多くの迫害と多くの血が流されたにも関わらず、殉教者の血は却って種となって、多くのキリスト教徒を生み出しました。

そればかりではありません。ローマ帝国の外にもキリスト教は進んでいきました。ですからゲルマン民族やスラブ民族、そしてインドやアフリカの方まで進みました。遂には日本やアジアにも到達しました。そしてこれはまだまだ続きます。たとえ暴風雨があって枝が折れてしまった、何とか遭ってしまったとしても、天主の御国は更に更に発展せざるを得ません。多くの聖人たちがその枝であり、多くの実りをもたらしました。ですから空の鳥たち、王様や多くの民族たちがその枝に留まってそこに休み、大家族を築いています。たとえ聖人たちの体はそこで死んだとしても、その枝は残りその模範は残り、多くの人々を養っています。

イエズス様はもう1つ例えを出します、「天の御国は、ちょうどパン種のようだ。」

「パン種」というのはラテン語の“fermentum”という言葉の訳ですけれども、これは、「パン粉の、あらゆる所に目に見えずに隅々まで働いて、それを全てに影響を及ぼして、全てにその力を与える、そして膨らませる」という例えです。

この「パン種」は何かというと、「イエズス様の御聖体だ」と教父たちは解釈しました。

何故かというと、皆さんミサの様子をよくご存知の方はよく分かると思いますが、司祭はミサの途中でパンをホスチアを3つの部分に割ります、まず最初に半分に、そして残された半分のうちの1つを取ってそれに、それを持って小さなホスチアのかけらを持って、それで十字架の印をして、その中にそれをカリスの中に御血の中に入れます。これは古代から伝えられていた儀式で、その昔は、実はこの入れる小さなかけらは、同じミサの使われたホスチアではなくて、その前のミサのホスチアの小さなかけらを、今のミサの中に入れたのでした。

何故かというと何故こんな事をするかというと、教皇様のミサでは、初代ちょうど初期にはそのようにやっていたからです。教皇様は、「ミサが、司教様が捧げようが、司祭が捧げようが、教皇様が捧げようが、荘厳ミサであろうが、読誦ミサであろうが、いつ、どの時代に捧げられるミサであっても、同じ1つのミサである」、この「継続している」という事を示す為に、自分の立てた聖変化させた一部を次のミサの為に取っておいて、そしてその前のミサで聖変化されたホスチアをカリスの中に入れました。

そればかりではありません。こうやってミサの一致とミサの継続性を表わす小さなそのかけらは“sancta”、「“sancta”聖なるもの」と言われているのですけれども、このこれは特別の祝日や或いは主日になると、ローマの全ての教会に教皇様からその破片が送られて、そのミサの、主日のミサではその大祝日のミサでは教皇様から送られたホスチアの破片をカリスの中に入れました。

これは何を意味するかというと、「こうする事によって私たちは、ローマの教皇様と一致している、交わりがある」という事を意味しているのでした。そして特に大祝日になると、特別な例えばクリスマスとか復活祭とか特別の祝日になると、ローマから特別に大司教や総司教等にそのホスチアが特別に運ばれて、聖香油などの様に運ばれて、そしてそれが入れられたのです。この破片の事を特別に、この一致を示す破片の事を“sancta”と言わずに、“fermentum”と、「パン種」というラテン語の名前が付けられました。

そこで教父たちは、「この『パン種』というのは、この『教会に染み通る御聖体』の事だ」と見ていました。「御聖体こそが、私たちの体の中に入り私たちをキリスト化させる、イエズス・キリスト化させるそのパン種であって、私たちは聖体によって膨れて成長するのだ」と解釈していました。

イエズス様が私たちに与えるパン種は、私たちを霊的に成長させる霊的な力であって、御恵みの事であって、天主の聖寵の事なのです。そうする事によって私たちは、イエズス様の御言葉の種と芥子種と、そして御聖体のパン種によって私たちは大きく、カトリック教会は大きく成長しなければなりません。

聖パウロが実はこの模範についてテサロニケの手紙の中で、テサロニケの教会の、その「模範となっている」という事を非常に褒めています、「私はあなたたちの事を忘れた事はない。あなたたちの信仰、それはまたあなたたちの愛徳、あなたたちの希望、それは本当に素晴らしいものだ」と褒めています。何故かというと、彼らの信仰は困難を耐え忍び、そして忍耐する、犠牲を捧げるのに準備ができている愛徳であり、そしてイエズス様だけに希望するものだったからです。

どうぞ聖パウロの美しい書簡をお読み下さい。カトリック教会は、母なる私たちの教会はこうやって、私たちがどのように遂にはなるべきか、イエズス・キリスト様の御来臨を待ち望んで生活しているテサロニケの人たちを模範に出しています。

「あなたたちの信仰の営みが、全ての人々に模範として知れ渡っている。私はそれについて非常に嬉しい。もう誇りに思う。あなたたちが選ばれた者であるという事を知ってほしい。あなたたちの選びを知ってほしい。天主から愛された兄弟たちよ」と言っています。

では私たちはその模範を見て、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちにとってイエズス様の御言葉の種は、或いは御聖体はどのように成長したでしょうか?今年1年、イエズス様は私たちに多くの恵みを下さいましたが、御聖体を下さいましたが、それを私たちがその中でどのように成長させる事ができたでしょうか?イエズス様の御旨の通りに、イエズス様が私たちに影響を与えたいがままにそれを受け入れたでしょうか?或いは、イエズス様が「本当はもっと私たちを成長させたい、大きくさせたい、ぐんぐんすくすくと天まで伸ばしたい、大きな枝にして実りもさせたい」と思ったにもかかわらず、私たちはそれを「ダメだ」「いらない」と言ったのでしょうか?

私たちの信仰はどうだったのでしょうか?愛徳はどうだったのでしょうか?犠牲を捧げるのに準備はできていたでしょうか?或いは希望はどうだったでしょうか?私たちは何を希望していたのでしょうか?天の事を希望したのでしょうか?それとも地上の事だけが関心事だったのでしょうか?

私たちの生活は他の方々にとって模範となっていたでしょうか?私は知っています、「聖ピオ十世会のミサに与る方の、聖伝のミサに与る方の信仰は模範的だ」と皆が言っているのを知っています。がしかし、私たちはそのような良い、そのようなお褒めの言葉に与る事ができるそれに相応しい者だったのでしょうか?本当はもしかしたらまだ足りないところがあったのではないでしょうか?私たちは主に全てを希望して、主に祈りを捧げていたでしょうか?

ちょうど今日そのような黙想をすると、この今日の密誦の祈りに繋がっていくように思われます、「御聖体が、イエズス様の御恵みが私たちを浄めて、そして刷新して、導いて守って下さいますように」とお祈りしているように思われます。

今日そのような反省をした後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。私たちがいつも、イエズス・キリストの御言葉に反対を邪魔物を置かないように、イエズス様の御旨を果たす事ができるように、イエズス様の御聖体の力を私たちがそのまま、妨害を入れずに受け入れる事ができるように。

ではその為にどうしたら良いでしょうか?

一番のやり方は、マリア様にお願いする事です。何故かというと、マリア様は御聖体の、聖霊の働きを一切拒んだ事が無かったからです。罪の汚れの無い方であったからです。イエズス様の御望みを、天主の御望みをそのまま、きれいに映し出されるガラスのように、それを実行されたからです。

ですから私たちがますます育つ為にも、教会がますます育つ為にも マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオと犠牲を、マリア様の汚れなき御心を通してお捧げ致しましょう。マリア様には私たちに、私たちに与える多くの力を持っていますから、それをマリア様から頂く事に致しましょう。

“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種に似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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