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旧約時代は来るべき救い主イエズス・キリストを意味していた前兆だった。ルフェーブル大司教1979年10月28日の王たるキリストの祝日でのお説教

2017年10月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルフェーブル大司教様は、1979年10月28日の王たるキリストの祝日でのお説教で、イエズス・キリストこそ私たちの真理であり法である、と言います。私たちは王たるキリストに知性も意志も従わせなければならない、と。



その中でルフェーブル大司教は、旧約時代、契約の櫃の中にあった十戒の石版は単なるイエズス・キリストの前表に過ぎなかった、しかし現在では私たちの御聖櫃においてはイエズス・キリストご自身がおられる、新約は旧約を遙かに勝っている、と教えています。

旧約の冷たい石版ではなく、新約では生けるイエズス・キリストご自身が法である、全てがそれによって創造された天主の御言葉ご自身が法である、イエズス・キリストこそ霊魂の、知性の、意志の法である、それのみならずイエズス・キリストは全自然の法である、大自然は、全被造物は、天主の法に従っている、だから私たちも自由にイエズス・キリストに従わなければならない、と。

ここで、私たちも旧約の様々な要素が、イエズス・キリストの前兆であったということを黙想してみます。旧約の全てがイエズス・キリストを意味していたので、私たちはここでそれを全て言い尽くすことはできません。

聖トマス・アクィナスの考察を以下に、ほんの一部だけを取り上げてみます。

キリストご自身が「甘美な香りのため天主に自分を捧げた」(エフェゾ5:2)という最も主要な犠牲を前兆するために旧約の全ての犠牲の理由がある。ちょうど不完全なものが完全なものを予告しているように。ヘブライ人への手紙10章11節には、旧約の
司祭の犠牲は罪を取ることができなかったが、キリストは一度で永久に罪のために犠牲を捧げたとある。

旧約には聖所と至聖所があった。聖所は旧約時代を意味していた。(ヘブレオ9:6~)何故なら、聖所には司祭が毎日入って犠牲の聖務を果たしていたから。しかしより内部にあった至聖所は、天国の栄光あるいは来たるべき新約の新法の状態を意味していた。大司祭が一年に一度だけ至聖所に入ることによって、後者の状態に私たちが導かれたことを意味した。聖所と至聖所を区別するベール(垂れ幕)は、旧約の犠牲の元に霊的な犠牲が隠されていたことを意味した。
このベールは4つの色で飾られていた。麻色:肉の貞潔を意味するため、赤紫色:天主のために聖人たちが耐えた苦しみ、二回染められた緋色:天主への愛と隣人への愛、青紫:天国の観想の印。
旧約時代には、一般民衆と司祭とは別の状況におかれていた。民衆は広場での肉的な動物の犠牲を見ていただけである。しかし司祭らは犠牲の内的な意味を考えていた。何故なら、司祭らはキリストの神秘をより明示的に知っていたからだ。そこで司祭たちは聖所に入ることができた。広場と聖所との間にはベールで区別されていた。何故なら、司祭たちには知られていたキリストの神秘に関しては民衆に隠されたものがあったからだ。だからといって全てが啓示されていたわけではない。(エフェゾ3:5)

「契約の櫃」はキリストを意味していた。契約の櫃がセティムの木を木材に作られたように、キリストの体も全くきよい肢体から成っていたからだ。契約の櫃が金で鍍金されていたようにキリストも金によって表される知恵と愛徳にあふれていた。契約の櫃の中には黄金の器--キリストの聖なる霊魂を意味する-- の中にマンナ-- 天主性の充満(コロサイ2:9) -- があった。櫃の中にはアアロンの杖もあった。キリストの司祭の権能を意味する。キリストは永遠の司祭である(ヘブレオ6:20)。また契約の石版もあり、キリストご自身が立法者であることを意味した。

燭台もキリストを意味した。キリストは「私はこの世の光である」(ヨハネ8:12)と言われたからだ。七つの枝の灯火は聖霊の七つの賜物を意味した。
パンをおく台もキリストを意味した。キリストは「生けるパンである」(ヨハネ6:41-51)と言われたからだ。12のパンは十二使徒を意味した。
燭台とパンの台は教会の教えと信仰を意味した。光を与え力づけるからだ。
燔祭の祭壇と香の祭壇との二つの祭壇はキリストを意味した。何故なら、全ての聖徳の業は私たちがキリストを通して天主に捧げなければならないからだ。燔祭の祭壇でなされていたように、私たちの肉体を苦しめるものも、香の祭壇で捧げられていたように監督への霊的な望みも、ともにキリストにおいて天主に捧げられなければならない。(ヘブライ13:15)

旧約には7つの主要な荘厳な典礼の祝日があり、一つの継続する祝日があった【民数28,29章】。
継続する一つの祝日とは、毎日朝と夕に子羊が捧げられていたから。この継続する祝日は天主の至福が絶えず継続することを意味していた。

7つの主要な荘厳な典礼の祝日のなかで、第1は、毎週繰り返された。これは「安息日」であり全宇宙の創造の業の記念として祝われた。
第2の荘厳な祝日は「新月」であり毎月祝われた。これは天主の統宰の業の記念として祝われた。満月ではなく新月に祝ったのは、満月に月に犠牲を捧げていた偶像崇拝者の礼拝を避けるためである。天主の創造と統宰の祝福は全人類に共通のものであり、頻繁に繰り返されて祝われた。
その他の5つの祝日らは一年に一度祝われた。特にユダヤ民族に与えられた恵みを記念するものだった。
第一の月に「過ぎ越し祭」があり、エジプトから解放された恵みを記念した。
その50日後に「五旬祭」があり、掟が与えられた恵みを記念した。
残りの3つの祝日らは第7の月に祝われ、第7日目を祝うように、ほとんどこの第7の月が3つの祝日で使われた。
第7の月の第1日目は「ラッパの祝日」で、イサアクの代わりとなる犠牲の牡羊が角が茂みに絡んで動けなくなっているのを見つけた記念を祝い、角をラッパにして鳴らし、次の10日目の祝日を守るように招いた。
第10日目は「償いの祝い」(キップルの日)であり、モーゼの祈りによってユダヤの民が牛を礼拝した罪を天主が赦し給うたことを記念する。
この後、月の15日目に幕屋祭(シェノペジア)があり七日間続いた。彼らが砂漠のなかを幕屋のうちに過ごした間、天主が彼らを導き保護し給うたことを記念する。この八日目には別の「集会の祭り」があり天主の礼拝に必要な費用を集めた。

これらの祝日らの前兆としての意味は、次の通り。
子羊が絶え間なく犠牲と捧げられていたのは、天主の子羊であるキリストが永久性ことを意味する。ヘブレオ13:8「イエズス・キリストは昨日も、今日も、代々に同じである」
安息日は、キリストによって与えられた霊的安息を意味した。(ヘブレオ第4章)

新月はキリストが初代教会を説教と奇跡で照らしたことを意味した。
五旬祭は、聖霊が使徒たちに降臨したことを意味した。
ラッパの祭は、使徒たちの宣教を意味した。
償いの祭は、キリスト者らが罪から浄められることを意味した。
幕屋祭は、 キリスト者らがこの世で徳に前進して歩き巡礼をしていることを意味した。集会の祭りは、天国の王国でキリスト者たちが集うことの前兆であった。従ってこの祭りは「最も聖なるもの」 (レビ 23:36)と言われている。
最後の三つの祝日は続けて行われたがそれは、罪の償いをした者たちは聖徳に進まねばならず、それは天主を至福直感で見るまでのことだからだ。このことは詩篇83:8に書かれている。

旧約の完成であり、天主が約束したメシア、イエズス・キリスト。
全人類の待望した真の救世主イエズス・キリスト。
私たちの贖い主にして、私たちの王なるイエズス・キリスト。

新約時代に生を受けた恵みを感謝し、イエズス・キリストに知性も意志も従えて生活することができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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