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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2017年11月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2017年10月31日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2017年11月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of November 2017. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Novembris anno MMXVII


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会日本 東京での10月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ 旧典礼のミサ トリエント・ミサ)の報告

2017年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日東京で、聖霊降臨後第20主日のミサを行いました。一年前もやはり同じ聖霊降臨後第20主日のミサを10月2日に東京で行っておりました。

 最近、メデュゴリエについて知りたいという方にお会いしました。そこで、メデュゴリエについての記事もアップしてあります。20年前のものですが、どうぞお読みください。

 その方は幼児洗礼を受けた方ですが、お話ししていて子供のころ初聖体を受けた時のことを教えていただきました。まず質問があり、御聖体拝領の時に英語では「我は不肖にして主をわが家に迎え奉るに堪えず、されど一言を宣わば我が霊魂は癒えん」と言うが、日本語では「主よ、あなたをおいて誰のところに行きましょう」という、どちらのほうがラテン語の原文に正しいのか?尋ねられました。英語のほうが正しい訳だ、と答えると、スッキリ納得した、と。何故なら、子供のころ初聖体の時から、主が私のところに来てくれる場面なのに、なぜ自分が「行く」と言うのか場違いで、シックリこなかった、子供ながらおかしいと思っていた、と。

 そのお話を伺ってとても言葉の意味に繊細でなるほどなぁとこちらも気づかされました。

 さてこの前のミサのご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介させてください。

 次の聖伝のミサは、大坂で11月3日(初金)、4日(初土)、
東京で11月5日(主日)、6日(月)です。愛する兄弟姉妹の皆様とミサでお目にかかるのを楽しみにしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
御ミサをありがとうございます。
今回は特にとても慰めをいただきました。

毎日の生活のなかでこの世のことに心を遣って家族と過ごす日々です。お恵みにより慎ましくもつつがなく暮らせますことを感謝しています。それでも、いつも内的には、この世の生活は本当の生活へ向かうための準備のものとしか思われません。
家にいても道を歩いていても、自分を流され人・流浪の人と感じていて、哀切の思いでおりました。

この日の奉献文は、なんとこの思いを表してくださったものでしょう。「われらはバビロンの川岸に坐って、シオンの町。汝を思い出して泣いた」。弱い惨めな人間なので、御ミサに与り御聖体をいただきお説教で教えていただかないと倒れてしまったあとの立ち返りも難しいです。ただこの世を生きるためでなく本当に天主のもとに導いてくださるような導きがほしく思います。神父様のお説教にはどれほど慰めをいただいたことでしょう。

この日お説教を聞いて、ご聖体を拝領できることがとてもうれしくありがたく、心から感謝申し上げました。

そして私はひどいものなので み摂理による出来事を通してお恵みにより自分の姿を見せられ、今嘆いているのも罪深いものが罪を償うための時間を与えられているのだと 気づかされました。
もっと真剣に自分の罪を痛悔できますようにと思います。それから罪人の回心を願います。

神父様は「ルシアによると、震える手で書かれたたった2つの手段が与えられているだけだ」、と仰られました。私たちに与えられているのはロザリオと汚れなき御心の信心だけということです。これが残されている最後の手段だと。

それから、とても印象深いお話を伺いました。約400年前のルイ14世の聴罪司祭であったイエズス会司祭 ド・ラ・シェーズ神父様と、フランスの王国のことです。ド・ラ・シェーズ神父は、フランスを聖心に奉献せよという、指し示された、ただひとつのことを、しなかったために、与えられるはずの聖寵がいただけず、およそ100年後にフランスの王政は廃止されイエズス会も廃止された、という話に驚きました。

聖心といえば、マリア・マルガリタ・アラコック修道女を通してイエズス様から語られた聖心の信心はあまりにも有名で、私のようなものでさえ洗礼前から、初金には御ミサに与るものだと思っていました。でも、理由もわからずにそうしていただけで、当時は田舎の教会でさえ初金の御ミサが捧げられていたからに過ぎなくて、マリア・マルガリタ・アラコック修道女やイエズス様の聖心とのつながりがあるとはっきりと知ったのは、回心後でした。

今回、拝聴したお説教を思い出しているうちに、ファチマのマリア様からルシア修道女にいわれたようなこと、つまり、初土の信心と、その深い意味の聖母の汚れなき御心の信心と、それと、世界中の司教様とともに教皇様によるロシアの聖母の汚れなき御心への奉献ということの三つのそれぞれに対応することが、イエズス様の聖心についても同じくあったのだ!と思いました。

この三番目に関して言えば、ド・ラ・シェーズ神父とルイ14世がフランスを聖心に奉献することと対応しているのが、教皇様と司教様達がロシアを聖母の汚れなき御心に奉献することに対応していることになるのかなと思いました。

現在フランスの国は、王政から共和制になってしまい、天主様の聖寵が満ちていた時代とは様変わりです。またイエズス会に関して言うと、霊躁という素晴らしい祈りの方法を残してくださった聖イグナチオ・ロヨラがつくられた霊躁という祈りを思い出しますが、現代では霊躁以外に、解放の神学とかエキュメニズムとか自己実現とか各種の東洋の祈りなどを推奨する神父様たちがたくさんいらっしゃいます。霊魂の救いとは直接には関係ないものかなと感じられます。お説教を伺って、こういったことの背景を教えられたように思いました。ありがとうございます。

そしてはっきりと明らかに、聖心の信心での経緯と、現在まさに進行中のファチマのマリア様からお話いただいている聖母の汚れなき御心の信心の状況は、類似するところが多いと、考えさせられました。

イエズス様の聖心にフランスの国を奉献せよという望みを実行しなかったために廃止されたのが、フランスの王政と一修道会だったとしても、聖母の汚れなき御心に教皇様と世界中の司教様が一致してロシアを奉献せよという望みを実行しないで滅びるのが何であるか・・・、それに対応するのが何であるか想像するのが怖ろしく思います。聖母がお与え下さった救いの手段を真剣に実行しなければならないと思い、ロシアの奉献のために祈ります。

そして、ロザリオと聖母の汚れなき御心の信心を、実行したいと思います。神父様は、それを最後の二発、最後に与えらえた手段と話されて、ほんとうにそうなのだと思いました。

小野田神父様、いつも素晴らしい御ミサとお説教をありがとうございます。


【報告】
月曜日のミサで、御ミサの後に、普段は地理的なことでなかなかトリエント・ミサに与ることが難しいという方とお話する機会がありました。特にこの日は、読誦ミサのため、ラテン語でミサが進行するので、ミサ典書を見ながら順を追っていても、どの箇所がいまミサで行われているのかすぐ分からなくなりがちで・・・という感想でした。日本語でないので、内容もわからないので・・・という感想もありました。

はじめて読誦ミサに与って、特にパフォーマンス的な所が少なくて、一様に感じられたかもしれません。
ああ自分も最初の頃はそうだったなぁと、思い出しました。

それについては、何度もミサに与るうちに、耳が慣れてきて、どの部分が今行われているのかが、わかるようになると経験から、申し上げられるかなと思います。日本語も併記されているので、内容も分かるようになるのでは思います。とても良い参考書もありますし。
それから、教会のお年寄りなどの話から、昔はラテン語のミサの時にはミサの内容がわからないので、ミサ中にロザリオを祈っていたなどという話を聴きますねという話になりました。でも、実際はそんなことはなく慣れてくると、いまミサ典書のどこを祈っているかを集中して見て聞いて祈ることができるという話になりました。どこかで間違った情報がインプットされてしまって、巷に広がったのでしょうという話になりました。
そして、今通常に日本語で行われているミサの内容と、トリエント・ミサのラテン語で行われているミサの内容は、全く違うものだということが、ほとんど知られていないということも、話題になりました。

また、「初めてレオ十三世の作られた『聖会のための祈り」も、御ミサの直後に祈ることができました」、という感想もいただきました。私も10年位前から、ノブスオルドのミサの直後にはいつも一人でこの祈りをずっとお祈りしてきていましたので、こちらで読誦ミサにも与るようになって初めて、神父様と一緒にお祈りができてとても感激したことを思い出しました。歌ミサの後にはこの祈りを唱えないという規定があることも、以前は知らなかったです。

「日本語のミサだと内容がわかるからそれが素晴らしい」という人は、日本語のミサに掲載されている内容が昔のものと違うものに変更されているという事実を知らされていないだけのようです。
聖伝のミサは、単にラテン語での祈りかどうかというだけでなく、そこで祈られている内容が、今のミサのものと全然違うものだから。
そのことに気づかなければ、聖人をたくさん産み出したミサということを理解するのが難しいかもしれません。そのことを良く知れば、トリエント・ミサで祈られている内容に惹かれる人がもっと増えるに違いありません。、
私もそのことを知れば知るほど、聖伝のミサに与りたいと思います。

新しく見えた方と、いろいろ、お話できて、楽しかったです。

今回、台風で始発電車が動かなくて、ミサに与れないかもしれないという恐れがありました。始発の電車までは強風は抑えていただけましたこと、天主様に感謝申し上げます。

【報告】
公教要理では、ユダヤ教とはどういうものかを教えていただき、イエズス様の生きていらした当時の状況を教えていただきました。

1、ユダヤ教は、唯一の天主を信じていたアブラハムという人から始まった宗教で、ユーフラテス・チグリスのイラクの近辺のウルという場所から始まったもの。アブラハムはイエズス様が生まれるおよそ2000年ほども前の人で信仰の人だった。ユダヤ教の始まりを教えていただきました。

2、約1500年前に、モーセが初めて聖書を書いた。モーセはエジプトから民を脱出させたユダヤ教の指導者だった。この時、天主の十戒や、契約の櫃や、いけにえの捧げ方や、安息日の規定などが決まった。

3、カトリックは2000年前も今も変わらない宗教だけれど、ユダヤ教はそうではなかった律法を守るということに関して、移り変わりがあった。

4、ユダヤ教で大切とされているものが二つあって、中心の教えである、安息日と割礼を守るということだった。割礼は、生後8日目に割礼と名前を与えること。

5、安息日をまもるということは、労働を休み天主へお祈りをするためのものだった。しかし形式的なものとなり、身体を動かさないことが重要となった。
(どのように安息日が守られていたか具体的に聞きました。複雑な決まりが口伝で伝えられ、非常に複雑に変化していったとのこと。細かい規定があって意味もなく形式なものでユダヤ人を縛りつけていた例も多かったようだ。一般の人にとっては、ふつうは安息日はお祭りとなるもので晴れ着や御馳走など喜びの日になっていた。)

6、安息日と割礼と、どちらが律法で上位にあたるかについては、割礼が上である。(ヨハネ福音書第7章の22、)安息日でも割礼は施すことができる。

7、アブラハムから始まったユダヤ教には、いまのカトリックの前表が いくつもあるとのことでした。(イサクやイサクの背負った柴、生贄の子羊や、子羊の角が掛っていた藪もそれぞれ新約にあることの前表となっている。)

8、モーゼがエジプトから脱出したこと。(イエズス様が死から命へと移られ、キリスト者たちが罪の状態から洗礼の水を通って天国に行くという前表)

9、過越祭(パスカ)の8日間に「種なしパンの祭り」があり、子羊を屠った。(過越祭は、復活祭の前表)

10、その50日後に、「ペンテコステ五旬祭」が一日だけあった。(聖霊降臨祭の前表)

11、その6か月後の「ティシュリの月」の15日は幕屋祭があった。(神殿奉献祭のことで献堂式にあたる)

12、ティシュリの月の幕屋祭の前の10日は、「キップルの日」でユダヤ人は断食をして、大司祭は神殿に入り、いけにえをほふった。大司祭が仕事をするのは一年でこの日だけであった。(これは、イエズス様が一回だけご自分を生贄として、天の至聖所に入ったということの陰であった)

以上、授業ではもっといろいろな興味深いお話がありましたが、少しだけ箇条書きに書き出して復習をしました。神父様いつも貴重なお話をありがとうございます。

その後今回は、グレゴリオ聖歌の練習をしました。
聖霊降臨後第23主日以降は、主日が何回あっても歌う歌は同じものとなるとのことです。11月12日は御ミサの中で私たちも聖歌を歌えるようにとのことで、教えていただきながら実際に歌ってみました。
入祭唱の「Dicito Dominus Ego・・・ 」をラテン語の読み方からネウマ譜の読み方まで 教えていただいて、小さな小節に別けて歌う練習をしました。意味も教えていただきました。

普段は声を出すことも難しいですが、細かく教えていただいたので、なんとか神父様の音に合わせて、またユーチューブの歌に合わせて、声を出して歌ってみました。
音を思い出せないのですが、YouTubeで探して、自宅でも練習してみようと思います。

主日の御ミサの中で声を出して歌うまで、憶えられるかどうか心配ですが。
楽しく練習できました。神父様ご指導をありがとうございます。


私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その2 カリスマ刷新運動と聖霊降臨運動

2017年10月31日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエの続きを掲載いたします。

第2部メデュゴリエ


 メデュゴリエとキベホの御出現は、古典的なものとは言えません。これはペンテコステ運動と密接な関わりがあります。はっきり言いましょう。メデュゴリエは、その起源からカリスマ運動の出現です。

カリスマ運動の指導者たちによって仕組まれた御出現

 メデュゴリエの御出現は、カリスマ刷新運動の懐で既に予告され、「預言」されていました。

 ルネ・ローランタン師はこう書いています。

「1981年5月、聖母出現がある以前に、ヘルチェゴビナ地方のフランシスコ会神父トミスラヴ・ヴィラシッチ[P. Tomislav Vlasic]は、ローマで開かれた聖霊刷新の指導者のセミナーに参加し、その時自分について述べられた二つの預言を知らされた。

- ブリージ・マッケナ修道女[Soeur Briege McKenna]は、トミスラヴ・ヴィラシッチ神父が予言者のように、群衆の真ん中に座っている姿を見た。そして、彼の椅子のところから、水がこんこんとわき出て流れていった。

- エミリアノ・タルディ[フ]神父[P. Emilien Tardif]は、神から伝えられた予言者として、「恐れるには及ばない。私は御母をおまえに遣わす」という言葉を彼に知らせた。」(『メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現 共産主義国家において全世界に与えられた一大メッセージ ルネ・ローランタン、リュデヴィット・ルプツィッチ共著 尾崎正明訳 タルディ著作刊行協会発行1987年、p47)

 この数週間の後、6月24日、メデュゴリエの出現が始まっています。この第5日目にはヴィラシッチ神父はその場に居合わせています。彼は出現を目撃し、幻視者に質問し、御出現を本物であると確信しています。やはりフランシスコ会司祭であった主任司祭に御出現の場所をポッドブルドー(Podbrdo)の丘から、村の教会に移すことを提案しています。(ポッドブルドーというのは、ボスニア・ヘルツェゴビナにある、石だらけで低い山の麓に付けられた地名です。)

 8月18日には既にヴィラシッチ師は、メデュゴリエの主任司祭に任命されています。その時以来彼は、幻視者を絶えず指導し、巡礼に好意的な宣伝を組織し、管理しています。これは、1984年の秋まであからさまになされました。しかし、彼がモスタールの司教によって人事異動を受けてから、密かにこれを続けました。彼は、定期的にメデュゴリエに来ては指導しました。

メデュゴリエの聖母は聖霊刷新運動を激励する

1 メデュゴリエの聖母は幻視者たちに、刷新運動の使徒たちが来ることを約束しています

2 1983年8月23日から25日まで、出現と一致しその祝福をもって、聖霊刷新の使徒たち3人(すなわち、タルディフ神父、マードル博士[Dr Madre]、ランクール神父[P. Rancourt]の3人)は、教区にペンテコステ運動の儀式を導入しています。すなわち、霊の洗礼、異語、異言、預言などです。

3 カリスマ運動の指導者とメデュゴリエを息吹く霊は全く同じです。

幻視者はカリスマ刷新運動に参加の経験があった。

 クリスマスの休暇中には、イワンは「カリスマ運動のセッションに参加するためにフランシスコ会師によって召集を受けていた」("Dernieres nouvelles des apparitions de Medjugorje" par l'abbe Laurentin, n.1 p.9)

 イワンとマリアは青年用の「祈りのグループ」を司会し、ポドブルドの丘に夜の10時に集まっていました。

カリスマ運動推進派はメデュゴリエを保護する

 スプリット大司教の大司教、ユーゴスラビア人のフラニッチFranic大司教は、ユーゴスラビアで唯一、狂信的にメデュゴリエを信奉しています。

「私は、目の前で一つの新しい教会が生まれるのを見ている。聖霊の教会である。・・・聖霊はいろいろな仕方で働く。私たちの教会の中で、また世界中で働く。私の考えでは、これは全体の大きな動きであって、続きである。メデュゴリエは、いわば、この働きの頂点に立つ。これは全て新しい教会に飲み込まれ、新しい教会は、昔の教会を続け、延長する。・・・メデュゴリエは聖霊の活動の頂点のようである。メデュゴリエの役割は、私は特に別の教会の兄弟たちと近づくことにあると思う。ギリシア正教徒の兄弟たちや、イスラム教徒、マルクス主義の兄弟たちと近づくことにある。聖母はここではただ愛を広げるだけだ。・・・メデュゴリエの聖母を崇敬する私たちの目的は、私たちの天主への信仰と人間への信仰を強めることだ。・・・」

メデュゴリエとカリスマ運動は切り離せない

 では、カリスマ運動とは?聖霊降臨運動とは何でしょうか?

 聖霊降臨運動の推進者たちは、カリスマ運動の起源・その源・その根本思想に忠実であり続けています。従ってカリスマ運動を良く知るためには、この運動の起源について(この起源は余り良く知られていないのが実状です)の正確な知識を持つ必要があります。

カリスマ運動の起源

 エドワード・オコーナーの書いた『聖霊降臨運動 ─カトリック教会における─』(小林珍雄訳/エンデルレ書店)は、聖霊降臨運動の始まりをこう書いています。

「その[カリスマ運動=聖霊降臨運動の]主流は1901年元旦に発した。カンサス州トペカのパーラム聖書学校で、迎春のための先夜祭として信心深い祈祷会が行われた。元旦になっても『主の臨在』はまだ残り、『よりすぐれたもののため主を待ち望む心を』しずめてくれた。学生の1人オズマン嬢が、こらえられなくなって、パーラムに、新約聖書にも示されたいるように、聖霊の賜物を受け取れるように、彼女の心臓に彼の両手をのせるように頼んだ。その通りにされると、彼女はいちじるしい霊的経験をうけた。あとでかの女のいったことばをかりれば、『ちょうど活ける水の河が私の内奥の存在から噴出しているようだった』。かの女は、異語で祈りはじめ、その翌日あるボヘミア人は、かの女はボヘミア語を話していたとみとめた。……(13~14頁)」

 これが聖霊降臨運動の始まりでした。

 この運動の特徴は2つあります。

 まず一つは、「聖霊による洗礼」。第2は「異語で語る」ことです。この異語とは(異言とも言う)自動的に訳の分からない言葉で話す gossolalie と言うのと(これを異言と呼ぶのがふさわしいだろう)、普通には自分の知らないことを外国語で話す zenoglossie(これを異語と訳すのがふさわしいだろう)というのとの2つです。ここでは、自分の知らない外国語で話すという意味での「異語」でアグネス・オズマンは話し出したのです。

 しかし、この著者オコーナーはここで全く言及しませんが、よく調べて見ますと、最初の出来事は1901年1月1日と2日の間の夜、正確には午後11時に起こりました。

 メソジストの牧師であるチャールズ・パーラム(Charles Parham)は、聖書を教えるための学校をアメリカ合衆国のカンザス州に作りました。その学校はトペカ(Topeka)の家と呼ばれていました。そして、聖霊降臨運動の最初の一歩は、このトペカの家で起こりました。

 パーラムとその生徒は、現在のプロテスタント教会の活力の無さと初代教会の生命力との違いに引かれていました。『使徒行録』で語られるような初代教会の信者らの霊の現れ、特に異語などはどうして消えうせてしまったのか、とこれらは自問しました。このためにこそパーラム牧師は1901年の元旦に祈りの会を開くのです。

 すると、そこにいた学生の一人であるアグネス・オズマン(Agnes Ozman、彼女は後に結婚し、ラ・バージ(La Berge)夫人となる)は、新約聖書にあるような聖霊の賜物を受けるために、パーラム牧師に按手を願ったのです。パーラム牧師はためらいましたが、それを受け按手しました。「ちょうど活ける水の河が私の内奥の存在から噴出しているようだった」と彼女は後で言っています。これがいわゆる「聖霊による洗礼」でした。

 しかし奇妙なことに、そして非常に奇妙なことには、オズマン自身が書いた自分の体験についての記述は、見つけることが出来ないのです。この運動の創立者の書いたものだといいますのに…。何か、その記述には明らかに悪魔的なものがあるのでしょうか? ともかく、そういう訳で、この運動の起源は、少なくとも闇に包まれています。

 しかしこの我々に与えられたものを見ますと、少なくとも次のことが言えるでしょう。

 まず、この「運動」の起源には天主をさらによく愛そう、贖い主なるイエズスにもっと一致しよう、主のご受難において主キリストともっと親密に一致しよう、そのために愛によって苦しもう、などという考えのかけらもありませんでした。

 もっとひどいことに、天主様の御旨にさらに良く答えるために、天主様のみ旨をより良く生きるために、聖性において成長するために、聖寵の恵みに満たされ、清められるために、聖霊の恵みが欲しかった、などというのでもありませんでした。

 そうではない!ただ単に「聖霊を欲し、『すぐ何らかのしるしで』それを知らせるように神に願った(同書14頁)」のです。それは「こらえられなくなって」しまうので、「すぐ」に、目に見え耳に聞こえる形で、初代のキリスト者たちが持っていた特別の力が欲しかったのです。オズマンは何で私にもこの神の力が貰えないのか?と自問するのです。

 ちょうど奇跡を行う力が欲しく信者を装って、金を持って来て「按手すれば聖霊を授けられるように、わたしにもその能力をください」と言ったあの魔術師シモンとそっくりではないでしょうか!この最初の異端者、宗教詐欺師は、天主への愛などそっちのけで、ただ奇跡を行う力が欲しかったのです!

 この望みにおいて、どの霊が彼女を訪れえたかを識別するのは大変容易なことです。1901年1月1日の夜11時に機械的に按手によってすぐに叶えられたこの力への欲求に答えるのは天主様なのでしょうか?まさか!さらに言えることは、メソジストの牧師という、司祭の権能の全くないものが天主様の聖寵の運び手となることは、少しも出来ないのです。カトリック教会の洗礼や堅振と根本的に区別される「聖霊による洗礼」は、聖霊降臨運動の彼らが言うように成聖の聖寵を与えるものではなく、「カリスマ(特能)」、「異常の賜物(39頁)」を与えるものです。これが、我々が確信を持って「悪の者はサタンの力にしたがって現れ、力としるしと偽りの不思議をすべて行い、また救いに至る真理への愛を受けなかった滅びるもののために、不義の惑わしをするであろう。(テサロニケ後2;9-10)」と聖パウロの語った「サタンの力にしたがって現れ、力としるしと偽りの不思議」であると判断する根拠の1つです。

《新しいプロテスタント》の誕生

「これから数日の間に、同じ経験が学校内でほかの多くの生徒におこり、いち早く校外にもいいふらされた。彼らに信用されず、大いに反対された。数年の間、聖霊降臨の噂がやたらにひろがり、ことにひそひそと西南部を走った。1906年にロスアンジェルスに[黒人伝道師、パーラムの弟子であるセイモイア(Seymour)の影響の下に]新しい突発がおこり、そこから世界中につたえられることになった。……」

 しかし「この聖霊降臨を受けたものは、たいていは、嘲笑・迫害・破門によって、既成の教会から追放された。そのためかれらは、通常ペンテコスタル(聖霊降臨の)と称せられる新しい教会や宗派に結集するほかなかった。……彼らの多くも、歴史家の多くも、プロテスタントとカトリックとの中間のキリスト教界の「第三勢力」とみなしている。」彼らは、迫害を受け排斥され、新しい「神の集会(Assembly of God)」を作り上げていきました。とくに、この「新しい聖霊降臨」の使徒たちは、「癒し(healing service)」などによって大衆を引き付けました。彼らはこう言っていました。「奇跡の時代は終わっていない。既成の教会、形式主義の組織付けられたプロテスタント教会、カトリック教会では聖霊は窒息してしまった。時の終わりのキリストの光栄ある再臨を告げる最後の目覚めのときである。制度化した教会から離れた聖霊は、我らの上に戻って来た!」と。

プロテスタントらにおける聖霊降臨運動(新聖霊降臨運動)

 英語圏で広まって行ったこの運動は、他の言語圏にも広まっていきました。例えば、1929年には、ダグラス・スコット(Douglas Scott)がフランスにこの運動を導入しました。30年代になるといろいろなカリスマ運動のリーダーたちは「聖霊による洗礼」の儀式を共に、カリスマの霊をプロテスタント諸教会の中に吹き込んでいました。とくに、ダリエール(Dalliere)牧師や、トマス・ロバーツ(Thomas Roberts)の果たした役割は大きかったと言えます。50年代になるとデビド・デュプレシス(David Duplessis)が国際的に動き回り、すべてのプロテスタントの中で働き始めました。彼はこうして最初の宗教統一運動に手を付け始め、それは全く成功裏のうちに終わりました。「身を引いて聖霊降臨派に同道することを拒み、そのかわりに[聖霊降臨派になる代わりに]既に属していた教会にとどまった」人々は、「既成の教会の一人として、カリスマ(特能)が受けられはじめ(同書15頁)」、人々はそのとき、新しくこの運動を「新ペンテコスタリズム(neo-pentecostalism)」と呼び始めました。エピスコパリアン(監督教会派)では、1958年からカリフォルニアで、米国ルター派(ルーテル教会)では1962年から、プレスビテリアン(長老教会派)1967年からの事であったといいます。

「既成のプロテスタント諸教会に聖霊降臨の精神が浸透していたことは、60年代の宗教界の主な兆候であったことは、もうはっきりしている。」(同書17頁)

カトリック教会における聖霊降臨運動の浸透

 オコーナーはこう書いています。「1966年春にさかのぼる。ペンシルバニア州ピッツバーグのデュケーヌ大学(あたかも聖霊修道会士の経営する)で、2人の平信者学生が、いろいろな典礼・黙想・布教的活動に活躍していた。しかし二人とも努力の結果に失望し、初代の信者がしたように力強く福音をのべる才能がなさそうに思えて、びっくりした[ママ]。二人は、互いに祈り合って、聖霊の賜物にみたされるように約束し、毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく。彼らはことに、活けるキリストの真実の親身な接触に入った。この事件はまた、初代教会に見られたようなカリスマ特能的活動の姿によって特徴づけられた。かれらの多くは、異語の賜物をうけ、数人はほかの賜物(予言、知的洞察力、祓魔の力など)をもうけた。この経験は67年2月におきたものだが、その結果小さい祈祷団が結成された。…(同書8~9頁)」そしてオコーナーは「この経験」が起こった「67年の春こそ、恩寵のめぐみの春であった(同76頁)」といいます。

 このオコーナーの文章ではあまり詳しくは分かりませんが、ルネ・ロランタン(Rene Laurentin)神父はその著書『カトリックにおける聖霊降臨運動、危険と将来』(Pentecotisme chez les catholiques, risques et avenir, Beauchesme, 1975, p13, in Medjugorje en toute verite)のなかで、それはデュケーヌ大学(聖霊修道会によってピッツバーグに創立された)で、1967年1月20日に起こった、と書いています。ロランタン神父は公会議の直後、聖霊降臨運動のカトリック教会内で発生したまさにその年、つまり1967年の8月8日『時の印』を求めて、前掲書の著者であるエドワード・オコーナーと会談をしている神父です。

 このロランタン神父によると、1966年の8月、デュケーヌ大学の平信徒の教授たちは、クルシリオ(cursillos de cristianidad、小林訳では、クルセーヨまたは「キリスト教短期新式黙想会」)に参加し、この運動で、生き生きとした信仰を見つけだすことができるだろうと期待していました。彼らは典礼運動、宗教統一運動、使徒職、平和運動などの参加を試みましたが、どれにも失望したからでした。

 同書に語られる「2人の平信徒学生」と言うのは多分にケヴィン(小林訳ではキーバン、時にはキーベン、あるいは、別のところでは、やはりケヴィンと訳されている)・ラナガンとドロシー・ラナガン(Kevin & Dorothy Ranaghan)ですが、彼らの語るところによると、これらの運動は、空っぽで、ダイナミズムに欠き、祈りの生活と行動に力を失っているように思えたそうです。

 このクルシリオの間、教区の学生達の責任者であるスティーヴ・クラーク(Steve Clark)とラルフ・マルティン(Ralph Martin)と出会うのです。スティーヴは、ある1冊の本を読み、その本のことばかり考えていました。スティーヴは、皆にその本を読むように強く進めるのです。それはウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』と言う本でした。これは、デイヴィッド・ウィルカーソンという聖霊降臨派の牧師の自伝です。この大学の教授たちはこの本を読み、クルシリオに欠けていたものを、まして伝統的カトリックのやり方に欠けていたものを見つけた、と思いました。それは、聖書であり、聖霊であり、カリスマでした。2カ月間もの間この牧師の本は彼らの祈り、分かち合いの土台となった。彼らは自分の人生の終わりまでにはこのようなものを得たいと願うようになっていた。彼らの1人、ラルフ・カイファー(Ralph Keifer)は、そのときもう一つ別の本を見つけだす。それは、ジョン・シェリル(JohnSherill)の、『彼らは異語で話す』と言う本であった。この本にはどうしたら霊の経験をすることができるか実際的な手段や方法が書かれていた。彼らは、ウィルカーソンが持ていたように思われるこんな力が必要だと気が付くようになって行った。どうしたらこの「力」が受けられるのか。ラナガンによると、その4人の神学の教授がいろいろな可能性を検討したという。まず、カトリックの祈りで聖霊を呼び求めつつ祈り続ける? 彼らは既にやってみた。それはオコーナーの本にも書いてある通りである。しかし彼らはそれはうまく行かなかったという。やってもやっても駄目だ!と愚痴をこぼすのである。では互いに按手し合ったらどうか。しかし彼らにはどうもそれが最善の方法とは思われなかった。結局、もっと別のところに行かなければならないのではないでしょうか?彼らの頭の中にあったのはだだひとつでした。聖霊降臨派の教会へ行こう!と。(「毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく[!]。」と、オコーナー神父は書きますが、これだけを読みますと、普通の読者は、彼らがカトリックの祈りをもってカリスマを受け取ったかのように錯覚を受けるでしょう。)

 もはやサイは投げられました。「霊の力」を求めていずこまでも。彼らはウィリアム・ルイスというエピスコパリアンの「司祭」に電話をしました。ルイス牧師はその教区の聖霊降臨を受けた女性と彼らを引き合わせるように約束します。1月6日、エピスコパリアンの教会にて第1回目の面会。1月13日、プレスビテリアン(長老教会派)の信者で聖霊を受けたフローレンス・ドッジ嬢(Miss Florence Dodge)の家で、第2回目の面会。

 彼女は、その少し前に祈りのグループを作り、ピッツバーグの百貨店で地位の高い教養ある女性であったといいます。そしてこのフローレンス・ドッジに会った1週間後に、カトリック教会の大刷新が行われたというのである!1月20日、デュケーヌ大学の2人の神学教授、ラルフ・カイファーとパトリック・ブルジョア(Patrick Bourgeois)は、彼女に「聖霊による洗礼」を頼み、この祈りのグループの「聖霊を受けた者」達の手から「聖霊による洗礼」を受けました。カイファーはこう語っています。「彼らはただ単に、霊の力がわたしのうちに働きだすように信仰宣言をするように求めただけでした。わたしは異語でかなり速く祈りました。…わたしはむしろ、どこからそんなものが私に出て来るのか、不思議でなりませんでした。」

 我々は、まずカトリック教会における聖霊降臨運動が、その創立に当たって、プロテスタントたちによって指導影響を受けたことが分かります。それだけではありません。その発展段階においても、いつもプロテスタントと一緒であったことがオコーナーの本によっても知られます。

 例えば、同年の3月13日には、レイ・バラードが「ノートルダムに形造られようとしていたカリスマ集団の一種の精神的名付け親になりました。レイ・バラードとは「実業家福音協会の[ルイジアナ州]サウス・ベンド(South Bend)班の会長」、サウス・ベンドのアセンブリイ教会カルワリオ幕屋聖堂の活動分子で教会役員をつとめている」全くの非カトリック者です。(35頁)」

 このレイ・バラードは「自宅の地階で各週祈祷集会をひらき」、3月13日月曜の夕方に9人のカトリックの信者もそこにいました。それは、ケヴィン・ラナガンとドロシー・ラガナン、バート・ゲッチ[30頁](あるいはゲッシ[36頁])とメリイ・ゲッチ、そしてその他5人の大学生でした。その夕方の為にレイは「その地区の数人のすぐれた聖霊降臨教会牧師をふくむリーダーを招いておいた」。「牧師の一人が聖霊の賜物について語り、もう一人は質問に答えたりした。それから居合わせた20人ばかりの聖霊降臨派信者がノートルダムの仲間をかこみ、かれらのために祈りはじめた。かれらは異語で祈り、数分のうちに一人また一人とついにはノートルダム仲間の7、8名も同じように異語で祈った。[!](36頁)」

 彼らは、黙想会中カトリック聖職者の指導を一切受けていませんでした。「すべてが不思議に包まれているさい指示を与えられる者はいないはずだから[!!]指導者はおかぬことにした(51頁)」のです。

 ロイ・ウィード(サウス・ベンド地区におけるアセンブリ・オブ・ゴッド教会の最大のものたるカルワリオ幕屋の牧師)を父に持つダグラス・ウィードは、カトリック信者が自分たちと同じ「聖霊」を、やはり同じく受けることができるか懐疑的でした。しかし、同年4月7日から9日にかけて、ミシガン州立大学での黙想会が、聖霊降臨のカトリック信者の強い影響を受けて開かれ、それを自分の目で確かめに来たダグラス・ウィードは「兄弟らよ、カトリック信者も[!]聖霊[ママ]を受けられるのを見て、いかほど私も喜んでいるか、とても言い表せません」と熱狂しました。

 4月14日以降、「サウス・ベンドの聖霊降臨派の教会の人々は、ノートルダムの祈祷集会に行きはじめ(72頁)」、「やがて聖霊降臨派の既存の教会の連中も、祈祷集会に参集しはじめた。ルーテル派、長老派、プレスビテリアン、バプチストなどの多数が参加した。…宗派のちがいは重大問題をもたらさず、むしろ教理の違いの下でかれらを結束する[!!]キリストの兄弟愛に気づかせた。…この間にも、聖霊降臨集団が、近くのバルパラインのルーテル派大学で盛んになってきた。それとノートルダム集団との間に、暖かい友情のきづなが生じ、お互いの祈祷集会に自分らの仲間をおくりこむようになった[!!]。…多くの宗派の信者は一緒に[=共に]神に[一体どの神に?]祈り、神を礼拝するようになり、その上、自分らの教理[異端と誤謬に満ちた自分の教理]を否定したり縮小したりすることなしに[!]、共通の神の愛、イエス・キリストの信奉によって[彼らは一体どんな信仰を、どんな信奉を持っているというのでしょうか?]そうなったのである。(73~74頁)」

 69年には、4月25日から27日にわたって「全国的[全合衆国的]と言える最初のもの」が開かれました。25~30人のカトリックの司祭もいたそうです。

 オコーナーはこう書いています。「プロテスタントやペンテコスタル諸教会からも客員として多数出席しました。その中には、ペンテコスタル教会の主流派の最も有名な代弁者たるデビド・デュプレシスもふくまれていた。(91頁)」

カトリック信仰は聖霊降臨派のしるしと不思議なことに対し何というか。

 もし、ピオ12世の在任のときに、あるいはピオ12世以前の諸教皇の時に、カトリック信者が『聖霊による洗礼』を授けてください、と聖霊降臨派の牧師に頼もうなどと思ったら、どういうことになっていたでしょうか。

 1948年6月5日、聖省は、カトリック信者が「非カトリックの宗教儀式に、いかなる仕方であれ、能動的に出席し、あるいは参加すること」を禁じている教会法典第1258条について、再度注意を喚起しました。言わんや、プロテスタントの本質的な儀式を受けるのは厳重に禁止されていたのです。なぜなら、宗教儀式は常にある信仰、ある信念の表現であって、儀式とか礼拝様式といったものはその信仰内容と切り離しがたく結び付いているからです。

 聖霊降臨派の『洗礼』を求める、というそのこと自体、その儀式が正当なものであること、その儀式が価値をもち、効果がある、ということを前提にしなければできないことです。つまり、効果がある、ということは、その教えが正しいということを意味しているのです。

 したがって、異端の宗派に全く身を投ずるという、行為をすることによって、彼はカトリック信仰から背反し、背教することを意味しているのです。

 もう一度、この運動がプロテスタントによって、カトリック教会の中に持ち込まれたことを確認しましょう。一体誰が、この運動の創立者の第一歩に、既に背教の行為がなかったなどと言えるでしょうか?

 私たちが、我らの母なる聖なるカトリック教会の懐に洗礼の秘跡によって受け入れられるという、すばらしい恵みをいただき、この不肖なる身にかくもかたじけない名誉を授かった後に、どうして、のこのこと偽りの教会に行けるでしょうか?!

 しかも我々は洗礼という、前代未聞の極み無き恵みをかたじけのうしたばかりか、聖霊の恵みの充満である堅振の秘跡を受け、ご聖体で養われているのです。それにもかかわらず、そのほかに、新しい洗礼、新しい聖霊の賜物を、異端のセクトにどうして物乞いすることができましょうか?!それこそ、キリストとその聖なる花嫁、ローマ・カトリック教会に侮辱をはきつけることではないでしょうか。

 キリストは天主として、ご自分の花嫁であるカトリック教会を、ご自分の聖寵と真理との唯一の保管庫、分配者、として地上に創立されました。だから、聖霊が本当に現存され、実際に働かれる場所である、キリストの本当の神秘体、すなわちカトリック教会にこそ聖霊を探さなければならないはずではありませんでしたか。この救いの方舟、すなわちカトリック教会以外に、主は目に見えて、あるいは目に見えないやり方で、働かれようとは望まれませんでした。主はこの方舟を、私たちの救いのために作り、それ以外のものは一切無効とされるのです。

 聖霊降臨運動の創立者は、一体なぜ、聖霊のいないところに聖霊を探し出そうとするのでしょうか?これこそ聖霊に対する罪ではないでしょうか?忘恩の反逆の子らは、自分の受けた洗礼の恵みを無にして、キリストの真の恵みを軽蔑し、彼らの母なる真の教会によって豊かに与えられた、愛と真理の霊の賜物を侮るのです。カリスマ運動の第一歩はこの裏切りにありました。カリスマ運動の第1の行為はこの背教でした。

しかし、ルネ・ロランタン神父は、はばかりも無く「この運動の起源は模範的である[!]」と書いているのです。オコーナ神父も、「『聖霊による洗礼』の経験、カリスマの出現は、ここでも[カトリック教会でも]よそと同じく[!]聖霊が働いていることは、疑う余地はない」などと平気で書いているのです。もはやオコーナー神父にとって、この運動がカトリック教会内に始まるまでは、カトリック教会で聖霊が働いているのかいないのか疑いの的であったのです!

 この背教の第一歩を踏み出したのをご覧になったキリストのお考えは、いかがであったでしょうか。天主の御独り子は、唯一の教会の花婿にして頭は、これを見て何と思われたのでしょうか。

 預言者イェレミアはこう言う「だが、おまえたちは、そこに入ると、すぐ私の地を汚し遺産をいとわしいものと変え、主はどこにおられるかと、祭司たちも尋ねなかった。律法を学ぶ人々も、私を知らず、牧者は背き、予言者はバアルの名で預言し、役に立たぬものに従った。…私の民は自らの光栄を、役に立たぬ空しいものに取り替えた。天よ、驚け、わななき、驚愕せよ──主のお告げ──。私の民は、二重の罪を犯したのだ。我らは水だめを、ひびが入って、水のたまらぬ水桶を掘ろうとして、生きる水の泉である私を見捨てたのだ。」(2;7~8、11~13)きっとこれを感じられたに違いありません。

 何と嘆かわしい歴史上のスキャンダルか。すぐさま多くのカトリック信者は、司祭は、修道者は、修道院ごと、「聖霊による洗礼」を物乞いし始めるのです。全くカトリックの聖伝に関係ない按手をもって、機械的に、即席に、見よ!「霊の実り」を受けるのです。

 彼らはこのカトリック教会とは無関係のイニシエーションを受けた後、今世紀初頭からペンテコスタルの懐で広まっていた「霊」の感覚的・感情的体験をし、異語で話しだし、預言し、癒しを行うのです。そして彼らはこう言います。「霊が戻って来た!」と。

 「戻って来た」とは、一体何事でしょうか!アグネス・オズマンのお陰により、そしてフロレンス・ドッジに謙遜に(!)カトリック教会にも聖霊を嵐と吹かせてください、とお願いに上がったあの4人のお陰で、ついに聖霊は、戻って来た、と言うのです。この新しい力、新しい能力、1901年以来プロテスタントには吹き荒れていた「霊」は、今吹き始めたのだ!彼らはこう叫んでいるのです!!

 更に、我々は、聖霊降臨派がいくつかの点で、カトリック信仰と全く正反対のプロテスタントの教えを宣言していることを忘れてはなりません。聖霊降臨派の人々は、様々な点でカトリック信仰を非難攻撃し、カトリック信者らを愚かな狂信へと走らせていたことを指摘しなければなりません。

 たとえ彼らが異語で話しましょうと、癒しをしましょうと、はたまたその他さまざまなカリスマをもっていましょうと、彼らはご聖体に於けるキリストの現存を信じていません。いとも聖なる聖母マリアのいろいろな特権を信じていません。彼らはカトリック洗礼の有効性を拒否します。(P. H.-Ch. Chery, L'offensive des sectes, Cerf, 1954, p339, in Medjugorjie en toute verite )

 60年代以前には、ペンテコスタルのリーダーたちがする異語、あるいは癒し(それが本物の癒しであれ、単なる思い込みであれ)が、聖霊の実りである、とするカトリック神学者はただの一人もいませんでした。カトリックの聖伝によれば、聖ヴィンセント・フェリエと聖フランシスコ・ザビエルとは外国語を話す、と言う意味の異語の賜物を受けたと言われていますが、それは確実に実証できる訳ではありません。

 反対に、カトリックの祓魔師たちはこの不思議な異語の現象をよく知っていました。この点に関して聖伝の教えはほとんど一致していました。そのため、『ローマ儀式書(Rituale romanum)』は、知らない言葉で話し出すことを、悪魔に取りつかれた外的印として、その最初に挙げているのです!

我々は、聖霊降臨運動を新しいセクト(党派)だと考えなければならない。

 歴史の中には、現代のカリスマ運動と似たものがいくつもありました。聖霊降臨派のリーダーたちが癒しを行うという「奇跡」については、歴史上異端者どもがかつてさまざまな不思議をして見せたことがあります。そして、カリスマ運動もそのうちの一つとして数えることができます。

 例えば、2世紀のモンタン(Montan)という男によって始められたモンタニズムがそうです。彼は172年頃、フリジアで脱魂し、霊に乗り移られたと称しました。脱魂のうちに、かれは予言し訳の分からぬ言葉を吐いていました。その御告げによると、彼自身、Paraclitus(慰め主)と自称していたようです。モンタンと一緒にマクシミッラとプリシッラという女性がいましたが、彼女たちも脱魂し、予言を始め、大群衆に新しい予言の教えを説いていました。モンタンは、天のイェルサレムがすぐ降臨し、選ばれたものたちが主とともに1000年間君臨すると説いていました。祈りの集会では人々は祈り予言し、異言を語りました。彼らは厳格な禁欲、度重なる長い断食、肉とブドウ酒を断つこと、独身、童貞性、迫害にあっても逃げないことなどを説いていました。しかし、アジアの司教たちは彼らの著作を調査し、会議を開き、その異端を排斥しました。教皇たちも強い態度で排斥して来ました。

 中世には、異端説を唱え、不思議な業をもって信者たちをたぶらかした多くのグループがありました。ボドワ派(Vaudois)、アモリス派(amauriciens)、自由な霊の兄弟(frere du libre Esprit)、フロールのヨアキムの弟子(disciples de Joachim de Flore)、フラティセル(fraticelles)、天主の友、ボゴミル派(bogomiles)、16世紀にはスペインでアルンブラードス(alumbrados)と言うのが出ました。彼らは明らかにイエズス・キリストの霊にも、その唯一の教会の霊にも息吹かれたものではありませんでした。彼らは、正当に、賢明に、理由があって、合法的かつ正統的教会位階によって排斥されたのです。

 聖霊降臨運動は、また16世紀に出たプロテスタントの再洗礼派の新しい形とも言えます。

 17世紀には、フランスのドフィネーとラングドックのプロテスタントらにも「霊」の嵐が吹いたことがあり、18世紀にはセヴェンヌとヴィヴァレのカミザールらに「霊」が吹きました。その時、数百人の予言者や、啓示を受けたものと自称するものが立ち、超人間的な力を身につけていました。当時、彼らは、今日のカリスマ運動の人々の様に、歌を歌い、異言を話していました。さらには、幻視、ご出現、脱魂。驚くべき予言、心を読み取る、などもしだしました。空には不思議が現れ、星が秘密の祈りの会場を示し、天使が羊飼いに現れ、無学なものが学者しか知らないような上品なフランス語を話し出しました。8000人が霊の吹くままに全く一致して同時に同じことを語りました。彼ら自称「新しい人」は、こう主張していました。

「私たちにこの世を軽蔑することと愛徳を息吹いていたこの霊は、すなわち、私たちに内的喜びを与えていたこの霊は、私たちに、カトリックの偶像崇拝への恐ろしさをも息吹いてくれました。私たちにそれにもう参加しないようにと教えてくれました…。」

 これらのすべての不思議は、唯一の真のイエズス・キリストの教会に彼らが戻ろうとするのを妨げ、カトリックの教えと、「教皇崇拝のミサ」に対する、憎しみを植え付けるものに過ぎなかったのです。(Joseph Bizouard, Les rapports de l'homme avec le demon, essai historique et philosophique, Ed. Gaume 1895; Pere J. de Bonniot, Le miracle et ses contrefacon. Retaux, Paris 1895.参照)

 更に、18世紀には、パリのヤンセニストの助祭、フランソワ・ド・パリの墓に祈りに来た人々に、癒しの奇跡が次々に起こり、その上、痙攣、予言、異語などをしだしたことがあります。この既に死んだヤンセニストの墓に祈りますと、現代の聖霊降臨派のしているような不思議や、クリスチャン・サイエンスの信者らが行っている不思議と同じような不思議なことが起こりました。

 さらには、聖霊降臨運動は、19世紀の、モルモン教、セブン・デイズ・アドヴェンティスト、エホバの証人、などと言ったセクトの延長線上にあるのです。

 聖霊降臨の祈りの集会において、本当に自然を越える現象があったとしますと、これらの自然外の現象は、天主からのものではなく偽りの君、サタンからのものだということは明らかです。

 教父は、そしてカトリック神学者は、異端のふところで、異端の名において、異端の利益のためになされたこのような不思議が天主からのものではあり得ないといつも考えました。1960年、イエズス会のルイ・モンダン(Louis Monden)と言うルーヴァン大学の教授は、その著者の中でこう書いています。

「本当の奇跡というものは、しばしば天主から使命を受けたということの確認であり、その保証である。サタン的な不思議は、無神論のために行われるのではない。この[無神論という]唯物主義の宣伝のために、かかる不思議が行われるのではない。寧ろ、[もし何らかの不思議な現象がサタンによってなされたなら、その]奇跡は、異端や誤謬を、見せかけ上、保証するためになされる。つまり、[異端の自称する]「教えの純粋さ」とか「単純な福音」とか、あるいは、カトリック教会のあまりにも人間的なところに、異端者たちの美徳をもって反対するために、これらの主張の後ろに隠された、カトリック教会に対する反乱・反抗をカモフラージュするためになされるだろう。…[彼らは、サタンの霊によって不思議な業を行い、その後にこう言うだろう。]『教会は我々を排斥しても、奇跡は天主様が我々とともにましますことを証明している!』と。偽りの奇跡の出現は、一般的に言って、相対主義・偽りのエキュメニズム・宗教統一主義への突破口になるだろう。」(Le miracle, signe de salut, p139; DDB. 1960, in Medjugorjie en toute verite)そして聖霊降臨のカリスマといわれているものは、まさにこれなのです。

カスリン・クールマンの教え

 オコーナー神父の本には、度々、アン・アルボル(Ann Arbor)の集団についてのことが言及されます。我々は今ここに、聖霊降臨運動に典型的な一つのエピソードを載せ、この項を終えることにしましょう。これはロランタン神父の前掲書に基づいています。

 1974年6月1日、アン・アルボルのカリスマ運動の人々は「癒し」をするためにカスリン・クールマン(Kathryn Kuhlman)と言う、プレスビテリアン(長老派のセクト)の女性を招きました。ロランタンの言うことを聞きましょう。

「人々は朝の5時から集まる。私たちが8時半頃に到着すると、2500人の人で教会は一杯であった。…約束の時間に、中年の背の高く痩せた女性であるカスリン・クールマンは色鮮やかな長いヒラヒラしたチュニックを着て、格好をつけて立ち振る舞う。会衆は拍手喝采するが、彼女はすぐに『主を褒めたたえよ』と言う。しぐさでリズムをつけた歌が歌われる。人々は近づく。まず糖尿病の人。彼女が彼らに触ると彼らはひっくりかえる。それを倒れないように支えていた2人の男性たちも、触られると倒れそうになる。とくに彼らが疲れてくると。彼女は何人かを医者に見せるように送る。病人が倒れると彼女は頻繁にこう繰り返した。“What a power!"(何という力!)しかし彼女はこう言う。『あなたがたを癒すのはカスリン・クールマンではなく、主であります。主のみであるということを覚えてください。』[しかし、多くの人は、“Healing service"(癒しのサービス)をうけて、天主よりも彼女を信じた、とロランタン神父はいう。]次に、別の病気の人々が続く。カナダ人のカトリックの2人のシスターたち。彼女はこの2人のうち一人の難聴を癒し、もう一人の目の悪いのを癒した。シスターたちは喜びの余り泣く。何と言って感謝してよいのか分からない。」

 カスリン・クールマンは群衆の真ん中を通り過ぎます。彼女は参加者に触れます。幾人かが倒れます。彼女は祝福します。ステージの上にいる女に彼女は言います。「そこにいるあなた、あなたの子宮ガンは治りました。あしたお医者さんのところに行きなさい。」

 癒しがあるたびごとに、彼女はその病人がどの教会に属しているかを聞いていました。そして自分の所属の教会に忠実を守るようにと勧めていました。どこの教会にも属していないこの女には、彼女はこう言いました。「天主様がどんなによいお方か分かったでしょう。感謝するのを忘れないでください。自分の好きな教会をひとつ選んでそこに所属しなさい。」

 カスリン・クールマンのこの言葉を見ますと、フリーメーソンの教義を明確に支持しているのに気が付きます。つまり、フリーメーソンとともに、彼女はすべての宗教はどれも同じで価値がある、だから好きなように宗教を選べ、霊はどこにでもいる、と言うのです。

 フランスにある「ユダの獅子(Lion de Juda)」というグループの創立者、ブラザー・エフライムは、このカスリン・クールマンの下で教えを受けようと、わざわざ米国に行っています。彼はこのプレスビテリアンの女性を、イエズス・キリストの新しい御托身であるかのように考えています。彼はこう言います。

「長老派教会のアメリカ人の私たちの兄弟によって、信仰の賜物が私たちに伝わりました[!!]。(Les pluies de l'arriere-saison, naissance d'une communaut nouvelle, p25, Ed. Fayard, 1985, in Medjugorjie en toute verite)

 カスリン・クールマンと同じ不思議の力を受けたカナダ人のカリスマ運動推進者、メデュゴーリエ支持者エミリアン・タルディフ神父(P. Emilien Tardif)は、クールマンと同じスタイルの祈りと癒しの集会を組織しています。タルディフ神父は、プロテスタントの教会でも、カトリックの教会でも、ペンテコステの運動を進めています。「新しい道の共同体(Communaute du Chemin neuf)」の創立者は、「霊は、…我らの禁止と我らの教会の垣根を越えて世界中に広まったが、それは、按手から按手による国際的・諸宗教の集いでの中でのことであった。」と書いています。

 まさに、それこそこの運動が奇妙で不気味なものである理由です。そしてこれこそがこの運動が反カトリック的であり、私たちの主イエズスの教えに反していると、私たちが主張する理由です。

 我々は残念なことに次の書物を入手していません。しかし聖霊降臨運動についてのカトリックの教えをよくまとめたすばらしい本だと聞いています。読者諸賢の中にこの本を日本の人々に紹介してくださる方がおられれば、我々は本当に幸いです。

Connaissance elementaire du Renouveau charismatique. Aout 1985, 150 pages: Action familiale et scolaire, 31, rue Rennequin, F-75017 Paris, FRANCE.

 我々は、この研究を通して次の質問にこう回答しましょう。

(1)「聖霊運動」とはどのようなものなのですか。

「聖霊運動とは、その起源をプロテスタントに持ち、カトリック教会とは全く関係のない別の宗教運動です。この運動でなされる不思議な業は、確実に、明確に、イエズス・キリストの霊によるものではありません。」

(2)この運動をカトリック司祭が主催することの是非。

「カトリック司祭は、教会法の精神にのっとって、聖霊運動に参加すべきではありません。」

(3)この運動をカトリック教会ですることの是非。

「カトリック教会は、我らの主イエズス・キリストが制定された聖霊の真の運河である7つの新約の秘跡を持っています。カトリック教会は、この秘跡を施すために建てられたのであって、プロテスタントの礼拝行事をするためではありません。カトリック教会に悪霊は無関係ですので、この運動がなされてはなりません。」

(4)この運動にカトリック信者が関与することの是非。

「イエズス・キリストのお望みにしたがって、教会法の精神にのっとって、カトリック信者はこの非カトリックの宗教行事に関与すべきではありません。」

 以上のことを確認した後に、私たちはファチマの御出現の時に確認した幾つかのポイントをメデュゴリエの出現に適応してみましょう。

(続く)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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