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2016年聖母小黙想会 霊的講話【9】 8月13日 シュテーリン神父様「信心を実行するために必要なもの」

2019年01月02日 | お説教・霊的講話
2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【9】
同時通訳:小野田圭志神父


201から212番、また137から138番の、「マリア様が私たちの母であり、元后である、女王様である」という事について深い黙想ができた事と思います。

この本は、皆さんも日本語で読む事ができるので、気が付いたと思いますが、単純な言葉の中に、読めば読むほど、深い意味が隠されている、という事が分かります。

天主様の御旨に従って、マリア様は一体私にとってどなたであるか、という事を黙想しました。天主聖父が皆さんに対するものすごい愛を捧げている、という事も黙想しました。天主様は私たちを救われたい、と思っている事を黙想しました。それと同時に、私の冷たい心、無関心、怠惰、そして私のこの原罪の後の傷付いた状態についても黙想しました。

そこで、そんな傷付いた弱い私たちを助ける為に、地上で最も緊密な関係、つまり「母親と子供」の関係を使う事を考えられました。こうする事によって天主様は、石のような冷たい私たちの心を触ろうとしました。なぜかというと、冷たい氷のような石のような心でも、自分の母親であると、それが溶けてしまう、という事は皆が知っているからです。

天主様からの招き、私の霊魂を救う、という招きを受け入れなければなりません。「天地の元后である、もうほぼ全能に等しいようなものすごい権力を持った御稜威の女王様であり、元后であるマリア様が、私の母親となって下さった」という事です。そのマリア様は、女王様は、私の為に全てを下さいます。

その御前において、無数の大群の数え切れないほどの天使たちが膝をかがめて讃美し、誉め讃え、その従順に従う、その女王であるマリア様が、私の所にやって来て、「お願いだから、母である事を許してほしい」と頼みに来るのです。天地の元后である、この御稜威高い神々しいこの御方が、この地上の素晴らしい大聖人、素晴らしい高貴な方の母となりたい、と思うのではなくて、私のような罪深い、弱々しい、もうろくでもないガラクタのような者にやって来て、「母親になりたい」とやって来るのです。

そのようなマリア様が私の母になる事ができるのは、私がそれに同意する、私がそれを受け入れて、初めてなる事ができます。

「それに同意する」という事は、「マリア様の子供になるという事に同意する」事です。もしもマリア様が私の女王様であるならば、元后であるならば、私はそれに同意しなければなりません。つまり、「マリア様が、私の人生に命令する権利がある」という事を認める事です。「マリア様が私の上に権威を持っている」と認識する事です。そうする事によって、マリア様の騎士となり、奴隷となります。これがマリア様に対して持つ事のできる完璧な関係です。これがですから、完璧なまことの信心になります。

この講話では、「私たちの側で、では何をしなければならないか。このまことの信心をする為にはどうやって生活しなければならないか」という事を黙想しましょう。

これは私たちに二重の構造が待っています。一つは私の「知性」で、もう一つは私の「意志」です。

まず「知性」で、マリア様が私の母でありたい、私の女王でありたいというマリア様は、一体どなたなのかを認識する事です。私は知らない人を愛する事はできません。この聖母黙想会での一番の利益は、「マリア様の事を深くよく知る事ができる」という事です。マリア様の生活の中に入る為に、マリア様を知るという事は、本質的に必要な要素です。

次に、「意志」の働きがなければなりません。そのような真理を受け入れる、マリア様がそうである事を認めて、それを望むという意志です。これが私のマリア様への奉献です。

この事を私たちは今、黙想しましょう。


私たちはまず、「被造物」です。被造物という事は、「創られたもの」という事で、「奴隷」という事です。奴隷という事は、「全面的に誰かに依存している」という事で、「私たちは全面的に創造主に依存している」という意味です。

しかし、罪を犯す事によって人間は、悪魔を、サタンを、主人としてしまいます。罪の中に生活している人は、サタンを主人としています。でもイエズス様は、そのような悪魔の支配下のもとにあった私たちを買い戻して、解放してくれました。買い戻したその贖いの値というのは、御自分の「天主の血潮」であって、「御受難」であって、「屈辱」でした。

私たちがその贖いを達成する為に、その「贖われた」という事を受け入れて、私たちはこの「悪魔から解放される」という事に同意して、そして私たちはイエズス様に完全に奉献されなければなりません。

この「私たちがイエズス様に奉献される」という事は、最高の愛を示します。イエズス様は自由な答えを求めています。「お前無しにお前を創った方は、お前無しにお前を救う事ができない。」

私たちが望もうと望まないと、どうしても私たちは創造主である天主に全く全面的に依存しています。私たちが今こうして在らしめられてあるのも、天主のおかげです。でもそれは、不思議な神秘的な事ですけれども、今この世に住んでいる人はこの事実を、この真実を認識していません、その事を認めようとしません。

「天主は、」最後のミサの福音の中で、ヨハネの一章にありますけれども、「天主は自分のものの元に来たけれども、しかし彼らはそれを認めなかった、受け入れなかった」とあります。これは不幸な事に、人間の一般的な態度です。ヨハネはしかしその福音の中で続けて、「しかし、イエズス様を受け入れる者は、この天主の子供となる事を力を与えた」とあります。

イエズス様は、私たちがその真理を、現実を、認識する事を求めています。嘘と幻想の世界に生活する事をやめる事です。今朝、今日もまた私に命を与えて、生かせて下さって、健康と肉体と食べ物と全てを与えて下さいました。「御身無しには私は何もする事ができません。私はこの事実、この現実を認めます。ですから私は、私の王として、私をあなたに従わせます。」

では、イエズス様の命令とは、御旨とは何でしょうか?

「私は、あなたたちに模範を与えた。私がやったように、お前たちもやるように。」(ヨハネ13章15節)

「では、あなたはどんな模範を与えて下さいましたか?」
「では、子よ、この地上に私は何年いたか覚えているか。33年だった。その33年の間、何をしただろうか。」
「主よ、あなたは私の為に、十字架の上で命を捧げられました。」
「あぁ、しかしそれは、最後の三日間の間にそれをした。」
「では、御身はこの地上におられる間、御説教をされて、この天の御国に入る為の福音を教え宣べ伝えられました。」
「それは、最後の3年間そうしただけだ。では、その3年の前の30年間は何をしただろうか。」
「あぁ主よ、私が思うには、御身は大工さんでした。御身はナザレトにおられました。」
「子よ、ではこのナザレトで何をしただろうか?私は、母に従順に従った。奴隷であるかのように。私は常に、母の御旨のままに働いた。私は彼女を造った創造主であったにもかかわらず、私は彼女を救った救い主であるにもかかわらず、しかし私は全く彼女に依存していた。私ほどマリア様に奉献されたものはない。私はお前たちに模範を与えた。私がやったように、お前もせよ。私が母に従順に従ったように、お前も従順に従え。私は命を彼女に委ねたように、お前の命を委ねよ。この地上において、全ての事について、マリア様に全て委ねて、奉献しなさい。」

では、マリア様に奉献して、マリア様の奴隷となる、というのはどういう事なのでしょうか?

これについてはたくさん読まなければならない事があります。これを2つの部分に分けます。なぜかというと、次の講話ではですね、このまだ日本語に訳されていない部分についてお話するので、今回たくさん読んで下さい。聖グリニョン・ド・モンフォールが書いたこれの次に偉大なものが、「永遠の知恵に対する愛」というものです。これは、このまことの信心を補完する補足するものであって、これで2つで1つになるからです。そこで本来なら、1つで1回で話す事をですね、2つに分けて、まずこの最初に、今回最初の部分を、そして次の講話で、今回話すべきところの後ろの部分を紹介します。

今の講話の後には、69番から77番までをお読み下さい。そしてその次には、120番から134番。次の講話で話す内容は、実はこの本に書かれていない内容なのですけれども、しかし日本語では読む事ができないので、この120番から134番を代わりにお伝えします。内容は実は、今からお話し致します。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「では奴隷という事は、一体どういう意味なのだろうか?」と私たちに説明します。なぜかというと、マリア様が御母で、私がマリア様の子供だ、という事は誰でも理解するのは容易だからです。

昨日、でもその「お母さん」という言葉を深く考えながら、マリア様に対して「お母さん」と言う時に、その持っている深い意味が、実は軽々しく使われてしまって、軽々しい意味しか私たちが理解できていなかった、という事を見ました。昨日、お母さんという言葉は一体何を意味するのかを見ました。そこまでは考えつかなかったという事で、皆さん驚かれたかなと思います。

口では、「マリア様、私はあなたの子供であり、御身は私の母であり、私は御身の奴隷であり、騎士であり、」と言うのは簡単ですけれども、では一体何を意味するのだろうか?という事はよく考えなければなりません。

このグリニョン・ド・モンフォールは、この言葉を深く理解する事ができるように、比較をします。そこで、「しもべ」というものと「奴隷」の違いをまず考えます。

「しもべ」とはまず何か、と言います。そしてそのしもべと奴隷がどう違うかを見ましょう。

71番を見ると、「5つほど違う点がある」という事を主張します。「しもべ或いは使用人」と、「奴隷」の間にはこういう違いがあります。

使用人は、自分の全存在、自分が持っているもの、自分が他人を通してあるいは自分で獲得できる全ての人を主人に与えるわけではありません。でも奴隷は全てを与えます。

第2に、しもべとかあるいは使用人は、仕事をするとそれの俸給をもらいます、給料をもらいます。しかし奴隷はどんなに一生懸命働いても、給料はありません。

使用人は契約期間があって、契約期間が終わると、それでもうその仕事を終わって、主人の元を離れる事ができますけれども、でも奴隷は決して離れる事ができません。

主人は、使用人に対しては、仕事に関して権威を持っていて、この仕事に関して何か命令をする事はできますけれども、その仕事以外のプライベートな事や私生活に対して、いちいち口を挟む事はできません。しかし奴隷に対しては、口を挟む事ができます。主人は奴隷に対しては、自分の好きな事をする事ができます。

ですから、カトリック教会は奴隷制度を否定しています、排斥しています、「これは悪い事だ」と。なぜかというと誰も、他人の命を生かすか殺すかの権利を、誰も持つ事ができないからです。ですから、その意味で奴隷制度は悪いものです。しかし、例えばイスラム教徒などではイスラム教の国家では、法律によってこの奴隷制度が立法化されていて、「主人は、奴隷の命さえも奪う事ができる」という事が立法化されています。

これは、「人間同士」の間ではそのこのような事は相応しくありませんが、「人間と天主」との間ではこれは相応しいものです。

第5番目には、使用人は一定期間、時間に限りがありますけれども、奴隷は限りがありません。

72番をご覧になると、ちょっと聖グリニョン・ド・モンフォールの書いた事を見てびっくりするかもしれません。どのような世界でも、自分から進んで奴隷になる、というほど完璧なものはありません。3つの種類の奴隷の状態があります。それは70番に、3つの種類が書かれています。

1つは、生まれつきの奴隷です。あるいは第2番目には、強制的に或いは戦争などでやむを得ずなった奴隷。第3には、愛によって、自ら進んで奴隷になろうと思った奴隷です。

私たちが今マリア様に対してするものは、第3のものです。では、この最初にマリア様の奴隷になったのは誰でしょうか?

イエズス様です。聖パウロはフィリピ人への手紙の中で、「イエズス様は奴隷の姿を取った」(フィリピ2章7節)と言います。イエズス様は奴隷の姿を取ったのみならず、マリア様とヨゼフ様に完璧に服従しました。

マリア様も奴隷でした。なぜかというと、「我は主の婢女なり」とマリア様は仰っているからです。「主の婢女」というのはつまり、「主の女奴隷」という事です。

マリア様はご生涯の間、一度も、自分のやりたい事をやった、という事はありませんでした。自分の権利、主張を押し通した事ありませんでした。天主様を主として、天主様の御旨のままに生活されました。殉教の最も苦しい事さえも、従順に従って、十字架の下で立ち留まりました。

使徒たちも、「イエズス・キリストの奴隷だ」という事を、奴隷と呼ばれる事を名誉としました。

トリエント公会議の公教要理によれば、「キリストの奴隷」という言い方が作られています。トリエント公会議の公教要理によれば、“mancipia Christi”「キリストの奴隷」と言っています。そこで、私たちの主の教えによれば、私たちはキリストに従う者として、奴隷として生活しなければなりません。

グリニョン・ド・モンフォールは言います、“私たちは、洗礼の前は悪魔の奴隷だった。しかし洗礼後は、キリストの奴隷だ。”

キリストの軍隊にも属さずに、悪魔の軍隊にも属さずに、中立である、という事はできません。どちらかの奴隷にかを選ばなければなりません。光か闇かのどちらかです。光の外に出てしまうと、闇の中にいるという事です。つまり悪魔の奴隷であるか、キリストの奴隷状態であるか、どちらかを選ぶしかないという事です。

74番をご覧下さい。そこで、“さっき絶対的な表現でイエズス様について述べた事は、マリア様についても相対的に言える”と言います。教父たちをたくさん引用して、この「キリストの奴隷になる」という事を、「これは天主の御旨である」と言います。

120番からの文章をご覧下さい。120からはまず、「奴隷とは何か」という事を見ます。奴隷という事は一体、具体的に何を私たちに意味しているのでしょうか?

“私たちの完徳の全ては、私たちがイエズス・キリストに変容する事、つまりイエズス・キリストと全く一つになり、イエズス・キリストに全く捧げ尽くされる事にあります。ですから、あらゆる信心の中で一番完全なのは、疑いもなく、私たちを一番完全にイエズス・キリストに変容をさせてくれるもの、イエズス・キリストと全く一つにしてくれるもの、イエズス・キリストに全く自分を捧げ尽くしさせてくれるものでなければなりません。”

“ですから、イエズス・キリストへの全く完全な自己奉献というのは、マリア様への完全な自己奉献と表裏一体をなしています。”

では121番を見ると、では何をしなければならないか、という事が書かれています。つまり、「イエズス様に全てを捧げ尽くさなければならない」という事ですが、一体どういう事でしょうか?ちょっと分析してみます。マリア様を通してイエズス様に自分を与え尽くす為には、どうしたら良いでしょうか?

まず、「私たちの体、霊魂、私たちの所有物、霊的な所有物、過去・現在・未来の全ての功徳、全て、私たちの存在するものを例外なく、イエズス様にマリア様を通して奉献する」という事です。

自然も超自然も全て、イエズス様に奉献します。例外なく全て捧げなければなりません。そしてこれを永久に捧げます。そしてその返答に、そのお返しに何かを受けるという事さえも放棄します。たとえ、マリア様は優しい方なので私たちが期待しなくても、マリア様はどうしても私たちにお礼をしたくてたまらないと、そしてそうなさると知ってはいても、それでも期待しない、という事です。

では122番には、「マリア様に奴隷が捧げる事ができる、最も貴重なものは何か」という事が書かれています。これは、私たちの「善業と罪の償いと功徳」です。

今から聖グリニョン・ド・モンフォールが言う事は、現代世界のカトリック教会ではもう忘れ去られてしまったような事です。これは「功徳と罪の償い」の教えです。私たちの人生において最も価値がある事は何か、という事を、現代では忘れ去られてしまっています。聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様に捧げる事ができる最高のものは、この「功徳、罪の償いだ」と言うのですけれども、現代の世界ではもう、何を意味しているのか理解していません。

よく私は聞くのですけれども、「マリア様の奴隷になりたい、マリア様に自分を奉献したい」と言うのですけれども、「でもこの122番に書かれている事はあまりよく分かりません。」

私の人生で一番価値があるのは何でしょうか?何が実りをもたらすでしょうか?

では、まずその反対側に、実りをもたらさないもの、価値の無いものを見ましょう。悪であって、破壊をもたらすものは何でしょうか?これは「罪」です。

それでなくてもこの人生には、全く価値も意味も無いものがたくさんあります。罪ではないとはいえ、時間の無駄です。ある意味で時間を、あるいは何かを盗む事です。天主様は私たちに「時間」という貴重なものを与えたのですけれども、その貴重な時間を私たちが盗んでしまう。

1タレント、5タレント、10タレントの例え話を覚えて下さい。
1タレントしか頂かなかった人は、この1タレントを隠しておいて、何も働かずに、何も活用せずに、そのまま時を過ごして、そしてその1タレントをそのまま返して、するとイエズス様は、「全く邪悪な使用人だ、邪悪な者だ」と罰を受けます。

この今、現代世界ほど、人類の生活は、これほど時間の無駄と下らない事に使われている事はありません。90%の普通のこの世の人々は、時間の無駄で終わっています。なぜかというと、映画を見たり、あるいはコンピューターゲームで時間を費やしたり、あるいは何かどこかにこうウロウロ歩いて、それで時間を使ってしまっているからです。

では、ちょっと価値があるようなものは何かを見てみましょう。「ちょっと価値がある」というのは、実は「ちょっと実りがもたらされる」からです。「何かの善を生産する」からです。

良い義務を果たすとか、掃除をするとか、子供の教育とか、仕事をする、車を洗う、この市民社会の建築・建設の為に力を尽くすとか、先生であれば学校で数学を教えたり社会科を教えたりするとか、これらの事には価値があります。良い行ないです。

でもこの価値には限度があります、範囲があります。この人生が終わった時に、その価値も終わってしまいます。なぜかというと、この小さな、この世での生活と共に終わってしまう事だからです。そしてそのような行為の善行の報いは、この地上で受けてしまっています。例えば、そのような良い仕事に対して、給料をもらっています。良い教育のおかげで、良い子供が報いとなります。一生懸命台所で働けば、良い美味しい食べ物が食べられます。

では、私たちの生活の中で一番価値があるものは何でしょうか?これは、「最も高い価値のある、実りをもたらすもの」です。これは、私たちの人生が終わったとしても、まだ永久に永遠に価値を持ち続ける何かです。

これが、「功徳」であって、これが「罪の償い」の価値なのです。私たちの行動が、永遠の価値を持つ実りをもたらします。

これは、私たちがどのような事をしようとも、「天主様の栄光の為に」、あるいは「霊魂の救いの為に、救霊の為にしよう」という意向をもってする時に、この価値が出ます。

ですから、この天主様の栄光と救霊の為にしたほんの小さなお祈りは、ちょっと小さな仕事は、私たちが綺麗な宮殿を何千何百と建てるよりも価値があります。なぜかというと、この地上でのこの何千何百という黄金の宮殿も、いつかは終わりがあって、それで破壊されてしまう時が来るからです。しかし祈りは、私たちの永遠の栄光をますます高めてくれます。このような祈りによって、永遠の破滅から霊魂たちを救う事ができるからです。多くの煉獄の霊魂たちを苦しみから早く、一刻も早く救う事ができるからです。

私たちは本当の、人生において本当の価値のある事に戻らなければなりません。

聖伝のカトリック信者でさえも、また多くのカトリック信者が、人生にとって一番大切な事を失っています。もしも皆さんが、この、これほど素晴らしい実りをもたらす、永久の価値のあるものに心を砕く事ができれば、そうすれば、ただ単に仕事をするだけでは終わらずに、全てのことにおいて永遠の価値を持たせることが出来ます。

車を運転するとか、家を掃除するとか、家を建てるとか、学校で教えるとか、天使のように歌うとか、何をするにも、もしも皆さんの心の中にいつも、いつも絶えざる、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え」という意向と祈りがあれば、あるいは「イエズス様、愛しています。イエズス様、我が主よ、我が天主よ」等という祈りを以て仕事をすれば、このような射祷をする事によって、多くの永遠の永久の実りをもたらす事ができます。どんな平凡な仕事であれ、私たちがこの「イエズス様の為にする」とするならば、永遠の価値を持ちます。

もしも皆さんが過去、日常生活を無意識に送り、射祷による永遠の価値を失ったとしても、もちろん私たちは至福を得ることが出来ます。

ちょうど、この世の終わりに私たちが審判を受ける時に、天主様の前で、霊魂を、ちょうどコップのようなものとして持ち、天主様の前に行きます。すると天主様は、栄光でこのコップを満たして下さいます。私たちの霊魂をコップの縁のスレスレまで満杯に満たしてくれます。このほんのちょっとの一滴でさえも、この地上で受ける事のできる喜びと、楽しみと、全ての幸福が詰まっているほどのものです。

しかし、もしも皆さんがこの永遠に価値のある事をすればするほど、日々もっともっと射祷を唱えて、もっともっとイエズス様の為に捧げると、この霊魂のコップはもっと大きなコップになって、もっとたくさん受け入れる事ができるようになります。

天主はどんなに大きなコップであっても至福で満たしてくれます。イエズス様はそのスレスレまで、満杯まで、幸せを満たしてくれます。

そして皆さんが本当に良い方で、受ける悲しみ、苦しみ、十字架、全てをそのまま受けて、イエズス様に捧げたとしたら、そうしたら、皆さんのコップはもっと大きくなります。そしてこのコップの大きさが大きく、大きく、大きくなるには、限りがありません。皆さんがどれだけ寛大であるか、という事によって、このコップの大きさが決まります。

これが、皆さんが同じ人生の間に、どれほど超自然の価値を増やす事ができるか、という事です。

皆さん、この「自分の為にする」という事はまず1つの事です。この祈りや犠牲など、永遠の、自分の永遠の命の為にこれを捧げる事ができます。そして「他の神秘体のメンバーの為」にもする事ができます。もしも彼らが亡くなっていて煉獄に居るならば、その煉獄の苦しみを短くする事ができます。罪の償いの価値があるといいます。もしもまだこの地上に生きている方であれば、地獄に落ちるのを食い止める事ができて、そしてより早く、より多い天国の功徳を積む事ができるように、助ける事ができます。

そして皆さんが積んだ功徳というのは、皆さんだけのものであって、誰も皆さんから奪う事ができません。

ところでこの信心は、「こうして積んだ功徳を、マリア様に与える」という事です。123番です。

“私たちはこの信心によって、イエズス・キリストに一番完全な仕方で、マリア様の御手を通して捧げますから、その完全な仕方でイエズス様に捧げる事のできる、全てを捧げるのです。”

最も厳しい修道会であっても、この功徳さえも捧げてしまう、というのは要求していません。この点は非常に大切なので、また30分後に、10時半からもう一度、元に戻ってお話をします。

この夕方、もう一度 「拷問(=講話)」 を夕方に付け加える事にします。忍耐して下さい。

では今から69番から77番までをお読みになって、黙想なさって下さい。お祈りをします。


ゲルトルート・フォン・ル・フォール『教会への讃歌』の中から「至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷」

2019年01月02日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 もう一度、新年のお慶びを申し上げます。新年が愛する兄弟姉妹の皆様にとって、このブログをお読みくださる方々にとって、真の意味で幸福な年となりますように!

 今日は、イエズス・キリストの聖名の祝日です。聖務日課の朝課、讃課、晩課で歌う賛歌ら(Hymni)のラテン語と日本語の対訳をご紹介いたしました。

 今年は特に、教会とともに、イエズスへの愛を歌いつつ、イエズスの聖心への愛をゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876年生―1971年没)の言葉を借りて歌うことを提案します。

 フォン・ル・フォールは、もともとユグノー派のプロテスタントでした。しかし彼女は1925年にローマでカトリックに改宗します。彼女が発表した最初の作品が『教会への賛歌 Hymnen an die Kirche』(1924)でした。

 以前マニラのeそよ風でもご紹介した『永遠の女性』(Die ewige Frau, 1934)や、フランス革命で殉教した修道女たちを取り扱った『断頭台の最後の女性』(Die Letzte am Schafott, 1931)などが有名です。

 私たちの聖堂には、カトリックの洗礼を準備されている求道者の方々がおられ、そのなかにはプロテスタントから改宗されようとしている3人の小さな子供たちのお母さんもいらっしゃいます。

 更に、まだ私たちの出会ったこともなく、言葉を交わしたこともなく、メールのやり取りさえもなく、お名前さえも知らない多くの方々が、聖母の御取次ぎによって、イエズス・キリストの創立した真の教会であるカトリック教会に導かれますように!

 イエズス・キリストがこの地上で生活し、ご受難を苦しんでいた時、救い主である天主が余りにも弱く目も当てられないほどズタズタになっているのを見て、人々は、そして使徒たちでさえも、主を捨てて逃げてしまいました。イエズス・キリストの神秘体であるカトリック教会も、今、人間の弱さを見せつける受難の時であるように思われます。あれほどの華々しい奇跡を行い、多くの大聖人たちを輩出させた聖なる教会は、なんと深く傷ついていることでしょうか!

 旧約の影と前兆によって預言されたものの実現であり、将来この世の終わりの後に来るべき永遠の栄光を予告する、カトリック教会すなわちキリストの花嫁でありキリストの神秘体の地上での典礼が、もう一度、この地上で、全世界で、その輝きを取り戻しますように!

 フォン・ル・フォールの『教会への讃歌』の中から、至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷(Litanei zum Fest des Allerheiligsten Herzens)の部分をご紹介いたします。ゲルトルート・フォン・ル・フォール著作集 第四巻 教会への讃歌(前田敬作・船山幸哉訳)を参考にしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Litanei zum Fest des Allerheiligsten Herzens 至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷
Deine Stimme spricht:   御身の声[キリストの神秘体なるカトリック教会の声]は語る。
Nun will ich die Glut der Seele beten, wie man eine grosse Litanei betet,   大連禱を祈るように、私は霊魂の熱情を祈ろう。
Ich will anstimmen den Preisgesang, den man nicht singet, sondern liebt!   私は、讃美の歌声をあげよう。歌ではなく、愛によって。
Heiliges Herz, göttliches Herz, allmächtiges Herz, 聖なる心、天主の聖心、全能の聖心よ、
Purpurnes Geheimnis aller Dinge:   全てのことの、血のような真っ赤な秘義よ、
Sei geliebt, Liebe, ewige Liebe, sei ewiglich geliebt!   愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ。
Du Feuerherdmitten im Dunkel der eisigen Weltnis:  御身は、凍り付いた世の暗闇のなかの火の炉、
Sei geliebt, Liebe!   愛されよ、愛よ!
Du Flammenschatten über allem falschen Leuchten der Weltnis:   御身は、世のすべての偽りの明るさをおおう焔の影、
Sei geliebt, Liebe!   愛されよ、愛よ!
Du brennendes Mal In aller falschen Ruhe der Weltnis;   御身は、世のすべての偽りの安息のうちに燃えさかる赤き印、
Du einsames Herz, du loderndes Herz, du unauslöschliches Herz:   御身は、孤独なる聖心よ、燃えさかる聖心よ、渇きを癒やしがたき聖心、
Sei geliebt, ewige Liebe!   愛されよ、永遠の愛よ!
Du Herz, tief wie die Nächte, die kein Antlitz mehr haben:   顔の無い夜々のように深き聖心よ、
Sei geliebt!   愛されよ!
Du Herz, stark wie die Wogen, die keine Ufer mehr haben:   岸辺の無い波浪(なみ)らのように強き聖心よ、
Sei geliebt!   愛されよ!
Du Herz, sanft wie die Kindlein, die noch keine Bitterkeit haben:   苦々しさを知らぬ小さな子供たちのようにやさしい聖心よ、
Sei ewiglich geliebt!   永遠(とわ)に愛されよ!
Du Rose aus den Beeten des Unsichtbaren,   見えざる者の花壇からの薔薇よ、
Du Rose aus dem Kelch der demütigen Jungfrau,   謙遜な童貞女のカリスからの薔薇よ、
Du blühender Rosenstrauch, in dem sich Himmel und Erde umrankt halten:   天と地とが互いに絡み合う花咲く薔薇のしげみよ、
Sei geliebt, ewige Liebe!   愛されよ、永遠の愛よ!
Du Königsherz im fliessenden Mantel deines Blutes: 御身の血潮の流れるマントにある王の聖心よ、
Sei geliebt, Liebe!   愛されよ、愛よ!
Du Bruderherz im wilden Hohn der Dornenkrone:   荊棘(いばら)の冠の野蛮なあざけりにおける兄弟愛の聖心よ、
Sei geliebt, Liebe!   愛されよ、愛よ!
Du brechendes Herz im starren Schmuck deiner Todeswunden;   御身の致命傷の不動の飾りをつけた破れた聖心よ、
Du vom Thron gestossenes Herz, du verratenes Herz, du grausam gemartertes Herz:   玉座を追われた聖心よ、裏切られた聖心よ、残酷に殉教せる聖心よ、
Sei geliebt, Liebe, ewige Liebe, sei ewiglich geliebt!   愛されよ、愛よ、永遠の愛よ、永遠に愛されよ!
Du Herz, an dem die Gewaltigen ihre Knie finden:   力たけき者たちもその御前では跪きを見出す聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身に御身の愛を乞い願う!
Du Herz, an dem die Kalten ihre Tränen finden:   こころ冷たき者たちもその御前では涙を見出す聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Herz, an dem noch die Diebe und Mörder Verzeihung finden,   盗賊も殺人者もその御前では赦しを見出す聖心よ、偉大なる聖心よ、
Du grosses Herz, du gnadenes Herz, du glorreiches Herz:   憐れみの聖心よ、栄光の聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Rotdorn unserer Freude, Du Schmerzdorn unserer Reue,   私たちの歓びの赤き茨よ、私たちの改悛の悲しみの茨よ、
Du schönes Abendrot unsrer eignen Untergänge:   私たち自身の日没の美しき夕映えよ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Scharlachtuch, vor dem die Sünde totenbleich wird:   その御前では罪も死んだように蒼ざめる緋の衣よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du rubinener Quell, nach dem alle kranken Seelen dürsten:   病める霊魂らが渇き求める真紅の泉よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du leises Nah, in dem sich die getrennten Freunde begegnen:   別れた友らが再会することのできる囁くほどの近さよ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Ampel der Betrübten,   悲しめる者たちを慰める灯火よ、
Du Leuchtturm der Verfolgten und Geschmähten, Du geheimnisvoller Raum,  迫害され、のけ者にされた者たちの灯台よ、
in dem noch die sanften Toten atmen können;   そこにおいては穏やかな死者たちがまだ息づくことのできる隠された部屋よ、
Du allwissendes Herz, du allrichtendes Herz, du letztes Herz:   すべてを知る聖心、すべてを導く聖心、究極の聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Herz, das uns alle an sein Herz nimmt; Du Herz, das uns alle mitten ins Herz trifft, Du Herz, das uns allen das stolze Herz bricht:   私たちすべてを御自分へと抱きたもう聖心よ、私たちすべての心の中央を打ち給う聖心よ、私たちすべての傲れる心を砕きたもう聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Herz, an dem die Einsamkeit zum grossen Volk wird:   孤独を偉大な民と成し給う聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Herz, an dem die Zerrissenheit zu einem Volk wird:   分裂を一致した民族と成し給う聖心よ、
Wir bitten dich um deine Liebe!   私たちは、御身の愛を乞い願う!
Du Herz, an dem die ganze Welt zu deinem Volk wird:   そこにおいて全世界が御身の民となる聖心よ、
Wir weihen uns deiner Liebe!   私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
Du überströmendes Herz, du überflammendes Herz, du überbrausendes Herz:   御身は、流れあふれる聖心、燃えあふれる聖心、溌溂と生気あふれる聖心、
Sei geliebt, Liebe, ewige Liebe, sei ewiglich geliebt!   愛よ、愛されよ、永遠の愛よ、永遠(とわ)に愛されよ!
Dass dein Tag anbrenne:   願わくは御身の一日が燃え立たん(anbrenne)ことを、
Wir weihen uns deiner Liebe!   私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
Dass dein Tag unser aller Herzen aufbrenne:   御身の一日が私たちすべてのこころを燃え立たせん(aufbrenne)ことを、
Wir weihen uns deiner Liebe!   私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
Dass dein Tag unser aller Herzen in dein Herz verbrenne:   御身の一日が私たちすべてのこころを御身の聖心のなかへ焼きつくさん(verbrenne)ことを、
Wir weihen uns deiner Liebe!   私たちは、私たちを御身の愛に奉献し奉る!
Du gewaltiges Herz, du unentrinnbares Herz, du alles verzehrendes Herz -  Feuer! Feuer! Es brennen die Gefieder der Engel! Es brennen die Schwerter der Cherubime!   力強き聖心よ、遁れがたき聖心よ、すべてを焼き尽くす聖心よ。 - 火よ!火よ!天使たちの翼は燃えている、ケルビムらの剣が燃えている!
Es brennen die Gezünde der Himmel! Es brennen die Tiefen der Erde! Gestein und Gestirn flammt!   天の光らは燃えてる!地の底は燃えている!岩や星たちが燃えている!
Es brennt die Sehnsucht aller Kreaturen! Es brennt der Geist im Dunkel der Menschenwipfel!   すべての被造物の期待が燃えている!人間の頭の暗がりで精神が燃えている!
Von Liebe ist alles genommen, zu Liebe muss alles werden: rauscht heilig, heilig, heilig, ihr Flammen der Seraphime!   すべては愛に抱かれた。すべては愛にならねばならない。"聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな"と歌え! セラフィムたちの焔よ!
Du Herz, von dem die Himmel ihre Glorie nehmen,   天にその栄光を授ける聖心よ、
Du Herz, von dem alle Sonnen und Sterne Anfang und Ende nehmen,   太陽らと天の星々とにその始まりと終りとを授ける聖心よ、
Du Herz, von dem die seligen Geister ihr Seligtum nehmen,   至福の霊魂たちにその至福直観を授ける聖心よ、
Du weltgebietendes Herz, du weltüberwindendes Herz, du alleiniges Herz:   世界に秩序を与える聖心よ、世界を征服する聖心よ、御身、全ての心の唯一なる聖心よ、
Amen. Amen. Es brenne herein der Tag deiner ewigen Liebe.   アーメン。アーメン。御身の永遠の愛の一日(Tag)が燃えさかりますように。


IESU, Rex admirabilis 感嘆すべき王イエズスよ IESU, dulcis memoria, 甘美なる思い出イエズスよ

2019年01月02日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 新しい2019年のお慶びを申し上げます。新年が愛する兄弟姉妹の皆様にとって、このブログをお読みくださる方々にとって、真の意味で幸福な年となりますように!

 今日は、イエズス・キリストの聖名の祝日です。そこで、聖務日課の朝課、讃課、晩課で歌う賛歌ら(Hymni)のラテン語と日本語の対訳をご紹介いたします。すなわち
IESU, Rex admirabilis    感嘆すべき王、イエズスよ(朝課)
IESU, decus angelicum,    天使たちの飾りなるイエズスよ(讃課)
IESU, dulcis memoria,    甘美なる思い出、イエズスよ(晩課)
です。
 私たちは秋田巡礼でパレストリーナによるメロディーでもJesu Rex Admirabilisを歌います。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

クレルヴォーの聖ベルナルド credit

IESU, Rex admirabilis 感嘆すべき王、イエズスよ、
et triumphator nobilis, 且つ高貴なる凱旋者よ
dulcedo ineffabilis, えも言えぬ甘美さよ
totus desiderabilis. 願望されうる全てよ。
Quando cor nostrum visitas, 我らが心を御身が訪れる時
tunc lucet ei veritas, その時真理が心を照らす
mundi vilescit vanitas, この世の虚栄は衰え
et intus fervet caritas. 内にて愛徳は燃え立つ
Iesu, dulcedo cordium, 人々の心の甘美さ、イエズスよ、
fons vivus, lumen mentium, 生ける泉、人々の精神の光よ、
excedens omne gaudium 全ての喜びと全ての望みを
et omne desiderium. はるかに超える方よ。
Iesum omnes agnoscite, 全ての人々よ、イエズスを知れ、
amorem eius poscite; イエズスの愛を持て、
Iesum ardenter quaerite, イエズスを熱烈に求めよ、
quaerendo inardescite. 求めつつ燃えてよ!
Te nostra, Iesu, vox sonet, イエズスよ、我らが声が御身を奏で
nostri te mores exprimant; 我らの生活態度が御身を表し
te corda nostra diligant 我らの心は御身を愛さんことを
et nunc, et in perpetuum. 今も、何時までも。
IESU, decus angelicum, 天使たちの飾りなるイエズスよ、
in aure dulce canticum, 耳には甘美なる歌
in ore mel mirificum, 口には驚くべき蜜
in corde nectar caelicum. 心には天の秘薬
Qui te gustant, esuriunt, 御身を味わうものは飢え、
qui bibunt, adhuc sitiunt; 御身を飲むものは更に渇く
desiderare nesciunt, イエズスを愛する者は、
nisi Iesum, quem diligunt. イエズスでなければ欲求することを知らない。
O Iesu mi dulcissime, おお、我がいとも甘美なるイエズスよ、
spes suspirantis animae! 嘆息する霊魂の希望よ!
Te quaerunt piae lacrimae, 敬虔な涙は御身を求める、
Te clamor mentis intimae. 親密な精神の叫びは、御身を。
Mane nobiscum, Domine, 主よ、我らと共に留まり給え、
et nos illustra lumine; そして我らを光で照らし給え、
Pulsa mentis caligine, 精神の邪悪さを押しだし
Mundum reple dulcedine. 甘美さで満たし給え。
Iesu, flos Matris Virginis, イエズスよ、童貞なる母の花よ、
amor nostrae dulcedinis, 我らの甘美さの愛よ、
Tibi laus, honor nominis, 御身に賛美、聖名の名誉、
regnum beatitudinis. 至福の御国においてありますように。
IESU, dulcis memoria, 甘美なる思い出、イエズスよ、
dans vera cordis gaudia, 心の本当の喜びを与える方、
sed super mel et omnia, しかし蜜よりも、そして全てに優って
eius dulcis praesentia. その甘美な現存よ。
Nil canitur suavius, 何よりも、より味わいふかく、歌われない、
nil auditur iucundius, 何よりも、より楽しく聞かれない。
nil cogitatur dulcius, 何よりも、より甘美に考えられない、
quam Iesus Dei Filius. 天主の子イエズスよりも。
Iesu, spes paenitentibus, 悔悛する者たちの希望なるイエズスよ、
quam pius es petentibus! 望み求める者たちになんと御身は優しいことか!
quam bonus te quaerentibus! 御身を探し求める者たちに何と親切なことか!
sed quid invenientibus? しかし、見いだす者たちにとって、御身は何とすばらしい者であろうか!
Nec lingua valet dicere, 舌もうまくいうことが出来ない、
nec littera exprimere: 文字もうまく表現できない
expertus potest credere, 心得を持つ者は、
quid sit Iesum diligere. イエズスを愛することが何であるか信じることが出来る。
Sis, Iesu, nostrum gaudium, イエズスよ、御身は我らの喜びたり給え。
qui es futurus praemium: 御身は将来の報いとなる方なり、
sit nostra in te gloria, 御身において我らの栄光は、
per cuncta semper saecula. 代々とこしえにありますように。
Amen. アメン

2019年1月2日は、聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

2019年01月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

きょう2019年1月2日は、2019年最初の聖ヨゼフの初水曜日です。聖ヨゼフ、われらのために祈り給え!

聖ヨゼフのその栄光の、その力の強さの、その偉大さの秘密とは

アメリカのサンタ・フェにある有名な聖ヨゼフの階段の動画を紹介します

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)についてご紹介します



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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