Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年聖母小黙想会 8月14日 シュテーリン神父様 ミサのお説教「聖マキシミリアノ・コルベ神父様に取り次ぎを求める」

2019年01月18日 | お説教・霊的講話
2016年8月14日(主日)聖母黙想会 聖霊降臨後第13主日のミサ
シュテーリン神父説教

同時通訳:小野田圭司神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、75年前聖マキシミリアノ・コルベ神父様が殉教した、その今日まさにその日です。

今日から10日前、ちょうど一緒に監獄にいた一人の家族の父親が泣いていて、その飢餓室に行くのを苦しんでいて、「もしも自分が死んでしまったら、この家族はどうして生きていくか分からない!食べさせる事ができない!」と言うその父親の代わりに、自分を差し出したのでした。

そこでコルベ神父様は、他の9人の囚人たちと飢餓室に入れられて、自分たちが死ぬまで、何も食べる物もなく、飲む物も与えられませんでした。こうやって一人の囚人の命を助けたばかりか、一緒に死ぬ事になった9人の他の霊魂たちの永遠の命も救う事になりました。なぜかというと、もしもそうでなければ、この9人たちは絶望と、そして呪いと、恨みの内に死んでいた事でしょうから。

ところで、この飢餓室は、コルベ神父様が入った途端、全くその様相を変えてしまいました。なぜかというと、この部屋ではいつも、マリア様に対する聖歌、マリア様に対するお祈りがいつも満ちていたからです。この最後の飢餓室の殉教という事については、皆さんよく知られていますけれども、しかしこれは単に、コルベ神父様の全生涯の冠であって、最後に成し遂げたその事なのです。

このような行為をする事ができる為には、深い信仰がなければなりません。この深い信仰はまず、両親たちから、そしてカトリックの雰囲気に満たされたその自分の祖国から受け取りました。これは、信仰の真理を彼に教える事ができた健全な公教要理だけの話ではありません。そうではなくて、生ける信仰であって、信仰を生きていた家族のおかげです。

もしも皆さんが、そのような信仰の実りをもたらそうと思うのでしたら、信仰を生なければなりません。生ける信仰というのは、イエズス・キリスト様が、皆さんの家庭に生きておられるという事です。イエズス様がいるという事は、家族にとって、家族がミサの神秘、あるいは典礼の神秘、あるいはイエズス様のその玄義の中に深く入るように、霊魂たちを互いに準備する、という事です。

コルベ神父様が最初から聖人の位の高みに達していて、簡単に聖徳を受けたのではなくて、コルベ神父様が最初に与えられたのは、この深い確信でした。

実はコルベ神父様は、子供の時は本当に難しい聞かん坊で、やんちゃで、もうどうしようも手がつけられないような子供でしたが、そのような子供でも、勇敢に聖徳に向かって進んだので、そのような聖人になれたのです。それは私たちに希望を与えてくれます。

聖人たちというのは、天から降ってくるのではなくて、最初はみんな惨めな罪人です。ですから私たちは誰も、「あぁ、このコルベ神様は特別だ。あぁ私にはとてもできない」等と言う事はできません。なぜかというと、誰もが皆同じ状況に置かれてスタートするからです。マリア様だけを除いて例外として、私たちは皆全て、相応しくなく、資格もなく、惨めな罪人なのです。しかしこの最初に必要なのは、深い確信であって、この深い確信は、私は「生ける信仰」と言います。

たとえ自分が弱くて、天主の十戒を守る事ができなくても、天主の掟を守る事ができなくても、しかし彼は、「しかしこれはしなければならない。これこそが道だ」と知っていました、確信していました。

では、私たちの信仰が深まる為には、どうやってそれを養ったら良いでしょうか?

コルベ神父様はどうしたでしょうか。
まず第1に、コルベ神父様は、絶対的な確信を持っていました。その確信は、「イエズス様が、私たちの心に、そしてカトリック教会に、そして御聖櫃の中に真に在し、現存し給う」という確信です。
第2に、「この人生は非常に短くて、この人生の間には戦わなければならない」と確信していました。この戦いというのは、イエズス様の為の戦いであって、悪魔に敵対する戦いです。
第3に、コルベ神父様は、マリア様が私たちの人生において果たす、非常に極めて高い役割について確信していました。これが理由で私たちは、秋田と、この今も聖母の黙想会をしているのです。深い確信を持って、私たちの心の中に、そして頭の中に、そして精神の中に、それを染み通らせて下さい。

私は皆さんが、聖人である皆さんがここに来ているとは期待していません。もしも皆さんが既に聖人の位の地位に達していたら、ここに来る必要はなかったでしょう。

コルベ神父様がこの確信を持ってやった事は、その第2にやった事は、「この確信を実践に移した」という事です。まず、「やるべき事は何か」という事をよく知り、次に、「自分ではそれができない」という事をよく分かりました。

皆さんも同じ事を思っていると思います。私たちがしなければならない事、美しい聖人たちの模範、その高貴な理想、その私たちがなすべき事に比べると、私自身の持っている絶対的な全面的な無能さ、不可能さを前に、その乖離に驚きます。

このジレンマ、この違いの大きさの前に、私たちの態度は2つしかありません。1つは傲慢、もう1つは謙遜です。

傲慢は、「これは私は同意しない。その事はあり得ない。」そこで、「そんな事はあり得ない。私は自分でこの高みに達する事ができる」と思う事です。あるいは、「あぁ、結局私にはそんな事はできない」と弱気になってしまう、「あぁ、私にはとってもできない。あぁ、もうそんなのは遠いこの誰かの話で、私にはダメだ」と言って、がっかりして、落胆して、絶望してしまう事です。皆さんの生活をよく吟味すると、この2つの極端、このやり方がよくたくさん起こっている事に気付くでしょう。

何度私たちはがっかりして、失望してしまった事でしょうか。何度私たちは怒って、「あぁ、できなかった!何だ!」と自分を叱ったでしょうか。この事をコルベ神父様は、「臭い傲慢」「鼻につく傲慢」と言っていました。

ところが、謙遜の態度はこれとは違っています。この謙遜の態度は、このできないものすごい距離があるのを見て、お母さんに行きます。「マリア様は私たちを助ける事ができる」という確信と、「助けたいと思っている」という確信を持って行きます。

この「マリア様に行く」という態度は、コルベ神父様は10歳の時に持っていました。その時に、コルベ神父様のお母さんはこのコルベ神父様について、「あぁ、こんなに悪い餓鬼はもう子供は、もう将来ヤクザになるか」と心配するほどでした。そこでコルベ神父様は子供の心でマリア様の方に行って、そのマリア様が助けてくれるように、マリア様によって良くなるように、と謙遜にお祈りしました。謙遜というのは、謙遜な祈りなしにはあり得ません。

マリア様はこれにどうやって答えるか知っていますか?マリア様はコルベ神父様の子供の頃に、2つの冠を持って現れました。既にマリア様は、コルベ神父様の後の殉教が起こる、という事を予告していました。コルベ神父様に2つの冠を見せたのは、2つの報いであって、戦いと苦しみの報いです。

この世に幻覚を幻想を持ってはいけません。この世にあるのは「戦い」、そしてあるいは「苦しみ」、この2つだからです。しかしこの戦いと苦しみの後には、栄冠が待っている、「永遠の栄冠」が待っている。

コルベ神父様の答えは寛大でした、「私は2つ欲しい。」

こうやって、天主様は私たちを聖人に作り上げるのです。コルベ神父様が「2つ欲しい」と言った時に、「天主の御旨を果たさなければならない」と知っていました。天主の御旨を果たすという事は、「インマクラータの御旨を果たす」という事です。なぜかというと、無原罪の聖母インマクラータは、天主の御旨をいつも必ず果たすからです。

ですから、自分に信頼する、自分を信じるというよりは、「マリア様を信じ、信頼する」という事です。自分の感情とか、あるいは自分の気まぐれな思いつきや、自分の自己利益に従うのではない、という事です。必ずいつも、マリア様の御旨を求めるという事です。これは従順の徳です。この従順の徳なしに聖人にはなれません。

コルベ神父様は従順が何か知っていました。本当の従順が何か。本当の従順とは、「インマクラータを通して、天主に従順である」という事です。天主、そしてインマクラータの御旨というのは、「掟を守る」という事です。「教会の掟を守る、合法的な長上の明確な命令を果たす」という事です。そして「天主が私たちに与えるその状況に従う」という事です。そして自分のやりたい、自分の意思を全て放棄して、マリア様の御旨を、マリア様のお望みを果たす、という事で、非常に喜んでいました。たとえそれが自分にとって高い支払いをしなければならないとしても。

この事を、「愛」と言います。愛というのは、感情的なこう感傷的なフィーリングではなくて、「天主の御旨を果たす」というところにあります。

コルベ神父様は、現代的な私たちが聖人になる為のプログラムを与えています。75年前の話、まだ私たちの両親が生きている時代の話です。つまり現代の私たちの同時代の人です。難しい時代に生きた人です。こうして、コルベ神父様がどうやって生きたのか、そのどれほどマリア様に祈っていたのか、という事を見ながら、私たち自身のものとして、聖人になる事ができます。

もしも皆さん今日の集祷文をご覧になるなら、集祷文の中には、「私たちの信仰・希望・愛を増やして下さい」とあります。これをマキシミリアノ・コルベ神父の生涯の光を照らして、その角度で見ると、コルベ神父様がそれを求めたのみならず、それを実践したと分かります。

コルベ神父様は力強い取次ぎ者でもあります。コルベ神父様が創立した、聖母の「無原罪の聖母の騎士」の会員である、皆さんは全て会員である、という事を知って、コルベ神様はどれほどお喜びになっている事でしょうか。生ける聖母の、無原罪の聖母の騎士として、皆さんがもっと寛大な心でコルベ神父様に求めるならば、きっと喜んで取り次いで下さる事でしょう。この混乱の中において、信仰がますます深まり、成長するでしょう。インマクラータに対する愛も成長するでしょう。そして私たちも全て、永遠の命の冠を頂く事になるでしょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年12月24日(月) 主の御降誕の前日のミサ説教(大阪) 「私たちに永遠の幸せを与えようとする救い主がすぐ傍に来ている」

2019年01月18日 | お説教・霊的講話
2018年12月24日(月)主の御降誕の前日のミサ(大阪)
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月24日、イエズス様の御降誕の祝日の前日のミサをしています。

今日このミサの後に、21時から朝課という、クリスマスの前の聖務日課があります。それから真夜中の12時に、司祭が幼きイエズス様をお連れしてお持ちして、その馬小屋に御乗せします。その後で真夜中のミサが始まります。
「イエズス様が、私たちの救い主がお生まれになった」という喜びのミサです。明日の朝も10時30分からミサがあります。どうぞ小さなお友達が参加して下さると嬉しく思います。


“Hodie scietis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日御降誕の前日のミサをしていますけれども、このミサでは教会は私たちに、何度も何度も、「お前たちは知るだろう。救い主が来る、という事を知るだろう。そして明日は、明日の朝は、その主の栄光を見るだろう」という事を私たちに聞かせています。三度聞かせています。入祭誦の時に、そして昇階誦、それからそれと似たような事を御聖体拝領の時にも言います。それで、教会がそうやって私たちに教えている「主が近い」という事を、私たちも教会の心に合わせて黙想します。

⑴教会はどんなイメージで言っているかというと、その「主が近い」という事は、ちょうど教会の入り口に立っておられる、そのドアを今開こうとしている、というイメージに似せて、それに合わせてミサでは歌われています。

⑵第2に、イエズス様がもうすぐ来られるという事は、マリア様とヨゼフ様の福音での事で語られます。

⑶そこで今日は、この2つの事を考えながら、イエズス様がもうすぐ、すごく近くにおられるのだ、もうすぐお生まれになるのだ、という事を考えながら、遷善の決心をしましょう。私たちはイエズス様を迎える為にどうしたら良いのか。


⑴最初は、教会が私たちに教えているメッセージです、「お前たちは明日、見るだろう、栄光を見るだろう。すぐ知るだろう。救い主が生まれるという事を知るだろう」と言っています。何度も言います。

その言った時に、言ったその直後に、ミサの中では詩篇の23番というものが取られます。詩篇の23番では、同じテーマが繰り返されます。それは、「門よ、さぁ開け。門よ、框を取り上げろ。王様が来る、永遠の王が来る。さぁ早く門を開け」という詩篇なのです。「イエズス様が、救い主が来る」という事を預言した詩篇です。

それと合わせて、「さぁ、救い主が教会の外に立ってノックをしている」というものと、私たちのイメージが重なります。なぜかというと、司祭が入堂してくる時に、私たちが入祭誦でこの事を歌います。また司祭が今度は祭壇の前でいけにえを捧げようとする時、聖変化の前に、パンとブドウ酒を捧げようとする時にも、「さぁ、門よ開け、主がすぐ傍に立っている」という事を歌います。御聖体拝領の時にも、私たちの口を開いてイエズス様を受けようとする時にも、「さぁ、お前たちは主の栄光を見るだろう」と歌っています。

ちょうど私たちは、救い主の来臨を待っている霊魂で、それは花嫁が花婿を待っているかのようです。綺麗に着飾った花嫁は、花婿がお土産や花束を持って、花嫁の家までやって来て、そしてドアをノックして、そして花婿の声を聞くのを待っています。いつかいつか、カレンダーをめくりながら。

その救い主が、私たちを永遠の、「私たちに永遠の幸せを与えようとする救い主がすぐ傍に来ている」という事を教会は歌っています。


⑵第2は、ヨゼフ様とマリア様です。

ヨゼフ様は、「確かに、この来たる、このマリア様の胎内にいらっしゃるこの子供は、聖霊によるものだ」という事を知ります。なぜかというと、天使がそう聖ヨゼフに言うからです、「ヨゼフ、恐れるな。身籠っている子は聖霊によるものだ。彼は諸国を、万民を罪から救う者だ。イエズスと名付けよ。」ヨゼフの心はこれではっきりします。「そうだったのか。」

聖パウロも同じ事を言います。マリア様の御胎内におられるのは、人間の本性としては童貞マリア様の子供ですけれども、「しかし聖性による天主の聖子である。旧約の時代は、この救い主の、生まれる子供、この救い主について語られた。」

ではそのような確信を持って、マリア様とヨゼフ様が今日、宿を探します。ベトレヘムに遂に到着しました。3日間歩いて、3日間苦労して、ローマ皇帝の命令に従って、人口調査の為にダヴィドの街に、ベトレヘムにやって来ました。聖ヨゼフは一生懸命宿屋を探しますけれども、ありません。泊まる所もありません。寒い吹雪の、木枯らしの日でした。夜は早く日は暮れて、真っ暗になりました。しかし泊まる所はありません。

ヨゼフ様とマリア様のお持ちになっていたその信仰、深い信仰を黙想致しましょう。「この御胎内におられる方は、約束された救い主である。」

そしてヨゼフ様もマリア様も、この救い主に対する大きな希望の徳を持っていました。「私たちは、この救い主によって救われる。」

またイエズス様をこの御胎内に、将来イエズスと名付けるべきこの子供に対する愛も持っていました。

それと同時に、この現実は、寒い真冬に行く所もなく、そしてどうしたら良いか分からなくなっていたような時にも、この信頼を持っていました。御摂理に対する信頼を持っていました。御謙遜を持っていました。忍耐と、そして心の平和がありました。きっと私たちでしたら、もうオロオロしてしまって泣いてしまったり、あるいはどうしたら良いか、他の人を恨んだり、あるいは他の人に「何だ!」と言ったかもしれませんが、ヨゼフ様もマリア様も、忍耐強くこれを捧げていました。「イエズス様はこんなに近くに来ておられる」という事を知っていました。


⑶では第3に、私たちは今日イエズス様の御来臨を待ち望みながら、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

私たちはちょうど、私の黙想するには、ちょうどマリア様とヨゼフ様のように、イエズス様と一緒に、「天国」というベトレヘムに行く旅人である、と似ているという事です。私たちも天の国に生まれなければなりません。そこで私たちも天の国の人口調査の為に名前を届け出さなければなりません、「私も、キリスト教信者として登録されています。」天国への道を辿らなければなりません。でも私たちは、イエズス様を連れて行っています。

マリア様とヨゼフ様もそうでしたが、ベトレヘムへの旅路は簡単ではありませんでした。まずお金も無かったし、まず行っても、すぐに受け入れられたわけではなかったし、思い通りにいかない事もたくさんありましたし、寒かったし、あるいは冷たいのは気候だけではなく、天候だけではなく、人の心も冷たかった、という事もあり得る話です。

それでもマリア様とヨゼフ様にとって一番の喜びは、「イエズス様と共にいらした」という事でした。「救い主がもうすぐに来られる」という、愛と希望がありました。イエズス様が、救い主が、天主が、私たちをどれほど愛しておられるか、という事を知っていました。永遠の昔から、私たちの為に救いを約束されていて、それが今実現しようとしている、主の憐れみと、御謙遜と、愛をよく理解していました。ですから聖ヨゼフ様もマリア様も全て、感謝と、讃美と、そして天主への信頼と委託に満ちていました。心の平和に満ちていました。

私たちも、この私たちも、この聖ヨゼフ様とマリア様のその委託と愛に倣う事に致しましょう。永遠の昔から、この世を創った全ての所有者、天と地を満たすその所有者は、永遠の王は、今私たちの心の門を開いて入ろうとしている御方は、全てを知っておられるし、全てを所有しておられるし、全てを支配しておられます。

その方が、とてつもない、計り知れない大きな愛を持って、小さなお友達や皆さんを、永遠の昔から愛しておられます。そして御自分の愛を更にお与えようとされています。

そして今日、今、そのとてつもない御恵みを持って、ドアの前に立っておられます。ノックしています、「さぁ、やって来た。この今晩お前たちの心の中にやって来る。さぁ、門を開け、心の扉を開いてほしい。さぁ、私が生まれるのを、心の中に入るのを許してほしい。天と地の創造主、王の王、お前の花婿がやって来た。永遠の昔からの愛を持って来た。」

どうぞ今日は、イエズス様への愛に満たされて、その御聖体拝領をなさって下さい。

「イエズス様、御身は永遠の昔から私の事を愛して下さっています。永遠の昔から私の善を、最高の善を、最高の喜びを準備して下さっています。永遠の未来に至るまで、永遠の無限の喜びを与えようとして、全てを整えて下さいました。そして今日今晩、その愛を私に示そうとされています。幼子となって、小さなものとなって、私たちの心に生まれようとされます。イエズス様、どうぞ私の心に来て下さい。そして私の拙い愛を受け止めて下さい。イエズス様、私はどれほどイエズス様を罪によって悲しませてきた事でしょうか。イエズス様、どうぞ私の祈りと愛をお受け下さい。」

「マリア様、私がイエズス様をよく受ける事ができるように、助けて下さい。」

「聖ヨゼフ様、私の信仰と、希望と、愛を、ますます強めて下さい。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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