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光の玄義の最大の問題:光の玄義を導入したのは、ロザリオを通じて、エキュメニズムと人間中心主義に関する第二バチカン公会議の教えを推進するためだった

2021年11月04日 | お説教・霊的講話


光の玄義についての説教

2021年10月24日 ドモルネ神父

はじめに

今日も、ロザリオについてお話しします。先週の主日は、聖ドミニコが制定したロザリオの十五の玄義、すなわち、五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義を黙想することについて、お話ししました。ところで、2002年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、使徒的書簡によって、光の玄義と呼ばれる五つの新しい玄義を制定しました。この光の玄義は、キリストの洗礼、カナでのキリストの最初の奇跡、福音宣教、キリストのご変容、最後の晩餐です。聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、この光の玄義を含まない、聖伝の形式でのみ祈ります。なぜ聖ピオ十世会の会員はそのようにするのでしょうか?

1.ロザリオを改善する試みについての疑い

教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオの祈りを改善し、信者がロザリオをよりよく理解し、ロザリオをよりよく、より効果的に祈ることができるように、五つの光の玄義を加えることを決定しました(使徒的書簡28章)。教皇に、ロザリオを変更する権限があるのは、事実です。しかし、十五玄義からなるロザリオは、聖母と聖ドミニコからもたらされたものです。それは、諸教皇、特に偉大な神学者として有名なレオ十三世によって、公式に認可され、幾度もたたえられてきたものです。例えば、1571年、レパントでイスラム軍の攻撃を打ち破るなど、その非常に大きな力が、劇的に示されてきました。そのため、ロザリオを改善して、その効果を確実なものにするためにロザリオに変更を加える、という教皇の意向には、およそ説得力はありません。

2.ロザリオの変性

光の玄義を加えることは、ロザリオを変質させることです。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオを、福音の要約にしたいと考えます(同19章)。ですから、イエズスの公生活をそこに反映させるために、ロザリオに光の玄義を加えるのです。しかし、ロザリオは福音の要約のためのものではなく、私たちのカトリック信仰の主要な真理を毎日黙想するためのものです。このことは、私たちが栄えの玄義で黙想している聖母の被昇天と天国での戴冠が、福音のなかでは述べられていないことからも、証明されます。

また、ロザリオはイエズスとマリアの詩篇であり、聖書の詩篇の百五十篇にならって、百五十回の「めでたし」でできています。そこに光の玄義を加えると、ロザリオは二百回の「めでたし」になってしまいます。そのため、聖書の詩篇との象徴的、かつ構造的な関係が崩れてしまうのです。

またロザリオは、毎日祈られるべきものです。喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義という十五の玄義で構成されているのは、キリスト信者が、キリスト教生活の本質的な真理を、毎日黙想することを目的としているからです。しかし、光の玄義が加わると、ロザリオを毎日唱えることが難しくなります。人々が毎日、十五の玄義を唱えることさえ難しいのですから、二十の玄義を唱えるのはどれほど難しいことでしょうか。

また、ロザリオの十五の玄義は、秩序あるサイクルを作り出しています。つまり、私たちは、喜びの玄義から苦しみの玄義へ至り、苦しみの玄義から栄えの玄義へ至り、栄えの玄義から、すべての始まりであり終わりである天主の命へと至るのです。私たちは、ロザリオの諸玄義を一週間に分散して祈ることによって、この秩序あるサイクルを保っているのです。私たちは、月曜日に喜びの玄義を、火曜日に苦しみの玄義を、水曜日に栄えの玄義を祈ります。そして、木曜日・金曜日・土曜日にも、同じサイクルを繰り返します。主日には、栄えの玄義を祈ります。しかし、光の玄義が加わると、このサイクルが崩れてしまいます。実際、教皇ヨハネ・パウロ二世は、木曜日に光の玄義を、金曜日に苦しみの玄義を、土曜日に喜びの玄義を、主日に栄えの玄義を祈るように勧めますが、この流れには秩序がありません。

3.ロザリオを通じて第二バチカン公会議の教えを推進すること

しかし、光の玄義の最大の問題は、次のことです。教皇ヨハネ・パウロ二世が光の玄義を導入したのは、ロザリオを通じて、エキュメニズムと人間中心主義に関する第二バチカン公会議の教えを推進するためだったのです。教皇は、自らの書簡の中でそれを明確に述べており、また第二バチカン公会議の文書「教会憲章」(Lumen Gentium)と「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)に言及しているのです。

光の玄義が、第二バチカン公会議のエキュメニズムを、どのように推進するのでしょうか? このエキュメニズムとは、カトリック、オーソドックス、プロテスタントのすべてのキリスト教徒が、教理上の違いにかかわらず、キリストの同じ教会に属している、とすることです。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、キリストが人間にご自身を啓示される、幾つかの手段を提示したいと考えます。その手段とは、キリストの洗礼式、キリストの神性を信じること、キリストを他人に証しすること、キリストに耳を傾けること、最後の晩餐を祝うことです。しかし、これら五つの手段は、キリスト教のすべての宗派のうちに見つけることができるものです。そのため、キリストは、キリスト教のあらゆる宗派を通じてご自身を啓示され、よって、すべてのキリスト教徒はキリストの教会に属し、教理上の違いにかかわらず、すべてのキリスト教徒は一致しなければならない、というのです。

ただし、このエキュメニズムは、第二バチカン公会議以前の諸教皇によって、はっきりと断罪されていました。私たちは、カトリックの信仰を裏切ることなしには、このエキュメニズムを受け入れることはできません。

光の玄義が、第二バチカン公会議の人間中心主義を、どのように推進するのでしょうか? この人間中心主義とは、人間の尊厳を高め、人間をすべての中心とする、というものです。この人間中心主義によれば、イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を啓示される、というのです。教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、私たちが、自分自身の人間としての尊厳をよりよく知るようになるために、私たちがキリストの啓示を考えることを望むのです。ただし、この人間中心主義は、偽りの教理です。イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を示すために来られたのではありません。そうではなく、人間に対して、天主と、天主の完全性を啓示するために、来られたのです。

結論

これらのすべての理由から、聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、光の玄義を除いた、聖伝の形式でのみ祈ります。そして、信者の皆さんすべてにも、同じようになさることを、お勧めします。


人々が、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光について黙想しながら天使祝詞を唱えるなら、もっとすばらしいことであり、聖母のさらなる喜びとなる

2021年11月04日 | お説教・霊的講話

ロザリオの諸玄義の黙想についての説教

2021年10月17日 ドモルネ神父

はじめに

先週の主日には、ロザリオが、昔は、「イエズスと童貞聖マリアの詩篇」と呼ばれていたことを、皆さんに思い起こしていただきました。ロザリオは、本質的に、百五十篇の詩篇にならって、百五十回の「めでたし」を唱えることから成り立っています。しかし、ロザリオは、これらの「めでたし」を唱えるだけではありません。それと同時に、私たちの主イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想することが欠かせません。聖ドミニコの後継者の一人であり、ロザリオの偉大な推進者であった、福者アラン・ド・ラ・ロシュに、聖母が語られたことを、ご紹介します。「人々が百五十回の天使祝詞を唱えるとき、その祈りは、彼らにとっての大きな助けとなり、また、私に対する最も喜ばしい賛辞でもあります。しかし、人々が、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光について黙想しながらこれらの天使祝詞を唱えるなら、それはもっとすばらしいことであり、また、私のさらなる喜びとなるでしょう。この黙想こそが、これらの祈りの魂なのですから」。そこで今日は、ロザリオの諸玄義の黙想について、少しお話ししようと思います。

1.私たちの主イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想すること

第一に、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光を黙想するとは、どういう意味でしょうか。それが意味するのは、イエズスがなさったことやおっしゃったことについて考え、思いを巡らし、そして、イエズスの教えを理解すること、次に、この教えに従って生きたいという願いを自分自身の中で燃え立たせること、そして最後に、日々の生活の中で、聖徳を実践し、罪を避けるための具体的な決心を立てることです。

私たちはなぜ、イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想する必要があるのでしょうか? 第一に、私たちが聖人になるためには、それが必要だからです。すべての聖性の手本は、私たちの主イエズス・キリストです。ですから、聖人になるということは、イエズスの教えと模範に従って生きることによって、自分自身の中にイエズスの似姿を再現させるということです。しかし、画家が、自分の描いている肖像画の対象の人物をたびたび見る必要があるように、私たちも、イエズスの似姿を私たちの中に再現させるためには、イエズスがなさったことやおっしゃったことを、たびたび考える必要があります。

第二に、私たちは、イエズスとマリアのご生涯、ご受難と、栄光について黙想し、お二人をたたえ、お二人が私たちのためにしてくださったすべてのことに、感謝する必要があります。お二人は、私たちを地獄から救い、私たちのために天国を開き、私たちに成聖の恩寵を与え、私たちが天国に達するために必要なすべての助けを与えてくださいます。そして、お二人がこれらの恩恵を私たちのために獲得してくださったのは、極めて耐え難いお苦しみを通してでした。これほど素晴らしい恩恵へのお礼として、私たちは最低限、毎日、私たちの主イエズスと聖母をたたえ、感謝しなくてはなりません。

2.ロザリオの十五玄義

聖ドミニコは、ロザリオの百五十回の「めでたし」を、十五連に分けました。聖ドミニコは、私たちの主イエズスと聖母のご生涯、ご受難と、栄光の十五の出来事の黙想を、そこに加えました。私たちは、これらの出来事を「玄義」、ロザリオの十五玄義と呼んでいます。なぜこれが「玄義」という名前なのでしょうか? 聖ルイ=マリー・ド・モンフォールの言葉を聞きましょう。「玄義とは、理解するのが難しい、聖なるもののことです。私たちの主イエズス・キリストのみわざは、すべて聖であって、天主としてのものですが、それは、主が、天主であると同時に、人間でもあるからです。聖母のみわざは極めて聖なるものですが、それは、聖母が、天主の被造物の中で最も完璧な存在であるからです。イエズスとマリアのみわざを理解するのが難しいのは、そこには、私たちの自然な理解力を超えた意味や、完全さや、力があるからです。聖霊は、これらの玄義を敬う、謙虚で素朴な霊魂たちに、その意味と豊かさを明らかにしてくださいます」。私たちは、ロザリオの「めでたし」の祈りを、執拗に、熱心に繰り返すことによって、これらの玄義をよりよく理解し、そこに含まれる恩寵を得られるように、聖霊からの光を与えてくださるよう、童貞聖マリアにお願いしているのです。

聖ドミニコが、ロザリオを、五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義に分けたのは、なぜでしょうか? それは、私たちがカトリック信仰の本質を黙想できるようにするためです。この三部において、私たちはイエズスとマリアのご生涯の三つの主要な部分、すなわち、地上でのご生涯、ご受難、永遠の栄光について、黙想します。私たちは、カトリック信仰の三つの基本的な玄義、すなわち、ご托身の玄義、贖いの玄義、三位一体の玄義について、黙想します。私たちは、私たちの存在の三つの本質的な理由、すなわち、天主の子となるべき私たちの召命、苦しみを通した私たちの贖い、三位一体の命にあずかる私たちの永遠の幸福について、黙想します。また、このロザリオの十五玄義を通して、私たちが聖人になるために実践する必要のあるすべての聖徳を教えられます。

2002年に、教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義と呼ばれる五つの新しい玄義を制定しました。それについては、どう考えればよいでしょうか? この質問には、次の主日にお答えしましょう。

結論

私たちがロザリオを祈るときには、十五玄義を黙想することが欠かせません。そうでなければ、私たちのロザリオは、霊魂のない肉体のようになってしまいます。では、締めくくりに、教会が「聖なるロザリオの聖母」のミサの集祷文において語っていることを、思い起こしていただきたいと思います。それは、聖なるロザリオを唱える際に諸玄義が果たす本質的な役割を、見事に表現しています。

「ああ天主よ、御身の御独り子は、そのご生涯とご死去とご復活とによりて、われらのために、永遠の救霊の功徳を備え給えり。願わくは、童貞聖マリアの、いと尊きロザリオにより、この玄義を黙想し奉るわれらをしてこれにあやからしめ、かつ、この諸玄義の恵みの効果をこうむらしめ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き、かつ治め給う御子によりて。アーメン」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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