Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「アダムにおいてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人の上に及んだ」(ローマ5章12節)。原罪で、すべての人間は、罪の状態で生まれている

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

原罪についての説教

ドモルネ神父 2021年11月28日

はじめに

今日は、待降節の第一主日です。新しい典礼暦年の始まりです。カトリック教会が、私たちに、カトリック信仰の主要な真理を思い出させてくれる一年間の期間を、「典礼暦年」と呼びます。待降節は、今日から、クリスマスまでです。待降節は、原罪から、私たちの主イエズス・キリストのご降誕までの、人々が救い主を待ち望んでいた、歴史上の期間を象徴しています。ですから、待降節の、まさに始まりである今日は、原罪について、お話ししたいと思います。

1.原罪

天主は、最初の男であるアダムと、最初の女であるエバを、創造されました。天主は、この二人を、全く必要としておられませんでした。しかし天主は、善意から、また二人の幸せのために、二人を創造されました。天主は二人を、私たちが楽園、あるいはエデンの園と呼ぶ、素晴らしい場所に置かれました。天主は、アダムとエバが苦しみや情欲や死から、免れるようになさいました。また、二人に、すべてのものごとについての深い知識をお与えになりました。しかし、天主は、それ以上に、ご自分の天主なる命にあずかる特権、すなわち、私たちが成聖の恩寵と呼ぶもの、を、アダムとエバに与えられました。そして、いつの日か、二人を、聖三位一体の無限の至福の中に導き入れることを、約束されました。

天主は、アダムに、「ある木の実を食べてはいけない」という掟を与えられました。それは単純で、簡単なことでした。この掟の目的は、アダムを罠にはめることではなく、アダムに、自分の上に立つ、創造主であり、主であるお方がいらっしゃることを、思い起こさせることでした。この掟の目的は、アダムを、従順という謙遜の状態に保ち、アダムが天主を愛していることを示す機会を、お与えになることでした。実際、天主を愛するということは、天主の掟を守ることです。しかし、皆さんご存じのように、アダムとエバは、悪魔に誘惑されて、禁断の実を食べました。それは、人類の原初において、人間が犯した最初の罪でした。私たちは、その罪を、「原罪」と呼びます。

しかし、原罪の話は、実際に起こった、歴史的事実なのでしょうか、それとも単なる伝説なのでしょうか? それは、本当にあった、歴史的事実です。私たちには、どうして、それがわかるのでしょうか? 口伝があったのです。アダムとエバは、自分の子どもたちに、何が起こったかを話しました。その子どもたちが、自分の子どもたちにそれを話す、ということが繰り返されました。しかし、この口伝は、時の経過とともに、歪められてしまいました。今では、古代の異教の迷信のなかに、その痕跡が見いだされるだけです。では、原罪の話が確実に真実であることが、どうしてわかるのでしょうか? 天主が、それを啓示されたからです。天主は、それをモーゼに啓示され、モーゼはそれを、創世記(創世記3章)に書き記しました。天主は、それを聖パウロにも啓示され、聖パウロは、ローマ人にこう書き送りました。「一人の人間によって、罪がこの世に入り、罪によって、死がこの世に入った」(ローマ5章12節)。私たちの主イエズスは、それを使徒たちに啓示され、使徒たちとその後継者たちは、何世紀にもわたって、全教会にそれを教えました。トリエント公会議は、原罪の存在は教義である、と宣言しました。

2.原罪の結果

原罪とは、高慢という、非常に重い罪でした。アダムは、自分の意志を、天主のご意志に逆らわせたのです。その結果、アダムは、天主から与えられた特別な賜物を失いました。アダムは、成聖の恩寵と、聖三位一体の無限の至福に入る可能性を失いました。情欲や無知、苦しみ、死を免れる特権を失ったのです。

アダムは、これらのすべてを、自分自身、失っただけでなく、すべての人にも、失わせたのです。アダムの罪は、個人の罪であっただけではなく、実に、全人類の罪でもありました。アダムは、一番最初の人間で、人類の父でした。すべての人間は、道徳的に、アダムとともにあったのです。そのため、アダムの行為は、全人類の行為ということになったのです。ですから、アダムがこの罪を犯したとき、全人類が罪を犯した、ということになったのです。この理由から、聖パウロは、ローマ人にこう言ったのです。「アダムにおいてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人の上に及んだ」(ローマ5章12節)。原罪以降、すべての人間は、罪の状態で生まれているのです。

3.霊的な戦い(霊戦)

洗礼によって、天主は、私たちの霊魂から罪の汚れを洗い流し、私たちに、再び、成聖の恩寵を与えてくださいます。しかし、原罪以前にアダムに与えられていた特別な賜物を、再び私たちに与えられるわけではありません。洗礼の後も、私たちは、苦しみと死の支配下にあります。私たちは、真理を学び、真理と誤謬を見分けるために、多くの努力をする必要があります。私たちは、支配欲、物欲、肉欲、という、三つの歪んだ欲望に対して、厳しい霊的な戦いをしなければなりません。

しかし、天主は、私たちを助けに来てくださいます。天主は私たちに、御独り子である、私たちの主イエズス・キリストを送ってくださいました。主において、主とともに、主によって、私たちは情欲に打ち勝ち、真理を見いだし、苦しみや死に耐える力を得て、最後には、永遠の命と至福へと到ることができるのです。しかし、私たちは、どのようにして私たちの主イエズスに一致し、主から、御助けを受ければよいのでしょうか? それは特に、ご聖体を受けることによってです。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖体拝領は報酬ではなく、私たちを癒やしてくれる薬であり、私たちを霊的に強めてくれる食べ物であることを、忘れないでください。「もう罪を犯さないようになれば、ご聖体を受けます」と言う人たちは、大きな勘違いをしています。それは、病人が、「私の病気が治ったら、薬を飲みます」と、言っているようなものです。私たちは、自分の罪を心から反省し、二度と罪を犯さないという強い意志を持ち、大罪を犯す機会に近づかないようにしなければなりません。そして、頻繁に、ご聖体にまします私たちの主イエズスを、受けなければなりません。これは、私たちが強くあるため、そして霊的な戦いに勝利するために、必要なことです。イエズスはこう言われました。「まことにまことに、私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章54節)。

今日、私には、また初聖体を、マヌエル泰珠君というお子さんに授ける、喜びがあります。マヌエル泰珠君、私たちの主イエズスが、君の霊魂に来られます。イエズス様が来られるのは、君を霊的に強くして、君がどんな誘惑にも負けないで、天主の掟を守れるように、助けてくださるためです。君の愛全部で、イエズス様を、お迎えしてください。君がいつもイエズス様に忠実だったら、イエズス様は、君を、少しずつ、聖人にしてくださるでしょう。そして最後には、イエズス様が、君を、永遠の幸福に導いてくださるでしょう。私は、皆さん全員にも、同じことを願っています。アーメン。


主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっている。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

贖宥という概念についての説教

ドモルネ神父 2021年11月21日

はじめに

この前の主日は、有限の罰についてお話ししました。私たちが罪を犯すとき、私たちは何かに対する乱れた愛のために、天主から離れてしまいます。私たちは、天主から離れたため、永遠の罰を受けるに値します。私たちは、被造物への乱れた愛を持ったため、有限の罰を受けるに値します。有限の罰とは、私たちが犯した罪の数と重さに応じた、一定の苦しみを意味します。私たちは、有限の罰の償いを完全に実行するまで、天国に行くことはできません。私たちの主イエズスは、福音のなかで、こう言われました。「まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」(マテオ5章26節)。

しかし、天主は、御あわれみによって、有限の罰が特別に赦免される可能性を与えてくださいます。それを、贖宥、あるいは、免償といいます。


1.贖宥一般について

贖宥には、2種類あります。有限の罰の全体が赦免される場合、それは、「全贖宥」と呼ばれます。有限の罰の一部のみが赦免される場合、それは、「部分贖宥」と呼ばれます。いずれにしても、このような赦免は、「人は、愛徳から、他の人の負債を支払うことができる」という、一般的な原則に基づいています。贖宥は、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちが、御自らの功徳によって償いをされることで、有限の罰が赦免されることです。これから、ご説明しましょう。

誰かの負債を支払うためには、「支払うのを許可されていること」、「支払う手段を持っていること」、「負債を負っている人の同意があること」という、三つのことが必要です。

2.誰かの負債を償うことが可能であること

他の人の罪を償うことは、可能でしょうか? はい、可能です。私たちがあわれみからする善業には、功徳を積む価値と、償いをする価値という、二つの価値があります。功徳を積む価値とは、私たちの善業が、報いを受ける権利を、私たちに与えることを意味します。償いをする価値とは、私たちが善業をすることで、自分の罪を償うことができることを意味します。例えば、私が、天主への愛のために、貧しい人々に施しをするとき、私は天国で報いを受けるに値しますし、また、自分の罪、特に、愛徳に反する罪を、償うのです。

私たちの善業による功徳は、完全に個人的なものです。それを、他の誰かに与えることはできません。しかし、私たちの善業による償いの価値は、他の人に与えることができます。それは、私たちが、自分の善業によって、他の人の罪を償うことができる、ということを意味します。私たちは、他の人の罰を自分で引き受けて、その人に代わって、罪を償うことができるのです。それは、私たちの主イエズスが、十字架上でなさったことです。主は、私たちの罪を償うために、ご自分の命を捧げられたのです。預言者イザヤは、こう言いました。イエズスは、「私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った…彼は、私たちの罪のためにつきさされ、私たちの悪のために押しつぶされた」(イザヤ 53章4-5節)。

3.償うための手段を持っていること

誰でも、他の人の罪を償うことができます。しかし、私たち自身の罪の償いとして、天主にお捧げすべきものを持っているのは、誰でしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、天国の聖人たち、そしてこの世に生きている聖なる人々です。私たちの主イエズスは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、主のすべての行いの持つ無限の償いの価値は、他の人々のために使われることができます。童貞聖マリアは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、聖母のすべての行いの持つ償いの価値も、他の人々のために使われることができます。天国の聖人たちや、この世に生きていた聖人たちの多くは、非常に多くの善業を行ったため、自分たちの罪を完全に償い、さらにそれ以上の、他の人々のために使われることができる償いを得ています。聖トマス・アクィナスは、こう説明します。「すべての聖人たちは、天主のために、自分たちが行ったり苦しんだりしたことはすべて、自分たちだけでなく、全教会に益をもたらすものとなるべきだ、という意向を持っていた」。ですから、私たちの主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっているのです。私たちの主イエズスは、この宝を分配する権限を、教皇に与えられました。

4.利益を受ける人の同意があること

さて、問題は、この宝の恩恵を受けられるのは誰か、ということです。それは、自分の罪を反省し、この宝が自分に適用されることを望む人々に、限られます。第一に、私たちは、私たちの罪について、大罪についても、小罪についても、心から、悔い改めなければなりません。実際、私たちが自分の罪について悲しまなければ、天主は、私たちを赦すことが、おできになりません。ですから、これらの罪による罰は、残るのです。イエズス・キリストや、聖母や、聖人たちの功徳を、私たちに適用することもできません。

第二に、私たちの主や、聖母や、聖人たちの功徳は、私たちに自動的に適用されるではありません。私たちは、それを求めなければなりません。では、どのようにすれば、よいのでしょうか? 教皇が贖宥の本のなかで示したわざを果たすことによってです。現在の贖宥の一覧は、1968年に教皇パウロ六世が制定したもので、インターネットで見つけることができます。

結論

贖宥の教理は、美しい現実です。この教理は、罪が償われることを、天主が望まれる、という、天主の正義を示します。また同時に、有限の罰を償うための非常に簡単な方法を、天主が私たちに与えてくださる、という、天主の御あわれみも示します。この教理は、キリスト教徒を一致させる、兄弟愛と相互扶助を、はっきりと示しています。この教理は、私たちが、もっと頻繁に秘跡を受け、もっと信心をもって祈り、もっと多くのあわれみのわざを実践するように、促します。要するに、贖宥の教理は、私たちの個人的な聖化に役立ち、また、天主や、キリスト、童貞聖マリア、聖人たちに栄光をもたらし、私たちの間の愛徳を奨励します。ですから、この贖宥を、頻繁に使うことにしましょう。


私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

有限の罰についての説教

ドモルネ神父 2021年11月14日

はじめに

11月には、私たちは、煉獄の霊魂たちのための、全贖宥を得ることができます。特に今年は、教皇フランシスコが、11月中の毎日、私たちがこの贖宥を得ることができることを、定めました。贖宥とは何かを、よりよく理解するために、今日はみなさんに、有限の罰という概念を思いおこしていただこうと思います。

1.有限の罰という概念

罪とは、天主の掟を破ることです。私たちが罪を犯すとき、何かに対する乱れた愛のために、天主から離れます。それは、二重の動きのようなもので、天主から離れることと、そして、特定の被造物に向かうことです。例えば、私たちがお金を盗むとき、私たちは天主の掟を拒否することで天主から離れ、そして、私たちが悪しき欲望を持つ、お金の方へと向かいます。ですから、罪を犯すことで、私たちは、二重の罰を受けるに値するのです。

天主から離れたため、地獄の宣告という「永遠の罰」を受けるに値します。地獄の宣告とは、天主から永遠に離れてしまうことです。また、何かに誤った愛着を持つことで、何かを奪われるという、「有限の罰」を受けるに値します。

具体的に言えば、この「有限の罰」とは、私たちが犯した罪の数や重さに応じて、一定の肉体的・感情的な苦しみを受ける、ということを意味します。地獄にいる人々のことを考えてみると、彼らは同じ永遠の罰を受けていますが、彼らの苦しみ、すなわち有限の罰は、彼らが犯した罪の数と重さによって決まります。

2.罪の償いの必要性

私たちが罪を償うためには、罪の二重の動きを、逆転させなければなりません。私たちは、心からの痛悔の祈りと告白によって、天主に立ち返る必要があります。私たちは、有限の罰を受ける必要があるのです。

しかし、これに関して、プロテスタントは、カトリックの信仰に反対します。プロテスタントは、天主が罪をお赦しになるときには、罪による罰も、同時にお赦しになる、と主張します。したがって、私たちの罪を償う必要はなく、受けるべき有限の罰もない、というのです。でも、これは偽りです。私たちをお赦しになった後も、天主は、私たちに、有限の罰を受けることを要求されます。例えば、聖書において、ダヴィド王は姦淫と殺人の罪を犯しました。ダヴィド王は心から天主に赦しを請い求めて、天主に赦されました。しかし、ダヴィド王は天主によって厳しく罰せられ、自分の罪のために、長く、厳しい償いをしました。

また、プロテスタントは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪を完全に償われたので、それ以上の償いをする必要はない、とも主張します。もし、それでも、私たちが自分の罪を償う必要があるとすれば、それは、イエズスの十字架上の犠牲が十分ではなかったことを意味することになる、と言うのです。でも、これは偽りです。イエズスの犠牲は絶対的に完全で、人類のすべての罪を償うのに、十分です。しかし、私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。主は、こう言われました。「義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために、私は来た」(ルカ5章32節)。また、こうも言われました。「私は言う。あなたたちも、悔い改めないなら、あなたたちもみな、同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)。さらに、聖アウグスティノは、こう言っています。「あなたがたなしに、あなたがたを創造されたお方が、あなたがたなしに、あなたがたを救われることはありません」。

しかし、なぜ、天主と私たちの主イエズスは、私たちをお赦しになった後も、私たちが、自分の罪のために、有限の罰を受けることを、望まれるのでしょうか? それは,私たちが、罪の重さを理解して、将来、掟を守ることができるように、助けるためです。実際、私たちは、悪い行いのために罰を受けた後は、普通、二度とそれをしないように、もっと気をつけるようになります。

私たちが自分の罪を償うことは、必要なことです。私たちは、自分の罪を完全に償うまで、天国に行くことはできません。煉獄にいる霊魂は、天主から罪を赦されていますが、地上で生きている間に、十分な罪の償いをしていなかったのです。

3.罪を償う方法

さて、問題は、私たちは、具体的に、どのようにして罪を償えばよいのか、です。

まず第一に、忍耐強く、償いの精神で、人生のあらゆる苦しみに耐えることです。これらの苦しみは、私たちが犯した罪の結果です。しかし、私たちが償いの精神でそれを受け入れるならば、これらの苦しみはもはや単なる罰ではなく、私たちの罪の償いになります。

次に、私たちは、祈り、良い告白、聖体拝領、大斎、小斎、施し、14のあわれみのわざのいずれか、巡礼などの善業を行うことで、罪を償うことができます。最後に、贖宥を得ることで、罪を償うことができます。贖宥とは、罪による有限の罰の、特別な免除のことで、教会から与えられるものです。教会は、どのようにして、そんなことができるのでしょうか? それは、イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちの功徳を、特別な方法で適用することによって、です。天主のお許しがあれば、次の主日に、この贖宥という概念について、もっと詳しくお話ししたいと思います。

結論

今のところ、皆さん一人一人が、次のことをすることで、毎日一人の霊魂を煉獄から救うことができる、ということを、覚えておいてください。
・墓地を訪れ、亡くなった人のために祈ること。カトリックの墓地でなくても構いません。
・成聖の恩寵の状態にあること。
・小罪も含めて、いかなる罪への執着をも、持たないこと。
・墓地訪問の前後、20日以内に、告解をすること。
・墓地訪問の前後、20日以内に、聖体拝領をすること。
・教皇のために、祈りを唱えること。

全贖宥を複数得る場合も、一度の告解で十分です。しかし、各々の贖宥には、別々の聖体拝領が必要です。


聖人たちが私たちに近ければ近いほど、その聖人たちは私たちをもっと見守り、より力強く助けてくれる

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

聖人たちの取り次ぎについての説教

ドモルネ神父 2021年11月7日

はじめに

先週の月曜日、私たちは「諸聖人の祝日」をお祝いしました。この機会に、聖人たちの力と、聖人たちを敬うことの大切さを、思い出していただきたいと思います。

1.天主は被造物を通して統治される

天主は、天地の創造主です。天主は、すべての人に、その存在と命をお与えになるお方です。また天主は、全宇宙を統治しているお方でもあります。しかし、天主は、すべてをご自分で、直接、統治なさっているわけではありません。天主は、天使や人間を、ご自分の統治に参加させられます。例えば天主は、家庭の父親には、家族各人の物質的、また霊的な福利を守るために、家族の構成員に対する統治権を与え、また教師には、生徒を教えるために、生徒に対する統治権を与えられます。なぜ天主は、そのように統治なさるのでしょうか? それは、天主の統治が、最高のものだからです。最高の統治とは、人々を善良にするだけでなく、その人々が、他の人々にも善良さをもたらす基となるように、するものです。したがって、最高の教師は、自分の生徒を学者にするだけでなく、他の人々に教えることのできる教師にする人です。(「神学大全」第1部a第103問題第6項)

2.天国の聖人たちの力

天主は、聖人たちの取り次ぎによっても、人に恩寵をお与えになります。天主は、すべての恩寵の源です。しかし、私たちの主イエズス・キリストを通してでなければ、いかなる恩寵も、人に与えられることはありません。イエズス・キリストは、いかなる人にも、童貞聖マリアを通してでなければ、恩寵をお与えになることはありません。そして、聖母が、特定の聖人の取り次ぎを通してのみ、分配してくださる恩寵もあります。

実際天主は、特定の聖人に、特定の使命を、割り当てておられます。

例えば、聖ヨゼフは、普遍的教会、聖バルバラは、死にゆく人、聖クリストフォロは、運転手、聖コスマと聖ダミアノは、医者、聖カミロ・デ・レリスと神の聖ヨハネは、病院と病人を、見守る役目を負っています。

そして、天主はこれらの聖人たちに、真の力をお与えになります。それが意味するのは、天主が、ある特定の恩寵については、これらの聖人の取り次ぎを通さなければ、人には与えられない、とお決めになった、ということです。

例えば、教会の儀式書には、聖ブラジオの祝日に、特別な喉の祝別があります。それが意味するのは、痛む喉を癒やしたり、喉を守ってもらったりするためには、聖ブラジオにお願いしなければならない、ということです。そうしないと、私たちの祈りは聞き入れられません。聖トマス・アクィナスは、私たちは、最も偉大な聖人たちだけに祈るのではなく、その尊厳の劣る聖人たちにも祈るべきだ、と言っています。尊厳の劣る聖人にお願いすることが、偉大な聖人にお願いすることよりも、より効果的かもしれません。なぜなら、それは、天主が聖人たちにお与えになった使命と、私たちとその聖人たちとの関係によるからです。聖人たちが私たちに近ければ近いほど、その聖人たちは私たちをもっと見守り、より力強く助けてくれるからです。(「神学大全」第2部a.IIae第83問題第11項)

3. 私たちと天国の聖人たちとの関係

私たちに、特に近い聖人たちとは、誰でしょうか?

・ まず、私たちの守護の天使と、私たちの洗礼および堅振の保護聖人がいます。
・ 次に、私たちが住んでいる司教区や小教区の保護聖人がいます。例えば、さいたま司教区の守護聖人は幼きイエズスの聖テレジアで、特にこの司教区に住む人々を見守ってくれます。私たちの修道院は、聖パウロに奉献された大宮教区にあります。聖パウロは、特にこの小教区に住む人々を見守ってくれます。
・ 続いて、私たちがいる地域の保護聖人がいます。例えば、汚れなき御心の称号の聖母と、聖ミカエルは、日本を見守ってくださいます。
・ そして、私たちが特別な魅力を感じる聖人たちがいます。この魅力は、聖霊から来るものです。聖霊は、私たちを通して、これらの聖人たちをたたえることを望んでおられ、また、私たちがそれらの聖人たちを通して、特定の恩寵を得ることを、望んでおられます。
・ 最後に、特定の状況において、私たちを助ける力を持つ聖人たちがいます。普通、その聖人たちの生涯に、それに関連することが起こったからです。例えば、自分の生徒に殺されて殉教したイモラの聖カッシアノは、教師を助けます。徴税人だった聖マテオは、会計士を助けます。体を焼かれた聖ラウレンチオは、やけどをした人々を助けます。天主への賛美を歌うのが好きだった聖チェチリアは、音楽家を助けます。聖ニケフォルスは、誰かと和解したい人々を助けます。聖ニケフォルスは、事実、これについての良い模範を示した人です。聖アガタは、地震や火山の噴火の危険にさらされている人々を助けます。実際、聖アガタがカターニア市で殉教した直後、地震が町を襲いました。その後、聖アガタの聖遺物のおかげで、近くのエトナ火山の噴火から、町が守られました。日本でも、聖アガタにお願いすれば、よい助けが得られるかもしれません。


結論

天国の聖人たちは、私たちを愛しています。聖人たちは、私たちが天国の彼らのもとにいくことを、望んでいます。聖人たちは、私たちのために祈っており、また、私たちのために多くの恩寵を獲得することもできます。しかし、聖人たちによる私たちへの働きかけの効果は、私たちから聖人たちへの信心の度合いに比例するのです。私たちが聖人たちに敬虔に依り頼めば頼むほど、聖人たちは、より効果的に、私たちを助けることができるのです。しかし、もし私たちが聖人たちのことを知らず、聖人たちのことを考えず、聖人たちにお願いすることがなければ、聖人たちによる私たちへの働きかけは、非常に限られたものにとどまってしまいます。

愛する信者の皆さん、皆さんに近い聖人たちにお祈りすることを、お勧めします。そうすれば、皆さんは、天主を、また私たちの主イエズス・キリストを、そして童貞マリアをたたえることになりますから、みなさんは、豊かな恩寵を受けることでしょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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