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私たちの主イエズスがエルザレムのことで流された涙についての説教 —「罪人の死」

2022年08月09日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズスがエルザレムのことで流された涙についての説教 — 「罪人の死」

ドモルネ神父

はじめに

今日の福音の中には、私たちの主イエズスの、次のみ言葉があります。「おまえの敵が周りに塁を築き、取り巻き、四方から迫る日が来る」(ルカ19章43節)。ここで、私たちの主イエズスは、紀元70年に、ローマ軍によって、エルザレムの街とその住民に、恐ろしい罰が下されることを、告知なさっていたのです。しかし、エルザレムは、私たちの霊魂のかたどりでもあります。私たちの主イエズスを自らの救い主として迎えることを拒んだエルザレムは、イエズス・キリストとその教会を信じることを拒んだ霊魂のかたどりでもあります。ですから、この言葉によって、私たちの主イエズスは、エルザレムに対する恐ろしい罰を告知されていただけでなく、罪人が死ぬ時の状態についても、述べておられたのです。死ぬ時、罪人は、過去の回想、自分の現在の状態の自覚、そして、未来への恐怖に、取り巻かれ、苛まれるのです。

1.過去の回想によって

罪人が死ぬ時には、過去の回想、つまり自分の生涯における様々な罪の回想に、取り巻かれ、苛まれるかのようです。罪人が生きている間は、娯楽、仕事、家庭生活、社交、スポーツなどに忙しくして、あたかも天主が存在しないかのように、生きていけたかもしれません。様々な罪は犯しましたが、罪人は、それらの罪について、考えたくはなかったのです。しかし、自分が死ぬ時、罪人は、自分の様々な罪や、罪の数や、罪の重さを思い出すのです。様々な罪とは、無信仰、不正、憎しみ、不潔、冒涜、躓きとなる行為、怒りなど、つまり、行い、言葉、思い、怠りによる罪です。

罪人はまた、自分の生涯において、多くの恩寵を軽んじた思いに、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、イエズスの教理を学び、秘跡を受け、自分の悪徳を改め、聖徳を実践する機会があったことを、思い出します。罪人は、自分がこれらの恩寵をわざと無視したこと、そして、この世の雑事に時間を浪費したことを思い出します。そのため、自責の念が、罪人の心を、絶望で満たすのです。私たちの主イエズスは、罪人がこのように自責の念に苛まれることを、次のように表現されました。「もし、この日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら」(ルカ19章42節)。

2.現在の状況の自覚によって

罪人が死ぬ時には、自分の現在の状況の自覚に、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、一生涯ずっと非常に忙しくして、死については、真剣に考えないようにすることが、できたかもしれません。しかし、死ぬべき時が来ると、罪人は、死に直面しなければならず、そこから逃げることはできません。死がやってきて、自分の家族、財産、尊厳、この世の楽しみなど、罪人が好むものすべてを、取り上げるのです。罪人が、一生涯ずっと、天主のお怒りを招きながら得たものがすべて、取り去られるのです。このことが、罪人を、大きな苦悩に陥れます。おそらく、皆さんは、こうおっしゃるでしょう。罪人は、いつでも天主に立ち返り、心から天主にお赦しを請うことができるのではないか、と。厳密に言えば、その通りです。罪人は、そうすることができます。罪人がそうすれば、間違いなく、天主はその罪人を赦してくださいます。しかし、通常、私たちは、自分が生きたように、死ぬのです。もし、その罪人が、生きている間、天主のことを気にかけず、祈りもしなかったとすれば、死の苦悶と、この世でのすべてのものを失うという苦しみに苛まれたとき、そのようにすることは、ほぼ不可能でしょう。ですから、私たちの主イエズスは、こう言われるのです。「この日に平安をもたらすはずのものは、おまえの目に隠されている」(ルカ19章42節)。

3.未来への恐怖によって

罪人が死ぬ時には、遂に、未来への恐怖、苦悩、絶望に取り巻かれ、苛まれます。死んだ後、罪人はどうなるのでしょうか。罪人は、裁かれるのです。聖パウロはこう言いました。「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。そして、罪人は、自分自身がそのお怒りを招き、軽んじたイエズス・キリストによって、全能で、すべてを知っておられ、完全に公正でおられるイエズス・キリストによって、裁かれるのです。罪人が反論したり、裁判官であるイエズス・キリストをだましたりすることが、できるはずもありません。聖書のヨブ記には、こうあります。「天主が裁きに立ち上がられるとき、どうしよう。天主が調べられるとき、何と答えよう」(ヨブ31章14節)。

そしてまた、罪人は、裁きの後に、自分がどうなるだろうかという思いに、苛まれるのです。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵が…おまえ…を地に倒(す)」(ルカ19章44節)。罪人は、天国に上り天主の永遠の幸福に与るのではなく、地獄に投げ入れられるのです。地獄では、火の中で焼かれ、悪魔にひどく打ちのめされ、自分の存在のありとあらゆる部分において、苦しむことになります。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵は…石の上に一つの石さえ残さぬ」(ルカ19章44節)。

聖グレゴリオは、死の直前、自分をこれから地獄に連れて行こうとする悪魔たちを見て恐怖におののいた、クリサオリウスという名の罪人について、語っています(対話4巻38章)。

結論

親愛なる信者の皆さん、悪い死、つまり大罪の状態で死ぬことは、私たちに起こりうることのうちで、最悪のことです。天主は、私たちをお造りになったとき、私たちに自由という賜物をくださいました。聖書の中で、天主は、こう言われます。「人間の前には、生命と死が、善と悪がある、望みのままに、そのいずれかが与えられる」(集会書15章17節)。私たちの主イエズスは、人に与えられた、この自由を尊重なさいます。そして、主に従うことを拒む者は、死んだ後、自分に降りかかる恐ろしい罰に対して、泣くことしかできないのです。私たちは、生きたように、死ぬのです。ですから、このような状態のままで死にたくはない、と思うような状態に留まらないようにしましょう。自分の罪を悔い改めましょう。そして、悪い習慣を改めて、聖徳を実践するよう、真剣に努力するようにしましょう。

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私たちが天主の子供であることの意味:「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)

2022年08月09日 | お説教・霊的講話

2022年7月3日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は聖霊降臨後第4主日のミサを行なっています。
今日は午後3時からマーチ・フォー・ライフがあります。大阪市役所から出発します。どうぞ皆さん是非いらして下さい。

今日聖パウロはその書簡の中で「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)と言っています。そこで今日一緒に、「私たちが天主の子供である」ということについて、一緒に黙想しましょう。

⑴この意味は何なのか?「天主の子」というのは一体どういう意味なのか?
⑵そしてその次に、その結果は一体何なのか?
⑶私たちは何をしなければならないのか?
ということを黙想しましょう。

⑴「私たちは天主の子である」と言います。その意味は二つの意味があります。
一つは比喩的に、「それに似ている」という意味のことです。
もう一つは、本当に厳密の意味で、「家族に属する子供」という意味です。

どういうことかと言うと、比喩的な意味では、父親というのは家族の元であって、そこから家族が生まれますし、またその父親の元で家族が指導されて、一緒に生活をするという意味なので、天主は全ての被造物を御創りになったその根源でありますし、また天主が全てのものを御摂理で指導しておられるので、比喩的な意味では、私たち全ての人間は天主を信じていようと信じていまいと、洗礼を受けていようといまいと、全ての人たちが兄弟、天の父である天主の元にある兄弟姉妹である、と言うことができます。

また比喩的な意味では、天主から創られた太陽や月も、言ってみれば兄弟である、と言うことができます。ですからアシジの聖フランシスコは、太陽のことを「兄弟」とも言っていました、比喩的な意味で。

ところがもっと厳密な意味で言うと、例えばたくさんの人間たちがいるけれども、でも特にこの子とこの子とこの子は、血がつながっているうちの子だ、うちの家族だ。だから他の子供は知らないけれども、この子とこの子は、このお父さんの家の全てを分かち合っている。だからこの子は家に自由に入ってもいいし、お父さんのものはこの子のものだし、全てはこのお父さんの持ち物は、全てこの遺産を譲る権利もあるし、この特別に親子関係があるから、特別な関係がある。親子関係がある、家族の関係がある、という意味で、厳密な意味で、天主は洗礼を受けた全ての人たちのお父さんであって、洗礼を受けると私たちは、特別に養子相続をされます。

ですからこの意味では、よく皆さんが聞くかもしれませんけれども、ペットも家族の一員だというのは全く嘘です。ペットも家族の一員ではありません。なぜかというと、ペットは相続することができないからです。

しかし、どんなに私たちが、天主と人間がどんなに無限に離れていたとしても、私たちは本当の意味で天主の家族になって、そして天主の三位一体の全ての富と、全ての栄光と、全ての財産を、全てそのまま私たちが受けることができるようになります。

「天主の子供・養子」、これこそが私たちが持っている特権でもあります。

⑵では次に、この天主の子供というのは一体どんな特権があるのでしょうか?どんな務めがあるのでしょうか?

はい、これは私たちは、天主を三位一体を父として、単なる天主のみならず、創造主のみならず、私たちのお父さんとして愛する、尊敬するという、そして父親として特別の親子関係がある、ということで、私たちは天主を、天主の御旨を果たそうとしなければなりません。でも子供にとってお父さんの、これほど愛してくれるお父さんを喜ばせるということは、何と幸せなことでしょうか。

また天主が、御父である天主が私たちの父であるということならば、養子であるということであれば、この天主の家の為に、家族の為に、私たちは一生懸命その名誉の為に働こうと思います。ですから、洗礼を受けた隣人たちも、天主御父の相続を受けた人々で、遺産相続を受ける本当の兄弟姉妹である、と理解できます。ですから同じ家族の一員であるということです。天国にいる諸聖人たちも、煉獄に苦しんでいる霊魂たちも、皆同じ家族のお父さんの元にいる兄弟姉妹で、家族である、ということです。

ですから諸聖人も、あるいは煉獄にいる、あるいは地上にいる全ての信者も、私たちの兄弟姉妹ですから、特別な愛情と兄弟愛を以って接しなければなりません。憐れみの心とか、理解をする心とか、助け合いの心とかです。

ですからここにおいて、フランス革命の博愛 fraterenite、あるいは兄弟愛といわれるのは、全く嘘だということが分かります。なぜかというと、真の天主、父として天主がおられないなら、天主を否定したところには、本当の兄弟愛があり得ないからです。ですからここに、カトリックの制度や、あるいは貴族制度と、他の貴族制度との決定的な違いがあります。

貴族というのは、同じ天主である御父の元にあって、特別な義務を持った人です。「弱い人を助ける」という義務を持った人々が貴族です。ですから有名な言葉に「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」というものがあります。これは「高貴であるということ、貴族であるということは、つまり義務があるということだ。特に弱者に対する、弱い者を守る義務がある」ということです。だから貴族というものは、剣を持ってでも弱い者を助けなければならない、教会を守らなければならない、キリストの為に命を捧げなければならない、その義務があるのです。

ですからカトリック世界にとって、貴族階級というのは、特別なお金持ちの特別クラブ、特権クラブではないのです。弱者の為に立ち上がって、その彼らを守る、その特別な義務を受けた人々、それが貴族です。これが父なる天主の元にある子供たち、兄弟姉妹の義務でした。

⑶では、私たちは一体どのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?

まずこの世では、このあっという間に過ぎるこの世は、私たちが遂に天主の子供として、本当の栄光と本当の自由を受けるのを待ちに待っている、その解放を待っている、そして私たちが受ける栄光というのは、本当に想像も絶するほどの偉大なものである、ということをどうぞ知って下さい。

ですから今、この地上に生きる間に、私たちは天主の子供として、兄弟姉妹たちを、特に兄弟愛をもって愛し、そして天主御父を特別の孝愛を以て愛する、その御旨を果たす、ということが期待されているということです。それを助けてくれるのが聖霊の賜物の孝愛です。そしてこのもしもそれが辛いとか、あるいは苦しいということがあっても、この世の苦しみは、来たるべき栄光に比べれば全く取るに足らないと、どうぞ確信して下さい。それが今日聖パウロが私たちに教えていることです。

マリア様にお祈りしましょう。マリア様が私たちの母として、この真理を深く心に沁み通らせて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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