誘惑についての説教
ドモルネ神父(2022年3月6日四旬節第一主日)
はじめに
今日、教会は、私たちに、砂漠でのキリストの誘惑の物語を読ませました。誘惑は、この世での私たちの日常生活の一部です。そこで、このテーマについて、少しお話ししたいと思います。
2種類の誘惑
「さて、イエズスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野に導かれた」(マテオ4章1節)。この福音の一節で、二つのことが分かります。第一に、イエズスを罪に陥れようとして、誘惑するのは、悪魔だということです。このように、天主の法に背くようにそそのかすことは、「いざないの誘惑」と呼ばれます。悪魔は、エワに、禁断の実を食べるように、このいざないの誘惑によって、そそのかしました。第二に、イエズスが、悪魔と戦って、悪魔に打ち勝つ機会を与えるために、イエズスを誘惑に向けられるのは、聖霊だということです。このように、ある人を誘惑して、その人に、自分の資質や弱点を示させようとする行為は、「試練の誘惑」と呼ばれます。天主は、アブラハムに、独り子のイザアクをいけにえにするよう要求することによって、この試練の誘惑として、アブラハムを誘惑なさいました。このとき、アブラハムは、天主への絶対的な忠実さを示したのです。
悪魔の誘惑
悪魔は、私たちを罪に陥れるために、私たちを誘惑します。聖ヨハネ・クリゾストモは、こう言っています。「悪魔は、誘惑しかしない。誘惑こそが、悪魔の食べ物であり、栄光であり、喜びなのだ」。なぜ悪魔は、私たちに対して、このような行動を取るのでしょうか? 悪魔は、天主を憎んでいます。しかし、悪魔は、直接には、天主に手が届かないため、天主の似姿に造られた人間を攻撃するのです。悪魔は、イエズス・キリストを憎んでいます。しかし、悪魔は、イエズス・キリストを打ち負かすことができないため、イエズス・キリストの贖いのみわざを、できるだけ多くの人にとって無益なものにしようと懸命に努力するのです。悪魔は、嫉妬から、私たちを憎んでいます。悪魔は、天国の幸福を失ったため、私たちにも、その幸福を失わせようと、懸命に努力するのです。
イエズスに対する悪魔の三つの誘惑は、私たちに対する悪魔の誘惑のすべてを、まとめたものです。石をパンに変えるという誘惑は、あらゆる情欲の誘惑を意味します。情欲とは、快楽や快適さを求める、乱れた愛のことです。情欲は、私たちを、肉欲、大食、怠惰に至らせます。神殿の頂上から身を投げるという誘惑は、あらゆる高慢の誘惑を意味します。高慢とは、天主に依存するのことのない、自らの優秀さに対する、乱れた愛のことです。高慢は、私たちを、ねたみと怒りに至らせます。この世のすべての国を所有するという誘惑は、あらゆる貪欲の誘惑を意味します。貪欲とは、この世の財物に対する、乱れた愛のことです。貪欲は、あらゆる種類の不正を行うように私たちを駆り立て、はては、悪魔崇拝を実践するまでに至らせます。
天主がお許しになる誘惑
では、なぜ天主は、悪魔が私たちを誘惑するのを、お許しになるのかを、見てみましょう。天主は、霊的な戦いを望んでおられます。私たちが戦い、勝ち、そして、勝利者に約束された報いを得ることを、望んでおられます。聖アンブロジオの言葉を聞いてください。「この戦いの報いは、この世の富ではなく、キリストの王国と、キリストの遺産である。私たちには、冠がかかっているのだから、この戦いを受け入れなければならない。誰も、勝利しなければ、冠を得ることはできないし、戦わなければ、勝利することはできないのだから」。
天主は、私たちに、キリスト信者としての霊的な強さを自覚させるために、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。聖アンブロジオは、こう言っています。「私たちは、肉と血に対してではなく、霊的な勢力に対して、戦わなければならない。キリスト信者は、何という偉大さに召されていることか。キリスト信者は、この世の、より高いところにいる勢力と、戦わなければならない!」。ですから、聖書の中で、天主は、ヤコブと組打ちするように、天使を遣わされました。ヤコブは一晩中戦い続け、その天使は、ヤコブに勝つことができませんでした。天主は、ヤコブに、自分がいかに強いものであるかということ、そして、兄のエザウを恐れる理由がないことを、自覚させようとされたのです。(創世記32章28節)。
天主は、私たちが高慢におちいらないように、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。聖パウロは、こう言っています。「私が受けた啓示があまり偉大なので、高ぶらせないように肉体に一つの刺(とげ)が与えられた。高ぶらないように私を打つサタンの使いである」(コリント後書12章7節)。私たちが誘惑を受けることで思い起こすのは、私たちが、いかに、悪に染まりやすいか、また、恩寵の助けがなければ、あらゆる種類の堕落に、いかに、すぐ陥ってしまうか、ということです。
天主は、私たちが霊的にもっと強くなるように、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。私たちが貞潔の徳を育むのは、肉欲の誘惑と戦うことによってです。私たちがカトリック信仰を告白する勇気を育むのは、天主より人間を敬う誘惑と戦うことによってです。私たちが寛大さを育むのは、自己中心主義の誘惑と戦うことによってです、といった具合です。
天主は、私たちにお与えくださる賜物が、どれほど貴重なものであるかを、私たちに理解させるために、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。天主は、私たちを、永遠の命に召されます。天主は私たちに、成聖の恩寵、聖徳、聖霊の賜物、助力の恩寵を、与えてくださいます。悪魔が、これらの賜物をすべて、私たちから失わせようと決意していることは、これらの賜物が、どれほど貴重なものであるかを示しています。
結論
天主は、私たちと悪魔との間の霊的な戦いを、望んでおられます。ただ、天主は、公平な、同等の強さの戦いを、望んでおられます。ですから、天主は、悪魔を打ち負かすための手段を、すべて、私たちに与えてくださるのです。聖パウロは、こう言っています。「天主は忠実であるから、あなたたちの力以上の誘惑には遭わせ給わない。あなたたちが誘惑に耐え、それに打ち勝つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前書10章13節)。イエズスが、主祷文の中で、「われらを試みに引き給わざれ」と祈るように、私たちに教えられたように、特に私たちが天主の御助けを求めるとき、天主は私たちを助けてくださいます。また、私たちが断食をするときも、同じです。聖アウグスティノは、こう言っています。「イエズスの模範に倣って、激しい戦いに直面するときは、断食をしなければならない。そうすれば、この自ら行う制裁によってあなたの体は強められ、また、謙虚になることによって、あなたの魂は勝利することができるであろう」。
四旬節の間、私たちの主イエズスに倣いましょう。祈って、断食をして、あらゆる悪魔の誘惑に打ち勝ちましょう。
こちらで引用されているコリント前書10:13ですが、おそらく神父様は古い版の聖書をお用いになったり信徒様も中古本を入手しているものと思われますが、私の所持しているものが最近購入したもの(第23刷、2019年)なので確認してみたところ、
「コリント人への第一の手紙」となった上で、
「神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備えたもうであろう」となっています。
これは多分プロテスタントの聖書(文語、口語、新改訳)と新共同訳が「試練」と訳していることに対応していると思われます(全て確認しました)。
英語版ではみな temptation なのに、誤解を生む翻訳になってしまっていますね。
以上、お邪魔しました。
バルバロ訳聖書が発行される前に、バロバロ神父様はミサ典書の翻訳本を出しておられます。小野田神父様もドモルネ神父様も、そこに記載されている訳文を用いておられるのでしょう。
バルバロ訳聖書の3ページの終わりに、バルバロ、デル・コル訳「旧新約聖書」の改訂に1972年から着手したことが書かれています。その完成版が1980年発行のバルバロ訳聖書です。ミサ典書の翻訳は「旧新約聖書」から取ってきた可能性が高いのでしょうね。
バルバロ訳は、コリント前書10:13以外でも「試み」と訳しています。
「イエズスは悪魔に試みられようとして、霊によって荒野に導かれた」(マテオ4:1)
「あなたの神なる主を試みるな」(マテオ4:7)
など。
主祷文も「われらを試みに引き給わざれ」なので、昔も今も訳は「試み」なのに、ミサ典書で使われていた訳だけが「誘惑」になっていたことになります。バルバロ訳の「試み」は、プロテスタントの聖書と新共同訳の「試練」に対応したのではなく、カトリックにはふさわしくない表現ですが、先祖帰りしたものと受け止めるのが妥当ではないでしょうか。
ちなみに、研究社の新英和大辞典はtemptationの訳として、①誘惑、②誘惑物、誘惑の魔手、人の心を引きつけるもの、③〘聖書〙(キリストが悪魔から受けた)荒野の試み、を載せています。オックスフォード新英英辞典には、the desire to do something, especially something wrong or unwiseとの説明があり、用例として、①a thing that attracts or tempts someone、②(the Temptation)the tempting of Jesus by the Devil(see Matt.4)が示されています。