アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
日本で活躍されたカトリック宣教師の一人イポリト・ルイ・カディヤック神父様(パリ外国宣教会司祭 Hippolyte-Louis-Auguste CADILHAC, M.E.P.)をご紹介します。
カディヤック神父様は、1859(安政6)年3月17日に、南フランスのアヴェロン県Aveyron、教区はロデス教区RodezのミロMillauという町の近くにある農村ラ・カヴァルリ(La Cavallerie)の家に12人兄弟の6番目の子どもとして生まれました。
神父様は12歳の時ベルモンBelmontの小神学校に入り、1879年にパリ・ミッション(パリ外国宣教会)の神学校に入学しました。1882(明治15)年9月23日、23歳で司祭に叙階されました。その年の12月26日パリ・ミッションの宣教師として横浜港に到着され、その後は1930(昭和5)年11月19日、71歳で帰天されるまで再び故国の土を踏むことなく48年間引き続き日本に在住しました。
1883(明治16)年6月に先輩のF・P・ヴィグルス神父(Vigroux)の助任に任命されました。二人の神父の宣教担当地区は千葉・茨城・埼玉・栃木・群馬・福島の六県でした。1891(明治24)年ヴィグルス神父が東京副司教に転任すると、カディヤック神父は福島県をのぞく関東「5県を一手に」引き受けました。のちにカディヤック神父様は、1883年から1891年の間が、自分の人生で一番素晴らしい時だったと回想しています。何故なら、ヴィグルス神父と二人で、意見も仕事も財産も(スータンさえも)共有していたからだそうです。カディヤック神父様は、「歩く宣教」"Mission Itinérante" ("l'ambulance")の模範とされました。
神父様は、1891年には、宇都宮市にミッションの中心地を確立しました。1891年から1930年まで宇都宮の主任司祭を務めました。神父様の清貧の精神と多くの方々の寛大な援助(神父様の生まれ故郷のラ・カヴァルリの二人の孤児からの援助も含めて)で、宇都宮、前橋、水戸、千葉などに教会を建てる土地を購入しました。宇都宮には立派な教会も建てられました。しかしこの教会の完成を見ずに神父様は他界されました。墓は、神父の念願どおり宇都宮の松が峰教会の墓地内にあるそうです。
カディヤック神父様は「歩く宣教師」と呼ばれ、宇都宮教会の洗礼台帳によると、明治26年9月から昭和5年3月までのおよそ36年間に神父様から洗礼を授けられた受洗者の数は987名(!)だったと記録が残っています。神父様は「一にも祈り、二にも祈り」と祈りの大切なことを教え、公教要理を厳しく教えたそうです。
カディヤック神父様が養成した宇都宮教会出身の最初の日本人司祭は、後に横浜司教となりました。ルカ荒井司教様(横浜司教 1952 ~ 1980)です。
それでは、栃木県出身の東大名誉教授である、久保正幡教授(1911~2010)の書かれた「宣教と日本の風土」をご紹介します。久保正幡著「宣教と日本の風土」は、1978(昭和53)年11月25日、聖心女子大学キリスト教文化研究所主催の公開講座でおこなった講演の筋書に、その後多少補訂の筆を加えたものです。
ここで久保教授は「宣教というのは、なかなか動かない風土を動かしていくところに意義があるのではないか」と反語で主張し、日本におけるカトリックの代わりに「日本的カトリック」という表現に疑問を付しています。何故なら「日本的」というところに力点が置かれると「カトリック」でなくなってしまい、言葉として形容の矛盾におちいることになりますから、と説明しています。
宣教と日本の風土
久保正幡
はじめに
今日の私の話は、実は最近に私の読んだ一冊の本、それを皆さんに紹介することです。そのような話で勘弁してもらえるかしらと主幹の吉沢さんに相談しましたら、この講座のひとこまとして、ここに掲げてあるような立派な、どうにも私の話には過分な演題を頂戴した次第です。さて早速に話の本筋に入りたいのですが、その前にこの「宣教と日本の風土」という演題について少しばかり説明をしておくことにしましょう。
先ず「宣教」というのは、申すまでもなく、キリストの教え、福音を宣べ伝えることです。キリスト教および教会の歴史、今日までの過去およそ二千年の間に宣教はほぼ全世界に行きわたっているようですが、それでもまだ充分に行きとどいていないところもありますので、われわれの教会は特に宣教地とか布教地域という制度をかまえて、そのような地域に福音を行きとどかせようと努めています。こうした教会の宣教活動については、御承知の方も多いと存じますが、先頃の第二回ヴァティカン公会議関係の教令の一つ、「教会の宣教活動に関する教令」(1965年12月7日)と題する文書が公にされ、日本語にも訳されています。これは長文でなはなく、われわれが一読して、宣教とはなにか、それを知ることができ、しかもそれをよく心得ることができるような文書ですから、皆さんには一読なさることをおすすめします。
次に「日本の風土」について。風土という言葉はもともと、風は気候、土は土地のありさま、つまり自然の風土を意味するものと解されますが、近頃は、思想的風土、精神的風土というような言葉づかいも通用しています。ここで日本の風土という場合、風土という言葉は自然の風土だけでなく、思想的風土とか精神的風土とかいうようなものまで合わせ含む意味のものと、そう解するのが適当でしょう。ところで、近頃わが国で、特にカトリック・プロテスタントの別なくキリスト者の間で、宣教との関係において日本の風土の問題が取り上げられ、しばしば話題や論題にされています――例えば、いわゆる日本的カトリックの問題とか、わが国におけるキリスト教の土着化の問題などがそれです――が、それはなぜでしょう。わが国ではこのところ宣教が伸びなやんでいる、なにか壁にぶつかっている、それを打開して宣教を推し進めるにはどうすればよいか。日本の風土は福音が最初に告げられたイスラエルの風土ともちがうし、また、福音がわが国に伝来したのは西洋――ここで西洋というのは、ヨーロッパおよびその延長と見なされるアメリカのことです――を経由してのことですが、西洋の風士ともちがう、そういう風土のちがいが宣教をはばむ壁になっているのではないか、それならば宣教は日本の風土にどう対処したらよいか――こうして宣教と日本の風土という問題が生ずることになります。
宣教と風土、この問題はしかし、いま且つここで生じた新たな問題とばかり見るわけにはいかないように思われます。宣教の歴史を願みますと、福音はイスラエルの地から発してギリシャ・ローマなど古代地中海世界に伝えられ、それから中世ヨーロッパ世界に、そして近世以降はヨーロッパからヨーロッパ外の世界各地にも伝えられるようになって今日にいたっているのです。宣教はこのようにその都度ちがう風土の世界を相手に展開されてきたわけで、その意味で宣教の歴史は、ちがう風土との対決の歴史であると言えましょう。以上は、きわめて巨視的に全教会の宣教の歴史について見てのことですが、日本の教会のそれについても、やはり同じことが言えるでしょう。わが国で宣教活動に従事してきた人々はだれしも、「宣教と日本の風土」、この問題に実際上取組みながら活動したわけで、その事蹟が宣教の歴史にほかならないのですから。そこで私はこの問題について、問題がわれわれにとって切実な、重要なものであるだけに、この問題を考えるにはよくよく宣教の歴史――全教会のそれとともに日本の教会のそれ――を願みてそれを参考にすることが大切であると思います。今日の話も私のこのような思いからのことです。
『歩く宣教師 イポリト・ルイ・カディヤック』について
さて、話のまえおきはこのくらいにして、話の本筋に移ることにします。私がこれから皆さんに紹介する本は、これです。書名は『歩く宣教師 イポリト・ルイ・カディヤック』(昭和53年5月)、著者は田中美智子という方です。私はこの本で著者を知っただけで、面識はありません。著者がこの本に記しているところによりますと、著者は昭和53年3月に清泉女子大学文学部キリスト教文化学科を卒業して、同じ年の4月から母校の宇都宮海星女子学院高等学校の社会科講師に就任しています。この本は著者の大学卒業論文ですが、「宇都宮の教会の創設者であるカディヤック神父をテーマに選んだので、論文執筆時から信者の方々より出版の要請を受けた。学士論文とは名ばかりの未熟な論文であるが、父母の厚意に甘えて‥‥‥」と著者が記しているような次第で私家版として出版されたものです。私家版のこの本を私などが、しかも出版後間もなく、どうして手にするようになったかというと、横浜教区の荒井勝三郎司教さま――荒井司教は生まれて翌日カディヤック神父から洗礼を授けられ、同神父の導きで司祭への道を志されたというそれこそ本当の教え子です――から頂戴したからです。
この本の内容は本文と別冊との二部から成り、第一部の本文は、著者が書き上げたカディヤック神父の伝記です。第二部の別冊は、別冊というのはおそらくもとの卒業論文の名ごりでしょう、この本では本文と合わせて一冊になっています。それは資料篇ともいうベきものです。すなわち、この本に寄せられた宇都宮松が峰教会主任司祭野口義美師の序文には「宇都宮の神父と呼ばれたカディヤック神父ではあるが、宇都宮の教会には……神父の生涯を伝える記録は洗礼台帳以外に何も残されていない」ほど乏しく、その他にも文書や記録の類の「確実な資料が殆んど残されていない現状から神父の生涯を論文としてまとめることは至難の業であったに違いない。それは図書館の中で書かれた論文ではなく、「歩く宣教師」の面影と生きざまを求めて数十名の生き証人を訪ね、彼等のおぼろげな記憶の糸を紬いで、その中から信憑性のあるものだけを集めて織り上げた手織の論文……足で稼いだ集大成である」とあり、また著者も序論で「今日、私たちが信仰を持つことができるのは、カトリック復活時代といわれた幕末から明浴・大正にかけて来日し、日本中を宣教して歩いた当時の宣教師たちのおかげである。私たちはあまりにも彼らを忘れてはいないだろうか。いま、彼らについての記録・考察を怠ったならば、永遠に明治・大正期の宣教師たちの影がうすくなってしまう」ことになろう。
カディヤック神父を直接知っている生き証人は少くなるばかりだが、「今なら間に合う」と「資料集めに走り回」り、「日本を愛し、日本人を愛し」て、来日以後「一度も帰国することなくその宣教の生涯を終えた」神父の「生涯はどんなものであったのだろうか。また、カトリック教ならぬカディヤック教、とまでいわしめた神父の独得の宣教法とはどのようなものか。その、神父をささえるバックボーンとは何か。神父のどこが偉大といわれるゆえんなのだろうか。以上をテーマとして」それを「文献だけでなく、神父を知る人々から聞いた話にもとづいて考察しようと思う。私なりの考察で、生きた神父をつかむつもりである」と述べているところから明らかなように、別冊には、著者が荒井司教、デルボス神父、塚本昇次神父はじめ計14~15名の生き証人を訪ねまわって、証人から聞かされた「歩く宣教師」についての思い出話、それを証人別に忠実に記録したのが載っています。
この本は、本文と別冊と合わせて80頁ほどのもの(そのほか参考文献表、写真、年譜、地図が附いています)ですが、本文と別冊と両々相俟って「歩く宣教師」の生涯をよく浮彫りにしているように思われます。
カディヤック神父宣教の足跡
それでは以下、この本によってカディヤック神父の宣教の足跡をたどりながら私のそこはかとなく抱かされた感想を述べていくことにしましょう。最初に神父の略歴を申しますと、1859(安政6)年南フランスのアヴェロン県、教区はロデス教区――私どもの大雑把な地図ではトゥールーズの東北方、さして遠くないところです――の農村の家に生まれ、小神学校から進んでパリ・ミッション(パリ外国宣教会)の神学校に学び、1882(明治15)年9月、23歳で司祭に叙階され、その年の12月パリ・ミッションの宣教師として海を越えて来日、その後は1930(昭和5)年11月、71歳で帰天されるまで再び故国の土を踏むことなく48年間引き続き日本に在住、その間は東京副司教や司教代理もつとめたが、その生涯はそれこそ歩く宣教師と称すべきものでした。墓は神父の念願どおり宇都宮の松が峰教会の墓地内にあります。
さて、神父が歩く宜教師としてどこの地方を歩きまわったかというと、神父は来日して築地の大司教館で日本語の習得を始め、それから半年後の1883(明治16)年6月に先輩のF・P・ヴィグルス神父の助任に任命されたのですが、二人の神父の宣教担当地区は千葉・茨城・埼玉・栃木・群馬・福島の六県でした。その後やがて福島県は別になり、1891(明治24)年ヴィグルス神父が東京副司教に転任すると、カディヤック神父は関東「5県を一手に」引き受け、宇都宮の教会を本拠にして巡回する個所は「380にも及ぶという忙しい身となった」のですが、その「神父の労苦は、若い宣教師が来日して〔埼玉、千葉、水戸など〕各地に赴任することで、少しずつ減っていった」ということです。
この関東から東北にかけての6県ないし5県は、この本が記しているように「カトリック不毛地帯」でして、神父がこの地方で宣教活動を始めたのは、わが国の明治憲法発布より5年あまりも前のことです。鉄道も開けず、その頃からようやく高崎線、東北線が段々に開通を見るというようなところですから、遠い道のりも先ずは歩くほかない、そして「道を歩けば「ヤソ、ヤソ」とののしられ、ときには石を投げられる。「ヤソ講」といわれた辻説教を始めると熱湯をかけられそうになったこともあったりで、命取りにもなりかねない巡回であった。しかし、神父は無知な人々をのろう代りに祝福するのであった」と著者は述べています。実は私も栃木県の生まれです――もっとも生まれたのは、神父が宇都宮に居を据えた当時から優に一世代も後のことですが――ので、著者のこのあたりの記述を読みながら、神父が宣教に苦労をかさねた頃の田舎の世情など、私が父や郷里の人々の昔話として聞かされていたことを思い合わせました。著者の記述はよく真相を得ているのではないでしょうか。また「無知な人々を祝福する」という神父の気持、これがなかったならば、神父は宣教の苦労を耐え忍びそれにうち克つことはできなかったろうと思います。
ところで、この地方の宣教は特に苦労の多い仕事であっただけに、神父が先輩のヴィグルス神父を助けて二人で従事していた8年間に千葉布教所のほか新たに足利、会津若松、宇都宮と次々に仮聖堂とか教会を設けて宣教の足がためをしたのは、本当にえらいことです。またその後、神父が仕事を一手に引き受けるようになってからも、宇都宮教会の洗礼台帳によると、明治26年9月から昭和5年3月までのおよそ36年間に神父から洗礼を授けられた受洗者の数は987名で、この数は「一人の神父の実績としてはかなり高いものであることが分かる」と著者が述べているとおり、これもまた本当にえらいことです。
この地方の宣教は困難な仕事であったのに、これほど実りの多い成果が挙げられたのはなぜか。それにはいろいろな事由が考えられるでしょうが、その一つ、私がここで指摘したいと思うのは、1909(明治42)年神父の先輩で恩師のヴィグルス神父が帰天されたその年に、「あたかもヴィグルス神父の生まれかわりのように、〔二人と〕同じロデス教区の出身で後輩であるJ・フロジャック神父が来日。かつてカディヤック神父がヴィグルス神父に預けられたように、今度はフロジャック神父がカディヤック神父に預けられ、歩く宣教師としての修行を積むことになる」とこの本にある点です。フロジャック神父のことは御存知の方や、くわしい伝記の書物がありますから、お読みになった方も多いでしょう。カディヤック神父はフロジャック神父の恩師になるわけです。
およそ宣教というようなそれこそ永続的な、そして根気の要る仕事にとっては、同じ世代に属する人々の間の――いわば横の――協力、それが大事なこともちろんですが、そればかりでなく、それにもまして大事なのは、前後世代を異にする人々の間の、先輩から後輩へとか師弟相承けてというように仕事のバトン・タッチをしていく――いわば縦の――協力であると思います。ヴィグルス、カディヤック、フロジャック、この三人の神父のコンビがこの場合陰に陽に大いにものを言っている、大きな働きをしているのではないでしょうか。
「歩く宜教師」の宣教方法
それからもうーつ、右の事由をたずねますと、話は、この本ではカディヤック神父の巡回、独得の宣教法、バックボーンという題目のあたりに移ることになります。この辺はこの本の中でも圧巻の部分です。それだけに、下手な紹介は禁物、やはり私の感想を主に話していくことにしましょう。この本の巻頭などに掲げてある神父の肖影を見ますと、神父は、日本人の目には一見してはっきり西洋人・異人とわかるような風貌の持主です。明治の昔北関東を巡回していた頃、神父の姿は地方の人々の目にはよほど物珍しく見えたに相違ありません。
それでも神父は、接する人に「外国人という異和感を全く感じさせない人」で、「親類のおじさんというイメイジであった」ということです。おそらちく神父は、人種・国籍・職業など生まれや暮らし方はちがっても、互いに人間であることにはちがいはない、根本の人間性においては共通であるという、そういう気持で人に接したからでしょう。人間の気持は微妙なもので、神父がそういう気持で接すると、相手はそれほどの用意がなくても、それに触発されて同じような気持で神父に接することになる、そのせいではないでしょうか。
次に、神父の独得の宣教方法というのは、神父がふだん「自然と人間の現実をよく観察し」ていて、人々に身近な、人々の目の前にあるような物事を引合に出してそれをたとえにしながら教理を説くという、その話し方です。神父のこのようなたとえ話の実例がこの本の中にたくさん記されています。それを読みますと、いかにも神父は「言葉が上手というよりも話し上手」で、神父の話には強い説得力があったということに感心させられますが、同時にまた、神父が「一にも祈り、二にも祈り」と初りの大切なことや公教要理をそれは随分厳しく教えたということも見のがしてはならないと思います。
話し手の神父自身は「巡回しながら「日本人はよく聞いてくれる。それが喜びだ」と言われていた」とのことですが、神父の宣教の話は、さだめし、聞き手が耳で聞いて頭で理解するだけでなく、心で聞いて得心することをねらいとするものであったのでしょう、そして聞き手がそれをそのとおり受けとめたことが神父を喜ばせたのではないでしょうか。宣教は、そこではじめて成り立つことになると言えましょう。
なお、神父が巡回しながら信者の日常生活の実際に触れて造林や畑作、貯蓄やお金の使い方などを教えたり、緑談の世話、けんかやもめ事の仲裁など上手にしたということや、経済の話はしたが、政治の動きには関心を示さなかったということ、また邦人司祭養成のために宇都宮の教会では早くも神父の在任当時から子どもたちが一人毎月一銭ずつ竹筒の貯金箱に入れて神父学校へ寄附するようにしていたということなど、すべて神父の宣教方法につながりのあることですので、ここに申し添えておきましょう。
さて次は、カディヤック神父が宣教と風土、との問題にどう対処したかという点です。この本で著者が述べているように、パリ・ミッションの神学校の伝統的校風や神父在学中の読書から推測して、神父は「日本宣教の困難さを承知」覚悟のうえ「来日したのであろう」と思われます。そして神父は「パウロの「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(コリント第一、11・1)の言葉どおりに生き、後輩の神父たちにもこの言葉を贈って指導した」のですが、そもそもキリストがパウロなど使徒たちになんと命ぜられたかというと、先頃の「数会の宣教活動に関する教令」にもあるように、「主は使徒たちに「あなたがたはすべての国に行って教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたことをすべて守るように教えよ」(マタイ、28・19以下)、「あなたがたは全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えよ。‥‥‥」(マルコ、16・15以下)と命じた」のです。
神父は歩く宣教師として使徒パウロにならい、このキリストの言葉をそれこそ地でいった者と言えましょう。神父の独得の宣教法というのは、上に述べましたように、教えを説く神父の説き方にあったのでして、説く教えそのものにあったのではないと思います。心のやさしい神父が公教要理は随分厳しく教えたというのも、その証拠ではないでしょうか。また神父は「教会史を読めば、‥‥‥世界の布教方法も各教会のいきさつも、すべてわかるね」と言って、ロールバーケルの教会史という24~25巻もある大きな書物を20回以上も繰り返し読んでいたということですが、おそらく神父はそこから宣教と風土、あるいは教とその説き方などの問題について多くの教訓や示唆を得て、それを自分の宣教活動の上に生かしていたのではないでしょうか。
「忍耐によって霊魂を救え」――これは、神父が叙階の際に聞かされて終生座右の銘とした言葉ですが、これこそ、清貧を守り断食しながら宣教師として歩き続けた神父のバックボーンと見ることができましょう。忍耐というのは消極的でなく、積極的にこうも強く働くものかと思います。上記宇都宮の野口義美師の序文には末尾に「48年問一度も日本を離れず、食物、生活の違いやいろいろの偏見、封建的因習等の困難苦労をものともせず、ひたすら日本人の救霊と教会づくりに専念されたカディヤック神父の宣教に対する情熱はわれわれ司祭、信徒の模範とすべきであろう」とあります。
著者は「神父の人徳と信仰をそのまま受け継いだ人々を見たとき、私は「永遠なる命」を信じられるような気がした」と述べていますが、著者のこの実感は、文字どおり労作のこの本の出来栄えとともに、貴重な収穫であったと思います。なお著者はこれも結論のところで、「カディヤック神父の宣教法を、もし現代社会にそのまま持ってきて宣教したら、果たして成功するだろうか」と疑問を投げかけていますが、この点は、今後の課題でもよいのです、著者の説明なり分析をもっと聞かせてほしいと思いました。
おわりに
以上でこの本の紋介を終りますが、最後に、宣教と風土、この問題について私の思うことの一・二をごく簡短に附け加えておきましょう。その一つは、風土というもの、それはなにか固定していて動かないものと考えられがちですが、われわれはそれを動かないものではなく、動かせば動くものというように考えてよいのでなはないか。
宣教というのは、なかなか動かない風土を動かしていくところに意義があるのではないでしょうか。それからもうーつは、近頃「日本的カトリック」という言葉をよく耳にしますが、問題はその言葉の意味です。「日本的」というところにあまりにも力点が置かれると、それによって肝心の「カトリック」というところにひびが入ることになり、言葉としてもいわゆる形容の矛盾におちいることになりますから、そのおそれはないか、その点の念入りな検討が必要と思われますが、どうでしょう。
ところで、このような一・二の問題を考える場合にも、上に一言しましたように、温故知新、われわれは宣教の歴史をたずねることが大切です。それによってわれわれの考は宙に流れることなく、地についたものになるのですから。それには先ずもって宣教の歴史、これは音から宣教に従事した先人たちの貴重な経験――成功の経験であれ失敗のそれであれ――の積み重ねにほかならないのですが、これをできるだけ明らかにすることが必要です。このような意味で重要な宣教の歴史を明らかにする仕事にこの本は寄与しているわけで、しかもこの本の場合、その寄与がカトリック大学のひとりの学生の卒業論文によってなされていることを私は特にうれしく感じた次第です。
これで私の話を終ります。つたない話でしたのに皆さんの御静聴、ありがたく存じます。
(本稿は、1978(昭和53)年11月25日、聖心女子大学キリスト教文化研究所主催の公開講座で私のおこなった講演の筋書に、その後多少補訂の筆を加えたものです――久保附記)