ヴィガノ大司教の枝の主日のメッセージ:
キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。
2023年4月2日(主日)
Viganò’s Message on Palm Sunday
カルロ・マリア・ヴィガノ
Improperium exspectavit cor meum et miseriam;
et sustinui qui simul contristaretur, et non fuit;
et qui consolaretur, et non inveni.
Et dederunt in escam meam fel, et in siti mea potaverunt me aceto.
そしりは私の心を砕き、私は気力を失い、
あわれんでくれる人を待ったがいなかった。
慰めてくれる人を待ったがいなかった。
彼らは私に苦きものを食わせ、渇いた私に酢を飲ませた。―詩篇68篇21-22節
Israël es tu Rex, Davidis et inclyta proles.
(御身はイスラエルの王、ダヴィドの高貴な血筋なり)。
王たるキリストへの古代の賛歌のこの荘厳な言葉に、聖なる教会がイスラエルと、天主の民が選ばれた民と同一視されているのが分かります。
Plebs Hebræa tibi cum palmis obvia venit: cum prece, voto, hymnis, adsumus ecce tibi:(棕櫚の枝を手に持って、ヘブライ人の民は御身を迎えに出る。祈り、祈願、賛美をもって、われらも御身を迎える)。
ダヴィドの子としてエルザレムに歓迎され、主の名によって来たる御者として出迎えられ給うたキリストの凱旋が、【聖金曜日になると突然】わずか数時間のうちに、総督官邸の外に立つ群衆の激しい騒動へと、叫びと侮辱へと、御受難の苦しみへと、そして最後に十字架の木の上のユダヤ人の王の死へと変わってしまうことは、失望を起こさせるはずです。群衆は、最高法院(サンヘドリン)や民の長老たちに操られやすい性向があり、主が通られる道沿いに広げられた栄誉の捧げ物、オリーブや棕櫚の枝、衣服などを、まるで何も起こらなかったかのように簡単に忘れてしまうという、群衆がいかに変わりやすいかという考察から生まれる失望です。
「ヘブライ人の子ら」(pueri Hebræorum)の中に、後に十字架上で死にゆき給う救い主をあざ笑った人々がいたかどうかは、私たちには分かりません。しかし、大司祭、律法学士、神殿の番兵がユダヤ人だったように、イエズスが彼らの前で立って、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ給うたときに、「十字架につけろ!」と叫んだ人々がユダヤ人だったことは分かります。また、キリストを三度否んだシモン・ペトロがユダヤ人で、キリストのために泣いた敬虔な婦人たちもユダヤ人で、キレネのシモンもユダヤ人で、アリマタヤのヨゼフもユダヤ人だったように、逃げた使徒たちもユダヤ人でした。
しかし、ユダヤの民の一部が、預言や旧法の下での天主のご介入にもかかわらず、約束されたメシアを死に追いやったとすれば、キリストの時代のファリザイ人や最高法院の指導者たちのように、今日でも「Crucifige」(十字架につけよ)と叫び、「Qua non novi hominem」(私はそんな人を知らぬ)(マテオ26章72節)と繰り返すカトリック信者を、そして位階階級のメンバーをも見るとき、この裏切りが、新しいイスラエルである教会の一部で繰り返されているのではないかと私たちは自問すべきです。
民とは、ラテン語のpopulus(自らに法を与え、それを遵守する社会)の意味ではなく、むしろvulgus(つまり、アイデンティティーがなく、権利や義務の自覚がなく、操られやすく、自分たちの遺産や運命が何であるかを知らない民、聖なるものに対する感覚のないprofanum[不敬者])の意味です。
教会に起こっていること、教会を悩ます危機、位階階級と信者を堕落させる背教を見るなら、枝の主日の出来事は忘れられたように思える一方で、私たちの目の前に生きている御受難と十字架という恐怖が見えます。
かつてキリストの凱旋を祝い、キリストの福音を宣教した教会は、今日、冒涜したとして天主の御子を非難する最高法院と、キリストの死を求める大司祭たちによって、日食で覆われてしまったように思えます。かつてキリスト教的だった社会は、今や「彼を連れて行け、連れて行け」と叫び、救い主の顔に唾を吐きかけ、彼を苦しめる者たちをあざ笑い、彼の抹殺を求めているのです。今日の律法学士やファリザイ人は、自分たちが嘘つきであるのを暴露することになる教会の復活を避けるためであるかのように、教会が横たわっている墓を監視するために番兵を配置することを決意しているように思えます。主の弟子たちは逃げ、隠れて、排除や疎外されないために、流れに逆らわないために、権力者に逆らわないために、主を知っていたことを否んでいます。そして同時に、多くの敬虔な婦人たち、多くのキレネ人たち、多くのアリマタヤのヨゼフたちは、嘲笑され侮辱されながらも、教会が十字架を荷うのを助け、聖母と聖ヨハネとともに教会の足元に留まり、神秘体の復活を待ちつつ、神秘体を横たえる場所を探し求めています。
今日の裏切りは、私たちの主がお苦しみにならなければならなかったものに劣らず深刻なものであり、「教会の受難」(passio Ecclesiæ)は、教会のかしらの御受難に劣らず悲しみに満ちたものであり、教会自身の役務者から辱めにさらされた「異邦人の女主人」(Domina Gentium)【教会】を見つめる人々の荒廃と落胆は、「悲しみの御母」(Mater Dolorosa)【聖母】の苦しみに劣らず悲惨なものです。なぜなら、当時の処刑人たちを動かした憎しみは、今日の処刑人たちを動かす憎しみと同じものであり、当時のメシアを認識した善きユダヤ人たちの愛は、今日でも続くメシアの苦悶を見る善きキリスト信者の愛と同じものであるからです。
「われ、なんじをエジプトの奴隷状態から解放したのに、なんじ、救い主を十字架につけて報いた」と、私たちは「咎めの交誦」で歌います。
われ、なんじにミサを与えたのに、なんじ、それを、われを辱め、信者を遠ざける儀式に置き換えている。われ、なんじに司祭職を与えたのに、なんじ、それを、異端と姦淫の役務者で冒涜している。われ、なんじを敵に対して堅固にしたのに、なんじ、城塞の扉を開け放ち、敵に向かって駆け出し、敵がなんじを滅ぼそうと準備する間に、敵をほめたたえている。われ、なんじに信仰の真理を教えたのに、なんじ、世を喜ばそうと、それに混ぜ物をし、あるいは、それについて沈黙を守っている。われ、なんじにカルワリオの王道を示したのに、なんじ、滅びの道、快楽の道、倒錯の道を歩んでいる。
Popule meus, quid feci tibi? aut in quo contristavi te? responde mihi!(わが民よ、われ、なんじに何をしたか。何をもってなんじを悲しませたか。われに答えよ!)。
この言葉は、多くのカトリック信者、多くの高位聖職者たち、そして、主がヘブライの民になさったように、何千、何万回と熱烈な愛を示された多くの霊魂に当てはまらないでしょうか? 私たちは、キリストの血を流さないいけにえを私たちの祭壇に永続させるキリストとキリストの教会への裏切りの、世の終わりまでキリストの無限の功徳の役務者にして分配者である教会への裏切りの、キリストの奇跡の証人、キリストのみ言葉の宣教者、キリストの真理の守護者である教会への裏切りの共犯者になるかもしれないと考えるだけで、震え上がるべきではないでしょうか?
親愛なる友人の皆さん、世界を根底から揺るがすこの熾烈な戦いにおいて、私たちの不滅の霊魂がどの立場にいるのかを、よく考えましょう。私たちは、贖い主のいとも神聖なる肉体に拷問を加える悪党どもの中にいるのでしょうか、それとも代わりにその崇むべき御体を迎えるために心を開くのでしょうか? 私たちは、神性の宣言に衣を引き裂くのでしょうか、それとも代わりに私たちのために死んでくださる救い主の前にいる百卒長のように腰をかがめるのでしょうか? 私たちは、天主の御子に対して暴徒を扇動する者たちの中にいるのでしょうか、それとも代わりに天主の栄光ある復活を証言する者たちの中にいるのでしょうか? なぜなら、私たちの主が御血を流し、御命を与え給うた私たちのこの霊魂は、楽園の永遠なる至福の中であっても、地獄の永遠なる苦しみの中であっても、不滅であり続けるからです。
キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。なぜなら、私たちのために注がれた御血は、断罪するものとして私たちに降りかかるのではなく、恩寵を与える救いの泉として私たちに降りかかるものだからです。アーメン。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年4月2日
御受難節の第二主日または枝の主日
Dominica II Passionis seu in Palmis
英語版 Viganò’s Message on Palm Sunday
イタリア語版 Monsignor Viganò / Omelia nella Domenica II di Passione o delle Palme - Aldo Maria Valli