Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ラ・サレットのマリア様が涙ながらに訴えたのは主日を無視している事でした。その為に御子イエズスの手は重くなっている、と訴えました。

2021年09月29日 | お説教・霊的講話

2021年9月19日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

御説教の前にお知らせがあります。
来たる水・金・土は四季の斎日で、伝統的には聖伝によると大小斎を守る日でした。聖ピオ十世会の会員は大小斎を守りますけれども、皆さんにはその義務はありません。しかし、もしも一緒に大小斎を捧げたい、という方はどうぞ一緒になさって下さい。来たる水・金・土、四季の斎日です。

最後には、先日の9月15日、コロンビアのボゴタの修道院で働いておられた、まだ若い神父様、聖ピオ十世会の神父様、ユリアノ・デ・ソウサ(Juliano de Souza)神父様がお亡くなりになりました。どうぞその霊魂の為にお祈り下さい。また山形の信徒の方で、よく山形からこちらに来られていたミカエルさんも、今、癌でもう数日の命だ、との事です。お祈り下さい。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日福音でイエズス様は、ファリザイ人たちに問われました、「一番重大な掟は何か?」と。

「『全てを越えて、心を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。』これが最大で最高の第一の掟である。」(マテオ22:37-38)
私たちの主は、最大の、天主に対する愛の掟について思い出させて下さいました。

今日、175年前の今日9月19日、ラ・サレットでマリア様は同じような事を仰いました。フランスのラ・サレットというのは、本当に山の中にあって、人の誰もいないような寒村です。そこに二人の子供たち、メラニー・カルヴァと、マキシマン・ジローという二人の子供たちにマリア様がお現れになりました。そのマリア様の御現れになるその直前には、子供たちはお遊びをして、「天国」というものを作っていたのです。石で二階建ての家を作って、一階が人間の住んでいる世界、そして二階が天国だと遊んでいました。

すると、非常に太陽よりも眩しい光が近付いてきて、それに目を奪われると、その光が開いて、更にもっと美しい光がありました。その光の中には、非常に美しい女性の方が、高貴な御方が、今子供たちが作った天国の上に座って、天国に座して、そして両手で顔を覆って、非常に悲しんで苦しんでいるように、その御姿が見えました。光り輝いている美しい貴婦人でした。

子供たちがその方に気付くと、その方はマリア様は立ち上がって、子供たちに、「近寄っていらっしゃい。恐れる事はありません」と招かれました。

そこで子供たちがマリア様のすぐ近くに来ると、マリア様は目から涙をポロポロポロと流しながら、子供たちに訴えました。「御子の手は、非常に重くなっている。私はそれを支えていたけれども、もう支えきれないほど重くなっている。」

何を意味するかというと、「天主聖子はあまりにも世の罪によって犯されているので、侮辱を受けているので、どうしても正義によって罰をせざるを得ない、下さざるを得ない。しかしマリア様はそれを何とかして宥めて、お願いして、懇願して、それを食い止めている、今その瀬戸際だ。でも罪があまりにも重いので、手もあまりにも重くなって、もうマリア様でもどうしようもない。でもその人々は何も無関心でいる、という状態だ」という事をマリア様を仰るのです。

メラニーは後で手記を書いていて、そのマリア様のお言葉や、そのご様子を描いていますけれども、「母の、愛の母として、私たちに訴えられてこられたマリア様。このこれほど美しい、これほど良い、親切な、これほどのお母様が、涙を流しているのを見て、どうしてその慰めを、涙を流さないように自分ができる事をしないわけにいられるだろうか、と思った。そしてもう見れば見るほど、マリア様に吸い込まれて『お愛ししたい』という事でいっぱいになってしまった、何とかマリア様の為にしたい、と思った」と言っています。

「マリア様の胸には、イエズス様の御体が付けられた十字架がかかっていた」と言います。「ある時には、イエズス様は死んでおられるように見えて、ある時にはイエズス様は生きて、自分で自発的に十字架に付いておられるようだ」とも言っています。

そのマリア様が、「何故このように御子の手が重くなっているのか、その理由は二つある」と言います。「この二つの罪さえ何とかできれば、その罰から逃れる、軽くなる、何とかしてほしい」と。

それは、地球を汚すとか、あるいはプラスチックのリサイクルをする、とかいう話では全然ありませんでした。

マリア様が涙ながらに訴えているのは主日を無視している事でした。『主日を聖とする』という事を、人々は全く忘れている、労働をしている、自分の為に使っている、教会にミサに与りに来ない、その事の為に、この御子の手は重くなっている、と訴えました。

その次が、「冒瀆の罪」でした。

この175年前のマリア様の訴えは、特に現代ではますます当てはまると言わざるを得ません。特にミサが無視され、しかもミサを聖なるものとする、というよりは、御聖体が却って冒涜されたり、イエズス様よりも別のものが、人間が中心になっていたり、あるいは天主の礼拝よりも、自然環境が、あるいはその他の事が話題になっていたりしちるからです。ますます天主に対する直接の愛が横にやられ、天主を心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くし、精神を尽くして、全てに超えて主を愛する、という最高の第一の最大の掟がないがしろにされているからです。

その当時マリア様は、「収穫が無くなるでしょう。ジャガイモもブドウもみんな腐ってしまうでしょう」と仰いました。「飢饉が来るでしょう。食べ物がないだろう。子供が病気で死ぬだろう。そうやって償いを果たさざるを得なくなるだろう」と涙ながらに、「何とかしてこれを避けて欲しい」と訴えました。

私たちが何とかして苦しまないように、母の心でイエズス様を宥めて、宥めて、宥めて、祈りを捧げているにも関わらず、人類は私たちは、それをあまりにも軽々しく無視しているので、マリア様でももう支えきれない。

天主は私たちに七日の内に一週間の内に六日を下さいました。そして一日、御自分の栄光の為に、御自分の礼拝の為に、そして私たちの霊的な、そして肉体の健康の為に取っておかれました。「働く事はない」と、「私がお前を休ませよう。祝福しよう」と。

旧約の時代においては週の最初、天主聖父が全宇宙を、「光あれ!」と言って創造した、その最初の日でした。
また聖子イエズス・キリストが、超自然の命に、私たちに先駆けて復活された日でした。
また聖霊が降臨された日も、この週の最初の日、主日でした。

そして新約の時代からは、この主日が、聖なる日が、週の最初になりました。
「今後はこの主日を、聖なるものとしてミサに与って、イエズス・キリストからの多くの恵みを受けてほしい。」

ミサというものがどれほど高貴で、どれほど荘厳で、どれほど大切で聖なるものか、宝に、祝福に、御恵みに満ち溢れているものか、という事を、私たちは天国に行ったらびっくりするほど、「それほどだったのか!」という事を知った時に、感謝と讃美で永遠でも足りないほどのものが、私たちに主日にミサで与えられています。

何十億円の宝くじが当たるよりもものすごいものが、私たちの手に「さあ、さあ」と与えられようとしているのですけれども、残念な事に人類は「いやだ!」とそれを無視している、それこそが、イエズス・キリストとマリア様を悲しませる元となっているのです。

せっかくお母さんが、これほどの心を詰めて、子供の為にお弁当を作って、学校に行く前に、「さあ、今日この一週間、お小遣いとお弁当と、さあこれを持って、お前のみならず、その周りの全ての人々の為に十分なものを与える」と言うのにも関わらず、「いらない!」と言っているかのようです。

「主日にミサに与る事がどれほど大切か」という事を、マリア様は涙を流して話しておられます。

マリア様は今日も、おそらく涙を流されておられると思います。私たちはどうしたら良いでしょうか?何とかマリア様に、その御悲しみを慰めて差し上げる事はできないでしょうか?

もちろん今日このミサに与っていらっしゃる皆さんはその事をよくご存知で、だからこそ「万難を排しても、どうしても聖伝のラテン語のミサに与るんだ!」遠い所から何時間もかけて、そして予定をキャンセルして、毎週主日にミサに与っている事をもちろんよく知っています。

そしてもしもミサに与れない時には、公教会祈祷文の中にある「ミサに与るを得ざる時の祈り」を唱えて、ロザリオを唱えていらっしゃる方も、仕方がなくされて、心が苦しい思いを持っていらっしゃる事をよく知っています。

ですからこのようなお話は、皆さんではなくてその皆さん以外の方に本当なら言わなければならない話ですけれども、もしもお友達の中で、イエズス様ではなくて、「ああ、日曜日ぐらい、なんだ、俺の好きなようにしたい」という人がもしいたら、「ああ、どれほどもったいない事をしているか、どれほどイエズス様とマリア様を御悲しませしてるか」という事を教えてあげて下さい。

天主を、心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして愛する、その直接の事が、ミサによって行なわれます。ミサによって果たす事ができます。週の最初に祝福の充満を受ける事は、何と素晴らしい事でしょうか。

ラ・サレットのマリア様に今日はお祈り致しましょう。そしてマリア様の涙、悲しみの涙を、私たちも慰める事ができるように、この主日をますます良く聖化する事ができるように、お祈り致しましょう。
「マリア様、どうぞ私たちが、マリア様の御悲しみのその深い原因をよく理解する事ができますように。他の方々に代わって、ミサにも与れない全世界の人々に代わって、ミサを無視するような人々に代わって、私たちがミサを、主日を聖化する事ができますように。イエズス様とマリア様をお慰めする事ができますように。マリア様と一緒になって御子の手を支える事ができますように、微力ながらマリア様に協力する事ができますように、お祈りを、そして御恵みをお願い致します。」

何故かというと、もしも私たちさえも何もしないならば、どれほど大きな恐ろしいことが私たちに迫っているか分からないからです。しかしマリア様の憐れみと、マリア様の御力と、私たちに対する愛に信頼致しましょう。

皆さんの寛大なご協力と、「主日を聖化したい」というその望み、そして多くのお友達を、「聖化をするように、主日を大切に過ごすように」と誘って下さる事によって、ますますマリア様もお喜びになると信じております。

では、ラ・サレットのマリア様に祈りつつ、私たちが主を全てに超えてお愛しする事ができるように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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