Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「サタン!退け。主なる天主のみを礼拝して、主にだけ仕えなければならない。」「全世界を儲けても自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つだろうか。」

2023年08月09日 | お説教・霊的講話

2023年2月26日四旬節第一主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は四旬節第一主日です。

【大小斎】
お知らせがあります。来たる今週の水・金・土は四旬節の四季の斎日です。聖伝によると、大小斎を守る日です。義務は今ではなくなってしまいましたが、聖ピオ十世会の会員はこれを今でも義務として守っています。もしも、皆さんも一緒に大小斎を捧げたいという方は、どうぞ寛大に一緒にお捧げいたしましょう。

【復活祭の義務】
また復活祭の義務というものがあるのをお知らせしたいと思います。公教会の掟によると、年に一度、少なくとも年に一度、復活祭の頃に御聖体拝領をする、また年に一度、少なくとも年に一度、告白の秘跡を受けるというものがあります。特に告白は、四旬節の間に行うというのが教会の伝統的な習慣です。ですからぜひ四旬節の間に少なくとも一度告白をされて、すべての罪を赦されて、復活祭の時には良い聖体拝領をなさるようになさってください。復活祭の義務をよくお捧げするようになさってください。

【キリストは誘惑を受けた】
今日、四旬節の第一主日の福音では、私たちの主が荒れ野で四十日間断食をしたのちに、悪魔から誘惑を受けたということが読まれました。これは本当にあったことです。ですから私たちも、主がうけた誘惑について一緒に黙想いたしましょう。

【キリストは何故誘惑を受けたのか】
何故キリストが誘惑を受けたのかというと、聖トマス・アクィナスによると、主が誘惑を受けたのは、四つの理由からです。

一つは私たちを誘惑において助けるためです。なぜかというと、御自分の死で死に打ち勝ったように、御自分の受けた誘惑で私たちをして誘惑に打ち勝つことができるように、助けるためだからです。

第二の理由は、どれほど聖なる者であったとしても、聖徳の極みに達した者であっても、誘惑からけっして免れることはできないということを教えるためでした。

第三には、ご自分で誘惑に打ち勝って見せることによって、どのように誘惑に打ち勝つかを私たちに教えるためでした。

第四の理由は、主は御自身で誘惑にあった方ですから、誘惑を受けるということがどれほど辛いことかということをよくご存じです。ですから私たちのことを同情することができて、私たちが主の憐みにますます信頼することができるようにさせるためです。

以上の四つの理由のために主は誘惑を受けた、と聖トマス・アクィナスは説明しています。

同じ聖トマス・アクィナスによると、悪魔から来る誘惑というのは、誘(いざな)いの形をとると言っています。誘いの形というのは、人々の傾向によってさまざま違います。ですから、効果的な結果を得るために、悪魔は、聖徳に達した人にはすぐに大罪を犯させるような誘いはしません。小さな過失から誘惑して、徐々に大罪を犯すようにとさせるのです。人祖アダムとエバに対しても、このやり方をつかいました。

聖トマス・アクィナスによれば、まず、食べてはいけないと言われた木の実を食べることに同意させます。
次に、虚栄に同意させます。「おまえたちの目は開かれるだろう」と。
最後には傲慢へと誘惑します。「おまえたちは、善と悪を知り、天主のようになるだろう」と。悪魔は砂漠でイエズス・キリストにも同じやり方で罪へと誘惑しました。

【パンのしるし】
第一に、パンのしるしを使いました。イエズスは四十日の厳しい断食の後、体は疲れ、やつれ、弱り、お腹が減って、空腹に苦しんでいました。その前にサタンが現れ、誘惑するのです。「お前は腹が減っているだろう。あなたが天主の子なら、本当のメシアなら、この石がパンになるように命じてみろ」と。

サタンは「本当のメシアなら、救い主ならば、本当の天主の子ならば、旧約のすべての預言が成就する」ということを知っていました。パンのしるしが、旧約にはあります。
たとえば、サレムの――エルサレムの昔の名前です――サレムの王にして大司祭であるメルキセデクは、主にパンとブドウ酒を捧げました。この預言が成就すべきです。
あるいは、モーゼは、シナイの山で天主の十戒を受けるために、砂漠で四十日間断食をしました。この同じモーゼが、イスラエルの民を養うために天からのパン(マンナ)を食べさせました。この預言が成就しなければなりません。
あるいは、ダヴィドは神殿のパンを得て、力を得ました。この預言が成就しなければなりません。
預言者エリアは、天使からパンをいただいてそれを食べて後、四十日間何も食べずに断食します。これも成就しなければなりません。
イエズスが本当にメシアならば、このパンのしるしをしなければならない、奇跡を行わなければならない。「さあやってみろ。」「おまえはお腹が減っているだろう。石をパンにしてみろ。」

しかし、イエズスは断固として悪魔の誘いに乗りませんでした。
確かにモーゼは、天のマンナによってイスラエルの民を養いましたけれども、それは物質的なものを与えるためではなくて、ヤーベの天使の教えを教えるためだったからです。モーゼはこう言っています。
「天主はおまえたちを遜(へりくだ)らせ、おまえもその父たちも知らなかったマンナを食べさせてくださった。それは、人間とはパンだけで生きるのではなく、天主の口から出るすべてのものによって、生きるものであることを教えるためであった。」(第二法8:3)
つまり、マンナという物質的な食べものにこだわってはいけない。人間は、食べ物・この物質的なパンのために生きるのではなくて、主の御旨を果たすためにマンナが与えられたのだ。イエズス様は、モーゼと同じ言葉をサタンにかえし、サタンの誘惑を拒絶します。

主の御旨は、石が石のまま残ることでした。何故かというと、石というのは、償いと悔悛のしるしだったからです。なぜかというと、アダムの罪のために、この地は、石ころは、呪われました(創世記3:17)。罪のためにこの地はイバラを生みだすようになりました。罪の償いのためにイエズス様はこのイバラを冠としなければなりませんでした。罪のために、アダムは呪われて、これから人間は額に汗してパンを得なければならない、労働しなければならないといわれました。ですから、パンというのは償いを果たして後にようやく得なければならないのです。奇跡で得るものではありません。

イエズス様は、ゲッセマネの園で額に血の汗を流して、茨の冠で御頭から血を流して、私たちに特別のパンを与えようとしてくださいました。いったいこの特別なパンとはなんでしょうか。それは御聖体です。なぜかというと、イエズス様は岩だからです。モーゼは、荒野で人々に岩を打ってその岩から湧き出る水によって、人々に飲ませました。聖パウロは言っています。「かれらはついてきた霊的な岩から飲んだが、その岩はキリストであった。」(コリント前10:4)

つまり、イエズス様は、イエズス・キリストは、償いと悔悛の犠牲をささげるべき祭壇石です。このうえで生け贄が捧げられるべき石・岩なのです。ですから岩は岩として残らなければなりません。祭壇は祭壇として残るべきです。祭壇が食卓になってはいけません。ミサ聖祭は十字架の生け贄の再現として残らなければなりません。食卓を囲む集会になってはなりません。

イエズス様はサタンが誘ったよりももっと偉大な奇跡を行います。それは岩であるイエズス様が、こう宣言しています。「私は天から下った生けるパンである」と。パンを増加させて何千人もの人々に食べさせます。最後にはご自分の体を御聖体にします。つまりパンをご自分の肉体に変えさせて、砂漠のようなこの世に生きる私たちを、生ける天からのパンで、御聖体で養おうとします。これこそが、主が望んだパンの印であって、主のみ旨でした。これをするためにイエズス様はサタンの誘惑を拒みます。人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての御言葉によって生きる。私は主の御言葉だ。私の御言葉・私の御聖体によって生きる。

【芸術家のノミに身を任せるような石ころのような被造物】
イエズスは、さらにこう誘惑を受けます。「もしもあなたが天主の子なら、この高い神殿から身を投げよ、そうしたら天主はあなたを救うだろう。聖書にそう書かれてある。聖書が実現する。みんながすごいというだろう。」「人々の目は開かれるだろう」虚栄心をそそります。

すると、イエズス様はもう一度モーゼの言葉を引用します。モーゼはこう言っていました。
「主なる主を恐れ、敬い、その名によって誓いをせよ。他の民が拝むような神々を拝むな。おまえたちの中に住まわれる主は、嫉妬深い天主であるから、そのようなことをするなら、天主の怒りは燃えるだろう、地の面からおまえは消し去られるに違いない。主を試みてはならない」(第二法6:13-16)

私たちは石ころです。土であって、塵であって、また塵に戻るべき罪人です。もしも私たちが、主の御姿に倣って、天国に行くのであれば、本当の幸せを受けるのであれば、主のみ旨を果たさなければなりません。ちょうど土くれ・粘土が、壺造りの職人の手のままにろくろで回されてその通りになってこそ、立派な芸術品となるように。また、石ころでも芸術家のノミが打つままにまかせると、それが立派な芸術作品になるように、私たちも主のみ旨のままにこの身をまかせなければなりません。ちょうどマリア様が仰ったように「われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし。」といわなければなりません。

ですから、主のみ旨を果たすことにこそ、私たちの本当の完成があるのであって、何をしてでもいいんだ、跳び下りてもいいんだ、ではないということです。

つまりもしも誰かが私たちに「私たちは何をしても天国に行く。地獄はない。あっても空だ」といっても、信じてはなりません。私たちが何をしても主が助けてくれる、いつくしみのキリストだ、と言っても、掟を忘れて自分の思う通りのままにしては、私たちは主を試みることになります。

【天主のみを礼拝する】
最後に主は、更に試みを受けます。今度はもっとひどいものです。全世界を見て「これはすべては私のものだ、だからお前は私を礼拝せよ。」悪魔は言います。「そうしたらすべてを教えるお前のものにあげよう。」

するとイエズスはそれを聞いて「サタン!退け。主なる天主のみを礼拝して、主にだけ仕えなければならない。」そして一切対話を断って、サタンを追い払います。

もしも誰かが私たちに「なにかをしたら、罪を犯したら、この世で利益があるよ、全世界を儲けることができるよ」と言ったとしても、私たちはそれに聴いてはなりません。なぜかというとそれは嘘だからです。イエズス様と同じように「サタン退け」と言わなければなりません。イエズス様はこう仰います。「全世界を儲けても自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つだろうか。」

【聖木曜日】
イエズスは御父に従順に従います。ついには聖木曜日つまり、今から四十日後、パンをご自分の体に変えて、そして世の終わりまで、私たちを養わせようと、ご自分の体で養わせようとされました。これこそが主の御み旨でした。ご自分の空腹を満たすために、石をパンに変えるのではなくて、岩であるご自分を生けるパンとして私たちを養うために聖変化させることが御父のお望みでした。これを世の終わりまで続けることがお望みでした。

もしも私たちがイエズス・キリストの弟子となろうと思うのならば、人はこの世のことだけで生きているのではない、天主の御旨を知り、それを果たして、そうすることによって、天主ともに天国に行くことができる、永遠のいのちを生きるために生きているのである、ということを私たちも知らなければなりません。

【遷善の決心】
では今日四旬節のよい遷善の決心を立てましょう。四旬節は主の断食を真似ることにあります。教会が定めたやり方でそれに私たちを合わせることにあります。主が定めたものであるからこそ、み旨にかなうものであります。価値があります。ちょうど、旧約の時代がすべて、イエズス様を現すイメージだったように、私たちもイエズス様に倣えば倣うほど、私たちの行為に価値が永遠の価値が生まれ出ます。どうぞこの四旬節の間、ミサ聖祭によく与るようになさってください。イエズス・キリストこそが、私たちのためにパンとなった岩です。

イエズス様は、聖ペトロにこう言いました。「目覚めて祈れ、なぜならば、精神は逸(はや)っても、肉体は弱い。誘惑に陥らないように目覚めて祈れ。」

この四旬節をよくすごすことによって、祈りと犠牲とによって過ごすことによって、私たちは誘惑に打ち勝つことにしましょう。マリア様にお祈りしましょう。私たちがよい四旬節を過ごすことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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