2023年3月4日四旬節の四季の土曜日 修道院での説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は四旬節の四季の土曜日ですが、初土曜日でもあります。
今日ミサの直後に御聖体降福式をして、初土の信心をいたしましょう。
今日は福音では、主が御変容をされた様子が読まれました。
ペトロとヤコブとヨハネの前で高い山に登って、タボル山に登って、姿が太陽のように変り、服は雪のように変ります。それは、弟子たちの信仰を強めるためでありました。また、弟子たちの希望を失わせないためでした。特に、これから主が受難を受けなければならない、その時に決して彼らが希望を失ってはならない、というためでした。
ちょうどこの三人はゲッセマニの園にいるときにも選ばれる人々でした。
ゲッセマニの園とタボル山とでは非常に共通点があると、教父たちは指摘しています。この二つの場所で、主は祈られた。この二つの場所で、主は変容された、一つは栄光の姿に、一つは苦しみの姿に。御変容の時も、三人の弟子たちが選ばれた。また同じゲッセマニでも、同じ三人が選ばれた。御変容では、主はモーゼとエリヤとがご出現を、ゲッセマニのときには天使たちが、主を支えた。それをこの御変容の時に、聖ペトロはあまりにすばらしいので主のために幕屋を作ることを提案します。またモーゼとエリヤの姿も非常に栄光に満ちていたので、主の栄光のようだったので、三つの幕屋を作ろうと提案しました。
聖アウグスチヌスによると、聖ペトロはここですこし賢明さが足りなかった、と指摘しています。
なぜかというと、モーゼとエリヤの栄光というのは、イエズス様が持った栄光を持っているのであって、つまりイエズス様がいたからこそ栄光があるのであって、それ以外には何もないからだ。もしもモーゼが、栄光に満ちているのならば、それはイエズス・キリストの前兆であって、イエズス・キリストに似通ったものであったから、イエズスに似通れば似通るほど栄光があった。エリヤも同じだ。
もしもイエズス様と離れてしまっては、彼らには栄光などはなかった。使徒たちも同じだ。使徒たちも、イエズス・キリストの弟子であるから、イエズス・キリストの教えを教えるから、イエズス・キリストの権威を持っているからこそ、栄光があるのであって、それ以外では何もない。
だから、造るべき幕屋はイエズス・キリストだけがお持ちであるべきだろう、と聖アウグスチヌスは言っています。
では私たちも、四旬節の中に深く入ることに致しましょう。もしも私たちが、四旬節に祈りと犠牲を捧げるならばそれはイエズス様のように復活の栄光を受けるためです。私たちがイエズス様に似通ったものになればなるほど、より多くの栄光を受けることができます。マリア様に、ぜひこのお恵みを請い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。