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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : A「シノダリティ」

2024年01月24日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」
10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

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第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。

国際神学委員会によれば、「シノダリティ」という名詞は最近作られたものであり、第二バチカン公会議文書や教会法典には出てこない「新しい言葉」です。同委員会によれば、教会の新しいモデルの文脈において、「シノダリティは、天主の民である教会の具体的な生活様式であり、そのすべての成員が共に旅し、集会に集い、福音宣教に積極的に参加するときに、交わりとしての教会の存在を明らかにし、その実体を与えるものです」(24)とのことです。

教皇フランシスコによれば、「シノダリティは、教会の本質、形態、様式、使命の表現です」(25)。したがって、シノダリティは「教会の構成要素」(26)とされています。

11.シノダリティは何を求めていますか。

シノドス推進派は、教会生活におけるすべての信者の参加と共同責任を高めることがシノドスにとって適切であると主張します。シノドス事務局によって作成された「シノダリティに関するシノドス」のための「ハンドブック」(Vademecum)が述べているように、「シノダリティの道は、天主の民の生きた声に根拠を置きながら、天主の意志をできる限り忠実に反映した司牧的決定を行うことを目指すものです。…シノダリティは、司牧者に対し、その世話を委ねられている群れに注意深く耳を傾けるよう求めています」(28)。

12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

共同体全体の声に耳を傾けるということは、教会における権威の改革を意味します。教皇フランシスコによれば、教会のピラミッド構造を逆転させなければなりません。「この教会では、逆ピラミッドのように、頂点は底辺の下にある」(29)とされます。

司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿はこう言います。教皇フランシスコは、

「位階的権威の「逆ピラミッド」のイメージの生き生きとした刺激的なモデルを提供しました。アマンダ・C・オズハイムがこう正しく観察しています。「反転したピラミッドとしての位階的権威が、教会の古いピラミッド型受胎、すなわち聖霊がまず教皇と司教に、次に聖職者と修道者に、そして最後に信者に与えられるというトリクルダウンの教会の経綸を逆転させる。…このピラミッドは、教会を事実上、教導教会(ecclesia docens)と聴従教会(ecclesia discens)に分けた。ピラミッドを反転させることで、フランシスコの類推は、権威を、教会内で他者に耳を傾け、他者から学ぶという受容に依存するものとして捉え直したのである」(30)。

教会における権威をこのように民主的に再定義することで、「聖職者主義という災いを克服する」ことが可能になるはずだとされています。なぜなら、「私たちは皆、互いに依存し合っており、聖なる神の民の中で平等な尊厳を分かち合っている」はずだからです(31)。

B 「耳を傾けること」

13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。

すでに述べた「ハンドブック」では、聞くという言葉が102回も登場します。信者の声については83回言及されていますが、天主の言葉については19回しか言及されていません。

バチカンのウェブサイトに掲載されたインタビューの中で、マリオ・グレック枢機卿は次のように述べています。

天主の民の声に耳を傾けることによって――これが特定の教会における意見を求めることの目的です――聖霊が教会に対して行っておられることを私たちが聞くことができるということを、私たちは知っています。このことは、教会の行く末を決めるのは天主の民であるという意味ではありません。天主の民全体(司牧者を含む)の預言的機能には、司牧者の識別という任務が対応します。天主の民が語ることから、司牧者は聖霊が教会に何を語ろうとしているのかを把握しなければなりません。しかし、天主の民の声に耳を傾けることから、識別は始まらなければなりません(32)。

14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。

確かに、良き牧者は羊に寄り添い、羊の霊的な状況や願望に耳を傾け、理解しなければなりません。しかし、今日の「耳を傾ける」とは、羊と同調する義務を意味しています。評価基準は、啓示された真理や良心の高潔さではなくなり、信者の願望を受け入れることになります。

15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。

現代的な「耳を傾ける」の視点に立てば、教会は、司牧者たちの声を通してキリストの教えを伝える母にして教師であることをやめ(「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」―ルカ10章16節)、これまで議論の余地がないと考えられてきた真理を疑うことを恐れず、耳を傾け、対話し、質問する教会となります(33)。「傾聴は最初の一歩であるが、それには開かれた心とマインドが必要である」と「ハンドブック」は述べています(34)。「傾聴への第一歩は、心を偏見や固定観念から解き放つことです」(35)。さらに、「シノドスの過程は、既成の答えやあらかじめ決められた判断に頼ることなく、真正面から耳を傾けるために自らを開く機会を私たちに与えてくれます」(36)。

上に引用した文章の中で、グレック枢機卿は、司教の識別は、天主の民の言うことが天主の啓示が教えることと一致しているかどうかを確認することではなく、その逆であることを確認しています。司教の識別とは、天主の民の言うことを、聖霊の言葉として認識することとされているのです。

カトリック教会は常に逆の立場から出発してきました。啓示と聖伝によって知られる信仰の真理を土台として、それを時代と場所の状況に応じて具体的な生活に適用し、人々を永遠の救いへと啓発し導いてきました。「シノダリティに関するシノドス」は、その逆に向かっています。具体的な状況から出発して、それに適応した司牧方針と規律を練り上げるのです。このような方法は、啓示された真理から出発するのではなく、教会が適応すべき具体的な歴史的状況から出発する歴史主義的観念を前提としています。

16.民の声は天主の声ですか。

必ずしもそうではありません。教会では、「民の声」(vox populi)という表現は、多数派の声が必ず善であるという、現代の民主主義国が提示している意味とはまったく異なる意味を持ちます。この点について、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿は次のように語っています。

すべての信者が教会の預言職、王職、司祭職にあずかることは、父と子と聖霊の御名による洗礼に秘跡的に基づくものであり、民主国家の政体体制のように国民から発する権力に基づくものではありません。司教、司祭、助祭の役務は、キリストの権威に基づいています。…歴史上、民の訴えの声はむしろ両義的でした。アテネの民はしばしば哲学者に腹を立て、民主的にソクラテスに死刑を宣告しました。
天主の民は主に対して繰り返し不平を言いました。…ピラトは冷笑的にイエズスにこう言いました。「あなたの国の人と司祭長たちが、あなたを私に渡したのだ」(ヨハネ18章35節)。一方、新約では、メシア的な天主の民の特徴は、キリストの司祭職を共有していることからすべての信者が天主の言葉に耳を傾け、叙階された司教と司祭が、教会のかしらであるキリストのペルソナにおいて、司祭的な民を聖化し、導き、教えるという事実にあります(37)。

17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか。

教皇フランシスコ、シノドス主催者たち、そしてその準備文書は、「信者全体は、…信仰の問題において誤まり得ません。この特徴は、超自然の信仰の感覚(sensus fidei)に示されています。…これが、有名な言葉、『〈信仰するにおいて〉(in credendo)不可謬』というものです」(38)と「吐き気を催すまで延々と」(ad nauseam)主張しています。

彼らはこのような発言をどのように神学的に正当化しているでしょうか。

2011年から2014年にかけて、国際神学委員会(ITC)は信仰の意味に関する研究を行い、その結果、「Sensus fidei in the Life of the Church」(教会の生活における信仰の感覚)という文書を発表しました。

この研究は、信者の信仰の感覚のことを、「自然的、即座的、自発的な反応であり、信者が信仰の真理に適合するものに自発的にしがみつき、それに反するものを敬遠するという、生命本能あるいは一種の『天賦の才能・直観的識別力』に匹敵するもの」(54番)と説明しています。この霊的本能は、「信仰の徳が、信じる主体と、信仰の真正な対象、すなわち、キリスト・イエズスにおいて啓示された天主の真理との間に確立する親和性(connaturality)に」(50番)由来するとされます。

この感覚は、「その対象、すなわち真の信仰に関しては、それ自体不可謬」(55番)とされます。しかし、すべての信者が不可謬なのではない、なぜなら、一方では、この感覚の発展は信仰の徳の発展に比例するからであり、そのため、それは各人の生活の聖性に比例する(57番参照)、さらに、現実の世界では、信者の直観は、純粋に人間的な意見や、文化的背景により広まった誤謬とさえ混ざり合うことがある、とされています。

このため、ITCの文書は、教理省の宣言「Donum veritatis」(真理の賜物)の35段落を引用して、急いで付け加えています。「神学的な信仰にそのようなものはあり得ませんが、信者の考えはすべて信仰に由来するというわけではないため、信者は依然として誤った意見を持つことがあり得ます。天主の民の間で流布しているすべての考え方が信仰に適合しているわけではありません」(55番)(39)と。

18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。

唯一の確実な方法は、レランスの聖ヴァンサンのルールを適用することです。それは常にどこでも、すべての人によって信じられてきたもの(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus)は不可謬である、というものです。これは教会の聖伝の教理です。「信者の感覚」(sensus fidelium)とは、ある瞬間に信者や司祭が考えていることではなく、何世紀にもわたり、世界中で、司教と信者の最後の一人までの総意です」と、元英国国教会の主教で、現在はカトリック司祭であるナジール=アリ神父は説明しています(40)。

それゆえ、ある新奇なものに関する信者の意見が、いつでも不可謬であると考えるのは軽率です。そして、聖霊が今日の教会に何を伝えたがっておられるものが何かを知るために、深く根差した信仰を持つ高潔な人々、洗礼を受けたすべての人々、さらには他の宗教を実践している人々や無神論者にまで意見を求める必要があると考えてしまうのは、さらに無謀なことです。

19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。

シノドス主催者は、無神論者の声を聞くことを含め、可能な限り広く耳を傾けるよう呼びかけています。

洗礼を受けたすべての人々は、ともに、天主の民の生きた声である「信者の感覚」(sensus fidelium)の主体です。同時に、識別の行為に完全に参加するためには、洗礼を受けた人々が、信仰の実践から離れた人々、他の信仰伝統の人々、無宗教の人々など、それぞれの地域の文脈にある他の人々の声を聞くことが重要です。…
…私たちは、教会から離れた人々、ほとんどあるいはまったく信仰を実践していない人々、貧困や疎外を経験している人々、難民、排除された人々、声なき人々など、周縁の人々に個人的に接触しなければなりません(41)。

20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。

ナジール=アリ神父はこう警告しています。「意見を聞かれた人々は、カテキズムを受ける必要があります。そうでなければ、私たちが得られるものは、人々を取り巻く文化を反映したものだけでしょう」(42)。

シノドスで提示された提案の多くは、現代の傾向を反映しています。国際神学委員会は、新たな教会的風潮は「社会を動かすすべての市民の参加に関する現代意識の高度な要求をより注意深く見極めること」の成果であると述べており、このことを認めています(43)。

21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

いいえ。それでは冒涜的な操作になってしまうでしょう。スヘルトーヘンボスの補佐司教であるロベルト・ムツァーツ司教は次のように述べています。「現在までのところ、シノドスの過程は社会学的な実験のようなもので、聖霊がそのすべてを通してご自身の声を聞かせるということとはほとんど関係がありません。それはほとんど冒涜と言えるかもしれません。明らかになりつつあるのは、シノドスの過程がいくつかの教会の立場を変えるために利用され、聖霊が擁護者としてその論争に投げ込まれるだろうということです。たとえ聖霊が何世紀にもわたって直感に反することを息吹いてこられたとしても、です」(44)。



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