【参考資料】再作成してローマ教皇に提出した Dubia (2023年8月21日付)
Reformulated Dubia
フランシスコ教皇聖下
教皇聖下、
私たちは、聖下が私たちに提供しようとお望みになったお答えにとても感謝しております。私たちが最初に明確にしたいと思っておりますことは、私たちが聖下にこのような質問をいたしましたのは、私たちが生きる現代の人々との対話を恐れてのことでも、キリストの福音について彼らが私たちに質問することを恐れてのことでもないということです。実際、私たちは、聖下と同様に、福音が人間の生活に充満をもたらし、私たちのあらゆる質問に答えてくれると確信しております。私たちを動かす懸念は、それとは別のものです。私たちが懸念しておりますのは、福音が人の心を変容させる能力を疑い、もはや健全な教理ではなく「耳に快い教え」(ティモテオ後書4章3節参照)を提案することに終始する司牧者たちがいるのを見ていることです。私たちにはもう一つ懸念があります。天主の御あわれみとは、私たちの罪を覆い隠すことにあるのではなく、それよりもはるかに偉大なこと、つまり、私たちが天主の掟を守ることによって天主の愛にお応えできるようにさせてくれること、すなわち、私たちが「悔い改めて福音を信じる」(マルコ1章15節参照)ことができるようにさせてくれることにある、と私たちが理解することです。
聖下が私たちにご回答くださったのと同じ誠意をもって、私たちが付け加えなければならないのは、聖下のご回答が、私たちが提起した疑問を解決しておらず、どちらかといえば疑問を深めていることです。ですから、私たちは、ペトロの後継者として、兄弟たちを信仰において固めるよう主から使命を受けておられる聖下に対して、これらの質問を再提出し、再整理しなければならないと感じております。まさにこのことが、今度のシノドスの観点から言えば、もっと緊急を要することです。多くの人々が、私たちの「dubia」(質問)が懸念しているまさにその問題について、カトリックの教理を否定するためにこのシノドスを使おうと望んでいるのですから。それゆえ、私たちの質問を、簡単に「はい」か「いいえ」でお答えいただけるようにして、聖下に再提出させていただきます。
1.聖下は、教会が信仰の遺産についての理解を深めることができると主張しておられます。これは確かに「啓示憲章」(Dei Verbum)8条が教えていることであり、カトリックの教理に属するものです。しかし、聖下のご回答は、私たちの懸念を捉えてはおりません。司牧者たちや神学者たちを含む多くのキリスト信者は、私たちの時代の文化的かつ人間学的な変化は、教会が常に教えてきたこととは正反対のことを教えるよう、教会を後押しすべきだと主張しております。このことは、信仰告白、秘跡を受けるための主観的条件、道徳律の遵守といった、私たちの救いにとっては、二次的な問題ではなく本質的な問題に関わるものです。
ですから、私たちの「dubium」(質問)をこう言い換えましょう。教皇の「教皇座宣言」(ex Cathedra)によるにせよ、公会議の定義によるにせよ、世界中に散在している司教たちの通常の普遍的教導権によるにせよ(「教会憲章」[Lumen Gentium]25条参照)、信仰と道徳の事柄において、今日の教会が、教会が以前に教えてきたことと反対の教理を教えることが可能なのでしょうか。
2.聖下は、結婚と他の形態の性的な性質を持つ結合との間に混同があってはならず、それゆえに、そのような混同を生じさせるような同性カップルの儀式や準秘跡の祝福は避けるべきであるという事実を主張しておられます。しかし私たちの懸念は、それとは異なるものです。私たちが懸念しておりますのは、同性カップルの祝福が、結婚に類似しているように思わせるだけでなく、同性愛の行為が実質的に一つの善として、あるいは、少なくとも天主が人々に天主への旅において求める善の可能性のあるものとして提示されるのではないかという点で、いずれにしても混同を生み出す恐れがあるということです。
ですから、私たちの「dubium」を言い直しましょう。状況によっては、司牧者が同性愛者同士の結合を祝福し、同性愛の行為が天主の法やその人の天主への旅に反しないかのようにほのめかすことは可能でしょうか。
この「dubium」と関連して、もう一つの「dubium」を提起する必要があります。普遍的な通常教導権が支持する教え、すなわち、結婚外のあらゆる性的行為、特に同性愛の行為は、それが起こる状況やそれが行われる意向にかかわらず、天主の法に反する客観的に重大な罪を構成するという教えは、有効であり続けるのでしょうか。
3.聖下は、信徒を含むすべての人が参加し、声を上げるよう求められているという点で、教会にはシノドスの次元があると主張してこられました。しかし、私たちの困難は別のところにあります。今日、これからの「シノダリティー」に関するシノドスは、教皇との交わりにおいて、あたかも教会の最高権威を代表するかのように提示されています。しかし、司教シノドスは教皇の諮問機関であり、司教団を代表するものではなく、シノドスの決定を批准する義務を負うローマ教皇が、場合によってはシノドスに決議権を明示的に付与しない限り(教会法343条を参照)、シノドスで扱われる問題を解決することも、それに関する教令を発することもできません。これは、次のシノドスが提起しようとしているような、まさに教会の構造そのものに触れるような問題に司教団を関与させないということは、まさにシノドスが促進させたいと主張しているシノダリティー【共に歩むこと】の根幹に反することになるという点で、決定的なポイントです。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い換えましょう。牧者や信徒の中から選ばれた代表者だけしかいない、ローマで開催される司教シノドスは、自らを表現するよう求められる教義的あるいは司牧的な事柄において、独占的にローマ教皇および「かしらとともに」(una cum capite suo)司教団に属する教会の最高権威を行使するのでしょうか(教会法336条を参照)。
4.ご回答の中で、聖下は、聖ヨハネ・パウロ二世の「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)での決定が確定的に保持されるべきものであることを明確にされ、また、司祭職を権力という観点ではなく、奉仕という観点で理解することが、司祭職を男性のみに限定するという主の決定を正確に理解するために必要であることを正しく付け加えられました。他方で、ご回答の最後の点で、この問題はまだ検討の余地があると付け加えられました。私たちは、この発言によって、この問題がまだ決定的な形で決定されていないことを意味すると解釈する人がいることを懸念しております。実際、聖ヨハネ・パウロ二世は「オルディナーチオ・サチェルドターリス」の中で、この教理は通常の普遍的な教導権によって不可分に教えられてきたものであり、したがって、この教理は信仰の遺産に属するものであると断言しています。これは、この使徒的書簡について提起された「dubium」に対する教理省の回答であり、この回答はヨハネ・パウロ二世自身によって承認されました。
ですから、私たちの「dubium」を再定義しなければなりません。つまり、教会は将来、女性に司祭叙階を授ける権限を持つことができるのでしょうか。そうする結果として、叙階の秘跡が洗礼を受けた男性だけに独占的に留保されることが、叙階の秘跡の本質そのもの――これについて教会は変更することができない――に属していることに、反することになるのではないでしょうか。
5.最後に、聖下は、トリエント公会議の教えを確認されました。この教えによれば、秘跡による赦しが有効であるためには、もう二度と罪を犯さないという決意を含む罪人の悔い改めを必要とします。そして聖下は、天主の無限の御あわれみを疑わないよう、私たちを招かれました。私たちの質問は、天主の御あわれみの偉大さを疑うことから生じているのではなく、逆に、この御あわれみがあまりに偉大であるがゆえに、私たちは天主に立ち返り、罪を告白し、天主の教えに従って生きることができるのだという自覚から生じているのだということを、改めて申し上げたいと思います。次に、罪の告白と悔い改めが暗黙のうちに含まれている可能性がある以上、単に告白に近づくことが赦しを受けるための十分な条件であると、聖下のご回答を解釈する人もいるかもしれません。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い直したいと思います。罪を認めながら、二度と罪を犯さないという意向をいかなる形でも拒否する悔悛者は、秘跡による赦免を有効に受けることができるでしょうか。
2023年8月21日、バチカン市にて
Walter Card. BRANDMÜLLER Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿 レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿 ロペール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿
この写しはルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿猊下(イエズス会)にも送った。