Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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2018年12月25日 主の御降誕の大祝日(日中のミサ)説教・大阪 「なぜ天主は人となられたか?」

2019年04月06日 | お説教・霊的講話
2018年12月25日(火)主の御降誕の大祝日 日中のミサ(大阪)
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の大祝日を祝っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では今日の御降誕のミサで私たちは、イエズス様の、「真の天主が人となった」というこの神秘の黙想を続ける事に致しましょう。

今日特に私たちの黙想を続けたいのは、天主が、私たちを愛するが為に人となった、そのことです。

その愛の極みのあまり、その愛の狂気のあまり、狂ったかのような愛は、私たちを幸せにする為に人間となったばかりか、幼子となったばかりか、奴隷のようにくるまって、動けなくなったのです。

そればかりか、か弱くなったばかりか、更に私たちの為に、罪が無かったにもかかわらず、聖なる者であるにもかかわらず、汚れの無い者であるにもかかわらず、私たちの全ての罪を身に負って、あたかも罪人であるかのようにお生まれになりました。

この愛の極みを、私たちは今日黙想をする事を提案します。

この地上に私たちが生まれてきた目的は一体何でしょうか?何で私たちはここにいるのでしょうか?

それは、「永遠の幸せを受ける為」です。「天主と共に永遠の至福に与る」という為に、私たちは創造されました。そしてこの世に生まれてきました。

それに反対するものは唯一あります。それこそが私たちにとって唯一の悪です。それは「罪」です。

なぜかというと、罪を犯す事によって、創造の目的が達成されなくなるからです。私たちは天主に対して戦いを挑み、戦争を起こして、そして天主の御稜威を崩壊させようとするのです。そして私たちの戦争は必ず負けます。私たちは必ず敗北するに決まっているのです。たとえ勝っているかのように見えても、たとえ天主の創造の秩序を破壊したと思ったとしても、人類の科学が、あるいは知識が、技術が、医学が、天主の創った秩序と法に逆らい、成功を収めたとしても、結局不幸になって、負けて、そしてそれに対して何も抵抗ができない、という事を悟り、そして結局は傷付き、自分たちも傷付き、そして天主をも傷付けて、永遠に不幸になるのは人類です。

「罪を犯す」という事だけが唯一の悪です。唯一の惨めです。哀れな状態です。そして罪を犯す事によって、まず何よりも、天主の御稜威を傷付けます。天主に対してものすごい負債を負う事になります。

私たちは天主に対して償いを果たさなければなりません。しかしその償いは、私たちにとってとても払いきれるものではありません。私たちの中でどれほど聖なる人がいたとしても、払う事ができません。何千人何百人何億人という良い義人が償いを捧げても、祈りと犠牲を捧げたとしても、全く足りません。たった1つの罪さえも、贖うに足りません。大天使であっても、天の全ての天使たちが集まって、私たちの為に何かをしても、足りません。私たちはもはや、既にどうしようもなく、永遠の苦しみを以て償うしか、永遠の滅びを味わうしか、もう既にやる方法がなかったのです。

しかし天主の正義は、そして天主の憐れみは、私たちの想像をはるかに超えるほどの偉大なものでした。愛に満ちたものでした。そして何と、天主の正義と憐れみは、一つになりました。「正義と平和は接吻をした。“justitia et pax osculatae sunt.”」と詩篇にあります。

私たちの主は、私たちの代わりに、全ての罪の償いを自分の身に負って、罰を身に負って、お生まれになりました。イエズス様の御誕生のその直後から、この地上での生活を、十字架の上で終えるまで、苦しみと、殉教の、十字架の連続でした。

イエズス様の泣き声は、赤ちゃんとしての泣き声は、そしてイエズス様のお受けになる全ての傷は、私たちに叫んでいます。

「私たちを愛している。私たちの全ての罪の償いを私にくれ。私はその引き換えに、お前たちに喜びと幸せを与えよう。罪の赦しを与えよう。」イエズス様の唯一の望みは、私たちが全ての罪の負債を赦されて、天国に行く事でした。幸せになる事だけです。

天主が、私たちの代わりに罪のいけにえとなる為に、お生まれになりました。これが天主の正義です。これが天主の平和です。

この事を思うと、私たちの黙想は更に進みます、「この世の人々の考えているものと、イエズス様の考えている事は、全く違う」という事です。

この世の人々は、「お金が簡単に入って、楽な生活をして、面白おかしく、美味しいものを食べて、気楽に生活するのが、祝福された事だ」と言っています。「天主から愛されている事だ」と思っています。そしてもしも何か辛い事があると、不平不満を言いますけれども、しかし天主様から聖父から愛された聖子、洗礼を受けた時に天主聖父は言います、「この、これこそ私の愛する子。私の心の気に入る子である」と。その聖子は、十字架の、苦しみの人生を送りました。

天主から愛されたマリア様も、罪の無かったマリア様も、天主から愛された選ばれたダヴィドの王の末の聖ヨゼフも、苦しみと十字架の生活を送られました。

天主の考えと、私たちの考えは、どれほど違う事でしょうか。
「心の貧しい人は幸いである。なぜなら、天の国は彼らのものであるから。」
「柔和な者は幸いである。なぜなら、彼らは地を受け継ぐから。」

イエズス様が十字架に付けられようとする時に、「聖父よ、」その最後の晩餐の時に言います、「聖父よ、子に栄光を現して下さい。」すると「私はお前に栄光を現した。更に栄光を現そう」と言います。その「栄光を現した」というのは、どうだったのでしょうか?

「十字架に付けられる事」でした。何という栄光でしょうか。

この世の人は、他の人が何か私の車よりも良い車を持っていると、「あぁ、何で私よりも良い車を持っているのだ。」「あぁ、何でこの人は私よりも成績が良いのか。」「何でこの人は…」と、妬みや嫉妬をするかもしれません。

しかし、イエズス・キリストの私たちへのメッセージは違っています、「天主は、永遠の昔から、私たちを一人一人愛しておられる」という事です。「私たちに一番良いものを与えておられる」という事です。そして「私たちにとって最も大切な贈り物は、この天主の愛だ」という事です。

ですから私たちは、これほど主から愛されているので、他の人がどうであろうとも、私たちが苦しみを受けよう、他の人が苦しみを受けていないとしても、私たちにはただ、主からの「愛されている」という愛を受けて、それを信じているので、いつも幸せです。できればこの幸せが他の方にも伝わりますように。私たちにとってあるものは、喜びと、平和と、幸せです。

もしも隣人が私たちに悪をしたら、例えば殉教者がそうでした、悪を受けたらどうでしょうか?

私たちの祖先の殉教者たちは、「損害賠償だ!治療費を出せ!復讐をする!」としたでしょうか。いえ、そうではなく、主から私たちは多くの負債を赦されているので、隣人の負債を喜んで許そうとしました。

「もしも、」イエズス様の教えたものは、非常に私たちの普通考える事とは違っています。もちろん「この精神を持て」という事ですが、「左の頬を打たれたら、右の頬を出せ。」「もしも上着を欲しいと言ったら、下着もあげよ。」「誰か強制して1000歩あるかせたら、2000歩あるけ。」「悪をする者に抵抗するな。」

なぜかというと、私たちには1つ確信があるからです、「主は、私たちを愛しておられる。私たちの幸せをのみ考えて下さっている。」ですから、「私たちは何も心配する事がない」という事です。

その私たちを愛して、愛の極みであるイエズス様が、今日生まれになりました。このイエズス様の心が、この愛が私たちに満たされますように、お祈り致しましょう。

「マリア様、今まで私たちの心は、イエズス様の精神をよく理解できていませんでした。私がイエズス様の心を理解する事ができるように助けて下さい。またこの優しいイエズス様の心を理解する事ができるように助けて下さい。多くの人が、そのイエズス様を受け入れる事ができますように、そして本当に幸せになる事ができますように。」

イエズス様は私たちに何も要求しません。ただ要求するのは、イエズス様を信じて、お愛しする事です。この「光は闇に輝いたが、闇はこれを受け入れなかった」とあります。願わくは、多くの方が、真の光を受け入れる事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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