2024年4月28日 御復活後第四主日 東京10時半ミサ 説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、復活後第四主日です。
教会はわたしたちの主の口を通して、主のご昇天とまた聖霊降臨の準備をしようとしています。
今日の福音では、主はわたしたちに何をおっしゃろうとしているのでしょうか?よく理解することができるように、聖トマス・アクィナスが何と解説しているかを御紹介したいと思っています。
主は、立ち去ること、昇天されることを予告して、そして、聖霊を送ることを予告されます。そして同時に聖霊が来られることの利益を三つ述べておられます。それは、聖霊がこの世を非難すること、真理を教えること、キリストに栄光を与えることの三つです。
今日は特に聖霊がこの世を非難することについて黙想して、そして遷善の決心を立てることにいたしましょう。
【聖霊はこの世を非難する】
聖霊はこの世に来ることによって利益を与えます。そのうちの一つは、この世の過ちを非難することです。主はいわれます、「彼が来るとき、罪について、義について、審判について、この世のあやまちを指し示すであろう。」
では「罪について」というのは、何でしょうか。イエズス様はいいます。「かれらがわたしを信じないから。」
聖霊が不信の罪について非難するというのは、なぜかと言うと、信仰によってほかの全ての罪がゆるされるからです。なぜかというと、旧約聖書の格言の書には、「あわれみと信仰とによって罪が赦される」(格言15:27)とあるからです。信仰が無い限り、ほかの罪も赦されることはありません。
ところで、聖トマス・アクィナスによると、「私を信じなかった non crediderunt in me」の「私を」というところにはラテン語の前置詞 in がついています。クレド・イン・デウム、クレド・イン・ウヌム・デウムのinと同じことです。これは特別な意があって、「イエズス・キリストを希望と愛徳で生かされた信仰 (fides formata sperando et diligendo)で信じていなかった」ということを非難する、 ということです。
聖トマス・アクィナスはこう説明しています。信仰には、ただ頭だけで真理を信じるという信仰・愛徳で生かされていない信仰・命のない信仰と――つまり罪と共存している信仰と、愛徳を通してそして生き生きとした愛徳によって生かされている信仰との二つがある、といいます。
もしもわたしたちが頭だけのことでキリストの神性を、(キリストが)天主であることを信じていたら――これはあくまでも真実であるが――、しかしわたしたちは愛徳によって生かされた信仰によって信じなければならない、と言います。
【聖霊がこの世の過ちを指摘する義についてとは】
では第二に、聖霊がこの世の過ちを指摘する義についてというのは、どういうことでしょうか。「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたたちはもう私を見ないから」。これはどういうことでしょうか。
この義というのは二つの意味があると言います。一つは、使徒たちが持っている義、つまり聖徳ということで、もう一つはイエズス・キリストの義、聖徳ということです。
使徒たちの義、聖徳ということは、――ここでいう義というは――律法によって義とされたのではなくて、信仰によって義とされたその聖徳のことである。つまり聖パウロが「イエズス・キリストの信仰によって天主の正義といった」(ローマ3:22)といった、その義のことを指していると、聖トマス・アクィナスは言っています。
「イエズス・キリストへの信仰によって聖徳を受けなかったから、この世は使徒たちの真似をしなかった。」聖霊はそのことによって、世の過ちを指摘するということです。
では、私が父のもとに行き、あなたたちはもう私を見ない」というのはどういうことでしょうか。これは、信仰というのは、目に見えないことにかかわるから、と、聖トマス・アクィナスは説明しています。つまりまず最初、使徒たちはキリストが人間であるということを見て、そしてその人間であるキリストを見て、天主であるということを信じました。ところがイエズス様が昇天されてイエズス様が目に見えなくなってしまうと、弟子たちはキリストが人間であることさえも見ることができなくなってしまいます。ですからこれ以後、イエズス様が人間であることも、天主であることも見ずに、この二つを見ずに信仰しなければなりません。これが信仰による義であって、この世はこれに従わない、これを聖霊は非難します。
あるいは義について使徒たちの信仰による義、聖徳、とは別に、イエズス・キリストの義についても理解できます。ユダヤ人たちはイエズス様が義人であることを、聖なる方であることを認めようとしませんでした。しかしイエズス様はご自分が正義なる者、義なる者であること、聖なるものであることを明らかにします。どうやって明らかにするかというと、ご自分が御父のもとに行って父によって受け入れられることが父によって最高の高みに行かれるということをもって、ご自分の聖徳を明らかにされます。主は、あわれみによってこの地上に来られ、その聖なるためには、天に行かれるからです。
【審判についてとは】
では、審判について、とはどういうことでしょうか。「この世のかしらが審判されるから」。ラテン語によると「審判されたから」とあります。
この世――つまりこの世を愛する人々という意味ですが――つまりこの世を愛する人々を支配しているのは何かというと、悪魔です。この世の頭のことです。なぜこの世の頭というかというと、この世を支配しているかというと、悪魔がこの世を作ったからではありません。天主がこの世のすべてを創造しました。天主がすべてを支配しておられます。しかし、この世の頭というのは、実はこの世が創造主でもないにもかかわらず悪魔の暗示に従って悪魔の真似をしているからです。悪魔の真似というのは何かというと、傲慢であって、嘘です。
ところが、イエズス様の御力によって 聖霊によって イエズス・キリストを信じることによって、わたしたちの心から悪魔を追い出すことができます。キリストに頼む者はキリストを信じて、聖霊の力を信じる者は悪魔を に抵抗できます。しかしこの世はイエズス・キリストを信じようとせずに、寄り頼もうともせずに、悪魔に抵抗しようともしません。ですから罪に同意することによって、悪魔にまた支配されてしまっています。つまりこの世は悪魔がすでに地獄に落されたと知りながら、この世の頭がすでに地獄に落されたと知りながら、その傲慢と嘘と悪行の真似をするので、この世の支配者である悪魔とともにこの世は審判を受けなければならない。だから、聖霊は“イエズス・キリストを愛する”というその生きている信仰を持たないという不信仰の罪を指摘する。そして、イエズス・キリストを信じることによって聖となるべきなのにそれがなっていないことを指摘する。あるいは、イエズス・キリストを信仰しなかったがために、義とならなかったために、悪魔の傲慢と悪口を真似している・・・すでに審判を受けた。罪と義と審判について、聖霊はわたしたちにこの世を指摘するとおっしゃっています。
【聖霊が真理を教え、キリストに栄光を与える】
聖霊は、ただこの世の過ちを指摘するばかりではありません。聖霊は真理を教えてくれます。つまり、真理の霊が来るとき、彼はあなたたちをあらゆる真理に導くだろうと、おっしゃっているからです。これについては長くはお話いたしません。
教えてくださる真理とは何かというと、イエズス・キリストがまことの天主であるということです。人となったまことの天主、永遠の御言葉、三位一体の第二のペルソナ、天主御父よりお生まれになった御子、そして御父御子から天主聖霊が発出しているということを教える、のです。
そしてそうすることによって、聖霊はキリストに栄光を与えます。なぜかと言うと、イエズス・キリストはまことに天主だということを教えるからです。
天主なる御言葉(つまり天主御子)は人となり、十字架の上で苦しまれ、私たちを罪の深い淵から救い出してくださり、そうすることによって、私たちが主の天主の御子であることに参与する、わたしたちもイエズス様に倣って天主の子どもとなることができるように、それに与ることができるようにさせてくださったこと、これを聖霊が、教えてくださいます。そして人間はキリストと共に、天主の栄光に入らなければならないことを教えます。わたしたちがつまりイエズス様に倣って罪を避けて天主に従順に謙遜に従うことによって主の栄光に入らなければならないことを聖霊は教えてくれます。
【遷善の決心】
では遷善の決心をいたしましょう。わたしたちは主の昇天と聖霊降臨をいま準備しています。真理の霊である聖霊は、2000年間、カトリック教会を導いて、はっきりと、三つの利益を与えてくれました。この世の罪をはっきりと非難しました。それを指摘しました。特に不信仰を指摘しました。教会を導いて、真理をはっきりと教えました。イエズス・キリストはまことの天主であると、教え続けてきました。そしてそうすることによって、キリストに栄光を与えてきました。
特に教会は多くの殉教者を生み出し、聖なる男女を、数知れない多くの聖人聖女を生み出し、教会博士を生み出し、キリストに栄光を与え続けて来ました。特に聖霊がそのために使ったのは、聖伝のミサでした。わたしたちが与っているこのミサは、聖霊が教えること、聖霊がなさることを、そのまま典礼で表明しているからです。たとえば今日の密誦を読んでください。
Deus, qui nos, per huius sacrificii veneránda commércia, uníus summæ divinitátis partícipes effecísti : præsta, quǽsumus ; ut, sicut tuam cognóscimus veritátem, sic eam dignis móribus assequámur. Per Dóminum.
天主よ、御身はこのいけにえの尊い交換により、われらを御身の唯一・最高の神性にあずからせ給うた。願わくは、我らが御身の真理を知るように、ふさわしい生活によって、その真理に我らが至らんことを。天主として(…)。
どれほど美しい祈りでしょうか。わたしたちが与っているミサでは、はっきりとイエズスさまがまことの天主であり、まことの人であるということを表明しています。聖霊に祈りましょう。この教会の遺産を通してわたしたちも聖霊から受ける利益をその充満を受けることができますように。
最後にマリアさまにお祈りしましょう。マリア様の御取次を通して主の御昇天と聖霊降臨の準備を良くすることができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
旧約聖書の格言の書15章27節のブルガタ訳は「Conturbat domum suam qui sectatur avaritiam; qui autem odit munera vivet. Per misericordiam et fidem purgantur peccata, per timorem autem Domini declinat omnis a malo.」と回答をいただきました。グーグル翻訳では「貪欲を追い求める者は家を乱す。 しかし、贈り物を憎む者は生きます。 憐れみと信仰によって罪は清められますが、主への畏れによってすべての人が悪から離れます」。
バルバロ訳はブルガタ訳の格言の書15章27節のラテン語の2センテンスのうち、最初のセンテンスしか訳していなかったのです。これについて、小野田神父様の見解は、「光明社の箴言(https://www.babelbible.net/pdf/rag/km_pro.pdf)には、『憐みと真実とによりて罪清められ』とありました。おそらくヘブライ語のマソラ写本(11世紀)にはここの部分が欠如しているのかもしれません」です。
日本語訳の聖書を読んでいて、おかしいのでは、と思ったら、ラテン語のブルガタ訳あるいは英語のDouay-Rheims訳を参照することをお勧めします。
どちらも、ここで読めます。catholicbible.online/side_by_sideで検索してください。ラテン語も英語もグーグル翻訳すれば日本語で読めます。