Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖アルフォンソ・デ・リグオリによるイエズス様の聖心についての黙想:イエズスが私たちの為にしなかった事が無いほど全てをした。それにもかかわらず、イエズスは愛されていない。却って軽蔑と侮辱を受けている

2019年08月29日 | お説教・霊的講話
2019年8月2日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月2日、8月の初金曜日、イエズス様の聖心のミサをしています。

今日御ミサの後で、聖時間を行ないます。御聖体の前で1時間、イエズス様の聖心をお愛し致しましょう。特に、今世界で必要とされているたくさんの御恵みを乞い求めましょう。
日本に教皇様がいらっしゃる、その教皇様の訪問が、日本にとって恵みの多いのものである事を、特にお祈り致しましょう。

また教皇様の日本の来日の為に、皆さんからのロザリオの十字軍、祈りの十字軍をお願いしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、8月の初金曜日で、ちょうどアルフォンソ・デ・リグオリの祝日にも当たっています。
そこで、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、イエズス様の聖心について何を教えていたのか?これを一緒に黙想致しましょう。彼は、イエズス様の聖心に対して、「9日間のノヴェナ」という本を書きました。特にその内容を、特にその最初の日に何を言っているのか?という事を一緒に黙想したいと思います。


その前に、聖アルフォンソ・デ・リグオリというその人はどういう人なのか?という事を少しだけお話させて下さい。

1696年、アルフォンソ・マリア・デ・リグオリ、聖アルフォンソは、イタリアのナポリのとても高貴な家に生まれました。長男でした。
小さな時に、イエズス会の聖フランシス・デ・イエロニモという方の元に連れて行かれると、この聖人は幼子を見て、ちょうどシメオンのように預言しました、「この子は、90歳以上まで生きるだろう。司教になるだろう。そして教会の為に、とても大きな善を為すだろう。」

教会の為に天主は、特に教会が危機に陥る時に天主様は、色々な聖人を送りました。中世にはアシジの聖フランシスコ、あるいは聖ドミニコ、という特別な聖人を送りましたが、近代にはアルフォンソ・デ・リグオリを送りました。

お父さんの願いで、非常に頭の良かった子供だったので、法律の勉強をしました。法律で非常に優秀な成績を収めて、大成功を収めるには全く問題がありませんでしたが、しかし法律家という、あるいは弁護士という仕事をするという事は、その弁護士の職務をするという事について、「もしかしたら、嘘をつかなければならないのか、顧客から頼まれた時に、偽証を頼まれるかもしれない。もしかしたらその法律を運用するにあたって、自分の救霊を危うくするかもしれない」という事を、真剣に悩みます。

そして、前途有望とされていた、その大成功を約束されていた職務でしたが、それを自分の救霊の為に放棄します。そしてお父さんから、父親から準備されていたとても素晴らしい結婚も相手がいたのですけれども、とても身分の高い素晴らしい女性だったのですけれども、それも放棄します。そして自分が長男であったので、家を継いで裕福な生活をする事を約束されていたのですけれども、それも放棄します。

家宝と自分の持っていた剣も、マリア様の祭壇に捧げて、そして司祭になろうとします。

30歳で司祭に叙階されて、特に貧しい人や農民たち、単純な人々に対して、特別の憐れみと愛情を注ぎます。

その後に、「至聖なる贖い主の修道会」を創立し、そして特に「多くの霊魂たちを、イエズス様の元に引き寄せよう、集めよう、自分の時間を全て使おう」という誓願を立てます。「霊魂たちを最も高い完徳まで引き寄せる為に、全てをしよう。」

イエズス様の為に特別の信心を持っていました。特に御聖体に対する、またイエズス様の御受難に対する信心を非常に持っていました。マリア様の信心についての熱さは非常に有名で、有名な「聖母マリアの栄光」という本を書きました。日本でも訳されています。

この聖アルフォンソ・デ・リグオリは、やはりイエズス様の信心についても知らされていました。聖マルガリタ・マリア・アラコックの事も知っていました。そしてこのイエズス様の聖心に対する信心を、皆に勧めていました。

第2に、聖アルフォンソ・デ・リグオリの言うには、「カトリック教会の最も中心は、イエズス様の、イエズス・キリストを愛する事にある。イエズス様が人となったのは、御自分を愛させる為である。御自分の愛に引き寄せる為である。」

「福音書を見るとこう書かれている。天主は、聖子を私たちが愛するが故に、私たちを愛する。私たちが聖子を愛するその度合いに対して、愛すればするほど、聖父も私たちを愛して下さる。なぜかというとイエズス様はこう言っているから、『聖父よ、御身は彼らを愛しています。なぜなら彼らは、私を愛したからです。』」

「あるいは聖父は、私たちがイエズス様の御名によって祈れば、イエズス様の御名により頼めば頼むほど、私たちの祈りを叶えて下さる。『今までお前たちは、私の名によって祈らなかった。しかし祈れ。そうすれば叶えて下さる。』あるいは私たちが恵みを受けるのは、イエズス様に似通った者であればあるほど、私たちは救われる事ができる。」

「聖パウロがローマ人への手紙に書いている。『キリスト教の核心は、イエズス様が人となって来られたのは、私たちがイエズス様を愛する為、私たちをしてイエズス様を愛させる為、聖子を愛させる為である。』ところが、イエズス様が私たちの為に、私たちが愛する事ができるように私たちの為に様々な事をして、それ以上しなかった事があるだろうか?これにもかかわらず、イエズス様は愛されていない。却ってそのお礼として、軽蔑と侮辱を受けている。」


もしも普通の人でありましたら、次のような態度をどう思うでしょうか。ここからは、私の考えたことです。

"はるばるやって来て、これだけ優しく教えてあげたのに、これだけ莫大なお金を尽くして、貧しい人の為には孤児院を、病気の人のためには病院を造り、学校を造り、そして技術も教えてあげて、色々な知識を伝達したのに、あれだけわがままを言ったにも関わらず「分かった分かった」と言って、「よしよしこうしてあげよう」とわがままを聞いてあげたのに、「お礼ぐらいを言うんじゃないか」と思ったけれども、お礼も言わなかった。"
普通なら、がっかりすることでしょう。

もしかしたら、お礼を言われなかったとしても「まぁ、仕方がないか」と思うかもしれません。お礼をしない代わりに、馬鹿にして、敵のように扱かったら、普通の人は、「一体何なんだ?」と思ってしまいます。これは普通の人の対応です。何も驚くに当たりません。

しかしイエズス様は、私たちに愛を込めて、そして色々御恵みを注いで、そして私たちから冒瀆や、侮辱や、罪を何度も受けて、そして裏切られて、そして馬鹿にされて、それにもかかわらず、私たちを変わらずに愛して下さって、御恵みを与え続けて下さいます。


聖アルフォンソ・デ・リグオリは、そのノヴェナの本の第1日目に、イエズス様の事を一般的に考察します。

「もしも誰かが、とても美しい人がいて、とても徳に溢れていて、そして謙遜で、優しくて、そして優雅であったとしたら、そのような素敵な人を私たちは愛さずにいられるだろうか。」

「例えば誰か、どこか遠くで外国で、立派な君主がいて、王子がいて、そしてその王子はとても優雅で、美しく、そして優しく、知恵が深くて、力があり、そして多くの善を行なっている。たとえその王子の事を私たちが直接知らなかったとしても、あるいはその王子様は私たちの事を直接知らなかったとしても、その素敵な方の事を聞いて、『あぁ、素晴らしい!』と、敬愛の念を抱かずにいられるだろうか。そのような素晴らしい人を尊敬せずにいられるだろうか。これが普通だ。」

「しかしイエズス様は、その全てを御自分で持っておられる。全ての聖徳と、全てを、私たちの愛を受けて当然の、そしてその私たちを惹き寄せるような全てのものを、魅力を持っているにもかかわらず、イエズス様は愛されていない。」

聖アルフォンソは言います、「多くの聖人たちが嘆いてるのはまさにこれである、『天主様の愛は、愛されていない。』『イエズス様は愛されていない。』」

聖アルフォンソの声に今日は耳を傾けて、聖アルフォンソが私たちに訴えたように、そしてイエズス様が私たちに訴えているように、イエズス様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。

私たちは今までイエズス様の愛を知りながらも、イエズス様の愛の呼びかけを聞きながらも、それにもかかわらず、すぐに生温くなって、すぐに冷たくなって、イエズス様を全く無視したような、あるいはイエズス様を悲しませるような言動や、考えや、その態度を取ってしまいました。

イエズス様のその愛に応える事ができませんでした。

今年は、この8月からは、イエズス様の愛を愛で返す事ができますように、聖アルフォンソ・デ・リグオリにお願い致しましょう。マリア様にお願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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