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手による聖体拝領についての説教:

2023年02月13日 | お説教・霊的講話

手による聖体拝領についての説教

ドモルネ神父

はじめに

教皇ベネディクト十六世以来、トリエント・ミサと新しいミサは同じものだと主張する人々がいます。彼らはまた、ご聖体を舌で受けるのも、手で受けるのも同じだと主張し、そのため、信者には、どちらの方法でご聖体を受けるかを選ぶ自由が与えられるべきだ、と教えています。この教えは誤りです。今日は、昔と現在の、手による聖体拝領のやり方について、お話しします。

1.教会の初期の数世紀における手による聖体拝領

教会の初期の数世紀、通常、ご聖体は手で受けていました。何人かの教父や、教会著者たちの証言から、私たちはこれを知っています。たとえば、エルザレムの聖チリロ(313-387年)は、こう書いています。「聖なる祭壇に行くときは、両手を伸ばしたり、指を開いたりして行ってはならず、むしろ、その手で王を受けるのであるから、左手を右手の玉座とし、『アーメン』と言いながら、手のくぼみにキリストの体を受けなさい」(第五秘跡伝授カテケージス、348年)。

教会の初期の数世紀における手による聖体拝領の儀式は、今と同じではありませんでした。当時、信者は、聖体拝領の直前に、両手を洗わなければなりませんでした。信者は、ご聖体を受けるにあたって、腰をかがめました。司祭は、信者の右手にホスチアを置き、信者は、左手ではホスチアに触れることなく、それを口に持っていきました。教会の少なくとも一部の地方では、女性は、小さな白い布で手を覆わなければなりませんでした。ホスチアのかけらがひとつでも地面に落ちないように、細心の注意が払われました。エルザレムの聖チリロは、はっきりと、こう言っています。「何ひとつ、地面に落とさないように、気を付けなさい。あなたがかけらを落としてしまうならば、それは、あなたが自分の体の一部を失うのと同じである。もしも誰かが、あなたに金の粉を与えたとしたら、あなたは、自分がそのひとつでも失ってしまうことがないように、それを、大変注意深く、集めるのではないだろうか? それなら、金よりも、ダイヤモンドよりも、遙かに貴重なものについて、そのいかなるかけらさえも失うことがないように、あなたは、それよりずっと注意深くあるべきではないだろうか?」。

【参考】「手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?」

2.手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更

手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更は、9世紀に起こりました。これには、いくつかの理由がありました。第一の理由は、ホスチアのかけらが散乱する危険性を減らすためでした。第二の理由は、ご聖体に対する尊敬と崇敬の念を、より強く表すためでした。実際、舌でご聖体を受けることは、ホスチアにおけるイエズス・キリストの真の現存に対する信仰を、より直接的かつ明確に表現しています。第三の理由は、司祭の役割と使命を、明確に確認するためでした。実際、司祭から舌でご聖体を受けることは、司祭が天主と人の仲介者であり、ご聖体の唯一の役務者であることを、より直接的かつ明確に表現しています。

この、手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更は、聖霊の霊感のもとに行われた、典礼上の進歩でした。実際、この変更により、典礼は、カトリックの信仰を正確に表現し、信者が良い心構えで祈り、秘跡を受ける、という二つの目的を、よりよく達成することができるようになったのです。

3.第二バチカン公会議の典礼革命と手による聖体拝領への回帰

1969年5月29日、教皇パウロ六世の教令「メモリアーレ・ドミニ」によって、教会で再び、手による聖体拝領を行うことが許可されました。第二バチカン公会議の後に改革されたローマ典礼によれば、司祭、あるいは、シスターや平信徒でさえもが、ホスチアを拝領者の左手に置くこととされ、拝領者はそれを右手で取り、口に運ぶこととされています。このようにして手でご聖体を受ける方法は、教会の初期の数世紀に行われていたものとは相当異なっていることが、お分かりいただけると思います。

教皇パウロ六世が、再び手による聖体拝領を認めたのは、なぜだったのでしょうか? また、もっと一般的に言えば、教皇がミサの典礼を変更したのは、なぜだったのでしょうか? 教皇パウロ六世の親友だったジャン・ギトン氏は、1993年に、ラジオで、次のことを明かしました。「パウロ六世は、ミサの中で(…)カトリック的すぎるものを消すか、少なくとも修正するか、少なくとも緩和する、また、ミサをカルヴァン派の晩餐にあわせる、という、エキュメニカルな意向を表しました」。今行われているような手による聖体拝領は、ご聖体におけるイエズス・キリストの真の現存を信じないプロテスタントの異端とうまく付き合っていくために、導入されたのです。実際、プロテスタントは、ご聖体を単なるパンとみなしています。

4.現在の手による聖体拝領のやり方は誤っている

さて、こんな質問をしてみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の後に改革されたローマ典礼に従って、手でご聖体を受けることができるでしょうか? 教会は、9世紀まで、手による聖体拝領を許していたのですから、今、このやり方を再開することはできないのでしょうか? 答えは、「できない」です。その理由は二つあります。

第一の理由は、教会の初期の数世紀に良かったことが、必ずしも今に最適とは限らないということです。聖霊の影響のもとで、教会は、典礼を改良してきました。何世紀にもわたって、教会は、カトリックの信仰を、より正確かつ完璧に表現し、特にご聖体における、私たちの主イエズス・キリストへの敬意と愛の表現を完成させてきました。教会の初期の数世紀の典礼上のやり方を、単にそれが古いものだという理由から再び使おうとすることは、教会における過去数世紀にわたる聖霊の働きを否定することになります。

第二バチカン公会議の改革された典礼に従った手による聖体拝領を拒否する第二の理由は、私たちの主イエズス・キリストに対して持つべき信仰と敬意を保持するためです。手による聖体拝領は、ご聖体におけるイエズス・キリストの真の現存に対する信仰を、舌による聖体拝領ほどにはよく表しておらず、そのため、そのようなやり方は信者の信仰を弱めてしまいます。手による聖体拝領は、まず、信者の不熱心さや無関心につながり、次に、信仰の喪失につながります。また、手による聖体拝領は、ホスチアのかけらが散乱することから、濫用や冒涜の機会を生み、ホスチアの盗難を促進してしまいます。このようなことを示す事実は、残念ながら、たくさんあるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、新しいミサにあずかるのも、トリエント・ミサにあずかるのも同じだと言う人々は、自分が間違っているのであり、皆さんを惑わせてしまっているのです。オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿は、早くも1969年の時点で、ミサの新しい典礼を非難して、こう言っています。「ノブス・オルドは、その全体においても、またその詳細においても、ミサのカトリック神学から、目を見張るばかりに逸脱しています」。
【参考】オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙

同様に、ご聖体を舌で受けるのも、手で受けるのも同じだと言う人々は、間違っているのであり、皆さんを惑わせてしまっているのです。カトリックの聖体拝領の方法は、舌で受けることであり、さらにできるならば、ひざまずいて受けることです。

今日、熱心な聖体拝領を行いましょう。そして、手による聖体拝領の際にご聖体に対して行われている冒涜に対する償いとして、この聖体拝領を捧げるよう、皆さんにお勧めします。



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