Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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天国に入るためには天主の御旨を果たさなくてはなりません。天主の御旨とは何か?天主の御旨には2つの意味があります。

2020年07月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年7月19日は聖霊降臨後第七主日です。

今日の福音で主はこう言われます 「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果した人だけがはいる。」

私たちは天主の御旨を果たすために、無から創造された被造物です。天国に入るには、主の御旨を果たす、つまり、掟を守らなければなりません。

では「天にまします父の御旨」とは何でしょうか?つまり、私たちが聖となることが天主の御旨であると分かっていますが、

では、具体的に私たちはどうしたらそれを知ることができるでしょうか?

今日は「天主の御旨」という言葉の意味を正しく理解するようにしましょう。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第七主日の説教」の動画をご紹介いたします。

7月は毎日「いと尊き御血の連祷を唱えましょう。今日の主日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

▼全文はこちら▼

「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果した人だけがはいる。」

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

【1:愛の天主の望み:天主と人間との協力による人間の救い】

天主は愛である、使徒聖ヨハネはこう断言しています。天主は私たちを愛し給い、私たちが天主を愛することを欲しています。ですから私たちは天主との愛の一致に到達することを究極の目的としています。この天主との愛の一致で、私たちは永遠の命の幸せを得るのです。ですから、私たちは霊的生活の完徳に向かいたい、ますます天主のように聖となるために、私たちを聖化したいと思います。これは私たちの一生の偉大な仕事で、多くの犠牲や努力を要することであると同時に、聖霊の助けをもって、私たちに本当の自由と平和と喜びを与えてくれる事業です。

私たちの聖化は、超自然の事業です。天主の助けがなければ自分の力だけでは、私たちは永遠の命を得るに値するようなことは何もできません。ところが同時に聖パウロはこうも言います。「私をつよめてくださるお方において、私にはすべてができる。」(フィリピ4:13)「あなたたちの中で、望ませ、そしておこなわせ、ご自身のみ旨のままになさるのは天主である。」(フィリピ2:13)「自分自身から出たもののように、何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。」(コリント後3:5)

人間は、天主を離れては天に行くには全く弱く、そのための何の善もできません。しかし、天主の助けを得て、最も崇高な善を達成させることができます。

天主は、私たちの協力なしには、私たちを救うことをしません。私たちは天主と協力して、天主と一致して、私たちを聖化し、永遠の救いを得なければなりません。これは天主の働きであり、同時に、私たちの協力です。

たとえ私たち人間には完璧に見えても、天主の目からすれば何の功徳もない空っぽの行為がどれほど多いことでしょうか。何故なら、その行為の中には天主が不在だからです。

天主は、始めであり究極であり全てです。私たちは天主によって有らしめられている被造物にすぎません。私たちは天主の御旨を果たすために、無から創造された被造物です。天の国に入るには、主の御旨を果たす、つまり、掟を守らなければなりません。

「あなたが命にはいりたいのなら、掟を守れ」(マテオ19:17)「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果した人だけがはいる」と主は言われます。

【2:天主の「御旨」の二つの意味】

では「天にまします父の御旨」とは何でしょうか?つまり、私たちが聖となることが天主の御旨であると分かっていますが、では、具体的に私たちはどうしたらそれを知ることができるでしょうか?今日は「天主の御旨」という言葉の意味を正しく理解するようにしましょう。

天主の御旨は、私たちに二つの形で現れます。

一つは善の規範として、私たちがそれに忠実に従わなければならない掟や法として示されます。天主が意志することが善であり、天主が意志すること以外は善ではないからです。

もう一つは、現実に起こる出来事として私たちに示されます。天主の「お気に召した」ことであり、天主のご所望で、天主が良いと思われるように、出来事が起こることを許される、あるいは望まれることです。

規範としての御旨は、「天主の表示的意志」(signified will of God)と呼ばれます。すなわち私たちが為す、あるいは避けることを天主がお命じに、もしくはお勧めになった事柄を指すものです。これについては、のちに詳しく見ましょう。

出来事としてあらわされる御旨は、「天主のお気に召した意志」(God's will of good-pleasure)と言われます。私たちに起こる全てのことです。生命、病気、死、長寿、短命、苦しみ、慰め、困難、繁栄、才能、性別、境遇などなどです。天主は、全てのことを私たちの善のために使います。

たとえ私たちにとっては苦しみや困難であっても、正しい秩序を取り戻させるための手段として、私たちをよくするための薬や手術や剪定・刈り込みとして、霊魂を癒し聖化する機会として、それらが起こることを許します。もしも悪が生じてしまうのならそれは「許可」の意志です。天主は、悪の中からその悪よりもより大いなる善を欲するがゆえに、その悪が生じるのを力づくで妨害せずに許可するからです。

【3:規範としての御旨を行う】

規範としての御旨、つまり「天主の表示的意志」について説明します。この意味での「御旨」は、私たちが天の至福をかち得るための手段として、天主が私たちに提示する全てを含みます。それが信仰に関するもの、あるいは道徳に関するものであれ、あらゆる規定です。

これは、私たちの主が直接命じたこと、あるいは、主がご自分の教会をとおして命じた全てで、私たちが為す、あるいは避けることを教えています。つまり、私たちに対する強制力の程度の違いはありますが、天主の十戒、公教会の掟、福音の勧告、私たちに固有のルールや決まり、長上からの命令、身分上の義務、などです。全ては愛徳の掟であり、天主への愛がこれらをどのように順守するかそのやり方を調整します。

幼きイエズスの聖テレジアが、自分に与えられた短い自由時間に手紙を書いていたところ、聖務日課の祈りが始まる合図の鐘がなった時、すぐにペンを置いて聖堂に向かったという有名な話があります。天主の御旨は聖堂に行くことだから、それを行うためにアルファベットの "t" の横棒さえ書かずにそのまま筆を止めたのです。

この意味での「御旨」が、使徒パウロが「あなたたちは、思慮のないものとならず、主のみ旨を理解せよ」と述べているときの「御旨」です。私たちは、主祷文で「御旨の行われんことを」と祈るとき、私たちが主の命令によく従い、また聖性と正義の中に、日々たゆまず主に使えることができる恵みを願っています。

「御旨を行う」とは、天主の御助けをもって、全てのことを、天主の聖なる意志とお望みにしたがって為し、聖書の中に示される種々の義務を立派に果たすことです。

「肉体の意志ではなく、天主によって生まれた」(ヨハネ 1:13)キリスト者にふさわしいことを、天主の導きと助力とによって、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従う者となられた」主キリストの模範に倣い、成し遂げることです。

天主の御旨から、たとえ少しでも逸(そ)れるよりは、天主の導きと助力とによって、あらゆる艱難を耐え忍ぶ心構えをもつ、ということです。

イエズス・キリストは「天におられる我が御父の御旨を果たす者は皆、我が兄弟、姉妹、母である」と言われました。このような人びとに、天主は、愛と仁慈の絆によって、この上なく緊密に結ばれておられるのです。まさに「天主に仕え従うことは、統治すること」(Deus, auctor pacis et amator, quem nosse vivere, cui servire regnare est)です。

 

規範としての天主の御旨を行う、ということは、天主の御助けをもって、善を為すのみならず、天主が望まない全ての「肉の業」を忌み嫌うことです。使徒パウロはこういいます。「肉の業は明白である。すなわち、淫行、不浄、猥褻(わいせつ)、偶像崇拝、魔術、憎み、争い、嫉妬、憤り、徒党、分離、異端、そねみ、泥酔、遊蕩、ならびにそれに似たことである。」(ガラツィア 5:19)

またこうも言います。「もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死に定められている」(ローマ 8:13)と。

ですから、私たちは、天主の御助けをもって、感覚、欲情、自然本性の弱さに負けずに、天主の御旨に従い一致して私たちの意志を制御しなければなりません。

それに引き換え、地上的な事物に対して欲望や配慮に没頭する欲深い人びとは、欲望に駆られて、自らの欲求するものを得るために遭進(まいしん)し、そのような不徳な欲情を満たすことに幸福を見出しています。ですから、このような人々は、天主の御旨から遠く隔たっています。

彼らにとっては、"何でも望むものを手に入れる"、"欲情が満たす"、"理性、美徳、天主の法に悖(もと)るものを得る"、"欲情に駆られてやみくもに望んでいたものを得る"こそが幸いだと勘違いしているからです。そうでなければ、愚か者と考えているからです。しかし、悪しき情欲を満たして永遠の滅びに突っ走るような人びとこそ、かえって哀れな者にすぎません。

私たちは、その反対に、使徒パウロが述べるように「肉の望みを満たすよう心を傾ける」(ローマ 13:14)ことなく、天主の御旨を果たすことができるよう、正しく道理に適ったものを望むことができるように祈ります。私たちの主は「もし私のあとに従おうと思うなら、己を捨てよ」(マテオ16:24)と命じました。

ですから、私たちは天主の御助けをもって、この世からは"愚か者"と見なされることを、喜んで甘んじ受けなければなりません。幼きイエズスの聖テレジアは「愛に生きる」という詩の中でこう歌っていました。

「愛に生きるなんて、何と逸脱した愚かなこと!」

この世は私にこう言う、「さあ、歌うのをやめなさい、あなたの香水を、あなたの一生を無駄にしなさるな、もっと有益にお使いなさい!」と。

イエズスよ、御身を愛するとは、何と実りの豊かな損失か!

私の香水は、お返しなく、みんな御身のもの、

私はこの世を出るとき、こう歌いたい、「私は愛に死ぬ!」と。

先週の書簡では、聖パウロは、洗礼の水が罪に死ぬ霊魂が入る神秘的な墓であり、イエズス・キリストと共にそこから新しい天主の命に復活する墓のようだと言っています。 「私たちは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた。…自分は罪に死んだもの、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きるものだと思え」と。

今日の書簡ではこうあります。「あなたたちは、不法にいたるためにその肢体を不浄と不法の奴隷としたが、今は、聖徳にいたるためにその肢体を正義の奴隷としてささげよ。

あなたたちが、罪の奴隷であったときは、正義に対して自由だった。しかし、その時、あなたたちはどんな実を結んだか?思えば恥じ入る実であった。その果ては死だからである。しかし、罪から解放された今、天主の奴隷となって、聖徳の実を結んだ。その果ては永遠の命である。

罪の払う報酬は死である。しかし、天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である。」

ところで、私たちのあまりにも人間的な思いは、時として、光の天使に化けた悪魔からのほのめかしにつられて、何か善いものとして勘違いする場合もあります。

例えば、使徒の頭であるペトロが、主を死に至る道から引き戻そうとした際、彼の熱意は甚だ正当で、敬虔に満ちたものであるように思われました。しかし、天主の理(ことわり)ではなく、あくまで人間的な感情によって動かされていたため、主の厳しいお咎めを受けました。

聖ヤコボと聖ヨハネが、主をお迎えするのを拒んだサマリア人らの上に火の雨を天から降らせ、この頑(かたく)なで非情な民を殲滅(せんめつ)されるよう、義憤に駆られて願ったことがありました。その時、この願いは、主に対するこの上なく深い敬愛の念に促されてのことでした。しかし、イエズス・キリストは「あなたたちは、自分がいかなる霊にしたがっているかを知らない。人の子は、霊魂を亡ぼすためではなく、救うために来たのである」(ルカ 9:55)とたしなめられました。

人間の心は原罪によって傷つけられているので、天主の御助けなしには、天主の御旨を完全に果たすことは不可能と言えます。

【4:規範としての御旨と「天主のお気に召した意志」との相違】

1)規範としての御旨つまり「天主の表示的意志」は、私たちにあらかじめ規律として、言葉や文章などではっきり知らされています。天主の十戒とか、教会の掟とか、長上の正当な命令などです。

「天主のお気に召した意志」は、私たちに降りかかる出来事として、よく私たちの予知や予測を超えて、知らされます。たとえばコロナ禍とか、病気とか、霊的無味乾燥などです。しかもいつまで?どうしたら終わるのか?など私たちには計り知れないことが多くあります。

2)規範としての御旨については、これに従順に順守するか、あるいは不従順に従わないか、は私たちの手中にあります。私たちは、審判の日まで、自由を正しく使うか、乱用するかができます。

「天主のお気に召した意志」は、これに引き換え、私たちの所望にかかわらず、例えば性別や健康などある状況が私たちに与えられ、私たちは天主の御旨を受け入れるか、あるはこれに反抗するか(反抗しても私たちには変えることができないのですが)しか残されていません。

3)天主は、規範としての御旨に私たちの自由な従順を要求します。同時に私たちがそうすることができるように祈り、お恵みを求めなければなりません。天主の御旨は規範としてはっきりしているので、私たちはさらなる天主からの印を求める必要はありません。

ところが「天主のお気に召した意志」は、出来事を通して天主の御旨がはっきりとされるのを待つ必要があります。天主の御旨がはっきりわかって初めて、これを受け入れることができ、それに従って行動することができます。「天主のお気に召した意志」がよくわからないうちは、私たちは規範としての御旨に忠実でなければなりません。(例えば、病気の人は、医者の処方箋に従い健康であろうと努力する、しかし天主がこの患者に死を送るのを良しとすれば、死を「天主のお気に召した意志」として受け入れる、などです。)

【5:遷善の決心】

天主の御旨とは、私たちへの愛の現れです。天主の御旨を果たすとは、天主の助けをもって、天主を全てに越えて愛することです。

私たちは、どうでしょうか?キリスト者は良き牧者に従う子羊であると言われています。私たちはキリスト者として子羊の衣をつけていますが、その内はどうでしょうか?子羊のように良き牧者の声を聴き分けて、イエズス・キリストに従う者でしょうか?それとも自分の強欲・情欲・利益・出世・都合・勝手・イデオロギーを押し通したいがために外見は子羊のようでも、実は狼と同じでしょうか?

ブドウは、ブドウの木について、一致して房を為して、つぶされてワインとなりますが、私たちはブドウのように、十字架の木に私たちの主と一緒に付いて、使徒継承の信仰の真理と愛に一致して房を作り、この世では主のために自分の生活を捧げようとしているでしょうか?それとも茨のように、とげとげしく、天主の権利よりも人間の権利を主張し、天主の御稜威よりも人間の尊厳を、超自然の至福よりもこの世の楽園の建設を求めているのでしょうか?

イチジクは、多くの種が一つになっている甘い果実ですが、私たちには天主への甘美な愛に満たされているでしょうか?それともアザミのように、チクチクしたとげを張り出して、自分の情欲を満たすことだけを守ろうとしているのでしょうか?

私たちが、主の御旨を果たしてよい実りを付けることができるように祈りましょう。私たちの主の御助けをもって私たちが主の御旨を果たすことができますように、聖徳の良い実りを結ぶことができますように。聖母の汚れなき御心にこの恵みを祈りましょう。

特に、現代のカトリック教会、真のキリストの教会の指導者たちのために祈りましょう。教皇、司教、司祭たちのために祈りましょう。現在の教会の危機の状況に気づくのみならず、その原因がどこにあるかを正しく判断することできますように。

カトリック教会が、自分の過去と断絶しようとするがゆえに苦しんでいることを理解しますように。教会が過去排斥してきたものが、今推進されており、教会が過去愛して実践してきたものが冷遇されている、その原因がどこにあるかを、冷静に分析しますように。

そして、これを理解したなら、50年前のルフェーブル大司教のように、現在のヴィガノ大司教のように、天主の名誉のために、カトリック教会の栄光のために、霊魂の救いのために、勇気をもって発言しますように。隠れることなく、面倒だと言わず、臆病にならず、卑怯な態度をとらず、自分の出世ばかり考えずに、イエズス・キリストの教えた真理と信仰について話されますように祈りましょう。

「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果した人だけがはいる。」


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