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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

グレゴリオ聖歌の Alma Redemptoris Mater を巡って

2014年11月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月15日には、皆さんとグレゴリオ聖歌の Alma Redemptoris Mater を歌いました。歌詞は次の通りです。

Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli
Porta manes, et stella maris, sucurre cadenti,
Surgere qui curat populo: tu quae genuisti,
Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
Sumens illud Ave, peccatorum miserere.

【最初の3行が、-aeli, -enti, -isti で韻を踏み、最後の3行で -rem, -re, -reで韻を踏んでいます。】




Alma Redemptoris Mater は、Herman Contractus が11世紀に作詞しました。
14世紀のイングランドのチョーサーが書いた『カンタベリー物語』の中にも、この聖歌のことが出てきます。

ところで、この歌詞は、文法的にはちょっと複雑です。そこで、愛する兄弟姉妹の皆様にここで、解説を申し上げます。

Alma Redemptoris Mater というのは、正確には「贖い主の養母」という意味です。正確に言うと「救い主のうるわしき母」ではありません。何故なら、Alma Mater というのは「養い育てる母」という意味で、英語では、出身の「母校」のことを Alma Mater とも言います。Redemptoris というのは、Redemptor(贖い主)の格変化したもので、「贖い主の」と言う意味です。

pervia というのは、通り抜ける、道がつながっている、アクセス可能な、と言う意味です。

ですから、quae pervia caeli Porta manes, et stella maris, は、(あなたは)天国の門につながりつつ、また海の星として、留まっている、という意味です。【注1】

問題は次の sucurre cadenti, Surgere qui curat populo です。
Sucurre は、「助けに走ってきてください」
cadenti は、「倒れつつある者のため」で、populo に掛かって「倒れつつある民のため」です。
qui curat は、cadenti populo に掛かっています。何を curat するのかと言うと、surgere に掛かって、立ち上がるのを curat するです。

ですから、もしもこれが、Sucurre cadenti populo qui curat surgere となっていれば、もっとわかりやすくなります。

あと、tu quae genuisti, Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
に出てくる Genitorem ですが、これは Genitor 「生み出す者」という意味で、通常は、聖父のことを指すのによく使われます。しかしここでは被造物を生み出した「創造主」という意味で、御子のことを指しています。ご注意ください。

 ところで、この Alma Redemptoris Mater を歌いながら、Ave Maris Stella の歌詞とそっくりなことに気がつきました。今まで、何気なく歌ってきたのですが、同じような言い回しがたくさん出てきます。そこで、調べてみると、Ave Maris Stella の方が、より古く、スイスのザンクトガレンの9世紀の写本にはこの歌があります。ということは、すでに8世紀にはこの歌が存在していたことが想像されます。
Alma Redemptoris Mater
Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli
Porta
manes, et stella maris, sucurre cadenti,
Surgere qui curat populo: tu quae genuisti,
Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
Sumens illud Ave
, peccatorum miserere.

Ave Maris Stella
AVE maris stella,
Dei Mater alma,
atque semper Virgo,
felix caeli porta.

Sumens illud Ave
Gabrielis ore
,
funda nos in pace,
mutans Hevae nomen.

Solve vincula reis,
profer lumen caecis
mala nostra pelle,
bona cuncta posce.

Monstra te esse matrem:
sumat per te preces,
qui pro nobis natus,
tulit esse tuus.

Virgo singularis,
inter omnes mites,
nos culpis solutos,
mites fac et castos.

Vitam praesta puram,
iter para tutum:
ut videntes Iesum
semper collaetemur.

Sit laus Deo Patri,
summo Christo decus,
Spiritui Sancto,
tribus honor unus. Amen.


【注1】Pervia という単語は、次の賛歌にも出てきます。

Fit porta Christi pérvia
omni reférta grátia,
transítque rex, et pérmanet
clausa, ut fuit, per sæcula.

Summi Paréntis Fílius
procéssit aula Vírginis,
sponsus, redémptor, cónditor,
suæ gigas Ecclésiæ:

Honor matris et gáudium,
imménsa spes credéntium,
lapis de monte véniens
mundúmque replens grátia.

Exsúltet omnis ánima,
quod nunc salvátor géntium
advénit mundi Dóminus
redímere quos cóndidit.

Christo sit omnis glória,
quem Pater Deum génuit,
quem Virgo mater édidit
fecúnda Sancto Spíritu. Amen.

 さて、前置きが長くなりましたが、今回は、ネリー神父様の大阪でのお説教11月15日の分の書き起こしをご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年11月15日 教会博士司教証聖者大聖アルベルト
ネリ神父様御説教


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

兄弟の皆さん、昨日は聖ヨザファト、司教であり、殉教者であった聖人を祝いましたが、今日は大聖アルベルト司教、証聖者、教会博士の祝日を祝っています。
「大聖」と付く、この「聖」の前に「大」が付く方は、典礼歴の暦の中では四名いますが、その内の一人です。これは、大聖アルベルトがその聖徳がより優れていた、という事を意味しています。

この四名「大」が付く聖人がいると言いましたが、その残る三人は、大聖レオ教皇様、もう一人は大聖グレゴリオ、やはり教皇様、残る最後の方は女性で、修道女で、聖ジェルトルードで、この方は、この聖人は特にビジョンと、イエズス様の聖心に対する信心によって有名な方です。

大聖アルベルトは、ドミニコ会の修道士であり、ケルンの大学で教えていました。特にその弟子の中には、聖トマス・アクィナスがいます。
大聖アルベルトの持っていた偉大な徳とは、特に知性に関わるものであり、まさに今日福音で読まれた「この世を照らす光」であり、「この世の地の塩」でありました。
大聖アルベルトの著作は、三十八巻もの巨大なものになっており、その論じた内容は、形而上学、或いは天文学、或いは化学、その他の多くの世俗の学問、もちろん、神学についても沢山の著作を残しています。

大聖アルベルトは特に、聖トマス・アクィナスの以前に、アリストテレスの、キリスト教ではないアリストテレスの哲学を純化させて、その内の有効な真理だけを浄化させて、聖トマス・アクィナスに伝えた役割があります。

この知的な、知性における特別な御恵みについては、大聖アルベルトは若い時から、イエズス様によって与えられている事を知っていました。何故かというと、まだ若い時に、マリア様からのビジョンを受けて、それによれば、「この莫大な博学の恵みを受けるだろう。」と言われていたからです。「しかし、その死の前にはそれらを全て、特に記憶が無くなってしまうだろう。」という事をも、あらかじめ知らされていました。

人生の終わり、老年になってある日、生徒達の前にいつもの様に講義をしていたのですけれども、突然、話をする事ができなくなりました。この突然の事は、千二百七十八年、大聖アルベルトが亡くなる二年前に起こりました。二年間の間、大聖アルベルトは、この屈辱と、この全く無能となってしまった事を苦しまなければなりませんでした。おそらくこれは、まだもしかしたら残っていたかもしれない自己愛や、或いはちょっとしたプライド等を浄める為に、完全に主のものとなる為の浄めの時期であったかもしれません。

これは私達に何を示しているかというと、聖人という事は、つまり聖人になるとは、罪が全くないという事ではない、ということです。そういう事ではなくて、聖人になるという事は、私達の持っている欠点や、或いは私達が受けるかもしれない誘惑や、或いは困難な事に対して立ち向かって、それに打ち勝って、徳を身につける、という事にあります。つまり私達は人生において、その誘惑と戦い、徳を身につける為の闘いをしなければならない、ということです。

ですから、聖人というのはすなわち、欠点がないとか、誘惑がないとか、闘いがないのではなくて、闘ってその徳を勝ち取った、という事にあります。
そこで、私達も生涯終わりまで、聖徳を身につけるように努力をしなければなりません。

聖トマス・アクィナスの著作をフランス語に訳した、解説した神学者たちの意見によれば、「大聖アルベルトも聖トマス・アクィナスもこの偉大な神学者たちは、その中世の自分の時代の人達だけに著作をしたのではなく、今生きている現代の二十一世紀の私達の為にも書いたのだ。」と、言っています。

現代、カトリック教会は今、信仰の危機を、この嵐の中を進んでいますけれども、何故、大聖アルベルトと聖トマス・アクィナスが現代の為に著作をしたか、というその理由は、この信仰について私達を助ける為、信仰というのはつまり対神徳の一つですから、つまりこの信仰は私達の知性に宿っているものであるので、この聖人達の著作を通して、私達の信仰を高める為にも、確固とする為にも、私達の知性をきれいに整えて秩序を立てて、信仰をふさわしく受ける準備を、この著作たちが助けてくれるからです。

もちろん私達は一般の信徒の方々は、大聖アルベルトの神学についての深い本は、或いは聖トマス・アクィナスの深い著作を読んで、それを解読して、それを深める、味わうという事は、必ずしも全てできるとは限りませんが、しかし、少なくとも私達は、この大聖アルベルトやトマス・アクィナスの著作の要点であり、このまとめである公教要理を勉強して、それを深める義務があります。
何故こう申し上げるか、なぜ公教要理を勉強しなければならないかというと、公教要理の中には論理があって、私達の信仰を構築する、立てるものであるからです。
徳の中には、「宗教の徳」というものと、「信仰の徳」があります。これらの二つは同じではありません。
宗教の徳は、意志の上に、意志に存して意志の内にあります。しかし意志は、真理の為にあるというよりは、善の為にありますから、宗教の徳は、信仰の徳に寄りかからなければなりません。

信仰の徳は先程申しましたように、知性に存在しています。知性は真理を認める事にあるので、信仰の徳が宗教の徳を照らさなければなりません。信仰の徳が照らす事によって初めて、真の宗教の徳を実践する事ができるのです。
ですから、公教要理を学ぶ事によって信仰の徳を高めなければなりません。

この公教要理の他に別の手段があります。これは、私達のマリア様が与えてくださった、ロザリオです。ロザリオには信仰に関する全ての玄義が含まれていて、ロザリオはいわば、観想を学ぶ為の学校である、と言う事ができます。
知性は自然の能力です。しかし、この自然の能力ですが、天主様の御恵みによって、超自然の光である信仰の徳を受ける事ができます。それのみならず、聖霊の賜物である知識、それから賢慮、それから知恵、この三つの知性に関わる聖霊の賜物を受ける事ができるので、ロザリオによって私達の主の玄義を黙想すれば、例え私達が、聖トマス・アクィナスや大聖アルベルトの著作を読む事ができなかったとしても、もしかしたら、私達の知性があまりにも足りなくて、公教要理さえもよく理解出来なかったとしても、ロザリオを唱える事によって、超自然の御恵みによって、玄義を黙想する事ができます。そうする事によって、ロザリオを通して、私達の先祖が、キリシタンたちが信仰を守ったように、洗礼と婚姻の秘跡によって信仰を守り続けたように、ロザリオを通して、私達も信仰を守り続ける事ができます。

ですから皆さん、大聖アルベルトの御取り次ぎと、マリア様の御取り次ぎによって、私達も日々のロザリオの玄義を黙想する事によって、信仰を守り、信仰を増やしていく事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。


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ヨゼフ・ファデル(Joseph Fadelle)著 『支払うべき値』 The Price to Pay

2014年11月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マニラの修道院では、昼食の最初の15分間、沈黙がありその間に本の朗読があります。最近では『支払うべき値』(The Price to Pay)という本を朗読して皆で効きながら昼食を摂っています。


The Price to Pay


 ヨゼフ・ファデル(Joseph Fadelle)という元イスラム教徒がカトリックに改心した実話です。





 ヨゼフ・ファデルは、もともと裕福なイラクの貴族の生まれで、有力な父親の財産を相続するべく特に寵愛を受けていました。1987年に兵役の義務を果たす間、カトリックのイラク人マスッドと同じ部屋で過ごします。ファデルはマスッドをイスラムに改宗させようとし、キリスト教にはコーラン(クルアン)のような本があるのかと尋ねると、聖書がある、と言われます。そして同僚のマスッドから君は本当にコーランを理解して読んだことがあるのか、と問われ、コーランを理解するために読みます。しかし、ファデルは、コーランを読めば読むほど、イスラム教のおかしさに疑問がわいてきます。(たとえば、アンニサと呼ばれる女性に関する章(スラ)の34節、何故男性は必要なら女性を殴っていいのか? クルアンの学者(アヤトラー)である家族の友人のシェイク・アリ・アヤトラ師に疑問(何故女性が男性の所有物になるのかスラ2:223)を打ち明けると、その答(男性は女性にどのようなこともして良い、ただしモスクの中と、ラマダンの時を除く)に失望します。また、預言者(モハムマッド)の行動にも失望します。

 ますますイエズス・キリストを知りたいと思い、カトリック教会に改宗を求めるのですが、ことごとく拒否されます(!)。司教様から「出て行け!」と叫ばれたこともあります。しかし「命のパン」を求めて、すべてを堪え忍んでいきます。

 まだ、この本は途中ですが、朗読を聞きながら、あまりにもドラマに、食べることも忘れてしまいそうです。愛する兄弟姉妹の皆様も是非、お読みください。







さて、今回は、ネリー神父様の大阪でのお説教の書き起こしをご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年11月14日 司教殉教者聖ヨザファト 
ネリ神父様御説教


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、信徒の皆さん、今日は聖ヨザファトの祝日を祝う為に集っています。
聖ヨザファトは、東欧の国に生まれて司教になり、信仰の為に十七世紀に殉教しました。

ミサを捧げる時には、もちろんミサの実りである生贄を捧げますが、それのみならず、私達に信仰の模範をも与えたい、と教会は考えています。
私達各々が、特別の天主様からの使命が、ミッションが与えられているので、その聖徳について、全く皆が同じであるとは限りませんが、しかし教会は私達に聖徳を黙想するように、観想するように招いています。
聖人達は私達に非常に近い存在であります。何故かというと、諸聖人の通功によって、またキリストの神秘体の、私達もその一部であるからです。私達はこの戦闘の教会、この地上にいる教会のみならず、凱旋の教会、天国の教会、煉獄での苦しむ教会、その三つの教会が愛徳の絆によって、一つとなっている、一つである、という事を信仰によって知っています。
天国での凱旋の教会のある諸聖人達と、煉獄の苦しむ教会の聖なる霊魂達と、私達この地上で悪と闘っている戦闘の教会は、ダイナミズムの大きな力動によって結ばれています。

聖ヨザファトは東欧のリトアニアに生まれたのですけれども、リトアニアには離教の教会に属している人々が多くいました。ところが、この聖ヨザファト自身は、カトリックの両親から生まれ、自分はカトリックとして育てられていました。子供の頃母親からイエズス様の御受難の話をよく聞いていて、幼い頃から既に、心に、心臓に、イエズス様の御受難の傷を受けていました。これは愛の傷でした。聖ヨザファトは子供の頃から、教会から離れている離教の人々について心配していました。救霊を心配していました。
二十歳になると聖バジリオ修道会に入会し、後には大司教となって、離教のキリスト教徒らを、カトリックの懐へと戻そうと努力をしました。
聖ヨザファトの説教と、良い模範と犠牲と祈りによって、多くの霊魂達は教会に戻りました。
しかし、離教徒達はこのような活動におもしろく思っていませんでした。そこで、彼らは陰謀を企み、聖ヨザファトについて色々な事について告発しました、非難しました。
聖ヨザファトは既に殉教の時が来ていると知っていました。ある時、聖ヨザファトであるかと聞かれた時に、ちょうど私達の主のように、「そうだ、私がここにいる。」と、それをその通りに言って、逮捕されました。
生きたまま聖ヨザファトは袋の中に入れられて、川の中に投げ捨てられました。

この模範の大切なポイントは、忠実であるという事と、もう一つは私達の主が仰ったような愛徳です。つまり「兄弟の為に自分の命を与えるほど大きな愛はない。」と、言ったその愛徳です。
聖ヨザファトは私達に、信仰の問題である時にはいかなる妥協もない、という事で私達に模範を示しています。

現代、本当の意味の離教者や、本当の意味の異端者は、全く別の見方で、エキュメニズムという見方によって、全く別のように考えられています。
この間違ったエキュメニズムは、離教徒や異端者である人達が、そのまま離教や異端である考えをもったまま、同じグループであるかのように信じさせてしまって、これは、偽りの愛徳である、と言わなければなりません。
何故かというと、本当の信仰を伝えようとしていないからです。
何故かというと、救霊に至る為の唯一の道は、カトリックの信仰を告白する事であり、カトリックのクレドを告白する事であるからです。

私達もこの聖ヨザファトの模範と、この本当の意味のエキュメニズムに協力する事ができます。それは、私達の祈りと犠牲と模範によって、離教或いは異端者をカトリックの信仰に導く、という事です。

もちろん、私達がこの命を捨てるこの殉教まではできないまでも、しかし私達の命をイエズス様にお捧げして、カトリック信仰をもたない方々が、カトリック信仰をもつ事ができるように、私達が力を尽くす、という事こそ、私達にできる信仰と愛の業であります。
これはまたマリア様の御要求に応える事でもあります。マリア様は、色々な認可を受けた御出現の所で、罪人の回心の為に祈るように、私達にお願いされているからです。

この同じ事を、私達はミサの集祷文の中でお祈りしています。
≪主よ、願わくは、主の司教殉教者聖ヨザファトを充たし、自分の羊の為に命を与えさせたその霊を、公教会に与え給え。彼の取り次ぎにより、我らにもその霊を与え、我らを動かし、強め、兄弟の為に命を甘んじて与えさせ給え。その同じ聖霊との一致において、神として、御身と共に世々に生き且つ治め給う我らの主、聖子イエズス・キリストによりて、アーメン。≫
この祈りの中で最も偉大な祈りはミサでありますから、このミサの中で皆さんのご意向の為に、カトリック信仰を知らない、カトリック信仰の一致にいない人々の為に、彼らが信仰に導かれるように、信仰の一致に導かれるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。



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