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聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂 この二つの献堂式の記念には、どんな意味があるのか?

2016年12月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月18日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月18日(金)聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献のミサ 
小野田神父説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月18日、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献の献堂の祝日です。

今日この聖堂の奉献の祝日で私たちは、この聖堂の歴史的な事実は何だったのか?

これは神秘的に一体何のどんな事を意味しているのか?という事を黙想して、

最後に私たちの遷善の決心を立てる事に致しましょう。

既に2世紀から、聖ペトロまた聖パウロの亡くなった所に出来たお墓はローマで有名でした。異端の人(例えば異端の司祭カイウス)であってさえもその事は話題になっていて、「もしも嘘だと思うなら行ってみろ。聖パウロはオスティアの街道の所に墓があるし、聖ペトロはバチカンの丘の墓場にある。そこには競技場があって、その競技場の隣にペトロの墓がある。」

ところでコンスタンティノ大帝が、お母さんのお祈りと影響によって遂に洗礼のお恵みを受けた後、その8日の後、涙ながらにバチカンにある聖ペトロのお墓に行って、そしてそこに「聖ペトロを記念する大聖堂を建てたい」と望みました。そこでそこに行って跪いて平伏して、自分の着けていたローマ皇帝の王冠をそこに置いて、自分の手で鋤を持って鍬を持って、袋をザルに12個分土を掘って、「ここに私は聖ペトロの大聖堂を建てる」と言って、12の使徒の頭である聖ペトロを記念して、12の分の土を別に乗せて、「ここだ」と行って場所を示して、大きな場所を示して、実はローマの掟によって昔からの掟によって、お墓には誰も手をつけてはいけなかったのですが、唯一の例外として、ローマがやった唯一の例外で、聖ペトロの為に、そこにあったお墓を潰して、坂だった所を全部ならして、そして大きな非常に荘厳な教会を建てる事、「自分のお金で建てる」と望みました。

それと同時に聖パウロの墓地にも行って、「そこにも建てる」としました。聖パウロのお墓はローマの城の門の外にあったのですが、そこに建てる事を決定しました。

聖シルヴェストロ教皇様は、聖ペトロの教会を11月18日に聖別して奉献しました。私たちローマの典礼によれば 、11月9日にラテラノ大聖堂、至聖なる救世主イエズス・キリストの大聖堂の献堂を祝いますけれども、そのやはり約10日後、18日にこの大聖堂が聖ペトロ大聖堂が祝別されました。

そして巡礼者が昔からそのお墓詣出をする事ができたように、「聖ペトロの告白」という場所がありました。これは「聖ペトロが信仰告白をした」という意味で、教皇様の立てるミサの特別の祭壇がありますけれども、そのすぐその祭壇はその聖ペトロの告白、そのお墓のすぐ真上に建てられました。しかもその聖ペトロのお墓の所まで下りていく事ができるような階段も付けてあります。この今までは聖ペトロが使っていたという木の祭壇があったのですけれども、それは別のブロンズのものの中に収められて、そして石で祭壇ができました。聖シルヴェストロは、「金輪際、祭壇は石で作られる」と命令して、それを設定しました。ですから今でも私たちの祭壇の中には、「祭壇石」と言われる石を乗せなければなりません。

ところがこの荘厳な祭壇、この大聖堂も長い約1000年以上にわたる使用によって、それも傷んだりしてきました。そこで新しく1626年に、新しい今の私たちが見る事ができる、ミケランジェロによる設計の大聖堂が教皇ウルバノ八世によって、やはり11月18日に奉献され、そして特別の儀式を以って聖別されました。

聖パウロの御聖堂も、実はコンスタンティノ大帝によって建てられて、聖別されるのですけれども、残念ながら19世紀になると1823年に火事で焼かれてしまいました。火事でほとんどが全焼してしまって、その次の後の4代の教皇様の特別の努力によって、それが更に、それよりも今まであったよりも更に荘厳に、あたかも仕返しをするかのように立派に建てられます。そしてやはりその御聖堂の献堂を祝う事になりました。

ただし、11月18日に聖別式をする特別の献堂式をする代わりに、当時の教皇様ピオ9世はとても良い事を考えました。何故かというと、時は1854年で、献堂式を行うことができる準備が出来たからです。同じ年の12月8日に、「マリア様の無原罪の御宿りの特別のドグマを発表する」と決定しました。その時全世界から、もうこれ以上集まる事ができないだろうというほどの多くの枢機卿様、司教様が喜んでやって来ていて、そしてそのドグマの宣言を祝う為にやって来ていました。そこでその2日の後に12月10日に、ローマのこの聖パウロの大聖堂に行って、ここで荘厳な奉献式をしました。ただし献堂の祝日は、同じ11月18日であると決定しました。

ではこの二つの献堂式の記念には、どんな意味があるのでしょうか?

この2つの献堂式が私たちに、「確かに聖ペトロと聖パウロはローマにやって来た。そしてそこで殉教したという歴史的な事実がある。もう目に見える動かす事のできない証拠がある」という事だけではありません。それだけでも大した、もうお金では買う事のできない歴史の事実であって、2000年の事実がそこに現れています。

それと同時に、ちょうどこのミサの時に黙示録を私たちは読みました。11月1日には諸聖人の祝日を祝い、私たちの目を天に上げました。諸聖人のものすごい栄光、その喜び、天のエルサレムの市民、イエズス・キリストとその花嫁である公教会の神秘的な結婚、イエズス・キリストの私たちは生ける神殿となった、そのそれが完成させられた、その姿を黙想しましたが、ちょうどそれを象るかのようにその11月9日には、至聖救世主のラテラノ大聖堂の献堂式があり、またそのやはり約10日後の18日には、聖ペトロ・聖パウロの献堂式があるという事は、「私たちの心が、天のエルサレムにますます上がるように」という教会の特別な計らいでした。歴史的なその状況がちょうどこの11月に、この献堂式が3回も、3つの教会の献堂式を私たちが全世界で祝うという事を望んだのでした。

ラテラノ大聖堂は、最も重要な「全ての教会の母」と言われる教会であって、これは教皇様がローマの最高の司教として、ローマの教区の為の教会ですが、聖ペトロ大聖堂は聖ペトロが殉教した場所であって、世界的な意味を持つ、全世界の教皇様としての役割を果たす為の教会という性格を持っています。もしもラテラノ大聖堂が「ローマ教区の人々が集まる教会」であれば、聖ペトロ大聖堂は「巡礼者が聖ペトロを巡礼する為に、その聖地に巡礼する為に集まった教会」でした、世界的な普遍的な意味を持つ教会でした。

ですから聖ペトロ大聖堂では、非常に重要なミサ祝日には、指定巡礼大聖堂としていつも聖ペトロ大聖堂が指定されています。こうする事によって教会は、「私たちの心をますます天国に、私たちの祖国に、究極の目的である天の栄光へと目を向けさせよう、向けさせよう。特に11月にその事を黙想させよう」と思ったのでした。

では私たちはどのような決心を取れば良いでしょうか?

それは今日、ちょうどこの福音の中に表れています。ザケオは税吏で、ユダヤの人々からは「罪人である」と考えられていました。しかし、「イエズス様を見たい。イエズス様にお会いしたい。イエズス様という方がどういう方かを知りたい」と思うと、イエズス様は、「今日、私はお前の所に行く。お前のもとに留まる、お前の家に行く。」そして、ザケオの家をいわば教会にしてしまったのです、大聖堂にしてしまったのです。

イエズス様はそれによって批判を受けます、「何でこんな罪人の家に遊びに行くのか。」しかしイエズス様の決心はその断固として変わりません、「私は罪人の為にやって来た、救いの為にやって来た」と。

イエズス様がいらっしゃる所は、そこは全て聖堂となります。もしも石で出来た聖堂が、このように大きな荘厳な儀式を以って聖別されるならば、本当にイエズス・キリスト様を受ける私たちの霊魂、私たちの体はどれほど大切に扱わなければならないでしょうか。天国のエルサレムの生きる石となって、その天国の神殿を形作る一部となる私たちはどれほど、イエズス様の目にとって貴重なものでしょうか。

イエズス様は私たちへも、「今日今晩、お前の所に行く」と、「御聖体拝領を以って行く」と仰っています。「行きたい。」

私たちは一体その時に何と言わなければならないのでしょうか?ザケオのように、「イエズス様、もしも私に悪いところがあったら、全てそれを放棄します。もしも償いをしなければならないのだったら、2倍で償います。そして私の罪の為だけはなく、主を信じない人の為にも、礼拝しない人の為にも、希望しない人の為にも、愛さない人の為にも、私は主を信じ、礼拝し、希望し、愛します。」

もしもアメリカの国民が、新しい大統領に「アメリカ、ファースト!」と言う方を選んだとしたら、もしもそうしたら、それはきっとアメリカの人たちにきっと心に気に入ったからに違いありません。

イエズス様も私たちに、「イエズス、第一!」或いは、「イエズス様が私たちの全てだ。イエズス様こそ私たちが最も必要とする方だ」と言うように御望みではないでしょうか。

イエズス様が私たちのところに来て下さるのを迎えて、私たちもイエズス様に、心からの信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げ、「イエズス様だけに生きる」という、「イエズス様の為に生きる」という決心を立てる事に致しましょう。その為に、弱い私たちを助けて下さるマリア様に是非お願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「天の国は、芥子種に似ている。」 「天の国はパン種のようだ。」 芥子種やパン種とはどういう意味か?

2016年12月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後第26主日のミサ
小野田神父説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年11月13日、聖霊降臨後第26主日のミサです。このミサで読まれるテキストの内容は、御公現後第6主日のミサです。

日曜日のお知らせは、明日はいつものようにはミサがなく、次のミサは来週の主日です。そして12月も、11月と同じように3回ミサがあって、最初の主日、第3の主日、そしてクリスマスです。どうぞ皆さんいらして下さい。

ファチマの巡礼を来年8月に計画しています。8月17日に日本を出てファチマに行って、そして26日の主日の朝に帰ってくる予定ですけれども、アジア管区でグループで行くので、日本やシンガポールやフィリピン各地から同じ飛行機で、同じ価格で行く事ができます。しかも値段も私たちが1人で行く飛行機代よりも、或いは飛行機代と同じほどの事で全てのプログラムを、ファチマとローマに行って、そしてホテル代、飛行機代全て含めて30万円ほどで、28万円から30万円ほどでやろうと思っています。

団体の割引を有効に使って、ホテルも一番ファチマに一番良い所を貸し切ってあります。今そこの、ファチマでその時期にホテルは、もう私たちによって全て取られているので、もしもファチマだけに行くという方、ホテルに泊まりたいという方だけでも私にどうぞ仰って下さい。飛行機は別の方でも、ホテルだけは一緒にしたいという方はいらして下さい。

ファチマの巡礼に是非、皆さん招待したいと思いますので、色々なお仕事とか事情とか色々な事があると思いますけれども、多くの方の参加をお待ちしております。締め切りは11月30日までとなっていますので早めにお願い致します。

今日の午後は、やはり14時30分から公教要理があって、今日はこの前の続きの黙示録の7つの封印と7つのラッパについて、カステラーニ神父様の注解を紹介したいと思っています。16時からは第2晩課があります。


“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種のように似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主が、天国の国の例えを福音で話して下さいました。「天の国は、芥子種のようだ」或いは「パン種のようだ」と仰いました。

そこで今日提案するのは、ではそのパン種やこの芥子種というのは一体どういう事なのか?ではもしもそれが大きくなったら、膨れたらどのようになるのか?というのはどこに現れているのか?

そこで第2に、その現れている聖パウロのテサロニケへの手紙の中を見て、

そして最後に私たちは、そのようにパン種を膨らませて芥子種が大きくなるのを私たちがどのようにしたら良いのか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

この芥子種の例えは非常に有名ですから、皆さんもうよくご存知です。教会というのは天主様の建てた王国であって、目に見えずに働きます。しかし最初は本当に小さなもので始まったとしても、それは遂には大きなものとなって強くなって、そして多くの人々を多くの民族を、天を高く昇る、天に高く生える大木となる、と言います。

確かにイエズス様の聖心は御言葉は、芥子種のように本当に小さく始まりました。最初に12の使徒たちが、最後の晩餐の高間から聖霊降臨の時に出て説教をして、その日に3000名が洗礼を受けた時から始まると、全世界にあっという間に広がりました。ローマの異教の帝国は、「キリスト教を自分の国の教えとする。宗教とする」と言うまでになりました。多くの迫害と多くの血が流されたにも関わらず、殉教者の血は却って種となって、多くのキリスト教徒を生み出しました。

そればかりではありません。ローマ帝国の外にもキリスト教は進んでいきました。ですからゲルマン民族やスラブ民族、そしてインドやアフリカの方まで進みました。遂には日本やアジアにも到達しました。そしてこれはまだまだ続きます。たとえ暴風雨があって枝が折れてしまった、何とか遭ってしまったとしても、天主の御国は更に更に発展せざるを得ません。多くの聖人たちがその枝であり、多くの実りをもたらしました。ですから空の鳥たち、王様や多くの民族たちがその枝に留まってそこに休み、大家族を築いています。たとえ聖人たちの体はそこで死んだとしても、その枝は残りその模範は残り、多くの人々を養っています。

イエズス様はもう1つ例えを出します、「天の御国は、ちょうどパン種のようだ。」

「パン種」というのはラテン語の“fermentum”という言葉の訳ですけれども、これは、「パン粉の、あらゆる所に目に見えずに隅々まで働いて、それを全てに影響を及ぼして、全てにその力を与える、そして膨らませる」という例えです。

この「パン種」は何かというと、「イエズス様の御聖体だ」と教父たちは解釈しました。

何故かというと、皆さんミサの様子をよくご存知の方はよく分かると思いますが、司祭はミサの途中でパンをホスチアを3つの部分に割ります、まず最初に半分に、そして残された半分のうちの1つを取ってそれに、それを持って小さなホスチアのかけらを持って、それで十字架の印をして、その中にそれをカリスの中に御血の中に入れます。これは古代から伝えられていた儀式で、その昔は、実はこの入れる小さなかけらは、同じミサの使われたホスチアではなくて、その前のミサのホスチアの小さなかけらを、今のミサの中に入れたのでした。

何故かというと何故こんな事をするかというと、教皇様のミサでは、初代ちょうど初期にはそのようにやっていたからです。教皇様は、「ミサが、司教様が捧げようが、司祭が捧げようが、教皇様が捧げようが、荘厳ミサであろうが、読誦ミサであろうが、いつ、どの時代に捧げられるミサであっても、同じ1つのミサである」、この「継続している」という事を示す為に、自分の立てた聖変化させた一部を次のミサの為に取っておいて、そしてその前のミサで聖変化されたホスチアをカリスの中に入れました。

そればかりではありません。こうやってミサの一致とミサの継続性を表わす小さなそのかけらは“sancta”、「“sancta”聖なるもの」と言われているのですけれども、このこれは特別の祝日や或いは主日になると、ローマの全ての教会に教皇様からその破片が送られて、そのミサの、主日のミサではその大祝日のミサでは教皇様から送られたホスチアの破片をカリスの中に入れました。

これは何を意味するかというと、「こうする事によって私たちは、ローマの教皇様と一致している、交わりがある」という事を意味しているのでした。そして特に大祝日になると、特別な例えばクリスマスとか復活祭とか特別の祝日になると、ローマから特別に大司教や総司教等にそのホスチアが特別に運ばれて、聖香油などの様に運ばれて、そしてそれが入れられたのです。この破片の事を特別に、この一致を示す破片の事を“sancta”と言わずに、“fermentum”と、「パン種」というラテン語の名前が付けられました。

そこで教父たちは、「この『パン種』というのは、この『教会に染み通る御聖体』の事だ」と見ていました。「御聖体こそが、私たちの体の中に入り私たちをキリスト化させる、イエズス・キリスト化させるそのパン種であって、私たちは聖体によって膨れて成長するのだ」と解釈していました。

イエズス様が私たちに与えるパン種は、私たちを霊的に成長させる霊的な力であって、御恵みの事であって、天主の聖寵の事なのです。そうする事によって私たちは、イエズス様の御言葉の種と芥子種と、そして御聖体のパン種によって私たちは大きく、カトリック教会は大きく成長しなければなりません。

聖パウロが実はこの模範についてテサロニケの手紙の中で、テサロニケの教会の、その「模範となっている」という事を非常に褒めています、「私はあなたたちの事を忘れた事はない。あなたたちの信仰、それはまたあなたたちの愛徳、あなたたちの希望、それは本当に素晴らしいものだ」と褒めています。何故かというと、彼らの信仰は困難を耐え忍び、そして忍耐する、犠牲を捧げるのに準備ができている愛徳であり、そしてイエズス様だけに希望するものだったからです。

どうぞ聖パウロの美しい書簡をお読み下さい。カトリック教会は、母なる私たちの教会はこうやって、私たちがどのように遂にはなるべきか、イエズス・キリスト様の御来臨を待ち望んで生活しているテサロニケの人たちを模範に出しています。

「あなたたちの信仰の営みが、全ての人々に模範として知れ渡っている。私はそれについて非常に嬉しい。もう誇りに思う。あなたたちが選ばれた者であるという事を知ってほしい。あなたたちの選びを知ってほしい。天主から愛された兄弟たちよ」と言っています。

では私たちはその模範を見て、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちにとってイエズス様の御言葉の種は、或いは御聖体はどのように成長したでしょうか?今年1年、イエズス様は私たちに多くの恵みを下さいましたが、御聖体を下さいましたが、それを私たちがその中でどのように成長させる事ができたでしょうか?イエズス様の御旨の通りに、イエズス様が私たちに影響を与えたいがままにそれを受け入れたでしょうか?或いは、イエズス様が「本当はもっと私たちを成長させたい、大きくさせたい、ぐんぐんすくすくと天まで伸ばしたい、大きな枝にして実りもさせたい」と思ったにもかかわらず、私たちはそれを「ダメだ」「いらない」と言ったのでしょうか?

私たちの信仰はどうだったのでしょうか?愛徳はどうだったのでしょうか?犠牲を捧げるのに準備はできていたでしょうか?或いは希望はどうだったでしょうか?私たちは何を希望していたのでしょうか?天の事を希望したのでしょうか?それとも地上の事だけが関心事だったのでしょうか?

私たちの生活は他の方々にとって模範となっていたでしょうか?私は知っています、「聖ピオ十世会のミサに与る方の、聖伝のミサに与る方の信仰は模範的だ」と皆が言っているのを知っています。がしかし、私たちはそのような良い、そのようなお褒めの言葉に与る事ができるそれに相応しい者だったのでしょうか?本当はもしかしたらまだ足りないところがあったのではないでしょうか?私たちは主に全てを希望して、主に祈りを捧げていたでしょうか?

ちょうど今日そのような黙想をすると、この今日の密誦の祈りに繋がっていくように思われます、「御聖体が、イエズス様の御恵みが私たちを浄めて、そして刷新して、導いて守って下さいますように」とお祈りしているように思われます。

今日そのような反省をした後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。私たちがいつも、イエズス・キリストの御言葉に反対を邪魔物を置かないように、イエズス様の御旨を果たす事ができるように、イエズス様の御聖体の力を私たちがそのまま、妨害を入れずに受け入れる事ができるように。

ではその為にどうしたら良いでしょうか?

一番のやり方は、マリア様にお願いする事です。何故かというと、マリア様は御聖体の、聖霊の働きを一切拒んだ事が無かったからです。罪の汚れの無い方であったからです。イエズス様の御望みを、天主の御望みをそのまま、きれいに映し出されるガラスのように、それを実行されたからです。

ですから私たちがますます育つ為にも、教会がますます育つ為にも マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオと犠牲を、マリア様の汚れなき御心を通してお捧げ致しましょう。マリア様には私たちに、私たちに与える多くの力を持っていますから、それをマリア様から頂く事に致しましょう。

“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種に似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

マリア様に、一番心に適う事は何なのか?

2016年12月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月12日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月12日(土)殉教者教皇聖マルティノ1世のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年 11月12日、教皇殉教者聖マルティノ1世のミサを捧げています。今日のこの御ミサの後に公教要理の時には、公教要理に代わってクリスマスの朝課の練習をできればしたいと思っています。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖マルティノ1世教皇殉教者の御ミサですから、私たちはその教皇様の生涯を垣間見て、私たちに一体何が教えられているのか、何が求められているのか、天主様は私たちに今日、この教皇様の姿を見せて何をお求めになっているか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教皇聖マルティノ1世は、649年から655年まで教皇様でした。短い統治の間マルティノ1世教皇様は特に、過去ローマで多くの方々が殉教したその殉教を、異教徒の皇帝からローマ皇帝から受けた迫害を、実は洗礼を受けたローマ皇帝から迫害を受ける事になって、「使徒たちでもなかったそのような栄光を受ける事ができた。イエズス・キリストの為に苦しみを受ける事ができた」という事を喜んでおられました。

一体何故そのような事が起きたのでしょうか?

当時教皇様が教皇職に登位すると、コンスタンティノープルでは異端の説が流行っていました。特にコンスタンティノープルの大司教パウロは、総司教パウロは、「モノテリティズム」と言って、「イエズス様の中には天主の意思しかない。イエズス・キリストの中には意思は1つしかない」という説を立てました。

カトリックの教えによれば、「位格的結合の為に、イエズス・キリストの天主のペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が1つに合体しています。そこでイエズス様は完全な人間であり、完全な天主であります。完全な人間であるという事は イエズス様は完全な人間としての知性も、人間としての意志も持っています。それと同時にイエズス様は天主でもありますから、天主としての知性と、天主としての意志も持っています。イエズス様には『2つの本性がある』という事から、知性も意思も2つある」という事が結論付けられますけれども、この異端説は、「そうではない。イエズス・キリストは意志が1つしかない。全ては天主の意思によって動いている。」暗黙のうちに、「イエズス・キリストは不完全な人間だ」という事を意味していました。

そこで教皇様はすぐにその事を、多くの手紙を書いて、「そうではない。何故ならば、こうで、こうで、こうだ。」そして多くの使者を送って、異端説を唱えている司教たちを説得させて、「そうではない。」その説を捨てさせるようにしました。

その祈りと犠牲によって、その教皇職の義務を素晴らしく果たした聖マルティノ1世は、遂にコンスタンティノープルの総司教を異端説から正当なカトリックの方へと導く事に成功します。

ところが、コンスタンティノープルにいたローマ皇帝は実は異端説を信じていました。そしてその「異端説を捨ててカトリック信仰に戻った」という事を聞いて非常に怒ったコンスタンス2世は、このなんとか聖マルティノを亡き者にしようとしました。

聖マルティノは更にこの事をラテラノ公会議を開いて、この事を公会議でその事を信仰をはっきりとさせました、「イエズス・キリストは、天主の意思と人間の意思の2つがある」とはっきりさせました。

すると、教皇様は御自分の職務を立派に果たしただけだったのですけれども、その事はローマ皇帝の怒りを買いました、世俗の権力の怒りを買いました。そこでローマから派遣された使者たちは、色々な島々に追放されてしまいました。

そればかりではありません。ローマ教皇を亡き者にしようと使者、オリンピウスという男が送られて、「彼をミサの最中に暗殺するように」という命令を受けました。そしてオリンピウスという使者を送ってその教皇を亡き者にしようとするのですけれども、ミサの途中それは果たせませんでした。何故かというと、いきなりその黒幕は目をやられて盲目になってしまって、そして何もする事ができずに使命を果たす事ができませんでした。

それを知ったコンスタンス2世は更に使者を送ります。この使者は教皇を騙して、遂に コンスタンティノープルに誘拐しそして連れて来ます。コンスタンティノープルでは教皇マルティノ1世は床に付けられて、そして多くの人々の異端者の笑い者にされ、その後に約3ヶ月牢に閉められ、次に裁判を受けて、島流しに合い、そして全くの貧困と苦しさの内に、そこで殉教します。

教皇様は自分の使命を立派に果たした、それだけで、この殉教の苦しみを味わわなければなりませんでした。

一体、聖マルティノ1世教皇様は私たちに何を教えているのでしょうか?

私たちに、「私たち自身の義務を、私たちの為すべく務めをよく果たせ。そしてそれこそが私たちの聖徳の道である。もしかしたらそれが、世俗の人々の笑いを買うかもしれない、或いは怒りを買うかもしれない、受け入れてもらえないかもしれない。しかし私たちの日常の、天主から与えられた義務を良心的に、誠実に果たす事が私たちの最高の聖徳の道だ」という事を教えています。

もしも私たちがファッションに従わずに、慎みのない服を着ないとしたら、世間の人たちは私たちの事を嘲笑うかもしれません、「時代遅れだ。おばちゃんのようだ。」或いは「何?このような事もやらないの?」と笑われるかもしれません。

しかし、仕事の帰りに、「さぁ、」一緒に行ってはいけない「店に行こう。」或いは行ってはいけない所に「行こう」と言われて、「 私は行けません」と。「何だお前は、世間付き合いが悪い。」しかし時には、私たちはそれを捧げなければならない時があります。

幼きファチマの幼きフランシスコとジャシンタも、自分の務めを果たし、そしてそれを犠牲として捧げていました。ルチアは大きくなって、「マリア様に一番心に適う事は何なのか?」と聞かれたら、すぐにこう答えました、「それは、私たちが日常の務めを犠牲として捧げる事です。」

まさに天使が最初に教えてくれた事、そしてマリア様が最初の御出現の時に言ってくれた事、「あなたは天主様があなた達に送る事を、罪の償いとして、罪人の回心の祈りとしてそれを捧げますか?」「はい、私たちは捧げます。」それこそが一番の天主の聖心に適う事であると教えています。

あるときルチアは聞かれて、「ではロザリオは、ロザリオの祈りよりも犠牲の方が大切なのか?」と。するとルチアは、「そうだ」と言って、「でもロザリオの祈りは、このお祈りをする事によって私たちの犠牲を良く務める事ができるように助けてくれるので、とても大切だ。だからロザリオをする事によって、私たちはもっと犠牲をする為に自分の務めを果たす事ができる、だからロザリオを忘れてはいけない」と言っていました。そして「ロザリオを唱え、自分の犠牲を罪の償いとして罪人の回心の為に捧げる事ができる為に、スカプラリオをいつも身に付けるべきだ。何故ならこれを身につける事によって、私たちの義務をはっきりと分からせてくれるから。祈り、償いをしなければ、犠牲をしなければならない事を思い出させてくれるから」と言っていました。

まさに11月1日、諸聖人の祝日で私たちが祝ったのもこれでした。多くの本当に名も知れないような、私たちから見たら或いはこの世から見たら何の、もしかしたらこの世から見れば、「一体どれほどの歴史的な事を残したのか?」と分からないような、多くのジャシンタやフランシスコたち、多くの一介のカトリックの信徒たちのその大群。日々の犠牲を捧げて、或いは貧しさを捧げて、或いは仕事を捧げて、或いは屈辱を捧げて、或いは小さな犠牲を捧げて、或いは自分の義務をコツコツと果たす事によって、自分の与えられた使命を果たす事によって、お父さんとして、お母さんとして、或いは子供として、或いは公務員として、或いは今日の聖マルティノ1世のように教皇様として、或いは皇帝として例えばカール皇帝のように、或いはルフェーブル大司教様のように司教様として、多くの義務を果たした事によって一生を聖化させて、教会に多くの栄光と、天主に讃美と、霊魂の救いと、罪の償いを果たした無数の人々がいます。

聖マルティノ教皇様は殉教者はまさにそれの一人でした。私たちにもその道を辿るように招いています。

もしもこういう事を言う事が許されれば、教皇様はつい最近、「フランシスコ教皇様はスウェーデンに行ってルター派と同じ共同宣言をした」とか、或いは「ルターの像をバチカンに入れた」と報道がなされ、私たちはそれを見ると非常に悲しみと心配で心が襲われます。願わくは、教皇様が御自分の務めを果たせますように。

しかし私たちにとって、教皇様の為にお祈りをする、「教皇様がその務めを果たす事ができますように」とお祈りをして助けるという事は私たちの務めである事ですけれども、「教皇様が教皇様であるかないか」というのを知るのは私たちの務めではありません。それを知ったから私たちが聖人になるのでもないし、天国に行くのでもありません。

教皇様の為に、私たちはお祈りを致しましょう。教皇様がロシアをマリア様のお望みの通りに、全ての司教様たちと一致して、汚れなき御心に奉献なさいますように。

またどうぞ愛する兄弟の皆さん、私の為にもお祈り下さい。私が良く司祭職を、その責務を全うする事ができますように。私の義務は、「同じ、昔からの同じ教えを、何も変えずに忠実に伝えて、そしてそれを説明して、それを繰り返し、また繰り返し、繰り返し繰り返し、同じ事を何度も何度も何度も何度も、皆さんに言う事」です。その務めが果たせる事ができますように。

もしかしたら、「小野田神父は同じ事ばかり何度も言っている、面白くない。ブログを読んでもいつも同じ事ばっかりだ。新しみがない。何かもっと別の事も話したら良いのではないか」と非難されるかもしれませんが、願わくはそのような方が、カトリックの司祭の義務が実は、「同じ事を繰り返す事にあるのだ」と気が付いてくれますように。そして全ての司祭たちが、その義務をよく果たす事ができますように。聖マルティノ1世教皇様に倣う事ができますように。そして私たちもその日常の全ての義務を犠牲としてお捧げして、そして祈りと共に多くの霊魂の救いの為に、教会の為に、教会の発展の為に、私たちの人生を捧げる事ができますように。

そうする事によって遂には諸聖人と共に、聖マルティノ1世や多くのジャシンタやフランシスコ、ルチア、多くの義務を果たした、祈りを果たした聖人たちと共に、天国での凱旋を楽しむ事ができますように、お祈りを致しましょう。聖母マリア様に特に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちの心に、マリア様の心に燃えていた愛の炎が私たちの中にも燃え伝わりますように

2016年12月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月5日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月5日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年11月5日、聖母の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心のミサをしています。このミサの後に、いつものように公教要理で、今回はファチマの100周年の準備の為に、一体100年前にどんな、世界の状態はどんなだったのか、この地上と天国と地獄ではどんな戦いが起こったのかについて黙想する事を提案します。

それから今日は初土曜ですので、食事の後で、信徒会長と今日の初土曜の信心をまたなさって下さい。

ここではいつものミサに加えて、来週の土曜日にも10時30分からミサがあります。ですからここでは、今週の土曜日と来週の土曜日と、更に再来週の土曜日にも10時30からミサがあります。それから12月も、23日と24日の予定に加えて、22日にも夕方にミサが付け加えられました。

ファチマに巡礼に行こうという方は、この11月30日が締め切りですので、早めにどうぞ申し込みをなさって下さい。シンガポールのお金で500ドルとパスポートの写真の付いた所のスキャンをして送って下さればこれで大丈夫です。



“Ut corda nostra ignis ille divinus accendat,qui Cor beatae Mariae Virginis in flammavit”
「私たちの心にも、童貞マリア様の心に燃えていたその火が私たちにも燃え移りますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日聖母の汚れなき御心の随意ミサの中で、密誦では、「私たちの心に、マリア様の心に燃えていた愛の炎が私たちの中にも燃え伝わりますように」とお祈りします。

そこで一体、マリア様の心には一体どんな愛が燃えていたのか?どんな火が炎が轟々と燃え盛っていたのか、永遠の火が燃え盛っていたのか?という事を黙想する事を提案します。特にファチマのマリア様を通して、この火が一体何であったのか?という事を黙想致しましょう。そこでその黙想の後に、私たちもその同じ火で燃える事ができるように、マリア様に御取次ぎをお祈りして、そして遷善の決心を立てる事に致しましょう。

昨日は、100年前ファチマにポルトガルの守護の天使がやって来て、平和の天使がやって来て、おそらく大天使聖ミカエルがやって来て、子供たちの前に「どうやってお祈りをしたら良いのか、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心の特別の憐れみの計画、それの一番心に気に入る祈り」について話しました。

マリア様もそれと同じ事を、最初にお現れになった時に仰います。マリア様がファチマのトキワガシの樹の上に立ってお現れになった時に、ルチアは聞きます、「一体あなた様はどこからいらしたのですか?」マリア様は答えました、「私は、天国からの者です。」ルチアは、「一体あなた様は私に何をお望みですか?」そしてルチアは更に質問して、「私も天国に行く事ができますか?」と、「ジャシンタは行きますか?」「フランシスコは行きますか?」と聞きます。

この最初のマリア様と子供たちの会話を見ると、マリア様が私たちに一体、「一番私たちに持ってほしいという関心事は何か」という事を教えているようです。

「私は天国からの者です。」

マリア様は私たちの心をすぐに天国に上げさせました。もちろんマリア様は、「私はイエズス様の御母です」「私は童貞聖母マリアです」と言う事ができたかもしれません。でもマリア様は、「天国からの者です、天国から来ました。」

この言葉を黙想すると、ちょうど11月1日のこの前の諸聖人の大祝日を私たちは思い出さずにはいられません。天国の全ての聖人、天使たちが非常に栄光に満ちて、きれいな栄光の服に着飾って、或る者は真っ白いきれいな純白の雪よりも白いドレスを着て、或る者はキラキラ光る宝石に眩いて、或いは或る者は殉教の赤い帯を締めて、或る者は貞潔の真っ白いドレスを着て、或る者は博士としての知恵の冠を被りながら、或いは童貞の冠を被りながら、殉教の冠を被りながら、手にはおそらく勝利の棕櫚を持って、或る者はかつてこの地上では王様だった、或る者はこの地上で教皇様だった、或る者は家庭の主婦だった、或る者は司祭だった、或る者はもしかしたら私たちの先祖も日本の殉教者も、或いは世界中の多くの数知れない何千何万何億という多くの人々の数が、大聖人の数々が、きれいな天国のステンドグラスよりもはるかにこの光輝くような、宝石のようなキラキラとする天のエルサレムの大聖堂の中で天主の栄光に導かれ、その反射で輝きながら、「聖なるかな、聖なるかな、」と叫び、歌い、讃美しているその天主、天国。

更に天使たちも、ケルヴィム、セラフィム、9つの階級の全ての天使たちが何兆何億という多くの大群が、その讃美の歌をきれいなハーモニーで歌っている。その中にその中心にあるのは、眩い限りのマリア様、聖ヨゼフ、イエズス様、玉座に座っておられる御父。その三位一体の輝かしい光栄、その眩い威光。その前に皆ひれ伏して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊、御身を心から讃美致します。心から礼拝致します。御身を愛し申し上げます」と、大天使、天使たちや聖人たちが声を合わせて歌い、讃美しているその栄光の天主、天国。

おそらく天国では、その眩い光の中に色々な色と、音楽と、或いはこの地上のすばらしい香の焚香りよりも花々の香りよりも更に美しい芳しい香りが漂い、そして音楽が奏でられて、そして歌が歌われて、讃美と感謝と喜びで満ち溢れたその天国から、マリア様が私たちの元にやって来て、「私は天国からの者です」と仰ったのです。

そして私たちも、「あぁ、その天国の光り輝く喜びと、永遠の命の中に招かれているのだ!」と心をすぐに上げざるを得ないではないでしょうか。

一体私たちがどれほど、この私たちの究極の目的である「天国」の事を考えているでしょうか?私たちを愛するがあまり、この地上を創り、「天国の栄光に入れたい」と思って私たちを創造した天主三位一体の愛の事を、憐れみの事を考えるでしょうか?

よく私たちの言われる事は、「愛すると、その愛するその相手の事をいつも寝ても起きても考えている」と言います。もういてもたってもいられずにその人の事を考えて、その人を思って、「どうしているか」と思うのですけれども、天主様は私たちの事をいつもこうして思って下さいます。

私たちは一体どれほど天国の事を思っているでしょうか?天国のイエズス様や三位一体やマリア様の事を考えているでしょうか?

或いは全然考えていなかったのかもしれません。地上の事だけで追われて、その事だけを地上の面白おかしい事だけで、天国の事はケロッと、全ての事は天国の事を除いて考えていたのではなかったでしょうか?

ルチアは、マリア様が天国からいらしたという事を聞いて、すぐに聞きます、「私も天国に行けますか?」

ルチアは何と良い子供でしょうか。すぐに「マリア様の元に行きたい。その天国の栄光に入りたい。」天国の喜びの事を思いました。

一体私たちはどれほど、「天国に行くだろうか?天国に行きたいなぁ!」天国に、私たちも大きな望みを持って、「すぐに行きたいんだ!」と思っているでしょうか?それよりももしかしたら、「地上のもっとこの面白おかしい事をして、」「この地上の事でお金を貯めて、」「この地上でおいしい物をたらふく食べて、」という事を思っているかもしれません。「あの服を着て、」「あのあそこに、」地上の事だけで頭がいっぱいだったかもしれません。

ルチアのすごい事はもっとでした。「自分が天国に行くか」と聞いて、「はい、行きますよ。天国に行きますよ」という特別のマリア様からの優しいお返事を頂いたら、「じゃあ、ジャシンタちゃんは?ジャシンタは行きますか?」と、すぐに自分のお友達の事を考えます。「“Tambien.”ジャシンタも行きます。」「じゃあ、フランシスコは?」「うん、フランシスコも行きますよ。でもフランシスコはたくさんロザリオを唱えないといけません。」

私たちはどれほど、私たちのお友達や、家族や、友人が、「天国に行くかどうか」という事を考えるでしょうか。私たちの家族や、友人や、同僚や、隣人、兄弟姉妹たちが「すぐに天国に行くだろうか」という事を考えるでしょうか。その救霊の事を考えるでしょうか。

それよりも救霊の事よりももっと、「あぁ、」否定的な事を或いは考えたり、「あぁ、うちの夫は私にこんな悪い事をした」とか、「うちの姑はこうだ、ああだ」等と、「あぁ、うちの子供は本当に…」などと、「うちの上司は…」、「うちの修道院長は…」などと思っているかもしれません。

マリア様が、「天国に行く」という事を約束して下さるその事を、「行きますよ」と教えて下さった事は、子供たちにとって何という喜びだったでしょうか。コルベ神父様も長崎で、「天国に行く」という事を知らされた時にとても大きな喜びで、それは本当に大きな秘密でした。子供たちの心はすぐに天国にへと向かいました。

すると次に思った事は、第2のこのポイントは、ルチアの質問でした。

「じゃあ、死んだマリア・ダス・ネヴェスはもう天国にいますか?」マリア様は優しく答えます、「はい、いますよ。今天国で永遠の命を味わっています。」「あぁよかった、マリアちゃん今天国にいるんだ。」

「じゃあ、アメリアは?」アメリアさんは18歳か20歳くらいだったそうです、ちょっと前に亡くなった。マリア様は、「彼女は、世の終わりまで煉獄にいます。」

今から100年前、インターネットもYouTubeも3Dの映画もそういう娯楽も、悪い雑誌なども全くなかったそのような時代に、携帯もなかった時代に、スマートフォンもなかった時代に、一体アメリアちゃんが世の終わりまで煉獄で苦しまなければならない、罪の償いをしなければならない、一体どのような罪を犯したのでしょうか。

「世の終わりまで煉獄にいる。」

ちょうど11月2日死者の日には、教会は司祭に3つのミサを捧げさせます。煉獄の霊魂たちが早く天国に行けますように。マリア様もきっと子供たちにこの事を、「煉獄の霊魂たちが、もしかしたら世の終わりまでずっと苦しんでいなければならない。何故かというと、誰も彼らの事を考えていないから」という事を教えたかったのかもしれません。

マリア様は実は、7月にはもっとすごい事を教えます、子供たちに。7月にお現れになった時に手をパッと広げると、地上地面を開かせて、この今ちょうど灰色に見えているようなこの床の下が開かれて、真っ赤に燃える、燃え盛る火の大海原を見るのです。

想像して下さい、私たちが空中に浮いて、轟々と燃える火の大海原を見て、その中に多くの霊魂たちが、雪が吹雪の雪が落ちるようにバラバラ、バラバラ、バラバラと地獄に落ちている。そして物凄い厳しい、恐ろしい獣のような形相をした、見るからに恐ろしい、もう顔を見るのも嫌な、見るのも嫌な悪魔が、その霊魂たちをいじめて拷問している。あまりにも恐ろしい姿を見ました。

マリア様は瞬間、その地獄の様子を瞬間的に見せます。ルチアは後に、「もしも私たちが天国に行くという事を約束されていなかったら、もう恐ろしさのあまり死んでしまったに違いない。」私たちがお化け屋敷に行ってびっくりしたというよりもさらに恐ろしいものでした。もうこのそのような地獄を見るだけで、それでもう恐ろしさのあまり気を失って死んでしまう、それほどの恐ろしさでしたが、その後でマリア様は非常に悲しい面持ちで、「あなたたちは可哀相な霊魂たちが行く地獄を見ました。」

マリア様は永遠の事を私たちに教えようとしていました。子供たちに、「この地上の短い人生は、永遠の助かりの為に、救霊の為にあるのだ。その為に使わなければならない。そしてそれを使い損ねた人たちはあまりにも多くいて、多くの霊魂たちが地獄に落ちている」という悲しい現実を教えてくれました。

マリア様は子供たちが、「さぁお前、地獄に落ちるぞ、さぁさぁ、罪を犯すな!」と脅した訳ではないのです。マリア様は、「あなたは天国に行きます。だけれども、多くの霊魂たちが天主を侮辱し、冒瀆し、無関心でいるので、そして誰もこの霊魂たちの為に祈り、犠牲を捧げる人がいないので、かわいそうに、この人たちは地獄に落ちてしまうのですよ。」「さぁ、何とかしましょう。さぁ、この霊魂たちを助けあげましょう。この霊魂たちに何とか憐れみを捧げてあげましょう」と、仰っているのです。

ここがマリア様の違いです。私たちもこのマリア様の心の中に、汚れなき御心に燃える火を垣間見たのではないでしょうか。マリア様は、「霊魂を救いたい。私たちと多くの霊魂を救いたい。天主を愛し、天主を愛するが為に、この多くの霊魂を天主の元に引き寄せたい」という、この永遠の愛の火で燃えていたのでした。霊魂の救いの望みで燃えていたのでした。

5月の最初に、「天国に行きますか?ジャシンタは?フランシスは行きますか?」と聞いたその後に、マリア様はこの子供たちにこう言うのです、「アメリアちゃんが世の終わりまで煉獄にいる」と言ったその直後に、こう言ったのでした、「あなたたちは、天主様があなたたちにお送りする事を望まれる全ての苦しみを天主に捧げて、自分を捧げる事を望みますか?それを罪の償いとして、罪人の回心の為に捧げる事を望みますか?」と聞きました。

天使が最初に現れて言った事と全く同じ事でした、「一体何をしているのか?お前こんな事してのらのらしている時間はないんだぞ。この地上でお前たちは祈りと犠牲を捧げて、罪人の回心の為に全てを捧げなければならないんだよ」という事を教えた事と全く同じ言葉を、マリア様は仰ったのです。

「あなたたちはそれを望みますか?」

マリア様は同じ事を私たちにも望んでいます。典礼を通して、天国の諸聖人の大祝日と死者の記念を経た私たちにとって、初土でマリア様は同じ事を聞いています、「あなたたちは、天主様のお送りする全ての苦しみを、罪の償いとして、罪人の回心として捧げる事をお望みになりますか?あなた自身を天主様にお捧げする事をお望みになりますか?する事ができますか?多くの霊魂たちが地獄に落ちています。何とかそれを助ける事ができますか?私と一緒に助けて下さい。多くの霊魂が天主を冒瀆し、侮辱し、屈辱して無関心なので、天主は本当に御悲しい、もうこれ以上罪を犯させないように、何とか霊魂を地獄の火から守る為に、救う為に助けてくれますか?全ての苦しみを捧げてくれる事ができますか?」と、マリア様は私たちにも聞いています。

ルチアは答えます、「はい、望みます。」

するとマリア様は答えました、「はい。あなたたちはたくさん苦しまなければならないでしょう。でも天主様の憐れみが、天主様の御恵みがあなたたちの慰めとなるでしょう。」と。「ロザリオを毎日唱えて下さい。」

マリア様は言葉を続けます、マリア様は私たちにも同じ事を仰るに違いありません。「はい、マリア様、望みます。マリア様の御心を、汚れなき御心をお慰めして、イエズス様の聖心をお慰めして、霊魂を救う為にマリア様と同じ愛の火で燃やして下さい。」

マリア様は私に、「では、たくさん苦しまなければならない事ですよ。辛い事もたくさんあるでしょう。でも天主様の御恵みは、私たちを強めて下さる事でしょう、慰めて下さることでしょう。私の御心はあなたたちの避難所となる事でしょう、天国への道しるべとなる事でしょう。心配しないで下さい。私は決して見捨てる事はありません。いつもそばにいます。」

では私たちは、今日この初土曜日でどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちも是非、まず第1に、私たちもマリア様のいらっしゃる天国へと心を高く上げましょう。「私たちもマリア様の元に早く行きたい」という望みがこう起きますように。マリア様の愛の火て私たちの心を燃やして下さるようにお願い致しましょう。私たちは天国に行く為にここに生きています。その為にここに生まれてきましたから。

第2は、マリア様のお望みの通り、多くの霊魂たちを救う為に、祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。これこそ隣人に対する真の愛です。私たちがもしもこの地上で、健康や、この地上での成功を祈るとしても、天国を失ってしまったら一体何の意味があるでしょうか?私たちの本当の隣人愛は、隣人の救霊にあります、隣人の救霊を望む事にあります。この隣人の救霊を望みましょう。地獄に行かないように、また今罪を犯そうとしている人、或いは地獄に落ちよう死のうとしている人たちが、天主の憐れみを最も必要とする人たちが、天国に導かれますようにお祈り致しましょう。

最後に第3には、天主様はあまりにも多く侮辱されているので、それをお慰め致しましょう。私たちにとってここに違いがあります。私たちは天主様を中心として、天主様が愛されるように、天主様が礼拝されますように、天主様こそが一番でなければなりません。天主だけが全てでなければなりません。ですから私たちの心を込めていつも、「主を信じ、礼拝し、希望し、愛します」という射祷を唱えましょう。そして主を愛さない人、主を信じない人、礼拝しない人、希望しない人、愛さない人の代わりに赦しを乞い求めましょう。私たちはその主を冒瀆する人々の為に、特に御聖体に於けるイエズス様を侮辱するような人々、礼拝しないような人々の為に代わって、御聖体を心から愛を以て礼拝して、その御聖体を償いの意向で拝領致しましょう。これが初土の信心です。

私たちの求めるのは、この「弱者に対する権利が無視された」とか、「私たちの人権が阻害された」とか、「私たちの人間の権利としての尊厳が無視されたから、それについて謝罪せよ」と言うのではありません。私たちは進んで赦しを天主様に、罪人に代わって赦しを求めます。罪人に「謝罪せよ」と要求するのではありません。

そしてこの、罪人に代わって私たちが犠牲を捧げるという事こそ、イエズス様とマリア様の聖心をお慰めするという事こそ、初土の信心です。今日はこの遷善の決心を取って、良い11月、死者の月を送る事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

Rorate caeli desuper et nubes pluant justum 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。日本語訳をご紹介いたします。

2016年12月01日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖歌 Rorate caeli desuper et nubes pluant justum (天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。)の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Rorate caeli desuper et nubes pluant justum 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。
Ne irascaris, Domine, ne ultra memineris iniquitatis.  1. 怒り給うな、主よ、これ以上邪悪を記憶し給うなかれ。
Ecce civitas Sancti facta est deserta, Sion deserta facta est, 見よ、聖なる方の都市は荒れ果てた、シオンは荒れ果てた、
Jerusalem desolata est エルサレムはもの寂しくなった、
Domus sanctificationis tuae et gloriae tuae, ubi laudaverunt te patres nostri 御身の聖化と御身の光栄の家、私たちの祖先が御身を讃美したその家は(荒れ果てた)。
Rorate... 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。
Peccavimus, et facti sumus tamquam immundus nos 2. 私たちは罪を犯した、そして、私たちは不浄なものであるかのようになった、
Et cecidimus quasi folium universi また、至る所の落ち葉のように私たちは落ちた、
Et iniquitates nostrae quasi ventus abstulerunt nos また、私たちの邪悪らは風のように私たちを取り去った、
Abscondisti faciem tuam a nobis, et allisisti nos in manu iniquitatis nostrae 御身は御顔を私たちから隠し、御身は私たちの邪悪の手において私たちを踏みにじり給うた。
Rorate... 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。
Vide Domine afflictionem populi tui 3. 見給え、主よ、御民の苦悩を、
Et mitte quem missurus es そして御身が遣わし給う者を遣わし給え、
Emitte Agnum dominatorem terrae de Petra deserti ad montem filiae Sion 地の支配者たる子羊を、砂漠の岩からシオンの娘の山まで遣わし給え、
Ut auferat ipse jugum captivitatis nostrae そはその方が私たちの隷属のくびきを取り除くためなり。
Rorate... 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。
Consolamini, consolamini, popule meus 4.慰められよ、慰められよ、我が民よ、
Cito veniet salus tua おまえの救いはすぐに来るだろう、
Quare maerore consumeris, quia innovavit te dolor? 何故、おまえは悩みに憔悴するのか、苦しみがおまえをまた新たされるのか?
Salvabo te, noli timere 我は、おまえを助ける。恐れるな、
Ego enim sum Dominus Deus tuus, Sanctus Israel, 我は実におまえの主なる天主、イスラエルの聖なる者、
Redemptor tuus おまえの贖い主である。
Rorate... 天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版 :【付録】 1917年

2016年12月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
【付録】1917年

100年前の、1917年、世界は第一次世界大戦の真っ最中でした。連合国(イギリス・フランス・ロシア帝国・セルビア・モンテネグロ・イタリア・ルーマニアなど)が、中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア)と戦っていました。ヨーロッパでは、戦車、毒ガス、潜水艦、飛行機、機関銃などの新兵器が投入され、毎日、数千名の人々が戦場で命を失っていました。

ヴェルダンの戦い(フランスのロレーヌ県北部ベルギー国境の近く)だけでも、1916年2月から10月までの間に、百万名の死傷者を出しましたが、戦いが終わったときにはフランス軍もドイツ軍も始めた場所と全く同じ位置を動きませんでした。

北フランスのソンムの戦いでは、13Km程の戦線を守るために、イギリス軍50万人、フランス軍20万人、ドイツ軍42万人の死傷者を出しました。例えば、1916年7月1日の一日の数時間だけで、イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を出しました。イギリス軍の千年の歴史で最大の損失でした。そこにあるのは、終わりのない機関銃戦と鉄条線と、無惨な殺戮と破壊だけでした。

第一次世界大戦は、1914年にサラエボから始まりましたが、どこで終わるのか誰にも分かりませんでした。「平和」という言葉は、忘れられ、禁止されていました。「平和」とはイコール敗北であり裏切りでした。既に1915年の終わりには、本当なら1914年の終わりにでさえ、国家指導者や軍人たちはだれもこの戦争に勝つことは出来ないと理解していなければなりませんでした。このままでは西洋文明が共倒れとなって崩壊するだけでした。この戦争を続けることは、人類の歴史にかつてなかったッ狂気でした。しかし、政治家と将軍たちは自分たちの勝利を常に語っていました。地上で平和の訴えをしていたのは、ローマのベネディクト十五世だけでした。しかし教皇の声は人々からは無視されつづけました。王も臣民もカトリック信仰に生きた時代を「暗黒時代」と呼ぶ現代こそが、戦争を「人類の恒常的な装置」としている「暗黒時代」(ベネディクト十五世)となってしまいました。

1917年には、ローマでさえも、フリーメーソンがそのロンドンにおける最初のロッジ創立200周年を祝っていました。ローマのどこもかしこにもルチフェルによって踏みにじみられ打ち負かされている大天使聖ミカエルの旗やポスターが貼られていました。戦争はこの地上だけのことではなく天と地獄とが共に戦っている見えない世界の大戦でした。聖ペトロ大聖堂に向かって、悪魔的な行列が練り歩き「サタンがバチカンを統治し、教皇はサタンのしもべとなる」という冒涜のスローガンさえ人々は叫んでいました。人類は、狂気の淵に深く落ち込んでいました。

その兆候はかすかにありました。1902年5月8日、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日、カリブ海に浮かぶマルティニークの活火山であるプレー山(Mont Pelée)が大噴火を起こし、県庁所在地だったサン・ピエールの住民の約3万名ほぼ全員(脱出したのは3名のみ)が生き埋めとなる事件がありました。その年、噴火の40日前だった聖金曜日に、フリーメーソンたちがプレー山に私たちの主イエズス・キリストの十字架を嘲弄して町中を引き回してついにはその火山口に捨てた後のことでした。これは、イエズス・キリストをうち捨てた後の世界に迫る来る何かが起こることを暗示していたかのようでした。
ロシアのアンドレイ・ベールイは、1902年のマルティニーク諸島の火山爆発のうちに、新しい悲劇の新時代の物理的な証拠を見て取っていました。大気中に漂う火山灰のために、二、三年の間は大気がバラ色をしてして、ロシアにでさえ信じがたい美しさの日没や夜明けの現象があったのです。

別の兆候は、1912年4月14日に起こりました。イギリスの最大の客船タイタニック号は、高価なカーペットとクリスタルのシャンデリアで最高に飾られ、技術の粋を集めて作られた船で(ホワイト・スター・ライン社の従業員が1911年5月31日タイタニックの進水式で「天主でさえもこの船を沈没できない」と自慢していた程)沈むことがないと考えられた世界最大の豪華船でした。しかし、1912年4月14日、サウサンプトンからニューヨーク行きの処女航海でその4日目に、目に見えない氷山に脇を傷つけられて沈没します。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒ほどこすり、6個の狭い穴(合わせて1.2m²ほど)が船体に開いたのです。

ちょうどタイタニック号のように、人類は自分の富と技術とにうぬぼれて、天主とイエズス・キリストのいない世界を作ろうとし、それを自慢していました。カトリックを国教とする王国とカトリックを信じる帝国を崩壊させ、カトリック教会の世界における影響力を弱める、これがためにも戦争は続けられなければなりませんでした。例えばトマーシュ・マサリク(後にチェコスロヴァキア共和国の初代大統領となる)の Světová revoluce(『世界革命』1925年、英訳 The Making of a State)によると、彼は1915年にロンドンで「ハプスブルク帝国の解体が戦争の第一の目的のようだ」と知ります。

しかしその結果は、世界戦争を通して天主の無い希望の無い深い墓の中に人類を投げ込むことでした。人・モノ・カネは際限なく、躊躇なく、遠慮なく、底なしの戦争の淵に投げ込まれました。誰にも戦争を止めることが出来ず、西洋世界は自己破滅の泥沼にずぶずぶと潜り込んでいきました。しかし公式報告はあくまで「西部戦線、異常なし」でした。

天主は、2000年前、ゴルゴタ(しゃれこうべ)の場所で十字架に付けられて人間のために御血を流しました。1916年の春に人間たちが数百万名以上の死傷者を出して血を流しつつ戦っているとき、平和の天使はポルトガルのファチマのカベソ(頭)という場所に送られました。ファチマの子供たちにこう祈るように教えてくれました。
「天主よ、我は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る!御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、赦しを乞い求め奉る。」
これを跪き額づきながら3回繰り返した後「このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたがたの祈りの声に注意を払っておられます」と言いました。

1916年7月30日

1916年7月30日、ローマではベネディクト十五世が、御聖体拝領をする5000名の子供たちに次の歴史的な説教をしました。「あなたたちは、天主が隠されたそして無限の計画をもって、罪深き社会の腕を使って行いになった、最も恐るべき罪の償いに参与しています。・・・私は、あなたたちの罪のなさという全能の手段をもって天主の助けを呼び求めることを決心しました。assistere voi alla più terrificante espiazione, che Iddio, con arcano ed infinito consiglio, abbia mai operata colle braccia stesse della peccatrice società... Noi abbiamo risoluto di ricorrere alla invocazione del divino soccorso coll’onnipotente mezzo della vostra innocenza.」
1916年の秋に、やはり頭(カベソ)の場所で、ポルトガルの守護の天使は三人の牧童に罪によって極めてひどく犯されているイエズス・キリストに、罪の償いをするように教えています。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、御身を深く礼拝し奉る。世界のすべての祭壇に現存されているイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と神性を、イエズス・キリスト御自身が受けている侮辱、冒涜、無関心を償うために、私は御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
天使は、この祈りを教えた後「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい」と言って、ルチアに御聖体拝領を、フランシスコとジャシンタに御血の拝領をさせました。

1916年11月

ウィーンでは、戦争が始まって2年後の1916年11月、戦争で帝国の容態が悪化しつつあったその時、肺を患っていた皇帝フランツ・ヨーゼフの容態は、悪化していました。かわいそうな皇帝!皇帝フランツ・ヨーゼフの実弟のマキシミリアンはメキシコ皇帝となったが処刑され(1867年)、皇太子ルードルフを自死で失い(1889年)、最愛の皇后エリーザベトは外遊先のスイスで暗殺され(1898年)、そして甥の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻も暗殺(1914年)されていたのでした。皇帝の病気悪化の知らせを受けたカールは、11月12日、戦場からウィーンへと駆けつけます。「だが驚いたことに、86歳の老帝は苦しそうに身体を曲げて咳き込みながらも執務室で平常取りに働いていた。・・・ひたすら国家のためを思い仕事に励む皇帝は、肺炎が悪化して高熱があるにもかかわらず、机上に山と積まれた書類に目を通し、署名していた。このころ彼は早朝の3時半に起きて仕事を始めていたのだが、さしもの皇帝も、日に日に衰弱しているのは致し方なかった。」(小野秋良・板井大治『カール一世』35ページ)

1916年11月21日夜9時、オーストリア皇帝、ハンガリーの使徒的王、神聖ローマ皇帝の子孫、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフは、68年の統治の後、帝都ウィーンで86歳で崩御し、それと共に、オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊するかのようでした。帝位はカールに引き継がれ、この厳粛な瞬間、カールはロザリオを握って聖母マリアの絵の前に跪きます(前掲書36ページ)。

オーストリア・ハンガリー帝国は、20の国家と言語が、ハプスブルク家による一致の古い遺産を通して一つになった帝国でした。帝国内にはかなりの地方自治が認められていましたが、しかし、近代の民族主義の扇動によって、ますます分裂を煽られていました。カトリックの皇帝こそが一致の象徴でした。カトリック教会によれば、教会と国家とは、調和して進むけれども、同じではありません。教会は道徳について国家を指導するけれども、国家に世俗の統治は委ねています。また国家は教会を支配していません。皇帝において、ハプスブルク家においてのみ、オーストリア・ハンガリー帝国が継続するという希望が残っていました。若きカールはこの希望をもたらしていました。

ロシア帝国においては、皇帝(ツァーリ)は、諸民族と広大な土地の一致の象徴でしたが、それ以上でした。若きカールとは異なり、ツァーリが国家でした。ロシアには地方自治や自律がありませんでした。ツァーリこそがロシアの唯一の主権者でした。ロシアの伝統とは、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主ツァーリでした。ジンギス・カン以来の二五〇年に亘るモンゴル・タタールの軛の遺産、イヴァン大帝以来のロシアがそうであったようにツァーリだけが国家でした。残念なことにジンギス・カンはキリスト者ではなく、イヴァン大帝は悪しきキリスト者でした。もう一つの違いは、ローマ・カトリック教会との離教状態でした。ロシアの奉じた正教は、国家と教会とが結びつき、一つになっていました。ツァーリがロシアの教会の上に立ち、「正教」は、まずツァーリの思うがままに動かされますます不健全となり、最後にはラスプーチンを生み出すほど迷信的なものになっていきました。

1896年5月18日、モスクワでのニコライ二世と皇后アレクサンドラ・フョードロブナの戴冠式を祝賀する市民の祭典が行われていたホドゥインカの原では早朝6時直後、12分から15分ほどの間に、早朝に地方からまたモスクワから集まった70万人のうちの一人がつまずくと、一瞬のうちに、20人が転び、数百名が転び、多くが埋め立てていなかった浅い溝に落ち込み、数千名が死傷した事件が起こりました。少なからぬ人々がこれに新体制への前兆を見て取りました。ロシア屈指の冷徹な政治家であったセルゲイ・ウィッテによれば、ツァーリは全祝典を当然中止すべきでしたが、祝典パーティーはそのまま続けられました。ツァーリの大蔵大臣、シベリア鉄道の建設者でかつ出資者で、帝国随一の有能で現実的な男であったウィッテは、ロシアの問題を明白に見抜きツァーリに進言していました。ウィッテの建設した世界最長のシベリア鉄道の遺産がなければ、ロシアは戦争の重さに堪えられなかったことでしょう。ウィッテはロシア史上最初となる国会(ドゥーマ)にツァーリの権限を委ねることをツァーリに同意させますが、しかしツァーリのウィッテに対する報償は免職でした。

ウィッテの次に来たのはピョートル・ストルイピンでした。首相ストルイピンの施策のもとで比較的成功した農民たちつまり富農(クラーク)が裕福になり、経済的にロシアは巨歩を進めていました。(このクラークさえも後に共産主義者は何百万人をも略奪してしまいます。)しかし、1911年、ストルイピンは警察のスパイに撃たれて死亡します。

ロシアでは心霊術と降神術、神秘(オカルト)主義と迷信礼拝がますます人々の心を捉えつつありました。皇帝一家だけがそれに夢中になっていたのではなく、インテリゲンチャと普通の市民がそれに新しい基礎を探し求めていました。皇后アレクサンドラの先祖のうちにはハンガリーの聖エリザベトがいましたが、彼女の母はオカルト主義に傾倒しており、彼女にとってオカルト主義と宗教とはほとんど同義でした。彼女がプロテスタントから正教に帰依したとき、彼女が受け入れたのは迷信に満たされた16世紀のロシア正教でした。彼女の信仰は、モスクワの生活の中でももっとも遅れた層の無知で迷妄の世界に通ずるものがあり、占い師や預言者に対する迷信にしがみついていました。ツァーリの信仰はツァーリーツァの信仰に全く似通っていました。(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上238ページ)

皇帝の皇太子(ツァーレビチ)であるアレクセイ・ニコラーエビチは当時不治の病であった血友病を遺伝的に煩い、それを直してくれる者をわらにもすがる気持ちで望んでいました。奇跡的な治癒を祈り求めていましたが、何も起こりませんでした。起こったのはラスプーチン到来でした。シベリアの未開の森林地帯の馬泥棒で放蕩者グリゴーリー、一日中鯨飲馬食と肉欲に耽る粗野な通名ラスプーチン(放蕩・自堕落者)は、1905年から皇帝夫妻に影響を及ぼし始めます。ツァーリは、ラスプーチンに対する迷信と、妻アレクサンドラへの献身とによって、自分の思い通りには動きませんでした。妻が家庭を取り仕切り、帝国は他の者たちがツァーリの名前によって統治していました。1911年、暗殺の数ヶ月前、ストルイピンはツァーリにラスプーチンをシベリアに送り返すように説得しようとしています。皇帝の答は「ピョートル・アルカージェビッチ、私は君が心底から私に献身していることを知ってもいるし、信じてもいる。おそらく君が私に話したことは全て真実だろう。しかしお願いだから、もう私にラスプーチンの話はしないで欲しい。私にはもはやどうしようもないのだ。」(上掲書247ページ)その後、ストルイピンは暗殺されますが、ツァーリは争議に出席せず、皇后はストルイピンのために祈ることさえ断ります。

1916年2月、ラスプーチンはツァーリーツァへの影響力を行使して、年寄りで無能でしたが誠実なゴレムイキンに代わって、自分の子分である無能なステュルメルを首相にします。ラスプーチンの庇護を受けていた国会議員で正気ではないアレクサンドル・プロトポーポフも1916年に内相に任命されます。「ラスプーチンはありとあらゆる気まぐれに任せてツァーリの閣僚たちの首をすげ替えている。1915年秋から16年秋にかけて、内相が五人、陸相三人、農相四人という有様だった。」(上掲書337ページ)

1916年11月19日、君主制支持者のウラジミール・プリシュケービチは、国会で、王冠に対する限りない愛とツァーリに対する加工たる献身の念と共に「あらゆる悪は、あの暗黒の力、あの勢力に起因する。その親玉がグリーシュカ・ラスプーチンなのだ」と声を上げます。彼は、アレクサンドル・プロトポーポフなどの閣僚たちの名前を挙げ「ツァーリが恐るべき現実に目を開かれるようにするために、諸君は辞職を願い出るのだ」と。(上掲書345ページ)

1916年11月、レーニンと妻のクルプスカヤは、スイスのチューリヒにある靴屋の狭くて不便な部屋に仮住まいをしていました。レーニンは、図書館で夕方の6時まで勉強し、貧乏のどん底にありました。レーニンは「悪魔のような惨めな生活費ーーこれ以上生き続けることはとても困難になった」と書いています。また11月に愛人のイネッサ・アルマンには手紙で「今日、ここで、左翼の集会がありました。姿を見せたのはほんの少しで、スイス人二人、ドイツ人二人、ロシア・ユダヤ・ポーランド人三人。報告なし。ただのおしゃべり。」誰からも忘れられ、貧しさと孤独とのうちにいたレーニンは、翌年1月にはチューリヒの公民館での集会で「われわれは来たるべき革命の決戦をこの目で見届けることは出来ないかもしれない」と、革命への希望を失っていることを告白さえします(ロバート・ペイン『人間レーニン』上244ページ)。これからちょうど1年後の11月7日、この男がツァーリに代わる「国家」となり、ロシアの唯一の絶対の主権者となり、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主になろうとは誰が思ったことでしょうか。
100年後の2016年11月8日の日本で、万全を期していた地下鉄工事の最中、博多駅前の大通りに突然、道路が陥没し、巨大な穴が出現し下水で池のように変わったように、ロシアはいきなり帝政ロシアが崩れ落ちることになります。

1916年12月30日

1916年12月25日は、王の王である天主の聖子が人となって降誕されたことを祝うクリスマスでした。その数日後の12月30日、ハンガリー帝国の首都ブダペストでハンガリーの新しい王と女王が生まれました。1000年の降誕祭に初代キリスト王であるハンガリー王ステファノ一世は、教皇シルベステル二世から送られた王冠を持って戴冠し即位しましたが、オーストリア皇帝カール一世は、ハンガリー王カーロイ四世として使徒的王として即位しました。「エリエン・ア・キラリ!Elien a Kiraly! 王様万歳!」国民は歓喜の歌を奏でました。「来たれ友よ すべての友 喜びつどえ ベトレヘムに み使いの 王なるみ子を 来たれ拝まん 来たれ拝まん 来たれよ拝まん わが主を」ブダペストの喜びの鐘は、新しく生まれた使徒的王と天の王の誕生を同時に祝っているようでした。

ベトレヘムで生まれた王は、私たち人間の救いのために、三年間の公生活の後、パンをご自分の体に変え、ワインをご自分の御血に変え、私たちに御体と御血を与え尽くして、ゴルゴタの十字架の上で亡くなります。

ブダペストで即位した王は、約3年の統治の後、国民のために全てを与え尽くして、国外追放となりポルトガル領マデイラ島でその王としての霊魂を、王の王イエズス・キリストに帰すことになるでしょう。

戴冠式があった前日の1916年12月29日(当時ロシアが使っていたユリウス暦では12月16日)、ペトログラードは凍てつく寒さで雪が降っていました。12月29日と30日の長い真っ暗闇の真夜中、ドミートリー・パーブロビチ大公(ツァーリ・ニコライの従兄弟の一人)とウラジミール・プリシュケービチ(国会のなかで最も反動的で、君主制、ロシア独裁制の支持者)、医師ラーザベルト、スウホチーン大尉が、フェリックス・ユスーポフ公爵(ロシアきっての裕福で高貴な家柄で、妻はロマノフ家の公女イリーナ・アレクサンドロヴナ)の邸宅モイカ宮殿に集まるのです。フェリックスが、自称祈祷僧グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンを迎えるために準備した半地下には、ラスプーチン(ラスプーチンは「放蕩・自堕落」という意味)の愛用した甘口のポルトやマデイラ・ワインの瓶、薔薇とチョコレートのケーキ、青酸カリが準備されていました。

12月30日午前1時、ユスーポフはラスプーチンを迎えに行き、2時に自宅に連れて来て、直ぐに半地下に招きました。ラスプーチンは毒入りマデイラと毒入りケーキを飲み食いした後も何の変化もありませんでした。毒入りグラスをさらにもう一杯飲みます。何も起こりません。ユスーポフは銃を取りラスプーチンに向けて発射します。二人は向かい合ったままです。ラスプーチンの野獣のような重い体は、雪のように白い北極熊の敷皮の上にどさっと倒れます。死体を敷物から引っ張ってみると、血は見当たりませんでした。一滴もありません。調べてみると銃弾はラスプーチンの心臓のあたりを貫通しています。ラスプーチンはまだ死んではいませんでしたが、その息づかいを見ると断末魔の苦しみにあえいでいるようでした。計画通り、共犯者たちはラスプーチンの偽の帰宅を演じます。スウホチーン大尉がラスプーチンのコートと毛皮帽子を着けラスプーチンのふりをして、ドミートリー大公と医師ラーザベルトとでラスプーチンの来た方角に車で出て行きます。残ったユスーポフとプリシュケービチとはロシアの明るい将来について語りあい、その素早い回復を話していました。ユスーポフは部屋に戻って屍を揺すってみると、突然、ラスプーチンの左目が開き、右目を開き、よろめき立ち上がって、ユスーポフに飛びかかって来ます。ユスーポフは叫びます。「プシュケービチ!撃て!撃て!奴は生きている!やつは逃げだそうとしているぞ!」(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上363ページ)ラスプーチンは中庭に出て雪の中を歩いて、ユスーポフの名前を繰り返しながらぶつぶつ言います。「フェリックスめ、フェリックスめ、ツァリーツァに洗いざらいぶちまけてやるからな!」(同所)午前3時と4時の間のことあたりはしーんと静まりかえっていました。ラスプーチンはもう街路に向かう門の寸前まで来ています。プシュケービチは優秀な射手でした。しかし二十歩の距離から最初の二発を打ち損ねます。銃声は静かな夜中に響きます。ラスプーチンは逃げだそうとしています。プリシュケービチは三発目を放ち、また四発目も撃ちます。弾は背中に命中しラスプーチンは雪の中に倒れます。プリシュケービチはこの四発の銃声が聞かれてしまったことを考え、門を開いて街路にいた二人の兵士に行って呼びかけます。「私は、ロシアとツァーリの敵グリーシュカ・ラスプーチンを殺した。」彼がそう言った途端、二人は彼に飛びつき、抱きしめ、接吻して叫びます。「神様万歳、とうとうやったのか!」彼が誰にも言うなと言うと二人は「閣下、私たちはロシアの人民です。信じて下さい」言います(上掲書364ページ)。

1917年を迎えようとするその直前、12月30日午前5時、ロシアの堕天使、エフィムの子グリゴリー「自堕落」は、凍てつくペトログラードのネフカ河に氷を割って開けた穴から、その遺体が捨てられます。この遺体が発見され検死されたとき、肺の中には水がありました。凍る河の中でもまだ生きていた証拠です。しかし、「自堕落」は死に、それと共に帝政ロシアも死を迎えようとします。


この続きは、「聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版」にて、お読みください。

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