愛する兄弟姉妹の皆様、
おはようございます。
今日は東京で、聖伝のミサがあります。🙂
9時頃から、聖歌の練習
10時半から、ミサ聖祭です!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父
おお、汚れなき童貞マリア、いとも聖なるロザリオの元后、太陽を身に着けたる婦人よ、我らのために、祈り給え!
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は福音史家聖ルカの祝日です。ルカによる聖福音の黙想を提案します。
聖ルカの福音には、聖母マリア様と、憐れみとが満ちあふれているように思います。
私の好きなところはここです。
ルカ第7章から
「あるファリザイ人が、いっしょに食事してくれるようにイエズスを招いたので、イエズスはそのファリザイ人の家に行って、食卓におつきになった。すると、イエズスが、ファリザイ人の家で食卓についておられるのを知って、その町で罪女とうわさのある女が、香油をいれた壷をもってはいって来た。その女は泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬった。
これを見た招待主のファリザイ人は、心の中で、「この人がもし預言者なら、自分にふれた女が何者で、どんな人間かを知っているはずだ。この女は罪人なのに!」と考えた。そのとき、イエズスは、「シモン、私はあなたにいいたいことがある」とおおせられた。かれが、「先生、なんですか?」というと、「ある貸し主に二人の負債人がいて、一人は五百デナリオ、一人は五十デナリオの負債があった。返すあてがなかったので、貸し主は二人をゆるした。すると、この二人のうち、どちらがより多くその人を愛するだろうか?」とイエズスがおおせられた。シモンが、「多くをゆるしてもらったほうだろうと思います」と答えると、イエズスは「その判断はよろしい」とおおせられた。
それから女をふりかえり、シモンに向かって、「この婦人をごらん。あなたは、私がはいってきても、私の足に水をそそいでくれなかったのに、この人は私の足を涙でぬらして、自分の髪の毛でふいてくれた。あなたはくちづけしようとしなかったけれど、この人は、私がはいったときから、たえず私の足にくちづけしてくれた。あなたは、私の頭に油をぬらなかったが、この人は、私の足に香油をぬってくれた。だから私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。少しゆるされる人は、またすこししか愛さない」とおおせられた。それから、女に向かって、「あなたの罪はゆるされた」とおおせられたので、列席の人は、「罪さえもゆるすこの人はなにものか」と心の中で思っていたが、イエズスは女に向かって、「あなたの信仰が、あなたを救った。安心していけ!」とおおせられた。」
ルカ10章
「イエズスはおおせられた。「イエルザレムからイエリコにくだろうとするある人が、強盗にであった。強盗は、その人の服をはぎ、傷つけ、半死半生にしておいて、去っていった。たまたま、一人の司祭がこの道をくだってきたが、それを見ながら道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。またレヴィ人も通りかかったが、それを見てもおなじように道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。ところが、旅の途中でそこを通りかかった一人のサマリア人が、それを見てあわれに思い、そばによって油とぶどう酒とを傷口にそそぎ、包帯して、自分のろばにのせ、宿につれて行って介抱した。その翌日、宿の主人に二デナリオをわたして、"この人を看病してください。費用がかさんだら、私が帰るとき払いますから"といった。あなたの考えでは、この三人のうち、強盗にあったその人にとって隣人は誰だと思うか?」とお問いになると、「その人をあわれんだ人です」と答えたので、イエズスは、「あなたもそういうふうにせよ」とおおせられた。」
ルカ15章
「イエズスは、たとえをひいてこうお話しになった。「あなたたちの中に、百匹の羊をもっている人がいるとする。その一匹がいなくなったら、その人は九十九匹を野原において、いなくなったのを見つけ出すまで探すにちがいない。そして、それを見つけると、大喜びで肩にのせ、家に帰ってきて友人隣人をよび集め、"見失った羊を見つけたから、私といっしょに喜んでください"という。私はいう。それと同じことで、一人の罪人がくいあらためれば、くいあらための必要のない九十九人の義人より、天ではよりいっそうの喜びがあろう。
また、ある婦人が、銀貨十枚をもっているとする。その一枚をなくしたら、ともし火をつけ、家をはき、見つけ出すまでよく探さないはずがあろうか。そしてそれを見つけると、女の友人隣人をよび集め、"なくした銀貨を見つけたので、私といっしょに喜んでください"というだろう。私はいう。それと同じことで、くいあらためる一人の罪人のために、天主の天使たちは歓喜するのである」。
また、こうおおせられた。「ある人に二人の子があった。弟のほうが、"お父さん、財産の中で、私のもらう分をください"と父にいったので、父は財産を二人に分けた。幾日もたたないうちに、弟は自分のものをみな集めて遠国に行き、そこで放蕩して、財産をつかってしまった。全部つかい果たしてのち、その国に大飢饉が起ったので、かれも乏しさを感じはじめ、その地方のある人のところにやとわれに行った。するとその人は、かれを畑にやって豚を飼わせた。かれは、豚の食ういなご豆で腹をみたしたいと思ったが、だれもくれる人はなかった。そのときかれは、我にかえって、ひとりごとをいった。"父のところでは、充分にパンを食べているやとい人がたくさんいるのに、私はここで飢死しようとしている。私は出発しょう。父のところに帰って、お父さん、私は、天にそむき、そしてあなたにそむいて、罪をおかしました。私はもうあなたの子と呼ばれる値打ちはないのです。どうぞ私を雇い人の一人としてあつかってください、といおう"。そして、出発し、父のもとに帰った。まだ家から遠くへだたっていたのに、父親はかれをみつけて、あわれに思い、走りよってかれの首をだいてくちづけをあびせた。それから息子は父に向かって、"お父さん、私は、天に背き、あなたにも背いて、罪をおかしました。もうあなたの子と呼ばれる値うちはありません"といった。ところが、父は、しもべたちに、"すぐ、いちばんいい服をもって来てこの子に着せ、手に指輪をはめ、足にはきものをはかせなさい。それから、肥えた小牛をひいてきて殺し、それを食べて喜びあおう。私のこの子は、死んでいたのに生き返り、見失ったのに見出したからだ"といい、そしてかれらは祝宴をひらいた。さて、その兄のほうは、畑に出ていたが、帰って家に近づくと、音楽やおどりの音が聞えたので、しもべの一人を呼んで、あれは何事だときくと、しもべは、"あなたの弟さんが帰られたので、お父さまが肥えた小牛を殺されたのです。弟さんが無事に帰られたものですから"と答えた。すると兄はおこって、家にはいろうとしなかった。父がなだめに出てくると、兄は父に向かって、"私は、何年もあなたに仕え、あなたの命令にそむいたことがないのに、その私には、友人と楽しむための小山羊一匹もくださいませんでした。それなのに、遊女といっしょにあなたの財産をつかいはたしたあなたのあの子が帰ってくると、そのために肥えた小牛を殺されたのです!"といった。そのとき父は、"息子よ、あなたはいつも私といっしょにいたから、私のものはみなあなたのものだ。しかし、あなたのあの弟は、死んでいたのが生き返り、見失ったのを見つけたのだから、祝い喜ぶのは当然なはずである"と答えた」。 」
ルカ19章
「イエズスは、イエリコにはいって、その町をお通りになった。そこに、名をザケオという人がいた。かれは、税吏のかしらで、金持ちだった。そして、イエズスがどんな人かを見ようとしたが、背が低かったし、群衆の波で見ることができなかった。そこで、前に走っていって、イエズスを見ようとして桑葉いちじくの木によじのぼった。イエズスは、そこをお通りになるはずだった。イエズスは、そこにこられると、目をあげて、「ザケオ、早くおりよ。私は、今日あなたの家にとまる」とおおせられた。かれは、喜んで飛びおりて、イエズスをむかえた。これを見ていた人々はみな、「あの人は、罪人の家の客になったのか!」と非難したが、ザケオは、き然として、「主よ、私は、財産の半分を貧しい人々にほどこします。また、私が人になんらかの損害を与えていたら、四倍にしてかえします」といった。イエズスは、「今日、この家に救いが来た。この人もアブラハムの子である。人の子は、見失ったものをたずねて救うために来た」とおおせられた。」
ルカ23章
「されこうべという所につくと、イエズスを十字架につけ、悪人の一人をその右に、一人をその左につけた。イエズスは、「父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているかを知らないからです」とおおせられた。・・・
十字架につけられた悪人の一人は、イエズスに「あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救ってくれ」といって悪口をあびせたが、もう一人の方は、かれを押し止めて、「あなたは同じ刑罰をうけながら、まだ天主をおそれないのか。われわれは行なったことのむくいをうけたのだから当然だ。しかし、この人はなんの悪事もしなかった」。そして「イエズス、あなたが、王位をもってお帰りになるとき、私を思い出してください」といった。イエズスは、「まことに私はいう。今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」とおおせられた。」
ルカによる聖福音の朗読 第一章
ルカによる聖福音の朗読 第二章
ルカによる聖福音の朗読 第三章
ルカによる聖福音の朗読 第四章
ルカによる聖福音の朗読 第五章
ルカによる聖福音の朗読 第六章
ルカによる聖福音の朗読 第七章
ルカによる聖福音の朗読 第八章
ルカによる聖福音の朗読 第九章
ルカによる聖福音の朗読 第一〇章
ルカによる聖福音の朗読 第一一章
ルカによる聖福音の朗読 第一二章
ルカによる聖福音の朗読 第一三章
ルカによる聖福音の朗読 第一四章
ルカによる聖福音の朗読 第一五章
ルカによる聖福音の朗読 第一六章
ルカによる聖福音の朗読 第一七章
ルカによる聖福音の朗読 第一八章
ルカによる聖福音の朗読 第一九章
ルカによる聖福音の朗読 第二〇章
ルカによる聖福音の朗読 第二一章
ルカによる聖福音の朗読 第二二章
ルカによる聖福音の朗読 第二三章
ルカによる聖福音の朗読 第二四章
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は10月の初金曜日です。
ただ今、韓国で15名の信徒の方々(「秋夕」のために最初から参加することができず少し遅れて参加した方々を含めると18名)のために聖イグナチオによる「霊操」(韓国語では「霊神修練」)の黙想会をシュテーリン神父様と一緒に指導しております。
1917年10月13日のファチマの聖母のお言葉を思い出しましょう。聖母はますます悲しそうな様子になられて、こう言われました。
「もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」
聖母はファチマで1917年7月13日にはこう言われました。
「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」
もしも私たちがファチマの聖母の要求を聞かないなら、ロシアは戦争を挑発するでしょう、と。
実際に、暴走する北朝鮮を支援しているのはロシアであるという報道が多くなされています。
ロシアの挑発によって、私たちが望まないにもかかわらず、戦争が起こってしまうかもしれません。
1973年10月13日、秋田の聖母は私たちにこう警告しました。
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルは、カルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
では、シュテーリン神父様がなさった2017年5月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサでの御説教をご紹介します。
2017年5月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ(大阪でのミサ)
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
この初金曜日において、イエズス様の至聖なる聖心と汚れなき御心の一致について黙想しましょう。
もしもイエズス様の聖心が存在しているとしたらば、それは汚れなき御心が全てをかけて、その全存在をかけて、「はい」と仰ったからです。天主が人となった時に、イエズス様の聖心は、マリア様の御胎内で形作られました。
永遠の栄光、天主の栄光はマリア様に巨大な感謝を述べるのです。何故かというと、イエズスの聖心はマリア様のおかげで存在する事ができるからです。そしてマリア様の汚れなき御心も、イエズス様の聖心がなければイエズス様がいなければ、存在する事もありませんでした。
これは本当に大きな神秘です。マリア様の汚れなき御心の偉大さというのは、十字架に架けられたイエズス様の開かれた聖心から出てきた、という事です。教父たちは、「十字架の上で聖心の脇が開かれたイエズス様」を「眠っておられるアダムの脇からエヴァが出た」と比較しています、と「同じ事だ」と言っています。
何故かというと、マリア様のその偉大さ、マリア様のその全ての特権、素晴らしさというものはみな、十字架のイエズス様の犠牲から来ているからです。まず新しいアダムがあり
、次に新しいエヴァマリア様が来られました。新しく生まれた新しいエヴァは、新しいアダムと共に一致して、そして新しい贖われた人類、つまり私たちを生み出したのです。
そこで、イエズス様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心は、互いに依存し合っているという事が分かります。つまりイエズス様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心は、1つだという事です。
では一体何が、この2つを1つにするのでしょうか?それは聖霊です。
何故かというと、聖霊がマリア様の汚れなき御心を形成し、そして同じ聖霊がイエズス様の聖心をも形成するからです。
では聖霊とは一体どなたでしょうか?聖霊というのは、天主の愛、その人格を持った愛です。イエズス様の至聖なる聖心の御像を見た時に、この御像は私たちに天主の限りのない愛の神秘を私たちに見せています。
同じ聖霊が、マリア様の汚れなき御心をも形作り、マリア様のその「作った」という事は汚れなき御心の祝日のミサの集祷文にそう書かれています。
“Omnipotens sempiterne Deus,qui in Corde beatae Mariae Virginis dignum Spiritus Sancti habitaculum praeparasti”
「童貞聖マリアの御心において、聖霊にふさわしい住居を準備し給う全能永遠の天主よ」
この汚れなき御心に一体私たちは何を見出す事ができるでしょうか?天主への愛のみです。天主への愛のみであり、天主への愛、そして人類への愛です。
この至聖なる聖心と汚れなき御心が1つになった時に、ここに最高の愛の相和があります。
イエズス様の至聖なる聖心の愛というのは、天主の、創造主の全人類に対する愛です。汚れなき御心の愛というのは、被造物の最も純粋で清らかな、天主に対する愛です。この2つの聖心はいつも1つで一致しています。
何故この事が私たちにとってそんなに重要なのでしょうか?
何故かというと、私たちの心は小さな花のようです。私たちがこの小さな花の私たちの心を、花のような心を贈り物としてマリア様に捧げる時に、マリア様はそれをイエズス様に捧げて下さいます。
1ヶ月に一度、マリア様とイエズス様との間で、美しい愛の交換があります。
初金曜日にはマリア様の方に行きます、「おぉ汚れなき御心よ、私の心を取って下さい。私の小さな心をあなたの心と交換して下さい。イエズスの至聖なる聖心をあなたの心で愛させて下さい。おぉマリア様、あなたの心を私に下さい。そしてそうする事によって、イエズス様を完璧に愛する事ができますように。」
明日、初土曜日にはイエズス様の至聖なる聖心に行きます、「あぁイエズス様、私の小さな心をあなたの聖心と交換して下さい。私の心を聖心の近くに置いて下さい。私の小さな心にイエズス様の聖心に燃え立つ愛の火を移して下さい。御身の愛の心で、私をしてあなたの御母、汚れなき御心を愛させて下さい。あぁイエズス様、御身の聖心を私に下さい。そうする事によって御身の御母、汚れなき御心を完璧に愛する事ができますように。」
この天と地において、この2つの一致した聖心以外に完璧な愛はありません。特に月の初金・初土には、この愛の中に深く入る事ができます。
成聖とは何でしょうか?つまりこれは、天主の掟を完璧に遵守する事、守る事です、実践する事です。日本全国津々浦々の中で、皆さんは特別に聖人になる為の一番簡単な手段を与えられています。
初金にはマリア様の御心、汚れなき御心を持ってイエズス様の聖心に行って下さい。初土にはマリア様の汚れなき御心の方に、イエズス様の聖心を持って行って下さい。毎日100回以上、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え」と射祷を唱えて下さい。これは私が言うのではないのです、イエズス様がこう言っています。そうする事によって、この射祷によって、皆さんは聖人になります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、10月4日は、アシジの聖フランシスコの祝日であり、同時に初水曜日(月の初めての水曜日)です。
初水曜日ですので、「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああ、いと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああ、いと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ、御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああ、いと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ、人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああ、この地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ、全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.