Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年聖母小黙想会【2】 8月11日「私たちがする事ができる、最も必要で、最も価値のある事は何かを黙想する」

2017年11月12日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その2】 聖母小黙想会 2017年8月11日(金)
小野田神父 霊的講話 [1]

「イエズスとマリアのいと聖なる聖心は、あなたたちの祈りに特別の注意を払っています。」

では今から30分ほど、黙想の内容を提案します。それで残った30分ほどで、そのままイエズス様の現存の前で、お祈りを黙想なさって下さい。休憩の後で聖時間を行いましょう。

私たちが時間を使う中で、一番価値のある使い方があります。より多くの価値がある、より有効な時間の使い方というのは、より多くの善を施す事ができる使い方であって、もしかしたら他の人は、「あぁ、お金をたくさん儲ける為に時間を使ったら良いじゃないか。」「あぁ、そうではなくて、金儲けというのは自分一人の事だけだから、多くの人を助ける為に色々な研究に励んで、そしてその研究によって多くの人の命を救う事ができる科学技術を発見する」とか、あるいは「多くの人を助ける為に物理工学を勉強して、原子力の秘密を発見する」とか。

しかし、今から私たちがしようとする事は、それよりもはるかに多くの人々に善を施す事ができる、永遠の価値のある、最も天主に光栄を帰する事ができる事をしようとします。それがこのファチマの聖母についての黙想であって、それを、私たちがする事ができる最も必要の最も価値のある事は何かという事を、まず今日、ポルトガルの天使が平和の天使が教えてくれた、という事を黙想しましょう。

ファチマは、特別に天使によって準備されていました。どうやって準備したかというと、祈りと礼拝によって準備されていました。そこでこの黙想会、今回の黙想を、その祈りと黙想という事に焦点を当てて、私たちのファチマへの準備として巡礼の準備として、この偉大な神秘を、祈りと黙想によって準備する事にしましょう。

ルチアの手記によると、最初に天使が現れた時には、ちょうど私たちと同じような今日のような感じでした。午前の半ばに霧雨が降り出したのですけれども、間もなくすると雨が止んで、青空に太陽が現れます。お昼になったので、子供たちはお弁当を食べます。そしてロザリオを唱えて、それから小石で遊んでいました。すると突然風が吹くのです。「何が起こったのか?」そしてびっくりして辺りを眺めるのですけれども、特に変わった事がありません。

そこで、「最初に風が吹いてきた」という事に注意して下さい。

旧約聖書でも、エリアに天主が現れる時には、そよ風の中に、ホレムの山に行った時、そよ風の中に天主様が現われました、地震の中にも炎の中にも現れなかったにもかかわらず、そよ風。聖霊降臨の時にも、風が吹きました。

ちょうど天使が現れた時にも、ゴーッという風が吹きました。

その次に現れたのは、大きな光でした。人の影のようなものが空中に浮かんで、光の人影が自分たちの方に現れたのを見ました。「真っ白で、雪よりもはるかに白く、太陽の光線で貫かれた水晶のようだった」と言っています。

きれいな、光り輝く、水晶のような真っ白い人影が、私たちの近くに現れた、という事を考えて下さい。

非常に高貴で、顔立ちが近付くにつれてはっきりして、若い容貌で、超自然的な超人間的な神々しい美しさを持っています。

この頃の若い人は、話によると、女優さんやテレビタレントのツイッターにファンとなって「いいね!」というのをしたり、フォロワーになったり、もしその女優さんが来ると、「あー!」と追っかけて、「キャーキャー!」と。しかしそのファチマに現れた天使は、それよりもはるかに神々しくて、美しくて、近寄って来るのです。体全体から天主の御稜威と、聖徳、聖なる超越的な神々しさを輝かしています。

もしも私たちがそれを目の前に見たとしたら、美しくて、もうあまりにも美しくてうっとりとして、「あぁ、こんなにも美しい方がいらっしゃるのか。」この御聖堂の、宝石で飾られた、こう光でスポットライトで輝いたこの御聖堂も美しいけれども、この天使の美しさと比べたならば、この祭壇の美しさも、全く光と影と、ろうそくと太陽ぐらいの違いで、その天使のあまりにも美しさと、そのもう人間の描写を超えるような、精巧な均整の取れた調和のある輝かしさと美しさは、もう見るだけで、「あぁ、」私たちをうっとりとさせてしまうものだ、それだったに違いありません。

天使がマリア様に現れた時に、天使は言いました、「恐れるな、マリア。」あるいはザカリヤに現れた時も言います、「恐れるな。」聖ヨゼフにも、「恐れるな。」御復活のイエズス様の御墓に行こうとした婦人たちに天使が現れた時にも、「恐れるな。」あまりにも神々しくて、あまりにも威厳があって、力強く、私たちもその天使の前に立ったらもうひとたまりもないものですから、私たちに聖なる畏怖を感じさせるようなお姿が見えます。

子供たちに言います、「恐れるな。怖がるな。私は平和の天使である。」

もしも私たちが偉い人とお会いするというと、偉い人であればあるほど、ちょっとこの緊張したり、「あぁ、粗相のないように」と思いますけれども、もしもその偉い人がどれほど偉かったとしても、例えばフェレー司教様がいらした、聖ピオ十世会のトップに立つフェレー司教様が、その下に色んなこの優秀な司祭たちを引き連れて、こう荘厳なミサをして、そしてその下に神学生たちが何百人もいて、聖歌を歌っていて、皆がフェレー司教様の話しをフンフン、と聞いていて、そしてその司教様がこうやって来て、皆さんの所に手を出して、にこりと笑って、私たちがこう跪いて接吻する。

そしてこのあるいはもしかしたら、天皇陛下が「どうぞ皇居へ来て下さい」と皆さんをお誘いして、皇居の部屋とか色々この中に入って、「あぁ、さぁさぁお座り下さい」と言って、皆さんはとても緊張して、「あっ、そうですかっ」と言う。

でも、この地上でどれほど偉い方でも、教皇聖下でも天皇陛下でも、あるいはアメリカの大統領でも、イギリスの女王様でも、天使と比べれば、全く赤ちゃんと軍人くらいの力の違いがあって、その全人類でも、天使たった一人の前に何の力も及ぼす事ができない、その天使が近寄ってくる。

「怖がるな、恐れるな。私は平和の天使である。」

この天使がそのように美しい姿で、威厳をもって力強く、神々しい光に輝いて、子供たちに何を言ったかというと、「私と一緒にお祈りして下さい、私と一緒にお祈りしなさい。」ファチマの御出現を、天使と一緒にする祈りで始まりました。

ただ「お祈りして下さい」と言ったら、ただその天使がつっ立って、「聖父と聖子と…」ではなかったのです。「私と一緒にお祈りしなさい」と言うと、いきなり跪いて、額を地面に付けるまで平伏して、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」と祈ったのです。

どのような人間の偉い人でも、どのような力がある人でも、最高の権力者でも、天使と比べれば全く何でもない、そのそれほど力がある天使でも、この世の創造主、目に見える物と見えない物とを創り給うた創造主の前、天主の前では跪いて、しかも額ずいて、頭を平伏して、全く自分が無であるかのように、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」と祈ったのです。

これこそが、私たちが取るべき、被造物が取るべき正しい態度です。天主様に対して私たちがなすべき、あるべき姿です。もしも天使さえもそうしなければならなかったら、それよりもまさに低い弱い私たちは、ますますそれをしなければなりません。

子供たちは自分の意思とは関係ないすごい力に押されて、もうその望みに駆られて、「あぁ、ぜひ天使の真似をしたい、天使のようにしなきゃ。天使のようにしたい」と思って、同じように平伏して、聞いた通りの言葉を繰り返しました。

ルチアは言っているのです、「私たちを包んだ超自然の雰囲気は非常に力強く、長い間私たち自身の存在も意識せず、天使が立ち去った後でも、私たちが取っていた同じ姿勢でいつまでも、同じ祈りを繰り返し繰り返し唱えていました。」

その時子供たちを、天使の御出現と共に超自然の雰囲気が捉えて、自分の事はすっかり忘れてしまって、もう天主様の事、創造主の事、礼拝の事、祈りの事だけを考えるようになっていました。

天主様の存在が大変強く親密に感じられ、誰も私たち3人の間でさえ、話をする気がしませんでした。「天主様が今ここにいらっしゃる。天主様が私たちを愛しておられる。天主様が私たちを見守っておられる」という事がしみじみとありありと感じられたので、もうおしゃべりをする気など無くなってしまったのです。

ルチアによると、ルチアの初聖体の時にも、同じような事が起こったという事を書いています。ルチアが聖体拝領する時に、お母さんから言われた通りに、「イエズス様、私を聖人にして下さい」とお願いしました。すると、「イエズス様がそこにいらっしゃる」という事を、もう見ているかのように肌で感じて、もうそのイエズス様の現存の中に深く染み込んでいて、もう時を忘れて、自分を忘れて、イエズス様の事だけを考えていました。

それから天使は今日、聖母の小黙想会をする私たちを特別に選んで、さらにマリア様が私たちを特別に選んで、「ファチマにいらっしゃい」と招いておられますかのようです。その準備の為に天使を私たちに送って下さり、主の現存の中に私たちを満たして下さいます。イエズス様は私たちを愛の眼差しでご覧になっておられます。マリア様もその横で愛の眼差しをもって私たちをご覧になって、話を聞いておられます、祈りを聞いておられます。

「今のように祈りなさい。イエズスとマリアのいと聖なる聖心は、あなたたちの祈りに感動させられるでしょう。あなたたちの祈りに特別の注意を払っております」と天使は言います。

ルチアによると、この出現において、誰も物を言う事は考えず、他の人にこの話をする気持ちもありませんでした。私たちに沈黙それ自体がのしかかるといった感じです。

これはきわめて内密な内面的な恩寵で、わずかな事でもこの事について話すのは容易ではありません。そして子供たちは、人に見られないでは、この天使に教えられた通り、この平伏の動作と祈りをたびたび繰り返して、もうできなくなって物も言えなくなるまで、クタクタになるまでこのお祈りを続けました。

今日天使は私たちに、やはり私たちに、この祈りをする事を招いています。

それだけではありません。もちろん私たち被造物が、天主、創造主である天主になすべきものは、主の仰った事は、真の真理にして、私たちを騙す事もなく、自分が間違える事のない真理の源なる天主の仰った事は、私たちに教える事は、教会に垂れて私たちに諭し給える教えは、全ては真理であって、私たちはもう天主の権威にかけて、それによって無条件に信じます。それこそが私たちの信じる超自然の信仰です。

私たちはこの天主を礼拝します。

「礼拝する」というのは、「私たちが被造物であって、私たちの存在も命も、今ここにあるという事も、今ここに生きているという事も、全て天主に依存しているという事を認めて、その創造主の無限の御稜威を認める」という事です。そしてこの「唯一私たちを在らしめて、生かしめて下さる方に、私たちにそうさせられているという事を認める」という事です。

その為に私たちは、「その創造主の命ずる事を全てする義務があるという事を認めて、創造主には、私たちに何かお望みの事を命じる権利があるという事を認める」事です。それが礼拝という事です。創造主にのみ被造物が与える態度が礼拝です。他の者に私たちは礼拝を捧げる事はできません。私たちを在らしめて生かさせて下さっている、その方を認める事が礼拝ですから。

私たちはそうやって天主によって創られて、全てを天主から与えられて、天主へと帰るように招かれています。その為に創られました。

そしてもしも天主の望みを、天主の御旨を果たすならば、私たちの力を超える無限の報いを下さると約束して下さったので、私たちはそれを得る事ができると希望します。それに必要な手段を与えられるという事を希望しています。天主の約束通り、永遠の至福を得る事ができるという事を希望しています。

私たちにはふさわしくないにもかかわらず、天主は約束を違えざる御者に在すが故に、その真実に誠実にかけて、私たちは希望します。

全ての善の源である天主であるので、全てに超えて、私自身を超えても、天主を愛します。究極の善として天主を愛します。

この信仰、礼拝、希望、愛、これこそ私たちが持つべき態度であって、天使でさえもそれを私たちに教えてくれます。

しかし、本来ならばそうあるべき最高の善、私たちの大恩人、私たちの創り主、私たちを愛する無限の善が、これほど私たちを愛して下さるにもかかわらず、そうしない人々がいます。私たちもかつてそうでした。

そこで天使は、ポルトガルの天使は子供たちに、更にこう祈りを付け加えてお祈りを教えました、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ主を信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々の代わりに、御身に御赦しを願い奉る。」

「償いをしなければならない。罪がこの世にある」という悪の神秘とそれに対して、「私たちは償いを、罪人に代わって償いをしなければならない」という事を天使は私たちに教えてくれました。

よく私たちがもしかしたら、罪を犯す人を、あるいは態度が悪い人を見て、「何だこの人の態度は悪いなあ。」「非常にこの人は何か聖人ぶっている、偉ぶっている。でもここが悪い、ここが悪い」「あの人はあれが悪い、あれが悪い」「あの人はここがおかしい」「あの人の言っている事がこうだ」と批判したり、あるいは「あぁ、あの人はこんな悪い事をしている」と憎んだり、あるいは怒ったり、軽蔑したり、「何だ」と、もしかしたら私たちは言ってしまうかもしれません。もしかしたらそのような批判は非常に正しい批判なのかもしれません。

しかし天使はそうではなくて、「主を本当ならば愛さなければならない、信じなければならない人々が信じていない。では何をすべきか。その人々に代わって、赦しを乞い求めよ。」

「天主を礼拝しなければならない。でも礼拝しない人々がいる。その人々に代わって、赦しを乞い求める。」

「天主に希望をおかない人がいる。お金に希望をおいている、自分の能力に希望をおいている、自分の美貌に希望をおいている、自分の親戚や自分の知り合いに希望をおいている、自分の才能に希望をおいている、自分の家系に希望をおいている。主を全く、主に希望をおいていない。彼らに代わって、赦しを願い奉る。」

「本当は全てに超えて主を愛さなければならない。でも多くの人々は主を愛せず、自分の腹を愛し、自分の肉体を愛し、自分の欲望を愛し、自分の思い通りに生きている。主を愛さない人々に代わって、罪の御赦しを乞い願い奉る。」

「今のように祈りなさい。イエズスとマリアのいと聖なる聖心は、あなたたちの祈りに特別の注意を払っています。」

そう言って、天使は見えなくなりました。

では私たちも今から、天使が子供たちに教えたこの祈りを心の中で祈りつつ、この聖母の黙想会を始める事に致します、深く、その中に深く入る事に致します。

14時30分頃まで黙想して下さい。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】