Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年聖母小黙想会【1】 8月11日「イエズス様がエルサレムを見て泣かれた、涙を流された、嘆かれた、その理由を黙想する」

2017年11月11日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その1】 2017年8月11日(金)聖霊降臨後の平日のミサ
小野田神父 説教


愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年8月11日、平日のミサで、聖霊降臨後第9主日のミサを捧げています。ついにファチマ巡礼の時がやって来ました。今から今日から、聖母の小黙想会を始めます。どうぞこの黙想会の中に深く入るようになさって下さい。


“Jesus videns civitatem, Jerusalem, flevit super illam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では聖母の黙想会の最初の黙想のテーマは、「イエズス様がエルサレムを見て泣かれた、涙を流された、嘆かれた」という事です。

今日黙想会を始めるにあたって、私たちは深く沈黙の中に入る事に致しましょう。今日から聖母の被昇天まで5日間、私たちの黙想会を指導して下さるのは聖霊であて、聖霊の浄配であるマリア様の汚れなき御心です。マリア様の汚れなき御心の望みを私たちが聞く事ができますように、沈黙の中に深く入る事に致しましょう。

できるだけ私たちの天主様との一致が乱されないように、関係のないものは私たちの外に締め出す事に致しましょう。ですからインターネットでニュースを見たりとか、あるいは「今日は北朝鮮がミサイルを打つのか打たないのか」、「トランプ大統領が何を言ったのか」という事は、今日から私たちにあたかも何でもないかのように、それよりももっと私たちにとって大切な事は何か、天主様とマリア様の霊魂の救霊についてますます関心を寄せる事に致しましょう。

沈黙の内に、私たちの霊魂をますます天国に上げる事に致しましょう。この5日間の黙想会の間、私たちは大学の講義を聞くというよりは、新しい事を何か学ぶというよりは、私たちの時を天主様との一致との間に、マリア様の御心の中に深く入る事に使う事に致しましょう。ですから私たちはこの時間を、礼拝と、感謝と、讃美と、祈りと、罪の償いの為にお捧げ致しましょう。その為に特別に、私たちの時間がその為だけに捧げられるように致しましょう。

今日、典礼に従ってどうしてもこのミサを、主日のミサを私は捧げなければなりませんでした。なぜかというとこの前の主日は、御変容の大祝日の為にミサを捧げる事ができなかったからです。もしもミサが捧げる事ができない場合には、必ず少なくとも1回は、その平日のミサを捧げなければなりません。もしもそれができれば、随意ミサを捧げる事ができます。

今日はその前までずっとその他のミサがあったので、平日のミサを捧げる事ができませんでした。ちょうど聖母の小黙想会の初めにこのミサを捧げる事ができるというのは、非常にミサの内容を見れば見るほど、まさにこの黙想会の為にイエズス様が特別に選んで下さったミサであるかのように思われます。

ちょうどイエズス様は、エルサレムに入城される時に、エルサレムをご覧になって嘆かれるのです、「もしもこの日に平和をもたらすべきものを、お前が知っていたら。しかし、お前はお恵みの訪問の時を知らなかった。お恵みをあれだけ与えたにもかかわらず、それを捨て去った。」そしてイエズス様は嘆かれるのです。

ですから今日は、そイエズス様の嘆かれたその理由を見て、

更にファチマではマリア様が嘆かれているという事を振り返って、

最後に、ではこの黙想会の間、この5日間どのように過ごさなければならないかという事を、遷善の決心を立てる事にします。

天主は、全人類の中から、全人類のあらゆる民族の中から、特別に1つの民を選ばれて、準備して、お恵みを与えて、祝福を与えて、約束して、そしてこの民に特別の栄光と、特別の恵みと、特別の名誉を与えようとされました。他の民々には与えられなかった特別の愛と、愛情と、関心と、そして選ばれた、選びのお恵みを与えられました。世界中探してもこのような民族はありませんでした。ユダヤの民でした、イスラエルの民でした。

天主を、真の天主を知り、真の天主を愛する事ができ、喜ばせる事ができ、唯一心に天主の御旨に適う生贄を捧げる事ができ、他の民々が暗闇の中に住んでいて、そして偶像崇拝とそれと恐怖の中に生きていたとしても、このユダヤの民だけは、この天主への愛の為に特別に選ばれて、天主に適う最も素晴らしい生贄の方法は何かを与えられて、そして聖徳の道を与えられ、お恵みを与えられて、助けを与えられて、主へのますますの聖徳、平和、福利の恵みを与えられました。

霊的なものだけでなく、地上的な富も与えられました。知恵のある王、力のある王、続々と与えられ、預言者が与えられました。この民の聖なる都市の首都であるエルサレムは、平和のビジョンであって、ここで多くの讃美と感謝が真の天主に捧げられて、真の救い主、天主の子羊の前兆となる子羊たちが生贄が捧げられて、この神殿で捧げられる生贄の為に、世界中に平和がもたらされていました。

本当に祝福された、選ばれた民族でした。天主から溢れるばかりの恵みを与えられ、憐れみを与えられ、そして赦しを与えられ、この民はますます聖徳に、ますます聖なるものとなっていくべきでした。そしてこの来たるべき救い主を受け入れて、「これこそ救い主である」と全世界に示すべき民族でした。真の宗教を持つ民族でした。

しかしこれほど恵まれた、これほど光に照らされた、これほど恵まれた民族であったにもかかわらず、愛された民族であったにもかかわらず、天主からの恵みを拒否して、それよりも地上の汚ならしい事に、偶像に身を捧げてしまっていました。

聖パウロは言っています、「だから彼らは罰を受けなければならなかった。天主は愛をもってこれらを目覚めさせなければならなかった。1日に2万3000人が亡くなった。彼らが偶像に酔いしれていたからだ。」

でも聖パウロは私たちに言います、「これは、私たちの前兆として与えられた、私たちへの戒めとして与えられた。これは、もしも選ばれた民、イスラエルの民がもしもこれほど愛されたにもかかわらず、その愛を裏切ったとしたらこのような事があったならば、私たちにも同じような事が起こる。自然のオリーブの木を捨て去る事がこれほどできるのならば、接ぎ木である私たちを捨て去る事はもっと簡単にできる、という戒めの警告の為に与えられた。」

イエズス様は今日、エルサレムを見て涙を流され、嘆いておられます、「これほど愛されて、これほど恵みを受けて、憐れみと祝福と聖寵を受けた都市。それにもかかわらずそのお恵みを、この聖なる都市は拒否した。」イエズス様は涙を流して嘆かれます。

実際歴史によると、その通りになりました。イエズス様の予言の通りになりました。

イエズス様が復活されて昇天された約40年後、西暦70年に、聖なるエルサレムはローマ軍によって全く崩壊されてしまって、神殿は真っ平らになり、もうもはやその神殿を再建しようと色々な努力が試みられましたが、それは叶いませんでした。

永遠に、エルサレムの神殿は建つ事がないのです。永久に、世の終わりまで、建つ事がありません。イエズス様が天主である限り、それはあり得ません。ユダヤ教の唯一の生贄を捧げる場所は、永久に崩壊されて、破壊されて、再建される事は決してないのです。

これは何を意味しているかというと、選ばれた霊魂の、永遠の滅びを意味しています。

多くの霊魂たちから選ばれて、イエズス・キリストを知り、イエズス・キリストを愛する事ができるようになった霊魂、イエズス・キリスト様の憐れみとお恵みを頂いて、そしてその愛に満たされて、すべての罪を赦されて、たとえ罪を犯したとしても、もしも痛悔するならばさらに赦されて、イエズス様の愛されている子供として、聖なる子供として、遺産相続を約束されたその霊魂が、イエズス・キリストをそれにもかかわらず踏みにじって、罪を犯し、イエズス・キリストを侮辱するならば、憐れみの回数にも限度がある。お恵みとその罪の裏切りの数にも限度がある。イエズス様の憐れみは果てしないけれども、しかしそれをいい事に何度も罪を犯して、イエズス・キリストを侮辱するのであれば、それにも限度がある。

聖なる街エルサレムが崩壊してしまったように、もしもイエズス・キリストを決定的にある瞬間拒否してしまうならば、大罪を犯す事によってイエズス・キリストを私たちの霊魂から追い出してしまうのならば、もしかしたらその次にはお恵みが与えられないかもしれない。永久に滅びてしまうかもしれない。もういくら望んでもチャンスがないかもしれない。エルサレムの神殿がもはや再建される事がないように、もはや聖寵のお恵みを頂く事ができなくなってしまうかもしれない。

その恵まれたにもかかわらず、不忠実であり、あえて主を拒否する霊魂たちの受けるその将来の悲惨な状態、それを思うと、イエズス様は私たちの霊魂においても向けても涙を流されています、「エルサレム、エルサレム、どれほどお前を愛してきた事か、聖なる街としてきた事か。しかしこの聖なる神殿も、罪によって汚されてしまった。何度も、何度も、汚されてしまった。そして私を、何度も、何度も、拒否している」と。

今日この主日のミサではちょうど、私たちがこの黙想会によく入る事ができるように、「イエズス様の悲しみを私たちに、私たちも一緒に共にするように」と招いています。私たちがちょうど集祷文で言われたように、主の聖心に適う事を祈り求める事ができますように、お祈り致しましょう。

主の聖心に適うという事は一体どういう事でしょうか?

つまり、主の聖心に適うという事は、「私たちが罪を避け、主の御旨のみを行う」という事です。「私たちが罪を忌み憎み、罪を悔悛する」という事です。

これはイスラエルの民だけに起こった事ではありませんでした。キリスト教の歴史を見ると、イエズス様を裏切った民族は異端に陥ってしまったり、あるいはかつてはあんなにもキリスト教が栄えていたにもかかわらず、イスラム教の手に落ちてしまったり、あるいは共産主義の手に落ちてしまったり、という国々があります。

私たちもこの黙想会で、良心の究明をする事に致しましょう。私たちがファチマの聖なる土地によりふさわしく行く事ができるように、私たちの良心を究明する事に致しましょう。私たちはどれほど天主を、イエズス様を悲しませてきた事でしょうか。これほどのお恵みを頂いたにもかかわらず、どれほどイエズス様のその受けた恵みを無にして、足蹴にしてきた事でしょうか。

イエズス様は、「ああ、そこは危険だから近寄ってはいけない。」「ああ、そうすると危ない」と、何度警告のお恵みをして下さった事でしょうか。しかしそれにもかかわらず、私たちは何度、あるいは怠惰の為に、あるいは自分の利己主義の為に、イエズス様のお恵みを捨ててしまった事でしょうか。洗礼を受けた時に、その洗礼の約束をどれほど裏切ってしまった事でしょうか。イエズス様はそのような霊魂を見て、涙を流されて、嘆かれているに違いありません。

私たちの創造主であり、私たちを愛する天主、最後の審判の裁き主である御方は、私たちの為に涙を流されておられます。私たちの罪を見て涙を流されておられます。

フランシスコもそうでした、フランシスコは見ました。フランシスコの証言によると、「天使を見るのはとっても大好きだ。」「マリア様のこの御姿を見るのはとっても好きだ。」「でも天主様を見るのはもっと素晴らしい。でも天主様はとっても悲しそうだった。マリア様もとても悲しそうだった。マリア様、天主をお慰めしたい。」これがフランシスコの願いでした。

今日この御ミサで、ちょうどフランシスコにお見せになったように、ファチマのマリア様も、イエズス様とご自分が非常に悲しい思いをされている、という事を私たちに教えて下さいます。

なぜかというと、この世がますますイエズス様を信じようとせず、希望しようとせずに、愛せずに、イエズス・キリストを愛さずに、ますますそれ以外のものを、被造物を信じ、被造物に希望して、被造物のみを愛してるからです。被造物をあたかも天主のように礼拝しているからです。偶像崇拝に陥っているからです。天主の事を忘れて、永遠の事を忘れている人々の為に、非常に悲しい思いをされています。

では、私たちは今日からどのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちはますます、この与えられた特別のお恵み、聖母の黙想会の中に深く入る事に致しましょう。私たちも聖フランシスコが持っていた望みを持つ事ができるように、お願い致しましょう。「イエズス様を、嘆かれているイエズス様をお慰めしたい。悲しみに満ちているマリア様をお慰めしたい。この5日間を、マリア様と天主をお慰めする為に使いたい。祈りと犠牲の為に使いたい。イエズス様と共に一緒にいたい。そして私たちの犯した罪と過去の罪と、そしてこの世の罪を償いたい」という望みで満たして下さるように、お祈り致しましょう。

「イエズスは、エルサレムの街を見て、涙を流された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会のアジア管区の機関紙「Apostle No. 47 (November 2017)」ができました

2017年11月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のアジア管区の機関紙「Apostle No. 47 (November 2017)」ができました。


 Apostle No. 47 (November 2017)をPDFでダウンロードすることができます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

その他の過去の記事もどうぞよろしくお願いいたします。

聖なるロザリオの黙想【栄えの玄義】-2016年5月7日秋田巡礼にて シュテーリン神父様
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2016年5月7日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。【無原罪の聖母の騎......


「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」とはどういうことか?
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2016年10月16日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。天主様の祝福が豊か......


「聖母の連祷についての解説」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、レネー神父様の「聖母被昇天の大祝日」のお説教(日本語訳)をご紹介いたします。天主様の祝福が豊かにありますように!ト......


「恩寵はどのように働くのか」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、レネー神父様の「恩寵はどのように働くのか」の霊的講話(日本語訳)をご紹介いたします。天主様の祝福が豊かにありますよう......


「罪の結果、恩寵の必要性」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、レネー神父様の「罪の結果、恩寵の必要性」の霊的講話(日本語訳)をご紹介いたします。天主様の祝福が豊かにありますように......


「ロザリオについて」聖なるロザリオの神秘と黙想:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、レネー神父様の「ロザリオについて」のお説教(日本語訳)をご紹介いたします。天主様の祝福が豊かにありますように!トマ......




聖霊降臨後第23主日の固有文 昇階唱 Liberasti nos, Domine を黙想する 「主よ、御身は私たちを解放し給うた」

2017年11月11日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨後第23主日の固有文の昇階唱を黙想しましょう。

昇階唱: Liberasti nos は、詩篇43からとられています。

Liberasti nos, Domine, ex affligentibus nos : et eos qui nos oderunt, confudisti. In Deo laudabimur tota die, et nomini tuo confitebimur in sæcula.

「主よ、御身は私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。私たちは天主において一日中賛美されるだろう。そして私たちは代々に御身の聖名に賛美するだろう。」

これは六旬節の主日の入祭唱の祈りに答えているかのようです。

六旬節ではこう歌いました。

Exsúrge, quare obdórmis Dómine
Exsúrge, et ne repéllas in finem.
Quare fáciem tuam avértis, oblivísceris tribulatiónem nostram ?
Adhǽsit in terra venter noster exsúrge.
Dómine, adjúva nos, et líbera nos.

起きてください、主よ、なぜ眠りこけておられるのですか?
起きてください、終わりまで私たちを押しのけないでください。
何故御身の御顔を背けるのですか?私たちの艱難を忘れ給うたのですか?
私たちの腹は地にひっ付いています、起きてください。
主よ、私たちを助けてください、そして私たちを解放してください。



そこで典礼暦最後ではこう歌います。

Liberasti nos, Domine, ex affligentibus nos : et eos qui nos oderunt, confudisti. In Deo laudabimur tota die, et nomini tuo confitebimur in sæcula.

主よ、御身は私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。私たちは天主において一日中賛美されるだろう。そして私たちは代々に御身の聖名に賛美するだろう。

私たちは感謝することを忘れてはなりません。私たちがうけた恵みを。あたかも恵みを受けて当然であるかのそぶりを見せるのはなりません。

私たちは、試練の最中でも主に信頼を置きましょう。

特に第2の部では、一日中、つまり天国での永遠の間、果てしもなく、主において、私たちは栄光を受けるだろうと歌います。



Graduel : Liberasti nos
Abbaye Sainte-Anne de Kergonan – Les Saints dans la Gloire – (Dir. Dom Gaston Le Nézet)

聖霊降臨後第23主日の固有文 入祭唱を黙想する(その2)「主は言い給う 私は平和の考えを考える」

2017年11月11日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨後第23主日の固有文を続けて黙想しましょう。

「主は言い給う。私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。」
「主よ、御身は、御身の地(主の民)を祝福し給うた。御身はヤコブのために捕囚を避けさせ給うた。」

Dicit Dominus : ego cogito cogitationes pacis, et non afflictionis : invocabitis me, et ego exaudiam vos : et reducam captivitatem vestram de cunctis locis.
Benedixisti Domine terram tuam : avertisti captivitatem Jacob.

この入祭唱は、典礼暦年の最後の歌であり、夕べの歌です。
私たちの霊魂の歴史の最期の歌であり、人類の歴史の最終がうたわれるので、同時に希望の歌でもあります。

普通、入祭唱はよく詩篇からとられますが、時にして今回のように、詩篇以外からも取られます。この例外は、それだけ重みと意味を持ちます。私たちの主が私たちのことを気にかけている、私たちに注目している、注意を払っている、というメッセージです。

典礼暦の終わりに、教会がこの言葉を特に取り出したのは、私たちが天に心を上げるためです。天主が私たちに語りかけているからです。

「主は言い給う。私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。」

主のお考えは、平和の考えであり、苦しみの考えではない。天主は永遠のお方であり、考えを変えることはありません。永遠にただ一つの考えしかありません。この抱かれた一つの思い・考えは、一つの言葉となりました。それが、天主のみ言葉、天主の御一人子であり、人と成った天主の聖子、キリストです。キリストは、天主の唯一の永遠の知恵なる考えそれ自体です。私たちのために人間となり、平和の考えとなりました。全人類を照らす光、愛の考えです。

キリストと聖母とは、人類のために、罪の結果の苦しみを全て自分たちの身に負いました。その交換に私たちに平和を与えるのです。

天主のみ言葉が人と成って私たちのうちに住み給うたのは、私たちが人類の歴史の終わりに天国にたどり着くためです。天主のお考え、すなわちキリストは、究極の考えでもあります。永遠の幸福が私たちを待っています。天国こそが私たちのほんとうの祖国です。

入祭唱は、捕囚について、追放の身について語ります。私たちが、罪を犯し、悪魔の奴隷となり、その犠牲者となり、天の本当の平和を失ってしまったからです。

しかし、天主は聖寵により、その恩恵みにより、私たちを助けてくださいます、私たちが主を呼び求めるのなら。「あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。」

その昔、入祭唱が歌われている間、司祭が侍者らを伴い行列で聖堂に入堂しました。ちょうど天国への巡礼者であることを表すように。天国に多くの人々と一緒に入堂するかのように。

復活祭後第1主日の入祭唱 Quasi modo géniti infántes (「ほぼ生まれたばかりの赤子たちのように」という意味)と同じ第6旋法です。そこから第6旋法は単純さの旋法で、霊的幼子の旋法だと言われています。

「主は言い給う:私は平和の考えを考える」

ここで「言い給う主」とは、人類を愛する聖父です。メロディーを見ると、「平和の考え」(cogitationes pacis)の cogitationes という単語は、「主は言い給う」(dicit Dominus)と同じです。聖父と聖子とが同じ天主であることを表しているかのようです。「平和の」pacis でメロディーの頂点に達したかのようです。

入祭唱の第2部に主の約束があります。「あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。」

典礼の専門家によると、「私を」me がファの一音で、「私は」ego もアクセントがある音節にソの一音が上がるだけで、とても慎ましく、主の謙遜を表しているとされます。その反対に、信徒たちの行動を表現する動詞「あなたたちは呼ぶだろう」invocabitis と、主の行動を言い表す動詞「祈りを聞き入れよう」exaudiam は、発展したメロディーになっています。第2部の終わりがソで終わっているのも、専門家によると確実性を表すソです。

第3部は、第6旋法そのままで、とても軽く、専門家によると新鮮な若葉の牧場に連れられた子羊たちが飛び跳ねているようだ、と表現しています。つまり、捕囚から戻ってきたことを表します。私たちは主の群れの羊たちですから。私たちの主は良き牧者ですから。特に、それぞれの cunctis という単語のアクセントはとても強く、天主の権威に逃れるものは何もないことが歌われています。主の愛は、私たち各々すべてに及ぶからです。

下のリンクはソレムによる録音です。
Introït : Dicit Dominus

次のリンクは聖ピオ十世会のベルギーで録音されたものです。
Introït : Dicit Dominus
Schola Bellarmina – L’année liturgique en chant grégorien – Volume 7 / CD 14

聞き比べてくださいね。


参考までに、復活祭後第1主日の入祭唱 Quasi modo géniti infántesの楽譜は次の通りです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】