Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

芥子種はキリスト,またキリストの神秘体 である教会です その成長する理由は|現代世界のさまざま問題 の答えはカトリック聖伝にあります

2021年11月13日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年11月14日は聖霊降臨後第二十五主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十五主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


「ロザリオの秘密」聖グリニョン・ド・モンフォール著 十一番目のバラ「使徒信経」(クレド)と十二番目のバラ「天にまします」

2021年11月11日 | カトリックとは

第二連 
ロザリオの祈りのすばらしさとそれを構成する祈りについて

十一番目のバラ:「使徒信経」(クレド)

ロザリオの十字架の部分で唱えられる、クレドまたは「使徒信経」は、すべてのキリスト教の真理の聖なる要約である。信仰は、すべてのキリスト教の聖徳、すべての永遠の聖徳、そして全能の天主に喜ばれるすべての祈りの根源であり、基礎であり、始まりであるため、これは大きな功徳を持つ祈りである。
「天主に近づく者は、天主が存在しておられること、天主を求めるものに報いをくださることを信じなければならない…」天主に近づこうとする者は、まず第一に信じなければならず、その信仰が大きければ大きいほど、その祈りはより大きな功徳を持ち、より力強く、より天主を讃美するものとなる。

この使徒信経を一字一句説明するためにここで時間を取ることはしないが、最初の数語である「Credo in Deum 我は、[天地の創造主、全能の聖父なる] 天主を信じ奉る」という言葉が、私たちの霊魂を聖別し、悪魔を撃退する手段として驚くべき効果を発揮することを言わずにはいられない。なぜなら、この三つの言葉には、信仰、希望、愛の三つの対神徳の行為が含まれているからだ。

聖人たちは、「私は、天主を信じます」と言うことで、生前であれ、死の瞬間であれ、特に信仰、希望、愛に対する誘惑に打ち勝ったのである。この言葉は、殉教者である聖ペトロの最後の言葉でもある。異端者に剣で無残に頭を二つに割られた聖ペトロは、ほとんど息絶えていたが、死ぬ前にどうにかこの言葉を指で砂になぞることができたのである。

聖なるロザリオには、イエズスとマリアの多くの神秘が含まれている。信仰こそがこれらの神秘を開く唯一の鍵であるため、私たちは非常に敬虔に使徒信経を唱えることでロザリオを始めなければならないし、私たちの信仰が強ければ強いほど、ロザリオを祈ることによってより多くの功徳を得ることになる。

この信仰は生き生きとしたものでなければならず、また愛に基づいたものでなければならない。言い換えれば、ロザリオを正しく唱えるためには、天主の恩寵の状態にいるか、少なくともそれを求めている必要がある。つまり、ロザリオを唱えることで、感覚的な信心や精神的な慰めを求めてはならない。また、心の中が無数の無意識の散漫で溢れていたり、霊魂に妙な嫌悪感を感じたり、体にほとんど継続的で圧迫感のある疲労を感じたりするからといって、ロザリオを諦めるべきではない。感情も、慰めも、ため息も、恍惚も、想像力の継続的な向上も必要ない、信仰と善意だけで十分なのだ。“sola fides sufficit.”「信仰だけで足りる。」

十二番目のバラ:「天にまします」第一部

「天にまします」あるいは「主祷文」には大きな価値がある。それは何よりも、その作者が人間でも天使でもなく、天使と人類の王である、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストであるからだ。

聖シプリアノは、私たちが恩寵の命に生まれ変わることができるようにして下さったその救い主であるキリストが、私たちの天の師でもあり、私たちにどのように祈るべきかを教えるのはふさわしいことだ、と述べている。

この主祷文の美しい秩序、優しい力強さ、そして明快さは、私たちの師である天主の叡智に敬意を表している。短い祈りではあるが、非常に多くのことを教えてくれるので、無学な人にも十分理解できるし、学者にとっては、私たちの信仰の神秘についての絶え間ない黙想の源となっている。

「天にまします」には、私たちが天主に負うべきすべての義務、すべての聖徳の行為、そして私たちの精神的・肉体的な必要性に対するすべての願いが含まれている。

テルトゥリアヌスは、「主祷文」は新約聖書の要約である、と述べている。トマス・ア・ケンピスは、「主祷文」はすべての聖人の望みを超えたものであり、すべての詩篇と讃歌の美しい言葉を凝縮したものであり、この中で私たちは必要なすべてのものを天主に求め、最高の方法で天主を讃美し、地上から天へと霊魂を引き上げ、天主と一体となるのである、と述べている。

聖ヨハネ・クリゾストモは、師が行なったように、また師が示した方法で祈らなければ、師の弟子にはなれない、と言っている。さらに、聖父なる天主は、限りがある人間の私たち自身が作った祈りよりも、聖子から学んだ祈りに喜んで耳を傾けてくださるのだ、と述べている。

私たちは、永遠の聖父が聞いてくださるという確信を持って、「天にまします」を唱えるべきである。なぜなら、それは聖父がいつも聞いてくださっている聖子の祈りであり、私たちはそのメンバーだからである。天主は、主祷文を通してなされる私たちの願いを必ずかなえてくださる。なぜなら、このように価値ある聖子の御言葉で表現され、聖子の功徳によって強められ、聖子の要請によってなされる願いを、このような良き聖父が拒否することは考えられないからである。

聖アウグスティヌスは、私たちが敬虔に「天にまします」を唱えるたびに、私たちの小罪は赦される、と言っている。義人は一日に七度失敗するが、主祷文の中には七つの願いがあり、それは彼らが失敗しないように助けてくれ、霊的な敵から守ってくれるのだ。主は、私たちがどれほど弱く無力であるか、またどれほど多くの困難に陥るかを知っておられるので、主祷文を短く簡単なものにしてくださった。だから私たちが敬虔に、そして頻繁にこの言葉を口にすれば、全能の天主はすぐに助けに来てくださると確信することができる。

天主の聖子自らが私たちに与えてくださった、私たち全員に唱えるよう求められた祈りに、ほとんど注意を払わない敬虔な霊魂の持ち主の皆さんに一言。今こそ、あなた方の考え方を変える時である。あなた方は、人間が書いた祈りだけを好んでいるが、ーーまるで、全世界で最も聖霊に息吹かれた人でさえも、イエズス・キリスト御自身よりも、私たちがどのように祈るべきかについて詳しく知っているかのように!他の人間が書いた本の中の祈りを探しているのは、まるで主が言われた「祈り」を口にすることを恥じているかのようである。

これらの本に書かれている祈りは、学者やお金持ちの上流階級の人々のためのもので、ロザリオは女性や子供、下層階級の人々のためのものだと自分を納得させている。あたかも、自分が読んでいる祈りや讃美が、『主祷文』にあるものよりも美しく、天主に喜ばれるものであるかのように!主が与えてくださった「祈り」への関心を失い、代わりに人が書いた祈りを取り上げることは、非常に危険な誘惑である。

信者が天主を讃美するように聖人たちが書いた祈りを否定するわけではないが、人となられた叡智が発した祈りよりも後者を好むのは堪忍できない。この祈りを無視することは、あたかも泉を通り越して小川を追いかけ、澄んだ水を拒んで、代わりに汚い水を飲むようなものだ。なぜなら、「主祷文」と「天使祝詞」で構成されるロザリオは、恩寵の泉からこんこんと湧き出るこの澄んだ常に流れる水であり、一方、本で探す他の祈りは、この泉から湧き出るちょろちょろした小さな水の流れに過ぎないからである。

主祷文を注意深く唱え、すべての言葉を吟味し、黙想する人々は、自分たちが必要とし、望むことができるすべてのものをそこに見出すことができるので、確かに自らを祝福された存在と呼ぶことができるだろう。

この素晴らしい祈りを唱えるとき、私たちは始めに、「我らの聖父よ」という甘美な呼び名で主を呼ぶことによって、天主の聖心に触れる。天主は最も親愛なる聖父であり、創造においては全能であり、世界を司る方法においては感嘆すべきものであり、御摂理においては完全に愛すべきものであり、常に、また贖罪において無限に善良である。天主を聖父とする私たちは皆、兄弟であり、天国は私たちの祖国であり、遺産である。このことは、私たちが天主と隣人を愛し、この世のものから離脱することを教えるのに十分すぎるほどだろう。

だから、私たちは天の聖父を愛し、何度も何度も天の聖父に向かって言うべきなのだ。

《天にまします、我らの聖父よ》

御身の存在の無限さで、
御身は天と地を満たし給い、
あらゆるところにましまし給う。

御身は聖人たちのうちに、御身の栄光によってましまし給い、
呪われた者のうちには、御身の正義によって、
善良なる者のうちには、御身の聖寵によって、
そして、罪人たちのうちにも、御身が彼らを忍び給う忍耐によってましまし給う。

我らは御身に乞い願い奉る。

我らが御身から来たということを、
我らがいつも記憶するようにさせ給え。

我らが、御身の本当の子供たちが生きなければならないように、
我らが生きるように恵み給え。

我らが御身に向かって道を定め、決して逸れることがないように恵み給え。

我らのすべての能力と
我らの心と霊魂と力とを、
御身に向かって、そして御身のみに向かって、
用いることができるように恵み給え。

《願わくは、聖名の尊まれんことを》

預言者ダビド王は、主の聖名は聖なるものであり、畏敬の念を抱かせるものであると言い、イザヤは、主なる天主の聖なる御稜威を絶え間なく讃えるセラフィムの讃美が、天にいつも響いている、と言った。

私たちはここで、聖なる天主の偉大な属性を全世界が知り、崇敬することができるように願う。私たちは、異教徒、トルコ人、ユダヤ人、野蛮人、そしてすべての異端者によって天主が知られ、愛され、礼拝されるように、そしてすべての者が、生き生きとした信仰、確固たる希望、燃えるような愛によって、そしてすべての誤った信心を放棄することによって、天主に仕え、天主を讃美することができるように願う。このことから、私たちはすべての者が聖人となるように祈る、ということになるが、それは私たちの天主御自身が、全き聖なる御方であるからである。

《御国の来たらんことを》

御身の恵みによって、
御身が我らの霊魂に君臨し給え。

そは、死後、
我らが完全で終わりのない至福のうちに、
御身のもとに、
御身の御国において、
御身と共に支配するためなり。

主よ、我らはこの至福が来たらんことを固く信じ奉る。
我らはそれを望み、期待し奉る。
なぜなら、天主なる聖父(おんちち)が、その偉大な善良(やさし)さでそれを約束し給い、
天主なる聖子の功徳によって、我らのためにそれを贖い給い、
光である天主なる聖霊が、それを我らに知らせ給うたがゆえなり。

《御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを。》

テルトゥリアヌスが言っているように、この祈りは、天主の御計画を妨害する人々を恐れるという意味では全くない。なぜなら、天主の御摂理がそれを予見し、あらかじめ天主の御計画に適うものでなければ、何事も起こり得ないからである。全世界のどのような障害も、天主の意志が実行されるのを妨げることはできない。

むしろ、私たちが「御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを。」と言うとき、私たちは天主に、天主が私たちに適していると思われ、この世で送られるすべてのことを、謙虚に受け入れることができるように願っている。また、掟によって私たちに知らされている天主の聖なる御旨を、天の諸天使や諸聖人たちが行なっているように、すべてのことを、すべての時に、速やかに、愛情をもって、忠実に行うことができるように助けてくださるように願う。

《我らの日用の糧を、今日我らに与え給え。》

主は、精神的なものであれ、現世的なものであれ、必要なものはすべて天主に求めるように教えられた。日用の糧を求めることによって、私たちは自分の貧しさと不十分さを謙虚に認め、すべての現存する財産が天主の御摂理から来ることを知り、私たちの主に敬意を表わすのだ。

「糧」と言うとき、私たちは生きるためにただ必要なものを求める。もちろん、これには贅沢品は含まれない。

「我らの日用の糧を、『今日』我らに与え給え」と言うのは、現在のことだけを考え、明日のことは御摂理の御手の内に委ねる、ということである。

そして、「日用の糧」を求めるとき、私たちは毎日天主の御助けを必要とし、その天主の御助けと御保護に完全に依存していることを認めるのだ。

《我らが人に赦すごとく、我らの罪を赦し給え。》

聖アウグスティヌスやテルトゥリアヌスは、すべての罪は全能の天主に対する負債であり、天主の正義は最後の1銭まで支払うことを要求している、と述べている。残念ながら、私たちは皆、このような悲しい負債を抱えている。

どれほど多くのものであっても、私たちは信頼を持って、自分の罪を心から悲しみ、天主の元に行き、こう言うべきである。「天にまします我らの聖父(ちち)よ、我らの思いの罪と言葉の罪を赦し給え。また、御身の正義の御前では我らを永遠の有罪とする、我らの犯した罪と過失とを赦し給え。」
「我らがあえてこのように願うのは、御身が愛と憐みに満ちた我らの聖父でましますからであり、また、御身への従順のために、御身への愛のために、我らに罪を犯した全ての人々を赦して忘れたからです。」

《我らを試みに引き給わざれ、》

「御身の恩寵に忠実であるにもかかわらず、世と悪魔と肉の誘惑に屈することを赦し給うな。」

《我らを悪より救い給え。》

「罪の悪、そして、私たちが当然受けるべきだと知っている一時的な罰と永遠の罰の悪より。」

《アーメン。》

聖イエロニモによると、この言葉は、全能の天主が私たちの願いを叶えてくださることを保証するために、私たちの願いの最後に付ける承認の印のようなもので、あたかも天主御自身が答えてくださっているものであるかのようだ、と言っている。

「アーメン。あなたの求めた通りになるように、あなたが求めたそのことをあなたはまさに得たからである!」

これが "アーメン。 "という言葉の意味である。


【参考資料】ヴィガノ・テープ 17&18 「信者の皆さんは、これらの司祭たちを感謝の気持ちで迎え入れて助け、迫害に直面しても屈しないように彼らを励ましてください。」

2021年11月10日 | カトリック・ニュースなど

「地獄の門も私の教会に勝てないだろう」
「むしろ体と霊魂をゲヘナで滅ぼせるお方を恐れよ」
「世にいる兄弟たちも同じ苦しみに耐えていることを思い、信仰を固めて彼に抵抗せよ」


ヴィガノ・テープ:「恐れてはなりません」
質問17

The Vigano Tapes:“Let us not be frightened”
Question #17

【質問番号17】大司教様、大司教様は、私たちの人間性、伝統、自由の理解に対する大きな挑戦と、その自由が失われる可能性について、ある種の厳しい絵を描いてくださいました。このような大きな課題に直面している私たちの将来の可能性について、何か希望のようなものをお持ちですか?

【回答】私は、これまで何度も使ってきた言葉を使って、私の話を聞いてくださるすべての人の心を強めたいと思います。穏やかな気持ちになるためには、「portæ inferi non prævalebunt」(地獄の門も勝てぬ)【マテオ16章18節】という私たちの主の言葉を繰り返すことで十分です。これは、私たちがよく知っている言葉であり、その言葉に基づいて、最終的な勝利は天主にあることを私たちは知っています。しかし、終末論的な真理を考えるのと同時に、私たちのより直近の運命、つまり、これからの数カ月、数年の間に自分に何が起こるかを心配するのも理解できます。私たちは、自分の愛する人々、子どもたち、お年寄りたちを心配しています。今から数週間後に自分たちに何が起こるのかを心配しているのです。なぜなら、統治する人々は毎日のように新しい規範、制限、義務を押し付けているからです。多くの要素が私たちを終末の時代に近づけていると思わせているとしても、それによって現在および直近の将来の私たちの苦しみが減るわけではありません。

私が最初に考えたのは、私たちの主の言葉です。「むしろ体と霊魂をゲヘナで滅ぼせるお方を恐れよ」(マテオ10章28節)。恩寵の生活、天主との友情、頻繁に秘跡を受けることは、私たちにとって、人類を襲う霊的な疫病に対する無敵の薬です。迫り来る脅威に怯えてはいけません。悪魔が吠えるのは、主が彼に噛みつくことをお許しにならないということなのです。私たちのそばには、私たちの母であり元后である至聖なる童貞がおられます。私たちは、自分自身と愛する人たちを聖母のご保護にお委ねしましょう。聖母は【私たちを食い尽くそうとしている】飢えた獅子をどうやって叩きのめすかのやり方をご存じだと、私たちは確信しています。「世にいる兄弟たちも同じ苦しみに耐えていることを思い、信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ前書5章9節)。


ヴィガノ・テープ:「これらの司祭たちを感謝して助けなさい」
質問18

The Vigano Tapes:“Help these priests with gratitude”
Question #18

【質問番号18】大司教様、希望ある言葉をありがとうございます。では、最後の質問をさせていただきます。大司教様は一つの小さな面を残しておられます。パンデミック、ワクチン、健康パスポートとは別に、カトリック信者の多くは、古いミサに結びついている共同体の運命を心配しています。これらの共同体の運命と、多くの人が懸念しているカトリック教会の古い祈りの方法について、何か言えることはおありですか?

【回答】この場合も、報復や破門で脅かしている吼える獅子には歯がありません。信者たちや司祭たちは、彼の脅し、聖像破壊的な怒り、カトリックのミサに対する今や露骨になった憎しみが、彼の本当の姿を明らかにしたことをよく理解しています。彼は聖なる犠牲【聖伝のミサ聖祭】を捧げ続ける司祭に何ができるでしょうか? 「divinis」(聖職)の停止、あるいは破門でしょうか? 小教区から追い出すでしょうか? 平信徒に格下げするのでしょうか? このようなことがあっても、良き司祭たちは、謙虚さと変わらぬ心で、密かに使徒職を続けることをやめないでしょう。これは初めてのことではなく、おそらく最後でもないでしょう。そして、危機に瀕している最重要課題、つまり永遠の救いを理解している人々は、サンタ・マルタ館の見苦しい叫び声におじけづくことはないでしょう。

また、信者の皆さんにお願いします。これらの司祭たちを感謝の気持ちで迎え入れて助け、迫害に直面しても屈しないように彼らを励ましてください。信者の皆さんをお招きします。天使のパンをいただくために、家庭用の祭壇を作って、その周りに信仰の兄弟を集めてください。聖なるミサの計り知れない恩寵は、私たちの小さな共同体にも、教会にも、そしてこの世にも惜しみなく注がれるでしょう。良き聖職者が自分の召命に忠実であり続けることができるよう、また、生ぬるい者が天主の栄養の中に、「opportune importune」(良い折があろうとなかろうと)【ティモテオ後書4章2節】、み言葉を説く勇気を見いだすことができるよう、また、司祭の塗油の価値を忘れてしまった人々が回心して自分の道を正すことができるよう、祈りましょう。

迫害の中で、常に恩寵は増大し、霊的な盲目が真と善の観想へと開かれ、心のかたくなさが天主の声への素直さへと溶けていくのです。

+カルロ・マリア・ヴィガノ大司教


ハンセン病患者村のステファノおじいさん「私は、主を知った後、体が健康な人が羨ましくなくなりました。ただうらやましいと思うのが一つあります。」

2021年11月10日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近教えてもらった「ハンセン病患者村のステファノおじいさん」の話をご紹介いたします。今は引退したキム・ウンリョル神父が神学校時代に出会ったハンセン病患者の話です。韓国語はここを参考にしました。

ソロクドのステファノおじいさん

今は、全国のハンセン病患者村の多くは、なくなっていますが、一番有名なのがソロクド(小鹿島)です。【小鹿島は、朝鮮半島の南の端にある小さな島】
私は神学校の2つの休暇をソロクドで過ごしました。

大きなカバンの一つを持ってソロクドの坂道を登る何かがあるのですが、最初は本当に犬だと思いました。ところが近く行ってみると、手足が一つもないハンセン病患者でした。
おなかに、タイヤを半分に切ったものを当てて肘ではって進んでいるのです。
「おじさんはどこに行くのですか?」と言って顔を見たら、もっと醜かったのです。
顔に穴が大きく開いていたんです!鼻もなくなったて、かなり経っていました。

あの上にある聖堂に祈りに行くんだそうです。首にはロザリオをかけておられました。
ですから「おじさん、失礼にならないようでしたら、私がおんぶしてはいけないでしょうか?私は神学生なんです。」
そう言ったら、おじさんは、今日は天使に会ったありがとう、と言われました。

他の人は5分で行く距離を、この方はミミズのように這うので30~40分かかったんです。
しかも坂道に雪が来ると、一生懸命上がるおなかにあるタイヤがずっと滑ってしまうんです…。
彼の名前はステファノでした…
山の中腹に巡回聖堂がありましたが、今はなくなりました。
ある日、私も祈りをしようとその巡回聖堂に入ろうとしたのですが、聖堂の外で、ステファノのおじいさんが顔が血まみれになって祈っておられるのです。

「おじいさん、なぜ入らなかったのですか?」
何と言うことでしょう、ドアを開ける手があってはじめて、ドアを開けることができるのです。
別の時だったら、頭で数回ドアをノックすれば、中から誰かがドアを開けてくれたことでしょう。
ところがその日は寒すぎて、中で祈る人がいなかったんです。
その閉じたドアを頭でこじ開けようとして、頭が傷ついて、傷が開いて凍ってしまったのです。
そこで、聖堂の外で、ここが第一留、第二留、と言いながら一人でおなかで這って行きながら十字架の道行きをしてたんです。
「あらあら、おじいさん、私と一緒にしましょうよ。」
本当に赤ちゃんの体くらいしかないおじさんを抱きしめて一緒に道行きをしました…。

後で私が神父になって、ある日、ソロクドにおられるお姉さんから電話が来ました。
「ステファノおじいさんをご存知ですよね。」
「はい、よく知っています。」
「今、危篤なんです。なんども神父様と会いたいというのです。来てくださることはできますか?」
夜に車を運転してソロクドまで行きました。

「おじいさん、目を開いて、見てください。私、来ましたよ。なぜすぐに天国に行けず、苦しんでいらっしゃるのですか?もう天国に行ってもいいんですよ。」

そう言ったら、おじいさんが、小さな声で、聞いてみたいことがあるっていうんです。
「神父様、私は一生この体を持って生きてきました。ソロクドの岩で、自殺も5回も試みたのですが、しぶとい命で、天主様が生かしてくださったのです。でも私は、主を知った後、体が健康な人が羨ましくなくなりました。」
「ところで、ただうらやましいと思うことが一つあります。指が2本だけでもあれば、自分の手でロザリオ一度、つまぐってみれたのに!」
おじいさんは肘にゴムの糸を掛けて、木を口に挟んで、地面にロザリオを広げて、一つ一つ珠を拾うようにしながら祈っていました。自分には、指が5本も必要ないんだそうです。
一つは掛けて、一つはつまぐる指が、二本だけあれば足りるんだそうです。

そこでこう言うのです。「神父様、私が死んだら、主は、青年時代のように復活させてくださるんですか?神父様の口を通して確認したくて、死にきれませんでした。」

いつだったか、彼の光沢のある写真を見たことがありましたが、本当にハンサムで賢そうな青年でした。おじいさんは「じゃあ、安心して、いきます」というと、最後の祝福を受けて、私の胸で、子供が眠るように息を引き取りました。

一週間が過ぎたでしょうか。私は夢を見ました。花畑の真ん中にいました。瞬間的にここが天国だな!と思いました。考えました。いろいろな花々がありました。
ところが、向こうから誰が、音を立てながら飛び込むようにやって来るんです。近づくにつれてどこでお会いした方のようなんです。もう一度見てみると、あのモノクロ写真に写っていたステファノおじいさんの若かった時の姿なんです。
指ごとにロザリオを巻いて、私を抱きしめて「神父様、指が10本生えてきましたよ。」
皆様は、夢を見ながら泣いたことがありますか?
そのおじいさんを抱きしめて「本当にマリア様、私たちのおじいさんに指を10本も与えてくださったんですね!」「今では、おじいさんは指でロザリオもできますね!」

彼は天主様を知った後、息を引き取る時まで、イエズス・キリストというその方だけを仰ぎながら、一目も脇にそらさなかったのです。
たとえ身体は、獣のようでおなかで地面を這う、悲惨な姿をしていましたが、彼は聖人でした。
私がこの世に生きていながら尊敬する方の一人がまさにステファノのおじいさんです。
私も、その方の信仰を百分の事でも真似するとすれば、私も聖人の司祭になるでしょう。

.......

皆さん、ロザリオの珠をつまぐ手がありませんか?
聖堂の敷地を越える足がありませんか?
どれほど皆さんが恵みの中で富んでいるのかをご存知ないのです。
私たちが背負った重荷は、放棄することも捨てることもできません。
最後まで勇気を失わずに、希望を持って進めば、いつかは明るい光を見るようになります。

- キム・ウンリョル神父の話し-


世俗主義とは、イエズス・キリストを、社会から追放することです。つまり、法律、教育、行政、国際関係、そして社会経済全体から、イエズス・キリストを完全に排除することです。

2021年11月09日 | お説教・霊的講話

王たるキリストについての説教

ドモルネ神父

はじめに

私たちは今日、天地の王たる、私たちの主イエズス・キリストをお祝いしています。

1.王権の本質

王とは、ある都市や、ある特定の地域の人々の共通善を促進するために、その人々を統治する人物です。自分自身の利益のために統治する者は、王ではなく、暴君です。

王は立法権を持っています。つまり、国民を良きものに導き、悪しきものから遠ざけるための法律を作る権力を持っているのです。王は行政権も持っています。つまり、人々を自分の法律に従わせる手段を持っているのです。王は司法権も持っています。つまり、法律に従う人に報いを与え、法律を破る人を罰する権力を持っているのです。

ひとは、どのようにして、王になるのでしょうか? 天主の御名によって聖別されることによってです。実に、すべての権力、すべての権威は、天主に由来します。すべてを創造なさったのは、天主です。すべては天主に依存しています。宇宙の秩序と、それを支配する法を確立なさったのは、天主です。善と悪を決定されるのは、天主です。天主は、善には報いを、悪には罰を、お与えになります。ですから、合法的に王になるためには、その権力を、天主からいただく必要があります。

ところで、天主は、私たちの主イエズス・キリストを、すべての人の王として、また、家族、団体、会社、労働組合、政府など、人間からなる、あらゆる組織の王として、聖別なさいました。

2.キリストの王権の源泉

しかし、天主はいつ、イエズス・キリストを、すべての人の王として聖別なさったのでしょうか?

第一に、位格的結合によってです。位格的結合とは、一つのペルソナにおける、天主性と人性の結合です。イエズス・キリストは人間でいらっしゃいますが、同時に、天主でもいらっしゃいます。主は、ご自分の天主性から、すべてのものに対する権力と権威を受けておられます。預言者イザヤはこう言いました。「私たちのために一人のみどり子が生まれ、ひとりの子が与えられ、その肩には王のしるしがある。その名は、素晴らしきもの、顧問、天主、力あるもの、永遠の父、平和の君と、となえられる」(イザヤ9章5節)。

第二に、私たちの主イエズスは、贖いのみわざのゆえに、天主から、王として聖別されました。イエズスは、ご自分の命を十字架上で天主にお捧げすることによって、すべての人のあらゆる罪を贖われました。主は、地獄からすべての人を解放するための代価を、払われたのです。イエズスが、すべての人を勝ち得る権利を得られたため、天主は、イエズスを、すべての人の王として聖別なさったのです。聖パウロは次のように言っています。「イエズスは死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主は彼を称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それは、イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。

イエズスはご昇天の日、ご自身の普遍的な王権を、はっきりと、こう宣言されました。「私には天と地のいっさいの権力が与えられている」(マテオ28章18節)。

3.世俗主義

私たちの主イエズス・キリストは、王でいらっしゃいます。家庭の父親、会社の社長、団体の会長、組織の理事、政治的指導者など、すべての指導者の権限は、イエズス・キリストに属するものです。彼らの持つ権威は、イエズス・キリストの権威の下にあります。したがって、私たちの指導者たちには、天主と教会の掟に反することをしないという重大な義務があります。彼らには、イエズス・キリストによって創立されたカトリック教会のわざを押し進める義務があります。彼らには、自らの下にある人々の間に、偽りの宗教や道徳的な堕落が起こるのを、出来る限り防ぐ義務があります。

私たちの主イエズスの敵たち、特にフリーメーソンは、世俗主義と呼ばれるこの忌まわしい考えを、世界中に広めてきました。世俗主義とは、イエズス・キリストを、社会から追放することです。つまり、法律、教育、行政、国際関係、そして社会経済全体から、イエズス・キリストを完全に排除することです。世俗主義とは、あたかも天主とイエズス・キリストが存在しないかのように、社会で生活することです。

世俗主義は、非常に重大な罪です。世俗主義は、諸国民の不幸や苦しみの主な原因の一つです。確かに、秩序のないところに、平和や繁栄は、あり得ません。秩序とは、すべてのものが、あるべき場所にあるということです。もし指導者たちが、イエズス・キリストの王権を認めず、イエズス・キリストに服従することを拒むならば、彼らは、天主が確立なさった秩序を尊重しません。彼らは暴君となり、多くの無秩序、苦しみ、不正義、憎しみ、抑圧、戦争を引き起こします。

結論

愛する信者の皆さん、この王たるキリストの祝日に、私たちは、次の二つのことをすべきです。第一に、自分たちの国における世俗主義という罪について、私たちの主イエズス・キリストに、赦しを請うことです。第二に、私たちの家庭で、ビジネスで、また社会生活のすべてにおいて、世俗主義と戦うことです。では、そのためには、どうすればいいのでしょうか? それは、イエズスとイエズスの教会の法に従って、信仰深く生きること、公の場でも恐れずに、私たちがカトリック信者であることを示すこと、そして、どこにいても、カトリックの信仰と教理を積極的に広めることです。

今日、私には、ヨハンナという子に、初聖体を与えるという喜びがあります。私たちの主イエズスは、王が自分の王国を訪れるように、この霊魂に訪れてくださいます。イエズスが、この小さな霊魂を完全に所有し、この霊魂を聖性と永遠の幸福へと導いてくださるよう、お祈りしましょう。また、世俗主義の罪の償いと、罪人の回心のために、この初聖体を王たるキリストにお捧げしましょう。


ジョー・バイデンのバチカン訪問に際してのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の声明

2021年11月09日 | カトリック・ニュースなど

ジョー・バイデンのバチカン訪問に際してのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の声明

Statement of Archbishop Carlo Maria Viganò on the occasion of the visit of Joe Biden to the Vatican

2021年10月31日

10月29日のバチカン訪問に際して、ジョー・バイデンが会談内容を開示し、フランシスコが彼を「良きカトリック信者」と呼び、「ご聖体を受け続けるように勧めた」というニュースが報道機関から広まりました。現在まで、バチカン広報局から明確なコメントが出ていないことは憂慮すべきことです。これでは、ジョー・バイデンの言葉が真実に相当し、ベルゴリオがその言葉を実際に話したものと誰もが思うでしょう。

バイデンの発言が、悪名高い過激な中絶活動家を「偉大なイタリア人」と呼んだホルヘ・マリオ・ベルゴリオの乱暴な軽口と完全に一致するとしても、このような発言が前代未聞のスキャンダルであることは明らかです。なぜなら、中絶を支持する政治家の立場を非難せず、教会の教導権の不変の立場を否定し、公の明らかな罪の状態で受けることによって至聖なるご聖体を冒涜するという、あからさまな涜聖への招待として知れ渡るからです。

すべてのカトリック信者は知っています。母親の胎内にいる無防備な人間を殺すことが恐ろしい犯罪であることを。そして、確信的な中絶支持者であるジョー・バイデンだけでなく、教会の最高牧者の権限を持つと認識されているベルゴリオ自身によっても、最も深刻なスキャンダルが信者らに提示されていることを。枢機卿たちや司教たちの驚くべき沈黙の前に、ベルゴリオの解体作業は休むことを知りません。ごくまれな例外として、自分に託された霊魂たちを本当に大切にしている牧者たち(特にバーク枢機卿の例)がおられますが、彼らは大多数の兄弟である司教たちやバチカンからは敵視されています。

そのバチカンは、今日では、気候変動や包括的資本主義、また大規模なワクチン接種へと矮小化されてしまったキリストの教会の使命を、憂慮すべきことに、転覆させているのです。ベルゴリオは最近、リン・フォレスター・ド・ロスチャイルドが率いる「包括的資本主義のための評議会」から「道徳的指針」(moral guide)と認められ、またジェフリー・デヴィッド・サックスを教皇庁社会科学アカデミーのメンバーに任命しました。サックスは、国連の「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク」の会長であり、世界人口の削減と気候変動との戦いの支持者です。このことは、教皇職の使命とは何の関係もなく、教会の高位聖職者たちは、ベルゴリオの持つ役割についての精神的・道徳的な適性を真剣に自問すべきです。

私は信者の皆さんに、私たちの主イエズス・キリストの社会的王権をたたえるためにピオ十一世が制定した祝日に、天主の御稜威に願い奉るよう強く勧めます。現在の危機に悩まされている多くの社会の中で、キリストの教会が、グローバリズム・イデオロギーという偶像に今日取って代わられたイエズス・キリストの統治を取り戻す最初の社会になるよう請い願うように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年10月31日
王たる私たちの主イエズス・キリストの祝日


【参考文献】ヴィガノ・テープ 第11~16番:「公会議は、勇気を持って十字架の道を歩むことよりも、安易な対話の道を選ぶ誘惑に屈してしまい、その結果福音をこの世の精神に適合させてしまいました。」

2021年11月08日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教は、今は引退していますが、元バチカンのトップで働いていました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、教皇フランシスコなどを親しく知っている高位聖職者です。ヴィガノ大司教は、正直に、現実的に、第二バチカン公会議のイデオロギーが失敗したことを指摘します。刷新とされているものは何だったのか?教会の破壊だったのではないか?公会議の教会の問題点とは何か?と問うています。

ヴィガノ・テープ:「教会はいかにして変わったか」
質問11

The Vigano Tapes: “How the church has changed”
Question #11

【質問番号11】大司教様、またしても大司教様は、今日私たちが直面している重大な危険について述べられる際に、世論を二分するような発言や暗いトーンで私たちに衝撃を与えられました。それは、去勢という言葉、医学的手段による毒の注入という言葉です。話を少し変えて、大司教様の真の専門分野である教会の生活についてもう少し詳しく見てみましょう。大司教様はバチカンの役人でいらっしゃいました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、そして教皇フランシスコとも近い関係をお持ちでした。聖伝に対して、世俗世界全般に対して、教会をこのような弱い立場に置いてしまったとは、教会にいったい何が起こったとお考えですか? 今日、教会が直面しなければならない主要な問題は何でしょうか?

【回答】サタンの煙が教会に入ったのは60年以上前の公会議からですが、もっと前からと言ってもいいでしょう。第二バチカン公会議の革命が可能だったのは、ローマ教皇庁、各司教区、各大学、各神学校、各修道会に侵入した裏切り者たちによって、何十年にもわたって細部に至るまで準備されかつ組織されていたからです。教会の最高位の人々が、無気力で準備ができておらず、新奇なものの風に毒され、現代社会の課題に直面して対応が不十分で、自分たちは時代遅れ・流行遅れであると信じるようにさせた劣等感に苦しんでいたことを、この侵入ができたことが示しています。そして私たちが認識しなければならないのは、このことの主な原因は、超自然的なビジョンの欠如にあるということです。つまり、散漫な行動主義に無駄な力を使ったために、そして、まさに祈りに養われず天主の愛である愛徳に養われていないがゆえに不毛な使徒職のために、恩寵の生活を軽視してしまったのです。

同じことが今日も起きています。たとえそれが古代のものであることを考慮しただけでも、それ自体が廃止の可能性を免除されている典礼に、違法な制限を押し付けるような、教会法まがいの威圧に直面しているからです。

私が何度も申し上げたように、日食の時に月が太陽を覆うようにキリストの教会の上に重なっている公会議の教会の問題点とは、この世と折り合いをつけようとしたことです。私たちの運命は、世に嫌われ、世に迫害されることである、と福音が教えているにもかかわらずです。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」(ヨハネ15章18節)、「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。「弟子は先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない」(マテオ10章24節)。公会議の位階階級は、勇気を持って十字架の道を歩むことよりも、安易な対話の道を選ぶ誘惑に屈してしまい、その結果、位階階級は福音宣教を放棄し、福音に混ぜ物をし、福音をこの世の精神に適合させてしまいました。サタンは、私たちの主によって、「この世の君」と呼ばれていることを忘れてはなりません(ヨハネ12章31節、16章11節)。

しかし、このいわゆる「公会議の春」が大失敗したことを目前にしても、人は自殺的であることが証明されている道を四角四面に頑固に主張します。もし、第二バチカン公会議が少なくとも信者の数を増やしたのであれば、その方法を批判することはできても、質的にはともかく、少なくとも数的な利益を認識することはできたでしょう。しかし、公会議のいわゆる「開かれていること」は、分かれた兄弟たちを一人も改宗させず、法外な数の信者の放棄という結果を引き起こしました。今日、教会に残っている人たちの信仰について知識は、ほとんどの場合、隙間だらけで、不完全で、誤謬のあるもので、霊的生活は完全にないとは言えないまでも貧弱で、成聖の恩寵の状態は消滅し、無視されています。

私は自問しますが、ピオ十二世までのローマ教皇が歩んできた王道を捨て、第二バチカン公会議が採用した道を歩み続けるべき根拠となる、第二バチカン公会議の大成功は、いったいどこにあるというのでしょうか? 人間的な評価だけであっても、公会議のイデオロギーの失敗と、犯した過ちを修復する必要性を理解するのには十分です。

そして、私たちは自問しなければなりません。おそらく無慈悲に、しかしそれでも正直に、そして現実的にです。刷新とされているものは口実に過ぎず、その背後にはキリストの教会を破壊し、偽物に置き換えようとする明確で悪意のある意向が隠されていたのではないかと。この意向は、大多数の司教たちに理解されておらず、共有されてもいないのは確かですが、少数の組織化された有能な裏切り者たちの行動において明白に当然のこととして現れています。彼らが、古い宗教と古いミサについて、新しい公会議の宗教と新しい改革されたミサに対比して語るのは偶然ではありません。彼らが公会議を鋤のように使って意図的に掘ったその溝は、今日、カトリックであるものと、もはやカトリックでないもの、カトリックである人と、もはやカトリックでありたいと思わない人とを分ける差(discrimen)として、現実のものとなって現れています。


ヴィガノ・テープ:キリストの王権を否定する
質問12

The Vigano Tapes:Denying the Kingship of Christ
Question #12


【質問番号12】大司教様、公会議の教会は、公会議以前のカトリック教会とどのような点で異なっているのでしょうか? 大司教様は今、私たちに60年間続いたプロセスを説明されましたが、おっしゃるように、そのプロセスで教会はある種の腐敗に直面してきました。大司教様は道徳的な面での腐敗、子どもの虐待を糾弾されました。今、大司教様が糾弾しておられるのは、教理的な面での堕落です。過去60年間に、聖伝のキリスト教の教えからのある種の逸脱があったとおっしゃっているのですね。これがどのようにして起こったと思っておられるのか、そしてそれに関して何をすることができるのか、さらに詳しく説明していただけますか?

カトリック教会は、1960年代、1962年から1965年までの4年間に、一つの公会議、エキュメニカルな公会議を開催しました。公会議の後、教会は "私たちは今、教会の近代化に向けて大きな一歩を踏み出し、教会を現代人にとってより魅力的なものにした"、と言いました。しかし、大司教様は、このことがこの時代の歴史に残る何か根本的な過ちであると考えておられます。大司教様は公会議で何が起こったと考えておられるのか、なぜ教会がそのような道を歩むことがそんなにも間違いだと考えておられるのか、なぜそれを他の人が糾弾せず大司教様だけが糾弾なさっているのか、私たちの視聴者に教えてください。

【回答】私が思うに、公会議の教会の問題点は、キリストの王権を否定し、そして、少なくとも言葉の上では、主権を平信徒に移譲して、革命的な要求を自らの要求としたことです。聖職者のエリートたちは、平信徒にはどの真理を拒否するか、どの新しい教義を発明するかを選択することができると、彼らに説得しました。

私は、まさに世俗の領域で起こったように、教会の領域でも、平信徒らのために権威が確立されているにもかかわらず、彼らに反する目的を持つ新しい存在によって権力が簒奪(横取り)されてきたことを指摘します。典礼改革が押し付けられてきた方法は、今日、グリーンパスが私たちに押し付けられている方法と大して違いません。常に私たちの善のため【という口実で】、常に私たちのために決定する人々が存在するという理由で、彼らの真の意向を隠すために私たちに常に嘘をつくのです。

もし彼らの真の目的が霊魂の善であるならば、彼らは最初から、悔い改めて、起こった災難を、恐怖をもって見ていなければならなかったことでしょう。しかし、その目的が実際には災難それ自体ならば、災難を抑制し、被害を回復させようとするすべてのものに対する憎悪と嫌悪を何故持っているかが理解できます。このように考えると、「perseverare diabolicum」(固執することは悪魔的)です。そしてこれは、公会議に対する頑固さにも、パンデミックの茶番劇に対する頑固さにも当てはまるのです。


ヴィガノ・テープ:啓蒙あるいは…暗黒化?
質問13

The Vigano Tapes:Enlightenment or… Endarkenment?
Question #13

【質問番号13】大司教様、非常に多くの人々が、啓蒙主義(Enlightenment)が人間の心を大きく開いたと信じています。それは人類の歴史において素晴らしい進歩だったと彼らは感じています。その時代を批判する人はごく少数で、それは大司教様のように宗教的な根拠に基づいています。しかし、大司教様は、啓蒙主義の時代に何が起こったのか、それが実質的には「暗黒化・蒙昧主義」(Endarkenment)であると考えておられるのか、その理解を教えてください。どのような勢力が役割を果たしたのでしょうか? 大司教様は別の機会に、フリーメーソンと呼ばれるグループと、彼らがこのような変化をもたらすことに関心を持っていることを私に話してくださいました。これについてお話しいただけますか?

【回答】フリーメーソンはサタンの神秘体です。なぜなら、サタンはフリーメーソンがイニシエーション【入会儀式】の最高のレベルで崇拝する存在だからです。フリーメーソンが会員に勧める「イルミネーション」とは、大建築家(Great Architect)を崇拝することであり、その建築家は、人がもはや後戻りできなくなったときにのみ、その地獄のような姿を見せます。啓蒙主義は、他の哲学的運動と同様に、フリーメーソンが欧州のエリートを堕落させ、大衆を主権者やローマ教皇の権威への反抗に動員するための文化的・思想的な道具でした。この悪名高いカルトを断罪した数多くの回勅は、教会の知恵と教皇の判断の明晰さを示していますが、それと同時に、フリーメーソンが公会議の位階階級に浸透していたことや、位階階級と共犯関係にあったことも明らかにしています。


ヴィガノ・テープ:「これは偶然の一致ではない」
質問14

The Vigano Tapes:“This is not a coincidence”
Question #14

【質問番号14】しかし、啓蒙主義は、西洋に伝わり始めたある種の東洋の諸哲学からも影響を受けたと言う人もいます。これについてコメントしていただけますか?

【回答】復興異教主義(neo-pagan)の哲学や東洋の霊性の流れは、グノーシス的かつメーソン的な母体に由来する概念を肯定的に評価することで、私たちの社会に浸透してきています。これは偶然ではありません。これらの動きの多くは、啓蒙主義、相対主義、主観主義、自由主義など、現代のあらゆる誤謬の持つ哲学的原則が宗教的に堕落したものにほかなりません。このようにして、ブッダの悟りは、自分自身の神格化や、汎神論的な全体【ブラフマン】の中に入っていく自らの無【アートマン】について、一種の認識をすることで成り立ちますが、冒涜的な「普遍的世界人権宣言」の中に対応するものを見いだすことができ、この人権が、イエズス・キリストを追放した後に世界の中心となったのです。

真の宗教は、創造主、主、贖い主との親密な関係において、また同胞である人間との関係において、各人の個性を擁護するものです。対照的に、新しい人間中心的な概念では、個人は無とされて、国家が市民の主人にして支配者であるような、不明確な塊になります。これは、社会主義、共産主義、ナチズム、そして今日のトランスヒューマニズム的グローバリズムの土台となっています。このように、人間中心的で共同体主義的なアプローチは、聖伝のミサの天主中心的なビジョンとは全く対照的に、ノブス・オルドの特徴であることは見逃せません。

仏教、特に創価学会インターナショナルの仏教は、公会議のエキュメニカル思想の東洋版のようなものであり、その会長である池田大作がアウレリオ・ペッチェイやローマ・クラブと協力して、まさにこの運動に宗教的な刻印を与えたことは驚くべきことではありません。それによって信者は、生態学的汎神論や平和主義に彩られたメーソンやグローバリズムの原理に傾倒し、今日ではベルゴリオの教会がそれらを自らのものとして採用しています(こちら)。

創価学会が表明している原理は、すべてグローバリズムや新世界秩序の原理と一致しており、同じ辞書から多くを借用しています(こちら)。また、創価学会が伝統的仏教の「異端」であることに注目するのも興味深いものです。これは、公会議の宗教がローマ・カトリックにとって異端であり、シオニズムが正統派ユダヤ教にとって異端であるのと全く同じです。普遍的宗教のプロジェクトが現実のものとなるとき、メーソンやグローバリストのビジョンを受け入れない宗教の信者は排除されるでしょう。しかし、もうすでに私たちは、言ってみれば進歩主義者と原理主義者の間ですくい取った真の上澄みを見ているのです。

ヴィガノ・テープ:「達成できない楽園」
質問15

The Vigano Tapes:“An unattainable paradise”
Question #15

【質問番号15】大司教様、私たちが理解したいと思うのは、啓蒙主義について私たちがこれまで教えられてきたことを大司教様が非難なさっている規模です。フランス革命の栄光と善、自由、平等、友愛について、学校や社会全体が教えてきたことと、どうしてそんなに違った見方ができるのでしょうか? このテーマを深く掘り下げて、大司教様の立場をよりよく理解できるような情報を提供していただけないでしょうか?

【回答】天主から来ていないあらゆるものと同じように、啓蒙主義思想もまた、ペルソナ的で超越的な天主という客観的現実と矛盾する内在論に基づいて、達成不可能な地上の楽園、人間のユートピアを約束しますから、嘘偽りです。啓蒙主義の原理はキメラ、すなわち、奇怪な偽物です。メーソンの自由とは、放埓(ほうらつ)のことであり、メーソンの友愛とは、天主に対する陰謀家間の協定であり、メーソンの平等とはみじめな平板化した個人であり、社会的・宗教的秩序の放棄です。また、平等を喧伝している人々がメーソンのロッジに所属することを、何も知らない大衆に対して道徳的に優位な立場に立つための特権の条件と考えていることも重要です。


ヴィガノ・テープ:「キリスト教を取り消そうとする地獄の計画」
質問16

The Vigano Tapes:“The infernal plan to cancel Christianity”
Question #16

【質問番号16】フランスにおける革命、フランス革命は、ヨーロッパの社会的、政治的構造に非常に大きな変化をもたらしました。フランス革命は、君主制を終わらせ、民主主義国家をもたらしました。私たちは過去200年間、その革命を受け継いできました。今、私たちは、民主主義や個々の国家という考えから、単一の統一されたグローバルな国家という考えへと導く、最後の大革命という転換期にいるように見えます。この現在の見通しについてコメントしていただけますか?

【回答】近代国家は、主キリストの王権を取り消そうとするメーソン・セクトの政治的、社会的、宗教的な陰謀から生まれたもので、主キリストの主権が、最初はフランス革命によって世俗社会から取り消され、次に第二バチカン公会議によって教会から取り消されました。民主主義や人民主権という概念は、人々を欺くものであるだけでなく、反カトリック的、反キリスト的な文脈から生まれたものです。それは、公共的問題に対する天主の権力の代理者を表すものとしての"主権者たる王の権力"に対立する明らかな反テーゼから生まれたものです。

キリスト教の秩序においては、主権者【王】はこの世の問題でキリストの代わりに存在し、主権者の権威は、自然法、天主の法、主権者が規定しなければならない実定法の範囲内に限られています。「bonum commune」(共通善)の概念は、自然法と啓示された真理に不可分に結びついており、そのようなものとして、いつでもどこでも適用されます。

一方、近代国家では、何が善であるかを大衆が決定しますが、それは、少なくとも見かけ上の数的多数に基づいて行うか、あるいは、今日起こっているように、メディアと経済的支配者の共犯のおかげでイデオロギー的に自らの考えを押し付ける、より組織化された少数派というパラドックスの中で行うのです。

キリスト教を取り消す地獄の計画は、過去2世紀半の間に起こったように、カトリック君主制の破壊を行わないわけにはいきませんでした。カトリックの道徳に従って市民の生活を規制する不変の原則の不在の中で、フリーメーソンは全世代を堕落させ、自由に関する誤った概念を教え込み、その名の下に人間を天主のご意志による秩序(位階階級は神聖な秩序です)に反抗させ、主キリストが成し遂げられた贖罪に背を向けさせてきました。信教の自由は、悲惨なる報道の自由、意見の自由とともに、人間は自分が選んだどんな信条やイデオロギーを受け入れることも道徳的に自由であり、その選択は自分の不滅の霊魂の永遠の運命や社会全体の運命に何の影響も及ぼさない、という考えを植え付けるのに役立ったのです。

これらは、何世紀にもわたる洗脳の後では、現代人のメンタリティーにとっては理解しがたい概念であり、とりわけ第二バチカン公会議がこれらの概念を支持し、断罪すべきものを否定して、これらの考えが教会から価値あるものとされたのは明らかです。

この意味で、新世界秩序は、最初は小さなサークルに権力が委譲され、その後、反キリストをトップとする専制政治へと変化していく、シナルキー(数名の共同統治)、単一政府として組織化されると考えることができます。サタンは、君主制が統治にどれほど効果的であるかをよく知っていることを忘れてはなりません。彼が受け入れないのは、統治者がイエズス・キリストであり、その代理者によって統治されることです。なぜなら、ここにおいてもサタンが天主の御子の座を奪おうとしているからです。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2021年11月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計103人でした。大阪では27人でした。天主に感謝いたします。

11月22日(月)は、大阪で午後6時からミサと御聖体降福式がある予定です。
11月23日(火)勤労感謝の日は、名古屋(いつもの場所)で、午前10時30分からミサがあります。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 103, including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 4 children)
F: 21 (incl. 3 children)
Total: 43 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 6 children)
F: 21 (incl. 5 children)
Total: 40 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 1 child)
F: 15 (incl. 3 children)
Total: 28 (incl. 4 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 11 children)
F: 53 (incl. 11 children)
Total: 103 (incl. 22 children)


第二バチカン公会議後、カトリック教会に毒麦が蒔かれたかのようです|地獄についての黙想

2021年11月06日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年11月7日は聖霊降臨後第二十四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2021年11月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年10月31日、東京のミサに来られた方は子供達も入れて合計139人でした。東京では一人の子供が初聖体を受けました。大阪では28人が聖伝のミサに与りました。日本ではこの日167人が聖伝のミサに与ったことになります。天主に感謝!
また、10月には生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受けました。日本では10人目の洗礼でした。

11月22日(月)は、大阪で午後6時からミサと御聖体降福式がある予定です。
11月23日(火)勤労感謝の日は、名古屋(いつもの場所)で、午前10時30分からミサがあります。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 139, including children.

09:00 mass
M: 41 (incl. 8 children)
F: 36 (incl. 8 children)
Total: 77 (incl. 16 children)

11:00 mass
M: 23 (incl. 7 children)
F: 31 (incl. 8 children)
Total: 54 (incl. 15 children)

12:30 mass
M: 7 (incl. 0 child)
F: 6 (incl. 1 child)
Total: 13 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 69 (incl. 15 children)
F: 70 (incl. 17 children)
Total: 139 (incl. 32 children)


光の玄義の最大の問題:光の玄義を導入したのは、ロザリオを通じて、エキュメニズムと人間中心主義に関する第二バチカン公会議の教えを推進するためだった

2021年11月04日 | お説教・霊的講話


光の玄義についての説教

2021年10月24日 ドモルネ神父

はじめに

今日も、ロザリオについてお話しします。先週の主日は、聖ドミニコが制定したロザリオの十五の玄義、すなわち、五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義を黙想することについて、お話ししました。ところで、2002年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、使徒的書簡によって、光の玄義と呼ばれる五つの新しい玄義を制定しました。この光の玄義は、キリストの洗礼、カナでのキリストの最初の奇跡、福音宣教、キリストのご変容、最後の晩餐です。聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、この光の玄義を含まない、聖伝の形式でのみ祈ります。なぜ聖ピオ十世会の会員はそのようにするのでしょうか?

1.ロザリオを改善する試みについての疑い

教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオの祈りを改善し、信者がロザリオをよりよく理解し、ロザリオをよりよく、より効果的に祈ることができるように、五つの光の玄義を加えることを決定しました(使徒的書簡28章)。教皇に、ロザリオを変更する権限があるのは、事実です。しかし、十五玄義からなるロザリオは、聖母と聖ドミニコからもたらされたものです。それは、諸教皇、特に偉大な神学者として有名なレオ十三世によって、公式に認可され、幾度もたたえられてきたものです。例えば、1571年、レパントでイスラム軍の攻撃を打ち破るなど、その非常に大きな力が、劇的に示されてきました。そのため、ロザリオを改善して、その効果を確実なものにするためにロザリオに変更を加える、という教皇の意向には、およそ説得力はありません。

2.ロザリオの変性

光の玄義を加えることは、ロザリオを変質させることです。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオを、福音の要約にしたいと考えます(同19章)。ですから、イエズスの公生活をそこに反映させるために、ロザリオに光の玄義を加えるのです。しかし、ロザリオは福音の要約のためのものではなく、私たちのカトリック信仰の主要な真理を毎日黙想するためのものです。このことは、私たちが栄えの玄義で黙想している聖母の被昇天と天国での戴冠が、福音のなかでは述べられていないことからも、証明されます。

また、ロザリオはイエズスとマリアの詩篇であり、聖書の詩篇の百五十篇にならって、百五十回の「めでたし」でできています。そこに光の玄義を加えると、ロザリオは二百回の「めでたし」になってしまいます。そのため、聖書の詩篇との象徴的、かつ構造的な関係が崩れてしまうのです。

またロザリオは、毎日祈られるべきものです。喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義という十五の玄義で構成されているのは、キリスト信者が、キリスト教生活の本質的な真理を、毎日黙想することを目的としているからです。しかし、光の玄義が加わると、ロザリオを毎日唱えることが難しくなります。人々が毎日、十五の玄義を唱えることさえ難しいのですから、二十の玄義を唱えるのはどれほど難しいことでしょうか。

また、ロザリオの十五の玄義は、秩序あるサイクルを作り出しています。つまり、私たちは、喜びの玄義から苦しみの玄義へ至り、苦しみの玄義から栄えの玄義へ至り、栄えの玄義から、すべての始まりであり終わりである天主の命へと至るのです。私たちは、ロザリオの諸玄義を一週間に分散して祈ることによって、この秩序あるサイクルを保っているのです。私たちは、月曜日に喜びの玄義を、火曜日に苦しみの玄義を、水曜日に栄えの玄義を祈ります。そして、木曜日・金曜日・土曜日にも、同じサイクルを繰り返します。主日には、栄えの玄義を祈ります。しかし、光の玄義が加わると、このサイクルが崩れてしまいます。実際、教皇ヨハネ・パウロ二世は、木曜日に光の玄義を、金曜日に苦しみの玄義を、土曜日に喜びの玄義を、主日に栄えの玄義を祈るように勧めますが、この流れには秩序がありません。

3.ロザリオを通じて第二バチカン公会議の教えを推進すること

しかし、光の玄義の最大の問題は、次のことです。教皇ヨハネ・パウロ二世が光の玄義を導入したのは、ロザリオを通じて、エキュメニズムと人間中心主義に関する第二バチカン公会議の教えを推進するためだったのです。教皇は、自らの書簡の中でそれを明確に述べており、また第二バチカン公会議の文書「教会憲章」(Lumen Gentium)と「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)に言及しているのです。

光の玄義が、第二バチカン公会議のエキュメニズムを、どのように推進するのでしょうか? このエキュメニズムとは、カトリック、オーソドックス、プロテスタントのすべてのキリスト教徒が、教理上の違いにかかわらず、キリストの同じ教会に属している、とすることです。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、キリストが人間にご自身を啓示される、幾つかの手段を提示したいと考えます。その手段とは、キリストの洗礼式、キリストの神性を信じること、キリストを他人に証しすること、キリストに耳を傾けること、最後の晩餐を祝うことです。しかし、これら五つの手段は、キリスト教のすべての宗派のうちに見つけることができるものです。そのため、キリストは、キリスト教のあらゆる宗派を通じてご自身を啓示され、よって、すべてのキリスト教徒はキリストの教会に属し、教理上の違いにかかわらず、すべてのキリスト教徒は一致しなければならない、というのです。

ただし、このエキュメニズムは、第二バチカン公会議以前の諸教皇によって、はっきりと断罪されていました。私たちは、カトリックの信仰を裏切ることなしには、このエキュメニズムを受け入れることはできません。

光の玄義が、第二バチカン公会議の人間中心主義を、どのように推進するのでしょうか? この人間中心主義とは、人間の尊厳を高め、人間をすべての中心とする、というものです。この人間中心主義によれば、イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を啓示される、というのです。教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、私たちが、自分自身の人間としての尊厳をよりよく知るようになるために、私たちがキリストの啓示を考えることを望むのです。ただし、この人間中心主義は、偽りの教理です。イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を示すために来られたのではありません。そうではなく、人間に対して、天主と、天主の完全性を啓示するために、来られたのです。

結論

これらのすべての理由から、聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、光の玄義を除いた、聖伝の形式でのみ祈ります。そして、信者の皆さんすべてにも、同じようになさることを、お勧めします。


人々が、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光について黙想しながら天使祝詞を唱えるなら、もっとすばらしいことであり、聖母のさらなる喜びとなる

2021年11月04日 | お説教・霊的講話

ロザリオの諸玄義の黙想についての説教

2021年10月17日 ドモルネ神父

はじめに

先週の主日には、ロザリオが、昔は、「イエズスと童貞聖マリアの詩篇」と呼ばれていたことを、皆さんに思い起こしていただきました。ロザリオは、本質的に、百五十篇の詩篇にならって、百五十回の「めでたし」を唱えることから成り立っています。しかし、ロザリオは、これらの「めでたし」を唱えるだけではありません。それと同時に、私たちの主イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想することが欠かせません。聖ドミニコの後継者の一人であり、ロザリオの偉大な推進者であった、福者アラン・ド・ラ・ロシュに、聖母が語られたことを、ご紹介します。「人々が百五十回の天使祝詞を唱えるとき、その祈りは、彼らにとっての大きな助けとなり、また、私に対する最も喜ばしい賛辞でもあります。しかし、人々が、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光について黙想しながらこれらの天使祝詞を唱えるなら、それはもっとすばらしいことであり、また、私のさらなる喜びとなるでしょう。この黙想こそが、これらの祈りの魂なのですから」。そこで今日は、ロザリオの諸玄義の黙想について、少しお話ししようと思います。

1.私たちの主イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想すること

第一に、イエズス・キリストのご生涯、ご受難と、栄光を黙想するとは、どういう意味でしょうか。それが意味するのは、イエズスがなさったことやおっしゃったことについて考え、思いを巡らし、そして、イエズスの教えを理解すること、次に、この教えに従って生きたいという願いを自分自身の中で燃え立たせること、そして最後に、日々の生活の中で、聖徳を実践し、罪を避けるための具体的な決心を立てることです。

私たちはなぜ、イエズスのご生涯、ご受難と、栄光を黙想する必要があるのでしょうか? 第一に、私たちが聖人になるためには、それが必要だからです。すべての聖性の手本は、私たちの主イエズス・キリストです。ですから、聖人になるということは、イエズスの教えと模範に従って生きることによって、自分自身の中にイエズスの似姿を再現させるということです。しかし、画家が、自分の描いている肖像画の対象の人物をたびたび見る必要があるように、私たちも、イエズスの似姿を私たちの中に再現させるためには、イエズスがなさったことやおっしゃったことを、たびたび考える必要があります。

第二に、私たちは、イエズスとマリアのご生涯、ご受難と、栄光について黙想し、お二人をたたえ、お二人が私たちのためにしてくださったすべてのことに、感謝する必要があります。お二人は、私たちを地獄から救い、私たちのために天国を開き、私たちに成聖の恩寵を与え、私たちが天国に達するために必要なすべての助けを与えてくださいます。そして、お二人がこれらの恩恵を私たちのために獲得してくださったのは、極めて耐え難いお苦しみを通してでした。これほど素晴らしい恩恵へのお礼として、私たちは最低限、毎日、私たちの主イエズスと聖母をたたえ、感謝しなくてはなりません。

2.ロザリオの十五玄義

聖ドミニコは、ロザリオの百五十回の「めでたし」を、十五連に分けました。聖ドミニコは、私たちの主イエズスと聖母のご生涯、ご受難と、栄光の十五の出来事の黙想を、そこに加えました。私たちは、これらの出来事を「玄義」、ロザリオの十五玄義と呼んでいます。なぜこれが「玄義」という名前なのでしょうか? 聖ルイ=マリー・ド・モンフォールの言葉を聞きましょう。「玄義とは、理解するのが難しい、聖なるもののことです。私たちの主イエズス・キリストのみわざは、すべて聖であって、天主としてのものですが、それは、主が、天主であると同時に、人間でもあるからです。聖母のみわざは極めて聖なるものですが、それは、聖母が、天主の被造物の中で最も完璧な存在であるからです。イエズスとマリアのみわざを理解するのが難しいのは、そこには、私たちの自然な理解力を超えた意味や、完全さや、力があるからです。聖霊は、これらの玄義を敬う、謙虚で素朴な霊魂たちに、その意味と豊かさを明らかにしてくださいます」。私たちは、ロザリオの「めでたし」の祈りを、執拗に、熱心に繰り返すことによって、これらの玄義をよりよく理解し、そこに含まれる恩寵を得られるように、聖霊からの光を与えてくださるよう、童貞聖マリアにお願いしているのです。

聖ドミニコが、ロザリオを、五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義に分けたのは、なぜでしょうか? それは、私たちがカトリック信仰の本質を黙想できるようにするためです。この三部において、私たちはイエズスとマリアのご生涯の三つの主要な部分、すなわち、地上でのご生涯、ご受難、永遠の栄光について、黙想します。私たちは、カトリック信仰の三つの基本的な玄義、すなわち、ご托身の玄義、贖いの玄義、三位一体の玄義について、黙想します。私たちは、私たちの存在の三つの本質的な理由、すなわち、天主の子となるべき私たちの召命、苦しみを通した私たちの贖い、三位一体の命にあずかる私たちの永遠の幸福について、黙想します。また、このロザリオの十五玄義を通して、私たちが聖人になるために実践する必要のあるすべての聖徳を教えられます。

2002年に、教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義と呼ばれる五つの新しい玄義を制定しました。それについては、どう考えればよいでしょうか? この質問には、次の主日にお答えしましょう。

結論

私たちがロザリオを祈るときには、十五玄義を黙想することが欠かせません。そうでなければ、私たちのロザリオは、霊魂のない肉体のようになってしまいます。では、締めくくりに、教会が「聖なるロザリオの聖母」のミサの集祷文において語っていることを、思い起こしていただきたいと思います。それは、聖なるロザリオを唱える際に諸玄義が果たす本質的な役割を、見事に表現しています。

「ああ天主よ、御身の御独り子は、そのご生涯とご死去とご復活とによりて、われらのために、永遠の救霊の功徳を備え給えり。願わくは、童貞聖マリアの、いと尊きロザリオにより、この玄義を黙想し奉るわれらをしてこれにあやからしめ、かつ、この諸玄義の恵みの効果をこうむらしめ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き、かつ治め給う御子によりて。アーメン」。


2021年11月3日は、11月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年11月03日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年11月3日は、11月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】