Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

夫婦が結婚して家族を築くとき、三つの善を受ける:夫婦の貞節、婚姻の秘跡、子どもである。家族の黄金である夫婦の貞節について

2022年01月12日 | 聖伝のミサの予定

家族についての説教(1)

ドモルネ神父

はじめに

今日は、イエズス、マリア、ヨゼフの、聖家族をお祝いしています。天主の御子である私たちの主イエズスは、家族の中に生まれ、地上の生活の30年間を、そこで過ごされました。このことは、人間の生活における家族の重要性を、はっきりと示しています。そこで、家族についての真理を、いくつか思い起こしていただきたいと思います。

1.家族は天主が定められた制度である

家族は、人類の始まりの時に、天主ご自身が定められた制度です。創世記には、こうあります。「天主は、ご自分にかたどって、人間をつくり出された。人間を天主のかたどりとし、男と女とにつくり出された。天主は、人間を祝福して仰せられた。『生めよ、増えよ、地に満ちて、地を支配せよ』」(創世記1章27-28節)。天主ご自身が、家族と、その土台、その使命、その権利を定められました。家族の土台は、一人の男と一人の女が、生涯にわたって互いに結びあう、という婚姻の契約です。家族の第一の使命は、新しい人間を生み、教育することです。家族は、人間の命の源であり、子どもが、肉体的、霊的に成長するための枠組みです。家族の第二の使命は、夫婦が相互に助け合うことです。家族は、その使命を果たすために、必要な自由と手段を、その権利として、与えられなければなりません。

私たちの主イエズスは、公生活の最初の日に、カナの婚礼に参列することで、家族の重要性を確認されました。新郎新婦のために最初の奇跡を行うことによって、私たちの主は、家族に対する天主の最初の祝福を、更新されました。またそれどころか、主は、婚姻の契約を秘跡、すなわち聖化の源泉とさえされたのです。

2.家族は国家に優先する

重要なことは、天主ご自身が、直接、家族制度を制定された、ということです。しかし、天主は、直接、国家や政府を制定されたわけではありません。このことが意味するのは、家族は、国家に優先する、ということです。教皇ピオ十二世は、こう言っています。「家族が、社会のためにあるのではなく、社会が、家族のためにある」。国家の義務は、家族を保護し、夫婦に、その使命を果たすための手段を与えることです。

このことから直ちにえられる結論は、国家には、家族の構造を変える権限はない、ということです。もし、国家がそのようなことをすれば、それは、重大な権力の濫用です。それは、例えば、離婚や、自然に反する結合を認めることです。国家には、夫婦が子どもを生み、教育する使命を妨害したり、制限したりする権限はありません。もし国家がそのようなことをすれば、それは、重大な権力の濫用です。それは、例えば、夫婦が二人以上の子どもを持つことを禁じたり、大家族を持つことを不可能にするような社会状況を作り出したり、子どもの教育を公的機関で行うことを強制したりすることです。

3.結婚の善

カトリック教徒の夫婦が結婚して家族を築くとき、三つの善を受けます。その三つの善とは、夫婦の貞節、婚姻の秘跡、そして子どもを持つ権利です。教皇ピオ十二世は、この三つの善を、ご公現の祝日の、三人の博士たちの、イエズスへの三つの贈り物に例えています。家族の黄金は、夫婦の貞節です。家族の乳香は、婚姻の秘跡です。家族の没薬は、子どもです。そして、教皇ピオ十二世は、三人の博士たちが黄金と乳香と没薬を、天主に捧げたように、カトリック教徒の夫婦も、この三つの善を、天主に捧げるように勧めました。

今回は、家族の黄金、すなわち、夫婦の貞節についてだけお話しします。

4.家族の黄金:夫婦の貞節

教皇ピオ十二世の言葉を紹介します。「黄金は、その美しさ、その輝き、その不変性のゆえに、最も貴重な金属です。その価値は、他のすべての富の基礎であり尺度です。ですから、家族のあらゆる幸福の基礎と尺度は、夫婦の貞節です。ソロモンの神殿では、金属を変色させないため、また建物全体を装飾するために、黄金で覆われていない部分はありませんでした(列王の書上6章22節)。貞節も、同じです。夫婦の結びつきが、堅固で輝くものであるためには、それは完全に貞節で覆われ、包まれていなければなりません。黄金は、その美しさと輝きを保つためには、純粋でなければなりません。同様に、夫婦間の貞節は、完全で、汚れのないものでなければなりません。貞節が崩れ始めたら、家族の信頼と平和と幸福は、失われます。預言者エレミヤは、神殿の黄金が変色し、鮮やかな色を失ってしまったことを嘆きました。しかし、それ以上に嘆かわしいのは、貞節が汚された夫婦です。夫婦の黄金(エゼキエル7章19節)は、ちりあくたと化してしまいます。夫婦の美しい調和という宝は、すべて、疑惑、不信、非難の混じり合った、あわれな腐食へと進み、それはしばしば、取り返しのつかない傷につながるのです。そのため、天主なる幼子へ、皆さんが最初に捧げるべきものは、自分たちの婚姻の約束に、いつも忠実であり、かつそのための注意を怠らない、という決意なのです」。

親愛なる夫婦の皆さん、この教皇の勧告は明確です。皆さんは、夫婦の貞節を守らなければなりません。したがって、夫婦の貞潔を危険にさらすようなことは、何であっても、絶対に拒否しなければなりません。それは、泥棒が皆さんの家に侵入して、黄金をすべて盗むことよりも、悪いことです。皆さんの家族の中でも、付き合う人、テレビやインターネット、新聞や本、漫画、音楽や歌、服装などをチェックしてみてください。

逆に、夫婦間の友情を育み、それによって夫婦の貞節を増進するものは、何でもすべて、促進するべきです。それは、お互いの尊重、日常生活での助け合い、お互いへの信頼と親密さ、親しい会話、家庭内の秩序と清潔、一緒に子どもの世話をすること、そして何よりも、共に永遠の命を得る望みを持つことです。

結論

私は、この説教の締めくくりに、皆さんの家の玄関の扉の上に、ご公現の祝福を刻むことをお勧めします。ご公現とは、三人の博士たちに代表される世界のすべての国々に、イエズスが現れられたことを意味します。日本は、世界の他の国々と同様に、私たちの主イエズス・キリストに属しています。主は、日本において、公に統治なさらなければなりません。しかし、この日本におけるイエズスの統治は、皆さんのキリスト教徒としての誇りを通して、皆さんの家族や家庭で始まるのです。


童貞聖マリアは天主に奉献された霊魂の霊的な豊かさを美しく表している。イエズスに完全に身を捧げ、成聖の恩寵の進展に最善を尽くす人々は、霊的に豊かになる。

2022年01月12日 | お説教・霊的講話

ご降誕の後のマリアの終生童貞性についての説教

ドモルネ神父

はじめに

2週間前の主日に、私は、童貞聖マリアのご胎内における、イエズスの処女懐胎についてお話ししました。先週の主日には、聖母のご胎内からの、イエズスの処女降誕についてお話ししました。今日は、マリアの終生童貞性の話で、このテーマを終えようと思います。では、ご降誕後の、聖母の終生童貞性についてお話しします。

1.教義

至聖なる童貞聖マリアが、私たちの主イエズス・キリストのご降誕後も童貞のままでおられたことは、カトリック信仰の教義です。

聖書には、このことについての直接的な啓示ではなく、間接的な啓示があります。実際、大天使ガブリエルが、救い主の御母となることをマリアに告げたとき、マリアは、こう答えました。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか」(ルカ1章34節)。聖母は、天主のみ旨に反対されていたのではなく、一つ障害が存在することを、言っておられたのです。聖アウグスティヌスは、「童貞聖マリアは、その返事を通して、自分がすでに終生童貞の誓願をしていたことを、明らかにしたのである」、と述べています。

誓願とは、天主に対してする約束です。ですから、救い主の御母となるために、マリアが童貞性を保たなければならないかどうかは、天主がお決めになることでした。天主は、マリアの誓願を取り消されませんでした。それどころか、天主は、マリアの童貞性を保つために、二重の奇跡を起こされることによって、その誓願を承認されたのです。マリアは、体も霊魂も完全に童貞のままでありながら、イエズスの御母となられたのです。聖母は、イエズスのご降誕後も、死ぬまで、童貞の誓願の義務を持ち、その誓願を守り続けられました。これについてのカトリックの聖伝の教えは、非常に明確であり、その教えを否定することは異端です。

2.妥当性

さらに、イエズスのご降誕後に、聖母と聖ヨゼフが婚姻の権利を行使したと考えるのは、全く話にもならないことです。そのようなことは、童貞の状態のままご托身の神秘を実現することによって、マリアのご胎内を聖別された、聖霊に対する侮辱となってしまったことでしょう。また、聖母がイエズスのような息子を持つことで満足なさらず、他の子を望まれたことになってしまうでしょう。天主によって聖母の童貞性が奇跡的に守られたにもかかわらず、聖母が、御自分の童貞性をそれほど重要だとは思っておられなかったことになってしまうでしょう。そして、聖ヨゼフは、聖霊の浄配と結ばれようとするような、耐え難いほど傲慢な人だったということになってしまうでしょう。

マリアもヨゼフも、マリアの奉献された童貞性と、マリアにおける天主のみわざを、完全に尊重なさいました。お二人とも、死ぬまで、完全な童貞性を保ち、その結果、お二人の間で子どもをお持ちになることはなかったのです。

3.反論

福音の中に、ある人が、イエズスに対して、このように言ったことが書かれています。「あなたの母と兄弟が、外で待っています」(マルコ3章32節)。また別の日には、ナザレトの人々が、イエズスについて、こう言いました。「あれは大工の子ではないか。その母はマリアと呼ばれ,兄弟はヤコボ,ヨゼフ,シモン,ユダではないか。姉妹もみな、われわれの中にいるではないか」(マテオ13章55節)。福音のこの言葉を用いて、聖ヨゼフと聖母が、イエズスのご誕生後、お二人の間で子どもをお持ちになったと言う人々がいます。この反論に対して、どのように答えることができるでしょうか?

聖書に出てくる「兄弟」や「姉妹」という言葉は、しばしば、母親が同じ兄弟ではなく、いとこや近親者を意味します。ヘブライ語やアラム語には、「いとこ」という言葉がありません。いとこは、広い意味で、「兄弟姉妹」と呼ばれます。この言い方は、たとえばアフリカでは、今でも非常に一般的です。

聖マテオは、福音で、聖ヨゼフは「妻を迎え入れた。そして、マリアは子を生んだが、ヨゼフは彼女を知らなかった。彼は、その子をイエズスと名づけた」(マテオ1章25節)と書いています。この文から、イエズスのご誕生の後、ヨゼフとマリアは婚姻関係を持った、という結論を導き出す人々がいます。しかし、そのような結論は乱暴です。聖マテオの文は、ただ、イエズスのご降誕の前に、ヨゼフとマリアは婚姻関係をもたなかった、といっているに過ぎません。イエズスのご降誕後については、何も言っていないのです。

結論

童貞聖マリアは、私たちの主イエズス・キリスト以外には、ひとりも子をもっておられませんでした。しかし、イエズスの御母となられることによって、マリアは、すべての人間の霊的な母となられました。十字架上で亡くなられる直前、「イエズスは、その母と、愛する弟子とが、そばに立っているのをごらんになり、母に、『婦人よ、これがあなたの子です』と言われ、また、弟子には、『これがあなたの母です』と言われた」(ヨハネ19章26節)。イエズスの弟子は誰でも、マリアを母として持っているのです。

童貞聖マリアは、天主に奉献された霊魂の霊的な豊かさを、最も美しく表しています。私たちの主イエズスに完全に身を捧げ、自分の霊魂の中で、成聖の恩寵を進展させることに最善を尽くす人々は、霊的に豊かになります。そのような人々は、私たちの主と親密であることによって、私たちの主から、他の人たちのための、強力な、そして数多くの恩寵を獲得するのです。言い換えれば、私たちは、自分自身を聖化すればするほど、他の人たちに対する、より多くの霊的な善を行うことになるのです。ですから、現在、カトリック教会を揺るがしている恐ろしい危機の下で、私たちが教会にもたらすことのできる最善の助けは、私たちが、真摯さと寛大さをもって、カトリックの信仰を生きることであり、また、私たちの霊的な生活、すなわち、私たちの主イエズス・キリストとの友情の生活において、私たちが成長することなのです。

天主の御母であり、また人類の母である聖母が、私たちがそのようにすることができるよう、助けてくださいますように。


新年のあいさつ ドモルネ神父さま

2022年01月12日 | お説教・霊的講話

新年のあいさつ

ドモルネ神父さま

親愛なる信者の皆さん、

今日は、2022年1月1日です。2021年が完全に終わり、2022年が始まりました。この二つの点について、少しお話ししたいと思います。

1.昨年について

昨年2021年を通して、天主が私たちに与えてくださったすべての善いものに対して、天主に感謝しましょう。衣食住や、仕事での成功など、物質的な善きものに対して、また知識や友人関係など、霊的な善きものに対して、さらに、超自然的な善きもの、つまり、善き主が私たちに授けてくださったすべての恩寵に対して、感謝しましょう。一年を通して受けた、すべてのミサ、すべての聖体拝領、すべての告解、すべての祝福に対して、天主に感謝しましょう。

次に、それが物質的な贈り物であれ、あるいは、どんな種類の援助、または祈りや犠牲であれ、私たち司祭の日常生活や、使徒職を助けてくださった、すべての方々に感謝したいと思います。特に、東京、大阪、名古屋の各ミサ会場における、次の方々に感謝したいと思います。各ミサ会場の信徒会長、侍者、聖歌隊のメンバー、そして花や会報、インターネットでの発表の世話をしてくださる方々、そして、カテキスタのみなさんに。ここ東京では、毎週、ミサのために、祭壇や部屋の準備、また後片付けを、すすんでしてくださる信者の皆さんに、特別に大きな「ありがとう」を、言いたいと思います。司祭がいなければ、信者はチャペルを成長させることができませんが、信者の助けがなければ、司祭も多くのことをすることはできません。

2.新しい年について

新年を迎えるにあたり、二つのポイントを思い出していただきたいと思います。第一のポイントは、その年の間に皆さんが行うことをすべて、あらかじめ天主にお捧げしておくことです。精神の清らかさを持つようにしてください。言い換えれば、どんな状況でも、常に、天主のみ旨を探し求める決心をしてください。心の清らかさを持つようにしてください。言い換えれば、すべてのものごとを、天主への愛のために行う決心をしてください。

第二のポイントは、特に今年、自分にふりかかる苦しみを、受け入れて、お捧げすることです。完全な幸福がこの世に存在しないことを、私たちはよく知っています。私たちの主イエズスが、私たちのために天国を開いてくださったのは、苦しみの道を通じてであることを、私たちは知っています。 天国に到達するためには、その同じ苦しみの道を歩まなければならないことを、私たちはよく知っています。主はこう言われました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って、私に従え」(マテオ16章24節)。善き主は、私たちが聖性において進歩するのをお助けくださるために、私たちの人生に苦しみが存在することを、お許しになるのです。苦しみを通じて、私たちは自分の罪を償い、より高い段階へと聖徳を実践することによって、天国でのより大いなる栄光を得ることができるようになるのです。

結論

私たちの主が、私たちを祝福してくださいますように。この一年間、私たちが天主に忠実であり続けるために、また、天主の愛において成長するために、必要なすべての恩寵を、童貞聖マリアを通じて、天主が私たちに与えてくださいますように。


明日、1月13日は、聖ピオ十世会が日本での最初の修道院を創立して一周年記念です。このお恵みを天主と聖母に深く感謝申し上げます。

2022年01月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日、1月13日は、聖ピオ十世会が日本での最初の修道院を創立して一周年記念です。このお恵みを天主と聖母に深く感謝申し上げます。

一緒に働いてくださっているドモルネ神父さまをはじめ、休みを知らずに献身的に助けてくださっておられる東京と大阪の信徒会長に、会計係の方々、侍者の方々、聖歌隊の方々、香部屋や会場のセットをしてくださる方々、カテキスタの方々、受付の方々、印刷物やカレンダーその他のお世話をしてくださっている方々、インターネットでのお手伝いをしてくださってくださる方々、祈りや物質的な援助を寛大にしてくださる方々、ここで私が申し上げることができない多くの愛する兄弟姉妹の皆様のサポートに、深く感謝申し上げます。

私たちの主イエズスさまの御許で、愛する兄弟姉妹の皆様とともに、聖伝のミサで祈りをささげることができ、心から感謝でいっぱいです。

愛深い主の憐みと祝福をいのりつつ、カトリック教会の聖伝が日本中で復興しますように心から祈ります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX JAPAN

2022年01月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、聖家族の祝日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計107人でした。大阪では23人でした。聖母に感謝します!

聖母の懐妊、イエズスさまの御誕生、割礼、シメオンの予言、エジプトでの避難生活、ナザレトでの御生活、行方不明になった十二歳のイエズス、苦しみが多かったにもかかわらず幸せに満ちた聖家族について今日は黙想しました。

主よ、我らにおおくの聖なる家族を与え給え!

主よ、私たちの家族を祝福し給え!

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 107, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 7 children)
F: 30 (incl. 8 children)
Total: 53 (incl. 15 children)

11:00 mass
M: 16 (incl. 3 children)
F: 18 (incl. 4 children)
Total: 34 (incl. 7 children)

12:30 mass
M: 9 (incl. 0 children)
F: 18 (incl. 0 children)
Total: 27 (incl. 0 children)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 45 (incl. 10 children)
F: 62 (incl. 12 children)
Total: 107 (incl. 22 children)


聖家族の祝日|キリストは30年間、両親に従われた。なぜ家庭生活、従順が大切なのか?悪魔は家庭生活を攻撃しています。

2022年01月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年1月9日は聖家族の祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖家族の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


現代日本での聖伝のミサの状況は、2022年前の御公現の時のようです|第二バチカン公会議以前に世界中のカトリック信徒たちのために光り輝いて私たちをイエズス・キリストへと導いていたものが聖伝のミサです

2022年01月06日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、新年のお喜びを申し上げます。

2022年1月6日は主の御公現です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「主の御公現の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


2022年1月5日は、1月の初水曜日(2022年の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2022年01月05日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年1月5日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


ヴィガノ大司教「司教、司祭、修道者、信者は、選ばなければならない。カトリック教会とその二千年の不変の教理か、あるいは誤謬と世俗化した典礼を持つ公会議の教会かのどちらかだ。」

2022年01月04日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教「教会の当局の専制的行為への対応は、抵抗と不従順でなければならない」

Archbishop Viganò: “The response to a tyrannical gesture of ecclesiastical authority must be resistance and disobedience”.

アルド・マリア・ヴァッリによるブログ掲載

«REDDE RATIONEM VILLICATIONIS TUÆ»
《支配人として会計の報告を出せ》【ルカ16章2節】
「トラディティオーニス・クストーデス」に関する「質問への回答」について

Vos estis qui justificatis vos coram hominibus :
Deus autem novit corda vestra :
quia quod hominibus altum est,
abominatio est ante Deum.

あなたたちは人々の目の前で義人ぶっている。
だが天主はその心を見抜いておられる。
人間にとって尊いと思われるものは、
天主に嫌われるものである。
ルカ16章15節

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

最近、典礼秘跡省から発表された「質問への回答」Responsa ad Dubia)を読むと、教会の最も従順で忠実な部分に対する残酷で冷酷な戦争において、ローマ教皇庁が、これほど卑屈な態度でベルゴリオを支持しなければならないほど、ひどいレベルにまで落ち込んでしまったのかと不思議に思います。

過去数十年間にわたる教会の非常に深刻な危機の中で、教会の権威が、これほど断固とした厳しい態度を示したことはありませんでした。教皇庁立の大学や神学校にはびこる異端の神学者たちに対しても、姦淫する聖職者たちや高位聖職者たちに対しても、司教たちや枢機卿たちのスキャンダルを模範的なやり方で罰することにおいても、そうはしてきませんでした。しかし、トリエント典礼の聖なるミサが行われるようにと願う信者、司祭、修道者に対しては、同情も、あわれみも、包括性もないのです。「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)は、どうなったのでしょうか?

この「教皇職」の下ほど、権威による権力の濫用が目につくことはありません。二千年にわたる「祈りの法」(ex orandi)が、パウロ六世によって第二バチカン公会議の祭壇で犠牲にされ、公会議が偽善的なのと同じくらいあいまいな典礼を教会に義務づけたときでさえ、これほどではありませんでした。このときの義務づけには、古代の典礼による祭儀の禁止と反対者への迫害が含まれていましたが、少なくとも、世俗化が進むこの世に直面して、変化することがカトリックの可能性を高めるだろうという幻想の言い訳がありました。

50年にわたる恐ろしい災害と、14年にわたる自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の後の今日、【公会議の】弱々しい正当化はもはや有効でないだけでなく、事実という証拠による矛盾で拒絶されています。公会議がもたらした多くの新しいことが、有害であることが証明されました。つまり、教会や神学校、修道院を空っぽにし、司祭召命、修道者召命を台無しにし、カトリック信者から霊的、文化的、市民的衝動をすべて枯渇させ、キリストの教会を辱めて社会の周辺に追いやりました。この世を喜ばせようとする不器用さにおいて、教会をあわれなものにしてしまったのです。

その逆に、ベネディクト十六世が、聖伝の典礼の完全な権利を認めてその傷(vulnus)を癒やそうとして以来、聖ピオ五世のミサに結びついた共同体が増え、エクレジア・デイ団体の神学校が成長し、召命が増え、信者の出席回数が増え、多くの若者と多くの家族の霊的生活が予想外の推進力を見いだしたのです。

マルセル・ルフェーブル大司教が当時願ったこの「聖伝の経験(実験)」から、どのような教訓を引き出すべきでしょうか。最も明白で、同時に最も単純な教訓は、天主が教会にお与えになったものは成功するよう定められており、人間がそれに付け加えたものは無惨に崩壊する、ということです。

イデオロギー的な怒りに目がくらんでいない霊魂ならば、過ちを認めたうえで、損害を修復して、その間に破壊されたものを再建し、放棄されたものを復興させようとしたことでしょう。しかし、これには、謙虚さや超自然的な眼差し、そして天主の御摂理的なご介入への信頼が必要です。また、牧者たちの側には、自分たちは主の財産の管理人であって、主人ではないという意識が必要です。司牧者たちには、これらの財産を遠ざけたり、隠したり、自分の発明品で置き換えたりする権利はありません。司牧者たちは、「いかなる注釈も加えずに」(sine glossa)、天主の群れのすべての羊と小羊について天主の御前でお答えしなければならないことを常に考えながら、その財産を守り、信者が利用できるようにすることに自らを制限しなければならないのです。使徒聖パウロはこう戒めています。「Hic iam quæritur inter dispensatóres, ut fidélis quis inveniátur」―「管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章2節)。

「質問への回答」は「トラディティオーニス・クストーデス」と一致しており、この「教皇職」の転覆的性質を明らかにしています。この教皇職においては、教会の最高権力が、私たちの主が聖なる司牧者と地上の代理人を制定なさった目的とは正反対の目的を達成するために横取りされています。

これは、その権力を制定され、正当化しておられるお方に対する不従順で反抗的な権力です。これはまた、内在的に革命的な原理、それゆえ異端の原理による、いわば、「信仰によって赦された」(fide solutus)と信じる権力です。忘れてはならないのは、革命は、権力が自らにあると主張するのですが、打倒しようとする正統な権力に対し、革命的で、転覆的で、陰謀的で、反抗的であるという事実だけで、権力奪取を正当化するのです。これはまた、制度的な役割を果たすようになるやいなや、専制的な権威主義で行使される権力です。何故なら、まさに天主にも人民にも承認されていないからです。

見た目はつながりのないと思われる、二つの状況の間にある並行関係を指摘させてください。ちょうどパンデミックに直面して、実際には有害で致命的でさえある役に立たない「ワクチン」を押し付けることによって、効果的な治療が否定されているように、霊魂の真の薬であるトリエント・ミサが、非常に深刻な道徳的疫病のときに、罪深いことに信者に対して否定され、ノブス・オルドに置き換えられています。

医者は、治療法が容易に手に入るにもかかわらず、その義務を果たさず、健康な人と同様に病気の人にも実験的な血清を押し付け、その全く効果のないことや、多くの副作用の証拠があるにもかかわらず、頑なにそれを投与しています。同様に、霊魂の医者である司祭は、二千年以上にわたって実験された無謬の「薬」が簡単に手に入るにもかかわらず、その使命を裏切り、その効果を体験した人々が罪から癒やされるためにそれを使うのを全力で阻止しています。

第一のケースでは、体の免疫防御が、製薬会社に依存することになる慢性的な病気の患者を作り出すために、弱められたり取り消されたりしますが、第二のケースでは、霊魂の免疫防御が、世俗的な精神(メンタリティー)によって、また超自然的かつ超越的次元が取り消されることによって、損なわれます。そうなることで、悪魔の襲撃に直面した霊魂は、無力のままにとりのこされてしまうのです。

ですから、このことは、宗教的危機と並行している社会的かつ政治的危機を考慮しないで、宗教的危機【だけ】に直面することを主張する人々への回答として有効です。

なぜなら、まさにこの攻撃の二面性のゆえに、この攻撃を恐ろしいものにし、この攻撃が一つの同じ犯罪者の心によって導かれていることを明らかにしています。

「回答」というせん妄(deliriums 精神錯乱)の本案(価値)に触れるつもりはありません。「トラディティオーニス・クストーデス」を拒否できるこの法の趣旨(ratio legis)を知っているだけで十分です。「トラディティオーニス・クストーデス」これは、イデオロギー的で党派的な文書であり、執念深く不寛容な人々によって作成され、虚栄的な野心と重大な教会法上の誤謬に満ちており、二千年にわたる聖人と教皇たちによって列聖された典礼を禁止して、その代わりに偽の典礼を押し付けようと意図しています。この偽の典礼は、ルター派【の儀式】からコピーされて近代主義者によってつぎ当てされたものであり、50年の間に教会共同体に恐ろしい災害を引き起こし、まさにその破壊的な効果のために、いかなる例外も許容することができないものなのです。ここには過失だけでなく、悪意もあり、天主なる立法者と信者に対する二重の裏切りがあります。

司教、司祭、修道者、信者は、またもや、自らが一方の側を選ばなければならない立場にあることに気づきます。カトリック教会とその二千年の不変の教理か、あるいは誤謬と世俗化した典礼を持つ、公会議の教会にしてベルゴリオの教会か、のどちらかです。このことは、逆説的な状況の中で起こっています。何故なら、カトリック教会とその偽物が同じ位階階級において重なっており、この位階階級に対して、信者は天主の権威の表れとして従順でなければならないと感じると同時に、裏切り者、反逆者として不従順でなければならないからです。

暴君に逆らうのが容易でないのは確かです。暴君の反応は冷酷で残酷です。しかし、もっとひどかったのは、アリウス主義、聖像破壊運動、ルターの異端、英国国教会の離教、クロムウェルのピューリタニズム、フランスとメキシコのメーソン世俗主義、ソ連の共産主義、スペインやカンボジア、中国での共産主義などに直面しなければならなかったカトリック信者が、数世紀に渡って苦しまなければならなかった迫害でした。

どれだけ多くの司教や司祭が殉教し、投獄され、追放されたことでしょう。どれだけ多くの修道者が虐殺され、どれだけ多くの教会が冒涜され、どれだけ多くの祭壇が破壊されたことでしょう。では、なぜこれらすべてが起こったのでしょうか? それは、聖なる役務者たちが、私たちの主が私たちに与えてくださった最も尊い宝である聖なるミサを放棄したくなかったからです。主が使徒たちに教えられ、使徒たちが後継者たちに伝え、教皇たちが守り、復興させたミサは、常にキリストと教会の敵どもの地獄の憎悪の中心にありました。

プロテスタントの地に送られた宣教師や収容所に投獄された司祭が、命の危険を冒して行った同じ聖なるまさにそのミサが、今日、聖座によって禁じられていると考えるだけでも、痛みとつまずきを起こす原因です。それと同時に、この禁止はこのミサを最後の息の尽きるまで守った殉教者たちに対する侮辱でもあります。しかし、これらのことは、信じる人々、愛する人々、希望する人々だけが理解できることなのです。天主によって生きる人々だけが理解できることなのです。

「トラディティオーニス・クストーデス」と「回答」に対して同意を留保することや批判を表明するだけにとどまっている人々は、敵対者の罠にはまります。なぜなら、そうすることによって、この人々は、不法で無効な法の正当性を認めることになるからです。しかしこの法は、教会とその信者を辱めるために望まれ、公布され、また、第二バチカン公会議以前には断罪されていた異端的な教理に勇気をもって反対しているのに他ならない「聖伝主義者」を悩ませるために発布されたもの、にすぎません。
この法は公会議を自らのものにし、公会議は今日ではベルゴリオの教皇職の暗号を解く鍵となりました。「トラディティオーニス・クストーデス」と「回答」は、単に無視しなければならず、送り主に返さなければなりません。彼らの意向は、忠実にとどまっているカトリック信者を罰し、分散させ、消滅させることなのは明らかですから、それらを無視しなければなりません。

ベルゴリオを喜ばせるために、天主の権利と自分たちの世話に委ねられた霊魂たちの権利を踏みにじり、また「公会議前の」典礼に対する嫌悪を見せて、自分たちが公的称賛とバチカンの承認に値すると考えている非常に多くの枢機卿たちや司教たちの卑屈さに、私は落胆しています。主の次の言葉は彼らに向けられています。「あなたたちは人々の前で自ら義人ぶっている。だが天主はその心を見抜いておられる。人間にとって尊いと思われるものは、天主に嫌われるものである」(ルカ16章15節)。

教会の当局の専制的行為に直面したときの首尾一貫した勇気ある対応は、受け入れられない命令に対する抵抗と不従順でなければなりません。何度目になるか分からないほどのこの抑圧も諦めて受け入れるならば、それはこれまで忍耐して許容してきた長い一連の濫用にもう一つの悪しき前例を加えることになります。自らの隷属的な従順によって、それ自体が目的と化した権力の維持に対する責任を自らもが負うことになります。

使徒たちの後継者である司教たちが、神秘体のかしらへの従順と忠実によって、私たちの目の前で起こっているこの教会のクーデターに終止符を打つために、その神聖な権威を行使することが必要です。教皇職の名誉がそれを必要としています。何故なら、今日、ペトロの玉座を占める者により、信用失墜と屈辱にさらされているからです。霊魂たちの善がそれを必要としています。その救いこそが教会の「最高の法」(suprema lex)ですから。天主の栄光がそれを必要としています。それに関してはいかなる妥協も容認されませんから。

ポーランド人のヤン・パーヴェル・レンガ大司教【ヨハネ・パウロ・レンガ大司教】は、傭い人や裏切り者の異端や悪徳の下に教会が沈むのを私たちが見たくないのならば、今こそカトリック反革命の時だと言っておられます。「地獄の門も教会に勝てぬ」(Non prævalebunt)の約束は、少なくとも勇気ある確固とした行動を排除するものではありません。それどころか、司教や司祭、そして信徒たちからも、そのような行動を求め、要求しているのです。

信徒たちは、「能動的参加」(actuosa participatio)や教会における自分たちの役割などといった実体のないアピールを受けているにもかかわらず、今日ほど隷属民(sudditi)として扱われたことはありませんでした。「聖職者主義 clericalism」がその頂点に達したのは、正に、偽善的にも聖職者主義に汚名を着せることしかしない人物の「教皇職」の下であることに注意しましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
In Nativitate Domini 2021
2021年の主のご降誕の祝日

Monsignor Viganò: “La risposta a un gesto tirannico dell’autorità ecclesiastica deve essere la resistenza e la disobbedienza” - Aldo Maria Valli

 


「アダムにおいてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人の上に及んだ」(ローマ5章12節)。原罪で、すべての人間は、罪の状態で生まれている

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

原罪についての説教

ドモルネ神父 2021年11月28日

はじめに

今日は、待降節の第一主日です。新しい典礼暦年の始まりです。カトリック教会が、私たちに、カトリック信仰の主要な真理を思い出させてくれる一年間の期間を、「典礼暦年」と呼びます。待降節は、今日から、クリスマスまでです。待降節は、原罪から、私たちの主イエズス・キリストのご降誕までの、人々が救い主を待ち望んでいた、歴史上の期間を象徴しています。ですから、待降節の、まさに始まりである今日は、原罪について、お話ししたいと思います。

1.原罪

天主は、最初の男であるアダムと、最初の女であるエバを、創造されました。天主は、この二人を、全く必要としておられませんでした。しかし天主は、善意から、また二人の幸せのために、二人を創造されました。天主は二人を、私たちが楽園、あるいはエデンの園と呼ぶ、素晴らしい場所に置かれました。天主は、アダムとエバが苦しみや情欲や死から、免れるようになさいました。また、二人に、すべてのものごとについての深い知識をお与えになりました。しかし、天主は、それ以上に、ご自分の天主なる命にあずかる特権、すなわち、私たちが成聖の恩寵と呼ぶもの、を、アダムとエバに与えられました。そして、いつの日か、二人を、聖三位一体の無限の至福の中に導き入れることを、約束されました。

天主は、アダムに、「ある木の実を食べてはいけない」という掟を与えられました。それは単純で、簡単なことでした。この掟の目的は、アダムを罠にはめることではなく、アダムに、自分の上に立つ、創造主であり、主であるお方がいらっしゃることを、思い起こさせることでした。この掟の目的は、アダムを、従順という謙遜の状態に保ち、アダムが天主を愛していることを示す機会を、お与えになることでした。実際、天主を愛するということは、天主の掟を守ることです。しかし、皆さんご存じのように、アダムとエバは、悪魔に誘惑されて、禁断の実を食べました。それは、人類の原初において、人間が犯した最初の罪でした。私たちは、その罪を、「原罪」と呼びます。

しかし、原罪の話は、実際に起こった、歴史的事実なのでしょうか、それとも単なる伝説なのでしょうか? それは、本当にあった、歴史的事実です。私たちには、どうして、それがわかるのでしょうか? 口伝があったのです。アダムとエバは、自分の子どもたちに、何が起こったかを話しました。その子どもたちが、自分の子どもたちにそれを話す、ということが繰り返されました。しかし、この口伝は、時の経過とともに、歪められてしまいました。今では、古代の異教の迷信のなかに、その痕跡が見いだされるだけです。では、原罪の話が確実に真実であることが、どうしてわかるのでしょうか? 天主が、それを啓示されたからです。天主は、それをモーゼに啓示され、モーゼはそれを、創世記(創世記3章)に書き記しました。天主は、それを聖パウロにも啓示され、聖パウロは、ローマ人にこう書き送りました。「一人の人間によって、罪がこの世に入り、罪によって、死がこの世に入った」(ローマ5章12節)。私たちの主イエズスは、それを使徒たちに啓示され、使徒たちとその後継者たちは、何世紀にもわたって、全教会にそれを教えました。トリエント公会議は、原罪の存在は教義である、と宣言しました。

2.原罪の結果

原罪とは、高慢という、非常に重い罪でした。アダムは、自分の意志を、天主のご意志に逆らわせたのです。その結果、アダムは、天主から与えられた特別な賜物を失いました。アダムは、成聖の恩寵と、聖三位一体の無限の至福に入る可能性を失いました。情欲や無知、苦しみ、死を免れる特権を失ったのです。

アダムは、これらのすべてを、自分自身、失っただけでなく、すべての人にも、失わせたのです。アダムの罪は、個人の罪であっただけではなく、実に、全人類の罪でもありました。アダムは、一番最初の人間で、人類の父でした。すべての人間は、道徳的に、アダムとともにあったのです。そのため、アダムの行為は、全人類の行為ということになったのです。ですから、アダムがこの罪を犯したとき、全人類が罪を犯した、ということになったのです。この理由から、聖パウロは、ローマ人にこう言ったのです。「アダムにおいてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人の上に及んだ」(ローマ5章12節)。原罪以降、すべての人間は、罪の状態で生まれているのです。

3.霊的な戦い(霊戦)

洗礼によって、天主は、私たちの霊魂から罪の汚れを洗い流し、私たちに、再び、成聖の恩寵を与えてくださいます。しかし、原罪以前にアダムに与えられていた特別な賜物を、再び私たちに与えられるわけではありません。洗礼の後も、私たちは、苦しみと死の支配下にあります。私たちは、真理を学び、真理と誤謬を見分けるために、多くの努力をする必要があります。私たちは、支配欲、物欲、肉欲、という、三つの歪んだ欲望に対して、厳しい霊的な戦いをしなければなりません。

しかし、天主は、私たちを助けに来てくださいます。天主は私たちに、御独り子である、私たちの主イエズス・キリストを送ってくださいました。主において、主とともに、主によって、私たちは情欲に打ち勝ち、真理を見いだし、苦しみや死に耐える力を得て、最後には、永遠の命と至福へと到ることができるのです。しかし、私たちは、どのようにして私たちの主イエズスに一致し、主から、御助けを受ければよいのでしょうか? それは特に、ご聖体を受けることによってです。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖体拝領は報酬ではなく、私たちを癒やしてくれる薬であり、私たちを霊的に強めてくれる食べ物であることを、忘れないでください。「もう罪を犯さないようになれば、ご聖体を受けます」と言う人たちは、大きな勘違いをしています。それは、病人が、「私の病気が治ったら、薬を飲みます」と、言っているようなものです。私たちは、自分の罪を心から反省し、二度と罪を犯さないという強い意志を持ち、大罪を犯す機会に近づかないようにしなければなりません。そして、頻繁に、ご聖体にまします私たちの主イエズスを、受けなければなりません。これは、私たちが強くあるため、そして霊的な戦いに勝利するために、必要なことです。イエズスはこう言われました。「まことにまことに、私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章54節)。

今日、私には、また初聖体を、マヌエル泰珠君というお子さんに授ける、喜びがあります。マヌエル泰珠君、私たちの主イエズスが、君の霊魂に来られます。イエズス様が来られるのは、君を霊的に強くして、君がどんな誘惑にも負けないで、天主の掟を守れるように、助けてくださるためです。君の愛全部で、イエズス様を、お迎えしてください。君がいつもイエズス様に忠実だったら、イエズス様は、君を、少しずつ、聖人にしてくださるでしょう。そして最後には、イエズス様が、君を、永遠の幸福に導いてくださるでしょう。私は、皆さん全員にも、同じことを願っています。アーメン。


主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっている。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

贖宥という概念についての説教

ドモルネ神父 2021年11月21日

はじめに

この前の主日は、有限の罰についてお話ししました。私たちが罪を犯すとき、私たちは何かに対する乱れた愛のために、天主から離れてしまいます。私たちは、天主から離れたため、永遠の罰を受けるに値します。私たちは、被造物への乱れた愛を持ったため、有限の罰を受けるに値します。有限の罰とは、私たちが犯した罪の数と重さに応じた、一定の苦しみを意味します。私たちは、有限の罰の償いを完全に実行するまで、天国に行くことはできません。私たちの主イエズスは、福音のなかで、こう言われました。「まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」(マテオ5章26節)。

しかし、天主は、御あわれみによって、有限の罰が特別に赦免される可能性を与えてくださいます。それを、贖宥、あるいは、免償といいます。


1.贖宥一般について

贖宥には、2種類あります。有限の罰の全体が赦免される場合、それは、「全贖宥」と呼ばれます。有限の罰の一部のみが赦免される場合、それは、「部分贖宥」と呼ばれます。いずれにしても、このような赦免は、「人は、愛徳から、他の人の負債を支払うことができる」という、一般的な原則に基づいています。贖宥は、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちが、御自らの功徳によって償いをされることで、有限の罰が赦免されることです。これから、ご説明しましょう。

誰かの負債を支払うためには、「支払うのを許可されていること」、「支払う手段を持っていること」、「負債を負っている人の同意があること」という、三つのことが必要です。

2.誰かの負債を償うことが可能であること

他の人の罪を償うことは、可能でしょうか? はい、可能です。私たちがあわれみからする善業には、功徳を積む価値と、償いをする価値という、二つの価値があります。功徳を積む価値とは、私たちの善業が、報いを受ける権利を、私たちに与えることを意味します。償いをする価値とは、私たちが善業をすることで、自分の罪を償うことができることを意味します。例えば、私が、天主への愛のために、貧しい人々に施しをするとき、私は天国で報いを受けるに値しますし、また、自分の罪、特に、愛徳に反する罪を、償うのです。

私たちの善業による功徳は、完全に個人的なものです。それを、他の誰かに与えることはできません。しかし、私たちの善業による償いの価値は、他の人に与えることができます。それは、私たちが、自分の善業によって、他の人の罪を償うことができる、ということを意味します。私たちは、他の人の罰を自分で引き受けて、その人に代わって、罪を償うことができるのです。それは、私たちの主イエズスが、十字架上でなさったことです。主は、私たちの罪を償うために、ご自分の命を捧げられたのです。預言者イザヤは、こう言いました。イエズスは、「私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った…彼は、私たちの罪のためにつきさされ、私たちの悪のために押しつぶされた」(イザヤ 53章4-5節)。

3.償うための手段を持っていること

誰でも、他の人の罪を償うことができます。しかし、私たち自身の罪の償いとして、天主にお捧げすべきものを持っているのは、誰でしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、天国の聖人たち、そしてこの世に生きている聖なる人々です。私たちの主イエズスは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、主のすべての行いの持つ無限の償いの価値は、他の人々のために使われることができます。童貞聖マリアは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、聖母のすべての行いの持つ償いの価値も、他の人々のために使われることができます。天国の聖人たちや、この世に生きていた聖人たちの多くは、非常に多くの善業を行ったため、自分たちの罪を完全に償い、さらにそれ以上の、他の人々のために使われることができる償いを得ています。聖トマス・アクィナスは、こう説明します。「すべての聖人たちは、天主のために、自分たちが行ったり苦しんだりしたことはすべて、自分たちだけでなく、全教会に益をもたらすものとなるべきだ、という意向を持っていた」。ですから、私たちの主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっているのです。私たちの主イエズスは、この宝を分配する権限を、教皇に与えられました。

4.利益を受ける人の同意があること

さて、問題は、この宝の恩恵を受けられるのは誰か、ということです。それは、自分の罪を反省し、この宝が自分に適用されることを望む人々に、限られます。第一に、私たちは、私たちの罪について、大罪についても、小罪についても、心から、悔い改めなければなりません。実際、私たちが自分の罪について悲しまなければ、天主は、私たちを赦すことが、おできになりません。ですから、これらの罪による罰は、残るのです。イエズス・キリストや、聖母や、聖人たちの功徳を、私たちに適用することもできません。

第二に、私たちの主や、聖母や、聖人たちの功徳は、私たちに自動的に適用されるではありません。私たちは、それを求めなければなりません。では、どのようにすれば、よいのでしょうか? 教皇が贖宥の本のなかで示したわざを果たすことによってです。現在の贖宥の一覧は、1968年に教皇パウロ六世が制定したもので、インターネットで見つけることができます。

結論

贖宥の教理は、美しい現実です。この教理は、罪が償われることを、天主が望まれる、という、天主の正義を示します。また同時に、有限の罰を償うための非常に簡単な方法を、天主が私たちに与えてくださる、という、天主の御あわれみも示します。この教理は、キリスト教徒を一致させる、兄弟愛と相互扶助を、はっきりと示しています。この教理は、私たちが、もっと頻繁に秘跡を受け、もっと信心をもって祈り、もっと多くのあわれみのわざを実践するように、促します。要するに、贖宥の教理は、私たちの個人的な聖化に役立ち、また、天主や、キリスト、童貞聖マリア、聖人たちに栄光をもたらし、私たちの間の愛徳を奨励します。ですから、この贖宥を、頻繁に使うことにしましょう。


私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

有限の罰についての説教

ドモルネ神父 2021年11月14日

はじめに

11月には、私たちは、煉獄の霊魂たちのための、全贖宥を得ることができます。特に今年は、教皇フランシスコが、11月中の毎日、私たちがこの贖宥を得ることができることを、定めました。贖宥とは何かを、よりよく理解するために、今日はみなさんに、有限の罰という概念を思いおこしていただこうと思います。

1.有限の罰という概念

罪とは、天主の掟を破ることです。私たちが罪を犯すとき、何かに対する乱れた愛のために、天主から離れます。それは、二重の動きのようなもので、天主から離れることと、そして、特定の被造物に向かうことです。例えば、私たちがお金を盗むとき、私たちは天主の掟を拒否することで天主から離れ、そして、私たちが悪しき欲望を持つ、お金の方へと向かいます。ですから、罪を犯すことで、私たちは、二重の罰を受けるに値するのです。

天主から離れたため、地獄の宣告という「永遠の罰」を受けるに値します。地獄の宣告とは、天主から永遠に離れてしまうことです。また、何かに誤った愛着を持つことで、何かを奪われるという、「有限の罰」を受けるに値します。

具体的に言えば、この「有限の罰」とは、私たちが犯した罪の数や重さに応じて、一定の肉体的・感情的な苦しみを受ける、ということを意味します。地獄にいる人々のことを考えてみると、彼らは同じ永遠の罰を受けていますが、彼らの苦しみ、すなわち有限の罰は、彼らが犯した罪の数と重さによって決まります。

2.罪の償いの必要性

私たちが罪を償うためには、罪の二重の動きを、逆転させなければなりません。私たちは、心からの痛悔の祈りと告白によって、天主に立ち返る必要があります。私たちは、有限の罰を受ける必要があるのです。

しかし、これに関して、プロテスタントは、カトリックの信仰に反対します。プロテスタントは、天主が罪をお赦しになるときには、罪による罰も、同時にお赦しになる、と主張します。したがって、私たちの罪を償う必要はなく、受けるべき有限の罰もない、というのです。でも、これは偽りです。私たちをお赦しになった後も、天主は、私たちに、有限の罰を受けることを要求されます。例えば、聖書において、ダヴィド王は姦淫と殺人の罪を犯しました。ダヴィド王は心から天主に赦しを請い求めて、天主に赦されました。しかし、ダヴィド王は天主によって厳しく罰せられ、自分の罪のために、長く、厳しい償いをしました。

また、プロテスタントは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪を完全に償われたので、それ以上の償いをする必要はない、とも主張します。もし、それでも、私たちが自分の罪を償う必要があるとすれば、それは、イエズスの十字架上の犠牲が十分ではなかったことを意味することになる、と言うのです。でも、これは偽りです。イエズスの犠牲は絶対的に完全で、人類のすべての罪を償うのに、十分です。しかし、私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。主は、こう言われました。「義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために、私は来た」(ルカ5章32節)。また、こうも言われました。「私は言う。あなたたちも、悔い改めないなら、あなたたちもみな、同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)。さらに、聖アウグスティノは、こう言っています。「あなたがたなしに、あなたがたを創造されたお方が、あなたがたなしに、あなたがたを救われることはありません」。

しかし、なぜ、天主と私たちの主イエズスは、私たちをお赦しになった後も、私たちが、自分の罪のために、有限の罰を受けることを、望まれるのでしょうか? それは,私たちが、罪の重さを理解して、将来、掟を守ることができるように、助けるためです。実際、私たちは、悪い行いのために罰を受けた後は、普通、二度とそれをしないように、もっと気をつけるようになります。

私たちが自分の罪を償うことは、必要なことです。私たちは、自分の罪を完全に償うまで、天国に行くことはできません。煉獄にいる霊魂は、天主から罪を赦されていますが、地上で生きている間に、十分な罪の償いをしていなかったのです。

3.罪を償う方法

さて、問題は、私たちは、具体的に、どのようにして罪を償えばよいのか、です。

まず第一に、忍耐強く、償いの精神で、人生のあらゆる苦しみに耐えることです。これらの苦しみは、私たちが犯した罪の結果です。しかし、私たちが償いの精神でそれを受け入れるならば、これらの苦しみはもはや単なる罰ではなく、私たちの罪の償いになります。

次に、私たちは、祈り、良い告白、聖体拝領、大斎、小斎、施し、14のあわれみのわざのいずれか、巡礼などの善業を行うことで、罪を償うことができます。最後に、贖宥を得ることで、罪を償うことができます。贖宥とは、罪による有限の罰の、特別な免除のことで、教会から与えられるものです。教会は、どのようにして、そんなことができるのでしょうか? それは、イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちの功徳を、特別な方法で適用することによって、です。天主のお許しがあれば、次の主日に、この贖宥という概念について、もっと詳しくお話ししたいと思います。

結論

今のところ、皆さん一人一人が、次のことをすることで、毎日一人の霊魂を煉獄から救うことができる、ということを、覚えておいてください。
・墓地を訪れ、亡くなった人のために祈ること。カトリックの墓地でなくても構いません。
・成聖の恩寵の状態にあること。
・小罪も含めて、いかなる罪への執着をも、持たないこと。
・墓地訪問の前後、20日以内に、告解をすること。
・墓地訪問の前後、20日以内に、聖体拝領をすること。
・教皇のために、祈りを唱えること。

全贖宥を複数得る場合も、一度の告解で十分です。しかし、各々の贖宥には、別々の聖体拝領が必要です。


聖人たちが私たちに近ければ近いほど、その聖人たちは私たちをもっと見守り、より力強く助けてくれる

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

聖人たちの取り次ぎについての説教

ドモルネ神父 2021年11月7日

はじめに

先週の月曜日、私たちは「諸聖人の祝日」をお祝いしました。この機会に、聖人たちの力と、聖人たちを敬うことの大切さを、思い出していただきたいと思います。

1.天主は被造物を通して統治される

天主は、天地の創造主です。天主は、すべての人に、その存在と命をお与えになるお方です。また天主は、全宇宙を統治しているお方でもあります。しかし、天主は、すべてをご自分で、直接、統治なさっているわけではありません。天主は、天使や人間を、ご自分の統治に参加させられます。例えば天主は、家庭の父親には、家族各人の物質的、また霊的な福利を守るために、家族の構成員に対する統治権を与え、また教師には、生徒を教えるために、生徒に対する統治権を与えられます。なぜ天主は、そのように統治なさるのでしょうか? それは、天主の統治が、最高のものだからです。最高の統治とは、人々を善良にするだけでなく、その人々が、他の人々にも善良さをもたらす基となるように、するものです。したがって、最高の教師は、自分の生徒を学者にするだけでなく、他の人々に教えることのできる教師にする人です。(「神学大全」第1部a第103問題第6項)

2.天国の聖人たちの力

天主は、聖人たちの取り次ぎによっても、人に恩寵をお与えになります。天主は、すべての恩寵の源です。しかし、私たちの主イエズス・キリストを通してでなければ、いかなる恩寵も、人に与えられることはありません。イエズス・キリストは、いかなる人にも、童貞聖マリアを通してでなければ、恩寵をお与えになることはありません。そして、聖母が、特定の聖人の取り次ぎを通してのみ、分配してくださる恩寵もあります。

実際天主は、特定の聖人に、特定の使命を、割り当てておられます。

例えば、聖ヨゼフは、普遍的教会、聖バルバラは、死にゆく人、聖クリストフォロは、運転手、聖コスマと聖ダミアノは、医者、聖カミロ・デ・レリスと神の聖ヨハネは、病院と病人を、見守る役目を負っています。

そして、天主はこれらの聖人たちに、真の力をお与えになります。それが意味するのは、天主が、ある特定の恩寵については、これらの聖人の取り次ぎを通さなければ、人には与えられない、とお決めになった、ということです。

例えば、教会の儀式書には、聖ブラジオの祝日に、特別な喉の祝別があります。それが意味するのは、痛む喉を癒やしたり、喉を守ってもらったりするためには、聖ブラジオにお願いしなければならない、ということです。そうしないと、私たちの祈りは聞き入れられません。聖トマス・アクィナスは、私たちは、最も偉大な聖人たちだけに祈るのではなく、その尊厳の劣る聖人たちにも祈るべきだ、と言っています。尊厳の劣る聖人にお願いすることが、偉大な聖人にお願いすることよりも、より効果的かもしれません。なぜなら、それは、天主が聖人たちにお与えになった使命と、私たちとその聖人たちとの関係によるからです。聖人たちが私たちに近ければ近いほど、その聖人たちは私たちをもっと見守り、より力強く助けてくれるからです。(「神学大全」第2部a.IIae第83問題第11項)

3. 私たちと天国の聖人たちとの関係

私たちに、特に近い聖人たちとは、誰でしょうか?

・ まず、私たちの守護の天使と、私たちの洗礼および堅振の保護聖人がいます。
・ 次に、私たちが住んでいる司教区や小教区の保護聖人がいます。例えば、さいたま司教区の守護聖人は幼きイエズスの聖テレジアで、特にこの司教区に住む人々を見守ってくれます。私たちの修道院は、聖パウロに奉献された大宮教区にあります。聖パウロは、特にこの小教区に住む人々を見守ってくれます。
・ 続いて、私たちがいる地域の保護聖人がいます。例えば、汚れなき御心の称号の聖母と、聖ミカエルは、日本を見守ってくださいます。
・ そして、私たちが特別な魅力を感じる聖人たちがいます。この魅力は、聖霊から来るものです。聖霊は、私たちを通して、これらの聖人たちをたたえることを望んでおられ、また、私たちがそれらの聖人たちを通して、特定の恩寵を得ることを、望んでおられます。
・ 最後に、特定の状況において、私たちを助ける力を持つ聖人たちがいます。普通、その聖人たちの生涯に、それに関連することが起こったからです。例えば、自分の生徒に殺されて殉教したイモラの聖カッシアノは、教師を助けます。徴税人だった聖マテオは、会計士を助けます。体を焼かれた聖ラウレンチオは、やけどをした人々を助けます。天主への賛美を歌うのが好きだった聖チェチリアは、音楽家を助けます。聖ニケフォルスは、誰かと和解したい人々を助けます。聖ニケフォルスは、事実、これについての良い模範を示した人です。聖アガタは、地震や火山の噴火の危険にさらされている人々を助けます。実際、聖アガタがカターニア市で殉教した直後、地震が町を襲いました。その後、聖アガタの聖遺物のおかげで、近くのエトナ火山の噴火から、町が守られました。日本でも、聖アガタにお願いすれば、よい助けが得られるかもしれません。


結論

天国の聖人たちは、私たちを愛しています。聖人たちは、私たちが天国の彼らのもとにいくことを、望んでいます。聖人たちは、私たちのために祈っており、また、私たちのために多くの恩寵を獲得することもできます。しかし、聖人たちによる私たちへの働きかけの効果は、私たちから聖人たちへの信心の度合いに比例するのです。私たちが聖人たちに敬虔に依り頼めば頼むほど、聖人たちは、より効果的に、私たちを助けることができるのです。しかし、もし私たちが聖人たちのことを知らず、聖人たちのことを考えず、聖人たちにお願いすることがなければ、聖人たちによる私たちへの働きかけは、非常に限られたものにとどまってしまいます。

愛する信者の皆さん、皆さんに近い聖人たちにお祈りすることを、お勧めします。そうすれば、皆さんは、天主を、また私たちの主イエズス・キリストを、そして童貞マリアをたたえることになりますから、みなさんは、豊かな恩寵を受けることでしょう。


聖伝のミサ聖祭の報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX JAPAN

2022年01月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

あらためて新年のお慶びを申し上げます。2022年の間、愛する兄弟姉妹の皆様に多くの祝福がありますように心からお祈り申し上げます。

元旦には、兄弟姉妹の皆様のしもべは、ミサの中で愛する兄弟姉妹の皆様のためにお祈りするとともに、初土の信心としてミサの後で御聖体降福式をおこないました。御聖体の前で聖ピオ十世会を汚れなき御心に対する奉献を更新いたしました。

私たちがイエズス・キリストに立ち戻らない限り、現在つづいている世界的な危機はますます厳しくなると思います。しかし、私たちの拙いながら心からの祈りと償いをご覧になって、主は私たちを憐れんで、危機を乗り越えさせてくださると確信しております。

新2022年には、特に、御聖体に対する冒涜的な取り扱いはすぐに止めなければなりません。御聖体は、口で受けるようにしなければなりません。御聖体に対して跪いて礼拝をささげるより多くの人々が必要です。

さて、天主の御恵みにより、2022年1月1日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計81人でした。

1月2日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計97人でした。大阪では35人でした。

聖母に心から感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【東京】【2022年1月1日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 81, including children.

09:00 mass
M: 17 (incl. 3 children)
F: 25 (incl. 4 children)
Total: 42 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 13 (incl. 3 children)
F: 15 (incl. 5 children)
Total: 28 (incl. 8 children)

12:30 mass
M: 9 (incl. 0 children)
F: 11 (incl. 0 children)
Total: 20 (incl. 0 children)

Total of 3 masses (excl. 9 people who participated in multiple masses)
M: 34 (incl. 6 children)
F: 47 (incl. 9 children)
Total: 81 (incl. 15 children)

【報告】【東京】【2022年1月2日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 97, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 5 children)
F: 21 (incl. 4 children)
Total: 44 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 20 (incl. 5 children)
F: 19 (incl. 5 children)
Total: 39 (incl. 10 children)

12:30 mass
M: 9 (incl. 0 children)
F: 10 (incl. 1 child)
Total: 19 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 49 (incl. 10 children)
F: 48 (incl. 10 children)
Total: 97 (incl. 20 children)

Photo Credit


新年のお慶びを申し上げます。なぜ主は割礼をお受けになられたのか? イエズスとはどういう意味なのか? 私たちはカトリック信者として、 何をすべきでしょうか?

2022年01月01日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、新年のお喜びを申し上げます。

2022年1月1日は主の御降誕の八日目です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「新年のメッセージ」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】