Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan: Tokyo, Osaka and Hiroshima

2022年08月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の被昇天の祝日、おめでとうございます。

聖母被昇天、東京の出席者数報告です。
63名
男28(内、小人4)
女35(内、小人10)
聖母に感謝いたします。

大阪では、37人の方々がミサに与りました。大阪では、聖母行列も行いました。

広島では、初めての試みでしたが、子供を含めると7人がミサに与りました。マリア様に感謝いたします。















カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年08月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年8月14日、聖霊降臨後第十主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計103人でした。大阪では35人でした。

8月15日は、聖母被昇天の大祝日ですね。愛する兄弟姉妹の皆様がミサに与ることができるようにお祈りいたします。歴史をみると、聖母はいつも8月15日には日本を祝福で満たしてくださいました。聖フランシスコ・ザベリオが日本に福音をもたらしたのもこの日でした。終戦もこの日でした。今年の8月15日も、お恵みを与えようとされています。聖母よ、われらのために祈り給え!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 103 including children.

09:00 mass
M: 19 (incl. 4 children)
F: 22 (incl. 5 children)
Total: 41 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 18 (incl. 2 children)
F: 23 (incl. 3 children)
Total: 41 (incl. 5 children)

12:30 mass
M: 15 (incl. 2 children)
F: 12 (incl. 0 child)
Total: 27 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 49 (incl. 8 children)
F: 54 (incl. 8 children)
Total: 103 (incl. 16 children)


1950年、ピオ十二世が聖母被昇天のドグマを定義しました。Munificentissimus Deus

2022年08月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!
 
愛する兄弟姉妹の皆様、
 
1950年、ピオ十二世が聖母被昇天のドグマを定義しました。
 
 




人は何のために,この世に生まれてきたか。 どちらかの永遠に行かなければならない。それだけは確かだ。

2022年08月13日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年8月14日は聖霊降臨後第十主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


今、世界は、非常に難しい、厳しい時代に直面しています。しかし私たちには大きな希望があります。天主の御母が私たちの傍に寄り添って下さって、助けて下さるからです。

2022年08月10日 | お説教・霊的講話

2022年7月9日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はマリア様のミサを行なっています。
今、この世界は、非常に重大な岐路に立っています。日本もそうです。皆様もご存知の通り、おそらく日本のリーダーの中で、おそらく最も影響力があると思われる方が、昨日暗殺されました。私たちはどのように考えたらいいのか、私たちは何をすることができるのか、私たちの最も大切なものは何なのか、ということを、私たちは思わざるを得ません。

そして今日はぜひ、上智の座であるマリア様に御助けを願って、私たちが一体何をすべきかを乞い願いましょう。

私たちは二つのことが必要です。

一つは、祈らなければなりません。私たちが、天主の助けなくて問題を解決することができる、というのはあまりにも思い上がっていることだからです。私たちは自分の力で、あるいはお金で、あるいは能力で、あるいは影響力で、あるいは武器で、あるいは軍隊で、あるいは経済力で、あるいはコネで、才能で、解決できると思った、そして天主に頼まなかったその瞬間、私たちは全く何もできなかった、と理解せざるに違いないからです。ですから私たちは祈らなければなりません。天主の全能の御力と導きを乞い求めなければなりません。ですから、マリア様に祈りましょう。

聖母に祈って何が起こったかを示す例があります。教皇様は、この前の3月25日、御告げの日に、ロシアをマリア様の汚れなき御心に奉献して下さいました。世界中の司教様たちを招いて、そして一緒にマリア様の奉献をするように、ファチマのマリア様のご要求のようなことをされました。多くのアメリカの司教様たちはこれに応えて、名前がリストが挙げられました。そして一緒にロシアを奉献しました。

すると、最近の6月24日のイエズスの聖心の祝日には、アメリカでは今まで、憲法に堕胎の権利があるということを認めたような判例があったのですけれども、「それは間違いだった」という、誰も想像したことがなかったような判決が行なわれました。マリア様がこの堕胎に、赤ちゃんたちの堕胎に対する戦争をストップさせてくれたのかもしれません、それの第一歩だったのかもしれません。

これによって、この判決によって、多くの方々が希望を持って、「私たちは祈れば、命を守ることができる」ということに気が付きました。今、世界で大きなうねりとなっています。命を守ろうという動きが、特に若い人々が立ち上がっています。

これを見ると、祈りが大切である、マリア様にお願いすることが大切である、ということが分かります。しかしそれだけでは足りません。もちろん祈りは最も大切ですけれども、祈ればそれで終わりだ、というのではありません。私たちは何かをしなければなりません。できるだけのことをしなければなりません。

例えば、初土に対する信心であったり、あるいはロシアの奉献であったり、私たちをマリア様に奉献することであったり、あるいはマーチ・フォー・ライフに参加することであったり、何かをしなければなりません。おそらく明日の選挙も私たちができることかもしれません。もちろん、私たちがすることはあまりにも小さいので、多くのことは期待することはできませんけれども、しかし、私たちが何かをする、ということは非常に大切です。

現代、例えば、私たちはもしも選挙をするとしたら、一体何をしなければならないのでしょうか?私たちの理想とするような政治家はどこにいるのでしょうか?投票するような候補者がいなかったら、私たちはどうしたら良いのでしょうか?

マリア様にお祈り致しましょう、良い知恵を下さいますように。もしも誰かが殴ってきたら、私たちは、手でよけると手が痛くなるから、手が傷付くから、一部だけでも傷付けてはいけないから、何もしないので良いのでしょうか?もしも私たちが小さな船に乗っていて、そして荷物があって、荷物の中には貴重なものがたくさんあったとしても、波が荒くなって台風が吹いてきたので、この船を軽くしなければならない、そうしなければ船がそのまま沈没してしまう、という場合には、大切なものだったかもしれないけれども、この荷物を船から海の中に捨てて、それで船と命だけでも助かる方が良いのではないでしょうか?

イエズス様も、「もし目が罪をつくる機会となるなら、抜き出して捨てよ。片目で命に入るほうが、両目あって火のゲヘナに投げこまれるよりも良い」(マテオ18:9)と、仰ったのではないでしょうか?

ですから私たちも、一体何を守るべきなのか、どんなものが善なのか、ということをよく考えて、全てが揃っていないからと諦めずに、何とか良い方法を考えるべきではないでしょうか?

私たちは一体何を注意すべきでしょうか? 多くの政治家たちが、同性の間で結婚ができるということを法律化しよう、とそれに賛成していますが、私たちはそれについて、日本の国の滅びに繋がることだと懸念しています。アメリカやあるいはヨーロッパでは、そのようなものが今導入されて、特に子供たちは混乱しています。

埼玉県では、自民党がそのような条例を、つい数日前に可決しました。自民党が行った意見公募では4700件以上の意見が集まり、約90%が反対でした。しかし、自民党の多数決で、条例になったそうです。昨日から有効なのだそうです。主観的な判断での「性自認」が導入されました。きわめて曖昧で、それによると、自分が男か女か決めることができる、自分が男だと思ったならば男だし、女だと思ったら女だ。そして皆もそれを認めなければならないことになります。ですから、今日朝になったら「僕は、私は女だ」と思ったら、女としてトイレも、あるいは銭湯にも行く権利がある。誰かが反対したら、それは差別だ、ということになってしまいます。

ですから「自分は女だと思う」だから、女性として競技に出る、参加する。もちろん男が勝つに決まっています。それに疑問を挟むことは「差別」とされます。生物学的な女性たちは、心も体も傷つきます。

そしてそのようなことで、私が今、口にするのも恥ずかしいような、あるいは恐ろしいような出来事が起こっています。女性の方が、女性を自称するような人の為によって妊娠をさせられてしまったりとかいうことがアメリカやヨーロッパで現実に起こっています。そのようなことが今、日本で起ころうとしています。

子供たちも、そのような教育を受けなければなりません。アメリカやヨーロッパでそのような教育を受けた子供たちは混乱しています。アメリカではそのようなことが、子供たちに強制的に教えられ、それも反対することができなくなっています。もしもそのようなことを避けるならば、学校に子供を行かせないしかないのです。そして多くの人々がホームスクーリングをしています。

今、ウォーキズム(wokeism)というものが世界であります。ウォーク(woke)というのは何かというと、例えば、ヨーロッパの白人の女性が、移民をしてきた人に性的にいたずらをされたとします、レイプをされたとします。すると普通でしたら、「そのようなことをした人が悪い!」と、もちろん犯罪です、普通でしたら。しかしウォーク主義と言うのであれば、「いや、悪いのは白人の女性だ!なぜかと言うと、そのような移民した人たちは、白人の人にそういうことをすることによって、自分の有色人種であるという価値を認めているから。だから正しいことをした!」という、全ての、「真理とは何か」ということが無くなってしまって、「善とは、悪とは何か」ということが全く無くなってしまって、自分の思い通りのイデオロギーが支配する世界が今、到来しつつあります。

これは今、本当に起こっていることです。そして今、それの波が日本にも来ようとしています。

しかし何も心配しないで下さい。真理がないところに、本当の権利もありません。私たちには救いの手段があります。それは「マリア様がおられる」ということです。マリア様はファチマで言いました、「私だけが、あなたたちを助けることができる」と。もしも私たちが聖母に助けを求めるならば、マリア様は助けることができます。もしもそうでななければ、私たちは何をしても駄目でしょう。

しかし私たちが聖母に祈りつつ、行動を起こすならば、マリア様は助けて下さることができます。それが例えば、つい最近アメリカでの最高裁の判決です。

今、特に若い世代の人たちが、聖伝のミサに目覚めてきています。そしてこのマリア様への信仰に目覚めてきています。そして今世界中で多くの人々が、マリア様を通して、聖伝のミサ、カトリックの昔ながらのミサに与りつつあります。そしてそのことによって多くの人々が今、勝利へと、正常な世界へと立ち戻りつつあります。今のおかしな世界の間違いに気付きつつあります。

ですから今日、このミサを是非マリア様に捧げて、私たちの家族の為に、日本の為にも、そして世界の為にもお祈り致しましょう。

今、世界は、非常に難しい、厳しい時代に直面しています。しかし私たちには大きな希望があります。天主の御母が私たちの傍に寄り添って下さって、助けて下さるからです。私たちに憐みの眼を以って、御恵みを下そうとしておられるからです。ですから私たちはマリア様に祈り続けましょう。そしてマリア様と共に歩き続けましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちの主イエズスがエルザレムのことで流された涙についての説教 —「罪人の死」

2022年08月09日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズスがエルザレムのことで流された涙についての説教 — 「罪人の死」

ドモルネ神父

はじめに

今日の福音の中には、私たちの主イエズスの、次のみ言葉があります。「おまえの敵が周りに塁を築き、取り巻き、四方から迫る日が来る」(ルカ19章43節)。ここで、私たちの主イエズスは、紀元70年に、ローマ軍によって、エルザレムの街とその住民に、恐ろしい罰が下されることを、告知なさっていたのです。しかし、エルザレムは、私たちの霊魂のかたどりでもあります。私たちの主イエズスを自らの救い主として迎えることを拒んだエルザレムは、イエズス・キリストとその教会を信じることを拒んだ霊魂のかたどりでもあります。ですから、この言葉によって、私たちの主イエズスは、エルザレムに対する恐ろしい罰を告知されていただけでなく、罪人が死ぬ時の状態についても、述べておられたのです。死ぬ時、罪人は、過去の回想、自分の現在の状態の自覚、そして、未来への恐怖に、取り巻かれ、苛まれるのです。

1.過去の回想によって

罪人が死ぬ時には、過去の回想、つまり自分の生涯における様々な罪の回想に、取り巻かれ、苛まれるかのようです。罪人が生きている間は、娯楽、仕事、家庭生活、社交、スポーツなどに忙しくして、あたかも天主が存在しないかのように、生きていけたかもしれません。様々な罪は犯しましたが、罪人は、それらの罪について、考えたくはなかったのです。しかし、自分が死ぬ時、罪人は、自分の様々な罪や、罪の数や、罪の重さを思い出すのです。様々な罪とは、無信仰、不正、憎しみ、不潔、冒涜、躓きとなる行為、怒りなど、つまり、行い、言葉、思い、怠りによる罪です。

罪人はまた、自分の生涯において、多くの恩寵を軽んじた思いに、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、イエズスの教理を学び、秘跡を受け、自分の悪徳を改め、聖徳を実践する機会があったことを、思い出します。罪人は、自分がこれらの恩寵をわざと無視したこと、そして、この世の雑事に時間を浪費したことを思い出します。そのため、自責の念が、罪人の心を、絶望で満たすのです。私たちの主イエズスは、罪人がこのように自責の念に苛まれることを、次のように表現されました。「もし、この日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら」(ルカ19章42節)。

2.現在の状況の自覚によって

罪人が死ぬ時には、自分の現在の状況の自覚に、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、一生涯ずっと非常に忙しくして、死については、真剣に考えないようにすることが、できたかもしれません。しかし、死ぬべき時が来ると、罪人は、死に直面しなければならず、そこから逃げることはできません。死がやってきて、自分の家族、財産、尊厳、この世の楽しみなど、罪人が好むものすべてを、取り上げるのです。罪人が、一生涯ずっと、天主のお怒りを招きながら得たものがすべて、取り去られるのです。このことが、罪人を、大きな苦悩に陥れます。おそらく、皆さんは、こうおっしゃるでしょう。罪人は、いつでも天主に立ち返り、心から天主にお赦しを請うことができるのではないか、と。厳密に言えば、その通りです。罪人は、そうすることができます。罪人がそうすれば、間違いなく、天主はその罪人を赦してくださいます。しかし、通常、私たちは、自分が生きたように、死ぬのです。もし、その罪人が、生きている間、天主のことを気にかけず、祈りもしなかったとすれば、死の苦悶と、この世でのすべてのものを失うという苦しみに苛まれたとき、そのようにすることは、ほぼ不可能でしょう。ですから、私たちの主イエズスは、こう言われるのです。「この日に平安をもたらすはずのものは、おまえの目に隠されている」(ルカ19章42節)。

3.未来への恐怖によって

罪人が死ぬ時には、遂に、未来への恐怖、苦悩、絶望に取り巻かれ、苛まれます。死んだ後、罪人はどうなるのでしょうか。罪人は、裁かれるのです。聖パウロはこう言いました。「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。そして、罪人は、自分自身がそのお怒りを招き、軽んじたイエズス・キリストによって、全能で、すべてを知っておられ、完全に公正でおられるイエズス・キリストによって、裁かれるのです。罪人が反論したり、裁判官であるイエズス・キリストをだましたりすることが、できるはずもありません。聖書のヨブ記には、こうあります。「天主が裁きに立ち上がられるとき、どうしよう。天主が調べられるとき、何と答えよう」(ヨブ31章14節)。

そしてまた、罪人は、裁きの後に、自分がどうなるだろうかという思いに、苛まれるのです。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵が…おまえ…を地に倒(す)」(ルカ19章44節)。罪人は、天国に上り天主の永遠の幸福に与るのではなく、地獄に投げ入れられるのです。地獄では、火の中で焼かれ、悪魔にひどく打ちのめされ、自分の存在のありとあらゆる部分において、苦しむことになります。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵は…石の上に一つの石さえ残さぬ」(ルカ19章44節)。

聖グレゴリオは、死の直前、自分をこれから地獄に連れて行こうとする悪魔たちを見て恐怖におののいた、クリサオリウスという名の罪人について、語っています(対話4巻38章)。

結論

親愛なる信者の皆さん、悪い死、つまり大罪の状態で死ぬことは、私たちに起こりうることのうちで、最悪のことです。天主は、私たちをお造りになったとき、私たちに自由という賜物をくださいました。聖書の中で、天主は、こう言われます。「人間の前には、生命と死が、善と悪がある、望みのままに、そのいずれかが与えられる」(集会書15章17節)。私たちの主イエズスは、人に与えられた、この自由を尊重なさいます。そして、主に従うことを拒む者は、死んだ後、自分に降りかかる恐ろしい罰に対して、泣くことしかできないのです。私たちは、生きたように、死ぬのです。ですから、このような状態のままで死にたくはない、と思うような状態に留まらないようにしましょう。自分の罪を悔い改めましょう。そして、悪い習慣を改めて、聖徳を実践するよう、真剣に努力するようにしましょう。

Photo Credit


私たちが天主の子供であることの意味:「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)

2022年08月09日 | お説教・霊的講話

2022年7月3日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は聖霊降臨後第4主日のミサを行なっています。
今日は午後3時からマーチ・フォー・ライフがあります。大阪市役所から出発します。どうぞ皆さん是非いらして下さい。

今日聖パウロはその書簡の中で「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)と言っています。そこで今日一緒に、「私たちが天主の子供である」ということについて、一緒に黙想しましょう。

⑴この意味は何なのか?「天主の子」というのは一体どういう意味なのか?
⑵そしてその次に、その結果は一体何なのか?
⑶私たちは何をしなければならないのか?
ということを黙想しましょう。

⑴「私たちは天主の子である」と言います。その意味は二つの意味があります。
一つは比喩的に、「それに似ている」という意味のことです。
もう一つは、本当に厳密の意味で、「家族に属する子供」という意味です。

どういうことかと言うと、比喩的な意味では、父親というのは家族の元であって、そこから家族が生まれますし、またその父親の元で家族が指導されて、一緒に生活をするという意味なので、天主は全ての被造物を御創りになったその根源でありますし、また天主が全てのものを御摂理で指導しておられるので、比喩的な意味では、私たち全ての人間は天主を信じていようと信じていまいと、洗礼を受けていようといまいと、全ての人たちが兄弟、天の父である天主の元にある兄弟姉妹である、と言うことができます。

また比喩的な意味では、天主から創られた太陽や月も、言ってみれば兄弟である、と言うことができます。ですからアシジの聖フランシスコは、太陽のことを「兄弟」とも言っていました、比喩的な意味で。

ところがもっと厳密な意味で言うと、例えばたくさんの人間たちがいるけれども、でも特にこの子とこの子とこの子は、血がつながっているうちの子だ、うちの家族だ。だから他の子供は知らないけれども、この子とこの子は、このお父さんの家の全てを分かち合っている。だからこの子は家に自由に入ってもいいし、お父さんのものはこの子のものだし、全てはこのお父さんの持ち物は、全てこの遺産を譲る権利もあるし、この特別に親子関係があるから、特別な関係がある。親子関係がある、家族の関係がある、という意味で、厳密な意味で、天主は洗礼を受けた全ての人たちのお父さんであって、洗礼を受けると私たちは、特別に養子相続をされます。

ですからこの意味では、よく皆さんが聞くかもしれませんけれども、ペットも家族の一員だというのは全く嘘です。ペットも家族の一員ではありません。なぜかというと、ペットは相続することができないからです。

しかし、どんなに私たちが、天主と人間がどんなに無限に離れていたとしても、私たちは本当の意味で天主の家族になって、そして天主の三位一体の全ての富と、全ての栄光と、全ての財産を、全てそのまま私たちが受けることができるようになります。

「天主の子供・養子」、これこそが私たちが持っている特権でもあります。

⑵では次に、この天主の子供というのは一体どんな特権があるのでしょうか?どんな務めがあるのでしょうか?

はい、これは私たちは、天主を三位一体を父として、単なる天主のみならず、創造主のみならず、私たちのお父さんとして愛する、尊敬するという、そして父親として特別の親子関係がある、ということで、私たちは天主を、天主の御旨を果たそうとしなければなりません。でも子供にとってお父さんの、これほど愛してくれるお父さんを喜ばせるということは、何と幸せなことでしょうか。

また天主が、御父である天主が私たちの父であるということならば、養子であるということであれば、この天主の家の為に、家族の為に、私たちは一生懸命その名誉の為に働こうと思います。ですから、洗礼を受けた隣人たちも、天主御父の相続を受けた人々で、遺産相続を受ける本当の兄弟姉妹である、と理解できます。ですから同じ家族の一員であるということです。天国にいる諸聖人たちも、煉獄に苦しんでいる霊魂たちも、皆同じ家族のお父さんの元にいる兄弟姉妹で、家族である、ということです。

ですから諸聖人も、あるいは煉獄にいる、あるいは地上にいる全ての信者も、私たちの兄弟姉妹ですから、特別な愛情と兄弟愛を以って接しなければなりません。憐れみの心とか、理解をする心とか、助け合いの心とかです。

ですからここにおいて、フランス革命の博愛 fraterenite、あるいは兄弟愛といわれるのは、全く嘘だということが分かります。なぜかというと、真の天主、父として天主がおられないなら、天主を否定したところには、本当の兄弟愛があり得ないからです。ですからここに、カトリックの制度や、あるいは貴族制度と、他の貴族制度との決定的な違いがあります。

貴族というのは、同じ天主である御父の元にあって、特別な義務を持った人です。「弱い人を助ける」という義務を持った人々が貴族です。ですから有名な言葉に「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」というものがあります。これは「高貴であるということ、貴族であるということは、つまり義務があるということだ。特に弱者に対する、弱い者を守る義務がある」ということです。だから貴族というものは、剣を持ってでも弱い者を助けなければならない、教会を守らなければならない、キリストの為に命を捧げなければならない、その義務があるのです。

ですからカトリック世界にとって、貴族階級というのは、特別なお金持ちの特別クラブ、特権クラブではないのです。弱者の為に立ち上がって、その彼らを守る、その特別な義務を受けた人々、それが貴族です。これが父なる天主の元にある子供たち、兄弟姉妹の義務でした。

⑶では、私たちは一体どのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?

まずこの世では、このあっという間に過ぎるこの世は、私たちが遂に天主の子供として、本当の栄光と本当の自由を受けるのを待ちに待っている、その解放を待っている、そして私たちが受ける栄光というのは、本当に想像も絶するほどの偉大なものである、ということをどうぞ知って下さい。

ですから今、この地上に生きる間に、私たちは天主の子供として、兄弟姉妹たちを、特に兄弟愛をもって愛し、そして天主御父を特別の孝愛を以て愛する、その御旨を果たす、ということが期待されているということです。それを助けてくれるのが聖霊の賜物の孝愛です。そしてこのもしもそれが辛いとか、あるいは苦しいということがあっても、この世の苦しみは、来たるべき栄光に比べれば全く取るに足らないと、どうぞ確信して下さい。それが今日聖パウロが私たちに教えていることです。

マリア様にお祈りしましょう。マリア様が私たちの母として、この真理を深く心に沁み通らせて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年08月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計103人でした。大阪では20人でした。夏休みの旅行や暑さなどで、ミサに来ることができなかった方々がおられました。お大事になさってください。

8月11日には東京の曙町会館で、一日の黙想会が予定されています。ミサは午前10時半からです。

8月15日聖母被昇天の広島でのミサですが、午後6時半から広島市佐伯区にある信徒の方の家で行う予定です。詳しいことは、メールでお伝えいたしますので、ミサに与ることをご希望の方は、こちらでご連絡ができるように連絡先をお伝えくだされば幸いです。

先日、匿名の方から本棚の寄付が暁の星の聖母の修道院に届きました。感謝申し上げます。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 103 including children.

09:00 mass
M: 24 (incl. 4 children)
F: 20 (incl. 2 children)
Total: 44 (incl. 6 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 4 children)
F: 24 (incl. 5 children)
Total: 45 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 7 (incl. 0 child)
F: 13 (incl. 0 child)
Total: 20 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 49 (incl. 8 children)
F: 54 (incl. 7 children)
Total: 103 (incl. 15 children)


[上智]聖霊の七つの賜物のうちの最上位の賜物|全世界が戦争に突入しようとしているときに、日本だけが、これまでのように安全で、豊かな生活を続けることができるのでしょうか?

2022年08月06日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年8月7日は聖霊降臨後第九主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第九主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

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天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖母の御訪問の祝日は、お母さんのお腹の中にいる子供たちの命を全て大切に守らなければならないという義務を教えている

2022年08月06日 | お説教・霊的講話

2022年7月2日(初土)童貞聖マリアの御訪問のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日マリア様の御訪問の祝日、その玄義を黙想して、私たちにとっての意義を黙想致しましょう。

3月25日、御告げの日、天主の力である大天使聖ガブリエルは、三位一体に送られて、永遠の昔からの計画をマリア様に御告げをします、「聖寵に充ち満てる御方、私はあなたに挨拶します。」

一体何のことだろうか?と思っていると、「恐れるな、マリア。あなたは身ごもって子を産む。約束された救い主の母となる」ということをマリア様は知らされます。「一体、男を知らないのにどうしてそうなるか?」すると「聖霊の力がマリア様を覆って、そして聖霊の力によって聖母は身ごもる、子供を産む。その子供をイエズスと名付けよ。そして民を罪から救う方である。天主の言葉には不可能なことがない。エリザベトあなたのいとこも、石女(うまずめ)だと言われたのに、身ごもって今はもう六ヶ月目だ。」

マリア様はそれを聞いて、「私は主の婢女(はしため)です。仰せの如く私になりますように。」
天主の御母となって、天主の御子を身ごもったその直後、マリア様がなさったことは、老婆エリザベトを訪問することでした。

マリア様はイエズス様を携えて、聖エリザベトを訪問すると、聖エリザベトは聖霊に満たされて、「何としたこと!主の母が私を訪問して下さった!あなたの言葉を聞くと、私の胎内にいる子供は喜んで飛び跳ねました。踊りました。」この瞬間、洗者聖ヨハネは特別の御恵みを、マリア様の仲介を通して、マリア様の声を通して、私たちの主から受けました。特別の保護、特別の祝福、罪の赦しを得て、聖寵に満たされました。聖エリザベトのみならず、洗者聖ヨハネも聖寵に満たされました。

これは私たちに一体、何を物語っているでしょうか?

胎内にいる、お母さんのお腹の中にいる小さな赤ちゃんたちも、立派な人間である、ということを教えています。天主の目からとても大切な、天主の似姿と肖像によって創られた存在である、ということを教えています。天主の御子となるべき存在である、ということを教えています。洗者聖ヨハネのように聖化されるべき存在であって、守られるべき存在であって、そしてイエズス・キリストの兄弟となるべき、天主の子供となるべき存在である、ということを教えています。

この御訪問の祝日は、まさに私たちにとって、お母さんのお腹の中にいる子供たちの命を全て大切に守らなければならない、という義務を教えています。

では私たちは一体どうしたら良いでしょうか?

今、日本では、そして世界では、子供たちの命が物であるかのように、邪魔ものであるかのように考えられています。不都合であるかのように、子供を身ごもっていることはあたかも病気であるかのように、あたかも都合が悪いことであるかのように考える人もいます。天主からの祝福であるにも関わらず、大切な命の贈り物であるにも関わらず、そのような死の文化が今、ジワジワと世界中に広がっています。これについて私たちはどうしたら良いでしょうか?

私たちは是非、マリア様にお願いするしかないと考えています。ちょうど今年の3月25日に、教皇様が世界中の司教様たちと合わせて、ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献した時、特にアメリカの司教様たちは、教皇様の意向に合わせて、多くの司教様たちが名乗り出て、ロシアを奉献すると言いました。そして実際そうしました。するとあたかもそれに返答するかのように、イエズス様の祝日が洗者聖ヨハネの祝日と重なった今年の6月24日には、いきなり歴史的な事件が起こりました。アメリカの最高裁判所が、「今までの判決は間違っていた。私たちには、憲法が堕胎をする権利を認めた、などということはあり得ない」と宣言しました。

それまで、多くの方々がその為に祈っていたのですけれども、ちょうど奉献が行われた後に、この判決がいきなり出たということは、本当に奇跡的なことだと言われています。しかも洗者聖ヨハネの祝日とイエズス様の聖心の祝日が重なったこの日に。

これはちょうど、御訪問の祝日のことを意味しているのではないのでしょうか?マリア様が取り次いで下さったのではないでしょうか?マリア様であれば、歴史的な判決を覆すことさえも簡単にできます。

アメリカでは同じようなことが500年前に起こりました。アステカでは死の文化が、アステカの人々をメキシコに住んでいた人々を恐れさせていました。蛇の神が、人間の言うには、「太陽が今動いているのは、人間の血が必要だ。生きた人間の血が必要なので、生きた人間の心臓を取って、それを捧げなければ、太陽は止まってしまう。それを飲んで太陽を動かさなければならない」と蛇は教えていました。ですから、何万という人々、子供や罪のない人々が殺されて、人身御供とされて、心臓が捧げられていました。その死の文化が、アステカの文化でした、恐るべき堕落でした。

その時に、マリア様が現れました。グアダルーペのマリア様でした、1531年。その御出現を以って、その人身御供を完全にストップすることができました。その代わりに入ってきたのが、命の文化でした。命を大切にする文化でした、カトリックの文明でした。命の主であるイエズス・キリストが、マリア様の御取り次ぎによって入ってきたのです。

是非、明日のマーチ・フォー・ライフに私たちもそれをお祈り致しましょう。マリア様が是非この大阪の街の人々を訪問して下さいますように、イエズス様を携えて、私たち一人ひとりに命の大切さを息吹いて下さいますように、胎内にいる子供たち、弱い子供たち、あるいは邪魔者とされるような老人や、あるいは病気の方々を、マリア様が守って下さいますように、そしてイエズス・キリストが教えるように、私たち人間が、天主の子供となるべきとても大切な存在である、ということを私たち一人一人が知ることができますように、光で満たされますように、マリア様がその光を下さいますように、私たちの大阪の一番中心の道をお通りになって、祝福して下さいますように、大阪から始まって日本中に、世界中に、マリア様の祝福が満ち渡りますように、聖霊の祝福がありますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス・キリストのいと尊き御血は、私たち人間が何であるか、どれほど愛されているのかを語っている

2022年08月04日 | お説教・霊的講話

2022年7月1日(初金)イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は初金で、イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日を祝っています。
この祝日は、私たち人間がどれほどイエズスの聖心から愛されているのか、人間は主からどのように考えられているのか、ということを雄弁に語っています。天主にとって人間とは、この世の人々が考えるのとは全く別のものです。

イエズス・キリスト、人となった天主は、私たちの為に御自分の御血を、天主としての血を流されて、悪魔の支配から、奴隷状態から、御自分の御血の値で買い戻して下さいました。

主にとって私たちはとても大切で、どれほど大切かというと、私たちを御自分の子供として、養子相続しようと思われたほどでした。御自分の持っている全ての富を、御自分自身を与え尽くそうと、その富を私たちに遺産として相続させようと思われました。「天主の子供」。これが私たちの与えられた地位です。天主が私たちをどれほど愛しておられるかを示しているものです。その為に主は、御自分の血を全て流すことを喜んでされました。

この世の人々は、主の愛を知りません。人間を単なる物であるかのように考えています。商品であるかのように、あるいは動物以下であるかのように、物以下であるかのように、環境を破壊する原因であるかのように考えてます。人間よりも空気や水の方が大切であるかのように考えています。人間はエコロジーに従属するモノ、管理のためにインターネットに繋げるべきモノに成り下がっています。

カトリック信仰が教える「人間は天主の子」となるべき大切な存在だったのに、単なる消費者、単なる労働力を経て、今では機械かマイナンバーかモノに成り下がってしまいました。

そのような人間の価値が全く認められないような現代世界においては、ですから子供も、赤ちゃんも、自分の都合が良い悪いで判断されて、そして今、戦争が起こっています。子供たち、全く罪のない子供たちに死刑が宣告されて、無罪であるにも関わらず殺されたり、あるいはその無防備な子供たちに戦争が行われて、何十万という日本だけでも子供たちが亡くなっています。

一体なぜかというと、それは真の主の、イエズス・キリストの私たちに対する愛を知らないからです。私たちがどれほど大切に思われているかということを、考えていられるかということを、どれほど貴重な存在であるかということが、知られていないからです。

私たちには希望があります。私たちはたとえ今、堕胎などという悪をどうやって止められるのだろうか。全く私たちは無理じゃないか、と思っているかもしれません。そんなことは決してありません。なぜかというと、天主が、私たちの為に血を流された、それほどの愛を以って私たちを考えておられるからです。

つい最近、アメリカを見て下さい。アメリカでは堕胎が法律によって許されるようになって、その時から多くのカトリック信者は立ち上がって祈りをしてきました。そのような信者さんたちが赤ちゃんのことを思って、病院の前に行って跪ずいてお祈りをしてきました。あるいはそのような困ったお母さんがあると、お母さんに「心配するな。子供を産んで下さい。赤ちゃんのことを考えて欲しい。」励ましてきました。そういう命がけで祈ってきた人たちが何十万といます。政治家たちもそのような人たちを無視することができませんでした。アメリカでそのような人たちがいたからこそ、マーチ・フォー・ライフも出来ました、生まれてきました。

そしてこの前のイエズスの聖心の祝日に、ちょうど6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でもあったのですけれども、イエズス様の聖心の為に一日ずれて祝いました。しかし、まさに洗者聖ヨハネとイエズス様が会ったその出会った出会いの日には、アメリカの合衆国では最高裁判所では、「今までの判決は間違っていた。今までの法律は間違っていた」と、考えられないような判決を出しました。

アメリカ合衆国の憲法では、堕胎をする権利を認めたことなど一切ない。これは各州がもしも堕胎を禁止すれば、それは禁止になるので、合衆国憲法はそれを覆すようなことはできない、と言いました。憲法で堕胎をする権利を認めたことはあり得ない、と。

それで、その後で各州は、うちの州では堕胎は禁止です、という27の州が、「元々禁止だったので、禁止です。だからもうできません。」そういう風に宣言されました。この今まで祈ってきたカトリックのアメリカの方々は、非常にこのことを喜びました。これで赤ちゃんが、これらの州では守られる。まだ途中だけれども、これ全ての堕胎が禁止されるように、赤ちゃんに対する戦争が終わるように、もっともっとやらなければならないけれども、大きな一歩だと、この奇跡的な判決を喜びました。

ある人は、ちょうどこれは、ファチマのマリア様が約束された通り、ロシアの奉献がなされたので、『戦争が終わるように』と御恵みを下さったのだろうと言う人もいます。

奇跡は、お祈りによって必ず起こります。ですから私たちは、全幅の信頼をもって、イエズス様の愛に信頼して、マリア様の御取り次ぎに信頼して、祈り続けましょう。アメリカの偉大な兄弟たちの模範に倣って、私たちも子供たちの為に祈りましょう。

マリア様にお祈りを続けましょう。きっとマリア様が私たちの祈りを、拙いながらも捧げれば取り次いで下さって、お医者さんたちの心を変えて、あるいはお母さんたちの心を変えて、あるいは日本の政治家たちの心を変えて、「これからは堕胎ではなくて、このような赤ちゃんを養子にしたり、あるいは大切にして育てるように働かなければならない」と変わっていくようにお祈り致しましょう。マリア様に特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ヴィガノ大司教「教皇のカナダ訪問について」:洗礼を受けて神秘体の生ける肢体となった者として、祈って、償いをしましょう。カナダの殉教者たちの取り次ぎを請い求めましょう。

2022年08月03日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「教皇のカナダ訪問について」

洗礼を受けて神秘体の生ける肢体となった者として、祈って、償いをしましょう。カナダの殉教者たちの取り次ぎを請い求めましょう。

2022年8月1日

Viganò on the Pope’s Visit to Canada

ヴィガノ大司教「教皇のカナダ訪問について」

カルロ・マリア・ヴィガノ

REDDE RATIONEM VILLICATIONIS TUÆ,
JAM ENIM NON POTERIS VILLICARE
会計の報告を出せ、
もうおまえを支配人にしておくわけにはいかぬ

「私の妻は、誰が自分をカトリックに改宗させたのかと聞かれると、いつも『悪魔』と答える」――G・K・チェスタトン

サタンが、「嘘つき」と「告発する者」の二重の意味を持つ、「διάβολος」(ディアボロス)と呼ばれるのは、偶然ではありません。サタンが嘘をつく理由は、サタンが真理、すなわち天主の本質そのものを憎んでいるからです。サタンが嘘をつく理由は、もし真実を語れば、自分自身の欺瞞を明らかにしてしまうからです。サタンが嘘をつく理由は、嘘をつくことによってのみ、私たちの兄弟を告発する者、「昼も夜も天主の前に彼らを告発する者」(黙示録12章10節)になることもできるからです。そして、ご托身の御言葉のご聖櫃である至聖なる童貞が「われらの代願者」(Advocata nostra)であるように、サタンは私たちを告発する者であり、義人に対する偽りの証言をするよう【人を】突き動かす者なのです。

革命とは、地獄の混沌(chaos)を打ち立てるために天主の秩序(kosmos)を転覆させることですが、キリストの教会と、何世紀にもわたり教会によって霊感を与えられ導かれてきたキリスト教社会を貶める論拠を持っていないため、中傷および現実を操作することに頼っています。「キャンセル文化」とは、「天主の国」を裁判にかけようとする試み以外の何物でもありません。これは、証拠もなく「天主の国」(Civitas Dei)を非難して、いわゆる自由、平等、博愛を代わりのものとする「悪魔の国」(civitas diaboli)を押し付けるためになされるのです。これを行うために、誰にも明らかなことですが、大衆が真実についての知識を持つことを妨げるのです。それは、その欺瞞が無知と悪意に基づいているためです。

この前提は、教会の最高権威から由来する代理者としての権力を、世界の前で教会を中傷し告発する――最高法院(サンヘドリン)とピラトの前で行われたキリストの裁判のグロテスクなパロディのように――ために横取りした者【フランシスコ】の行動の重大さを理解するために必要なものです。このときも、世俗の権威【ピラト】は私たちの主に対する偽りの告発に耳を傾け、主の無実を認めながらも、大司祭と律法学士によって扇動された民衆を喜ばせるために、主を鞭打ちにし、茨の冠をおしかぶせ、その後、主を死に追いやり、最も屈辱的な拷問をもって主を十字架につけたのです。こうして、最高法院のメンバーは、ユダヤ総督がその世俗の権威を濫用したように、その霊的な権威を濫用したのです。

同じ茶番劇が歴史上、何千何万回と繰り返されてきました。なぜなら、キリストとその神秘体である教会に対するあらゆる嘘の背後には、あらゆる根拠のない告発の背後には、嘘つきであり、告発する者である悪魔が隠れているからです。そして、いかなる合理的な疑いをも超えて明らかなのは、この悪魔の行動が、カナダで先住民に対して犯したとされているカトリック教会の罪に対するベルゴリオの背信の「mea culpa」(わが過ち=謝罪)から、ベルゴリオが異教の典礼や死者を呼び出す地獄の儀式に参加することまで、ここ数日マスコミで報道された出来事が起こるよう突き動かしていることです。

イエズス会宣教師の「過ち」については、「コリスポンデンツァ・ロマーナ」(Corrispondenza Romana)(こちら)が、カナダの殉教者たちがイロコイ・インディアンの手によって受けた残虐行為を列挙し、徹底的に答えてくれていると私は思います。同じことが、先住民を文明化し、この国をキリスト教文化に同化させるのを促進するために、国がカトリック教会と英国国教会に委託した「インディアン居住区学校」に関する告発とされるものにも当てはまります。このように、「聖母献身宣教会(オブレート会)は、先住民をその起源から引き離す統合を主張した政府や英国国教会とは異なり、カナダのインディアンの伝統的な言語や生活様式の唯一の擁護者だった」ことが分かります。また、2008年に「真実和解委員会」(Commission de vérité et réconciliation)が扱わなければならなかった先住民の「文化的大虐殺」とされるものが、クラウス・シュワブの弟子でグローバリズムとダボス・アジェンダの悪名高い推進者であるジャスティン・トルドー首相が支持した、完全に偽りのメディア・キャンペーンのせいで、真実あるいは可能性があるという根拠もなく、「肉体的大虐殺」に変容させられたことを私たちは知っています。

しかし、もし真実が専門家たちや党派性のない歴史家たちによって公式に認められたとしても、それにもかかわらず、嘘のカルトは止められないプロセスを続け、トルドーによって要求され、直ちにベルゴリオによって自分のものとされた教会トップの公式謝罪で最高潮に達したのです。ベルゴリオは、自分がそれに値しない代表を務める組織をもう一度辱めたくてたまらなかったのです。トルドーとベルゴリオは、公式の物語(ナラティブ)に耽溺し、自分たちの主人らを喜ばせようとするあまり、何百人もの子どもが密かに埋葬されたとされる幻の集団墓地に関する証拠が全く存在しないことを、取るに足らないささいなことと考えているのです。このことは、以下のことを証明するのに十分です。つまり、彼らに悪意があること、そして告発と「mea culpa」が見栄であること、また、その理由は、マスコミが即決裁判で人民の敵の首を要求しているものの、冤罪で訴えられた無実の人々を復帰させないように注意しているからだということです。

この汚いメディア作戦の目的は、あまりにも明白です。つまり、国家と位階階級自身の両者による現在の迫害を正当化するために、カトリック教会の過去が最悪の残虐行為で有罪であったと貶めることなのです。なぜなら、「あの教会」、つまりすべての民族に福音を告げ知らせ、異教の野蛮に熱中していた部族によって宣教師が殉教するのを許した「不寛容で」「硬直した」カトリック教会は、もはや存在を許されず、「改宗させ」てはならず――改宗させることは、「荘厳なナンセンス」「エキュメニズムに対する非常に深刻な罪」【フランシスコによる表現】――、教会は霊魂の救いのために諸国民に教えるあらゆる真理を持っていると主張してはならない、とされているのです。また、ベルゴリオは、観念して彼の後を追って背教の深淵に行こうとはせず、使徒継承のミサで天主を讃美したいと思う多くの信者を容赦なく迫害するという段階に至るまで、「あの教会」の教理や道徳、典礼を嫌っているように、自分は「あの教会」とは何の関係もないことを、私たちに知ってほしいと思っているのです。

ホルヘ・マリオがカトリック的であるとは誰も思っていません。彼の表情、しぐさ、動作のすべてが、少しでも私たちの主を思い起こさせるものに対する苛立ちを示しており、今や彼の不信心および冒涜的な不敬という証明によって、その苛立ちは不要なものとなっています。シャーマン【霊媒師】が行う死者を呼び出す悪魔の儀式を、彼が平然と見ているのを見れば、バチカン大聖堂で地獄のパチャママを偶像崇拝し、それによって使徒のかしらの埋葬地の真上を冒涜したというスキャンダルを、さらに信じられないほど悪化させているのが分かります。

存在しない「宣教師の罪」の赦しを請うことは、新世界秩序(New World Order)に服従するという卑劣で冒涜的な行為であり、完全に同じことが、彼の寵臣による真の虐待被害者に対して、ベルゴリオが責任を負う共犯的沈黙とスキャンダラスな【寵臣の】保護にも見られます。中国やアフリカ、南極の氷山で彼が赦しを請うのを私たちが聞くことはあるかもしれませんが、アルゼンチンで行われた虐待や犯罪、マカリックとその共犯者によるラベンダー・マフィア、彼が協力者として昇進させた人々といった恐ろしいものに対して、彼が「mea culpa」を宣言するのを聞くことは決してないでしょう。彼が有名人によるワクチン・キャンペーン支持者になったことについて、信頼できる謝罪の言葉を私たちが聞くことは決してないでしょう。このワクチンは、今日、恐ろしい数の突然死と副作用の原因であることが分かっているのですが。彼はこれらの罪について決して胸を打つ【悔い改める】ことはないでしょう。実際、彼はそれを誇りとしており、誠実に悔い改めるしぐさをしても、彼と同様に罪深い主要な支持者たちから評価されないであろうことを知っているのです。

ですから、私たちは今、嘘つき、告発する者の前に立っているのです。私たちは、昨日や今日の良き聖職者や信者に対する冷酷な迫害者、キリストと教会の敵の熱烈な味方の前にいるのです。カトリックのミサに対する激しい反対者にして、悪魔の典礼と異教の儀式へのエキュメニカルな参加者。バチカンを占拠するセクトの長として、またカトリック教会の異端審問官としての二重の役割によって、霊魂が分裂した男(A man divided【オラフ・ステープルドンの著書を思わせる】)。彼のそばには、侍者としてトルドーがいます。トルドーは、包括性と自由の名の下に、ジェンダー教理とLGBTQイデオロギーを広めていますが、パンデミックの緊急事態を口実に基本的権利を奪われたカナダ国民の正当かつ合法的な反乱を、一瞬のためらいもなく血をもって抑圧しました。

この二人は、間違いなくいいコンビです。二人とも、反キリスト教的なグローバリストのエリートによって、仕事上の支援を受けてきました。二人とも、ある組織を解体し、そのメンバーを散らすという任務を負って、その組織のトップに据えられています。二人とも、自らの役割や正義、真理を裏切る者なのです。

このような即決裁判は、おそらく現代の悪意ある者や無知な者には評価されるかもしれませんが、歴史の審判には堪えられませんし、ましてや上訴できない天主の審判に堪えられるものではありません。

彼が自分の運営管理について説明するよう呼ばれる日が来るでしょう。「Redde rationem villicationis tuæ: jam enim non poteris villicare――会計の報告を出せ、もうおまえを支配人にしておくわけにはいかぬ」(ルカ16章2節)と、昨日の福音のたとえ話に出てくる主人は言っています。そのときまで、洗礼を受けて神秘体の生ける肢体となった者として、これらのスキャンダルが教会と世界に呼び求める罰を私たちから取り除くために、祈って、償いをしましょう。ペトロの玉座に座す告発する者が憤らせてきた、カナダの殉教者たちの取り次ぎを請い求めましょう。カナダの殉教者たちが、現在の災難から教会が解放されるよう、天主の玉座から【恩寵を】取り成してくださいますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年8月1日
聖ペトロの鎖
殉教者聖マカベオ兄弟

 


イエズスの聖心は天主がどれほど私たちをお愛しされているかを訴えている、天主の行なうことは全て愛の結果であると教えている

2022年08月03日 | お説教・霊的講話

2022年6月26日(主日)イエズスの聖心の荘厳祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日私たちはイエズス様の聖心の祝日の荘厳祭を行なっています。
一昨日の金曜日はイエズス様の聖心の大祝日でした。
そこで、去年もそうしましたが、ミサの直後に、司祭の退場の前に、イエズスの聖心の連祷、そしてイエズスの聖心に対して罪を償う祈りを、教皇ピオ十一世の意向に従ってそれをお捧げ致します。また、暁の星聖母修道院の奉献の更新式も捧げたいと思っています。

愛する兄弟姉妹の皆様、イエズス様の聖心の愛を一緒に黙想致しましょう。イエズス様の聖心、この聖心は私たちに、天主がどれほど私たちをお愛しされているかということを訴えています。イエズス様の聖心は、全てが、天主の行なったことは全て、愛の結果であるということを教えています。

私たちはイエズス様の愛に囲まれて生活しています。私たちが出会うお友達、今日見た晴れ晴れとした青い空、美しい大自然、澄み渡る星空、たとえ気が付かないかもしれないけれども、ここに咲いている一輪のバラの花、あるいは私たちが出会う雀の一羽、あるいは私たちを取り巻く全てのものは、永遠の昔からイエズス様が私たちを愛して、創って下さったものです。ここにあるのは、たまたまあるのではありません。イエズス様が愛して下さったので、私たちの為を想って創って下さったのです。愛に囲まれて生活しています。お父さんとお母さん、私たちが食べたご飯、着ている服、全てはイエズス様からの愛の贈り物です。

もしも皆さんが今ここで、聖伝のミサにこうやって与っていることができるのも、主の永遠の昔からの愛の計画でした。その為に聖ピオ十世会を創りました。その為に司祭を準備しました。その為にこの会場も考えられていました。偶然ではありません、愛の計画でした。

その中でも、色々愛の贈り物があるのですが、今日は特に二つ、一緒に黙想することを提案します。

⑴「イエズス様が罪を赦して下さった」ということです。

これはどういうことかというと、私たちがたとえ、たった一つの罪を犯したとしても、どんな小さな罪だったとしても、それを償うことができるのは、イエズス様しかいないのです。

説明します。「罪」というのは、無限に聖なる天主様に対する反乱で、この天主に「嫌だ!」と言うことです。ですから罪には「無限の邪悪さ」があります。ですから、たった一つの罪でも、償う為には「無限の償い」が必要なのです。「無限の償い」ということは、償いに「限りがない」ということです。

どういうことかと言うと、もしも私たちが、全人類が、今ここに地球に生きている60億人の人が皆、毎日涙を流して、「イエズス様、ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」と罪を謝って、断食をして、何も食べない、ほんのちょっとだけお水を飲んで、ほんのちょっと食べて、お祈りにばかり専念して、罪の償いをしようとして、洗者聖ヨハネのように砂漠に行って荒れ野に行って、厳しい生活をした、一生をかけたとしても、足りないのです。

人類の全部がそう生活しても足りません。アダムとエワの時代からずっと生きてきた人が、そして世の終わりまでずっともう数え切れないほどの人たちが一緒になって、涙を流して、断食をして、お祈りをした、罪の償いをしたとしても、足りないのです。なぜかというと、たった一つの罪でも、無限の邪悪さがあるので、無限の償いが必要なのです。

天国にいる天使たちが人間になって、これらの天使たちが全てお祈りをして、血を流すまで償いをして、自分の体に鞭を打って、そして主に憐れみを乞うて、罪を償ったらどうでしょうか?人間と天使たちを全て合わせて償ったらどうでしょうか?

足りないのです。全く足りないのです。なぜかというと、主の「無限の御稜威」が傷付けられたので、「無限の償い」が必要なのです。天使たちも人間たちも「有限」なので、無限の償いをすることができません。ただ唯一、「無限に聖である」天主の御子イエズス・キリスト様だけが、私たちの罪を償うことができるのです。

イエズス様はそれをやって下さいました。十字架を見て下さい。十字架に釘付けにせられて、御自分の血を流されて、私たちの代わりに罪を贖って下さいました。

⑵それだけではなかったのです。第二の点は、ただ罪を赦しただけではなくて、更にもっとプレゼントして下さったのです。なぜかというと、更には私たちに「天国の永遠の幸せ」を、「無限の幸せをあげよう」と言って下さったのです。

考えてもみて下さい。お友達が、いつも親しくしているお友達が、そのお友達に、「あぁ、僕の好きなケーキをあげるよ。僕のあれをあげるよ」と言ったお友達がいきなり、そのケーキを投げつけてきて、「嫌いだ!」と言って、暴力を振るってきて、「お前なんか!」と言ってきたとしたら、このお友達が、お父さんとお母さんの大切なものを盗んで行ってしまったとしたら、そのようなお友達がいたとしたら、本当に怒ります。

でも考えてもみて下さい。人類はイエズス様に、そのお友達がやったように、罪を犯して、善に悪で返した。ところがイエズス様は、その私たちの罪を赦したばかりか、贈り物さえも下さいました。

考えてみて下さい。そのお友達の為に、お友達が学校の先生に捕まって、「あぁ、罰を与える!」と言った時に、「先生、このお友達を許してあげて下さい。僕が代わりに罰を受けます」と言ったのみならず、このお友達に更にもっとプレゼントをしたとしたら、どうなのでしょうか?「えぇ!そんなこと、誰がするのかな!?」

イエズス様は、私たちの為にそうして下さいました。罪を赦したのみならず、天国の幸せを私たちに下さろうとして下さり、私たちが天国に簡単に行くことができるように、七つの秘跡も下さいました。特に、「御聖体」となって世の終わりまで私たちと共にいようと、私たちを恵もうと、私たちの友として、慰め主として、恵みの与え主として、日夜私たちと共に留まろうとされました。

私たちを光で照らして、教えで照らして、私たちを聖心の元に導く為に、イエズスの聖心は「公教会」を創りました。「司祭」を作りました。そして「福音」を私たちの手元に与えました。

全て、イエズス様の愛の結果でした。

私たちの主イエズスは私たちに叫んでいます、私たちを「愛している。心から愛している。全てを与え尽くしている」と。

聖パウロはこう言っています、「キリストが私たちの為に死去されたことによって、天主は私たちへの愛を示された。」(ローマ5:8)「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子」(ガラチア2:)と。その言葉は、私たち一人一人の為に適用されます。

このイエズス様の聖心は、私たちの友です。どのような苦しい時があっても、悲しい時があっても、私たちの友としていつも傍にいて下さいます。友として、私たちを慰める。このような素晴らしい友は、世界に探してもいません。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。」(マテオ11:28)と招いておられます。

この愛に満ちる聖心に私たちは、この愛に愛を以って返さなければなりません。イエズス様の聖心の祝日はまさにこの為にあります。

ところで、このイエズスの聖心は、これほど私たちを愛する聖心は、愛されていません。愛の返答として、冷淡と、無関心と、侮辱と、冒瀆で返礼されています。

ですから今日、愛する兄弟の皆さん、少なくとも私たちは、このイエズス様の聖心に愛を以って、感謝を以って、お礼を致しましょう。御聖体を、愛を以って礼拝して、拝領致しましょう。
イエズス様は私たちを心から愛して下さって、もっと祝福したい、もっとあげたい、もっと恵みたいと、私たちを待っています。イエズス様をお愛しして下さい。

どうしたらイエズス様を愛することができるでしょうか?

罪を避けることで、イエズス様を愛することができます。更には、イエズス様を愛する為に、私たちがお父さんとお母さんの言うことを聞いたり、「はい!」あるいは、イエズス様を愛する為に自分の務めをちゃんと果たしたり、お祈りをしたりすることで、愛することができます。喜ばせることができます。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも、主の聖心を愛して、そして私たちもマリア様に倣って、マリア様の心でその聖心をお愛しすることができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


洗者聖ヨハネの誕生日の祝日:「多くの人はその子の誕生を喜ぶだろう。その子は主のみ前に偉大な人であり、ぶどう酒と酔う物とをのまない。母の胎内から聖霊にみたされる。」

2022年08月02日 | お説教・霊的講話

2022年6月25日(土)洗者聖ヨハネの誕生のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

6月24日が本来の洗者聖ヨハネの祝日、聖ヨハネの誕生日の祝日です。しかし今年はちょうどその日は、イエズス様の聖心の大祝日になったので、洗者聖ヨハネはその場所をイエズス様の聖心に譲って、今日25日に、洗者聖ヨハネの祝日、誕生日を祝っています。

皆様もご存知の通り、公教会で誕生日を祝う聖人は三人だけです。皆、罪が無い御方として生まれてきた方です。イエズス様、マリア様、そして洗者聖ヨハネです。その他の聖人たちは、どれほど聖なる方であっても、亡くなった、天に生まれた日をお祝いします。

⑴洗者聖ヨハネは、では一体どのように生まれてきたのでしょうか?
⑵では今日のその誕生日に、洗者聖ヨハネは私たちに何を教えているでしょうか?
この二つを簡単に黙想しましょう。

⑴すでに時は満ちていました。救世主が、約束されたメシアが生まれる日が来ていました。
その時に、ザカリア、レビ族の司祭、アーロンの子孫、そしてザカリアは非常に高貴な生まれで、神殿で勤めを奉仕していました。その妻はエリザベト(エリザベトもアーロンの子孫でした)、両者とも非常に聖なる方々で、敬虔で、天主の前の道をまっすぐ歩み、一つも掟を軽んじたり、祈りを軽んじたりすることがない方でした。愛徳も積んでいる方ですが、しかしエリザベトには、年を取ったにも関わらず、子供がありませんでした。女性にとって子供がいないということは、メシアの母となることができないということで、大きな恥辱でした。

こうやって年を取って老年となったザカリアは、その日、慣例どおり籤をひき、神殿に行って香を焚いて、祈りを捧げることになっていました。ザカリアが神殿でお祈りをしていると、突然、大天使聖ガブリエルが現れました。ザカリアはそれを見てうろたえおそれます。天使は「おそれるな、ザカリア、お前の妻エリザベトは子を産むであろうから、その子にヨハネという名前を付けよ。あなたはよろこび、楽しみ、多くの人は、その子の誕生を喜ぶだろう。その子は、主のみ前に偉大な人であり、ぶどう酒と酔う物とをのまない。母の胎内から聖霊にみたされ、イスラエルの多くの子らを、天主なる主に立ちかえらせ、エリアの精神と力とをもって主に先だつ人である。」
ザカリアは信じようとしませんでした。主から送られて下さった天使に反論します。
「どういうことから、私はそれを知ることができましょうか?一体、何でそんなことが起こるのでしょうか。妻はもう年を取って、もう子供を産むことはできません。」あたかも、冗談はおよし下さい、とでも言いたかったかのようです。

大天使はザカリアに「私は、天主の御前に立つ大天使ガブリエルである。私は主からのメッセージをお前に告げに来たのに、お前は信じなかったから、口がきけなくなるだろう」と言って、姿を消します。ザカリアはそれ以後、口をきくことができませんでした。神殿から戻ってみると、口がきけなくなってしまったザカリアを見て、皆が驚きました。「一体、何があったのだろうか!?かれは聖所の中でまぼろしを見たのだろう。」

すると、ちょうどそのころに、ザカリアの妻エリザベトは身ごもります。そしてその身ごもった後にエリザベトは月みちて今日、男の子を生みます。今日、洗者聖ヨハネが生まれるのです。

この誕生から3か月前、洗者聖ヨハネが、聖エリザベトの胎内にいた時に、何があったかというと、実は大天使聖ガブリエルが、ザカリアにお告げを告げた六ヶ月の後に、マリア様に現れて、マリア様にもお告げをしていました。マリア様には、子供を産むことだろう、救い主が産まれる、救い主の母になるということを言いました。マリア様はそれを聞いた時に、「一体、男を知らないのに何故そのようなことが可能であるか?」ということを聞くと、すると大天使ガブリエルは、聖霊の力によって、それが可能になる。エリザベトも子供を身ごもった。主の御言葉には不可能なことがないと断言します。そしてその時にマリア様は、「はい」と答えると同時に、聖エリザベトの元に駆けつけて、そして老婦の聖エリザベトのお世話をします。

マリア様が聖エリザベトを訪問した、挨拶の言葉をした時に、胎内にいた私たちの主は、エリザベトの胎内にいた洗者聖ヨハネの原罪を赦して、そして聖寵に洗者聖ヨハネを満たしたのでした。これは皆さんもよくご存知の通りです。ですから、洗者聖ヨハネがお生まれになった時には、罪無くお生まれになりました。

ところでユダヤでは、自分の祖先の名前を子供に付けるという習慣がありました。ですから例えば、ザカリアの子供はやはりザカリアであったり、あるいは祖先の名前を取ります。聖エリザベトはある日、その洗者聖ヨハネに「何という名前を付けるか?」生まれてから八日後、名前を聞かれると、「ヨハネという名前です」と答えました。実はユダヤの習慣によれば、父親が子供の名前をどうしても言わなければなりません。しかしザカリアは口をきく事ができなかったので、その代わりにエリザベトが答えました。

皆は驚いて、「あなたの家族にヨハネという名前はいないじゃないですか?一体なぜ?」
するとザカリアはその時に、聞かれた時に、「この子の名前はヨハネだ」と書いて、そしてその時に、口のもつれが解けて、話せるようになりました。


⑵では第二に、お生まれになった後に、一体この洗者聖ヨハネはどのような生活をしたのでしょうか?

非常に幼い時から、苦業の生活をしました。全く罪が無くて生まれたにも関わらず、一生涯を荒れ野で、祈りと断食と犠牲の生活をしました。ラクダの衣を着て、イナゴを食べて密を食べて、厳しい生活をしました。

では、私たちに洗者聖ヨハネは何を教えているでしょうか?

洗者ヨハネは私たちに、イエズス・キリストから罪を赦された私たちは、そのイエズス様に感謝する為に、主に感謝する為に、主の道を歩まなければならない、罪のない生活を送らなければならない、そしてその為に祈りと犠牲を捧げなければならないことを教えています。

マリア様にお祈り致しましょう。私たちもイエズス様の聖心によって洗礼の秘跡を受けて、罪を赦され、そして洗者聖ヨハネよりも更に大きな御恵みである御聖体を受けて、七つの秘跡を受けた身となりましたので、たとえ洗者聖ヨハネのような厳しい生活はできなくても、祈りと償いの生活を送ることができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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「私の肉を食べ私の血を飲む人は、私に宿り私もまたその者のうちに宿る。生きてまします父が私を遣わしその父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。」

2022年08月02日 | お説教・霊的講話

2022年6月19日(主日)御聖体の荘厳祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御聖体の祝日の荘厳祭を祝っています。これは、この前の木曜日に私たちが盛大に祝うことができなかったので、今日もう一度それを一緒にお祝いしています。ですから、このミサが終わった後で、いつものように感謝のお祈りをして、すこしの休憩の後に、御聖体行列を行ないたいと思っています。どうぞたくさんの方々が参加して下さるようにお願い致します。

これは私からのお願いですけれども、ミサの前に私たちはロザリオを唱えて、ミサによく与るようにお祈りをして準備しています。是非できれば皆さんもそのロザリオに一緒に唱えて下さるようにお願いします。お友達におしゃべりをなさりたいお気持ちはよく分かりますけれども、お友達もミサの前に準備をしたいと思っていらっしゃるので、是非それを尊重なさって、おしゃべりは、ミサが終わって、お祈りが終わってからにして下さるようにお願い致します。

今日は、御聖体の秘跡について一緒に黙想致しましょう。今日特に皆さんに黙想を提案するのは、今日の福音の言葉です。イエズス様が仰った言葉です。「私の肉を食べ、私の血を飲む人は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。」(ヨハネ6:56)そしてこうも言われます。「生きてまします父が私を遣わし、その父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。」(ヨハネ6:57)更にこうも仰います。「このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:58)

このこれらの言葉を以ってイエズス様は、私たちと愛の一致をしたいと、イエズス様は私たちの中に居て、そして私たちもイエズス様の中に留まる、一心同体になるということを仰っています。そして私たちはもはや、生きるのは私の為ではなくて、形だけではなくて、キリストが私の中に生きている。私が生きているのはキリストの為だと、そのようになると仰っています。

だからもはや、この世の為に生きるのではなくて、永遠の為に生きる。そして永遠の為に、永遠に本当に生きるのだ。永遠の命を持つと仰っています。これが御聖体の私たちに与える効果です。

天主はどれほどまで私たちを愛して下さったか、ということが、御聖体に如実に表れています。天主が私たちを無から創造して、それで終わりではなかった。それを統治して、それをちゃんと見守って下さっているのみならず、この全世界を創った方は、私たちを愛するが為に、私たちといつも一緒にいたいが為に、人間となられた。それでも満足できずに、私たちの為に、命を与える為に、御自分の命を与える為に、十字架の上に、私たちの代わりに十字架の上に付けられて、御血を流されて、命を与え尽くした。それでも足りなかったイエズス・キリストは、真の天主は、私たちに御自分の天主の命を与える為に、私たちとピッタリ一致する為に、一つになりたい、その為に何を考えたかというと、発明したかというと、御聖体を作った、私たちの食べ物となった。私たちがイエズス様と一体化する、私たちもイエズス様のようになる、ということも考え付きました。

教会の教父たちは、あるいは教会の博士たちは、あるい聖人たちは、御聖体のことを考えれば考えるほど、私たちを創って下さった主の愛に、もう感謝の言葉を見つけることができないほどでした。一体、主がしもべの為の食事となるとは、食べ物となってしまうとは、一体何という素晴らしいことだろうか!多くの歌や、多くの芸術作品が、御聖体の為に作られました。

では、このような天主の愛に対して、私たちの祖先は何をしたでしょうか?

立派な、大きな大聖堂を造ったり、素晴らしい歌を作ったり、詩を書いたり、文学でイエズス様の愛を表明するのみならず、イエズス・キリストが王として私たちに祝福を与えて下さるように、御聖体行列をすることを欲しました。イエズス様が王として私たちの心に来るのみならず、社会を、街を、祝福して下さいますように。その時には、御聖体の祝日には公休日にして、お休みにして、そして皆が揃ってイエズス様を王として迎えることができますように、その愛を賛美することができますようにしました。

残念ながら現代は、人々の心は、御聖体に対してあまりにも無関心であって、冷淡であって、それを忘恩と冒瀆でお返ししています。イエズス様が受けるのは、冷たい心と、無視、あるいは嘲り、不信仰です。

ですから21世紀に生きる私たちは、特にイエズス様に対して特別の愛をお返し致しましょう。私たちのやることは非常に不足だらけですけれども、しかしちょうど子供がお母さんに、お母さん、お母さんありがとうと言って、落書きのようなお母さんの似顔絵を書いて、そしてママへ、ありがとうと書いたら、お母さんはその子供の落書きのようなクレヨンの絵を見て、どれほど喜ぶことでしょうか。私たちも拙い祈りですけれども、また御聖体行列かもしれませんが、しかしイエズス様は私たちのその真摯な感謝と讃美をしたいという心を見て、どれほどお喜びになって、この私たちのみならず、この大阪、また日本を、また全世界を祝福して下さるに違いありません。私たちはこれを望んでいます。

是非イエズス様が私たちを憐れんで下さって、祝福をますます下さいますように、そしてこの前秋田の巡礼の時にレネ神父様が仰って下さったことを思い出します。たとえこの御聖体行列を見て何も分からない人がいたとしても、多くの恵みをその人たちは受けることは確実です。

例えば、最後にこの話をさせて下さい。ユダヤ教で、最もカトリックに反対していた家庭で育てられた双子の子供がいました。その子らはフランスのリヨンという町に住んでいました。そこで御聖体行列がありました。決してカトリックとは関係を持ってはいけないという風に厳しく言われていたのですが、御聖体行列の音を聞いて、窓から見ると、何か行列がある。そこで、この子供は家政婦さんに聞きました、「これは一体何?ヘブライ語で聞いたそうです。“マンナ?”カトリック信者だった家政婦さんは御聖体だとおしえました。そこからいろいろな質問の答えのやり取りがあり、それがきっかけで、子供たちは18歳の時、秘密にカトリックになりました。ついには24歳でカトリックの司祭になりました。Joseph et Augustin Lémann (1836-1915 et 1836-1909)神父兄弟です。カトリックに反対していたこの家庭で育てられたにも関わらず、御聖体行列の奇跡の恵みによって、カトリックの信仰に導かれました。

願わくは、大阪のこの周囲の方々が、ぜひ御聖体の御恵みによって信仰に導かれますように、日本の多くの方々が導かれますように、お祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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