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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年10月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計110人でした。大阪では34人でした。大阪では四名の新しい方々がこられてとても幸福に思いました。また久しぶりの方々もミサに参加されたので本当に嬉しく思いました。

今日は聖コルベ神父様が無原罪の聖母の騎士会を創立して105周年の日です。インマクラータよ、我らのために祈り給え!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 110 including children.

09:00 mass
M: 21 (incl. 4 children)
F: 26 (incl. 5 children)
Total: 47 (incl. 9 children)

11:30 mass
M: 29 (incl. 7 children)
F: 39 (incl. 4 children)
Total: 68 (incl. 11 children)

Total of 2 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 11 children)
F: 64 (incl. 9 children)
Total: 110 (incl. 20 children)




本性(ほんせい)とは?ペルソナとは? ご托身の玄義とは?|御托身は婚姻の一致にたとえられます。 キリストは大地と婚姻関係を結んだの ではありません。

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月16日は聖霊降臨後第19主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第19主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


良きサマリア人であるイエズス・キリストは、憐れな罪びとをその憐れな状態から救い出そうとする。私たちは憐れな罪びとであることを認めてくいあらためて、憐みを乞わなければなければならない。

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月28日(主日)聖霊降臨後第十二主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖霊降臨後第十二主日のミサを捧げています。

今日8月28日は、聖アウグスティヌスの祝日でもあります。
良きサマリア人の例えの話を、聖アウグスティヌスの解釈によって一緒に黙想致しましょう。

【良きサマリア人:イエズス・キリスト】

聖アウグスティヌスによれば、このエルサレムからエリコに行く途中に強盗に襲われた、そして半死半生になってもう息絶え絶えになっていたこの人は、人類の象りだと言われています。強盗は悪魔であって、私たちに罪を犯させて、そして聖寵の衣を剥ぎ、天主の命を奪っていきました。道でぐったり倒れている人類に対して、ユダヤ教の司祭も、レヴィ人も、何もすることができませんでした。何もしないばかりか、通ってその男を見ると、見ないふりをして、道を避けて、別の方に行ってしまいました。近寄りもしませんでした。全くの無力であるということを示しています。

しかし、イエズス・キリストは、人類を救う為に旅を、天から地上への旅をされていました。
イエズス様はユダヤ人から悪口を言われていました。「彼はサマリア人だ」と。
サマリア人とうのは、ユダヤ人にとって最大の悪口でした。何故かというと、ユダヤ教を信じていない、エルサレムでの神殿で礼拝しない、破門されている。
イエズス様はそのような悪口を言われていましたが、自分はサマリア人ではない、とは言いませんでした。そのような悪口を逆手に取ったかのように、良いサマリア人を例えに出します。

このサマリア人は、この死にかけてぐったりしている人を憐れに思い、近付いて、ブドウ酒で傷口を洗って、そして油を注いで癒して、そして宿屋に連れて行って、自分で看病します。その次には翌日には、宿屋の主にお金を渡して、高額のお金を渡して、看病するように、と言います。

まさにこれは、イエズス・キリストの象りでした。
イエズス・キリストが御自分の御血を以って罪を赦し、そして聖霊の賜物を以って罪を癒し、教会に秘跡を与えて、ミサ聖祭を与えて、私たちを癒すように、罪を癒すようにとお願いしたのでした。

【主の憐み】

日本のカトリック教会によると、日本語のミサが、今度は待降節から変わると聞きました。それによると、「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみ給え」と言うところを、「主よ、いつくしみを 主よ、いつくしみをわたしたちに」と変える、とのことです。「憐れみ」という言葉がなくなります。何故そのように変えなければならない必要があったのか、私には理解できません。

「憐れむ」というのは、言葉をよく理解すると「憐れな人を、その憐れな状態から救い出そうとする」ということです。ですから、惨めで、もう悲惨で、どうしようもない、ということを認めて、それに近付いて行って、そしてそこから救い出してあげたい、それが憐れみです。この苦しむ人と同じ、私も苦しんで、この苦しむ人が苦しまないように、その苦しみから救い出してあげたい。それが、憐れみです。

「憐れんでください」とこい願うことができるのは、自分が憐れな状態にいると言うことを認めているからです。私たちの憐れな状態とは、私たちが罪を犯したということです。罪人であると言うことを認めていることです。罪人である私たちを憐れんでくださいということです。この意味での「憐れみ」は、古語ではありません。古語の「もののあはれ」とは別の意味です。

ところで、現代人は自分を罪人であると言うことを認めようとしません。自分を憐れな惨めだとは思わず、自分が愛されることを当然の人権だと思っています。罪人でも天国に行く権利があるし、救われて当然だ、と錯覚しています。ですから天主の前で跪くことを拒否します。ですから、「主よ、憐れみ給え」と言うことができないのです。その代わりに、当然のこととして「慈しみを、私たちに」と要求するのです。

「慈しみ」というと、かわいらしいお花を慈しむとか、子犬が可愛いから慈しむとか、子供が可愛いらしいから慈しむとか、愛すべきかわいいものに愛を注ぐ心を意味します。慈しむ対象は、愛らしいものです。聖ヨゼフは「天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたるいつくしみあり」と言われるように「いつくしみ」には「敬って大切に世話をする」という意味さえあります。

みじめで、悲惨で、手も付けられないような悪い状態を「いつくしむ」とは普通はいいません。そうではなく、悪い状態をかわいそうに思って「憐れむ」と言います。「あわれむ」と「いつくしむ」は、文語と口語の違いではありません。意味の違いです。

この良きサマリア人であるイエズス様は、罪を犯したがために惨めで憐れな人類に近付いて助けました。主は、悲惨な罪の状態を「いつくしむ」のではなく、みじめな罪の状態を「憐れむ」のです。

【罪と罪人】

ですからイエズス・キリストにとって、私たちは二つのことが区別されなければなりません。
一つは、私たちが「罪人」である、ということです。もう一つは、私たちの「罪」です。

イエズス・キリストは「罪人である私たちを、憐れんで下さる」方です。
ところで「罪人である私たちを憐れむ」ということは、この罪を捨てさせて「罪から救い出す、最も悲惨な罪の状態から救い出す」ということです。つまり「罪」を悪として忌み憎む、ということです。

つい最近、日本キリスト教団出版局からだされた「LGTBとキリスト教」という本を手する機会がありました。その本の中には菊地大司教様のコラム「その尊厳ゆえに尊重し、心を配るべき」が載っていました。

★★★★★★★★★★★★

菊地大司教様は次のように書かれておられます。
"2019 年 11 月に来日されたローマ教皇フランシスコは、2013 年に就任されて以来、「誰ひとりとして排除されない世界」を実現することを、優先課題とされています。東京ドームでのミサで教皇は、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、自らの根幹にある価値観を明示し、「実際に目前にあるいのちを抱擁し、受け入れる態度です。そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています」と、すべてを包括する共同体であれと呼びかけられました。"(ママ)

大司教様はさらにこうも書かれていました。
"倫理の原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されている性的マイノリティの存在にも目を向ける教皇は、「その人の性的指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきで、「不当に差別せず、いうまでもなくいかなる攻撃や暴力もあってはならず、心を配るべき」だと呼びかけています。"(ママ)

つまり大司教様は、原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されているマイノリティの存在にも目を向けるべきであること、その人の指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきこと、不当に差別をせずに心を配るべきだと、言われています。

★★★★★★★★★★★★

しかし残念なことには、それを読むと、「罪人」ということと、「罪」ということの区別はありませんでした。罪が「罪である」とは言われていません。罪を恒常的に犯している状態を、すべてをそっくりそのまま肯定的に受け取らなければならない、そしてそれをそうすることが当然であるかのように書かれています。

ですから、それを読む人は錯覚してしまいます。自然に反する「罪」であっても、尊厳あるものとして尊重する、心を配って大切にする、愛すべきものとして「いつくしむ」べきである、と。「同性愛というのは、聖パウロは『そのような人は、天の国を継がない』と言っている。しかし、今はもうそうではなくなったのだろうか?」

【イエズス・キリストの福音「くいあらためよ」】

もちろんカトリック教会は誰ひとりとして排除しません。誰ひとりとして排除せずに、罪を痛悔することを求めています。何故ならこれこそが福音だからです。洗者聖ヨハネはこう叫びました。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。私たちの主イエズスも教えをのべはじめていわれたことはこれです。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。悔い改める、とは自分を罪人だと認めて、あわれみを乞うことです。

しかし、もしも罪を肯定的に受け入れるのならば、「くいあらためよ」という福音とは異なっています。
もしも罪を捨てなくても罪を犯し続けても尊厳があるものして尊重するのならば、「くいあらためよ」ではありません。
もしも罪人だったけれども悔い改めたので憐れんでくださいと祈る代わりに、罪はそのままでも尊厳がある尊重すべき存在なので、憐れな存在ではないので、「あわれみ給え」ではなく「いつくしんでください」と祈るのならば、主の福音を裏切っていることになります。

しかし同性愛の人や、あるいはそのような罪を犯すような人々は、非常に苦しんでいます。そのような生活から抜け出した時に、本当に幸せになった、と言っている方がたくさんおられます。このようなことは、マスコミでは言われませんが本当のことです。そのような人たちのことを本当に愛するのであれば、私たちはこのような人たちを、そのような状態からなるべく救い出してあげるようにしなければなりません。これが本当の愛徳です。それこそが、本当の主の憐れみです。

イエズス様は、憐れみの業を教会に任せました。罪を憎んで、罪人を愛するように。もちろん愛というのは秩序があって、まず自分の近しい人たちから愛を表していかなければなりません。しかし、もしも生きるか死ぬか、というような状態の時には、もちろんどのような人であっても、私たちはこれを助けるように、愛徳を実行する務めがあります。

聖アウグスティヌス、そしてマリア様に、良い御恵みを乞い求めましょう。私たちがぜひ、主の御助けによって、真の愛徳を実行することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「兄弟たちよ、先に私があなたたちに告げ、あなたたちが受けてそれにふみ止まった福音を、私はふたたび示そう。あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたままを守るなら、それによって救われる。」

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月21日聖霊降臨第十一主日
トマス小野田神父説教(東京)

聖なる日本の殉教者教会へようこそ。

「兄弟たちよ、先に私があなたたちに告げ、あなたたちが受けてそれにふみ止まった福音を、私はふたたび示そう。あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたままを守るなら、それによって救われる。」

父と子と聖霊と聖霊との御名によって、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2022年8月21日聖霊降臨第十一主日です。今日の書簡で聖パウロは「あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたまま【福音】を守るなら、それによって救われる」と断言しています。

【「私が伝えたままを守る」】
「私が伝えたままを守るなら、それによって救われる」なぜかというと、「私がまずあなたたちに伝えたことは、私自身受けたことであるから、私自身キリストから受けたことであるから」と、説明しています。なぜかというと、福音はイエズス・キリストが天主の権威で教え始めて、それを直接受けた使徒たちの権威で私たちに伝えられているからです。

聖パウロはヘブレオ人たちの手紙のなかでこう書いています。「主によってはじめて告げられて、それを聞いた人々から確実に私たちに伝えられたことである」と。

「私が伝えたままを守らなければならない」ということは、同じ聖パウロは、ガラチア人への手紙のなかでも何度も繰り返して力説しています。引用します。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者には呪(のろ)いあれ。私は前にいったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとはちがう福音を告げる者には呪いあれ。…私はあなたたちに宣言する。私が告げた福音は人間によるものではない。また、人間から受けたものでも、教えられたものでもなく、イエズス・キリストの啓示によるものである。」

非常に厳しい言葉です。呪いあれ。なぜかというと、この教えはイエズス・キリストから直接私たちが受けたのであって、使徒たちを通じて受けたのであるから、私たちにはそれを変えることができないからです。

今日の書簡を読むとはっきりとわかることは、伝えられたままを守る、伝えられたままの福音・信仰を、私たちはそのまま踏みとどまってそれを守らなければならない、ということです。そのまま伝えられたままを守るならば、私達はそれによって永遠のいのちを受けることができるのです。そのために聖パウロは命がけでこの福音を、そのままの福音を、伝えようとしました。夜も昼も働き骨折って労苦した、と聖パウロは言っています。

【天主の教会を迫害していたが、恩寵で回心したパウロ】

このような使徒聖パウロですけれども、実はもともとは天主の教会を迫害したものでした。そのことを思って、自分の過去の行ないを考えて、聖パウロは使徒と呼ばれる価値のない、使徒のうちでもっとも小さいものであると、告白しています。ほかの使徒たちは教会を迫害することはありませんでした。しかしパウロは自分でこう言います。極めて激しく天主の教会を迫害し荒らしていた、と。そしてさらにこうもいいます。先には冒涜者、迫害者、暴力者だった、でも特別のお恵みを受けて天主の聖寵を受けて、私はいまの私となった、といいます。突然天からの光が輝きだして、それがパウロを包み、地上に倒れたパウロはイエズス様の声を聴きます、『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』。

聖パウロの回心は今日の福音のイエズスの奇跡の話のようです。イエズス様は一人のどもりで耳の聞こえない人を群集の中から呼び出して、その耳に指を入れて唾をつけて舌につけて天を仰いで吐息をついて、『エッフェタ!』(開けよ)というと、耳は開けて口のもつれは取れて正しく話せるようになったからです。イエズス様は、どもりで耳の聞こえない人を癒すこともできれば、教会を迫害していたような人を改心させることもできます。

聖パウロは恩寵の力を讃えてこういっています。私は福音の奉仕者となった。それは天主の力ある業によって私に与えられた恩寵の賜物によることである。私はすべての聖徒の中で最も小さな者よりも小さな者であるが、キリストの底知れない富を異邦人に告げ、万物の創造主である天主のもとに天主のうちに世々に隠されていた奥義の分配とはなにかということを皆に示す恩寵を受けた、といっています。イエズス様の指つまり天主のお恵みが、使徒聖パウロに働いてその憐れみの業を全世界に告げる使命を受けました。特別のお恵みを受けました。

【恩寵で、信仰の恵みを受けた私たち】

聖パウロは、洗礼を受けた私たちと全く同じ境遇です。ちょうど聖パウロに起こったことと同じようなことが私達にもお恵みで与えられました。信仰の恵みを受けました。ちょうど福音の中で福音の癒された人のように私達も主のことを聞くことができず主のことについて話すことができなかったのですけれど、それが癒されました。ですから、このお恵みを受けたのですから、聖パウロが私達に注意するように、この受けた福音をそのまま変えずに、このまま清く保たなければなりません。教えられたままをそのまま信じ続けなければなりません。

【信仰の恵みをまだ受けていない現代の多くの人びと】

では第二に、今日私たちはミサで何を考えなければならないでしょうか。現代の私たちは改心以前の聖パウロがそうだったようなもしかしたらイエズス・キリストの教えを知らないで聖伝の使徒伝承のカトリック信仰を迫害する側に立っているような多くの人々のことを、知っているかもしれません。あるいはもしかしたら、私たちがかつてそうだったということを思いだすかもしれません。

なぜかというとマスコミやテレビがいろいろゴミのような情報を流しているからです。その情報にどのような価値があるのか疑問に思うかもかもしれませんが、そのような宣伝をそのまま鵜呑みにしてしまって、そしてマスコミとその教えるそのイデオロギーとそれにマッチしていないものは、例えば宗教やカトリックの信仰があたかも悪であるかのように思いこんでしまっているかもしれないからです。そのようなものを無批判に受け入れるような現代の私たちはますますマスコミの毒に犯されてしまって、死の文化、嘘の文化、あるいは嘘の帝国を築きあげようとするそのような悪魔的な計画に、もしかしたら知らずに賛同しているかもしれません。

「死の文化」とか「嘘の文化」というのは、これは教会の教皇様やあるいはある司教様が言った言葉です。どんな内容かというと、たとえば、人間というのは天主から天主の似姿に沿って作られた創造の作品です、ですから誰も無辜の人間の赤ちゃんの命を自分勝手にすることはできません。わたしは男の子が嫌だから、女の子が嫌だから、わたしは病気の子が嫌だから、あるいはその他の理由で、殺害することはできません。しかしそれを、人間の命を抹殺することがあたかも権利であるかのように、嘘の文化は教えています。嘘の帝国を作ろうとしています。

【天主の教会を迫害し荒らそうとするイデオロギー】

あるいはジェンダー論というのがあります。男と女以外にも何かがある、これは嘘です。聖書にも何回も出てきます。イエズス・キリストも何度もおっしゃいました。お前たちは読まなかったのか、初めに天主は男と女を作って、その二人は父と母を離れて一体となる、それが婚姻だ。天主が合わせたものを誰も壊すことができない。しかし新しいジェンダー論によると、男と女以外の何かもあるし、さらには自分が男とだと思えば男だし、女だと思えば女で、それを他の人も認めなければならない、と主張します。もしも認めてあげなければそれは差別だ、それは尊厳を冒している。ですからそのようなことを認めてあげるためには、温泉も銭湯もあるいは自衛隊もそれに開かれていなければならなくて、そのようなことを子供たちにも学校で教えなければならない。もしもそれに反対するならば逮捕される、罰金を払わされる。そのような世界が今作り上げられようとしています。

ですから、神学校もなぜ女性が神学校にはいることができないのか、不当だ、といわれる日が来る危険があります。将来神学校はどうなってしまうのでしょうか。女子修道院はどうなってしまうのでしょうか。修道会はどうなってしまうのでしょうか。女性が司祭になれないのは差別だとか、男性が女子修道院に入れないのは不当な差別だ、ということになってしまうのではないでしょうか。このような動きに、日本におけるカトリックの指導者はどのような声をあげているのでしょうか。

あるいは、あるいはこの大自然、あるいはこの大地が神聖化されて、もっとも尊いものであるかのように、この大自然を守るためであるならば人間が犠牲になってもよい、人間の命がなくなってもよい、かまわない、ただ絶滅危機の種が守られて、あるいは水がきれいであれば太陽空気がきれいであればその方がもっと大切だ、という世界を今マスコミが作ろうとしています。そして残念ながら教会もそれを教えなければならないかのようなことの雰囲気です。

しかしカトリック教会はエコロジーを教えるためにイエズス・キリストから福音を委ねられたのではありません。そうではなくて私たちはもっと、地球からなくなってしまう動植物よりももっと大切なものを守るために、教会に福音をゆだねられました。それは私達の霊魂です。永遠の救いです。私達が罪を犯して地獄の火に落ちないように、天国の永遠にまで導かれるように、そのために教会に福音をゆだねられました。そのために聖パウロは改心しました。その奇跡を受けましたし、そしてそのために一生懸命働きました。

【遷善の決心】

私達は今日どのような遷善の決心をとるべきでしょうか。聖パウロは既にこう警告しています。『人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに耳に快いこと聴かせる教師を集めて、真理から耳を背け、作り話に耳をかたむける時が来るであろう。』

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、私たちはきょう特にお祈りいたしましょう。私達がそのような汚染から守られて変わりない福音をそのまま保持することができますように。またそのようなものに毒されて福音に耳を閉ざしてしまって、あるいは正しい福音を伝えることが、あるいは言うことができなくなっているような人々にも、イエズス様の恵みありますようにお祈りいたしましょう。特に教会の指導者たちのためにお祈りください。司教さまたちがはっきりとイエズスさまの伝えられたままの福音を、霊魂の救いについて、超自然のお恵みについて、説教することができますように、はっきりとものを言うことができますように、お祈りください。

聖パウロは言っています。この伝えた通りを守らないならば私たちは救われることができないから、福音によると、イエズスさまが誰にも言うなといわれれば言われるほど人々はますます言い広めたとあります。

聖アウグスチヌスによると、これは私達に模範を示すためだ、もちろん主は言うなと言えば彼らがもっと言うというということを、言うなと言っても言い広めることを知っていました。知っていながら言うなと言ったということ、禁じたということは、言えと言われた、伝えよと命じられた、ということだ、と。私たちがさらにもっとイエズス様の教えを伝えなければならないということをよく理解することができるためだ、と聖アウグスチヌスは解説しています。ですから私たちも主の教えを恐れることなく伝える力と智慧を請い求めましょう。

明日はマリア様の汚れなき御心の大祝日です。日本の主要の最上位の守護の聖人の祝日です。どうぞマリア様が日本にいる私たちを守ってくださいますように、信仰を守ってくださいますように、私たちの多くの兄弟姉妹同胞が天国に導かれますように、マリア様の御保護で導かれますように、お祈りいたしましょう。

父と子と聖霊の御名によってアーメン


【参考資料】ヴィガノ大司教、選挙について。メローニがイタリア人を裏切らないように願う。

2022年10月14日 | カトリック・ニュースなど

【ヴィガノ大司教の考えを知るための参考資料】ヴィガノ大司教、選挙について。メローニがイタリア人を裏切らないように願う。

―――国家の正義、平和、繁栄は、キリストが支配し、キリストの法が守られ、個人の利益や権力への渇望よりも共通善を優先させるところでのみ得られる。

Viganò on the Elections. We hope that Meloni will not betray the Italians.

2022年9月27日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」(教皇庁のペン)の友人と敵の皆さん、最近の選挙結果に関するモンシニョール・ヴィガノの解説に、皆さんの注意を向けるのが適切だと思われますので、すでにビデオでご覧いただいていますが、ここに原稿を掲載します。どうぞお読みになり、ご覧ください。

§§§

イタリアの現在の政治状況についての考察

最近の選挙から生まれた新しい政治状況は、一部の人々が事前に把握することができた有権者の共通の感情を裏付けています。憂慮される最も基本的な権利の侵害が2年間続いた後、また、イタリアとイタリア国民の利益に反して行動する超国家機関の命令に従うだけであることを示した二つの政権の後、政党「イタリアの同胞」(Fratelli d’Italia)が率いるいわゆる中道右派に権力をもたらした投票は、連立政党のプログラムの控えめな提案をはるかに超える正確な政治路線への支持を明確に表しました。

このことは、何よりも、この同盟関係の中で、唯一の野党として「本能的に」投票に値すると考えられてきたその政党に有利なコンセンサスの再分配が行われたという事実から明らかです。非常に穏健な野党ですが、現実よりも平均的な市民の認識においては、依然として野党なのです。

いわゆる「反体制」諸政党は、断片化され、国会で議席を認められる3%の壁を乗り越えられると確信していますが、全部合わせても投票者は100万人ほどです。これは、辞職しようとしている政府が選挙集会を真夏に開催することを決定した(決して偶然ではありません)ため、主流メディアによって彼らに与えられた知名度が非常に低いこと、また、彼らのプログラムに一貫性がなく、その信頼性と実現可能性が納得されず、投票が分散する運命にあるように思われたことの両方が原因です。

もう一つの強硬派は棄権派で、約36%を占めていますが、彼らは、一般的な「反対意見」に還元するのが難しい、さまざまな正反対の動機を自らの中に持っています。したがって、棄権を政治的に意味づけして、その代表を幻の無投票政党に帰結させようとするのは、まったく筋違いだと私は考えます。なぜなら、まさに投票に行かないという選択は、政治的代表権を持たないという選択も意味するからです。確かに、棄権者の多くは、他者によってルールが決定される、いわばゲームに参加することを受け入れないという意志を表明しています。しかし、これに加えて、些細な興味から、あるいはもっと単純に、言葉では言い表せないほどふさわしくない腐敗した政治家たちに嫌気がさして、投票しない人たちもいるはずです。この点で、「イタリアの同胞」は、部分的に救われました。なぜなら、野党に留まるという慎重さを持っていて、政権に対して時には協力したりしなかったりでしたが、少なくとも公式にはドラギ政権の外にいたからです。

他方、「民主党」(Partito Democratico、PD)は、十分に拒絶されることは決してない急進左翼の象徴であり、ボスたちに対する階級闘争を、グローバリスト・エリートに煽られた貧しい者同士の闘いにすり替えてきましたが、ここも救われませんでした。イタリアの民主党は、共産主義的集団主義の最悪な部分と消費者的自由主義の最悪な部分を組み合わせて、伝統的な社会構造を破壊することだけを目的に持つパンデミック、エネルギー危機、戦争などの緊急事態を利用して、大金融ロビーに利益をもたらすというアジェンダ(行動計画)の名のもとに、行動しているのです。

「同盟」(Lega)、「フォルツァ・イタリア」(Forza Italia)、その他の小政党が選挙で被った打撃は、彼らに投票した人々をいかに裏切ったかに正比例しています。そして、ルイジ・ディマイオの絶対的な矛盾が再選を逃したことで決定的になったのなら、ジュゼッペ・コンテ【元首相。五つ星運動党首】は市民権収入というインセンティブから――交換投票の限界で――利益を得ることができたことは明らかです。彼の示した無能さは、無関心とは程遠い多くの顧客の投票意思を変えることはありませんでした。

「民主党」が失った票の多くは、「イタリアの同胞」に流れ込み、ジョルジャ・メローニの右翼を、それが何であるかではなく、それが何になり得るか、彼女が「何をする」と言ったかではなく、皆が実際に彼女がすると「期待している」ことをさらに裏付けることになりました。それは、自然な家族の保護、生命の尊重、安全保障、不法移民との闘い、未成年者に対するジェンダーやLGBTQ+の洗脳の廃止、企業の自由、戦略的資産における国家の存在、欧州問題における比重、そして、――天主が許し給うならば!――ユーロからの離脱と国家主権の回復です。

要するに、メローニは、穏健な右翼政党のリーダーのように振る舞うことを期待されているのです。左派からの憂慮すべきレッテル貼りにもかかわらず「急進派」ではありません――確かに「極右」ではありません――が、少なくとも、NATOよりの大西洋主義やドラギ政権の行動を特徴付けた自殺的な欧州主義とは足並みをそろえておらず、文明、文化、宗教、イタリア国民のアイデンティティーの破壊に対する思想的怒りから選出されたわけでもありません。

一部の観察者によれば、新しい運動は――意図的に、あるいは単に体制に利用されることを許して――単に架空の反対勢力を形成し、「イタリアの同胞」に投票することによって「しぶしぶ受け入れる」論理を好むように仕向けただけだ、と言っています。

しかし、真実には、二つの架空の反対派が実際に存在します。一つは体制内部のもので、大西洋主義的で親欧州的なものです。もう一つは体制外部のもので、諸派に分かれており、名目上は反欧州的で反大西洋主義的ですが、新しいプログラムとは矛盾する、と少なくとも言えるような過去をもつ人物からなるものです。これらの反体制運動の候補者の多くは確かに誠実な人々で、その多くは「新人」(homines novi)でした。しかし、彼らの存在が、強い不満のシグナルを出すだけでなく、この不満が短期的には前の2回の議会の惨状を是正するための鋭い決断力をもった政府の行動に結びつくことが急務と考えている人々を説得できなかったことは否定のしようがありません。「同盟」と「フォルツァ・イタリア」は有権者の流出が著しく、その動機は、パンデミックとウクライナ危機に関する指導者と主要人物の失脚にあると私は考えています。マッテオ・サルヴィーニとシルヴィオ・ベルルスコーニは、EU、WHO、NATO、そして世界経済フォーラムの操り人形師の命令(dikatats)に従うことにしました。私たちが見てきたように、この悪しき選択は、投票で厳しく罰せられましたが、アスペン研究所(ロックフェラー財団の一部)のメンバーであり、公然と大西洋主義者で親欧州人であるジョルジャ・メローニもほぼ同じ考えであることに変わりはありません。

要するに、「イタリアの同胞」は、党自身が数週間前から政権を引き受けたいと思わないと宣言した役割を担わされ、有権者と選ばれた議員との断絶、市民と政治家の間の断絶が、いわば「願望」という形で繰り返されているのです。何故なら、「イタリアの同胞」はEUの政策にもNATOや米国のディープ・ステートの目的にも疑問を呈するつもりはないためです。

まるで、平均的なイタリア人が、メローニがドラギの政策と公然と連続しているにもかかわらずメローニに投票することを決めたかのようです。あたかも圧倒的多数の力によって、彼女の手を強制して、彼女を大胆にならせ、彼女が選挙前夜までしないと約束していた手段を取るようにさせるようなものです。

また、メローニが「ファシストのように」振る舞うことを「恐れ」、そのために国外追放の恐れがある民主的緊急事態を叫ぶ人々がいるのと同様に、同じく彼女がイタリア人として、愛国者として、そしてキリスト教徒として振る舞うことを願い祈る人々が――確実に「イタリアの同胞」に投票したすべての有権者が――たくさんいます。

また、彼女がキージ宮殿(首相官邸)に行くために【選挙に勝つために】、現実には、彼女が実際の行動でそれを否定することができるような公約を保証したという事実を、彼らは無視することができるでしょう。残るは、初の女性首相が前任者たちと一線を画すことができるのか、それともディープ・ステートに屈し、イタリア国民を裏切り続けることを好むのかということ、見ていくことです。

一方、民主的な投票が主権者である国民の意思を代表する人々を制裁しなければならないとすれば、メローニ自身が、有権者が彼女に過激な選択を要求していること、また有権者が選挙前の彼女の穏健さを単に「市場」を安心させるための戦略的行動と考えていることを考慮しないはずがありません。「同盟」や「フォルツァ・イタリア」の多くのメンバーでさえ、そこかしこの国会議員や知事によるワクチンや戦争屋的な熱意を別にして、好意的に見るであろう選択です。

サルヴィーニ自身が、投票の数日前に、都市封鎖の承認とワクチン義務に関して反省の弁を述べていますが、これは、指導者らによるこれらの政党の意図的な自殺が、草の根の人々にうまく消化されていないということに指導者は気が付いていることを示しています。

同じことが「イタリアの同胞」でも起こっています。ウクライナへの武器派遣とロシア連邦への制裁に関するメローニの立場は、党内の一部で共有されていません。何故なら、これは露骨に自己破壊的であるからで、また、これは国際的な対話相手は大きな変化なく変わらないという誤った仮定に基づくため、です。

11月の米中間選挙で民主党が権力を維持することも、ジョン・ダーラム特別顧問の捜査によって、バイデンやその家族が他の民主党政治家とともに、現在米国の主流派に浮上しているスキャンダルに巻き込まれないことも、絶対確実なことではありません。そして、ドンバスやウクライナのロシア語圏の市民に対するゼレンスキーによる度重なる砲撃の証拠を前に、、ロシアによる併合を求める住民投票の成功を前に、(対ロシア)制裁が欧州諸国にとって大失敗だったことを前に、欧州連合とNATOのウクライナへの介入政策が変わらないとは言い切れません。

最後に、バイデン政権がキエフと近いということで、バイデンが享受している不安定な選挙コンセンサスがさらに損なわれ、ビクトリア・ヌーランドが望む傀儡政権への支持がなくなり、結果としてこれまで頑なにワシントンによって妨害されてきた和平交渉が可能になるという変化の連鎖を引き起こす可能性があります。そして、トランプ大統領の政治的影響力と米国のディープ・ステートに対する敵対宣言があるため、トランプ大統領がホワイトハウスに戻ることになれば、和平交渉がさらに近づき、さらに永続的になることは間違いないでしょう。今日の政治家に、有権者に約束したことを守る才能がないことを、私たちは承知しています。それでも、次期首相が親大西洋・親欧州の立場を見直し、オルド自由主義(ordoliberalism)と左派ウォウク(woke)の覇権に代わる真の右派の役割を取り戻したいと考えるのは適切でしょうか。

この場合、それによって利益を得るのは有権者であり、自分たちが「裏切られた」と考える人々は、そもそもイタリアの欧州委員会への服従協定を規定する権利がないのですから、その違反を主張する権利はないでしょう。イタリアに敵対する勢力の「裏切り」は、徳の高い行為と言えるでしょう。何故ならそれはエリートに簒奪された主権を回復するものだからです。逆に、エリートに従順で、国民の利益に従わないことは、新政府が政権に投票した人々に対して行う裏切り行為となります。エリートがイタリアをボイコットすることが予想される場合(スプレッド、金利、イタリア国家再建・復興計画(PNRR)の撤回…)、何度目かの裏切りにあい、貧困が拡大し企業や労働者を意図的に迫害する状況にある国民が、苛立ちの結果バリケードや抗議をすることが懸念されます。コストと利益を評価する上で、私が望むのは、メローニ政権はわが国に損害を与えるこの破壊的な作戦に加担しないでほしいということです。

金融寡頭政治が、このような可能性を考慮に入れていなかったと考えるのは困難です。むしろ、パンデミックとワクチン詐欺の面で、また世界経済フォーラム(イデオロギー的理由のため)と中国(経済的理由のため)が強く望んでいるグレート・リセット、デジタル移行、グリーン緊急事態の面で、まさに出口戦略を管理し損害を抑えるためであったと考える方が簡単です。

政府や国際機関の活動に重々しく干渉することのできる超国家的な権力によって、非常に深刻なクーデターが行われていることに、多くの人々が気付き始めているようです。ビジネスと仕事の世界では、まず新型コロナウイルス感染症によって行われ、そしてウクライナでの戦争によって行われた、国家経済構造の破壊という意図的な行動が理解され始めています。ドラギが押し付けたあらゆる決定、あらゆる規則、あらゆる法令が、議会の投票の有無にかかわらず、国民、企業、従業員、年金受給者、学生にとって最大の損害をもたらすために意図的に選ばれたものです。死者、病院の満床、企業の閉鎖、失業率の上昇を避けられるものはすべて科学的に除外され、その代わりに、発表された目標とは明らかに対照的な、最も破壊的な行動を実行することになったのです。

今日、私たちは、大量のエネルギーを消費する何千もの企業が、生産を停止するか完全に閉鎖されるかの運命にあるのを目の当たりにしています。なぜなら、退陣するドラギ政権は、支払い価格が10倍も安いエネルギー価格に対する(イタリアの多国籍石油企業)ENIのスキャンダラスな投機を止めるつもりがないためです。市場は、無批判に支配することが許されていますが、それは、アムステルダム証券取引所が各国の経済を破壊し、多国籍企業を不当に潤して、国連の「アジェンダ2030」に従って技術独裁の確立を迫っているエリートの利益に奉仕できるようにするためです。このアジェンダは、今日では小学校から始まる学校での教え込みの教材であり、PNRRの資金を改革や新たな持続不可能な支出削減に結びつけているのです。

グローバリストのナラティブ(物語)が、特に普段主流派から最も影響を受けている階級の間で沈静化の兆しを見せ始めているとすれば、権力者たち――本当の権力という意味での――は、おそらくすでに次のシナリオを準備しており、必然的に群衆がまな板の上にのってほしいと思う身代わりの山羊をいけにえにする計画を組織しているのでしょう。こうして、もはや役に立たない不都合な共犯者を排除し、人々の正義への渇望を満たし、さらには自分たちを救世主や道徳的権威の役割として提示するのです。選ばれたいけにえは、明らかに、サイコ・パンデミックの最も熱心な使徒たち、利害関係のある「ウイロスター」(有名人の偽ウイルス学者)、いくつかの組織の代表、そして、おそらく少数の「慈善家たち」――エリートが非難することによって最も迷惑な競争相手として排除することもできる「慈善家たち」――でしょう。また、遺伝子血清の支持者であり、新異教グローバリズムの大司祭であるベルゴリオ自身が、カトリック信者の非難のいけにえになることも排除できないでしょう。何故なら、カトリック信者たちは、ちょうど市民が支配者の敵意によって苛立つと同様に、敵として扱われることにうんざりしているからです。

ジョルジャ・メローニは、今のところ、「潜在的な」首相です。「イタリアの同胞」が政治家階級全体に対する本当のまた動機付けのある反対の声であることを期待する人々にとって、またそのような反対の声として、脅かされることを許さないで、彼女が力と決意を持って行動することを期待する人々にとって、彼女は「潜在的な」首相です。他の人々が繰り返し失望させて裏切った信頼を彼女に与えることを決めた人々にとって、彼女は「潜在的な」首相です。これは非合理的な意思表示であり、これを動機づけているのは、国家の運命に対する懸念の高まりと、議会での圧倒的多数が新政府に強い選択をするための行動の安全性を与えているという確信とです。彼女は強い選択をするための有権者の支持を得るであろうし、この支持を民意の表現として対応しなければならないからです。彼女は「潜在的な」首相です。なぜなら、その前の二人の首相は、ウルズラ・フォン・デア・ライエンやクラウス・シュワブやジョー・バイデンの給仕に過ぎず、リーダーとは言い難い存在だったからです。

もしジョルジャ・メローニが潜在的にではなく、実際に首相になりたければ、まず第一に、誰からも選ばれていない――しかし民主的に選ばれた政府のトップが非常に深刻な利益相反に陥るたびに、政治的表看板だというしるしを民主的に選ばれた人々に与える権限があると思い込んでいる――人々に立ち向かわなければなりません。この利益相反は、ウルズラがファイザー社のCEOアルバート・ブーラと交わしたテキストメッセージ(ワクチンの巨大取引の交渉)に始まり、世界経済フォーラムへの世界の指導者たちの参加があり、そしてバイデンがウクライナのNASAバイオラボへの融資やキエフの主要エネルギー会社の業務に関わったことで締めくくるものです。

イタリアは、過去に常にそうであったように、真のアイデンティティー、真の歴史、そして御摂理の計画における真の運命についての誇りを取り戻す方法を学べば、復興することができる国です。何十年もの間、イタリア国民は、他のところで下された決定の結果、損害と屈辱以外の何物ももたらさなかったために苦しんできました。今こそ、私たちは頭を上げ、ただ何もせずに打ち負かされることを求める「回復力」を、軽蔑の念をもって拒否しなければなりません。私たち自身のためだけでなく、私たちの子どもたちのためにも、グローバリズムのディストピア世界を拒否し、それと戦わなければなりません。私たち一人一人が、家族を養うための確かな経済的見通しと平和な未来を、疎外や犯罪を感じずに残していきたいと願っています。なぜなら、私たちを貧しくして日常生活のあらゆる面で支配するという唯一の目的で、虫を食べさせ、強制的に奴隷にしようとする人々が立てた破壊的計画に身をゆだねることは、受け入れられないからです。

しかし、これは――私は牧者として、特にカトリック信者に向けて言いますが――イタリア人が、国家の正義、平和、繁栄は、"キリストが支配し、キリストの法が守られ、個人の利益や権力への渇望よりも共通善を優先させるところでのみ得られる"と認識する場合にのみ可能になることでしょう。主に立ち返りましょう、そうすれば主は、私たちの忠実さにどのように報いるかをお分かりになるでしょう。私たちの天の母である至聖なるマリアに信頼をもって立ち返り、私たちの愛するイタリアのために、御子に執り成してくださるようお願いしましょう。

+カルロ・マリア・ヴィガノ
 大司教、教皇大使

2022年9月27日
殉教者聖コスマとダミアノの祝日


聖ベルナルドの聖徳の秘訣:祈りの精神、イエズスの御名に対する愛、マリア様

2022年10月14日 | お説教・霊的講話

2022年8月20日聖ベルナルドの祝日
トマス小野田神父説教(修道院)

父と子と聖霊の御名によってアーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん今日は聖ベルナルドの祝日です。

フィリピンにはブラザーたちの修練院があって、それが聖ベルナルド修練院といいます。聖ベルナルドに捧げられていますので、どうぞ聖ピオ十世会の修道士たちの修練院のためにもお祈りください。

では聖ベルナルドという方はいったいどういう人だったのでしょうか。私達に何を教えているのでしょうか。少し黙想いたしましょう。

聖ベルナルドは、フランスのリジョンの近くのフォンティーヌというところにある裕福な家庭に生まれました。特にお母さんの影響で非常に信心深い生活を送り、そしてお母さんの遺言に従って若いうちからシトー会の修道士となりました。

特に幼少のころから頭脳が優秀で、特に聖書を深く理解するために勉強を好んでしていました。聖ベルナルドが修道院に入会した時には、自分の兄弟たちや自分の友人の多くの男性たちを誘って「一緒に修道院に行こう」と言って修道生活に入ったので、その当時ブルゴーニュ地方にいた高貴な貴族の女性たちは非常に悲しんだとのことです。

若いときから才能があることを示して25歳で修道院長の職を任されました。美しい谷と呼ばれるクレルヴォ―にシトー会の修道院を創立するようにとステファノ・ハルヴィン修道院長に依頼されて(一緒に)修道院を作りました。

その聖ベルナルドは多くの霊魂たちを集めて、そして修道院に弟子たちを集めたので、聖ベルナルドのクレルヴォーの修道院から、その子供の修道院、その孫の修道院と広がって、多くの修道生活の大きな発展を見ることになりました。

いったい聖ベルナルドの秘訣は何だったのでしょうか。それは聖ベルナルドの祈りの精神でした。これは現代の私たちに、そして特に私に非常に多くの警告をしています。

聖ベルナルドの弟子のうちの一人に後に教皇聖エウジニオ三世となった人がいます。自分のもと弟子だった子供のような新しい教皇に聖ベルナルドは慈父の愛をもってこのように警告しています。

「教皇様、教皇様、立派な仕事だったとしても、もしも祈りの生活を失ってしまうならばその教皇の職といえども呪われた仕事となってしまう。」

祈りがわたしたちにとって非常に大切だ、ということを聖ベルナルドはいつも教えていました。ですからたとえ聖ベルナルドが他の所に移動しなければならない、他の修道院を視察にいかなければならなかったとしても、聖ベルナルドが動くところにはいつも修道院が一緒にいるようにその沈黙が動いていたといわれています。私達はどれほど聖ベルナルドに学ばなければならないのでしょうか。

聖ベルナルドの特に愛の対象はイエズス様でした。そしてマリア様でした。有名な聖ベルナルドの言葉は「イエズスの御名に対する愛」であって、イエズス様の御名、聖なる名前は「口には蜜であって耳には美しいメロディであって心には喜びだ」Jesus, in ore mel, in aure melos, in corde jubilus と言っていました。イエズスの御名がないような話は聞いても面白くないし楽しくない、と。聖ベルナルドはいつもイエズス様のことを黙想していたからです。

聖ベルナルドの聖徳のもう一つの秘密はマリア様でした。いつもマリア様を仰ぎ求めていました。

「夜空に輝く星であるマリア様を、いつも道に迷う時嵐のような時どんな時でもマリア様を仰げ、見つめよ、そうすれば私たちは決して道を迷うことがない」とおっしゃっていました。聖ベルナルドの御取り次ぎによって、私たちもイエズス様に対する愛とマリア様に対する愛そして祈りの精神を請い求めましょう。

父と子と聖霊の御名によってアーメン。


聖ヨゼフ・カラサンティは子供の教育の為に働く修道会を作った。一番大切な教育内容は信仰です。

2022年10月13日 | お説教・霊的講話

2022年8月27日(土)証聖者聖ヨゼフ・カラサンティのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖ヨゼフ・カラサンティの祝日を祝っています。

一体、聖ヨゼフ・カラサンティはどのような方だったのでしょうか?
私たちに一体何を教えているのでしょうか?

聖ヨゼフ・カラサンティは、アラゴンというスペインの地方の高貴な家に生まれました。幼少の頃から非常に勉学に優れて頭が良くて、そして司祭になりました。頭が良いのみならず、非常に愛徳の子供でした。特に子供たちにイエズス様のことを、あるいはマリア様のことを教えようとする子供でした。

司祭になった時に、色々な司教様たちから、ぜひ自分の教区で働いてほしいという要請を受けて、スペインで司祭として働きました。特にスペインでペスト、つまり疫病が起こった時に、スペインのいた聖カルロと競うように争うように、疫病で苦しんでいる人々を、病の人々を看病した、と伝えられています。

しかし、マリア様から特別の啓示を受けて、何度も何度も啓示を受けて、そしてローマに行くことになりました。ローマに行って、そしてマリア様の要請によって、子供たちの為に学校を造り、イエズス様のことをマリア様のことを教える学校を造るようにと願いを受けて、そして修道会を創りました。子供たちの教育の為に献身的に働く修道会です。一番大切な教育内容は、もちろん信仰です。永遠の命をどうしたら受けることができるのか?イエズス様とは一体どなたなのか?イエズス様のその愛について、またマリア様について、それを教える修道会でした、学校でした。

修道会総長であったとしても、子供たちを教えることは止めませんでした。霊魂の救いのために全力で働きました。教室のお掃除をしたり、子供の下校に付き添ったりもしました。52年間忍耐強く謙遜に働きました。とりわけ聖母への信心があつく、ある時は聖母が幼きイエズスとともに現れて、祈っている聖ヨゼフ・カラサンティを祝福しました。聖人の取り次ぎで奇跡も起こりました。預言の賜物、心を読む力、遠くでの出来事を知る力などで有名になりました。

1648年、92歳で聖ヨゼフ・カラサンティはローマで亡くなりました。一世紀後に、100年後に聖ヨゼフ・カラサンティの遺体を見てみると、いまだに21世紀の今でも、その舌と心は、そのまま腐敗せずに残っています。これは、イエズス様のことを伝えた舌と、そしてイエズス様を愛した心臓は、腐敗を免れている、ということでした。

一体私たちに何を教えているでしょうか?

イエズス様のことを教える、信仰について教える、無知な人を教える、というのは、これは憐れみの業です。天主に、そしてマリア様にとても心の気に入る憐れみの業です。ですから私たちも機会があれば、もしも私たちにもあるいは日常生活で、イエズス様のことを伝えることができるように、それは憐れみの業としてイエズス様の聖心にとても適うことだ、と私たちに教えています。ぜひ聖ヨゼフ・カラサンティの御取り次ぎによって、またマリア様の御取り次ぎによって、私たちもそれを真似ることができますように、イエズス様について少しでも伝えることができますように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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教皇殉教者聖ゼフィリノが心を砕いたのは典礼をよく捧げるということ、聖徳のある司祭だけを叙階するということ

2022年10月13日 | お説教・霊的講話

2022年8月26日(金)教皇殉教者聖ゼフィリノの記念のミサ ミサの前のお話
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は教皇殉教者聖ゼフィリノのミサを捧げています。この教皇様は、約18年の世の統治の間、特に心を砕いたのは、典礼をよく捧げるということでした。

次に心を砕いたのは、司祭、聖徳のある司祭だけを叙階する、ということです。これに関する勅令も出しています。そのために教皇統治の間にカトリック教会は非常に栄えました。

それ以前の教皇様は、いつもは聖ペトロ大聖堂に埋葬されましたけれども、ゼフィリノ教皇様は、カリストのカタコンベに埋葬されることになりました。

この教皇様を見ると、まさに教皇様のあるべき姿が分かります。イエズス・キリストへの礼拝、イエズス・キリストへの私たちがどれほど崇敬と尊敬を見せるか、そうすることによって私たちが主によりよく服従して、主の御旨を果たして、そして天国への道を確保することができる、ということです。

また教会の聖なる典礼の為に、聖なる司祭が必要である、です。

聖ゼフィリーノに倣う教皇様が私たちに与えられますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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ヴィガノ大司教、「カトリック信者のための全国行進」で「霊的武器をもって戦え」

2022年10月12日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教、「カトリック信者のための全国行進」で「霊的武器をもって戦え」

Archbishop Viganò at the National March for Catholics: Fight with Spiritual Weapons!

Abp. Viganò: The universal Masonic brotherhood fears the power of the Holy Rosary

――――祈って、償いをし、断食してください。しばしば罪を告白し、ご聖体を受けることによって、天主の恩寵のうちに生きてください。聖なるロザリオによって聖母と密接に結びついているのを決してやめないでください。過去に欧州がこの祈りのおかげでイスラム教徒の侵略から救われたとすれば、単純で神聖な「めでたし」の祈りの言葉が、地上のあらゆる場所から天に向かって上がり続けるなら、この世はさらに救われることでしょう。――――

2022年10月1日

マルコ・トサッティ
親愛なる「StilumCuriali」(教皇庁のペンの読者)の皆さん、私たちは、米国のカトリック信者のための全国行進に際して、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教からの力強いメッセージを受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞお読みください、そしてご覧ください。

§§§

DEFENDE NOS IN PRŒLIO
戦いにおいてわれらを守り給え

「カトリック信者のための全国行進」へのメッセージ
「Our Warpath」(出陣の道)

2022年9月29-30日
米イリノイ州ピオリア

親愛なる友人の皆さん、

教会が9月29日にお祝いする大天使ミカエルの祝日に開催されるこの第1回「カトリック信者のための全国行進」(National March for Catholics)で、堅振の秘跡によってキリストの兵士となった人々の軍隊を十字架の御旗の下に集めるために、「Our Warpath」のジョゼフ・リギ会長が、講演するように私を招待してくださいました。ですから、皆さん全員が、私の挨拶と励ましと祈りがあるという保証を受け取ってくださいますように。

理想もなく戦う能力もない社会、臆病な人々の偽善的平和主義が暴君の暴力の前で武器を放棄する社会において、皆さんは真のカトリック信者として、福音の証人となるために、また、聖徳のヒロイズムと天主と隣人への愛が勝ち取る天の国のことをこの世に示すために召されています。皆さんの手に、ロザリオをしっかりと握ってください。ある人々はこれを「宗教的急進主義」の象徴とみなし(こちら)、それによって皆さんの武装を解除し、皆さんの防衛力を弱めようとしています。しかし、聖なるロザリオに対するこのような恐れこそが、さらに大きな確信をもって私たちに、ロザリオをしっかりと手に取るようにさせてくれるに違いありません。

見てください、彼らはついにここに現れました。見てください、彼らはついに公の場に出てきました。彼らこそ普遍的なメーソン兄弟愛を支持する者たちであり、ポンペイの聖母への祈りで「地獄の襲撃における救いの塔、共通の難破船における安全な港」と呼んでいるいと尊きロザリオに対する憎悪を吐き出しています。それ以外にはあり得ません。霊の世界と物質の世界を巻き込んだ戦争において、グローバリストの妄想の背後にいるのは、サタンとその手下どもの専制政治であることを私たちは再び確認したのです。

「国家は宗教を持たない」と彼らは言います。まるで現代人が天主の権威を否定し、個人、家族、社会、国家を天主の主権の下に置くことを拒否することが可能であるかのように。しかし、無宗教と自称するこの国家は、実際には反宗教的で反信仰的です。なぜなら、この国家は、無神論や宗教的無関心を公言することを選びますが、実際には、天主の御稜威を偶像や迷信のレベルにまで引き下げて、天主の御稜威の御怒りを招いているからです。つまり、真理に害を与えて嘘や誤謬と同じレベルに置き、悪意を持って人々を欺いて、私たちを創造されたお方を否定することなく、個人的には掟を守ることができ、公的には世俗的になれると信じさせようとするからです。このお方が私たちを創造した理由は「自己実現」や「共に歩む」ためではなく、創造主にして贖い主なる方を礼拝し、仕え、讃美し、従順に従うためです。私たち一人一人はこの方に属し、このお方がおられなければ私たちは創造されなかったし、救われもしなかったのです。

この反信仰的で反カトリックの「世俗国家」は、聖なるロザリオの祈りを「教皇主義者の迷信」――これは反聖職者主義者や「自由思想家」が行う一般的な非難です――ではなく、彼らを恐れさせる力を持つ真の武器と考えています。世俗国家は、カトリックのミサ聖祭を憎みますが、カトリックの公会議のパロディー版(新しいミサ)は憎みません。世俗国家は、カトリックの教理を憎悪しますが、サンタマルタ館の「教導職」は憎悪しません。世俗国家は、カトリックの道徳を憎みますが、同性愛や気候や移民を支持するために介入するベルゴリオを賞賛しています。世俗国家は、祈り、特にロザリオを憎んでいます。ロザリオは、聖母をニコペイア――すなわち、勝利をもたらすお方であり、全キリスト教が聖なるロザリオの元后として呼び求め、レパントの艦隊がムハンマドの追従者たちを打ち負かすことを可能にしたお方――の称号のもとに、私たちの小さな軍隊のかしらとしているのですから。

この「世俗(無宗教)国家」は、名目上は世俗(無宗教)的ですが、実際には本質的に私たちの主に反抗しており、恩寵の力とは何であるか、祈りと断食の力とは何であるかを知っており、また、ミサの聖なる犠牲の持つ無限の価値についても知っています。そのため、世俗国家は、私たちが宗教を公に表明するのを妨げ、ロザリオという無敵の武器を振るうカトリック信者や、天主の御前にひざまずきはするもののブラック・ライブズ・マターにはひざまずかないカトリック信者のことを、過激派、つまり「過激な聖伝主義者」の烙印を押そうと欲しています。

敵(悪魔)のしもべたちが、聖なるロザリオに対する激しい嫌悪を悪魔と共有しているのは当然のことです。すべての「めでたし」は、天主の御母をたたえるために天に昇り、「罪人なるわれらのために」聖母に執り成しを願い、天使たちの矢筒に矢を加え、この世のかしら【悪魔】のはかない力を打ち砕きます。このかしらは実際には、欺瞞によって世俗と教会の権威を横取りしているのですが、自分の終わりが近いこと、自分の暴政は敗北間近であることを知っているのです。

グレート・リセットとアジェンダ2030の世界、ダボス会議と国連の世界、WHOと高利貸し金融の世界が勝利したように見えます。ベネディクト十六世の辞任と米大統領選の不正選挙の後にはカテコン(katèchon)である二人の人物がいなくなりました。前者は霊的権威、後者はこの世の権威であり、いずれも反キリストの出現に対抗し得るものでした。彼らの代わりに就任したのは、婉曲な言い方をすれば、自分たちが演じる役割とはまったく相容れない二人でした。一人はザンクトガレン・マフィアによって選ばれ、もう一人は米国のディープ・ステートと新世界秩序のエリートたちによって選ばれました。彼らはまた、腐敗した変質者の友人や協力者を選ぶことでも結束しています。カトリック教会は今日、ディープ・チャーチによって蝕まれ、米国はディープ・ステートによって蝕まれています。両者とも、教会には「霊魂の救い」(salus animarum)、国家には「共通善」(bonum commune)という、その制定された目的に反してその権威を行使しています。そして、国家と教会の指導者たちは、両者の破壊のために大きく連携していることが分かります。彼らは互いに会い、賞賛し、売買し、自分が必要とされなくなったときに一掃されないことを望んで、エリートに身を売っているのです。そして、グローバリストのレヴィアタンに身を捧げていることを示すために、キリスト教文明から生まれた社会を思い起こさせるものをすべて破壊するのです。

私たちは、グローバリストの社会における伝統的な世界の「対照群」であり、ちょうど遺伝子血清を投与されていない人々が、パンデミック物語を否定する「対照群」であるのと同じです。対照群とは何でしょうか。実験中、被験者と同じ条件に置かれ、実験の対象となる治療を受けない被験者の集団のことです。「対照群」の機能は、結果が別の原因で起こったという説明を排除し、実験群からのデータが実際に試験される変化物によるのであって、未知の外部影響によるのではないことを確認することです。これが、彼らが私たちを取り消そうとし、見えないようにしようとし、検閲しようとする理由です。私たちの存在そのものが、不正を明らかにし、その犯人を糾弾する比較対象なのです。カトリック信者として、米国人として、抵抗しましょう。なぜなら、皆さんの健康状態、つまり、心筋炎に苦しんでいないこと、不妊にされていないこと、急病に苦しんでいないことは、実験的血清の接種と副作用の相関関係を証明する証拠だからです。

ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)と公権力は、彼らがその昔に犯したのと同じ「罪」のために、主の王権を宣言したために、私たちの主を死刑にすることに再び同意しています。イエズス・キリストを王と認める者は、ディープ・ステートとディープ・チャーチの敵です。なぜなら、この両者は、キリストの帝国に服従し、キリストの法に従うことを拒否するからであり、また、キリストが統治するところには、悪しき牧者や悪しき支配者の入る余地がないことを、彼らはよく知っているからです。

聖なるミサの終わり、最後の福音の後に、聖ミカエルに向かって祈りが唱えられ、「天軍の総帥」として聖ミカエルに呼びかけ、「霊魂を損なわんとてこの世を徘徊するサタン及びその他の悪魔を地獄に閉じ込め」るよう請い願います。その前にある祈りでは、「pro libertate et exsaltatione Sanctæ Matris Ecclesiæ」、聖にして母なる公教会の自由と栄えとのために、司祭は天主のご介入を求めます。この理由で、私たちは、この栄光ある大天使に祈り、この理由で、私たちは聖なるロザリオの祈りと敬虔な信心によって天主の御母を崇敬し、この理由で、司祭は毎日聖なるミサを捧げ、この誤って導かれた世界に、私たちの主のご受難による無限の恩寵を注ぎ込むのです。

米国人の皆さん。米国のカトリック信者の皆さん。民法が武器で祖国を守る権利を認めるなら、主の法は、聖なる教会が皆さんに提供する霊的な武器、すなわち無尽蔵の武器でこの歴史的な戦いを戦うよう要求しています。聖なるロザリオを手に取ってください、ひざまずいてください――大人も子どもも――そして、祈ることによって、皆さんの強さ、勇気、そしてキリスト者としての名誉を示してください。敵に打ち勝つのは人間の軍隊ではなく、大天使ミカエルの持つ十字架の御旗の背後にいて、「キリスト者の助け」(Auxilium Christianorum)なる童貞のご保護のもとにある、天使と聖人の途方もない大軍団なのです。私たちはただ、自分がどちらの側にいるのかを選択し、自分の地位に応じた義務を果たすことが求められているだけなのです。

祈って、償いをし、断食してください。しばしば罪を告白し、ご聖体を受けることによって、天主の恩寵のうちに生きてください。聖なるロザリオによって聖母と密接に結びついているのを決してやめないでください。過去に欧州がこの祈りのおかげでイスラム教徒の侵略から救われたとすれば、単純で神聖な「めでたし」の祈りの言葉が、地上のあらゆる場所から天に向かって上がり続けるなら、この世はさらに救われることでしょう。

皆さん全員を祝福します。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


【参考情報】陳枢機卿、司教シノドスについて語る その2 ------ 現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

2022年10月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】陳枢機卿、司教シノドスについて語る その2

------ 現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

CARDINAL ZEN SPEAKS ABOUT THE SYNOD OF BISHOPS, 2

【解説:以下は、アジアにいる90歳の老枢機卿が、「シノドス性」のシノドスの危険性について警告を出していることの参考資料としてご紹介します。
イエズス・キリストは、公生活の最初から、特別に十二人を選んで使徒としました。つまり、教会の信者の間には、命令するものと従うもの、教える者と教えを受ける者という注目すべき区別があります。イエズス・キリスト御自身が、最初から教会内のこの区別を定められました。教会の、教えにたずさわる部分を教導教会(教える教会 Ecclesia docens)と呼びます。教会の、教えを受ける部分を聴従教会(聴く教会 Ecclesia discens)と呼びます。ちょうど、人間の体において、頭は他の部分と異なりますが、すべてが一つにまとまって唯一の体を構成しているように、教導教会と聴従教会とは、唯一の教会の二つの異った部分を構成しています。「天主は、教会に、ある人々を、第一に使徒を、第二に預言者を、第三に教師を置き、次に奇跡を行う人、次に病気を治す賜物を受けた人、奉仕者、上司、異語を語る人を置かれた。みなが使徒か?」(コリント前12章28~29節)キリストの教会は、キリストの神秘体です。キリストの教会の目に見えない頭(かしら)はイエズス・キリストであり、目に見えるかしらはキリストの代理者としてのローマ教皇です。キリストの教会の主権はイエズス・キリストにのみあり、キリストからのみに由来します。
しかし、第二バチカン公会議以後、教会は「神の民」であるとされました。ちょうど逆さまにしたピラミッドのように洗礼を受けた人々が頂点に立って、教皇が下にあるとされます。(Francis, Ceremony Commemorating the 50th Anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, AAS 107 (2015) 1139, 1141-1142.)「神の民」「司教団体性」「シノドス性(シノダリティー)」の三つのキーワードは、主権が「神の民」にある民主主義を主張しています。「シノドス性」とは、つい最近作られた言葉であり、教会の”本質"では決してありません。「シノドス性」とは、むしろ、キリストの教会の主権をイエズス・キリストから奪い取ろうとする革命の合言葉です。】

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導入:パブロ・トロラーノ神父(Fr. Pablo Trollano IVE)

1回目の講話で、陳枢機卿は、国際神学委員会の文書「教会の生命と使命におけるシノドス性(シノダリティー)」(Synodality in the Life and Mission of the Church)について話しました。

この2回目の講話では、第二バチカン公会議に積極的に参加したにもかかわらず、自分たちの立場が十分に受け入れられていないと感じた一部の神学者たちが反抗して、自分たちなりの公会議の読み取り方の公表に着手し、教会を広範囲にわたって混乱させたことについて話します。

その例として挙げられるのは、いずれも説得力があり、かつ否定的なものですが、「オランダ・カテキズム」とオランダの教会、また召命と信者が急激に減少し今日まで年を追って続いていることです。それは、シノドス性を濫用したり誤って解釈したりした結果であって、統治すべき人々が統治しようとせず、統治する必要のない人々が立ち上がって支配したからです。完全に民主的な教会になってしまうと、イエズス・キリストによって創立された教会ではなくなってしまうのです。それにもかかわらず、今日では、「聖職者主義」こそが、教会全体に影響を与えるシノドス性に対して主な障害物となっている、と言われています。しかし、この診断は正しいのでしょうか。事実が示しているところによれば、そうではなく、今日の教会の主な問題は、聖伝への忠実さが欠けていることと、民主化が行き過ぎていることです。実際、この世で信者を聖化し、この世を聖化するという召命の核心を忘れさせ、信者を教会の指導的立場に押し込むことほど、ひどい聖職者主義はありません。

もう一つの否定的な例は、現在のドイツの教会と「シノドスの道」であり、これはすでに非常に深刻な結果を招いています。ドイツの「シノドスの道」は、完全に世俗化された考え方が結実したものであり、そこには、聖霊の現存は見られません。また、これらすべての誤った理解は、ある意味で、シノドス性に関するシノドスのために聖座から出された「討議要項」(Instrumentum Laboris)の、あまりにも極端な表現によって引き起こされ、推し進められてきたのです。神学校での司祭の養成教育のため、教会内での各自の召命と役割への忠実さのため、信者の積極的な参加のため、そして牧者が群れを治めて導くために、祈ることが必要です。

***陳枢機卿の話の書き起こし***

親愛なる友人の皆さん、前回の講話では、「シノドス性」(synodality)をテーマとする現在のシノドスを紹介し、また非常に重要な文書(「教会におけるシノドス性」)を紹介しました。ローマ教皇庁の準備文書は、その冒頭でそれを引用しており、このことは、それが非常に重要であることを示しています。この文書は、「シノドス性」とは何かを説明しています。中国語訳では「共議同行」、英語では「synodality」です。「シノドス性」は抽象名詞で、(抽象的な)精神を意味しますから、シノドス性の精神です。ただ、精神的(抽象的)なものは、把握するのが難しいものです。

【注:ギリシア語のシノドス(synodos)は現代では「教会会議」という意味で使われている。この単語の語源は、syn(同じ)と hodos(道)とから由来している。最近作られた新しい単語である「シノドス性(Synodality)」という語は「共に同じ道を歩むこと」を意味するとされる。しかし正確な定義は誰も知らない。同じ道を共に歩むことから「共歩性」と訳す人もいる。中国語では、シノドス性(Synodality)は「共議同行」と訳された。ちなみに中国語でSynodは通常「主教會議」と訳される。】

シノドス性には一つの様式が必要で、その形態は教会の歴史の中に見ることができます。この点では、(エルザレムの)第1回公会議が模範となるものです。公会議があり、地域的な司教会議もあり、司教と司祭のシノドスもあります。その優れた例が、前回も触れましたが、トリエント公会議です。この公会議は、非常に危機的な時代に行われたもので、教会は、刷新を大いに必要としていました。この公会議は大変重要なもので、長年にわたって続き、第二バチカン公会議よりも長かったのです。なぜなら、トリエント公会議は3代の教皇にわたって続きましたが、第二バチカン公会議は2代の教皇だったのですから。

第二バチカン公会議の主要テーマは「教会」でしたから、「シノドス性」という概念に関連して、第二バチカン公会議は非常に明確に語りました。すでに「教会憲章」(Lumen Gentium)の第1章で、教会とは何かということが示されています。教会とは天主の現存であり、――男と女がいるだけではなく――天主の現存なのです。第2章は「天主の民」について述べています。天主は、全人類が天主に倣い天主に従順である一つの民となることを望んでおられます。以前は、人々は、教会とは司教と聖堂だけだと思っていたものでしたが、そうではなく、「天主の民」でなければなりません。「教会憲章」の第3章になって初めて、司教のことが語られ始めるのです。ですから、第二バチカン公会議は、上から下へと、下から上へという二つのレベルに区別して、教会を導くのは聖霊である、と言っています。上から下へというのは、教皇、司教、そしてその両者を補佐する司祭という聖なる品級を持つ位階階級によるもので、その下には司祭的、預言的役務を持つすべての信者がいますから、全員が積極的に参加しなければならず、これは非常に明確なものなのです。

今日も話を続けましょう。真理は非常に貴重なものですが、人間は極端になりがちで、時には左に行き過ぎ、時には右に行き過ぎますから、気をつけて、中庸を保たなければなりません。第二バチカン公会議は、教皇ヨハネ二十三世と教皇パウロ六世によって招集されました。当初は希望に満ちていて、非常に困難なプロセスでしたが、成功裏に終了しました。教皇ヨハネ・パウロ一世の名前は非常に興味深いもので、ヨハネとパウロのダブルネームであり、彼はヨハネ二十三世とパウロ六世の路線を踏襲したいと表明しましたが、残念ながら、その後すぐに亡くなっています。教皇ヨハネ・パウロ二世は、こう述べました。「私も、この名前、ヨハネ・パウロ二世を使います。私も、彼らに倣うつもりです。私には私自身の道はなく、公会議が私の道です」。ですから、教会には、この非常に正確な位置づけが与えられました。

しかし、教会の他の人々の場合は必ずしもそうではありません。神学者たちの中には、公会議に貢献したにもかかわらず、公会議が終わると、自分たちの考えが十分に受け入れられていないと感じ、自分の道を歩む人もいました。具体的な例を挙げなければならないのが残念です。最もよく知られている例として、オランダの経験と、今日のドイツの教会の経験についてお話ししましょう。オランダのカトリック教会の経験を見てみましょう。第二バチカン公会議では、オランダから著名な神学者たちが司教に同行して公会議に参加し、重要な役割を果たしました。しかし、公会議は神学者たちが決めるのではなく、司教たちが、神学者たちの意見を聞き、全員で細かく議論した後、絶対多数で最終文書を承認するのです。したがって、公会議に関しては、神学者たちの言うことに注意を払う必要はなく、第二バチカン公会議の教えを知るためには、公会議の文書を読むことが必要なのです。

さて、その神学者たちは、公会議に出席した後、自分たちの言葉が十分に受け入れられていないと感じ、自分たちの立場をひたすら広めようとしました。オランダは、1966年の公会議が閉会した後すぐに、「オランダ・カテキズム」を発表しました。それは当時ベストセラーになりましたが、その理由はそれが非正統的なもので、多くの部分で新しい神学を提案していたからです。もちろん、聖座は非常に懸念を覚え、当時、教皇パウロ六世は改正が必要だと考えていましたが、彼らは改正しませんでした。この神学者たちの後ろ盾を得たオランダの全国司牧評議会は非常に力があり、1970年に司教たちを招いて会議を開きました。司教たちは、その会議が自分たちに挑戦するものであることをすでに知っていました。彼らは、教会は民主的であるべきだ、みんなで教会を統治すべきだ、と言いました。その前に、司教たちは、教会は司教によって統治されなければならないと判断し、抵抗しました。誰が予想したでしょうか。司教たちが会議に出席したとき、神学者たちや信者の群衆を前にして、ついにこう言ったのです。「では、一緒に統治しましょう!」。ですから、司教たちは降伏したのです。これは大きな失敗でした。

その年から、オランダの教会は衰退し始めたと言ってもいいでしょう。オランダでは、伝統的にプロテスタント信者の方がカトリック信者より多かったのですが、1960年代、1970年代、つまり公会議の時期には、オランダではカトリック信者の方がプロテスタント信者より多くなっていたのです。当時、オランダの人口の4割を占めていたカトリック信者は、そのとき以降、次第に減少していきました。教皇ヨハネ・パウロ二世はこのことを懸念し、1979年にオランダに赴いて、司教協議会を招集し、その結果は思わしくなかったものの、できる限りのことをしました。1985年に再びオランダを訪問したいと望み、多くの反対を受けましたが、最終的には行きました。とにかく、教皇の訪問前にオランダの教会で大論争が起こり、非常に大きな集会が開かれ、その日から「5月8日運動」と呼ばれる教皇のオランダ訪問に反対する運動が起こったほどでした。2014年、教皇フランシスコもオランダを訪問する意向がありましたが、地元の司教たちは、教皇に行かないように進言し、自分たちは教皇を迎えたくないのではなく、教皇の訪問についてオランダ人が関心を示さないことを懸念している、と言いました。何と悲しいことでしょうか。

公会議の当時、オランダのカトリック信者は40%でしたが、2003年には30%に下がり、2015年には再び下がって22%になり、その後も毎年減少しています。登録されたカトリック信者と、実際に教会に行っている信者は別です。例えば2006年、信者の数は人口の約20%でしたが、ミサに行くのはわずか1.2%でした。このため、多くの聖堂が閉鎖され、あるものはレストランに、あるものはショッピングモールになりました。本当に悲しいことです。しかし、一番大事なことは、これらの信者の信仰はどうなっているのか、問うてみることです。統計の数字がありますが、2015年の統計によると、天国を信じている信者はわずか13%、人格的な天主を信じる人は17%、イエズスが天主の御子、あるいは天主から遣わされたと信じる人は50%以下、半分以下ですから、信仰が弱まっているのです。もちろん、たまには、立ち上がって、この流れに乗らない司教もいますが、それはごく少数です。ですから、現在、オランダのカトリック教会はほとんど消滅し、聖堂は平日には開いていませんし、聖堂の数はすでに少なくなっていて、開いておらず、開いているのは主日だけです。このことは、教会が天主のご計画に従わないなら、失敗する運命にあることを明確に反映しています。これは、してはいけないことの見本です。私が望むのは、中庸を守り、一方では参加する精神、シノダリティー的に共に歩むことですが、同時に、位階階級の統治を受け入れることも必要です。これは、私たちが注意を払わなければならない経験です。

これは一例です。さて、なぜ私はこのような否定的な状況を問題にしたいのでしょうか。それは、ローマ教皇庁から出された文書について、このシノドス実施のための方向性から、ある種の危険が生じる可能性があると思うからです、なぜなら、いくつかの表現が非常に極端であることが私には分かるからです。この文書は、「シノドス性」は教会の本質であり、これまでもそうだった、と言っています。今日、教会内には、シノドス性に反対する障害物が発生しており、教会全体が、自分に非常に深く影響を与えるこの問題に対処しなければならない、という意見がありますが、影響を与えるものとは何でしょうか。それは聖職者主義です。教皇フランシスコは何度も聖職者主義に言及し、過去のバラストのような聖職者主義の文化から脱却しなければならないと述べています。

過去には、教会に聖職者主義があったかもしれないことは私たちも認めます。実際、権威を行使する者が権威を濫用する傾向があるのは事実です。しかし、現在、教会内にそのような危険性があるのでしょうか。そうではなさそうです。現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

私たちの周りを見ても、聖なる品級に、本当に聖職者主義があるのでしょうか。今日の信者は、聖職者主義を許さないと私は思います。今はみんな多くの情報を得ており、教会に関する知識も増えています。そのため、聖職者主義が強調されすぎていて、性的虐待は聖職者主義が原因だとさえ言われてさえいます。性的虐待は権力者が部下に対して行うものですが、この状況は教会では特に深刻ではなく、むしろ家庭の中に多く存在し、権力者が権力を濫用する、上司が部下を虐待する、というものです。ですから、教会の最大の問題は今、聖職者主義だ、と言うこと、これは必ずしも現実ではありません。

オランダの例は、現在の状況が非常に危険であることを反映しており、ドイツでも同じ状況が生じています。近年、彼らは、いわゆる「シノドスの道」を推進し始めましたが、この「シノドスの道」は絶対的民主主義を望んでおり、信者は、司教と同じ権限、教会の事案について共に投票することを要求しています。彼らが投票した問題は、どれも非常に過激なものでした。

例えば、女性が司祭職に就くことができること――教皇ヨハネ・パウロ二世はすでにそれに反対しており、教会はこの問題を何度も議論していますが、いつも意見が対立しています。ですから、これまで議論されていなかったわけではありません。第二に、彼らは、司教の選出において、信者にもっと重要が置かれるべきだ、つまり、司教は信者によって選出されるべきだと考えていますが、これも正しくなく、司教は教皇によって任命されるのです。

「同性愛の結合は、教会によって祝福されるべきである。同性愛の行為は、罪とみなされるべきではない。教会は道徳を見直すべきである。また、アマゾン・シノドスが助言したように、司祭が足りない場合は、長年結婚して徳を積んだ者も司祭になれる。教会内で、教会の規範に従わない結婚を差別してはならない。同性愛に賛成する者も同じである。教会は、非正規の結婚の状況あるいは間違った宣言のために、彼らを解雇したり、教会で雇用しなかったりしてはならない」。

何というひどい発言でしょうか。また、教皇もそれを知っており、教皇フランシスコは「議論されるのは良いことだ」と言っていますが、私にはドイツのシノドスの道に聖霊の現存が見えませんし、完全にこの世的な考え方のように思えます。

しかし、司教会議では同じ言葉、「シノドス性」が使われました。「シノドス性」自体は非常に良い概念ですが、それを濫用することはできます。今、聖座でこのシノドスを実施している人々は、教会の聖伝を尊重するつもりでしょうか、それとも反乱を起こすつもりでしょうか。極端になった反聖職者主義は非常に危険です。なぜなら、統治すべき人々がそれを行わなければ、統治すべきでない人々が立ち上がって統治するからです。今、聖座は私たちに「シノドス的に」(synodically)歩むことを呼びかけていますが、確かにそれは非常に正しいことであり、教会は最初から「シノドス的な」教会で、最近のエキュメニカル公会議まで、すべてが「シノドス的」でした。しかし、絶対的に民主化すれば、教会はカトリック教会でなくなってしまうのです。

このように表現するのが正しいかどうかは分かりません。「カトリック教会は民主的な団体ではありませんが、参加の精神を持っています」。なぜなら、天主の民も司祭であり、また預言者でもありますが、使徒の後継者たちが教会を率いるという別の役務的司祭職があるからです。

このように言うと、冷や水を浴びせるようですが、そういうことではなく、私たちは注意して、このような危険を避けなければなりません。なぜなら、そこから来る影響は否定的であり得るからです。私たち素朴な信者は、そこに何も不適切なことはないと思うかもしれませんが、例えば反聖職者主義についてのこれらのコメントについて、私は少し懸念しています。聖職者主義が間違っているのであれば、反聖職者主義も間違っています。聖職者主義は司祭職が統率していますが、反聖職者主義とは司祭職がなく、私たち全員が平等だということですから、これは正しくありません。教会の中には、使徒の後継者である聖なる位階階級があり、聖霊が彼らに品級を与え、信者を率いるように求めています。信者は参加し、熱意をもって意見を述べるべきです。

教会で何が起こっているかを知ることは非常に重要です。多くの信者がそのことを知らない可能性があります。例えば、ドイツで何が起こっているのか、です。信者が知っておくべきことはたくさんあります。私たちは謙虚でなければなりませんし、それぞれが自分の責任を負わなければなりません。聖職者は権威主義的であってはなりませんが、信者も反聖職者的であってはなりません。私たちは、天主が与えてくださった規則に従わなければならず、天主が与えてくださった精神を推進しなければなりません。それは参加の精神であり、誰もが積極的に参加し、目的として使徒職を持ちつつ、参加し、集まらなければなりません。困難の真っただ中で、宣教が実を結び、毎年多くの人が洗礼を受けています。

今日の話題は、前回申し上げたことに付け加えると、「シノドス性」は非常に重要で、教会の本質であることは間違いありませんが、どのように行われているのでしょうか。率いる指導者がいて、その人に従う人々が集団の中で組織を持っている、それは無政府主義ではありません。教会を統治するためにイエズスがお選びになった人々が支配しなければ、混乱と混沌が生じ、支配すべきでない人々が立ち上がって支配するようになるでしょう。

そのためには、神学校で私たちの司祭が良い養成教育を受けられるように、司祭や司教が自分の利益を求めるのではなく、天主のみ旨を求め、皆が共に歩んでいけるように、天主にお願いしなければなりません。そのとき初めて、私たちは存続するだけでなく、さらに多くの人々が私たちとともに歩み、すべての人がイエズスの教えを知り、すべての人が教会の秘跡を受けることができるようになるのです。そうすれば、困難な世界の真っただ中で、私たちは正しい方向に進み、永遠の幸福の道を歩むことができるでしょう。


被昇天とは一体何なのか?一体これは新しい教えなのか?それとも昔からあるのか?一体どんな教えなのか?私たちにとってどんな関係があるのか?

2022年10月10日 | お説教・霊的講話

2022年8月15日(月)童貞聖マリアの被昇天の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリア様の被昇天の祝日です。

このミサが終わって、いつものように感謝の祈りをした後に、簡単なおやつを頂いて、聖母行列を致しましょう。

天使たち、天国の聖人たち、三位一体の喜びに、天国の喜びに合わせて、私たちもマリア様をこの地上で褒め称えることができれば、どれほど天国は、マリア様はお喜びになるかと思います。また私たちに祝福の雨を降らして下さると信じております。

日差しが強い太陽が輝いています。私たちはこの周りを回って最後にまたここに戻ってきます。この御聖堂で、マリア様に対する奉献をしたいと思っています。もしも体の調子が良くなくて、あるいは歩くのが少し難しいという方でも、御聖堂の中で留まって下さい。最後に皆さんと一緒にマリア様への奉献をすることができればと思っています。皆様の参加を期待しております。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日はマリア様の被昇天なので、その被昇天のお祝いを致しましょう。

被昇天とは一体何なのか?一体これは新しい教えなのか?それとも昔からあるのか?一体どんな教えなのか?

私たちにとってどんな関係があるのか?

ぜひ今日はそれを知って下さい。そうすることによって私たちは、どれほど天主から愛されているか、ということをますます理解することに致しましょう。

被昇天とは一体何なのでしょうか?

被昇天というのは、マリア様が、マリア様の御体と御霊魂がその離れた瞬間、マリア様の肉体はそのまま腐敗を見ることなく、イエズス様がすぐにこの御体を天に、霊魂と共に天に上げられた、持ち上げて下さった、ということです。私たちはそのようなことが最後の審判の時に、この世の終わりに起こりますけれども、マリア様については既にそれが行なわれた、ということです。これは教会の古代からずっと言われてきた伝えられてきた教えです。色々な文献が残っています。

例えば、その中でも有名なのは、教皇ハドリアノ一世が、シャルル・マーニュ皇帝に、マリア様の被昇天について語った手紙です。

あるいは昔から東方でも西方でも、マリア様の被昇天を祝うミサがあって、典礼があって、マリア様の大祝日の内の一つとして必ず数えられていた、ということがあります。これは典礼があったから私たちがそのようなことを信じたのではなくて、昔からそのような信仰があった、そのように伝えられていたので、私たちは教会はそのような典礼を作って、マリア様を讃美したのです。

例えば東方では、ダマスコの聖ヨハネ教会博士はこんなことを言っています。
「天主の御子は、御自分がお生まれになる時に、クリスマスの時に、マリア様の御体を傷付けようとすることは望まなかった。なぜかというと、人類の傷を回復させようとして来られた方が、マリア様を傷付けることがあってはならなかったから。だからイエズス・キリストがお生まれになる時には、聖母は童貞であることを常に守り、そして何の苦しみもなく、ちょうど御復活されたイエズス様が、壁を通り抜けて部屋の中に入ってきたように、マリア様の胎内から何の痛みもなく生まれてきた。そのような御子が、どうして母親の腐敗を許すことができるだろうか。御子が、御自分の母の体をすぐに天上に上げたのは、非常にふさわしい。」

あるいは、「天主の御子が地上で生まれる時に、その宮殿となったマリア様の御体、生ける御聖櫃となったその御体であるから、マリア様が最後にはその御体を以って天の最高の宮殿に上げられるのは、最もふさわしいことであった。天主の聖霊の浄配であるマリア様が、天の宮殿の、天主のすぐ近くに上げられるのは全くふさわしいことであった。」

その他、ダマスコの聖ヨハネは色々な理由を挙げて、マリア様が天に上げられるのは、あまりにもふさわしかった、罪の為に死が入り、罪の為に苦しみが入ったのであるが、しかしマリア様は罪を知らない御方であった。肉体の腐敗を知らないのがふさわしいことであった、など多くの理由を挙げて、マリア様の被昇天がどうしてもあるべきであった、として私たちに説明しています、説教しています。

たった一人ではありません。教会の博士たち、あるいは聖人たちが口を揃えて、マリア様の被昇天のふさわしさを説明しています。

確かに、マリア様は第二のエワとして、第二のアダム、新しいアダムのすぐ傍におられることが、とても相応しい方でした。第一のアダム、第一のエワは、二人で、善と悪の知識の木の実を盗んで、罪を犯して、楽園から二人共追放された身でした。

しかし新しいアダムと新しいエワは、十字架の木によって、そしてイエズス・キリストという御胎内の実を十字架の木に付けることによって、その罪の償いをして、盗んだものを返した方々です。遂には天国の楽園に二人とも入れられるのはあまりにも当然でした。

今日書簡では黙示録が読まれましたが、黙示録の十二章の直前、つまり、太陽を着た婦人のその直前には、聖ヨハネが天の契約の櫃を見る、ということが書かれています。契約の櫃と太陽を着た婦人は全く一つのものでした。天に現れたしるしでした。福音書も、新しい新約の契約の櫃であるマリア様が聖エリザベトを訪問したことが述べられています。マリア様は、天にある新しい契約の櫃として、天に上げられて、前兆が実現されるべきでした。

では最後に、一体なぜ被昇天があったのでしょうか?
それは私たちに一体、どのような意味があるのでしょうか?

マリア様が第二のエワとして、そして私たちの母として、天の最も高い所に上げられたというのは、つまり私たちの同胞が、人類が、人間の内の一人が、私たちと同じ人間が、天主の力によって、全能と憐れみによって、最も高い所に上げられた、ということです。そしてこの方はマリア様は、私たちの永遠の救いの為に、イエズス様と共に特別に働いた方である、ということです。イエズス・キリストと非常に密接に関係したが為に、罪がなかったにもかかわらず、恐ろしい苦しみをも耐え忍んだ私たちの母が最も高き所におられる、ということです。

このマリア様はしかも、私たちを子供として与えられました。マリア様は私たちのことを、イエズス・キリストと同じ愛を以って愛しておられます。なぜかというと、十字架の上で御子イエズスからそのように任されたからです。ヨハネを通して、私たちも子供として受けるようにと命じられたからです。最も力のある、最も憐れみのある、天の元后が、天と地の元后が、私たちの母として、最も高いところから私たちのことを見守って下さり、そして私たちの為に祈っておられる、ということです。

なぜ、マリア様の被昇天が私たちに先立ってあったかというと、私たちを助ける為でした。天国に導く方として、取り次ぎをする方がいらっしゃる為でした。天主の全能と、憐れみの業でした。

愛する兄弟姉妹の皆様、8月15日はいつも、私たちにとって特別の御恵みの日です。

全カトリック教会は、時を超えたキリストの神秘体の一部として、マリア様の被昇天を讃美致しましょう。私たちが讃美すればするほど、マリア様に対する信心が多ければ多いほど、ピオ十二世は、私たちの聖徳、あるいは教会での御恵みがますますいや増す、と教えておられます。ですから特にマリア様に御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年10月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計120人でした。大阪では23人でした。
東京では、毎回、新しい方々が聖伝のミサに来られておられ、皆さまがカトリックの古来からのミサ聖祭を発見されています。大変うれしく思います。

* アジア管区長サマース神父様の東京訪問の予定 11月6日(主日:ミサは二回:午後に神父様の講話の予定)【大阪には平日7~8日に訪問する予定です】
* 総長パリャラーニ神父様の東京訪問の予定   11月27日(主日:ミサは二回:午後に神父様の講話の予定)【大阪には平日28~29日ごろに訪問する予定です】
* フェレー司教様(聖ピオ十世会元総長)の訪日予定:2023年1月下旬

今週の修道院のミサは通常通り朝7時15分ですが、10月14日(金曜日)だけは例外的に朝6時45分です。ご注意ください。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 120 including children.

09:00 mass
M: 28 (incl. 6 children)
F: 30 (incl. 6 children)
Total: 58 (incl. 12 children)

11:30 mass
M: 29 (incl. 4 children)
F: 39 (incl. 4 children)
Total: 68 (incl. 8 children)

Total of 2 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 10 children)
F: 67 (incl. 10 children)
Total: 120 (incl. 20 children)


私たちが世の終わりの時にいる 三つの理由|毎日ロザリオを唱えてください。私達の生きるこの最後のときに当たって 聖母はロザリオを唱えることに新しい 効果を与えてくださいました。

2022年10月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月9日は聖霊降臨後第18主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第18主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


マリア様とかけ離れている私たちはどのようにしたら良いのか?

2022年10月07日 | お説教・霊的講話

2022年8月14日(主日)聖霊降臨後第十主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2022年8月14日、聖霊降臨後第十主日のミサを行なっております。
このミサの後に、いつもの通り聖体降福式があります、皆様をご招待致します。

明日は8月15日、聖母の被昇天です。やはりここで午前10時半からミサがあります。そしてミサの後には聖母行列も行ないたいと思っています。皆様の参加をお待ちしています。

マリア様は8月15日には、特に日本には、特別の恵みを与えようとしておられます。明日は私たちにとって特別の御恵みの日です。聖フランシスコ・ザベリオが日本にやって来たのも8月15日、そして第二次世界大戦が終結したのも8月15日でした。

明日も三位一体の天主は、マリア様の御手を通して皆様に、皆様の家族に、皆様の霊魂に、特別の御恵みを満ちるばかり与えようとお待ちです。ですからどうぞ、ますますマリア様に寛大に、イエズス様に寛大に、明日の被昇天の大祝日には是非、マリア様を心から讃美するようにして下さい。

愛する兄弟姉妹の皆さん、では私たちは明日の聖母の被昇天の準備を続けていくことにしましょう。

今日の聖霊降臨後第十主日のミサは、まさに聖母被昇天の御恵みをよく受ける為にこれほど相応しいものがあるか、というほどの相応しいミサです。

私たちは金曜・土曜と、マリア様の被昇天を、なぜマリア様がどうしてこれほどまでの高い栄光をお受けになったのか、イエズス様のすぐ横におられ、そしてすべての天使を越えて、天と地の元后として上げられたのか、その秘密を一緒に黙想してきました。

一つは、マリア様の「ご謙遜」でした。もう一つは、マリア様のその「聖徳」、つまり、「主の御旨をいつも果たしてきた」ということ、罪がなかったということ。謙遜と、罪のなさ汚れのなさ、そして聖なる徳でした。

すると、では私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?
マリア様の天の栄光を讃美して、それだけなのでしょうか?

いえ、マリア様は私たちを天に招いておられる、私たちもマリア様のおられる天に行く為にこそ、教会は被昇天を私たちが祝うようにとして、教会はいつも私たちの心を天に上げさせてくれている、ということを黙想しました。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?

何故かというと、私たちはマリア様と違って、罪を犯した身であるからです。この地上で最も最悪の時代に落ちてしまったからです。たとえ私たちが病気をしても、たとえ私たちが怪我をしても、たとえ私たちが財産を失っても、取り返しがつきます。

しかし、大罪を犯して聖寵の状態を失ってしまう、そして天国への道を閉ざしてしまうのならば、地獄に行ってしまうのであれば、永遠の命を失ってしまうのであれば、これほど不幸な事はありません。この世で私たちが起こりうる最悪のこととは、罪を犯すことです。これ以外の悪はあり得ません。なぜかというと、天主を失ってしまうからです。

では私たちは、このようにマリア様とかけ離れている私たちは、どのようにしたら良いのでしょうか?
その答えは、今日のミサにあります、二つあります。

一つは「集祷文」にあります。集祷文では、天主は全能である、全てがおできになる。全てがおできになるその全能は、どのように表されるかと言うと、最高度に表されるのは、「憐れむこと」によって、「赦すこと」によって、それが私たちに示される。天主は全能であることを示したいと思って、憐れみたい、赦したいと思っておられます。

では、このその「憐れみ」ということはどういうことなのでしょうか?

憐れみというのは、憐れな人を、その憐れな状態から救い出してあげて、そしてそのもはや憐れでないようにして、高めて下さる、これが憐れみです。憐れな人をその憐れなままに、汚ないままに、「さあ、そのままでいなさい」というのが憐れみではありません。それは残酷です。

天主は、私たちがどのような惨めな、もう手を付けられないような状態であっても、全能の力を以って、そこから救い出して高めて下さる、つまりマリア様のおられる天の国に上げて下さることができる、ということです。これこそが天主の全能です。「憐れみ」と「赦す」ことによって、最高度に示される憐れみです。

第二の回答は、今日の「福音」に表れます。それは、憐れみを受ける為にはどうしたら良いのか、という秘密です。天主は、全能、憐れむことによって示されますが、では私たちはどうやったら憐れみを受けることができるのでしょうか?

その秘密は、「謙遜」です。謙遜というのは、私たちが天主の与えられたその地位に留まり、それを超えることなく、それを感謝して受けることにあります。私たちが与えられた地位というのは、天国に行くべき地位でした。しかしこれは自分の力でというよりは、天主の憐れみによって行くべき所です。これを認めることにこそ、私たちの謙遜があります。私たちが認めるべきことは、私たちは罪を犯した罪人である、もう主に逆らってしまった身である、ということを素直に認めることです。

そこで今日の税吏は、どうやって主から憐れみを受けるべきか、ということを模範を示してくれました。その罪を認めて、主の御前に出ることさえも価値がないと自覚しつつ、目を天に上げることさえもせずに、うつむいたまま、「主よ、天主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」たったそれだけでした。「罪人である私を、憐れみ下さい。」

この税吏はどれほど多くの罪を犯したことでしょうか。あるいは今までやるべきことをやってこなかったでしょうか。しかし、そのことを天主はきれいに忘れて、義とされて、その男は家に帰って行きました。

それに引き換え、良いことをやったはずの、きちんと守ってきたはずのファリザイ人は、それを自慢して、他の人を軽蔑したが為に、そのまま捨てられてしまいました。

ここに私たちの取るべき模範があります。今日私たちもミサに与りつつ、この税吏の言葉を一緒に、心の中で繰り返して主に祈ることに致しましょう。「主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」マリア様にも、「罪人である私を憐れみ下さい。」私たちの心が謙れば謙るほど、砕かれれば砕かれるほど、自分に空っぽになればなるほど、ますます主は私たちを御自分の御恵みで満たして、そしてマリア様のような高い地位に引き上げて下さるに違いありません。

マリア様にお祈り致しましょう。そのマリア様の持っていたご謙遜を、私たちも真似ることができますように。では、明日の準備を良くすることに致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母は主の御旨を完璧に果たされた。聖母は主の婢女(はしため)として「仰せの如く我になれかし」を完全に実行された。

2022年10月07日 | お説教・霊的講話

2022年8月13日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
あさって8月15日は聖母の被昇天です。その準備を致しましょう。

昨日は、マリア様が天の最も高い栄光に上げられたその理由、「ご謙遜」について黙想しました。
マリア様が、ご自分が被造物であって、主の婢女であるということをよくご存知であった、マリア様が私たちの、天主によって与えられた地位が、主の御旨を知り、それを愛し、主に奉仕するためにあって、そしてそうすることによって天国を受けるべき者となる、という地位のことをよく知っていた、と黙想しました。

今日は特にその続きを黙想することを提案します。マリア様は、「ご謙遜」であったと同時に、「主の御旨を完璧に果たされた」のです。それが為に、天の高き所に、最も高き所に上げられた、ということです。主の婢女(はしため)であり、「仰せの如く我になれかし。」それを完全に実行された、ということです。主の御言葉を聞いたのみならず、主の御旨を果たしたので、最も幸いな者となされた、ということです。

どういうことでしょうか?

「主の御旨を果たした」ということは、これは「罪を犯さなかった」ということです。
マリア様は、特別の特権を持って原罪の汚れなく宿られたのみならず、主の御旨に逆らって主を悲しませるようなことを、その影でさえもなさらなかった、ということです。

罪とは一体何なのでしょうか?罪とは、主の御旨に、「ノー!嫌だ!」と言うことです。

一体誰が罪を犯したでしょうか?悪魔が罪を犯しました。悪魔はどうやって罪を犯したのでしょうか?悪魔というのは、元々は天主から創られた最も美しい最高の天使たちでした。人間よりもはるかに能力がある天使たちでした。光の天使たちでした。

ところが、一回だけ、天使たちに試練が与えられました。天主の御旨に従順であるか、否か。天主の御望みを果たすか、果たさないか。一部の天使たちは、あまりにも自分が受けた御恵みが偉大だったので、知性が素晴らしかったので、意思があまりにも強かったので、能力があまりにも高かったので、これは自分が当然のものであるかのように錯覚していたかのようです。これに思い上がって、天主に「ノー!」と言いました。「嫌だ!それはできない。」全ては天主から頂いたにも関わらず、その主の御旨を果たそうとしませんでした。その能力を主の為に使おうとしませんでした。

その結果は、全てを、天主を失って、地獄へと落とされる、永遠の破滅へと行かなければなりませんでした。

三位一体は、天使たちをどれほど美しく、どれほど知性で飾り、どれほど能力で飾り、どれほどの御恵みを与えてきたことでしょうか。しかし、たった一度の逆らいに、それを全て地獄へと落とすに十分でした。天主にとって何の惜しくもありませんでした。もちろん、悲しかったとは思います、天主は。残念だったとは思います。

しかし、天使たちがこれほどの大恩人である三位一体に逆らう限り、自ら天主を拒む限り、一体どうすることができたでしょうか。天使たちは悪魔になっていったのです。天主から離れていきました。地獄の方に落ちていきました。「天主に仕えない!」

一度の罪で、天使たちは永遠の罰を受けるに相応しい者となってしまいました。傲慢の罪でした。

罪を犯したのは悪魔だけでしょうか?いえ、悪魔だけではありません。人間も罪を犯しました。アダムとエワ以降、全ての人が、私たち全ての人間が、罪を犯しました。

アダムとエワは、人類の最初で、私たちと同じように創られたのですか?

そうではないのです。アダムとエワは、人類の父となり母となるが為に、特別の御恵みを受けて創られました。超自然の恵み、自然外の恵み、つまり不死の恵み、苦しまない恵み、そして動植物を支配する恵み、病も死も苦しみもなく、そして自分の能力を全て理性においてコントロールする恵み、自然に関する広大な知識、動植物の秘密に関する莫大な知識、全人類を教えるにふさわしい父親として、母親として、特別の能力が与えられました。

では、よっぽど天主様はアダムとエワに厳しい、「これをしたらダメ、ダメ、ダメ、ダメ」という掟を与えたに違いありませんね?

そうではなかったのです。アダムとエワは全てが与えられて、全く自由にすることができました。アダムとエワが守らなければならなかったものは、本当に簡単なものでした。地球上のありとあらゆる全ての木と実を自由にしてよかったけれども、ただ一つ、善と悪の知識の木の実だけは、これは食べてはいけない。なぜなら、そうすると死ぬから。

その木の実を食べる必要もなかったし、必然性も全くなかったし、とても簡単なものでした。たったそれをするだけで、永遠の命を得るという特別の御恵みが与えられていました。

では、アダムとエワは簡単にこれを守ったに違いありません。

アダムとエワは簡単にこれを守ることができたはずでした。しかし、守らなかったのです。アダムとエワは、天主よりも悪魔の言葉を信じて、悪いと知りながら、必要もなかったにもかかわらず、天主に背いて、罪を犯しました。まず、エワが、次にアダムが。謝る機会が、謝罪をする機会が与えられました。しかしそれをすることをしませんでした。説明に機会が与えられたにもかかわらず、それを他人のせいに、天主のせいに、なすりつけました。

そのたった一度の罪の為に、アダムとエワ、そしてその全子孫の為に、超自然の御恵みが全て無くされました。それを受けるに相応しい者となりました。そしてもうこれで天使たちが受けたと同じように、私たちももうこれで永遠の命に相応しくない者となって、地獄に永遠に焼かれる身となって当然のことでした。

それにもかかわらず天主は、天使たちには与えなかった特別の特権を、人間に与えました。天主は人となって、救い主となって人間となって、救いに来る。罪の赦しの為に、救いに来る。そしてアダムとエワはその後、残る人生を、何百年という人生を、罪の償いの為に、祈りと償いの人生を送りました。死に至るまで送りました。その責任を取って、厳しい生活を送りました。

では、私たちは一体どうなのでしょうか?

天使たちは、傲慢の罪で地獄に落ちる者となりましたけれども、私たちは傲慢の罪以外に、肉の罪、貪欲の罪、貪食の罪、悪口、冒瀆、不信仰、あるいはその他ありとあらゆる罪を犯してきました。天使がもしもたった一つの傲慢の思いで、天主にノー!と言ったが為に、永遠に不幸を受けることになってしまったのならば、私たちはどれほどこの不幸を受けるに相応しい者でしょうか。

アダムとエワは、たった一つの罪を犯した後に、その罪の結果があまりにも大きいことを、まさか、これほど愛されたので、まさかそれほどのことが起きないだろうと思っていたかもしれません。しかし、その結果、ものすごいことが起こったことが分かり、償いの生活を始めました。

アダムは、たった一度の罪で償いの生活を始めましたが、私たちは一体どうなのでしょうか。多くの罪を犯しましたけれども、まだ罪を犯し足りないかのように、ヘラヘラとしています。

マリア様はどうだったのでしょうか。

マリア様は、イエズス様と共に、私たちの罪の償いを捧げる「共贖者」として、全く罪の汚れがなく、苦しみを当然受けるということがなかったにも関わらず、天主から苦しみを与えられました。極めて大きな苦しみを与えられましたが、それをマリア様は、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と捧げられました。

マリア様ではなくて私たちこそが苦しみ、そして馬鹿にされ、軽蔑を受け、償いを果たさなければならないにも関わらず、私たちに代わって、私たちの受ける何十倍、何百倍もの苦しみを、主と共に苦しまれました。

罪のない方マリア様が、全く罪の汚れがない方であるにもかかわらず、私たちに代わって苦しみを捧げられた方であるからこそ、天の最も高い所に上げられました。イエズス・キリストのすぐ傍にまで上げられました。

マリア様のその被昇天の秘密はここにあります。罪の無さ、天主への従順、ご謙遜。

マリア様に捧げられた土曜日、ぜひマリア様の特別の御取り次ぎを乞い願いましょう。私たちは、マリア様の罪の汚れなさにはとても真似することができませんけれども、しかしマリア様の御取り次ぎで、「主の御旨を果たそう」という、その為に主から送られる十字架を御捧げする力が与えられますように、謙遜の力が、謙遜の徳が与えられますように、自分がどんな身分であるかということを、地位にあるかということを、よくわきまえ知ることができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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