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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考文献】「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル

2024年02月08日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル 
👆PDFファイルは上をクリックしてダウンロードしてください。

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章

「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

C 教理の発展における信者の役割
22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。
23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。
24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

D 「疎外された少数派」の役割
25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。
26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。
27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。
28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。
29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字が意味するものは何でしょうか。

H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

第四章 教会改革

41.どのようなレベルで教会の構造を変えるべきなのでしょうか。
42.これらの変更は典礼にも影響を与えますか。
43.シノドス推進派によれば、教会の主な問題は何でしょうか。
44.聖職者主義をどのように治療するのでしょうか。
45.教会の現在の構造に対してどのような適応がなされるべきでしょうか。
46.この団体主義は緊張や意見の相違を生じさせませんか。
47.この過程は現代の民主主義とどう違うのでしょうか。
48.「共同体的な識別」とは何ですか。
49.教会の統治とはどのようなものになりますか。
50.信者の意見と教皇の意見が食い違う場合、どちらが優先されるのでしょうか。
51.シノドス推進派は、教会生活における共同体的共同責任を正当化するために、どのような神学的根拠を提示しているのですか。
52.「カリスマ」と信者の「役務」をどこまで認めるつもりなのでしょうか。

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】
A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。
54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。
55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。
56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。
57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。
58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。
59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。
60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。
61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。
62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。
63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

E - 家族の破壊
81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。
82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

第六章 でこぼこ道
A 「Synodaler Weg」に反対する反応
83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。
84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。
85.  米国の教会は、いかがですか。
86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。
87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。
88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。
89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。
90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。
91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

B 当惑
92.教皇の反応は当惑を起こしますか。
93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。
94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。
95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。
96.カトリック信者は心配していますか。

C 「ローマ式」妥協に向けて?
97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。
98.この作戦を説明できるでしょうか。
99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。
100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

結論

あとがき


イエズス・キリストの精神、考え、生き方を受けるか否かによって、復活して永遠の命に導かれるか否かが分かれる。イエズスは識別のさからいのしるしとして立つ

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

2024年2月3日(土)お説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はミサの後の感謝の祈りのすぐあとに、聖ブラジニオのろうそくによる喉の祝別をします。ご希望の方は祝福を受けてください。

昨日はマリア様の御潔めの祝日で、シメオンがマリア様に預言をいったことを黙想いたしました。
「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」

シメオンのこのことばを聞いて、イエズス様がさからいのしるしとして立たれるということを私たちは知ります。

イエズス・キリストの精神を、イエズス・キリストのお考えを、イエズス・キリストの生き方を、受けるかあるいは拒否するか、によって、復活して永遠の命に導かれるか、あるいは永遠に滅びてしまうか、その識別のさからいのしるしとして立つ、とシメオンは私たちに言います。

わたしたちがいつもイエズス様の生き方に、イエズス様の精神に満たされますように、お祈りいたしましょう。

イエズス様の精神というのはいったい何なのでしょうか。イエズス様の何を受けるか受けないかによって、わたしたちは決定的に違いが出てくるのでしょうか。それは、十字架の友となるか、あるいは十字架の敵となるかです。

イエズス様の十字架は本当のキリストの弟子を識別させます。総てがうまく行っているときには、あるいは聖徳が敬われている時には、人々はたとえそれが自分を愛する自己愛からでも、あるいは機械的であったとしても、周りの人のよい模範に助けられて、多くの人が信仰生活を送ることが容易にできています。しかしもしも反対や迫害や十字架に直面すると、そのときにいままで機械的に形だけでやっていた人、あるいは偽善的にやっていた人、あるいは実は冷淡だった人は、それにひるんでしまいます。そして十字架に直面すると、主をほんとうに愛した人だけが残ります。十字架の下でも、聖金曜日にそうでした。その時に多くの人々の秘かな思いが明らかにされます。

わたしたちの信仰生活は何に基づいているのでしょうか。わたしたちの動機は何でしょうか。人の称賛を受けること、だけを熱心にしているのでしょうか。それとも隠れたことや卑しいことをわたしたちは熱心に行うでしょうか。それともおろそかに行うでしょうか。わたしたちがもしもよいことをしてもそれが評価されないと、やる気をなくしてしまうのでしょうか、それともイエズス様のためにおこなったので、それでもやり続けようと思うのでしょうか。

わたしたちは、わたしたちの聖徳はイエズス様への信仰と愛のうえに基づいているのでしょうか。それとも自分を愛するという砂の上に立っているだけなのでしょうか。わたしたちはすべてを、イエズス様をお喜ばせするために行っているのでしょうか。それとも、自分のやりたいことなのでしょうか。わたしたちが軽蔑を受けたり、失敗した時にわたしたちはそれでも主を讃美し主に感謝するでしょうか。十字架はイエズス様の本当の弟子か否かを識別させてくれます。

またシメオンは言葉を続けてこういいます。
「あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」
イエズス様に属する者は苦しみを受けなければなりません。

マリア様はいつもイエズス様に従いました。だから、シメオンはマリア様の心も剣で貫かれると預言しました。天主の友は、十字架の友で、イエズス・キリストのように苦しみを受けて、キリストとともに苦しみを分かち合う友です。イエズス様をお愛しすればお愛しするほど、わたしたちには友として、苦しみの杯になみなみと酒が苦しみの盃に注がれます。でもイエズス様から送られた苦しみは、十字架は、私たちを清めます。功徳を積ませます。主とますます一致させます。そして天国の栄冠を準備し、イエズス様とますます似通ったものとさせてくれます。私たちは、ともすると、十字架の価値、苦しみの本当の価値を忘れがちです。

最後に日本の殉教者たちに祈りましょう。この御御堂は日本の聖なる殉教者たちに捧げられています。ふさわしくない私たちですけれども、マリア様の御取次によって、本当の苦しみの価値を理解することができますように。そして、マリア様の御取次と殉教者たちの模範に従って、苦しみを受けいれる勇気と力が与えられますようにお祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年2月2日 お潔(きよ)めのミサの前に、儀式の説明

愛する兄弟姉妹の皆様
ロウソクの祝別の儀式の始まる前に少しお話しさせてください。この儀式にどのような心構えで与るかということをお話しいたします。
今日のお潔めのミサの前には、ロウソクの祝別と、祝別されたロウソクの配布、それから受けたロウソクに火をともしてのロウソク行列があります。わたしたちはこれを持って一階に降りてこの駐車場のところをまわってロウソク行列を行います。その行列が終わりましたら、すぐにミサが始まります。
今日もしもロウソクを祝別したいという方がいらっしゃいましたら、この祭壇の近くの机の上に置いてください。今日の特別のお祈りで祝別いたします。

ではいったいどのような心構えでわたしたちはこのロウソクの行列の式に与るとよいのでしょうか。それは、私たちは聖シメオンと同じように、その聖シメオンがイエズス様と出会った、その時と同じような心構えです。その心でロウソクの式に与りましょう。

祝別されるロウソクは、世の光であるイエズス・キリストを象徴しています。私たちがロウソクを受けるというのは、ちょうどシメオンが主に会いたい、救い主が来ることを心待ちにしていた、あるいは一生かけて待ち望んでいたということです。

約束の救い主が、ちょうどマリア様がお潔めの式に神殿に昇られる時に、マリア様は普通の一般の女性のように見えるけれど、イエズスさまは普通の赤ちゃんのように見えるけれども、シメオンは聖霊によって、この方こそが、預言されていたメシアだと理解しました。

シメオンは、群衆の中をかき分けてマリア様に会いに行きました。おそらくマリア様にどうぞこの赤ちゃんを抱かして下さいとお願いしたに違いありません。待ちに待った救い主はこの方です、と。マリア様はおそらく少しは驚いたでしょうけれども、すぐに理解されて、救い主イエズス様をシメオンにお渡しします。シメオンと同じように、マリア様の手からロウソクを受けてください。

世の光がわたしたちについに与えられた。この赤子こそ異邦人を照らす光、またイスラエルの栄光である、とシメオンは歌います。
この子は、真理の光、誤りと罪の暗闇を追い払う光からの光、正義の太陽です。
この幼子こそ、本当の永遠の栄光です。この世が私たちに約束するはかないうつろな栄光ではなく、陰りのない果てしなき栄光です。

シメオンが歌ったように、わたしの目は主の救いを見たから、もうすぐにこの世を去ってもよい、という思いでこのロウソクを受けてください。そのあとではロウソクに本当に火をつける…世の光であるイエズス・キリストをわたしたちは受けます。真理の光を受けます。そしてその愛の熱を受けます。

ただ光を受けただけではなりません。教会はどうしてもこの世の光を教会の外に出して、行列を行って、多くの人にすべて人に、イエズス・キリストの光を受けるように、この光で照らされるように、愛によって暖められるように、と、望んでいます。

でもそのためにはわたしたちがキリストと一緒に外に出て、キリストの光をもたらさなければなりません。ですから、私たちはイエズス様と一緒にいるということを何もおそれないでください。イエズス・キリストこそが唯一の世の光であって、そしてイスラエルの栄光である。このほかには救いはありません。この光を世界にもたらすために、どうぞイエズス様に協力なさってください。

そして、わたしたちはこのお御堂に戻ってきて、ミサに与ります。考えても見てください。世の光、まことの救いをうけるお恵みが与えられたという特別のお恵みを、考えてください。全人類が何千年も待っていたその救い主がわたしたちに与えられました。そしてわたしたちはその光によって、道を照らされ、それからイエズス・キリストの御体さえも受けることができます。御聖体拝領、教えを受け、お恵みを受け、イエズス・キリストのそのすべてを受けることができます。この恵みに感謝いたしましょう。

このイエズス・キリストこそがわたしたちの栄光のもとであって、イスラエルの本当のわたしたちの栄光です。もしも人々の前で私のことを宣言するなら、わたしもお前たちのことを御父の前で宣言する。しかしもしもわたしのことを恥じるなら、わたしもお前たちのことを恥じる。わたしたちは栄光を誇りに思うことにいたしましょう。主が私たちに与える本当の栄光は、この世の栄光を受けるようなやり方では得ることができません。何故なら、イエズスの精神とこの世の精神は正反対だからです。

シメオンはイエズス様をマリア様に預言しました。この子どもは多くの人の救いと滅びのために立てられる逆らいのしるしなのだ、このイエズス・キリストによって、イエズス・キリストを受けとることによって多くの人は救われる。しかし、イエズス・キリストを拒否することで、キリストに反対することによって、人々は滅びてしまう。その逆らいの印となる。わたしたちは、わたしたちの愛する人々がイエズス・キリストを受け取ることができますように、お祈りいたしましょう。

マリア様にも仰います。あなたの心も剣(つるぎ)で貫かれるだろう、イエズス・キリストを愛すれば愛するほど、イエズス・キリストの苦しみにますます参与しなければならない。イエズス・キリストと似通ったものにならなければならない。マリア様は一番苦しむだろう。心は剣でグサグサに痛めつけられるだろう。

わたしたちも、このミサ、祈りをささげてマリア様の心をお慰めいたしましょう。

今日は初金曜日ですから、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に、今日のミサ・御聖体拝領をお捧げいたしましょう。ではいまから聖なる儀式が始まります。


2024年2月7 日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年02月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年2月7 日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるのか?

2024年02月06日 | お説教・霊的講話

独身の召命についての説教

ドモルネ神父 2024年2月4日

はじめに

天主が人を召される身分はさまざまです。天主は人類の増加のために結婚を定められました。したがって、結婚への召命があるのです。つまり、天主は、一部の男女をこの身分に召されるのです。天主は、ご自身の恩寵を人類に伝えるために、イエズス・キリストにおける司祭職を打ち立てられました。ですから、司祭職への召命があり、天主はそれに一部の男性を召されるのです。天主は私たちの創造主であり、人が完全に天主に奉仕し、完全に天主を賛美することを期待する権利をお持ちです。ですから、天主は、清貧、貞潔、従順の三つの誓願を通して自らを完全にご自分に奉献するよう、一部の男女を召されるのです。

私が前回フランスに行ったとき、ある若い女性から、この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるかどうか聞かれました。これは興味深い質問で、私たちの時代において、より重要な意味を持つようになりました。そこで今日、私はそれに答えたいと思います。

1.独身への召命の存在

天主が私たちを創造されたのは、天主の永遠の命と無限の幸福を私たちに分け与えてくださるという目的のためです。私たちは、私たち自身の人間の力ではこの目標に到達できませんから、天主ご自身が私たち一人一人のために、この目標を達成するための計画を立ててくださいます。天主は、私たち一人一人を、私たちに最も適した方法によって、天主への完全な愛、天主における私たち自身と隣人への愛へと導いてくださるのです。私たち一人一人に対する天主の計画は、愛の計画です。この重要な真理を、特に苦しみの時に、決して忘れないことが大切です。天主は私たち一人一人に、永遠の命への道をさまざまな方法で明らかにしてくださいます。その方法とは、教会の教え、内的霊感、長上が命令すること、そしてもっとも多くの場合、人生の状況を通してです。

結婚にも、司祭職や修道生活にも魅力を感じない人もいます。このような人は、利己的でもなく、結婚の義務を恐れているわけでもありません。結婚したくても、そう望むにもかかわらず、適当な相手が見つからなかったり、生活の事情で独身を貫かざるを得なかったりする人もいます。そのような人たちの生活の状況によって、彼らを、天主は独身という道に導かれます。天主は、彼らが聖性を獲得するためには、このような身分で生きることによってであるように計画されたのです。教皇ピオ十二世は1945年にこう述べています。「自分の望みにもかかわらず未婚のままでいるものの、父なる天主の御摂理を固く信じている若いキリスト教徒の女性は、(…)人生で誠実な伴侶を望んだり、家庭を築きたいという望みを犠牲にするようになります。そして、結婚が不可能であることに直面して、自分の召命を垣間見るようになるのです。その後、いささか失意のうちに、しかし、天主のご意志に従順に、多くの愛徳のわざに完全に専念します」(女性へのメッセージ、1945年10月21日)。

ですから、修道生活における奉献された独身という召命とは異なる、この世における独身という召命が存在するのです。

2.独身の召命と母性の召命

特に女性の独身という召命に関する疑問があります。天主が女性を男性とは異なる存在として創造されたのは、女性には母性という特別な使命を与えられたからです。肉体的にも霊的にも、女性は母性のために造られています。では、女性の独身への召命を語ることとは矛盾しないのでしょうか。いいえ、なぜなら、肉体的な母性と、霊的な母性が存在するからです。

霊的な母性とは、霊魂たちが天主の子となり、天主の子として霊的に成長するように世話をすることにあります。自分の使命に忠実なカトリックの母親においては、肉体的な母性と霊的な母性が一体となっています。子どもに肉体的な命を与え、子どもが肉体的に必要とするものを提供するだけでなく、洗礼と健全なカトリック教育を通して、子どもたちが天主の子となるように気を配るのです。しかし、霊的な母性は、肉体的な母性と必ずしも一緒にあるわけではありません。それ以上に、天主がそのような犠牲をお求めになるならば、肉体的な母性を進んで犠牲にすることによって、霊的な母性はもっと広がるのです。天主が私たちに肉体的な豊穣さを犠牲にするようお求めになるとき、それは私たちを不妊にとどめるためではなく、天主の霊的な豊穣さに私たちをより密接に結びつけるためなのです。天主は本質的に豊穣です。実際、聖三位一体における天主の親密な生活は、三つのペルソナの間の友情の完全な愛の生活です。しかし、友情の愛は、他人に善を行うよう促します。ですから、天主は本質的に豊饒なお方であり、ご自身の天主の命を私たちに伝えたいと願っておられるのです。私たちが進んで天主のご意志を受け入れて天主に一致するとき、私たちは必然的に天主の霊的豊穣の協力者となります。あるドミニコ会の神父は、かつてこう言いました。「天主のご意志を受け入れることは、常に偉大な豊饒の法である」(カレ神父)。

今申し上げたことは、男性と、霊的な父性にも当てはまります。

ですから、この世における独身という召命は、女性の母性への召命や男性の父性への召命と矛盾するものではありません。

3.この世における独身への召命の目的

次の疑問は、この世での独身への召命の目的は何か、ということです。聖パウロはコリント人への書簡の中で、この問いに答えています。「妻のない者は、どうして主を喜ばせようかと主に属するもののことを気遣う。しかし、妻がいる者は、どうして妻を喜ばせようかと、この世のことを気遣い、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを考える。しかし、結婚している者は、どうして夫を喜ばせるようかと世のことを考える」(コリント前書7章32-34節)。独身でいる理由は、天主のことをもっと思うためです。言い換えれば、肉体的な豊穣を放棄するということは、一部の人々が天主の求めておられる完徳を達成するために、天主が設けられた手段なのです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それは、天主がその人をご自分とさらに親密になるように召されることを意味します。天主はその人の愛の能力をご自分のために確保されます。ですから、その人は自分の人生において天主を中心に据えるべきなのです。天主なき独身は無意味です。それでは真っ当に生きることはできませんし、それに耐えることさえできません。天主なしでは、孤独は耐え難い重荷となります。ですから、自分の人生で天主を中心に据えない独身者は、自分のための天主のご計画にそぐわず、必然的に何らかの感情的、心理的不安定さに陥ることになります。この世の独身者は、修道者ではありません。天主は、独身者が聖務日課を唱え、修道者のすべての霊性修練を毎日行うことを期待なさってはいません。しかし、祈り、福音の黙想、霊的読書、秘跡を受けることをしなければなりません。それらは独身者のすべての活動の霊的な源であり、独身者の平静を保証するものだからです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それはまた、天主がその人に、他人に対する特別な霊的豊穣をお求めになることを意味します。申し上げたように、天主は豊穣です。私たちが天主と一致すればするほど、私たちは天主の霊的豊穣にあずかることになります。天主のご意志に従って家庭を築くという犠牲を自発的に受け入れることは、内向性や利己主義につながるものではありません。それどころか、それによって独身者は、自分の家族よりも多くの人々に関心と愛徳を向けることができるようになるのです。独身への召命においては、その人の本性、気質、知性、情緒というすべての資源が霊的豊穣のために動員されます。天主は独身者に、自分の愛の能力を最大限に発揮して、他者において天主を愛するよう求めておられるのです。ですから、私たちの主の次のみ言葉は、司祭や修道者だけでなく、この世に生きる独身者にも、あてはまるのです。「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てた者はみな、その百倍のものを受け、永遠の命を得る」(マテオ19章29節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、この世で独身であることは、一部の人々が考えているのとは逆に、自分の召命を逃したとか、人生に失敗したということを意味しません。この世における独身という召命は、天主のご計画に従って存在するのです。教皇ピオ十二世は、私たちの時代において、天主はより多くの人々をこの召命に召しておられる、と言うことをためらいませんでした。実際、教会は、世界の脱キリスト教化と闘い、霊魂の救いのために働くために、これまで以上にこのような召命を必要としているのです。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」結論とあとがき

2024年02月05日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

結論

教会に差し迫った危機に対する警鐘の最初の叫びの一つであり、今日、熱狂的な盛り上がりを見せていると多くの学者が信じているものの80周年記念日に本書が出たのは、おそらく偶然ではないでしょう。ブラジルのサンパウロのカトリック・アクションの大司教区委員会の当時の会長だったプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラによる1943年の著書「In Defense of Catholic Action」です。この著作の中で、このカトリック指導者は、新近代主義や左翼主義の誤謬が教会に広く浸透していることを糾弾しました。

当初から、私たちは、…この悪は、非常な巧さと、技術と、勧誘能力の高さで広まっていることを指摘していた。
したがって、カトリック内部が全般的に無警戒な雰囲気の中、私たちは皆の注意を喚起するために警鐘を鳴らす必要があった」(181)。

このような初期の進歩的な提案と、シノドスの道の推進派が提示する提案との間に親和性があることは容易に見て取れます。

教理的な分析に加え、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラは、これらの誤謬がカトリック信者の間で具体的にどのように教え込まれ、活されているかに特に注意を払い、それらと執拗に闘いました。

彼の逝去以来、「聖伝、家族、財産を守る会」(TFP)とその姉妹団体は、彼の著書「共産主義国家における教会の自由」に関して、当時の神学校・大学聖省長官ジュゼッペ・ピッツァルド枢機卿が署名した表彰状に記されているように、「教会の最高教導権の最も忠実にまねた声」となることだけを望んだ創立者の闘いを続けてきました。

ここで分析されているシノドス計画は、教導権が繰り返し非難した古い異端を取り上げるものであり、パウロ六世が言及した自己破壊の仕事をさらに進めています。したがって、教会や聖なる位階階級、キリスト教文明に対する愛が、TFPと姉妹団体に、このシノドス改革の誤謬を告発するという必須の義務を果たさせるのです。

過去数年間、彼らは一連の広範な取り組みを通して、この義務を可能な限り果たそうと努めてきました(182)。本書はこの路線に完全に沿ったものです。

教会の母である聖母に懇願しましょう。天主の御子の神秘体が醜くなるのを許すことなく、その反対に、聖母がファチマで約束された「最後に私の汚れなき心は凱旋するでしょう!」の復興を早めてくださいますように。

Adveniat regnum Christi! Adveniat per Mariam!
キリストの御国の来らんことを! マリアを通して来らんことを!


あとがき

この文章は、2023年6月20日にローマで発表された「討議要綱」(Instrumentum Laboris: IL)以前のシノドスに関する文書に基づいて書かれたものである。ILは、この研究が述べていることの根本的な何かを変えるのだろうか?どうやらそうではないようだ。それは、このシノドプロセスが何年もかけて進めてきた方向性を確認し、それが提起する当惑や懸念を増大させているだけである。

「討議要綱」は、シノダリティが「ダイナミックなプロセス」(No.18)であり、教会の構造と教導権を変えることによって、教会の新たな「構成的なシノドス制の次元」(No.23)を構築しなければならないという仮定から出発するものであることを確認している。

この文書の精神は、教皇フランシスコが打ち出した「逆ピラミッド」としての教会という考えを再確認するものであり、それによって、位階階級は「天主の民」全体との終わりのない協議のプロセスの中でその権威を行使することになる。この「協議」のクレッシェンドの間に、彼らは新しい時代に教会を適応させるために制度的、教義的な変更を行うだろう。

この文書の唯一の目新しさは、シノドスのプロセスが聖霊の自然発生的な実りであり、聖霊降臨のような現象であると(ナイーブなまでに)主張していることであるが、実際には、バチカン、司教、一部の教会関係者、そしてごく少数の信者の間で協議が行われ、複雑な官僚的メカニズムから生み出されている。「討議要綱」によれば、このメカニズムは、参加者に真の「驚きの感覚」(No.53)を引き起こし、それは喜ばしい「驚き」(No.17)であったと主張する。信者の幅広い参加ということを著者が強調しているのは、ある種の不安を示している。実際、本研究で報告されているように、大多数の信仰を実践しているカトリック信者は、ほとんど、あるいはまったく関心を示さなかったという数多くの報告によって、それは裏付けられている。

教皇フランシスコが2015年に開始したシノドスのプロセスを当初から追ってきた者なら、その方向性について「驚き」や「不思議感」を抱くことはないだろう。当初から、シノダリティを教会の「構造的な次元」とする意図は明らかだった。もちろん、すべての変化がドイツのシノドスの道のような強引さ、さらには横暴さをもって直ちに起こるわけではない。その代わり、徐々に変化していくだろう。

中立的な論調ではあるが、「討議要綱」は少なくとも二つの点でドイツ・シノドスの道の主張を採り上げている。第一に、聖職者の性的虐待の危機に対する救済策としてシノドスを提示している。第二に、脱キリスト教化した現代社会に事実上存在する新しい形の「道徳」を受け入れること、さらには教会の道徳的教えを一般的な文化に適応させるために修正する可能性さえも、民衆の願望の表れとして示している。

彼らはこれらすべてを、「天主の民」全体のシノドス協議の結果としての要求として提示している。しかし、カトリック教会に足を運ぶ一般信徒が(残念ながら)減少していることを知る者にとっては、「討議要綱」のテーゼが満場一致で信徒の意思を表現しているとはとても思えないだろう。信徒は、「教会のあらゆるレベルにおける」統治、意思決定、宣教、宣教に「参加」することを切望しているようには見えない(No.B 2.3)。私たちは、何十年にもわたるロビー団体や小さな「関与する」少数派――彼らは、いくつかのケースでは、教会の官僚機構を占拠してしまった――の主張を、広域に広がる求めとして見せかけようとした神秘化に直面しているだけではないだろうか?

「討議要綱」はその序文で、「決定的なガイドラインを作成することは難しい」と断言しており、それはローマの総会、そして最終的には教皇に委ねている。とはいえ、これらの総会での議論を導くための基準を設けるつもりであることは隠さない。しかし、「討議要綱」によれば、「決定的なガイドライン」に到達するにはまだ長い道のりがあり、それは、高く評価されている「ダイナミック・プロセス」方式(No.18)のおかげで達成されることになるだろうとされている。

そのため、教皇は総会を二つに分割することで、人々の心の準備に時間をかけ、その間に教会がまだ十分に到達していないとされる成熟を「自らの会堂的存在として成長させる」(No.43)ことができるようにした。

「討議要綱」は、「共に歩むとは、誰一人置き去りにしないこと」(No.B 1.1)(183)と述べているが、実際には、「離婚して再婚した者、一夫多妻婚の人々、LGBTQ+のカトリック信者」(No.B 1.2 a)のみに言及しており、毎年増え続けるパリ・シャルトル巡礼【聖伝のカトリック信者たちによる巡礼のこと】に参加する一般の人々など、カトリックの現場で広く目にする他の現実は省かれている。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第六章 でこぼこ道 B 当惑 C 「ローマ式」妥協に向けて?

2024年02月05日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第六章 でこぼこ道

B 当惑
92.教皇の反応は当惑を起こしますか。
93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。
94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。
95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。
96.カトリック信者は心配していますか。

C 「ローマ式」妥協に向けて?
97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。
98.この作戦を説明できるでしょうか。
99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。
100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

B 当惑

92.教皇の反応は当惑を起こしますか。

はい。「Synodaler Weg」を支持しているように見える教皇の他の発言や態度と矛盾しているように見えるからです。

教皇フランシスコの「Weg」批判を注意深く分析すると、その批判は本質よりもむしろ方法に言及していることが分かります。教会を改革したいという願望に問題はないようです。

いずれにせよ、教皇は「Synodaler Weg」に希望を抱いています。

(ドイツの司教団は)慈悲深く、悪意はありません。しかし、なんと奇妙なことでしょうか! 彼らのやり方は、効率化の努力を基本的なこととしています。
…しかし、皆さんは忍耐強く、連絡を取り続け、これらの人々が真のシノドス的な道を歩むのに同伴し、よりエリート主義的なこの道が悪い結末を迎えることなく、教会に一体となるよう助けなければなりません。人は常に団結するよう努めなければなりません(160)。

93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。

はい。例えば、シノドス総括報告者のオロリッシュ枢機卿は、上に引用した文書では「Weg」の要求に反対しているように見えますが、英国のバチカン専門家エドワード・ペンティンによれば、同性愛に関する教会の教えの見直しを求め、既婚男性の司祭叙階を支持し、女性の叙階にも寛容であると宣言しています(161)。

クロアチアのブログ「Glas Koncila」とのインタビューで、同枢機卿は女性の叙階に関するヨハネ・パウロ二世の教導権に公然と疑問を呈しました。それが変わる可能性はあるかと問われ、枢機卿はこう答えました。「時が経てば、あります」。「これは不可謬の考えではないのですか」とジャーナリストは訪ねました。このルクセンブルク人枢機卿(オロリッシュ枢機卿)は、「不可謬と呼べるかどうかは分かりません。おそらく呼べないでしょう」と答えました。彼はまた、同性愛者に貞潔を求めるカトリック教会のカテキズムの教理を非難しました。「他人に貞潔を呼びかけることは、他人にエジプト語を話すようなものです」。彼はこう締めくくりました。「同性愛を『本質的に秩序を乱すもの』と呼ぶ教えの部分は、少し疑わしいと思います」(162)。

似たようなことは、「Synodaler Weg」批判派に怒りをぶつけた司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿についても言えます。同枢機卿は、このような批判は「何の役にも立ちません。両極化がさらに進むだけです」(163)と言います。このマルタ人枢機卿は、「Weg」への批判は「公の糾弾」を超えるものではないと言います(164)。彼は「Weg」への支持を隠していません。「私はドイツのカトリック教会、司教団を信頼していますし、彼らが自分たちのしていることを理解していると信じています」(165)。

注意すべきことは、この2人の枢機卿は、シノドスの職務を担っているため、当然ながら、教皇のもとで、次のシノドス総会で重要な役割を担うことになるだろうということです。

94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。

いいえ。例えば、ロバート・マッケルロイ枢機卿がイエズス会の雑誌「アメリカ」に寄稿したつまずきを与える記事に対して、バチカン当局から叱責がなかったことは驚くべきことです。一方、オロリッシュ枢機卿は、同性愛に関する教会の教導権を変更する必要性についてつまずきを与える発言をした後にもかかわらず、シノドス総括報告者という決定的な役割に任命されました。さらに言えば、彼はいわゆるC9(教皇フランシスコに直接助言を与える枢機卿の選抜グループ)に含まれていました。

フランスのバチカン専門家ジャン=マリー・ゲノワはこうコメントしています。

バチカンは(「Weg」を)見守っているが、主導権を失っているようだ。教皇フランシスコは、ドイツの教会が道を踏み外さないよう警告している。しかし、不思議なことに、教皇フランシスコは、今後予定されているローマ教皇庁の「シノダリティ」に関するシノドスの「総括報告者」という重要な役職に、ドイツのシノドスの…方向性を支持する高位聖職者を任命した。…
…教皇は仲裁者ではない。昨年9月、ブラチスラバで会ったスロバキアのイエズス会士にこう打ち明けたように、教皇は改革の側にいるのだ(166)。

2022年後半、教皇の立場に近いバチカン専門家ジョン・アレンは次のように書いています。「フランシスコはドイツの過程の設計者(立役者)の誰に対しても懲戒処分を下しておらず、少なくとも今のところは事態の推移を見守ることに満足しているようだ」(167)。

フランドル地方の司教団が同性愛カップルのための「祝福の儀式」を承認したことに関しても、似たようなことが起こりました。これはバチカンの宣言と矛盾するものですが、「教皇フランシスコはこの措置を支持も反対もせず、地元の司教が決定することだと指摘しましたが、彼らは結束を保たなければならないことを強調しました」とアントワープのヨハン・ボニー司教は述べています(168)。

シノドス総会の前段階のためにローマから送られた「大陸ステージのための作業文書」では、女性やLGBTの人々を含めることなどが、最も急進的な派閥の行動計画(アジェンダ)として明確に提起されています。

95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。

はい。「Weg」推進派、それが正統性と教会の規律に最も反する人々であったとしても、彼らに対する制裁の欠如は、教皇フランシスコの他の場面での断固とした態度とは対照的です。教皇フランシスコは、司祭たちや一人の枢機卿に対して、ためらわずに解任、時には破門、さらには還俗処分を行っています。多くのアナリストは、なぜ今回も同じような態度をとらないのかと不思議に思っています。

ステファノ・フォンタナ教授が指摘するように、バチカンは場合によって二つの矛盾した態度を取ります。容易に権限移譲に転じるか、中央集権を権威主義に直行させるかです(169)。「Weg」推進派は前者から利益を得ているようです。

96.カトリック信者は心配していますか。

はい、とても心配しています。「ザ・ピラー」誌はこうコメントしています。

「シノダリティに関するシノドス」がカトリックの教理を軽んじたり、カトリックの教理から逸脱したりするための一種のトロイの木馬だと主張するカトリック信者の恐れ。
フランシスコは、そのナラティブを押し返そうと努力している。
(しかし)一部のカトリック信者に対して、マッケルロイは今週、それを確認し、そのことをもってシノドスの過程全体について信者には不安があることを確認したように見えた。フランシスコがこの決定に反応するかどうかは、まだ分からない(170)。

これまで見てきたように、教皇フランシスコは今日に至るまでこの件に関して何も語らず、混乱を増大させています。死の直前、ジョージ・ペル枢機卿はこうコメントしました。

以前は(標語は)こうでした。「Roma locuta. Causa finita est」(ローマは語り、問題は解決)。今日はこうです。「Roma loquitur. Confusio augetur」(ローマは語り、混乱は拡大)。
(A)ドイツのシノドスは、同性愛、女性司祭、離婚した者の聖体拝領について発言しました。教皇は沈黙しています。
(B)オロリッシュ枢機卿が性に関するキリスト教の教えを否定しています。教皇は沈黙しています(171)。

シノドスの指導者たちがティモシー・ラドクリフ神父を自分たちの霊操の説教者に招いたため、いくつかの文書で批判されている進歩的な立場をバチカンが暗黙のうちに受け入れているという印象がさらに強くなっています。このドミニコ会の前総長は、「異端的な立場と、とりわけ教会内での同性愛を認めることを支持する活動で知られていました」(172)。前の2人の教皇は、これらの立場のために彼を遠ざけていました。

C―「ローマ式」妥協に向けて?

97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。

はい、その通りです。

教皇の意見は絶えず揺れ動いており、ある注意深い聖座アナリストは強い言葉で「大いなる欺瞞 great deception」と表現しています。カトリック・ニュース・エージェンシーのアンドレア・ガリアルドゥッチはこう書いています。

教皇フランシスコがこの「大いなる欺瞞」に何らかの形で加担したことは認めざるを得ない。まず、ドイツ教会のシノドスについて、教皇は何度か懸念を表明したが、その後、シノドスのテーマのいくつかが、教皇によってさまざまな形で、さらには矛盾した形で再提案された。…
この曖昧さの連続、状況と行動の区別の連続の中で、教皇の考えは不明確であるか、いずれにしても定まっていないように思われる。そして、そこに「大いなる欺瞞」を実行する可能性が忍び込んでいるのだろう。教皇がそれを自覚しているのか、それともただ誠実に行動しているだけなのかは分からない。私たちはただ、この状況に注目するだけである(173)。

教皇フランシスコは「Synodaler Weg」を批判していたはずなのに、それを支持したと言って信者を惑わせたと、ドイツ司教団を非難する者もいます。これまで見てきたように、状況はかなり混乱しています。「欺瞞」はドイツ司教団側だけに存在するのではありません。当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が同性愛に関する文書の中で述べた批判を、シノドスの主役たちに当てはめることができます。「彼らの公の声明と彼らが推進する活動を注意深く調べると、彼らが司牧者と信者を惑わそうとする、研究された曖昧さが明らかになります」(174)。

この矛盾をどう説明すればいいのでしょうか。この曖昧さは意図的なのでしょうか。背後には何か意図があり得るのでしょうか。少なくとも仮説や分析基準として、この可能性を挙げないわけにはいきません。

98.この作戦を説明できるでしょうか。

実際、歴史家が革命と呼んでいる「教会とキリスト教文明の衰退」という歴史的過程を研究する者なら誰であれ、しばしば過激派と穏健派の間で弁証法的な駆け引きがあって、前者は後者にとって画期的なパイオニアとなったことに気づきます。

代表作である「革命と反革命」の中で、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラは、革命の過程には二つの速さがあると説明しています。急進的な熱血派に代表される高速派と、一見穏健派に見える派閥で構成される低速派です。この二つの速さは調和しており、それぞれが特定の役割を持ち、一緒になって革命の過程を推進するのです。

より急速な運動は無益だと言われるかもしれないが、そうではない。このような過激派の爆発は基準を高め、固定した目標を作り出す。その目標の急進性そのものが穏健派を魅了し、穏健派はゆっくりとその目標に向かって前進する。…
…次に、過激派の失敗は、単に見かけ上のものでしかない。彼らは革命の前進に間接的に、しかし強力に協力しており、「慎重な」、「穏健な」、平凡な無数の人々を徐々に引き寄せていくのである(175)。

「Weg」の最も極端な主張を否定することで、一見穏健に見えるものの破壊転覆的な教会改革を進めることが可能になり、その改革が現時点ではもっと受け入れやすく見えるのではないか、と考えるのは正当なことです。

「Weg」推進派自身は、そうやって普遍的な過程に影響を与えたいと宣言しています。「Weg」の主導的な声である神学者ユリア・クノップはこう書いています。「(ドイツのシノドスの道が提案した)これら15のテキストによって、ドイツのカトリック教会は、重要かつ緊急に必要とされる改革のステップを支持する声を上げました。とりわけ、この基本テキストは、(普遍的な)教会の議論に挑戦し、中長期的に前進させるものです」(176)。

私たちはこの最後の言葉、「中長期的」に注目します。最も見識のある「Weg」推進派は、目先の勝利を目的とするのではなく、中長期的に深遠な改革を開拓したいと考えているのです。

99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。

そのように思われます。バチカンと「Synodaler Weg」推進派が衝突しているように見える背景に、隠された意図が潜んでいることを示す観察者もいます。彼らは「ア・ラ・ロマーナ」、つまり中途半端な解決策で妥協したいのです。

このことはルイゼラ・スクロサーティが、「La Nuova Bussola Quotidiana」の中で、ゲオルク・ベッツィング司教の言葉を引用して、述べていることです。「教皇とドイツ人は対立しているが、妥協の余地あり」と題された彼女の記事の中で、スクロサーティ博士は、この議論が内容そのものについてというよりも、ある結論に達するための方法についてのものであることを示しています。「離教の危険性については、ベッツィング司教は離教の可能性を否定し、逃げ道を示しています。『私たちは互いに話し合い、互いに妥協しなければなりません』。少しローマ流に言えば、独身制に譲歩すれば、女性の司祭職を求める動きが収まるかもしれませんし、同性カップルを祝福することに青信号を出せば、同性愛に対する教理上の承認がなくなるかもしれません」(177)。

教皇フランシスコは「対話」と「調和」を盛んに訴えてきました。いまや有名になった2023年1月25日のAP通信とのインタビューで、教皇は「Weg」を「イデオロギー的」で「エリート主義的」だと批判しました。それでも彼は、「私たちは忍耐強く、対話し、真のシノドスの道を歩む人々に同伴しなければなりません。…この、よりエリート主義的な(ドイツの)道が、何らかの形で悪い結末を迎えず、…教会に一体化されるように、手助けをします」(178)。

言い換えれば、いったん彼らの「イデオロギー的」で「エリート主義的」な性格が取り除かれれば、ドイツの「Weg」の提案は教会に「一体化」され、準備文書と国際神学委員会の研究の両方に概説されている「真のシノドスの道」に貢献することができるというのです。

一部の過激な主張が否定されれば、教会を「民主的に」改革するという問題は残ります。ベッツィング司教が次のように認めているように、それはドイツの司教たちが最初から望んでいたことです。「フランシスコはまた、インタビューの中で、緊張を和らげなければならない、現在進行中のバチカン世界シノドスに私たちの問題を含めるべきだ、と語っています。まあ、これは私たちのオリジナルな内容です。これこそ私たちが望んでいることです」(179)。

これらのことから、バチカン専門家の首席であるサンドロ・マジステルはこんな見出しをつけました。「ドイツのシノドスは教会全体を感染させている」。「Weg」の「エリート主義」的性格が改善されれば、「既婚司祭から女性司祭まで、新しい性道徳や同性愛道徳から教会統治の民主化まで、避けられない要求の数々」を進めることが可能になる、とマジステルは述べています(180)。

100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

仮に、「Synodaler Weg」やシノドス総会のいくつかの提案のみが承認されただけだったとしても、ましてやその提案がその最終的な結果をもたらすことになったとしたら、カトリック教会の変化はあまりにも大きく、私たちの主イエズス・キリストによって創立された聖なるローマ・カトリック使徒継承教会の姿のままであろうかと、正に問うことができるようなものになってしまうでしょう。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 E―家族の破壊 第六章 でこぼこ道

2024年02月04日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

E - 家族の破壊
81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。
82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

第六章 でこぼこ道
A 「Synodaler Weg」に反対する反応
83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。
84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。
85.  米国の教会は、いかがですか。
86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。
87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。
88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。
89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。
90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。
91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

E―家族の破壊

81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。

カトリック教会のカテキズムはこう教えています。「結婚によって結ばれた男女は、子供たちと一つの家族を作ります」(2202番)。洗礼を受けた者にとっては、結婚もまた秘跡です(2225番)。

82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

「Weg」の文書は「結婚」に言及することもありますが、もっと一般的なのは「Partnerschaftsformen」(パートナーシップの形)、「包摂的」で差別のない方式です。また、「Paare, die sich lieben」(愛し合うカップル)という表現もあります。これらの婉曲表現は、同性カップルを含む自由なシビル・ユニオンを意味します。いかなるロマンチックな感情でも、そのような結合を合法化するには十分なのです。

また、バチカンは承認していませんが、いわゆる「Segensfeiern für Paare, die sich lieben」(愛し合うカップルのための祝福)も増えています。「Weg」の文書の説明によれば、このような祝福は、「愛、献身、相互責任という点で、カップルの関係にすでに存在するものを強化して、天主が支持するという約束を求め、天主が支持するという約束とするものです」(140)。

第六章 でこぼこ道

A―「Synodaler Weg」に反対する反応

83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。

はい。デンバー司教のサミュエル・アクィラ大司教がゲオルク・ベッツィング司教に送った18ページの公開書簡をはじめとして、多くの枢機卿や司教が「Synodaler Weg」に抗議しています。公開書簡はこう述べています。「シノドスの道は、単に『構造的な』懸念に対処するものではなく、信仰の遺産に挑戦し、場合によってはそれを否認するものです。シノドスの道の文書は、天主の啓示の性質と拘束する権威、秘跡の性質と効力、そして人間の愛と性に関するカトリックの教えの真理について、最も深刻な問題を提起しているとしか読めません」(141)。

おそらく最も適切な反応は、世界中の103人の高位聖職者による「ドイツの兄弟なる司教への兄弟としての公開書簡」だったでしょう。アリンゼ枢機卿、バーク枢機卿、ネーピア枢機卿、ペル枢機卿、ルイーニ枢機卿、陳枢機卿がその中に含まれています。これらの司牧者たちは、次のように思い起こしています。「急速なグローバル・コミュニケーションの時代において、ある国の出来事は必然的に他の国の教会生活に影響を与えます。ですから、ドイツのカトリック信者が現在追求している『シノドスの道』の過程は、世界中の教会に影響を与えるものです。これには、私たちが司牧している地方教会や、私たちが責任を負っている多くの忠実なカトリック信者が含まれます」。

同書簡はこう糾弾しています。

2.ドイツのシノドスの道の文書は、宗教的な考えや語彙の色合いを見せてはいますが、その大部分は、第二バチカン公会議にとって「天主の言葉の単一の聖なる遺産」である聖書や聖伝からではなく、社会学的分析やジェンダーを含む現代の政治的イデオロギーから着想を得ているように見えます。その文書は、教会とその使命を、聖書と教会の権威ある聖伝などにおいて啓示された真理というレンズを通してではなく、むしろこの世というレンズを通して見ています。
5.シノドスの道の過程は、ほぼすべての段階において、専門家と委員会の作業です。つまり、官僚主義的で、批判的で、内向きです。そのため、それ自体が教会の硬化症が広がっていることを反映しており、皮肉なことですが、書き方が反福音的になっています。その効果として、シノドスの道は、主にして救い主であるイエズス・キリストよりも、この世やイデオロギーへの服従と従順を示しています(142)。

元教理省長官のゲルハルト・ミュラー枢機卿もまた、はっきりと批判しています。枢機卿にとって、「Weg」は論争の的であり、カトリック信者から「福音の真理」を奪って、それを「ドイツのシノダリズムの真の重心である同性愛化のイデオロギー」に置き換える決議を承認することにつながりました。ミュラー枢機卿によれば、このイデオロギーは、「その粗雑な唯物論において、人間を男性と女性としてご自身のかたどりに創造された天主をあざ笑うような、非難されるべきイデオロギーです」。枢機卿は、こう締めくくっています。「『Synodaler Weg』は、天主の言葉へと方向づけられた開かれた議論では全くなく、教会の秘跡的構造の中には何の根拠もありません」(143)。

このドイツ人枢機卿(ミュラー枢機卿)は、シノドスの道に関する異端的なテーゼを支持する司教の解任を求めています。「裁判が行われなければならず、彼らは断罪されなければならず、回心せず、カトリックの教理を受け入れないのであれば、解任されなければなりません」(144)。

元最高裁判所長官であるレイモンド・バーク枢機卿もまた、同性愛者の結婚を祝福することに賛成票を投じた司教を制裁するようバチカンに求めました。

それが逸脱であれ、異端的な教えであれ、信仰の教理の一つを否定することであれ、単にキリストと教会におけるキリストの教えから離れて他の宗教を受け入れるという意味での背教であれ、これらは罪です。…
これらはキリストご自身に対する罪であり、明らかに最も重大な性質のものです。ですから、教会法典は適切な制裁を規定しています(145)。

注目すべき批評は、イリノイ州スプリングフィールドの司教、トーマス・パプロキ司教によるエッセイ「Imagining a Heretical Cardinal」です。この高位聖職者は、マッケルロイ枢機卿のテーゼに対して、彼自身には触れずに、長く、学識ある反論を書いています。パプロキ司教は次のように書いています。「残念ながら、今日、カトリックの指導者たちが、少し前までは異端者だけが信奉していたような異端的見解を肯定するのを耳にするのは珍しいことではありません。『異端的』や『異端』は強い言葉ですが、現代の教会的な礼儀正しさは、『分かれた兄弟たち』や『カトリック教会と完全な交わりにないキリスト信者』といった優しい表現に和らげています。しかし、現実には、『分かれ』、『完全な交わりにない』人々が、分かれて完全な交わりにないのは、信仰の本質的な真理を拒否しているからです」(146)。

84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。

いいえ。欧州大陸におけるシノドス準備(協議)段階の結果を分析するために招集された2023年2月9-11日のプラハ会議では、作業文書「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」に対して深刻な異論が出されました。

カトリック・ニュース・エージェンシーのバチカン記者、コートニー・マレスはこう書いています。

欧州のカトリック信者は木曜日の朝、秋にバチカンで開かれる司教シノドスの討議に影響を与える最終文書の内容について討議した。…
その文書には…多くの欧州代表団が、「シノドタリティに関するシノドス」が「弱められた」(watering down)カトリック教理という結果になりかねないとの懸念を表明したことに言及しました。…
「何人かは、このような過程では、この世の精神に服従する危険性があると強調しました。これらの懸念が、…表明され、…また、教理が弱められる可能性や、作業部会で社会学的な表現が使われることへの懸念も表明しました」(147)。

シノドス総括報告者のオロリッシュ枢機卿自身も、ドイツ代表団の提案に「ショックを受けた」代表団がいたことを認めています(148)。

85.  米国の教会は、いかがですか。

米国カトリック司教協議会も大きく分裂しています。

米国カトリック司教協議会の元専務理事のジェイド・ヘンリックスはこう書いています。

多くの司教、司祭、修道者、そして米国で関心を寄せる信者にとって、ドイツのカトリック教会がシノダリティに関して行っていることには深い疑念があります。同時に、これは絶望に近いものです。なぜなら、ドイツの司教たちが普遍教会の意見に耳を傾ける気がなく、ドイツ人が自らを正すという希望はほとんど残されていないことはあきらかなのですから。その印象は、彼らには教会を変えようとする意向があり、自分たちのビジョンを普遍教会に押し付けようとしている、ということです。…
また、米国の270人以上の司教の誰一人として、ドイツの司教団への支持を表明していないことも物語っています。北欧の少数の例外を除けば、全世界の司教団も何の励ましもしていません(149)。

86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。

事実は、「Weg」と普遍シノドスの推進派が予想した以上の拒絶を示しています。他のケースでは、拒否反応というより、むしろ無関心です。耳を傾ける過程には、ほとんど誰もわくわくしていません。このことは、シノドス推進派をも悩ませています。このような大規模な教会改革プロジェクトを少数の信者の支持だけで実行することは難しいからです。

ジョージ・ペル枢機卿が、亡くなる数日前に「スペクテイター」誌に寄稿し、死後に出版された記事の中で、教会の上層部も、世界中の実践的カトリック信者の圧倒的多数も、シノドスの耳を傾ける過程から得られた成果には同意していないと述べています(150)。

そのため、シノドス推進派は、時間と忍耐を必要とする「認識されていないイデオロギーの積み替え」(151)戦術に頼らざるを得ないのです。

87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。

進歩的少数派だけでなく、すべての信者が意見を聞かれていたらどうなっていたかを知ることは不可能です。反対派の声(通常は保守的)を黙らせるために多くの場所で用いられた威圧的な戦術は、シノドス推進派が真の多数派の声を聞くことを恐れていることを示している、という分析もあります。従って、もしすべての信者が意見を聞かれていたならば、出来上がった文書はもっと聖伝の教導権に沿ったものになっていただろうと推測できます。

例えば、聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ)にあずかる共同体から提起された懸念のうち、いたるところで増えているものが何一つ耳を傾けられなかったのは驚くべきことです。彼らこそは「疎外された少数派」であり、「包摂される」べき存在ではないのでしょうか。

88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。

いいえ。状況は微妙です。ほとんどのドイツ司教が「Synodaler Weg」を無条件で支持し、あるいは黙認することで推進派に自由裁量権を与えている一方で、疑念を表明し、論争を巻き起こしている司教もいます。逆説的なことに、「共に旅する」ことに関するはずの「Weg」は、ドイツ司教協議会を分裂させています。ヒルデスハイムの司教であり、「Weg」の強力な推進者であるハイナー・ウィルマー司教は、この共通の道が団結をもたらすのではなく、分裂をもたらすものであることを認めざるを得ないと感じています。「ある者にとっては、決議文は十分に踏み込んだものではなく、またある者にとっては、教会の教えと矛盾するものでした。シノドスのメンバー間の溝はますます深まったように見えました。ある者は早くから苛立ち、ある者は興奮が高まり、またある者は肉体的、精神的に苦しんでいるのが分かりました」(152)。

ヴュルツブルクのフランツ・ユング司教は、「Weg」の集会での過剰な議論と時に扇動的な論調を批判し、「満身創痍の部屋」のようだと述べました(153)。

長らく多数派だった進歩派は、批判を受け入れようとせず、実質的に蒸し返すように振る舞います。「昨日、会議が終わり、私は苛立ちながら夕方の講堂を出ました。多数派の意見に反対する人々は、またしても言葉巧みに顔をひっぱたかれた」と、アイヒシュテットのグレゴール・マリア・ハンケ司教は不満を述べました(154)。このため、ジャーナリストのアンナ・ディウフは、「シノドスの道はカトリックの信仰を虐待」と題する記事を書きました(155)。

89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。

はい。教皇は「ドイツ巡礼中の天主の民への手紙」の中で、「時代の兆し」に耳を傾ける必要があるとしながらも、これは「賢明な集団」の仕事ではないと警告しています。同年9月、教皇は、シノドスは議会ではないと思い起こしました。AP通信とのインタビューで、教皇は同様に「Weg」を「イデオロギー的」で「エリート主義的」と批判しました。AP通信はこう報じています。「『ドイツの経験は助けにならない』と教皇は指摘し、これまでのドイツでの過程が『エリート』によって主導されてきたことを指摘している。危険なのは、非常に、非常にイデオロギー的なものが入り込むことです。イデオロギーが教会のプロセスに関与するとき、イデオロギーは聖霊に勝つため、聖霊は帰ってしまいます」(156)。【訳者注:聖霊の優しいささやきに対して、イデオロギーは耳をふさがせる、ということを言いたいのでしょう。】

90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。

はい。前述のように、パロリン枢機卿、ラダリア枢機卿、ウエレット枢機卿は、ドイツのシノドスの道が提案した常設のシノドス評議会の設置は、各教区の司教の権威を損なうものであるとして、これを拒否する書簡を書きました。

2023年1月26日、全世界の司教に宛てた書簡の中で、聖座は、現職の教区司教にある統治の役割に関するカトリックの教理を改めて強調しました。この書簡には、司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿と、第16回司教シノドス通常総会の総括報告者であるジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿が署名しています。

書簡は、ローマ司教の最高権威の下での団体主義における司教の役割を強調する一方で、活動的少数派の役割を批判しています。「実際、シノドス総会の結論がどうなるかをすでに知っていると思い込んでいる人々がいます。また、シノドスに議題を押し付け、議論の舵取りをし、その結果を決定しようとする人々もいます」。

しかし、この書簡はシノドスの基本的概念を繰り返し述べています。「『キリストの預言職も分け与えられている』(157)天主の民に『耳を傾ける』ことの困難を克服すること」。


91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

ドイツ司教団の一部から節度を求める声が上がったにもかかわらず、それは即座に黙殺されました。たとえローマと衝突することになったとしても、シノドスの道に沿って前進しようとする傾向が優勢です。マルクス枢機卿が2015年に発表した「Wir sind keine Filiale Roms」(私たちはローマの子会社ではない)というフレーズは、ライトモチーフとなっています(158)。この言葉は、16世紀にマルティン・ルターが唱えた「Los von Rom」(ローマから離れよ)という言葉との類似性を指摘する声も多くあります。

この反抗的な態度の典型的な例が、2023年3月に開催された第5回シノドス会議で承認された「Segensfeiern für Paare, die sich lieben」(愛し合うカップルのための祝福)と題された文書です。この文書は賛成176票、反対14票、棄権12票で可決されました。司教団は賛成38票、反対9票、棄権11票でした。この文書は、バチカンが2021年2月22日に発表した「教会は同性間の結合を祝福する権能を有しておらず、また有しえない」という回答に真っ向から反するものです。実のところ、無記名投票の動議は否決されました。その投票は、点呼によって行われました。「Weg」指導部はドイツの司教団を一人ずつ確実に制圧していきました。

また、「Synodaler Weg」を締めくくったこの総会が、フランクフルト司教座聖堂の主祭壇の周りで行われた「verantwort:ich」(159)と題された非常に奇妙で不穏な「パフォーマンス」で幕を閉じたことも、明らかになりました。それには、黒い服装をした登場人物や、地獄に落ちた霊魂のような人物がロープや鎖で床を引きずられるという奇妙な儀式が含まれていました。シノドスの道が導入しようとしている新しい典礼のサンプルだったのでしょうか。


【教会の危機】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 続き

2024年02月02日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

(これは「【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 」への答えの続きです。)

 セペール枢機卿(Cardinal Seper)は「教会の危機は司教たちの危機である」と言いました(in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27)。

 現代の教会の危機には、その能動因として司教様たち(そして究極の責任を問われるものとして教皇様)、その切っ掛けと原理を与えたもの(形相因)として第二バチカン公会議があります。

【教皇様】

 教会の危機は、教会の最高の権威まで浸透しています。第二バチカン公会議後の教皇様たちご自身が、少なくともヨハネ・パウロ二世の統治下に至るまで、この危機を維持させていました。それは、

(1)近代主義の神学者を擁護することによって

(2)カトリック信仰と相容れない意見や行動を教皇様ご自身がなすことによって

(3)カトリック信仰を本当に擁護しようとする人々の仕事に障害をおくことによって。


【ヨハネ二十三世の責任とは?】
 ヨハネ二十三世(在位1958年ー1963年)は、「アジョルナメント(現代化)」のスローガンのもとに、現代のリベラル精神を教会内部に持ち込み、見境もなく大変革をおこさせた第二バチカン公会議を招集した教皇でした。


 公会議を招集したそのこと自体よりも、どのような目的とどのような精神で第二バチカン公会議を招集したかが問題とされます。公会議開催の「開会演説」(1962年10月11日)でこう宣言しています。

「誤謬は生まれては太陽の前の雲のように消えていくもの」だから、誤謬に対して何も断罪をしなくても、自然に消えていく、昔は教会は誤謬に対していつも反対し断固たる態度を取ってきたが、「現代は、キリスト教の花嫁である教会は、厳しさの武器を取るよりは、むしろ慈しみの薬を用いて癒そうとしてる。断罪するよりは、自分の教えの豊かさにより強調をおくことによって、よりよく現代の要求に応えると教会は考えている。もちろん、警戒すべき、そして避けるべき偽りの危険な教えや意見がないわけではない。しかしこれら全ては、誠実という原則にあまりにも明らかに対立し、あまりにも悪い実りを倦んでいるので、今日、人々は自分自身でそれを排斥し始めているように思われる。」(公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』(南山大学監修334ページ参照)

 そこで、ヨハネ二十三世は「人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることができず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと言い続けて・・・あたかも世の終わりが近づいたかのように、常に災いしか予告しない不運の預言者には私は絶対に賛成できない」(『歴史に輝く教会』330-331ページ)とし、何もせずとも悪は自然に消えてなくなるので、楽観的平和主義を貫くことを第二バチカン公会議で宣言したのです。


 このナイーヴな見方は、現実とはほど遠いものでした。何故なら、イスラーム、プロテスタント主義、仏教などは数世紀にもわたって存在する誤謬でしたが、それ自体で「太陽の前の雲のように消えて」いったわけではありませんでした。その反対です。カトリック教会がその誤謬を排斥するのを拒否したがために、それらはますますその勢いの広がりを見せています。


 カトリック教会内についても、ヨハネ二十三世の楽観的な見解に反して、真理は光り輝くどころか、むしろ無数の誤謬がますます広がる一方でした


 更に、ヨハネ二十三世は第二バチカン公会議の議事規定に反して、以前ローマがその異端説のために排斥した神学者たちを少なくとも3名、公会議顧問として任命しました。


【パウロ六世の責任にはどのようなものがあるか?】

 教皇パウロ六世(在位1963年ー1978年)は、ヨハネ二十三世の死後第二バチカン公会議を継続させ、リベラル派を明らかに支持しました。パウロ六世は、新たに4名の公会議の運営委員(moderatores)を設定し、「中道派のアガジャニアンと、進歩派のレルカノ、デフナー、スーネンスなどの枢機卿」(『歴史に輝く教会』294ページ)を任命しました。レルカノ、デフナー、スーネンス枢機卿たちはリベラルで大変有名な人々でした。


 1965年12月7日、公会議閉会の演説においてパウロ六世はこう宣言しています。


「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の霊性のモデルでした。すなわち、限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者 humanistes である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝する le culte de l'homme ものなのです。」(『歴史に輝く教会』 p444)


Religio, id est cultus Dei, qui homo fieri voluit, atque religio - talis enim est aestimanda - id est cultus hominis, qui fieri vult Deus, inter se congressae sunt. Quid tamen accidit? Certamen, proelium, anathema? Id sane haberi potuerat, sed plane non accidit. Vetus illa de bono Samaritano narratio excmplum fuit atque norma, ad quam Concilii nostri spiritualis ratio directa est. Etenim, immensus quidam erga homines amor Concilium penitus pervasit. Perspectae et iterum consideratae hominum necessitates, quae eo molestiores fiunt, quo magis huius terrae filius crescit, totum nostrae huius Synodi studium detinuerunt. Hanc saltem laudem Concilio tribuite, vos, nostra hac aetate cultores humanitatis, qui veritates rerum naturam transcendentes renuitis, iidemque novum nostrum humanitatis studium agnoscite: nam nos etiam, immo nos prae ceteris, hominis sumus cultores.

第2バチカン公会議とはおよび
◎公会議に参加した教父たちは、公会議が革新であったと主張する
「マニラの eそよ風」157号
を参照のこと)

 パウロ六世のこの態度については、聖ピオ十世がその最初の回勅『エ・スプレミ・アポストラトゥス』で言った次の言葉と比べることができます。

「全ての手段を使って、全ての努力の代価を払っても、私たちが生きている現代に特有のこの化け物のような厭わしい邪悪、つまりそれによって人間が天主に取って代わるという邪悪を完全に根こそぎにしなければならない。


 聖ピオ十世は同回勅で「反キリストに固有の特徴」として「呼ぶべき名前もないほどの無思慮をもつ人間が創造主の地位を横領し、天主の名前を持つ全ての上にそそり上がろうとする。それは、それ自体では「天主」という概念を完璧に消し去ることができないが、天主の御稜威のくびきを振り払い、自分自身のために目に見える世界を神殿であるとして奉献し、自分の同類たちから礼拝を受けようとする程である」と言っています。


 これを見ても分かるように、パウロ六世は「私たちが生きている現代に特有のこの化け物のような厭わしい邪悪、つまりそれによって人間が天主に取って代わるという邪悪」に対して責任を放棄して戦おうとせず、かえってそれに限りない好感を持ち、パウロ六世自身も誰にもまして人間を礼拝するものであると言っているのです。聖ピオ十世とは全くの対極に立つ態度です。

 パウロ六世の人間中心主義は、人類が月面に到着した時、人間賛美の歌を歌っていることからも分かります。

「人間に名誉あれ、
 人間の思考、科学、技術、労働、努力に名誉あれ。
 ・・・
 人間に名誉あれ、
 地上の王、そして今では天の君主に。」
(Paul VI, 7 fevrier 1971, DC 1580 du 21 fevrier 1971, p. 156.)


 1964年の11月に、リベラル派を支持していたパウロ6世は、教皇の最高の権威を使おうとしないということを意味するために、象徴的に教皇三重冠を放棄しました。次にパウロ6世は検邪聖省を改革しました。1966年6月15日、禁書目録は廃止され、検邪聖省は「教理聖省」とその名と役割を変えられました。検邪聖省はもはや何も排斥せず、ただ単に建設的な探求に専心するだけになり、検邪聖省は検邪聖省でなくなったのです。これによってリベラル派は自由に活動できるようになりました。

 それと同時にパウロ六世の統治下に、本当にカトリック信仰を保ちたいと望み、プロテスタント主義・近代主義・背教を拒む司祭たちが迫害を受け始めました。

【ヨハネ・パウロ二世は状況の立て直しをしたのではないか?】

 いいえ。幾つかの点でヨハネ・パウロ二世は、パウロ六世より厳格であったように見えますが、それにしても革新の道を頑固として進み続けました。そして以前であれば背教のしるし、少なくとも異端の疑いのしるしであった行為を様々に成し遂げました。
(1917年の教会法2314-2316条参照)

 1982年5月29日、ヨハネ・パウロ二世は、英国聖公会の「大司教」(Msgr Runcie)とカンタベリーのカテドラルで共に使徒信経を唱え、彼と共に祝福を与えました。聖公会の司祭叙階は無効であるので本当は平信徒でしかないにもかかわらず、この時、英国聖公会の最高聖職者は大司祭としての祭服を着ていました。ヨハネ・パウロ二世は、レオ13世の不可謬の教えを無視していたのです。

 1985年8月、ヨハネ・パウロ二世はトーゴの「神聖な森」の中でアニミストの儀式に参加しました。

 1986年2月2日、ヨハネ・パウロ二世はインドのボンベイで、ヒンズー教のシヴァ神の第3の目を意味するティラック(Tylak)を自分の額に受けました。

 1986年2月5日、マドラスではシヴァ神とヴィシュヌ神の礼拝者のしるしである神聖な灰ヴィブティ(Vibhuti)を受けています。

 このような行動は数を増やし、悲しい頂点に至りました。それは1986年10月27日アシジでの諸宗教の集会でした。ヨハネ・パウロ二世は、世界の全ての宗教を呼んで、自分たちの儀式に従って平和のために祈れと招いたのです。彼らが異教の宗教儀式のために自由に使うことができるように、カトリック教会の建物は使われました。サン・ピエトロ教会では、御聖体が安置してある御聖櫃の上に仏陀の像がおかれて礼拝されていました。このようなことは「平和」ではなく、偶像崇拝であり、迷信です。このようなことを積極的にさせることは、唯一の天主の御稜威に対する大きな罪でした。たとえ良い意向のためにであっても、それ自体で悪しき行為をすることを積極的に勧めること、またはそれ自体で悪しき行為をすることはゆるされていません。

 ヨハネ・パウロ二世は、1986年以降毎年アシジのような諸宗教の集会を開くように奨励し続けました。他人に勧めるばかりか、自分でも積極的にその範をたれ、偽りの諸宗教を支援する様々なジェスチャーをし続けました。たとえば1999年5月14日、皆の前で公然とコーランに接吻をしました。この写真はイスラム諸国に溢れるばかりに広がり、イスラム教徒たちがその誤れる宗教に留まることを激励するだけにしかなりませんでした。

【第二バチカン公会議】
 すでにカトリック教会の中に隠れ潜んでいたリベラル派と近代主義者達は、第二バチカン公会議をコントロールすることに成功し、教会内部で長くから準備されていた危機を点火する機会を与えました。

 聖ピオ十世は既に丁度100年前、回勅『パッシェンディ』の中で近代主義は教会の外にいる敵ではなく、たとえその信奉者が自分たちの本当の意向を隠していたとしても、内部に深く浸透してしまっている敵であると言っていました。

 聖ピオ十世は近代主義に対して力強く戦いました。聖ピオ十世の後継者たちも、ピオ十二世に至るまで多かれ少なかれ戦いました。ピオ十二世の回勅『フマニ・ジェネリス』は「新しい神学」と呼ばれていたものを排斥しました。教皇たちの努力は、見せかけ上は受け入れられたのですが、現実は多くの人々は馬鹿にしていただけでした。人々は教皇たちから排斥された禁止された説に興味を持ち続け、神学校や大学では神学生たちに新しい学説に染まるようにし続けていたのでした。

 教会内部に潜んで活動を続けていたリベラル派や近代主義者達は、第二バチカン公会議をコントロールすることに成功しました。リベラル派のスーネンス枢機卿は、第二バチカン公会議のことをフランス革命にたとえて「第二バチカン公会議は教会内部のフランス革命だった」と言っています。やはりリベラル派のイーヴ・コンガール神父は、公会議の神学者でしたが、第二バチカン公会議をロシアのボルシェヴィキ革命にたとえて「教会は、穏やかに十月革命を果たした」と言っています。







【教会の危機】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・

2024年02月02日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、以下は2007年3月の記事からの再掲です。






【質問】
現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?」の記事で、カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果で、その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機であることが触れられていますが、教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか? 教皇様なのでしょうか? それとも第二バチカン公会議なのでしょうか?


【答え】
 セペール枢機卿(Cardinal Seper)は「教会の危機は司教たちの危機である」と言いました(in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27)。


 現代の教会の危機には、その能動因として司教様たち(そして究極の責任を問われるものとして教皇様)、その切っ掛けと原理を与えたもの(形相因)として第二バチカン公会議があります。


【司教たちの危機】
 カトリック教会にいる4000名の司教様たちの中には、確かに正統カトリックたろうとしてカトリック信仰のために働こうとしておられる方々が何人かおられます。しかし、大部分の司教様たちにおいては、カトリック信仰を擁護する代わりに、信仰の真理を公に否定する司祭や神学者たちに自由にさせています。中にはそのような司祭たちを激励したり、支援したりし、或いは司教様自身で、カトリック信仰とカトリック道徳とは相容れない立場を取っています。


● たとえばフランスでは、以前のパリの大司教であったリュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、ユダヤ教徒たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えています。


● ストラスブールの大司教であるドレ大司教(元パリ・カトリック神学院の神学部長)は、イエズス・キリストを拒否したユダヤ教徒たちを不信仰者(infideles)とか盲目者(aveugles)であると考えることはできない、回心する必要があるのは彼らではなく、むしろ「新しいイスラエル人」という名前を横取りしたカトリックのほうだ、と主張しています。(Mgr Joseph DORE, message addresse a la loge juive "Rene Hirschler" (de l'ordre des B'nai B'rith) et publie dans le bulletin diocesain l'Eglise en Alsace, juillet-aout 2003, p. 1-3.)


 しかし聖パウロは「かれらは不信によって切られ、あなたは信仰によって立っている。」と言い、ユダヤ人の「にぶい心、見えない目、聞こえない耳」、「かれらの目はくらんで見えなくなれ」(ローマ11章)、「今日も、モイゼの書を読むとき、かれらの心におおいが垂れている」(コリント後書3章)と言い、この状態では「天主によろこばれず、人類の敵となり」、「ここにおいて、かれらの上に天主の怒りは、極みに及んだ」(テサロニケ前書2章)とまで言います。

 聖ペトロは、聖霊降臨の日に「イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架にかけたそのイエズスを、天主が主とし、キリストとされたことを、しかと知らねばなりません。・・・くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」と宣言しました。


● 2001年には、フランスの司教教義委員会(la commission doctrinale des Eveques de France) は、「天主の啓示に深く忠実」であるとして、バイヤール版の聖書(la Bible des editions Bayard)勧めました。しかし、この版の聖書は聖福音に書かれている事実の歴史性を否定しているものです。曰く「初代のキリスト者たちは、歴史のイエズスよりも信仰のキリストにもっと関心を抱いていた」と。


● 2003年、リモージュの司教であるデュフール司教(Mgr Dufour)は、ミサの時に説教台からこう説教しました。「私たちは天主が存在するのかよく知らない。私たちはそのことを科学的確実性で知るのではなく、信仰において知るだけだ。」


 しかし聖パウロは、天主の存在は信仰なくしても理性だけで確実に知りうると教えています。第一バチカン公会議もこう宣言しています。
「3026(1806)(1) 創造者であり,われわれの主である唯一の真の天主を人間理性の自然的な光によって被造物の中から確実に認識することができないと言う者は排斥される(*3000参照)。」

● 1996年、ベルリンでの講話会の際に、ドイツの司教協議会委員長であるカール・レーマン司教(現在は枢機卿)は、ルターのことを「共通博士」(der gemeinsame Lehrer)と呼びました。しかしこれは通常聖トマス・アクィナスに対してなされる呼び方です。


● 2006年に出版された「フランス司教黒書」(Le livre noir des eveques de France, par Remi Fontaine)というがあります。

 その中で、著者のルミ・フォンテーヌは「フランスの迫り来ている嘆かわしい背教とその現行の無能性」を示しています。この「黒書」からの幾つか例を拾ってみると、

 フランスの司教たちは「フリーメーソンが語るように」、フランスの国家が無宗教であり政教分離しているために戦っています。しかし哲学者ルネ・ジラール(Rene Girard)は、1905年に成立したフランスの政教分離の法律について、「その他これと同類のいかなる法律よりも、キリスト教にとって悪しきものである」と表現しています。


● この「黒書」はフランスで1975年に堕胎の法律が成立したのは、フランスの司教たちが沈黙を守り反対の声を上げなかったからであることを示しています。堕胎賛成をしていたイスラエル・ニザンは「事実上、カトリック教会はこのことについて賛成していたことを多くの人々は知らない」また「カトリック教会は根本的にこの法律に反対しなかった」告白しています。当時、この法律に反対していたカトリックのルジョン教授(Professeur Lejeune)は、パリの補佐司教から「天主の御前で私はあなたに言う。あなたは悪しき信者だ。」と罵られました。サンスの大司教は、堕胎をする人々の回心を願って抗議のためにロザリオの祈りを唱えているカトリック信者たちに向かって「手段の腐敗させている」と非難しました。


● バルバラン枢機卿(Cardinal Barbarin)は、堕胎法律を推進していたフェミニスト議員、シモーヌ・ヴェーユ(これは有名なフランスの女性哲学者とは別人)とリヨンで親しく会っていました。


● サンチエ司教はカトリックの道徳のせいで「男性と女性とが彼らの個人的・社会的生活において教会の強制によって苦しんだ」ことを謝っています。


● ポワチエでは、ルエ司教がコンドームを賞賛して「唯一の病気を防ぐ手段」として必要であると言い、堕胎の法律に反対している国民戦線(Front National)の党員の子供には洗礼を授けることを拒否しました。ルエ司教曰く「国民戦線のイデオロギーはナチと関係があると私は断言する。」


● 1998年、フランス司教協議会委員長であるダヴィド司教は国民戦線の党について「キリスト教の価値と多くの点で」反すると言います。2002年にはジプソン司教は司教の権威を使って「私は、ル・ペンとその党(=国民戦線)に反対することに投票します」と宣言しています。


● レユニオンでは、オブリ司教は、フランスの国民的一致のために、キリスト教的祝日を廃止することを説教しました。


● アミアンでは、ノワイェ司教はル・モンド紙に、司祭独身制について「教会の規律を緩和すべきだ」という望みを掲載させています。


● サン・ドゥニではド・ベランジェ司教は、パリ郊外の暴動事件について「民主主義に対する脅威」であるけれども、「民衆に関して経験がある効果的な組織である」共産党が幸いにもある、と安心しています。だから共産党という「むしろ良い」存在は、「危険な現象」である国民戦線の存在を打ち消すと言います。


● カトリック教会は教会法(1398条)で、堕胎をする母親、医者、手伝う看護婦、堕胎を励ます・勧める・同意する・協力する全ての人々、たとえば父親・友人などを自動破門にしています。司教たちは、堕胎をゆるす立法に賛成する議員やそれに賛成の投票をする者たちは皆、破門であることを宣言しなければなりませんでした。しかし司教たちは沈黙を守ることによって堕胎の罪に協力したのでした。(つまりほとんどのフランス司教たちは、自動破門に相当する罪を犯していたのでした!)


● オンタリオ(カナダ)の司教とボストン(アメリカのマサチューセッツ州)の司教は、自分の教区の司祭たちの半数は全実体変化を信じていないと認めています。しかしそれに対して何もしていません。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


● オコーナー枢機卿は、多くのアメリカの司教たちが「教皇様を憎んでいる」と言っている。ガニョン枢機卿は「ほとんどのアメリカの司教たちは宣言されていない離教状態にいる(Most American bishops are in material schism.)」と認めました。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


 歳月が経つにつれて、状況は良くなるどころか、ますます悪化の一方で止まるところを知りません。


救霊の大切さ:何故なら霊魂を失ってしまうならばすべてがパーになってしまうから。 もしも一回失ってしまったらもう二度取り返しがつかないから

2024年02月01日 | お説教・霊的講話

­2024年1月28日(主日)名古屋でのミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年1月28日、七旬節の主日です。

二つお知らせがあります。一つは、来る2月の14日水曜日は、灰の水曜日です。公教会の規定によると、灰の水曜日には健康な成人の男女は、満十八歳から五十九歳までの健康な成年男女は大小斎を守らなければなりません。大斎というのは一日に一回充分な食事をとることです。そして小斎というのは肉を食べないことです。教会には、現在のところ二回――以前は多くの大小斎がありましたが――現在ではたった二回の大小斎が残っていて、それが灰の水曜日と聖金曜日です。灰の水曜日には寛大に犠牲をお捧げください。
二つ目は、2月の名古屋の予定です。二月も最終の主日にまたおこなわれます。たくさんのお友達を連れていらしてください。心からお願い申し上げます。

七旬節の主日、この七旬節というのは、四旬節の前にすでに教会が私たちの少なくとも心の準備をするように、と招いています。そして特に七旬節には「私たちには今からとっても大切な大仕事がある」ということを思い出させます。それは何かというと「救霊の大切さ」です。私たちの霊魂がどれほどの価値があるものか、これから私たちがやろうとしている大事業はどれほど重大でものすごく莫大な利益をもたらすものであるか、ということを教会は思い出させようとしています。ですから今日はそのことを一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様がおっしゃった言葉があります。そこからなぜいったいなぜ救霊が重要なのか、2つの点を見てみましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」主はこうたとえを出します。この主人、“ぶどう畑ではたらく人をやとうこの主人”というのは、天主のことです。“ぶどう畑ではたらく人”というのは、私たち人間のことです。

「ぶどう畑ではたらく」というのは、聖クリゾストモによると、わたしたちが聖徳を身につけるようにすることです。聖グレゴリオによると、「ぶどう畑」とは、カトリック教会のことです。なぜかというと、イザヤの預言に「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のことである」(イザヤ5:7)とあるからです。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ぶどうの畑に植えられている木の一つ一つは、私たちの霊魂のことです。主が私たちに与えた霊魂、それがぶどうの木にたとえられています。

ぶどうの畑ではたらいた人々は、夕方つまりこの世の終わりに、また人生の終わりに、報いを受けるということを意味しています。私たちは永遠の命という報酬を受けるために、この地上ではたらいています。

イエズス・キリストの教えというのは、ほかでもない超自然の天国の幸せを受けるということを教えています。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。私のために、あなたたちをののしり、あるいは責め、人々が、数数のざん言をいうとき、あなたたちはしあわせである。よろこびによろこべ。あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう。」

イエズス・キリストの教えは、商売繁盛・試験合格・交通安全・家内安全などではありません。天国の、永遠の朽ちることのない尽きることのない無限の天主と同じしあわせを私たちも受ける、ということでした。超自然のよろこびです。イエズス・キリストが教会を制定したのは、私たちが永遠の命を受けるためでした。教会の創立の目的は、永遠の命だからです。

私たちが洗礼を受けるときに、教会は私たちにこう尋ねます。
「あなたは天主の教会に何を求めますか?」 
「信仰を求めます。」
「信仰はあなたに何を与えますか?」 
「永遠の命です。」
私たちが使徒信経を唱えるとき、その最後はもっとも美しい言葉で終わります。
「永遠の命を信じ奉る、アーメン」。

教会は、私たちに人生の終わりに起こる四つの真理を、何度も何度も繰り返し教えています。死・審判・地獄・天国、これはどうしてもわたしたちが避けることができない現実だからです。好きでも嫌いでもこれが真理であるからです。人々は残念ながらこの真理をまったく知らないであるいは忘れて生活しています。

今日たとえば 名古屋駅からここまで歩いてくるときに 多くの人たちが駅で美しい服装できれいにお化粧して楽しそうに若い人も大人も歩いていました。しかしどれほどの人が、とても大切な救霊のために生きているということを生活しているということを、知っているでしょうか。あたかもわたしたちはこの死ぬことがないかのように、この世界に永遠に生き続けるかのように、この世の生活だけがすべてであるかのように、生活しています。カトリック信仰を持っているという人であっても、私たちが一生の終わりにすべてを天主に報告しなければならない、裁きがあるということを考えていないかのように生活しています。永遠の命という人生の究極の目的について、知らずに、あるいはすっかり忘れて、あるいは無関心に、この世のことだけにおぼれて、この世のことだけがすべてであるかのように思い違いして生活している人がどれほど多いでしょうか。

ですから、そうではなくて、教会は、「ちょっと待て!すごい大切なものを忘れている。私たちは今一生懸命働いているかもしれない。しかしもっとものすごいもののために私たちはいま生きているんだ。」ということを教えようとしています。

もしかしたら、名古屋の駅にいる人達は私たちに言うかもしれません。
「わたしはね、数億円のビジネスをやっているんだよ。おくりびとだよ。神父様ね、儲かったからちょっと教会を買ってあげるね、でもそれまでは忙しいの」と。  
そんな方に教会はこう言います。「でもね、私たちは、いくらお金を積んでも何百億円でも何兆円でも何京円でも決して買うことができない、ものすごい永遠の命のためにいま働いているんだよ。お金じゃ絶対買えないんだ。永遠の命というのは。」教会はそれを私たちに言おうとしています。

ではなぜ救霊というのが大切なのでしょうか。
なぜかというと、もしも私たちが霊魂を失ってしまうならば、つまり地獄に落ちてしまうならば、すべてがパーになってしまう、もう全部失ってしまうからなんです。
もう一つの理由は、もしも一回これを失ってしまったら、もう二度取り返しがつかない、もうそれっきり、チャンスはもう二度とない、一発勝負、これで最初で最後、これを逃したらもうない、だから今! だからなんです。

ではまず第一に、もしもいまこの救霊を失敗したら、霊魂を失ったら、すべてがパーになってしまうということを考えてみます。
わたしたちは、わたしたちの持っているこの霊魂の貴重さ、救霊の大切さを知らないかもしれません。でも、天主はわたしたちをご自分の似姿に肖像に似せて創造されました。ご自分の命に与る者として創られました。わたしたちを愛して、そしてこの私たちを天国に連れて行くために御自分の命を天主の命を与えるために人間となって、そして十字架につけられてご自分の天主としての血潮をすべて流して、罪を贖われました。天主にとって私たちの霊魂は、命に代えてすべてに勝(まさ)って大切なものだったのです。聖ペトロはわたしたちにこう言っています。「あなたたちは、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたというのは、金銀など朽ちるものによるのではない。きずもない汚点もない小羊のように、キリストの尊いおん血によって贖われた、それほど貴重な霊魂だ」(ペトロ前1:18-19)と言っています。

三位一体の天主だけではありません。悪魔でさえもわたしたちの霊魂がどれほど貴いかということを知っています。人間の霊魂を奪うために、悪魔は日夜、眠らずにわたしたちの霊魂を狙っています。地獄に引きずり降ろそうとしています。聖ペトロはこうも言っています。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)

聖パウロは、わたしたちが落ち着いてそれぞれの仕事について手ずから働くように努めよ、と言っています。そして、それを誇りにしろ、と言っています。つまりわたしたちは一生懸命仕事をしなければなりません。(テサロニケ前4:10)この世の人々は、もちろんそうです。ビジネスの成功のために一生懸命働いています。顧客の満足のために、あるいは利益がどうやったら生まれるだろうか、いろいろ計算して、コストカットして、あるいは夜も寝ずにエクセルシートを計算して、あるいは設計図を書いて、あるいは電話をしてEメールを書いて、食べるまもないほど一生懸命汗を流して働いています。またある人は自分の健康のためにはすべてを尽くしています。
どんな遠い病院であろうと、どんなに汽車賃がかかろうと新幹線代がかかろうと、健康のためならいい先生を見つけて移動します。何時間のどんなにつらい手術であろうと、どんなに長い待ち時間があろうと、高い薬であろうと、健康のためであればなんでもやります。

ところで光の子である私たちは、霊魂の救いという途轍もないビジネスのために大利益のためにどれほど熱心に働いているでしょうか。またわたしたちの霊魂の救いという健康のために、どれほど熱心にこの霊魂が病に罹らないように注意しているでしょうか。どんなに遠くてもミサに通う、どんなに辛くてもする、という覚悟はどれほどあるでしょうか。イエズス様はこう言われます。「よし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それがいったい何の役にたつのか。」(マテオ16:26)

もしも私たちが天国に行くのであるならば、霊魂を救うことができれば、この世のすべてが失われてもたいしたことはありません。なんの困ったこともありません。重要でもありません。なぜかというとこの世のものはいつかは終わることですし、そして今では、完全なしあわせを尽きることなく終わることなくよろこぶことができるからです。なんの悲しみも辛いこともない歓びに満たされるからです。

しかしもしも霊魂を失ってしまうのならば、つまり、地獄に堕ちてしまうようになってしまったとしたら、今この世でどれほどの大成功、莫大な富、名声、快楽を楽しんだとしても、車が何十台あったとしても、プライベート・ジェット機を持っていたとしても、それがいったい何の役にたつのでしょう。地獄で苦しんで、終わりなく苦しむのであれば、それがいったい何になるのでしょうか。イエズス様が言います。「よし、全世界を設けても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つのだろう。」

ロヨラの聖イグナチオという人は、パリで、フランシスコ・ザベリオと会いました。フランシスコ・ザベリオはその時は法学を勉強して将来は大成功をなして貴族にのし上がろうとしていた男でした。するとそのときに、イグナチオはこう言いました。「フランシスコ、おまえはいったい誰に仕えているのか? おまえはこの世に仕えている。でもこの世は裏切り者だ。なぜかというと、この世は、約束はするけれども約束は守らないからだ。たとえ約束を全て守ったとしても、それがいつまで続くのか? おまえの生きているよりももっと長く約束を守るのか? いや おまえが死ぬとすべてそれで終わりだ。お前が死んだあと、もしもおまえの霊魂が失われるのなら、その約束がいったいどんな役に立つのか? 全世界をもうけても自分の霊魂を失ったらそれがいったい何の役にたつのか?」

イエズス様は聖マルタにこう言いました。「マルタ、マルタ、心要なことは少ない。いやむしろただ一つだ。」(ルカ10:42)必要なことはたった一つ、私たちの霊魂を救うことです。天国に行くことです。これだけが、私たちにとって最も必要です。絶対に必要なことです。何故かというと、私たちは天国という永遠の栄光を得るために、この世に生まれてきたのです。私たちが天国の栄光という喜びを得るために、天主は人となったからです。私たちが天国を得るために、イエズス様はすべての血を流されて、十字架の苦しみを甘んじて受けたからです。私たちがいまここに生きているのは、天国のためだからです。もしもこの世で、皇帝のように、全世界を支配して、全てのよろこびとしあわせを掻き集めて、そしてもうこれ以上楽しむことができないというほど楽しんだとしても、死の瞬間はそれがどうなってしまうのでしょうか。死の瞬間、ちょうど夢から覚めたように、ハッ永遠という現実に目覚めます。永遠の世界が始まります。その時、今までのこの地上のことはアッという間に消えて、虚(うつ)ろに無くなってしまいます。過去世界中にいろいろな皇帝、専制君主、王、君、大名、いろいろな人々がいました。豪奢な生活を送って羽振りがよく、この道路を肩で風を切って歩いていました。へへぇーと跪いて土下座して迎えたような人々がいます。ちょっといえばなんでも、何万という家来が動いた、動かせた人がいます。そのような人たちにいま聴いてみます。
「いま昔持っていた権力や富・力はどこにあるのですか?」
「何にもない、何にも残っていない。」

ですから、聖フランシスコ・ザベリオは私たちにこう言っています。この世には一つの善と一つの悪しかない。善というのは霊魂を救うこと、悪というのは霊魂を失うことだ、と。私たちにとって、求めなければならないひとつのことがあります。それは「主の家に住まう」、「天国に行くこと」、それです。

また、第二の点は、霊魂が一度失われてしまうとこれは永久に失われるということです。

すべてがパァーになるのみならず、もうそれっきりだということです。わたしたちの人生はたった一回しかありません。わたしたちは一度死にます。一度だけです。そしてその死の瞬間に永遠が決まってしまう。永遠は二つしかありません。永遠のしあわせ、天国。あるいは永遠の不幸、地獄。――これだけです。わたしたちが死の瞬間、それが決定します。もしも大罪の状態で死んでしまうのなら、永遠に不幸になってしまうのです。永遠に失われてしまう…。もしもわたしたちが成聖の状態で天主の友として死ぬならば、天国に行くことができます。霊魂は一つ、永遠も一つです。

もしもこの世で失敗したならば、家を火事で焼いてしまった、交通事故で車が潰れてしまった、怪我をして骨を折ってしまった。やり直しができます。事業を新しくすることもできます。開拓することもできます。再生することができます。でも霊魂を一度失ってしまうと、それっきりです。二度と恢復(かいふく)はできません。やり直しもできません。ああすればよかった、とわかっても、もう後の祭りです。天国に行くのはどれほど簡単だったのか、あの被造物、あれを選ばなければよかった、天主の言うとおりにすればよかった、儚い煙のようなあのために、あの嘘、あのお金、アレのためにすべてが失われた。もしもわたしたちがビジネスで間違った注文をしてしまった、間違った設計をしてしまった、損害があった、何百万円パーになってしまった、ああもったいなかった、ああ―、悔やんで 悔やんで 悔やんで、残念に思うかもしれない。しかし、霊魂を失って、天主を失うならば、永遠に永久に取り返しがつかなかったら、わたしたちは悔やんでも悔みきれません。
ああ、なんであんな馬鹿なことをしたのか、すべては自分の落ち度だ。あの時、あれさえしなければ、あんな簡単なことがなぜできなかったのか。‥‥‥。この地上のものはすべていつか終わりを遂げます。この世からわたしたちはいつの日か立ち去らなければなりません。しかし、天国を失うということは、地獄の永遠の苦しみというのは、私たちにとって消えることのない永遠の問題です。

では最後に遷善の決心をたてましょう。
ですから、今日は、教会は声を大にして聖パウロの言葉を繰り返して言います。
「兄弟たちよ、賞を受けるために走れ。競技で戦う力士はみな、万事をひかえ慎む。彼らは朽ちる栄冠を受けた。しかし、私たちは朽ちない栄冠のために生きている。」
ですからちょうど私たちは、この世という競技場で悪と罪とに対して戦う力士のようです。永遠の命という褒賞(ほうしょう)を受けるために戦っているアスリートです。この世のアスリートたちが、金メダルを得るために、どれほどの苦しい訓練を朝から晩まで毎日毎日毎日やって、食べ物を節制して、走って、そして練習して、走って、練習して、そして、特訓を受けて…どれほど犠牲の生活をしているか、私たちはよく知っています。プロの選手もそうです。いい体に一番いいものを食べて、云々…私たちもその真似をしなければなりません。

私たちも罪の機会を避け、誘惑に抵抗して、被造物を天主より愛することがないように機会を慎んで、そして頻繁に最高の栄養つまりお恵み――天主の与えた秘跡に与らなければなりません。聖伝のミサ聖祭に与らなければなりません。イエズス様は言いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の人がそれを奪う」(マテオ11:12)一生懸命そのために勝ち取ろうとする人が天国に入るのだ、と言っています。日本のキリシタンたちもそうでした。日本にいた無数の何百万という殉教者たちがそうでした。永遠の救霊を確保するために朽ちることのない栄冠のために、キリストのためにすべてを放棄しました。この世のことは、いつかは終わってしまうのです。ですからいま、永遠の殉教と命の冠をいただいて、よろこんで選善の決心を立てましょう。たとえ世の人々が自分の救霊・霊魂について全く無関心冷淡であったとしても、わたしたちはこのものすごい莫大な宝を得るか得ないかというこの大事業、失敗が許されない大事業のために全力を尽くすという決心を立てましょう。この救霊のためにイエズス様は命さえも惜しみませんでした。多くの人々が世間体を気にしてこの世の精神に流されていたとしても、テレビを見てユーチューブを選んで、私たちを見てへらへら笑っていたとしても、私たちはもっと大切なことがあると理解いたしましょう。イエズス・キリストの精神に従うという決心を固めましょう。

四旬節の決心のことを考えてください。スマホやケータイの使用を制限するという決心はいかがでしょうか。眼の慎みをするという決心はどうでしょうか。祈るために時間を確保するという計画をたてるのはどうでしょうか。マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は私たちの霊魂がどれほど価値があるか、どれほど大切であるか、永遠の命とはいったい何かということをよーく御存じです。ほかのものと決して交換することができない、ものすごいものです。私たちはそのために生きているんです。天主の御血が流されて、そして贖われて、買い求めて、それほど貴重なものです。そのイエズス様の御血が無駄にならないように、私たちの救霊が「ああ~なんだ、あんなために…」と後で悔いることがないように、天主のお恵みにいつも忠実であるように、マリア様にお祈りいたしましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 D 同性愛者を「包摂する」

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

D.同性愛者を「包摂する」

71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。

教会の開かれた兄弟愛的なビジョンでは、同性愛者、そしてより広くはLGBTの各個人は、教会の生活に取り込まれる必要のある「疎外された少数派」の一つです。アーヘン教区のシノドスへの提案には、「男女平等な教会への変化を望みます」とあります(124)。シノドス推進派にとって、包摂をもたらすためには、教会の道徳的教理を変えなければなりません。

72.教会は同性愛についてどう教えていますか。

カトリック教会のカテキズムは次のように述べています。「同性愛行為を重大な堕落の行為としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。同性愛の行為は生命の賜物に対して閉ざされています。同性愛の行為は真の感情的・性的の相補性から生じるものではありません。どのような場合であっても、同性愛の行為を認めることはできません」(125)。

このような理由から、明らかな同性愛の傾向を持つ人は、常に司祭職や修道会から排除されてきました。少し前まで、神学校はこの点について特に警戒していました。教皇ベネディクト十六世によって承認された2005年のバチカン文書にはこうあります。「この豊かな教えに照らして、本教令は、養成の全期間において注意深い識別を必要とする情動性および性の領域におけるすべての問題に言及することを意図しているわけではありません。むしろ、この教令には、現在の状況によって緊急性を増している特定の問題、すなわち、「根深い同性愛の傾向を持つ候補者に、神学校入学や聖なる叙階を認めるかどうか」(126)という問題についての規範が含まれています。

73.教会は同性愛者を拒絶しますか。

教会は罪を拒絶しますが、教会が回心を呼びかけている罪人は拒絶しません。カトリック教会のカテキズムは非常に明確です。「同性愛の人々は貞潔に招かれています。内面の自由を教える自己修養の徳によって、時には無関心な友情の支えによって、祈りと秘跡の恵みによって、彼らは徐々に、そして断固としてキリスト教的完徳に近づくことができるし、そうすべきです」(127)。

74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。

「Synodaler Weg」や普遍シノドスの多くの推進派が提唱している意味において、同性愛者を「包摂する」とは、いかなる制限や道徳的回心の呼びかけなしに彼らを教会に受け入れることを意味します。言い換えれば、それは罪人だけでなく罪も受け入れることを意味するのです。

おそらく、サン・ディエゴ大司教のロバート・マッケルロイ枢機卿ほど、このテーゼを明確に述べた人はいないでしょう。イエズス会の雑誌「アメリカ」に掲載された記事の中で、彼はシノドスには「教会から結婚無効宣言を受けずに離婚して再婚した人、LGBT共同体のメンバー、世俗の結婚はしていても教会で結婚していない人々も含めるべきです」と述べています(128)。

この包摂は、客観的に公然の罪の状態で生きている人々がご聖体を受けることを意味します。「私は、天主の恩寵を熱心に求めている離婚して再婚した人やLGBTのカトリック信者には、断じて聖体拝領を禁じるべきではないと提案しました」(129)。

75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。

はい。「Weg」の準備文書はこう述べています。「司牧の役務の方向転換は、教会の性についての教理の大幅な入れ替えなしには不可能であると確信しています。…特に、性交渉は合法的な結婚の文脈においてのみ、また子孫を残すことに永続的に開かれている場合のみ、倫理的に合法であるとみなす教理は、教導権と信者との間に広範な断絶をもたらしました」(130)。

同様に、「Weg」の別の文書はこう述べています。

したがって、同性愛の性的指向――また性行為において実現される――は、天主によって罰せられる罪ではないし、本質的に悪とみなされるものでもありません…。
1.この同性愛の再評価の過程で、とりわけ、(カトリック教会の)カテキズムの2357-2359番と2396番(同性愛と貞潔)が改訂されるべきです。「同性愛の行為」は「貞操に反する重大な罪」のリストから削除されなければなりません(131)。

しかし、別の文書は非常に明確です。「シノドスの任務の一つは、同性愛指向と同性間の関係に対する新しい見解を発展させ、その開放に向けて努力することです」(132)。

シノドス総括報告者であるルクセンブルクのジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿もこれに同意しています。同枢機卿は、同性愛関係についての教会の教理は「誤り」であり、したがって、「そのような教えの社会科学的基盤はもはや正しくない」(133)ため、変えなければならないと宣言しました。

他の司教協議会もこの意見を共有しています。例えば、フランスの司教たちは最近、カトリック教会のカテキズムを修正し、同性愛の行為を「本質的に秩序を乱すもの」で「自然法に反する」と非難しないよう教皇に要請しました。フランス司教協議会は、このテーマに関する教理の再定義を研究する神学者の委員会を指定しました(134)。

76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。

「Weg」推進派は性道徳への新しいアプローチを提案しています。それはもはや天主の法や自然法に基づくものではなく、他者に対する自分の責任を自己認識することに基づくものでなければならないのです。「Synodaler Weg」の副会長であるトーマス・セディング教授は、「この問題の解決策は、教会の教えにおける人格と性的指向の関係を再定義することにあります。…個人の責任は、社会的寛容と教会による受容と相まって増大します。教会は、どのような場合に虐待(侵略的行為)があり、どのような場合に人権と尊厳が攻撃されるのかを明確に定義しています。しかし、教会はまた、(人々の)性的実践をスパイすることなく、他者と自分自身に関する性的自己決定と責任を定義しています」(135)。

77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。

いいえ。シノドスの旅における大陸ステージの結論文書(大陸統合)のほとんどすべてが、LGBTの人々を含める必要性について明確に言及しています。

さらに、高い地位にある高位聖職者たちも同様の立場を取っています。例えば、すでに述べたように、シノドス総括報告者のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、同性愛に関する教会の教えを変えることが必要であると考えています。

サン・ディエゴ司教のロバート・マッケルロイ枢機卿は、普遍的なシノドスは、女性の司祭叙階の問題を含むいくつかの教会の教理を検討する適切な機会であると主張しています。しかし、彼の主眼は「LGBTの人々を根本的に包摂すること」にあります。

このカリフォルニアの枢機卿にとって、同性愛指向を持つ者が罪を犯さないようにすることと、同性愛の行為によって罪を犯すことを教会が区別することは、聖体拝領や教会生活への積極的な参加について共同体を分断することになり、司牧上不都合とされます。すべてのLGBTの人々は、教会のような区別をすることなく、「天主の子としてのすべての人の尊厳」に基づいて受け入れられるべきと言うのです(137)。

78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。

はい。シノドス推進派にとって、同性愛者を教会に「包摂する」ことは、すべての秘跡は彼らに開かれることを意味します。カトリックの教理や教会の規律と真っ向から衝突する同性同士の「結婚」を認めるわけにはいかないため、一部の司教協議会は「祝福」(Segnung)を与えることを選択しています。

例えば、2022年、フランドル地方の司教団は、同性愛カップルのための「祝福の儀式」を承認し、後に「Synodaler Weg」で採択されました。

この考えは新しいものではありません。2015年の「家庭に関するシノドス」において、ドイツのカトリック中央委員会は、「典礼形式のさらなる発展、特に同性パートナーシップ、離婚者の新しいパートナーシップ、家庭生活における重要な決定のための祝福」を提案しました(138)。

79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。

いいえ。それどころか非難しています。2021年3月15日にドイツの司教団に送られた、同性の人々同士の結合の祝福に関する質問に対する教理省の回答はこう述べています。「同性の人々同士の結合の場合のように、婚姻外の性的行為を伴う(すなわち、生命の伝達に開かれた男女の解消できない結合以外の)関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても許されません」(139)。

80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

ドイツの司教団や欧州の各司教協議会の中には、バチカンの拒否権に公然と反抗しながら、活動を続けているところもあります。

例えば、ドイツの多くの教会では、同性愛カップル、「再婚した」離婚者、同棲カップルなどを含む「代替カップルのための祝福、祝福の儀式、祝福祝い」を提供しています。教会のファサードには「Liebe ist alles」(愛がすべて)と題されたポスターが貼られ、二人の男性が接吻をしている姿が描かれています。アーヘンのように教区が主導している場合もあります。

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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 B 教会の民主化 C 女性の叙階

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。


B 教会の民主化

64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。

「Weg」推進派は、教会の権威の体系を大きく変えるために、教会の位階構造を解体することを提案しています。そうすると、決定権を持つ信徒評議会が司教の権限を制限することになります。信者は、いわゆるシノドス評議会を通じて、全国レベル、教区レベル、小教区レベルで参加することになります。この教会の民主化は、「Synodaler Weg」の最も議論の的となった点の一つです。

2022年9月の第4回シノドス総会では、常設の全国シノドス評議会の設立を議論する委員会が承認されました。この評議会は、司教、司祭、信者で構成され、シノドスの旅の決議の実施を保証し、長期にわたって永続させるべきものとされています。この評議会は、単なる諮問機関ではなく、意思決定権を持つ審議機関でなければならないとされます。教区司教よりも大きな権限を持つ組織となるでしょう。

65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。

いいえ、なぜなら一部の司教が反対したからです。このような議会制度を教会に導入することは、保守派ではないヴァルター・カスパー枢機卿でさえもつまずかせてこう言いました。「シノドスを恒久的な機関にすることはできません。教会の聖伝は、シノドスによる政治などというものを知りません。現在構想されているようなシノドスによる最高評議会は、(教会の)構成体の歴史全体において何の根拠もありません。それは刷新ではなく、前例のない革新になるでしょう」(116)。

66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。

いいえ。2023年1月16日付の書簡で、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は、ルイス・ラダリア枢機卿(教理省長官)、マルク・ウエレット枢機卿(司教省長官)とともに、シノドス評議会の設立を拒否しました。教皇によって承認されたこの書簡にはこうあります。「『シノドス評議会』は、ドイツの教会の新たな統治機構を構成するものであり、…ドイツ司教協議会の権威の上に立ち、事実上、それに取って代わるものになってしまうと思われます」。この書簡はさらにこう述べています。「シノドスの道も、それによって設立されたいかなる組織も、いかなる司教協議会も、全国、教区、小教区レベルでシノドス協議会を設立する権限を持っていません」(117)。

この立場は、2022年11月の教皇庁訪問(ad limina visit)の際、ドイツ司教団に公式に伝えられました。当時の司教省長官マルク・ウエレット枢機卿はこう宣言しました。

「私はすでに(ドイツの)司教たちにはっきりと言いました。…これはカトリックではありません」。
このようなドイツの公会議は、「カトリックの教会論、そして司教の唯一無二の役割に一致しません。司教の役割とは、司教聖別のカリスマに由来するものであり、また、司教が教え決定する自由を持たなければならないことを意味するものだからです」(118)。

2023年3月にフランクフルトで開催された第5回にして最後のシノドス総会の開会式で、教皇大使であるニコラ・エテロヴィッチ大司教は、シノドス評議会の設立を認めないバチカンの姿勢を改めて表明しました。

67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

はい、最後の第5回シノドス総会では、白熱した議論の末、教区・小教区におけるシノドス評議会の設置を決定すべき「教会における権力と権能の分離-共同参加と宣教への参加」という文章は採決されませんでした。いずれにせよ、あらゆるものが示しているのは、「Synodaler Weg」が、各教区にそのような機構を設置することを司教団に委ねることで、事実上それを実施するだろうということです。

C.女性の叙階

68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。

女性は教会生活に「包摂」される必要のある「疎外された少数派」の一つであるとされています。この目的のために、彼女らはあらゆるレベルの権威と聖なる品級の秘跡を受ける機会を持つべきです。アーヘン教区の提案には、「シノドス第3回総会で行われた良い仕事のおかげで、すべての神学的な議論がテーブルの上にあるのですから、ディーザー司教さま、あなたが女性が助祭や司祭として想像できるかどうかを表明してくださると私たちは期待しています」と書かれています(119)。

第3回ドイツ・シノドス総会で、「Weg」は、「召命されたと感じ、秘跡の役務に方向付けもするカリスマを持つ女性を排除すべきではありません」と決定しました(120)。この目的のため、「Weg」推進派は、この可能性を厳しく排除しているこのテーマに関する公文書について議論すべきだと言います。

教会の教理と規律に反すると分かっていながら、「Weg」推進派はこの路線で前進する決意を固めているようです。「ローマ・カトリック教会では、シノドスの道委員会が主導的な役割を果たす透明な過程が透明な方法で開始されます。あらゆる性別の人々の秘跡の役務を専ら取り扱う委員会が設立されるでしょう」(121)。

69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。

いいえ。教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿は最近、ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オリディナチオ・サチェルドス」(Ordinatio sacerdotalis)を引用して、この件に関する教会の教導権の決定的な立場を再確認しました。この書簡はこう締めくくっています。「したがって、非常に重要な問題、天主により造られた教会の構造(divine constitution)そのものに関わる問題に関して、すべての疑念が取り除かれるように、兄弟たちを固める(ルカ22章32節参照)私の役務により、私は、教会には女性に司祭叙階を授けるいかなる権限もないこと、そして、この判断はすべての教会の信者によって決定的に保持されるべきものであることを宣言します」(122)。

70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

いいえ。雑誌「Publik Forum」は次のようにコメントしています。「カトリックの教理に詳しい人なら誰でも知っていることだが、秘跡の叙階は究極的には一つしかなく、それは三つの段階(助祭、司祭、司教)からなる。いったん助祭職が女性に開放されれば、女性の司祭職への『滑り台』のような効果がある」(123)と。


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