Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

旧約時代では罪のない人が守られることができた。新約では罪のある人さえも赦されることができる。イエズス・キリストが私たちの代わりに罪を贖われるから。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月9日 大阪での説教

トマス小野田神父

今日の書簡は非常に長い朗読でした。書簡で読んだ内容は、罪のない裕福な男性ヨアキムの美しい妻スザンナが、まったく無罪であるにもかかわらず、偽証によって二人の老人によって告発されて、死刑を受けなければなりませんでした。そのとき、預言者ダニエルがやって来て、スザンナが無罪であることを証明して救われる、ということです。

それにくらべると福音は短いものでした。福音では、どのような事情であったのか詳しい事情は明かされてはいませんが、姦淫の罪の現行犯で逮捕された女性が、その現場で逮捕され、そしてファリサイ人たちによってイエズス様の前に連れていかれます。ファリザイ人は確かにモーゼの掟を守るというつもりでしたが、しかし同時にイエズス様を罠にかけようとしました。

イエズス・キリストはいったいモーゼの掟に反対するのか、あるいは従うのか…。律法によると、このような罪を犯した者はすぐに石殺しに死刑にならなければならない、あなたはなんというのか…。

イエズス様は
「罪がない者がまず先に石を投げろ。」
といいます。
そして、老人から始まって、誰もいなくなります。

イエズス様は、ただひとりこの罪の女と残されて、
「お前を告発した人々はいったいどこにいるのか。誰もいないのか。」
というと
「誰もいません。」
「それならわたしもおまえを告発しない。もうこれ以上罪を犯すな。」
といって赦されます。

旧約時代では、罪のない人が守られる、とするのが精一杯でした。
しかし、新約では罪のある人さえも赦され、イエズス・キリストのあわれみがあらたに明らかにされます。

だからといってイエズス様は、罪なんかどうでもいいよ、というのではありません。この四旬節にこれが読まれるのは、実はイエズス様がこの罪の女に代って、ご自分がその受けるべき罰をすべて背負って自分が受けるから、お前はその罰を免除される、だからもう罪を犯すな、とあわれみを受けるわけです。

では選善の決心を立てましょう。
わたしたちも実はこの福音の罪の女のようでした。わたしたちの霊魂は、本当なら天主を愛すべきであるにもかかわらず、それよりも被造物を、あるいは自分を選んで、その愛すべき天主に裏切りを犯してしまったからです。本来ならば、律法によると、おきてによると、わたしたちは永遠の地獄の火に永遠の死を受けるべきものでした。

しかし、イエズス様がわたしたちに代って御受難を受ける、贖いの業をしてくださったので、わたしたちの罪はそして罰は赦されました。

この現行犯で捕まった女性は今後イエズス様にどれほどの愛と忠実を誓ったことでしょう。このことを一生恩人として忘れなかったことでしょう。

ですから、わたしたちもイエズス様に、罪を赦されたことを感謝して、イエズス様にもはや罪を犯すなといわれた言葉を心に刻むことにいたしましょう。マリア様にお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


訃報:ヴィトゥス・フオンダー司教は天に召されました

2024年04月07日 | カトリック・ニュースなど

訃報:ヴィトゥス・フオンダー司教は天に召されました。

2024年4月3日(聖水曜日)に、ヴィトゥス・フオンダー司教(Bishop Vitus Huonder)は霊魂を天主に委ね永遠に旅立ちました。

フオンダー司教は、今年の3月19日に入院し、天主の御摂理に完全に御自分を委ねつつ、病の苦しみをカトリック教会のために捧げてこられました。フォンダ―司教は、聖ピオ十世会に対して、特に御自分が引退生活を送ってきたスイスにある聖ピオ十世会の聖マリア校(Institut Sancta Maria)に対して常に感謝しておられました。最後まで司教さまは祈りと御聖体に対する信心の生活を送ってこられました。

フオンダー司教は1942年4月21日生まれのスイス人で、1971年にスイスのクール(Chur)司教区で司祭叙階を受けました。2007年7月8日、ベネディクト十六世によってクール司教区の司教として任命され、2019年5月に引退するまで司教として教会のために働いておられました。

ヴィトゥス・フオンダー司教は、本人の生前からの希望により、クール司教区ではなく、エコンに埋葬される予定です。葬儀ミサは4月17日水曜日午前9時半から始まり、神学校の墓地に埋葬されます。

フォンダ司教はローマからの要請によって聖ピオ十世会を知りはじめました。YouTubeチャンネルの Certamen でのインタビューで司教はこう言っています

「2015年1月9日付の手紙で、私は聖ピオ十世会の代表者たちと対話を始めるようにという命令を受けました。この手紙は、当時のローマ教理省長官、ゲルハルト・ミュラー枢機卿からのものでした。アイデアは、この共同体との友好的な対人関係を構築するためでした。一方、教理に関する問題も議題に上げなければなりません。第二バチカン公会議(1962-1965年)の文書に関連する問題もあれば、ここ数年のローマのいくつかの宣言に関連する問題もありました。特に典礼に関する問題、特に真正のローマの聖なるミサに関する問題は特筆すべきものでした。さらに、教会の自己理解、エキュメニズム、教会と国家の関係、宗教間対話、信教の自由がテーマです。2015年4月9日以来、この任務により、聖ピオ十世会と、総長だけでなく他の代表者たちとも定期的に接触しています。この関係や議論は、聖ピオ十世会の教会法上の承認への道を開くはずのものです。」

この接触によって、フォンダ司教は聖ピオ十世会の本当の姿を内部から知ることになります。インターネットやマスメディアからのうわさや歪曲されたイメージによる知識ではありませんでした。こうしてルフェーブル大司教の書いたものを読み、なぜルフェーブル大司教が公会議以後死ぬまでカトリック教会の教義を守ろうとしたその深い理由を知るに至りました。

「接触が進むにつれて、私は聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教の伝記や著作を掘り下げて調べました。こうして私は、聖ピオ十世会の神学的な主張、懸念事項、目的について、ますます詳しく知るようになっていきました。」

司教区の教区長を引退する時、フォンダ司教は聖ピオ十世会の聖マリア校で余生を過ごす許可を求めると、エクレジア・デイ委員会はそれを許可しました。

「2019年、77歳のとき、私はクール司教区の司教としての務めを終えました。そのとき、聖ピオ十世会の団体に隠遁する機会が与えられました。このことは、エクレジア・デイ委員会によって肯定的に評価されました。同委員会はまた、私にそうするよう明確に奨励しました。これにより、私は聖ピオ十世会の内的生活と活動をもっとよく知る機会を得たのです。」

聖ピオ十世会との接触、その歴史の研究、神学的な問いの深化を通して、私は新しい視点を手に入れました。それは、教会の過去70年、80年に対する新しい見方です。公会議当時とその後の信仰のあり方を新たに判断する、「修正撤回」(retractatio)とでも言うべきものです。なぜ教会が今のような状態になったのか、その理由がはっきりしました。2023年の今日、教会は、歴史上最も大きな危機の一つにあります。それは、宣教、典礼、他者への奉仕(diakonia)、指導力など、教会生活のすべての領域に及ぶ内的な危機です。それは、深刻な信仰の危機なのです。聖ピオ十世会の歴史的な発展と生活を掘り下げて調べる人なら誰でも、この危機の原因と根源に意識せずとも遭遇してしまいます。なぜなら、聖ピオ十世会とは、ある意味で、この危機のために生まれ出たものだからです。それは、その創立者がこの団体を設立することによって危機に対応し、それによって教会を助けようと望んだ限りにおいて、そうなのです。彼がとりわけ心配していたのは、教会の信仰と、不安のまま見捨てられた信者のことでした。第二バチカン公会議以降起こったことに続いて、多くの人々が牧者のいない羊になってしまいました。大司教にとって、行動の理由は、第一に霊魂の救いであり、信仰の純粋さを守ることでした。」

「聖伝のローマ典礼は、信仰宣言に等しいものです。その実質は変更されてはなりません。したがって、それを禁止することはできません。教皇ピオ五世は、何も新しいものを作り出したのではありません。むしろ彼は、この形式の典礼による信仰を行使することの正当性を確認したのです。彼は、この信仰が真正なものであることを裏付けたのです。このような善は、信者から奪われることは決してあり得ません。第二バチカン公会議の後、ミサの聖伝の典礼を廃止する意向で起こったことは、不公正であり、権威の濫用でした。」

2023年の今日(ここに戻りたいと思います)、教会は、歴史上最大の危機の一つの中にあります。それは、教会内部の危機です。それは、宣教、典礼、他者への奉仕、指導力など、教会生活のあらゆる分野に及んでいます。それは、深刻な信仰の危機です。それが私たちの理解したことです。では、問題は「どのようにすればこの危機を克服できるのか」です。率直に申し上げましょう。危機を脱する方法はただ一つ、見捨てられた価値観に戻ること、軽視したり、不法に捨てたりした価値観や信念に立ち返ることです。その目的は、過去70年間に起こったことを処理し、それを見直しの対象とするためです。教会は、トップもメンバーも刷新することが必要です。特に、位階階級の刷新、司教たちの刷新、そして緊急に秘跡的かつ典礼的な生活へ緊急に回帰することが必要です。秘跡的な生活と司祭職(つまり位階階級)は、密接な関係にあります。」

ベネディクト十六世には、聖伝のミサは決して禁止されていないと発言する勇気がありました。しかしその後継者は「トラディチオニス・クストデス」によって、ベネディクト十六世の自発教書「スンモールム」を撤回しました。それについてフォンダ司教はこう言います。

「「トラディティオーニス・クストーデス」、「デジデリオ・デジデラーヴィ」と、それに付随する文書で始まった聖伝の典礼に対する措置は、この典礼に、ローマ教会の真にして本来の礼拝があると認める理由を持っているそれらの信者に対する狩りにほかなりません。彼らには何世紀にもわたって受け継がれてきた形式で秘跡を受ける権利があることを、臆面もなく無視しているのです。それは、公会議後で勝利を得て、当時多くの苦しみを引き起こしたのと同じ大胆さなのです。」

「私は教皇様にお聞きしてみたいと思います…。そうです、教皇様が私を迎えてくだされば、私は何を聞いてみたいでしょうか。教皇様にお聞きしたいのは、こうです。「なぜ子どもたちからパンを取り上げるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを餓えさせるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを消滅させようとするのですか」。なぜなら、彼らにはこの糧を得る権利があるからです。私は強調します、この糧を得る権利がある、と。それは、彼らの父親が食し、彼らに受け継がれた糧なのです。彼らのレシピではありません。彼らが、言ってみれば勝手に、自分たちで作ったものではありません。彼らは、忠実に受け継いできた人たちから受けたのです。なぜ教皇様はそれを彼らから取り上げて、彼らを飢えさせようとするのですか。なぜ教皇様は、彼らにとって異質なものを彼らに押し付けようとするのですか。私たちの主はこう言われました。「人間の父親でさえ、自分の子がパンを求めるのに、石を、魚を求めるのに蛇を、卵を求めるのにさそりを与える者があろうか」【マテオ7章9-10節、ルカ11章11-12節】。ここでポイントは、教皇様が何かを与えるということではなく、教皇様が子どもたちから何かを、つまり、先祖たちの聖なるミサの犠牲という重要なものを取り上げる、ということです。」

最後にフォンダ司教が聖ピオ十世会について知り得た最終の結論はこうです。

「私は、2015年1月9日に聖ピオ十世会の代表者たちとの協議開始を命じたローマの書簡に立ち戻ります。不利な状況にもかかわらず、私はその任務を果たしました。そして今も果たしているところです。ですから締めくくりに、教会当局へのお願いを述べたいと思います。私は、聖ピオ十世会に対する正義を求めます。彼らの事案の研究により、この請願を求めているのです。他のケースと同様に、教会がこの会に関連して謝罪をすることがふさわしいでしょう。これは、幻の墓のケースでも行われたことです。これは、幻の墓に関することではなく、生きている人々に関することであり、公会議以前に教会によって与えられた司牧の世話を受ける権利を持ち、その後も永久の請求権として存在し続けている霊魂たちに関することです。これは特権や恩典に関することではなく、権利に関することです。

教会の権威が、この謝罪とともに、聖ピオ十世会の活動に対する感謝の気持ちを表明し、この深く正真正銘なカトリック的な事業に対して、「もしも」や「しかし」などという留保のない評価を表明することがふさわしいでしょう。」

フォンダ司教の霊魂が安らかに憩わんことを。

ウォンダー司教とパリャラーニ神父の共同コミュニケ: SSPX Joint communiqué of Bishop Huonder and Father Pagliarani - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(1) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


改めて、私たちの主の御復活の慶びを申し上げます!

2024年04月07日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて、私たちの主の御復活の慶びを申し上げます。
今年の御復活祭には、東京で二名、大阪で一名、合計三名の方々が受洗の恵みを受けられました。

今年もイギリス管区長に心から感謝いたします。今年も寛大にレネ神父様が聖週間に韓国・日本に来ることを許可してくださったからです。レネ神父様が韓国で聖週間の典礼を全て行ってくださったおかげで、東京と大阪そして名古屋で復活祭を祝うことができました。大宮の聖堂では、二回のミサを合わせて155人が、大阪では78人が、名古屋では18人が主の御復活を祝いました。

明日の4月8日は、聖母のお告げの祝日です。4月8日の聖母のお告げの祝日には、大宮の聖堂では朝の7時から、大阪の聖堂では朝の6時30分からミサ聖祭があります。
今年は3月25日が聖月曜日でしたので、典礼法規に従って明日に移動になりました。ルフェーブル大司教さまが天に召された1991年も、3月25日が聖月曜日でした。

名古屋ではミサ聖祭の時間が早くなります。5月から、毎月の最終主日の午後4時からミサが開始します。四月だけは例外で4月29日(月:昭和の日)午前10時半です。
ミサの時間が早まることで遠くからミサに与る方々も、早めに帰宅することができるようになり、ミサに与りやすくなることと期待します。

5月の恒例の秋田巡礼には、今年も三人の司祭が参加する予定です。

6月21日には、アメリカ合衆国にある聖ピオ十世会の聖トマス・アクィナス神学校で叙階式があり、聖ピオ十世会の初めての韓国人司祭が誕生する予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。叙階後の夏休みの後で、新司祭が日本でも「初ミサ」を立てに来るように計画を練っています。日本からも多くの神学生が誕生するように祈りましょう。

どうぞ良き復活の聖節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2024年4月3日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年04月03日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストのご復活おめでとうございます。

今日、2024年4月3日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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