Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖霊は、癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として教会の中に現存しておられる

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

親愛なる信者の皆さま、

先週の主日の福音を覚えておられますか。私たちの主が、エルザレムの町と神殿が崩壊することを予言しておられました。それは、ユダヤの民の中心となる人々が、主を受け入れるのを拒否したためでした。

それは実に悲しいことでしたが、天主は偉大なお方ですから、エルザレムの神殿よりもはるかに良いもの、すなわち聖なる教会を与えてくださいました。教会は聖霊の住まわれる場所ですから、新しく、より良い神殿なのです。

また、教会の一員として、皆さまも神殿なのです。聖パウロは、そのことをたいへんはっきりと、こう言っています。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちの霊魂は聖霊の神殿です。しかし、聖霊は、私たちの中で、どのように働いておられるのでしょうか。その点について、今日の書簡を注意深く見てみましょう。

1)コリントの共同体

聖パウロは、コリントの教会で当時起こっていたことを描写しています。知恵の言葉、知識の言葉(コリント前書12章8節)、癒やし(同9節)、奇跡(同10節)、預言、異語による祈り(同10節)など、確実に明らかな聖霊の現れがたくさんあった珍しい場面でした。私たちにとって、これはかなり珍しい状況であり、これらは、教会であまり見られないものです。しかし、私たちが心に留めておかなければならないのは、これらのことは、カトリック教会の始まりに起きた現実であり、カトリック教会の歴史の始まりにおいては、聖霊がこのように働いておられたということです。コリント人への書簡で、聖パウロは、第一世代のカトリック信者に向けて書いており、彼らはまったくの異教出身だった人々です。聖パウロはこう述べています。「あなたたちが異教徒であったとき、夢中になっておしの偶像のもとに行っていたが、身に覚えがあろう」(同2節)。

これらの第一世代のカトリック信者に対して、天主は、教会の中に聖霊が現存しておられることを示す数多くの力強いしるしを与えられました。それは、教会の始まりのために与えられた恩寵だったのです。なぜなら、異教徒やユダヤ人の中で少数派のカトリック信者にとって、始まりは困難なものだったからです。これらは天主から与えられた本当の恩寵でしたが、始まりのためだけのものでした。その始まりの後も、もちろん聖霊の現存は教会の中で続きましたが、その方法は異なっていました。この書簡にあることは、私たちが今、聖霊に期待しなければならないことを描写しているのではありません。

2)カリスマ運動

いわゆる「カリスマ運動」に引っかからないようにしてください。私たちは初代教会で起こったことのまねをしなければならないと、この人たちは考えているのです。カリスマ運動はプロテスタントの運動ですが、今や教会に侵入しています。私が行ったアジアの多くの国々、中国、台湾、フィリピンなどで、この運動の重大性を目にしてきました。多くのカトリック信者が、この運動によって信仰を失っています。この運動のメンバーは一般的に、20世紀まで、カリスマ運動が始まるまで、聖霊は教会から忘れられていたと言うのです! 彼らは、カトリック教会のまさに始まりに存在したすべての実践を復興させたいと思っており、彼らの集会では、多くの奇妙なことを行っています。それは、意味のない言葉による祈り、失神する人たち、いわゆる奇跡などです。

どうして、聖霊が教会から忘れ去られてしまったなどということがあり得るのでしょうか。聖霊の現れは教会の歴史とともに変化してきましたが、聖霊はずっと教会の中におられました。私たちは、コリントのカトリック共同体で起こったことを再現する必要はなく、むしろ今日、聖霊が教会の中でどのように働いておられるかを理解する必要があります。

3)聖霊の賜物

では、聖霊は、教会の中でどのように働いておられるのでしょうか。聖霊は、おもに癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏の賜物として教会の中に現存しておられるのです。この賜物は七つあり、洗礼の秘跡によって与えられ、堅振の秘跡によって強められます。それとは別の特別な儀式は必要ありません。なぜなら、聖霊の賜物は私たちの洗礼の構成要素であり、洗礼とともに与えられるからであり、私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちには七つの賜物があり、その賜物は、私たちの霊的生活の通常の構成要素だからです。

しかし、多くのカトリック信者は、その賜物を無視しています。それは悲しいことです。なぜなら、その賜物は私たちの救いの構成要素であり、救われるためには聖霊の賜物が必要だからです。その賜物は、特別に「霊的な」人たちにのみ特別に与えられるものではありません。そうではなく、その賜物は、私たちが天主に近づき、聖化されるための、私たち、普通の人々のためのものなのです。

なぜなら、私たちは、徳と賜物という二種類の道具の助けによって天主に近づくからです。超自然の徳とは、洗礼によって与えられる天主に向かって行動する能力のことであり、成聖の恩寵の状態にある霊魂のうちに保たれています。この徳は、天主に向かって行動する能力を、私たちに与えます。この徳は、信仰、希望、愛、超自然的な賢明さなどです。

私たちは、徳がなければ救われることはあり得ませんが、徳だけでは十分ではありません。天主は私たちを超えておられ、私たちのすべての行動能力を超えておられます。私たちが天主に近づくためには、天主に導かれなければなりません。「天主の霊によって導かれている人は、すべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

もちろん、霊的生活は、ミサに行くこと、ロザリオを唱えること、祈りを唱えることなど、多くの行動や徳からなっています。それらの行動は、徳のうちの不可欠な部分です。しかし、それは同時に受動的なものでもあります。天主は私のうちに働いておられ、私を導いておられます。天主はそれを、七つの賜物を通してなさっており、その賜物は、私たちが天主に導かれるのを助けてくれます。しかし、そのためには、私たちには沈黙の祈りが必要です(主日のミサの後、5分間行っているようにです)。

親愛なる信者の皆さま、聖パウロが「私たちは天主の神殿である」と言うように、聖霊は教会の中で、また私たちの霊魂の中で働いておられますが、それは、カリスマ運動の人たちの奇妙な祈りによってではなく、その賜物を通してです。そして、これらの賜物を「活動的」に保つためには、沈黙が、沈黙の祈りが必要です。皆さまは、その沈黙と黙想の祈りの時間を、しばしば天主に捧げておられるでしょうか。


自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸い!

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日 ― 軽率な判断 アルスの聖なる司祭(2024年、札幌)

ワリエ神父 2024年7月28日

「天主よ、私は、他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく、またこの徴税人のような人間でもないことを、あなたに感謝します」(ルカ18章11節)

親愛なる兄弟の皆さま、

これは、高慢な人間の言葉です。自分が重要な人間だという思いに満ちており、隣人を軽蔑し、隣人の行動を批判し、非難するのです。

1.見た目

このファリザイ人は、徴税人の心構えを知ることすらせず、徴税人のことを悪く思い、軽率に判断して、非難するのです。アルスの聖なる司祭によれば、このような意見は、ただ臆測のみに基づくものです。私たちが判断し、批判するのは、どのような根拠に基づくのでしょうか。見た目だけであり、さらに、多くの場合、「そう言われている」からだけに過ぎません。

もし、美しいユディットが喪服を脱ぎ、自然や芸術が提供するあらゆるもので身を包み、その並外れた美しさを増すのを皆さんがご覧になったなら、彼女が敵の居室に入り、見た目には敵に好かれようと努力するのを見て、「なんて悪い女なんだ!」と叫んだことでしょう。その反対に、旧約聖書にあるように、彼女は敬虔なやもめであり、貞淑で天主をお喜ばせする女性であり、このようにして、自分の民のためにみずからの命を危険にさらしたのでした。

2.高慢とねたみ

このファリザイ人は、その高慢と悪意から、徴税人を自分と比較します。
実際、軽率な判断は、高慢とねたみに満ちた悪しき心からしか出てきません。高慢でねたみ深い人は、自分だけを高く評価し、隣人のすることはすべて悪しき動機のせいだとします。彼らが隣人の中に見る善は、彼らを怒らせ、いらいらさせるのです。

聖書は、この実例を、カインにおいて示しています。カインは、弟の行動をすべて悪いものと解釈したのです。弟が天主に気に入られているのを見て、カインは弟を殺そうと決心しました。

3.痛悔

最後に、このファリザイ人は徴税人のことを判断し、非難しますが、一方、この徴税人は神殿の隅に引き下がって、胸を打ち、天主の御赦しを懇願します。
軽率に判断すれば、私たちは、このファリザイ人の悪意のまねをすることになります。このファリザイ人は、マグダラの聖マリアが泣き、罪を告白し、救い主の足もとにひれ伏すのを見たにもかかわらず、彼女が自分の罪から離れているかどうかを尋ねることなく、悪名高い罪人としか見なかったのです。

聖アウグスティヌスはこう言います。「あなたは、ほんのわずかな口実に基づいて、あえて兄弟のことを判断し、その兄弟がすでに自分の過ちを悔い改めなかったかどうか、再び天主の友の数の中に属しているかどうかを知らない。彼があなたの場所を奪わないように気をつけよ。あなたは、自分の高慢によって、その場所を失うという大いに危険な状態にある」。

結論

隣人を軽率に判断するのは悪しき心だけです。時がたって、またよくよく調べてみて、隣人について言われてきたことが間違っていると分かったとき、私たちが他人を判断したり、他人に厳しいことを言ったりしたことを、しばしば、いえ実際いつも、私たちは反省しなければならないのではないでしょうか。軽率な判断という罪は、批判する者を食い尽くして地獄に導く虫なのです。

親愛なる兄弟の皆さま、

自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸いです! 天主を恐れることだけに心や精神を尽くし、天主の御赦しをこいねがうことだけに舌を使い、自分の罪に涙することだけに目を使う人は幸いです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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