Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながった

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

伝達の義務

はじめに

 イスラエルの死海の近く、砂漠の真ん中にある山の頂上に、マサダ要塞があります。それはとても印象的な場所です。この山の頂上から下を見れば、ローマ軍団の陣営の模様を見ることができます。それは、二千年前に起こった戦争の痕跡です。

 西暦70年、ローマ人とユダヤ人の戦争で、エルザレムの神殿とエルザレムの街全体が破壊されました。マサダは、ユダヤ人の最後の抵抗の場だったのです。恐ろしい戦争でしたが、土はその出来事の記憶を保ち続け、二千年後の今でも、それを目にすることができます。現在エルザレムに行くと、考古学の発掘現場に行って、その戦争で焼かれた家々を見ることができます。焼けた家屋が発掘され、その家屋の中に木製の内装を見ることができます。そしてそれは、黒く焦げています。エルザレム焼き討ちの火の勢いはすさまじく、その痕跡は今も残っています。この戦争がいかに激しいものだったかお分かりでしょう。大戦闘、大火災だったのです。

 過去の他の戦闘とは違って、忘れ去られてはいません。それはなぜでしょうか。それは、他のローマ人の戦争とは違って、私たちの主イエズス・キリストを迎えることを拒んだエルザレムに対する天主の罰だったからです。教会の聖伝は、1世紀にユダヤの民に起こったことを、今日の福音にある私たちの主の預言の成就とみなしてきました。当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながったのです。それは私たちの主イエズス・キリストによって預言されたことであり、この出来事は私たちに対する教えなのです。

1)神殿の喪失

 「おまえの敵が周りに塁を築き、取り囲み、四方から迫り、おまえとその内に住む人々を地に倒し、石の上に一つの石さえ残さぬ日が来る。それは、おまえが訪れの時を知らなかったからである」【ルカ19章43-44節】。

 その罰とは何だったでしょうか。それはユダヤの民の滅亡ではなく、エルザレムの神殿を中心とするユダヤ国家の喪失でした。現在、その国には近代イスラエル国家がありますが、それはイスラエル王国の復活ではなく、同じ場所に近代国家があるだけで、神殿は今でも破壊されたままであり、永遠に破壊されたままでしょう。神殿の破壊は、天主の民の歴史の特別な段階の決定的な終焉であり、天主と神殿での天主の現存を中心とする国の終焉なのです。これは二度と回復することはないでしょう。

 これは、とても残酷だと思えませんか。すべてのユダヤ人が、私たちの主を拒否したのでしょうか。いいえ。拒否したすべての人が、同じレベルの罪の責任を負っているのでしょうか。いいえ、なぜなら知識のレベルが異なるからです。ですから、この人たちの罪の責任の重さは異なっていたのです。しかし、罰は集団的なものであり、彼らのうちの何人かが不忠実だったために、神殿は皆にとって、そして永遠に、失われたのです。

2)伝達の失敗

 これは、私たちが教会で「罪」と呼んでいるものと矛盾しないでしょうか。はい、ある意味ではそうです、罪は個人の現実だからです。告解の秘跡で、罪を犯したのは自分に責任がある場合だけであることはご存じでしょう。もし、不可抗的無知から何かをしたとしても、その行為は悪いことですが、罰は課されません。暴力の影響で自分の自由意思を取り去られた場合も同じです。

 しかし、他の世代に受け継がれるために所有されている現実があり、誰かがこの現実を破壊すれば、それはすべての子孫にとっても破壊されます。もし遺産を破壊すれば、それは他の世代にも失われることになります。神殿が失われたのは、私たちの主イエズス・キリストを拒否したユダヤの民の一部の悪い行いのせいですが、その瞬間から、神殿はユダヤの民全員にとって失われたのです。私たちの主は、その理由から、エルザレムのために泣いておられるのです。

 原罪も同じことです。私たちにはそれについての責任はなく、それはアダムの個人の罪であり、私たちは誰もその罪を犯してはいません。しかし、人間の本性は共通善であり、アダムはそれを自分だけのために所有していたのではなく、全人類に伝達しなければならなかったものとして所有していたのです。私たちの人間の本性は、皆さんのものも私のものも、アダムから受け継いだものであり、アダムがそれに害を与えてしまったので、私たちは傷ついた人間の本性を相続するのです。私たちにはそれについての責任はなく、私たちの人生の終わりには、私たちは他人の罪ではなく、私たち個人の罪について天主に裁かれますが、今、私たちは、私たちの救いを困難にする、傷ついた人間の本性を持って生きているのです。集団的な罰はありませんが、いくつかの罪には集団的な結果があるのです。

 ユダヤの民に起きたことは、一部の人々の不忠実のせいで彼らが自分たちの神殿を失ったということです。

3)伝達という重大な義務

 このように、信仰に関連する現実は、真摯に受け止めず、伝達していかなければ、他の人にとっても失われてしまいます。それは私にとっての現実であるだけではなく、他の人にとっての現実でもあるのです。

 このことは、ルフェーブル大司教の行動を説明します。大司教にとって、聖伝のミサは教会の共通善であり、何としても他の世代に伝えるべきものであることは明らかでした。それは大司教自身のためではなく、教会のため、そして教会の次の世代のためでした。そして、もし大司教が、行ったことを行わなかったとすれば、今頃、聖伝のラテン語ミサは教会から消え、それは決定的かつ悲劇的な喪失であったという可能性が高いのです。このような信仰の現実は、伝達しなければなりませんし、伝達しなければ失われてしまいます。たとえ教皇に不従順であるように見えるという代償を払っても、伝達することは義務なのです。

 私たち個人のカトリック信仰も同じで、それは私たち個人の救いのためだけに与えられた個人の現実ではなく、私たちが伝達しなければならないものであり、伝達することは、私たち全員が持つ非常に重大な義務なのです。私たちが親であれば、子どもたちに対するその伝達の義務があります。司祭に、信者に対する伝達の義務があるのと同じです。しかし、それはただ教えるという問題だけではなく、私たちの信仰を大切にし、真剣に受け止め、祈りと学びによってますます深く知ろうとするという問題なのです。愛徳に導かれた信仰だけが伝達可能なのです。

 エルザレムの神殿に起こったことは、伝達することが私たち全員の持つ義務だということを思い起こさせるものだと考えましょう。私たちの信仰を伝達するために、私たちは善き信者でなければならないのです。


エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったから。どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かない。

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日―恩寵の時

ワリエ神父 2024年7月21日

「エルザレムよ、おまえは、おまえの訪れの時を知らなかった」(今日の福音より)。
エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったからです。

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それについて、大聖グレゴリオは、こう述べています。

「肉の奴隷として生きてきた霊魂には、これらの壮大なことがすべて起こる。なぜなら、そのとき、悪魔たちが霊魂を四方から取り囲み、誘惑し、動けないようにし、地獄に連れ去るからである。そのとき、石を積み上げたものすべて、つまり彼らの思いは、転覆してしまうのだ。

なぜなら、天主の説教者や聴罪司祭、教師たち、そして天主による内的な霊感によって、自らの生活を改め、自らの救いのためによくよく考えるよう天主が彼らに警告されたその訪れの時を、彼らは知らなかったからである。

天主は、教えをもって、時には鞭を、時には奇跡をもって、悪しき霊魂を訪れるのをおやめにならない。それは、その霊魂が知らなかった真理を聞けるようにし、また、未だにその真理を軽んじてはいても、悲しみに心を刺されて立ち戻れるようにするためであり、あるいは、御あわれみに圧倒されて、自分の行った悪を恥じるようになるためである。しかし、その霊魂は、その訪れの時を知らないがゆえに、人生の終わりには敵に渡され、敵とともに永遠の滅びの枷につながれるのである」。

ユダと悪しき盗賊という悲しい例があります。

ザカリアはこう宣言します。

「主なるイスラエルの天主をたたえよ。主は、主の民を訪れて救い給うた。…それはわれらの天主の深い御あわれみによる。そのために、朝日は上からわれらを訪れた」(ベネディクトゥス、ルカ1章68、78節)。

すべての霊魂に、このような恩寵の時が与えられます。レビと呼ばれていた使徒(マテオ)、徴税人ザケオ、サマリアの女、罪の女、善き盗賊のようにです。

恩寵に忠実になりましょう。

「ある日、ある瞬間、天主の働きかけに十分お応えできなかったために、聖性に到達しない霊魂がいる。私たちの将来は、時に、二、三の『はい』と、二、三の『いいえ』にかかっている。それは、私たちが言わなければならなかったもの、言わなかったものであり、そのために、数え切れないほどの寛大さや失敗が保留されたのである。もし私たちが常に天主の壮大さと足並みを揃えて歩むことを決心するならば、私たちはいかなる高みに到達するであろうか。

…私たちは、天主の恩寵をもてあそんではならない。天主の恩寵は過ぎ去るものであり、しばしば戻ってくるのは事実だとしても、いつも戻ってくるわけではないのだ。

もし天主の恩寵が戻ってくるなら、また仮に初回と同じような力強さで戻ってくるとすれば、その天主の恩寵は、すでに臆病さで弱っており、それゆえ、その恩寵に応えられるだけの用意がもっとできていない心を見つけるのである。すると、天主は私たちに、わざわざ更なる恩寵を与えようとはなさらないのではなかろうか。前と同じ運命をたどることに何の意味があろうか。この使われなかった恩寵、この軽んじられた霊感、この言いようのない取り残しが、天主の法廷では、嫌な証人となるのである」(R・プリュス神父)。

それは、灰の水曜日の典礼にこうある通りです。「軽率に犯した罪を償うために、よりよい生活を送ろう。われらが、突然、死の日にとらえられ、悔い改めの場を求めても見つけられないことのないように」(灰の水曜日のグレゴリオ聖歌の答誦「Emendemus」)。

かつて米国のある司祭が、死の床にある人のそばに行くよう呼ばれました。何世紀も前のことで、車もありませんでした。その死の床にある人は、何度も回心を先延ばしにしてきた悪しきカトリック信者でした。司祭は終油の秘跡をさずけるために、すぐに行こうと決めました。しかし、長時間馬を探したにもかかわらず、見つけることができませんでした。その人は秘跡を受けずに亡くなりました。まもなく、その司祭に啓示されたのは、天主の恩寵を常に拒み続けたことで、死の床にあるその人を罰するために、天主が馬を隠されたのだということでした。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの永遠が幸せか不幸かは、天主の「訪れ」、すなわち天主の恩寵の時に対する私たちの対応にかかっています。
私たちが受ける多くの恩寵のうち、どれが最も決定的なものかは分かりません。それは説教かもしれませんし、告解かもしれませんし、使命かもしれませんし、何らかの不運かもしれませんし、家族の悲しみかもしれませんし、仕事の問題かもしれません。
また、どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かりません。
聖パウロとともに、私たちも「私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と繰り返すことができますように。
天主の聖寵の御母、罪人なるわれらのために祈りたまえ!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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