シンプルな輪郭線と美しい配色で平板に塗られた、写実以上に、本物以上にネコの存在感を与える絵、熊谷守一「猫」1965年。一度目にして以来ずっと脳裏に焼き付いている絵です。
その熊谷守一氏の晩年の静かな日常が、味わい深く、ユーモラスに描かれている『モリのいる場所』が上映されています。
展覧会場の3個の白い物体と柄のとれた包丁の絵。それを不思議そうに見つめる品のいい老人の「この絵は何才の子が描いたのですか?」という問いかけ・・・。林与一さんの役作りは完璧でした。そう、あの懐かしい昭和天皇のありし日のお姿がよみがえりました。
冒頭のこのシーンが守一氏(モリ)の絵の全てを物語っていました。映画の素晴らしい導入に感じ入りました。
塀に囲まれた雑木と草花と小さな池と平屋のある空間が「モリのいる場所」。決して広くはない庭を散策するのが日課で、30年間家から出ることのなかったモリの人生のすべてです。
著名人であるため朝から訪問客が絶えず、飄々と自分の世界に生きるモリに代わり応対するのは妻とお手伝いさん。この3人の会話の間の取り方、動作の間の取り方に静かな感動と面白味が広がります。
時流に無頓着なモリの言葉に「ああ、そうですかぁ~」と返す妻。決して無視するのでもなく、軽視するのでもなく、受け流すのでもなく、正面からキッと受け止めるのでもなく、50年を共にした夫婦の間にしか通じない独特のイントネーションの台詞が実に絶妙です。この台詞は樹木さんしか演じられないかもしれません。私もいつかこんな風に「ああ、そうですかぁ」と言えるようになりたいな・・・。言えないだろうな・・・。
随所にユーモラスな会話や動作が出てきて、見るものの心をほんわかと明るくしてくれますが、それは守一氏の絵にも通じるものだと思いました。ムダを削いで削いで単純化した絵には、どこかユーモラスで温かさを残しているのです。
空気のような透明感のある夫婦の佇まいには、艱難を乗り越えた50年の夫婦の、得も言われぬ人生の味わいがそこはかとなく広がります。
平日の映画館内はシニア族が多く、時折こぼれる笑い声に、自分達の人生を重ね合わせて共感し、共有できることに安心します。
山崎努と樹木希林の表情としぐさと会話があれば、ストーリーはなくてもそれだけで満足できる映画です。脇を固める俳優の演技の見事さもあると思いますが、本当に飽きさせない映画でした。
熊谷家の訪問者たちの会話の中に、当時のテレビの人気者の名前や時勢がうかがえて、温かい昭和がほのぼのとよみがえり親しみを感じます。
淡々と展開する熊谷家の夏の一日が、見る者の心にじんわりとふんわりと感動を広げてくれる秀逸な映画でした。